欧米のしくみ
ヨーロッパが作り上げたしくみ
世界中から金を巻き上げて、塀の中の人間でそれを分けることを民主主義とよぶやりかた。
その余ったお金で、アートにファッションにグルメにライフスタイルに優雅に快楽に耽美する暮らし。
そしてそれを文明、先進、進歩、正義、自由、民主、法律、契約、時間、人権、成熟、良心、善、義務、神の思し召しと胸を張ること
古代からやっていた方法をイギリスがまとめあげてシステム化した。
ラテン人たちは人間に、ゲルマン人は理性に正直すぎるもん。
アメリカまでもが一ドルを刷るごとに一セントをヨーロッパに渡さなければならない
だからあんなにポジティブに進化して自然を征服しないといけないように仕込まれちゃったんだ。
彼らは単純で幼なくて可愛いから、喜んで兵器や元気や心意気を表明したがるの、
チャイナが北朝鮮を操っているのと同じように。
欧州のエリートとはこれらのシステムを理解した後に、真っ白な絹の手袋をして、庶民たちは奴隷にならなきゃ死んでもいいんだよと微笑みながら首を絞める
彼らはこの儀式を通過した者たち
紡績技術者の手を切って、機関車エンジニアの首をはねる
彼らの合理的でカッコイイ哲学とこの通過儀礼はセットなんだ
そうじゃないと欧米のしくみは継続することができない、
彼らの哲学も思想も慈善も愛も平和も歌も、塀の外の人間を働かせ、そこから塀の中に金の流れるしくみの上にしかなりたっていない。
違うというのならば一緒に汗をかこうよ、見物ばかりしていないでさ。
表だけの綺麗事はぜんぶ裏がある
綺麗な名前の歴史的事件は全てその本音を覆い隠そうとしているかのように
彼らの思想を引き継ぐならば、このしくみを理解して悪者になる覚悟が必要だし、
そうでないのなら、彼らの思想は拒否しなくちゃならない。
ジェントルマンとはカトリックの土地を奪って、羊を住ませて、貧乏人を追い出した人のことだし、
後進国や途上国援助とはネオ植民地主義のことだし、(何が後進で何の途上なんだろう)
宣教師は植民地主義の先兵だったし、
中立国のスイスはどこの国にも傭兵を貸し出すためのシステム、(今はお金だけど)だからだし、
欧米に本当に優しいいい奴っているでしょう、たぶんこのシステムを知らない農牧畜業か職人か新興住宅地育ちか、成り金(新興ビジネスでエリート教育をうけていないから)の可能性が高い。
知ってフランス人のようにシニカルになるか、イギリス人のようにユーモアで誤魔化すか、ドイツ人のように生真面目に悩んで利用するか、イタリア人のように人生を謳歌するか、スペイン人のように血統だからと働かないか、スイス人のように無垢の壁からでてこないかは、その土地や気候や歴史によって違う。
私は大丈夫だよ、というあなた。
婚約指輪、年金、保険、ローン、貯金、旅行、時計、カロリー計算、ダイアモンド、プラチナ、ブランド、一千万をこえる家、教育費、老後費用、金婚式
どれもこの100年程前にはなかった考え方、やりかた、制度、それが今は生活の真ん中にまで浸透している。
最後に平凡社の百科事典の要約を
新植民地主義 neo-colonialism
第2次世界大戦後,1950年代にかけてアジア諸国が独立し,50年代末から60年代にかけてアフリカ諸国が独立し、植民地体制は崩壊したが、新興独立諸国を政治的・経済的に支配しつづける新しいやり方,すなわち〈新しい植民地主義〉を展開するにいたったというもので,60年に開かれた第2回全アフリカ人民会議においてこの新しい植民地主義はneo-colonialismと命名された。
(1)新植民地主義の本性は植民地主義と同一である。植民地主義時代,アフリカ,アジア,ラテン・アメリカ地域は原材料を宗主国に供給し,工業製品を輸入する国際分業体制に編入された。植民地の独立後の新植民地主義時代にも,この植民地型経済システムすなわち植民地主義が継続された(従属論)。
(2)新植民地主義の方法はつねに変化している。
(3)先進国は途上国の買弁的な〈現地ブルジョアジー local bourgeoisie〉を〈新植民地〉における同盟者としている。先進国に従属することによって途上国の支配者となった現地ブルジョアジーは,国民の利益を擁護しない。
(4)アメリカ,西欧諸国は,新植民地主義の維持において協力しながらも,他方,新植民地をめぐる再分割闘争において対立している。冷戦崩壊後も途上国の紛争は多発しているが,そのなかにはソマリア内戦におけるアメリカの介入,ルワンダ内戦におけるフランスとアメリカにみられるように,新植民地再分割をめぐる欧米諸国間の対立が絡む紛争がかなりある。
また,新植民地主義の形態には次のようなものがみられる。
(1)政治的支配の維持。先進国は一方で,自己に従属する者を途上国の支配者に擁立しながら,他方で,先進国主導の政治体制に途上国を包含している。後者の典型はフランス語圏アフリカ諸国会議である。
(2)経済的搾取の強化。先進国は一方で,モノカルチャーなど植民地型経済構造を途上国で維持しつづけることによって独立国としての自生的生産力の発展を阻止し,他方で,途上国の資源を収奪し南北格差を助長する先進国主導の世界経済システムに途上国を包摂している。2国間の政府開発援助(ODA)や多国間の構造調整支援などはその典型である。
(3)軍事的従属の継続。先進国は軍事条約,軍事同盟,基地提供,軍隊派遣などを通じて途上国を軍事的に掌握している。軍事基地の維持や軍事援助の提供といった古いやり方から,平和維持活動(PKO)や人道救援活動を名目とした軍事介入など新しいやり方まで,さまざまな方法が行われている。
(4)文化的圧迫の続行。先進国は自らの文化的価値の押しつけや同化によって,途上国自身の文化と生活様式を否定・破壊している(文化帝国主義)。
植民地主義 colonialism
20世紀中葉にいたるまでの植民地帝国においては,植民地の領有と異民族支配は,当然で正当なことと広く意識されていた。この植民地支配を正当化するイデオロギーの特徴は次のように整理できよう。
第1に,植民地イメージの構成の面からみると,まず,宗主国社会の人々は19世紀中葉以降,アフリカなど植民地化された社会とそこに住む現地人に対して負の価値(〈未開〉〈野蛮〉〈後進〉〈停滞〉),宗主国には正の価値(〈文明〉〈信仰〉〈先進〉〈進歩〉)をおき,その両者を対比するような世界像を共有するにいたったといえよう。たとえば,1851年のロンドン万国博覧会の会場は,イギリスを中心とした世界イメージに沿って構成されており,中央にはイギリスの先進性を象徴する巨大な機械がおかれ,周辺には,世界各地の物産,工芸などが配置された。このような中心と周辺とを対比させた世界像のうえに,植民地での行政や交易にたずさわった人々の断片的で多彩な体験や感情がちりばめられた。この現地体験は,うわさ話,新聞記事,物語,絵画,芝居などで,通俗的な擬似イメージとなって宗主国社会を流通したが,そこでは植民地のイメージは実情を離れて,冒険,性的快楽,富への機会など,宗主国の人々の好奇心と願望を植民地に投射したり,当時の宗主国社会の優越的な価値(〈理性〉〈禁欲〉〈勇気〉など)を裏返した反価値(〈感情的〉〈堕落〉〈臆病〉など)を植民地人の特徴ときめつけることが行われた。
植民地主義の第2の特徴は,植民地支配が植民地化された人々にとっても望ましいものであるという正当化を含んでいた点であり,宗教上の伝道,文明と人道的価値の伝播(でんぱ),経済発展の促進など,さまざまな説得のレトリックが用いられた。もちろん,これらの主張は,19世紀中葉以降のヨーロッパ諸国に根強かった植民地への無関心やヨーロッパ政策の優先など,植民地の維持拡大の政策の障害を取り除くために論争的に喧伝されることが多く,そのために争点や政治状況に応じて主張の内容は変遷しがちであった。その典型は植民地支配を〈白人の責務〉とみなす主張であり,なにが植民統治の目標であるかについては,抽象的で漠然としており一貫性を欠いていた。また,なぜ白人が支配すべきかという説得の仕方も,先発植民地帝国であったイギリスの場合には個々の政策決定に応じておもに実務的な説明のレベルにとどまったのに対して,後発のフランスやドイツでは,より体系的で擬似科学的な装いをもった人種主義が政治過程の表面で目立つことが多かったといえよう。
第3に植民地主義には,自由や平等などの西欧近代の民主主義との間にこえがたい落差がつきまとっていた。植民地支配下では統治の現状と支配者の既得権益の維持のために,現地人に対する抑圧と差別が発動され,その事実を植民地主義によって正当化しようと試みたが,それは,現地の民衆にはもちろん宗主国の多くの人に対して強い説得力をもつわけではなかった。とくに西欧教育を受けた植民地人は,現地社会の指導層の一部となる場合が多かったが,植民統治者の社会生活上の人種差別や官吏登用の機会の不平等などに反発し,西欧民主主義の論理を用いて批判を展開して,諸地域におけるナショナリズムの一つの端緒となった。このように,植民地主義は,自己の否定者となる植民地のナショナリズムを生み出したのである。
植民地教育
ある民族,ある国を植民地にすると,支配本国はそこに本国の秩序・文化に同化させ,本国に依存して生きる意識を植えつけることを目的にした教育を持ちこむ。しかし,植民地の人々にとってみれば,これは自民族の教育権利を奪われ,支配本国の教育を押しつけられて,それを自分のものにするよう強制される,一連の非教育的体系にほかならない。19世紀後半から20世紀前半にかけてのいわゆる帝国主義の時代,イギリス,フランス,ドイツ,アメリカ,オランダ,イタリア,ポルトガル,日本などは,アジア,アフリカ,ラテン・アメリカを分割し,植民地として支配した。植民地制度じたい,植民地民族に隷属を強い,民族的劣等感を培う強大な教化機構であったが,そのうえ,統治と経済を助ける現地管理層を必要としたので,その人材養成のために近代学校制度を導入して,それぞれの本国の教育内容を移植していった。ここに植民地教育制度が成立する。20世紀前半は全世界的に植民地教育制度が普及した時代であった。植民地において,本国はごくわずかな学校を設け,現地エリート(開化民)の養成をはかった。その学校では,もっぱら本国の言語と文化と歴史を教え,自民族のそれらを恥じるようにしむけた。さらに,近代の民主主義思想および科学技術を伝えないで,自立の道を閉ざそうとした。植民地における近代学校は,植民地支配が正当であると思いこませる手段として役立てられてきたのである。
1950年以降、教育主権を取りもどした新興独立国は,植民地教育のアンチテーゼとして,自国の教育を構想,実行していくようになったのである。
このような状況の変化のもとで,世界資本主義構造における支配・被支配の関係を実質的に保ちつづけるためには,先進国依存の文明意識を新興独立国民衆にふたたび普及せねばならない。先進資本主義諸国は新しい教育文化支配の様式を実施するようになった。新植民地主義の教育である。60年代より〈先進国〉による教育援助計画がいっせいに開始され,またこれに重なるかたちで,マスコミを操作して資本主義文明の称揚もはかられている。これらの背後に多国籍企業の強い影響が見えるのが,今日の特徴である。