グアテマラの市場 あの世からの眼差し
1984年春
あっちからこっちが見える時がある
memento
mori
死を思え、とかいって骸骨をみせられても、
食欲がなくなったり、怖くなって体が硬くなっちゃわない?
そんなプリンセスにはもっと可憐で心温かなものがオススメです。
これは、この世のものは全てがつながっていてお互いに関係しあっているというお話。
38億年の地球にはじめて生まれたいくつかの命。
そのはじめの命が次々と広がり、今の世の中になっている。
ここもそこもどこもかしこも生命体がひろがっている。
ゆっくりと時間をかけて全部がぜんぶに同じ命が拡がった。
この瞬間にも息を吸うと、多くの菌やバクテリアを体の中に入ってきて、外と内がつながっている。
さっき食べた丼のネギや塩や水を体の中に取り入れて、今はそれら全部とつながっている。
このつながりが見えるのがカミの眼差し。
みんながつながり、まるでひとつであるかのような感じ方。
一つなのにたくさん、たくさんなのに一つ。
この世にいる間は地球の元素を借りて生かされている、というのが腑に落ちる瞬間。
これらを実感する瞬間が私たちにはあるんだ。 驚いちゃうよ。 体が震えてる。
主観も自我も主体も、あの世から見れば、全体の中の小さな一部でしかないという実感。
これは客観という見方じゃない、学校で習う科学とも違う。
人工衛星からこの地球を見つめても、表面の形しか見えない。
どれも命も住めない場所から自分を見つめようとしているからダメなんだ。
体感ができないんだ。
客観なんて主観の一部でしかないんだよ。
対立しているんじゃない、主観の中に客観が含まれているんだ。
命と全体と時空間を超えたものは、科学も理性も言葉も届かない世界なんだ。
客観とは外から分けて分断して理解すること。
あの世からのまなざしとは、みんなを一つにつなげること。
科学が迷信と魔術から離れた時に大義名分を勝ち得て、この世を我が物顔で歩きはじめた。
これまでの時代は近代から続いてきた科学ががんばって、形だけを模倣する幻想や組織に喝を入れてきた。しっかりやったよ、しなくちゃいけないことを。
でも自我をアンチしての客観や科学なんて、自分自身が苦しくなっちゃうのはわかっていたじゃない、そりゃあ正義感や乙女の純粋さがでがんばってきたのはよくわかっちゃうけどさ。
だけどもういいでしょう、そんな科学は、こんな世の中になっちゃったんだから。
これからは、ちゃんとした眼差しの科学や客観が、迷信の合理的根拠や魔術の論理的知性に付き合えるほど大人になった。
科学とは誰がどこでやっても同じ結果が出ることだけではない。 人によって、その人の鍛錬や技術や意識によって結果が変わる科学がある。
オカルトや啓蒙主義やロマン主義をおそれなくていい、柔らかくいこうよ。大丈夫だからさ、科学さん。
アンチではなくて自我を含んだ他、言い換えれば、自我意識も含まれる全体、すべての生命体、宇宙の誕生からみた星や元素やエネルギーを命としてとらえる科学はもうはじまっている。
この世を偶数で分けて分析してまたくっつけて一つにして見るのではなく、この偶数分裂にプラス1で奇数にして、あの世からこの世を見る眼差しだ。
生まれる前の世界、自分がいない世界、死んだ後にもある世界、ビッグバンの前の世界、生命が誕生する前の世界、虫の時代、哺乳類の時代、人類がまだ猿人に近かった時代、赤ちゃんから見た大人の世界。
石から見た生き物、川から見た社会、雲から見た人間界、成層圏から見た生命体、星々から見た太陽系。
人工衛星から見た地球ではなく、月になっちゃったあなたが見た地球。
これは一つの悟り、でもそんなにすごいものじゃない。 だれだってこの眼差しには簡単に経験できるから。
大切なのは悟りの視点を得たことではなく、毎日を悟り続けて生きることを難しいけど積み重ねることだから。
体裁を気にして書いちゃったけど、わかっているよね、
光の綺麗事にはちゃんと影の部分もあるってことが。
影こそはものごとのエッセンスでとても美味しい肝(キモ)。
全てがつながるということは、負や弱さや不条理やわからないことも自分の一部にすること。
準備は出来てる?
ここが人生の醍醐味だんだ、素晴らしいところなんだ。
好きなことから始めればいい。
受け入れられるところからすればいい。
楽しいことからやればいい。
怖いことはどうすればいいかって?
逃げたり、闘っちゃあダメなんだ。そうすると恐怖ちゃんが喜んじゃうから。
はじめのうちは、できれば避けれるのがいいだけど、急に向かってきた時には仕方がない。
闘牛士のマントよろしくヒラっと避けるのがいい。
それでも真正面にくるのがある。
そんな時に一番いいのは不安を、ただゆったりとした気持ちで包みこむこと。
もし、その時に恐れに飲み込まれそうになるんだったら、楽しい気持ちでゆっくりとゆったりと息を吐くこと。
これを続けていると、体の中の命が出てきて、恐怖はもういたずらを止めるしかないんだ。
不安をなくす熟練者なんかには恐怖を見つけては寄って行って、向こうが嫌がっているのに強引にキスまでしちゃうのがいる。
ただ包み、その後はそこから立ち去るのがいい。
でも初めのうちは避けて通ればいいのさ、そう近寄らなければいいだけだから。
始めてあの世からの眼差しに気がついたのはいつのことだろう。
小学校5年の時に京王線特急に乗っていた時に仙川で飛び込み自殺と遭遇した時であろうか。それとも小学校3年生の時に自殺してもまた同じことが「次の自分」が体験するだろうから死なずに生きていこうと思った頃だろうか?
でもずっとこちらを見続けていたのはグアテマラの市場で台の上に置かれた首だけになった牛の目を見た時だった。表面が少し白く濁った見開かれた眼だった。旅で疲れていたせいか、気がついたら、その牛の眼で自分自身を見つめていた。そして市場全体が光の線で眩しく動いていた。びっくりした。
キリマンジャロの頂上では知らないことが振動で伝わってくる経験をした。この辺りからこれは眼差しといってもいいものかなと思うようになった。
それでもロンドンでイコノロジーのシンボリズムにはまっている時は、この眼差しで出会ったモノたちと闘ってしまってとんでもない目にあった。それからは眼差しで感じる世界に気をつけることも学んだ。
自分のペースで進むのがいい。
夜空の星々のように。
まるで動いていないかのようにゆっくりと、でも決して止まることはない。
寂滅 (梵nirvD、aの訳語。涅槃(ねはん)と音訳する)
1 仏語。迷いの世界を離脱している境界。無明、煩悩の境界を離れた悟りの境地。また、その境地にいたること。
2 消えてなくなること。ほろびること。死ぬこと。死。
グアテマラの市場
日が暮れたメキシコ国境で3人のグアテマラ人に出会った。乗せてくれというので、夜道を一晩かけて走った。その一人であるフリオの招待でグアテマラシティのセレブのパーティーに参加した。
翌朝、フリオの姉にあたるステイヤが彼の家に遊びに来ており、午後から彼女の子供2人と一緒に市場(メルカード)に買い物に行くことになった。黒煙を撒き散らすバスに揺られて着いた。騒音と埃が入り乱れたメルカードが存在感を伴って目の前に現れた。
メルカードに足を一歩踏み入れると、体臭が僕を取り囲む。土ぼこりは汗ばんだ首すじに纏わりつく。人の熱気で圧倒され、僕の足元はふらつく。なんだこのパワーの塊は?ここはロックコンサートの会場でもなければ秋の祭りでもない。大都会の雑踏でもなければ人ごみで埋まった海水浴場でもない。ただの人の生きている、生活している場でしかない。新聞紙を敷いた上に錆びた車の部品を並べる12、3歳の少年の顔は大人びている。というよりも男らしい。ござの上に曲がったスプーンや欠けた皿を並べる中年男の顔は、どこか哲学者じみている。赤いグラジオラスをそこらいっぱいに広げる女は、刺繍された淡い多色の衣を纏い、上目遣いでこちらを一瞥する。その隣にあぐらを組んで座る老婆の右手は七面鳥の首玉をつかんでいる。向かいのおばさんの隣には、まだ緑のライムが山のように積まれている。横ではトマトを置いた老婆がひとつも動かずにじっとしている。客を待つでもなく、この騒がしいなかでまるで瞑想でもしているかのように目を閉じ、しっかりと腰を割って座っている。壊れかけたジューサーを回す男の机の前にはバナナ、パパイヤ、マンゴ、イチゴ、パッションフルーツ、ココナッツ、メロンが無造作に置かれている。この青空市場の中央にはちゃんとした屋根のあるブロック作りの市場もある。たて横50メートル四方ぐらいの大きさで、中には肉、乾物、調味料、簡易食堂、穀物が区分けされて売られている。この屋根つき市場に入ると、右手の出刃包丁でスーツケース大の肉の塊と格闘している少女の姿が目に飛び込んできた。次にその下の塊に目が移った。人間の頭の2倍もある牛の頭が無造作に置かれ、その開かれて透き通る大きな黒いつぶらの瞳は僕を映している。そこに映った僕は客観的といえるほど自分とは違う視点、いや、違う空間から今、自分の立っているところを見つめ直しているような気がした。優しく光るようにみえる大きな黒いつぶらの瞳は、こことは違う世界につながる入り口のように思えた。いや同じ世界なのかもしれない。同じ時間と空間の上に存在するのかもしれない。だが、瞳に映った世界は、明らかに僕のいつもの世界ではなかった。遥か遠くから見つめているような、ダイナミックに動くことは無く、ひとつも乱れない一点であるのに、それがひしひしと静かに―耳を劈くような静けさをもって―清澄に―頭が痛くなるほど透明に、じっくりと染み渡ってくるのだ。あでやかに光を受けて輝く花ほど美と醜が重なりあって人を惹きつけてやまないように、この世もだからこそ魅力に満ち溢れ、そしてはかないのだろうか、もしこれを闇とするなら、僕が今までに無意識に畏れを感じて、できるだけ触れることを避けてきたものは何だったのだろうか?もしかするとそれは、始めから存在しない妄想だったのかもしれない。禅の僧は、妄想で生まれた虚空の花もまた真実であるというらしい。確かにそれは真実だ。現に僕は今までそれに畏れを感じていたのだから。どうやら僕の目は少し偏った方向でしかこの場所を見ない傾向が強かったようだ。同じ道を歩いていても、物拾いは下ばかり見て歩くし、とっぽい兄ちゃんは何時の間にか女性の腰を目でなでる。美人さんは、ショーウィンドウに映った自分の姿をチラッと見てはナルシズムに磨きをかける。人類学者は、人の癖、歩き方、骨組みと余念がない。同じように歩いているように見えて皆べつべつのことを見ている。同じ場所にいて違う世界、そう自分で呟いたとき、急に晴れ晴れしいため息と共に身体が少し軽くなったように感じた。そうだ、肩肘張らずに闇も受け入れればいい。牛の頭の前で一人の男がぼんやり立っていたものだから、肉やの姉さんは不審に思ったのか、眉をしかめて口を開けてこちらを見ていた。急に恥ずかしいような気がしてしまってドンドンと市場の中へ入っていった。
中は人の熱気でごった返している。誰も特別派手な動きをしていないのに、存在感がある。通路で人が左から右に歩きぬける。うっかりすれば足を踏まれるどころか身体の一部が触れただけで僕は一遍に尻もちを着いてしまうに違いない。
手前の一角には大きな頭陀袋に入った穀物が売られている。白胡麻、黒胡麻、赤、青、黄、白、緑の豆、米、麦、稗、粟、トウモロコシと順序よく並べられている。客は好きなだけ袋にとって秤に載せ、その重さの分の金を、売り子兼オーナーのおばさんに払う。向こうの一角は、簡単な軽食の飯屋らしい。ハエが遠慮かまわず群がるなかで、男たちは黙々と飯を腹の中に掻きこんでいる。左の方は棚に調味料が所狭しと並べられ、上から肉や魚の干物を何十本という縄にくくりつけ吊るしている。それだけである、というのは易しい。だがここにある力は何だろう?何故ここに力があるのだろう。この力は彼らの動きからではなく、彼らの存在自身から発散されている。
秤屋
私がここの顔役 秤屋でござる
なに? 俺様を知らないって
あんた もぐりに違いねえ
人様の体重はかって いくらの商売
お天道様の下で働き 雨降りゃ休むカタギの仕事よ
朝から晩まで座っての結構な身分よ
俺たちゃ一人一人が経営者ってわけだ
今朝のお客は4名様、パンとパルタとパパイヤさ
昼の客はたった1名だって しょうがねえミルク一本くれや
夕方のお客は10名様よ やったね 鶏の足でも買うか
あいつにも色々買って行かなきゃならねえな
そうだ 花も一本欲しいね おばさん一本貰っていくよ
今まで食うものあったから 明日飢え死にすることもないだろう
今まで女房ついてきたから 明日急に逃げ出すこともないだろう
今まで素面の日がなかったのだから 今日もどこかでくだを巻く
神様どこでも おいらを いつも 見つめてる
ガテマラを離れる前日、ステイヤの家に寄った。丘の中腹にある小さな家で、弟の家とは似つかわぬ家並みだった。所々壁がはげ、内の乾いた煉瓦の一片が目にとまった。彼女は独学で身につけた流暢な英語を話し、今でもガテマラの人民、国、セントラルアメリカについてこつこつと勉強している。彼女の2人の子供は元気に育ち、とても愛くるしい。兄貴は8歳、妹は6歳だ。昼間は事務所で働いているために近頃は勉強する時間を取るのが難しいと嘆いていた。妻として、母として、女として、彼女は生きている。別れる前に彼女が自問するように呟いた。「人間が互いに愛し合える場所はあるのかしら」その言葉はいつまでも僕の耳に残った。
「ガテマラの内戦激化」という記事を滞在していたエルサルバドルの新聞の片隅に見つけたのは、それから一週間後だった。
でも僕は感じる。彼女は「その場所」をしっていることを。
参考資料
九相観 死体の九つの変化 死体の前で瞑想する 骨は人
江戸時代からは骨は化物 身体を隠す幽霊