人から習う術(すべ) 合理性の外に出るために
人から習う十か条
しなければならないこと 心構え
責任を取ること 受身から与身へ 合理性から智性へ
ヒトという動物は過去の成功例の集積で「今」を判断して行動するので、これが原因で新たな状況に対応できないことがある。これまでの経験のパターンに頼りきっていることをプライドが高いという。プライドは古英語では「横柄、勇気、有利」という意味もがあるが、元は語源であるラテン語の「正を選ぶこと」に由来する。
[Middle English, from Old English prúd, from Old French prou, prud, brave, virtuous, oblique case of prouz, from Vulgar Latin *prodis, from Late Latin prode, advantageous, from Latin prodesse, to be good : prod-, for (variant of pro-). + esse, to be.]
この思考回路が固定化されると、人に頭を下げるのが苦手とする場合が多々ある。特に、健康食品で365日戦うことがカッコイイと思ってしまうタイプの人は、他者と面した時に、上に立つことからはじめてしまうことがあるので、人から教えを乞う姿勢がない。
また、考え方が柔軟であっても、人にものを頼んだり、何かを教わったりすることは極力避け、何でも独学で自力で解決することを人生哲学として今まで生きてきた人もいる。中には、そこそこ器用なので、一通りのことを適当にやっている分にはこれまで自分のやり方で困ったことがあまりなかった人もいる。
ところが、このアプローチは自分の専門を外れると、あっという間に完全に行き詰まってしまう。この世は自分の専門や体験したことなんかは、全体のほーんっの一部分でしかないのだから。
だから、失敗を繰り返し、あちこちにスネをぶつけて傷をつけても、なかなか前進していけない。こんな時は
人から習うに限る。
自分一人ではかなりの回り道をすることが、その道の先達の力をお借りすれば、かなり短縮できるかもしれない。頭を下げる、教えを請うということは、短い自分の人生を充実して生きるのにかくも大切な手段だ。
次のステージに進みたい時は、自分のプライドを吟味して、その小ささと硬さを確認したら、それにこだわらずに楽になるにこしたことがない。
教えて欲しいことには二つの種類がある。できれば習いたい事と、どうしても習いたい事。
習えればいい事には、趣味、教養、スポーツ、知識、したいこと。
切実に習いたい事には、自分の専門、自分の体や病気の修正、大切なこと、しなければならないこと。
習えればいい事はわりと簡単に始められる。スクールなどでお金を払えばいいので、先ずはこちらからはじめると「人から教えを乞う」コツがつかめる。
オススメは〇〇道。単なる習い事ではなく、日本の伝統文化がいい。日本には「道」というとても合理的で、なおかつ合理性だけではなく、その奥にある世界まで導いてくれる素晴らしい伝統がある。初心者も受け入れてくれて、胸の底から真剣でなくてもその人に合わせて指導してくれる。ここからはじめると先生と生徒の関係もいろいろ学ぶことができるのがいい。
日本の伝統的な道には「守破離」の教えがある。これは師弟関係のあり方の一つで、「道」が発展・進化してきた創造的な過程をベースにする考え方と実践方法だ。
まずは師匠に言われた型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型を自分のものとすることにより、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。
生徒の態度や姿勢で、教わる内容や深さが大きく変わる。先生に服従するのでもなく、生徒が勝手に習いたいことを進めるのでもない。
ここでは「道」の内容だけではなく、どのように先生と付き合えば、より深く教えてもらうことを学ぶことができる。
十か条
第一条 やっていることに興味を持ち、先生を好きになる。
ヒトは大脳辺縁系(非意識)で、何でも「好き」「嫌い」のレッテルを貼っているため、楽しい雰囲気をつくり、興味を持つように自分を誘導する。ここで「面白い」「楽しい」といったようなプラスのレッテルを貼れると、理解、思考、記憶といった脳の機能が十分に働く。加えて、先生の事を習っている間だけでいいので好きになる。
第二条 先生の話をワクワクして聞く
感情が揺り動かされると判断力や理解力が高まる。そのため、「何か面白いことが起きるかもしれない」「次はどうなっていくんだろう」と自らをワクワクさせ、期待する。
第三条 先生を立てる力を養う
他人の脳と「同期発火」できる脳を育てる。それには人を尊敬する心を育てること。否定する言葉を発すると、そのことに気を取られてしまう。先生の優れているところに目を向け、授業内は先生の悪いところにはスポットライトを当てない。先生の悪癖や間違いが気になる場合は、授業が終わった後や、修了した後で訊ねてみる。
第四条 素直な性格を育む
素直な心とは、損得や優劣を抜きにして、「今」やっている目の前のことにちゃんと向き合うこと。
先生の言うことをそのまま聞くことが素直なのではない。
向き合うのは先生の言葉ではなく、習いたいことに対してである。
目の前のことに取り組む時に、損得や優劣を考えてしまう癖がつくと「得をするから行動する」「損をするから行動しない」と、始める前から条件反射が勝手に判断をしてしまう。するとまだ自分の知らない奥にあるかもしれない未知の世界に行くことができなくなってしまう。
また、素直に一心に向かう姿勢が、人の心も動かす。
第五条 否定語は使わない
「無理」「できない」と考えてしまうと、脳がマイナスのレッテルを貼ってしまい、思考力や記憶力がダウンしてしまう。いつも否定的に物事をとらえていると、そのイメージが脳内で反復されてしまい、これが条件反射までになってしまうと、本来はできることでも失敗したり、必要以上に時間がかかったりする。否定的な思考は、真面目な人ほど陥りやすく、真剣になるあまりに、「できなかったらどうしよう」と心配してしまうことで、できるはずのこともできなくなってしまう。まずは先生の言うことをやってみる。できない時は、先生が次のアイディアを出してくれるだろう。
第六条 「だいたいわかった」と中途半端な姿勢は持たない
例えば、走っているときに「もうすぐゴール」と思った時点でスピードは落ちてしまう。勉強していても「だいたいわかった」と思うと、思考力がガクンと落ちる。これは、「自分で決めたことは自分で達成したい」という脳の自己報酬神経群が満足し、思考力などの脳の機能が急激に落ちてしまうからだ。
つまり物事がまだ完全に終わっていない状態で「だいたい」「もうすぐ」という考えを持ち込むのは、脳に「止まれ」と命令しているようなもの。中途半端にしないという習慣を身に付け、終盤に差しかかったときは「ここからが勝負」ととらえるようにする。
わからないことは先生にとことん質問する。分かった気にならないのが大切。
第七条 加速度的な勢いが重要
物事に取り組む際に、決断や実行を速くし、一気に駆け上がることが必要。一気にやらないと、途中で「本当にこれでいいのか」「失敗するかもしれない」というような脳にマイナスの思考が入りこんでしまう。
コツコツと取り組むことも良いが、習っている段階では目標を持ったら一気に駆け上がるのがいい。
第八条 自分の失敗を認めて、修正して、再トライ
言われたことを実践してみて、それを先生に修正してもらう。
脳の自己保存本能が過剰に働くと、自分が傷ついたり、他人から責められるのを防ぎたい思いが強くなる。すると、自分の失敗やミスが認められなくなってしまう。しかし脳は、「いつまでに」「何を」「どのように」するかを決めなければモチベーションが続かない。つまり自分に足りなかったものを認識して、克服する方法を見つけなければならない。
第九条 習うより慣れろ 繰り返し練習し、復習する
脳には新しい情報には瞬時に反応するという特性がある。そのためどうでもいい記憶や中途半端な記憶は新しい情報に書き換えられ、消されていく。しっかり記憶するには、情報を取り込む時に大脳皮質がプラスのレッテルを貼り、記憶を中途半端にしないためには「繰り返し復習する」ことが大事である。
そして、考える力を高めて思考を深めるには、何度も繰り返して考えることが必要となる。非効率のように見えるが、これが基本。基本的なことは機械的な効率性で考えてしまうことが逆に自然界にとっては非効率になる。
2点を結ぶ新たな経路を創作する時は、自然界のルールを知り、身につけるべし。
「大事なことは繰り返し何度も考える」習慣を付ける。
第十条 実践して応用力を磨く
先生から習った多くのことから教えの共通性を感じ、いくつかの法則を見つける。そして、今度はそれを新たなに実践してみたり、過去の情報と重ね合わせることで、具体化していく。
ここに二つの大きな落とし穴があるので注意する。
一つ目は、見つけた法則を相関関係ではなく因果関係だと思ってしまうこと。確かに二つの間で関係はありそうなことはわかったが、だからといって、あることをしたら同じ結果が出るとは限らない。もし同じ結果が出たとしても、温度をマイナス40度やプラス50度にしたり、重力を違えて地球の外で実験したり、異なった条件反射を持つ人の間では、見つけた因果関係よりも他の相関関係の方が効果的かもしれない。なんでも一般化して法則をつくることには細心の配慮が必要だ。常に揺れ動き、変化しているのが、この世のならわしである。
二つ目は、見つけた法則を他の世界でも通用すると思って乱用すること。他の世界はTPOが違うので、見つけた法則はそのままでは適応できない。個々のケースに具体化する時は、TPOに合わせて変化させること。これがないと個々の特徴を破壊し踏みにじることに多々つながってしまう。これには「他者」と同じ痛みを共有できる智性が必要とされる。
先生から習ったことを統合化し、それを実践することで、実際の差異を体感することができる。これは後の高度な判断力をもたらすだけでなく、状況に合わせた緻密な思考ができるようなる。この思考によって、合理性だけではなく智性を持ってこの世と向き合うことができるようになる準備となる。
どうしても習わないといけないこと
次に、しなければならないことを習うことだが、これから始めてしまうと習うの難しいので、習いことから書き始めた。だが上の十か条を実践した後ならば、残るは心構えの問題だけだ。
ここからはスクールや先生はいないので、師匠や自分の内(中・裏・奥)にいる師との付き合いになる。
また分野によっては明確な師はいないので、この世で実践してその結果を周りの人のリアクションを感じることによって、修正する力が必要とされる。また、自分で実際にやってみて、「からだの奥にいる師」に自分のうまくいかなかったところをどうすれば改善できるか聞くのが良い。急には「からだの聲」を聴くことはできないかもしれないが、寄り添うように丁寧にほんわりと温かくして、意識を使うのを減らしていくと、腑に落ちる時がくる。それまでゆったりとして待つのが術だ。
ここでは自分の「嫌なこと」や「避けてきたこと」の中に、次の世界に入っていけるヒントがあるので、頭と心と体を緩めて、柔らかくすることがはじめに必要だ。息をゆっくりと吐くことに意識を傾けるのが準備運動となる。
「教わる」者の心構え
千利休が残した茶道の教え
こころざし 深き人には いくたびも 哀れみ深く 奥ぞ教える (利休百首)
習おうとする気のある人には、たとえ一回で覚えられなくても、何度でも、根気よく、誠意を持って、真髄(奥)を教えましょう。なぜなら、そういう人には、教える価値があるからです
自分で覚える努力をしている人に教えは伝わります。
道元禅師がおっしゃるには、
弟子が教えを聞くときには、よくよくしっかりと聞いて、しかも何度も何度も聞いて、確かなものとすべき。
質問があるのに質問せず、言うことがあるのに言わないのは、自分の損になるのである。
示ニ云ク、学道の人、参師聞法の時、能々窮メて聞キ、重ネて聞イて決定すべし。問フべきを問はず、言ふべきを言はずして過ゴしなば、我ガ損なるべし。
職人や芸事の世界では全ての技術や心得は盗まなくてはならなかった。
「盗む」と言うと言葉は悪いが、師の一言一言を逃さずに聞き、一挙手一投足を漏れなく見て、学ばなくてはならなかった。
「一を聞いて十を知る」には「教わる」者の心構えが必要だ。
その心構えが身に付いていないと、一 どころか十を聞いても、一をも知り得ない。
学校教育を受け、何でも教えてくれた環境で習うと、自己意識が肥大化してしまい、「人の話をよく聞こうとしない」し、「聞いていてもこれまでの自分で安直な判断をしてしまう」事が多い。
師が話した内容を「いったい師は何を自分に伝えようとしているか?」を十分に理解する努力をし、「次に何を伝えようとするか」を考察する訓練を日頃から自分自身に課せていれば 「一を聞いて十を知る」ことができる。
「聞く耳を持つ」とは「広い心で相手の事を理解する事」なので、その度にいちいち一つ一つ聞くことをしなくても「習うより慣れ」で、研鑽を重ねられる。
「請う」から「乞う」へ
請うとは、身分の高い人にお目にかかるという意味で、ここから請求、請負、請願、下請けの語句がうまれた。
比べて、乞うとは、この宇宙の根源である気に祈ることを「乞ふ」という。古い字形では「气(気)」と「乞」とは同じ字であった。「气」を動詞化した字が「乞」である。气と乞とは名詞と動詞の関係だ。
「今持っているもの全てを捨てて(或いはその覚悟で)、教えて貰う」
一大決心をして、「教えを乞う」。
「一大決心」は、「初心」「発心」の時にできることなので、この初心が体の内から湧いてこないのならば「一大決心」を理解することはできないが、「心構え」は頭でも理解ができるので、「初心に戻る大切さ」を常と持つ。
大切とは切迫していて切羽詰っていることである。
「教えを乞う」て、教えを受けるうちに、「全てを捨てて」の「全て」、の捉え方がどんどん大きく深くなっていく。「教えを貰って、それまでの自分の凝り固まった考え方を捨てる」
修業(学問・技芸などを習い身につけること)によって修行して、ふっと気がつくと、向上する新しい自分がそこにいるのがわかります。
教えを得るには自発性
師ならば口があるが、自然から知識を得るのならば、教師の教えを何でも受け入れる生徒のようなやり方であってはならない。それは、自らが自発的に質問して答えを導いていかねばならない。検事が証人に答えを引き出すように。
自分で責任を取ることを自覚する
他人からの「教え」は、あくまで「教え」でしかない。
人格や人間性がしっかりできていて、充分な信頼に足る人だと思ってもその「教え」を実際に自分自身でこの世で再現してみないと自分のものにはならない。
吉田松陰は「己のために学問する」と言う。これは、最後は自分がすべてで、自分自身の信念と価値観で行動するしかないということだ。
「当為当然の道」「人間が生まれつき持っているところの 良心の命令、道理上かくせねばならぬという当為当然の道、それはすべて実行するのである」『講孟箚記(上)』、吉田松陰、近藤啓吾 全訳注、講談社、P32
これは、誠を尽くし切っていなければ、とても言い切れる言葉ではない。自身の信じる大和魂に従い、当為当然の道を実行し尽くした。
この強い自覚が無ければ、成長は無い。
他人に頼るというのは、自分の責任であるにも関わらず他人のせいにしたり他力本願の意識を持つことです。
誰かのせいにするのは、自分の成長を止めること。
ビジネスでも家事でも、するということは、価値を与える側として責任を取るということです。
つまり、悪いものを提供すればその責任を問われますし、逆に良いものを提供すれば喜びの声をもらうことが出来ます。
問題に対しての取り組み方
結果(失敗)から学ぶ ならば小さい失敗からはじめる
大なり小なり様々ありますが、始めのうちはできるだけ小さなリスクを許容していくことを心がけることが大切です。
小さな失敗を積み重ねることは良いことですが、破門や破産してはいけません。
破産するとリカバリーに時間がかかるので、1つずつ許容できるリスクを取っていくことが望ましいです。
どうしても先走って大きな成果を生み出そうとしてしまいがちですが、大きなリスクを取った分だけ大きな失敗を招く要因になるので焦らず取り組むことが大切です。
といっても各自の生い立ちと特徴と必然性は違います。
大きなリスクを取る時期もあるかもしれません。そして、大きな破綻を迎えてしまったら、そこを受け入れて、また始めるのがいいでしょう。まだ生きているのですから。休んだ後で生命体はどんな状況でも始めることができます。
教える者の心得
いい先生が良いカリキュラムを真面目な生徒に教えれば良いと思うのは思慮が浅い。
成熟は葛藤を通じて達成される。
指導者たちが全く違う事を言っているのが、実はだれもが全く同じことを言っていることがわかるまで咀嚼できることを成熟したという。
学ぶという態度を身をもって示すことが、教える者の役目である。
1私は面白くてたまらない
皆がつまらないと思っていることを、面白いこととして身をもってやっている
2教える者が自らが学んだという姿をみせる
自分が原点ではない、自分を圧倒する先生がいる。あの先生にはかなわない、これは先生から習ったこと。
自分の先生について語る 宗教の経典の内容は「如是我聞」
教える側の間違い
「教える事」とは、自分自身の習得した知識・技術等をただ単に相手に伝えるだけではなく、相手に正確に伝わったかどうかを確認しなければ「教えた事」にはならない。しゃべるだけ、見せるだけの一方通行では、「教えた事」にはならない。
「教える」者のよくある間違えは、熱弁をふるい熱心に講義をした事で自己満足をしてしまう勘違い。
真の「教える」者とは、「どれだけ相手に伝わったか?」を毎回振り返えり、謙虚に反省する心を持った人。
「教える事」は「教わる事」とよく言うが、「教える」側にも「教わる」側からの事に聞く耳を持つ心得が大切。
「教わる」者と「教える」者、お互いに真の心の交流がなくてはなにも伝わらない。
剣の達人 中山博道
幕末、江戸で有名だった斉藤弥九郎の神道無念流(練兵館)の孫弟子。 剣聖と呼ばれる。
教え方が良く、丁寧なので、評判が良く、多くの人から教授要請の声がかかる。
実際、師範の内弟子になると、どんどん腕が上がり、出稽古で教えを受ける者とは質が違うのではないか、というくらいの剣の技があがる。
しかし、内弟子になっても稽古は、僅かな自由な時間に内弟子同士でやるだけです。
師範は何も教えてくれない。教えてくれないどころか見に来ることもない。出稽古では見ているだけ。
師範は居合い(夢想神伝流)の稽古は必ず自室で、襖を閉め切って、誰にも見られないようにしてやる。
内弟子が「拝見させて下さい」と頼み込んでも、「いずれ教えるから、待っていなさい」と言うばかりで、一向に教えてくれようとはしない。内弟子と外弟子では教え方が違います。
内弟子はこっそりと覗きに行く。それで閉め切ってある襖を少し開けて見ようとすると、「覗き見などしてはいかん!」と怒鳴られる。
それでも懲りずにこっそりと覗きに行っては怒鳴られ、で、結局、誰もまともに居合いを教えてはもらえなかったし、手をとって無念流の稽古をつけてもらうこともなかったのだそうです。
それでも、内弟子の技量はどんどん上がり、出来るようになって行く。
料理、大工等の職人の世界では、「師匠の技を盗め。教えてもらおうなんて思うな」という言葉がありました。
それは「師匠と弟子」の間に「信頼」でなく、「盗む」という言葉が遣われいる。
「盗む」。 どう考えたって、卑しい言葉です。「教えを乞う」のとは全く違います。
今の自分を向上させることなく、良い物を手に入れようとだけを考える。それが「盗む」です。
ところで、一つ、はっきりしていることがあります。「良いものは大変な修練の上に在る」
だから、そう簡単にマネはできない。つまり、「盗めない」ので、師匠の技が優れたものならば、盗むことができない。
もし師匠が「盗め」と言ったとしても、それは言葉通りには受け取れない、ということです。
百歩譲って、「盗め」の本意は「見て覚えろ!」だったとしましょう。
それだって、出来るわけがない。修練の結果のものですから。
そうすると、出て来る答えはこれです。
言葉は「盗め!」ときつい言い方をしていても「見て覚えられるように、『わざとゆっくり、見えるように』やってやるから、しっかり覚えろよ」ということです。
「しっかり見てろよ!」 これが師匠の本心です。
中山博道師範は、出稽古に内弟子を連れて行き、身の回りの世話をさせる。
そして、出稽古先の門人に、懇切丁寧に教える。「ゆっくりと、分かりやすく」です。内弟子は、それを正座をして見る。ただでさえ、見取り稽古というのは、自身が第三者となるのですから、学ぶことが多いものです。その目の前で、懇切丁寧な指導が為されている。
見方を換えたら、これは、内弟子のための個人教授、となっているわけです。
その場で見て、聞いて、覚えたこと、気づいたことを、帰ったら内弟子同士で試してみることが出来る。その場でやるよりも、数倍、効率的です。考えた後から、身体を動かすわけですから。
こんな師匠に、「教えを乞う」弟子。
日本の精神文化。そしてこの積み重ねの歴史に思わず手を合わせました。
参考資料
本
「僕が四十二歳で脱サラして、妻と始めた小さな起業の物語」
(自分のビジネスを始めたい人に贈る二〇のエピソード) 作者: 和田一郎
本書を通して最も印象に残るのは、和田さんが必死に「人に教えを請うている」「そのために行動している」「自分でやっている」姿なのだ。
会社に属していれば、いろんなルールがあり、その中で順応している限り、だんだん教えを乞うことは少なくなり、むしろ教える側にまわってゆくことの方が多くなる。その意味で、起業して一番必要なのは、和田さんがつまびらかにしてくれている「どれだけ人に聞けるか」「そのために行動できるか」「自分でやろうとしているか」
必要な人を見つけ必要なことについて教えを請うということは、一番大切なことではないだろうか。
松下幸之助 成功の心得十カ条
第一条 強く願う
第二条 使命を知る
第三条 みずからを知る
第四条 道にかなう
第五条 『必ず成功する』と考える
第六条 衆知を集める
第七条 コツを悟る
第八条 一所懸命をつき抜ける
第九条 成功するまで続ける
第十条 素直な心になる