想ったら現実になる いや現実とは想うこと
ヒトが意識できることは、この世で「カタチ」になる。 意識の力が形になり、いつしか形は力に戻っていく。
これが意識体の不思議な秘密。カメレオンが肌の色を意のままに変化させるように。
意識が定まれば、それにむかってただ歩き始めればいい。
今夜、到着するものもあるし、1000年かかるのもある。
自然の法則に逆らえば無理を積み重ねばならないし、従っていれば、何もしなくてもゴールに辿り着く。
自らがそう「するか」、もしくは、「しない」か、によって未来と今が決まる。
想いが変われば行動も変わる 行動は想いにセットなんだ。
だからまずはWhyとWhat。
そうしたら Howはあとからついてくる。
例えば目標、使命、表明、必然性、宿命なんかにスポットライトを当てればいい。
「どうやって」は後から考えればいい。素晴らしい知恵を持った人は周りに一杯いるから。
不鮮明な願望ではなく、具体的な今を。
今のリアリティーとは、胸のトキメキ、 鼻孔をくすぐる香り、頬を撫でる肌理の細かい空気、体にあふれる充実感。
「私には想いがある!」
このヴィジョンだけで物事は始まる。
想像することは形になる。強く想い続けることが必要だ。
想うのはまず自分のことだよ。周りからの評判や評価や他人のことじゃないよ。自分が今、何をするかということだ。
形にさせないように邪魔するのは、想いが鮮明でないこと、世間がいう常識、固くなった思考のパターン、決まってしまった習慣、使い古されたいつもの言い訳。
みんなの言う常識も。常識のできた理由がわからなくなって、ただ誰かが言ったからとか、昔からやっているからとか、間違った例え(メタファー)を一般化しちゃったことが多いんだ。 自分の好きな人にちゃんと理由を聞けば、ちゃんとその理由を教えてくれる。んー教えてくれないって。その時は仕方がない。自分で考えるしかないね。
そんな時はゆっくりと息を楽しく吐いて、自分の腹に聞いてみるんだ。この常識はなんでできたの?って。
できたのには意味があるんだ。世間が必要だったからできたんだ。だからといって、その常識が、今の私に必要とは限らない。
大切なのは理由ではない、「想い」だ。
今、ここで、私にとってとても大事なものは何か、躰に聴いてみるのがいい。
1 こうなってほしいことをイメージする
2 自分に十分な理由と必然と渇望と博愛と勇気があるので、自信を持って成し遂げられる
3 その都度に、欲しいものをイメージする
4 自分にいっちゃう 私は○○が必要だと。それが欲しい理由もわかっている。役立つ情報をはじめからみんなの内にあるんだ、そして知りたいことを知っている人の言うことに耳を傾け、私にとって真実と思えることに、その情報を応用させてもらう。
なにかの勘違いや間違えもあるので、おかしいなと思ったら途中で止めて、それを捨てちゃえばいい。次のが来るから。
慣れてきたら、自分がいい波に乗っている時かそうじゃない波の時か、すぐわかるようになる。悪い波の時はそのままいかせればいい。体の中から、んっ、いいぞ、という時はそのまま進めばいい。サーフィンのように。
実は「経験」と「目の前で起こっていること」と「想う」ことは脳にとっては同じプロセスの働きである。それが記憶のデータから脳に入ったのか、五感を通して脳に入ったのか、想うことから脳に入ったのかだけの違いで、その後のプロセスは、意識されたものが勝手に体のあちこちに、メッセージを送ってしまう。だから手汗が出たり、泣いてしまっていたり、ため息をついたり、笑っちゃったりしちゃうんです。体はすぐに反応してしまうんです。細胞の再生から血液の流れから白血球の働きまで。案外おバカな働き者なんです、脳って。
それがただ自分にとって関係が薄いか濃いかの違いでしかない。 だから楽しそうなことや好きなことは濃くするに限ります。嫌いなことは薄くするに限る。
だから好きなことを想うのがいいよ、嫌なことはやめよう。使い分けや否定形や人情や恥や衒(てら)いやセンスや美学が分かる程に脳は賢くないので。脳はおバカさんなので、やさしくしてあげなくっちゃ。どうせ想うならば自分にとって本当にどうしても大切なことを想うのがいい。
脳の馬鹿さ加減に付き合ってあげるのは大切なこと。脳には脳の役目がある。ただ脳は生命体や自然や地球や宇宙の摂理に反することを勝手にイメージしてしまうのが特徴だ。だから、できるだけ、脳の想いついたことではなく、躰の奥の聲が届くのをボーとしながら待って、届いたメッセージを静かに想うのがいい。その中には今まで嫌いだったことが実は全体を考えると重要な役割をしているんだというメッセージがあるかもしれない。そんな時は嫌いなことも大事にしてあげよう。そしてそのうち、想うことも停止する時間を増やしていくのがいい。想っていなくても、なるようになるんだから。
コラム
価値観に生かされている だから良い価値観を持とう
ヒトは、自分の意思で生きているのではなく、価値観によって生かされている
ひとたび価値観を持ったならば、それに対して欲求というものか決定されてしまう
そして我々はその欲求に対する行動しか選択できなくなります。
もちろん、我々人間は論理的な思考によって複雑な行動の選択をすることはできます。
ですが、それが如何に論理的であろうとも、ひとたび価値観というものを持ってしまったならば、ヒトはそれに反する結果を選択するということはできません。
そこに自由意思はないということになります。人間は価値観に対して選択の自由を持っていないのです。
では、行動選択に自由意思を反映させ、自分の意思で生きるためにはどうしたら良いのか?
価値観に対する判断をYESからNOに変更することはできません。
しかし価値観の種類を増やすことはできます。
ただ価値観の方を自分の意思で変更すれば良いだけです。
本能の価値観は変更できませんが、理性の価値観は変更が可能です。
自分の意思によって価値観を持てれば、それに基く行動選択には自分の意思が反映されているということです。。ヒトが自分の意思で生きるためには、自分の意思で価値観を今までの横に新しく置くことが必要です。
だけど、その選択にはまた基準が必要です。
それが個人的な評価や、その社会の慣習に従うものであるならば、ヒトは価値観を持つのではなく、持たされているということになってしまいます。
どんな価値観があるのだろう、どんなのがいいのだろう?
自分個人のものから、御釈迦さんのまでいろいろあります。
オススメは自分を含めた周りから始めることです。
家族、近所、仲間、共同体。
大きすぎると大変なので、小さいのから始めるのがいいです。
最後にはお釈迦さんみたいに、石までも自分の仲間にしてしまうのがすごくてよろしいです。この世の全ての現象に拘らない価値観です。慈悲の動機に基く行動選択です。
だからといっていきなり大きいことから始めると、他者のことを平気で踏みにじる人になってしまうので気をつけて。ここが一番大事なところ。
することには順番があるのです。
欲求というのは価値観によって決定されるものであり、行動の動機とは、その欲求の実現です。
意識の評価にとらわれない生き方 無我の境地
ヒトはこの意識で全てを認知してしまうので、それに囚われてなんでも評価してしまいます。
仏教の教えでは、ヒトの認知した世界は全ては意識が勝手に評価した世界(すわち幻)
であるので、幻にとらわれない生き方を、無の境地に至る仏の道として説いています。
お釈迦様は、振り回されたくなければ意識の評価を行わなければ良いと仰っているのです。
「無我の境地」というのは、我をなくすことではなく、意識の主人である自我が、大脳皮質で論理を、大脳辺縁系で「ことの善し悪し」を判断してしまうので、それをやめれば良い、というのです。
いくつかのアプローチがあります。
意識は自我から発生するので発生しないようにしろ、という瞑想。
発生した意識の評価ができないようにする、酔っぱらい法。
他のことに集中して意識の評価をさせない ランニング、山登り、長唄。
理性ではなく智性を使って、評価した善悪も、実は立場が替われば善し悪しが逆転するので、評価そのモノ自体を気にしないようにする方法
持論で言えば無意識の評価も行わなければ良いので、その訓練も必要です。
評価してしまう大脳辺縁系は無意識なのでコントロールするのは難しいように思っている人もいるが、よく観察するとどちらに評価したのか自我はわかるので、その評価の根拠を探り、その評価と反対の体験を探して実行する。その時のコツはそれを楽しむこと。
すると、これを積み重ねることにより、快・不快の判断がフラットになり、無意識が判断していても末梢神経に信号を送る回数が減ります。
カッコウの卵 カメレオンの皮膚
想いが現実になる、というとなんだかマジックやインチキだと思ってしまう人もいるかと思いますが、よくこの自然界を見渡せば、割とあちこちであることです。
昆虫や動物には擬態というのがあります。
例えば、カッコウ(Cuculus canorus)は他の鳥のオナガやホオジロやモズの巣に外見を擬態した卵を産んで、その鳥に自分の卵を育せさせることがあります。これを托卵といいます。カッコウは他の鳥に合わせて卵の模様を変える力があります。
またカメレオンは周囲の環境に合わせて皮膚の色や形態を自由に変化させるのは有名です。
特に蛸ミミックオクトパスはもうアートです。
彼らは人間より下等な動物だと言われていますが、視覚からくる「想い」を自由に皮膚変換して、現実化しているのです。
こう考えると、そんなにすごいことではなく、当たり前にあることの一つなのかも、と思ってもらえるかもしれません。
思い込むと火傷をしたり死んだりする
ニューヨークのコロンビア大学医学部のハーバート・スピーゲルがイマジネーションを利用するの実験をした。、被験者は米国陸軍のある伍長。スピーゲルは、この伍長に催眠術をかけて催眠状態にしたうえで、その額にアイロンで触れる、と宣言した。しかし、実際には、アイロンのかわりに鉛筆の先端で、この伍長の額に触れただけだった。
その瞬間、伍長は、「熱い!」と叫んだ。そして、その額には、みるみるうちに火ぶくれができ、かさぶたができた。数日後にそのかさぶたは取れ、やけどは治った。この実験は、その後四回くり返され、いつもまったく同じ結果が得られた。
さて、五度目の実験の時には、状況はやや違っていた。この時には伍長の上官が実験に同席していて、この実験の信頼性を疑うような言葉をいろいろ発していた。被験者に迷いや疑惑を生じさせる状況のもとでおこなわれたこの時の実験では、もはや伍長にやけどの症状が現れることはなかった。
スピーゲルは、健康や病気、また、病気からの回復にはさまざまな要因が影響をおよぼし合うと考えている。生理的、心理的、そして社会的な諸要因が相互に関係をもちながら、わたしたちの内部で働いていると言っているのだ。プラシーボ効果を理解するためには、心と体、そしてその両者の関係を促進したり制限したりする第三の要因としての環境状況を考えにいれる必要がある。そして、これら三者を結びつけ活性化するものとして、言葉のもつ重要性がある。 「心の潜在力プラシーボ効果」 広瀬弘忠 より抜粋・省略
思い込みで死を迎える話の裏はとっていない。
多くの説があり、1920年の実験だという話もある。
1883年、ブアメードという死刑囚を使い、ある実験が行なわれた。
ある国にブアメードという名の健康な身体に恵まれた死刑囚がいた。この死刑囚はある医師から、医学の進歩のために命を捧げてほしいと持ちかけられた。「人間の全血液量は体重の10%が定説となっているが、我々は10%を上回ると考えているので、ぜひそれを証明したい」というのだ。
彼はその申し出を受け入れ、間もなく実験が開始された。目隠しをされてベッドに横たわった彼は、血液を抜き取るために足の全指先を小さく切開された。足元には容器が用意され、血液が滴り落ちる音が鳴り響く実験室の中で、1時間毎に累積出血量を聞かされた。
やがて実験開始から5時間が経ち、総出血量が体重の10%を越えたと医師が大喜びした時、この死刑囚は死亡していたという。
ところが、この実験、実は血液を抜き取っていなかったのだ。医師は目隠しをして横たわった死刑囚の手首と足首にメスをあてがっただけで切ってはいなかった。そして傷口にあたる場所には、ゆっくりと水滴が落とされた。桶の中に落ちていたのは、血ではなくただの水だったのだ。
しかし死刑囚はそれを血だと思い込み、多量の血が流れていると思いこんで死亡したのだ。
彼にはただの水滴の音を聞かせ、体内の血液が失われていると思い込ませただけだったのである。
これを「プラシーボ」に対して「ノーシーボ効果」という。治らないと信じることで「ノーシーボ」という現象が生まれる。
現代の医療は心の問題を軽視したため、多くの「ノーシーボ効果」を生み出している。検査、検査で疲れている患者に、どこどこが悪い、と権威を持った医者に言われると、たいていの人は「ノーシーボ効果」で病気を悪化させている可能性もある。
この脳の仕組みを逆に利用したのがイメージ療法で、治ると信じることで「プラシーボ」が現れる。
ゲーリー・ブルーノ・シュミット博士 心理学者 スイス・チューリッヒ
人間が大きな悲しみや絶望に襲われると、免疫システムが極端に弱まり病気になりやすいことはわかっているという。
ごく稀に、間をおかずに死んでしまうこともあるという。
博士はそれを、悲しみや絶望感によってもたらされる死、心因性の死と呼んでいる。
人間が強い悲しみや絶望を感じると、体内ではそれを和らげるシステムが作動する。
その一つが交感神経で、興奮物質アドレナリンを放出し、それにより血管が収縮し、心臓の働きが増進されて血圧が上昇し、結果的に気持ちも高揚する。
しかし、興奮状態が長く続くと心臓に負担がかかる。
一方、人体には、興奮状態を制御する交感神経に対抗し、安静状態を制御しバランスを取るシステムも存在する。
副交感神経だ。
これは体を休ませるために、沈静物質のアセチルコリンを分泌する。
これはアドレナリンとは逆に血管を広げ、心拍数を減少させ血圧を下げる作用をする。
副交感神経の作用により人は安眠しリラックスできる。
だがここにも落とし穴があった。
大量のアセチルコリンは心臓のはたらきを弱め、ついには停止に導いてしまうこともある。
たいがいの場合、人体は悲しみや絶望を克服する。
博士によると、心因性の死を引き起こすのは感情を抱え込んでしまう人に多いという。
ストレスをうまく発散することでリスクは減少するものなのだという。
では、一滴の血も流さずに死んだ死刑囚の原因は何なのか。
同志社大学文学部・心理学の鈴木直人教授
死に直面した死刑囚は感受性が非常に高まった状態で、交感神経が異常な亢進をして死んでしまった、そのようなことではないかという。
筑波大学保健学の宗像恒久教授はこんな仮説をとなえた。
人間が極度の苦痛や恐怖から逃れるために、脳が心臓を停止させるという仮説だ。
人間は、脳のはたらきで死に至るというのだ。
これはシマウマがライオンに噛み殺される時に恍惚に似たような表情をすることからも推論されている。
大脳が思い込みで冷温覚を痛覚に書き換える
例えば、部屋の中の蚊が気になっている時に、たまたま足に何かが触れただけでも「蚊に食われた!」と思ってしまいます。また、冷たい「鉄の火箸」ですが、うっかり触ってビックリしますと「熱い!」と勘違いしてしまいます。そして、時には触れたところの皮膚が赤くなり、実際に痛みが発生することもあります。
これは、「痛み」という刺激に判断を下しているのは皮膚ではなく、脳や脊髄の神経管であるからです。
「火傷」とは「障害刺激」なので、「痛覚」を通って大脳皮質に電流としての信号が届きます。
「痛覚(皮膚)― 体性感覚野― 体性感覚連合野(大脳皮質)」という経路です。
痛覚を通って来るのですから、その信号は「痛み」です。これに対して「痛い」のか「熱い」のかを判定しているのは大脳皮質の「感覚連合野」です。
例えば、
「蚊が刺したから痛い!」
「お湯が掛かったから熱い!」
大脳皮質はこのような「状況判断」を行うことによって痛いか熱いかを判定しています。
では、「冷たい」というのは「温覚(冷温覚)」からの入力ですから、目隠しをされていてもそれを「冷たい水」と判断することはできます。
ですが、
「自分の脇では先程からお湯がぐつぐつと煮えたぎっている」
「何の前触れもなくいきなりお湯がかかるかもしれない」
このような状況ですと脳は簡単に騙されてしまいます。錯覚とよばれるものです。
実際に入力されているのは「冷覚」ですが、突然に入力されるのは痛覚の障害刺激と同じです。目隠しをされているのですから視覚野には何の情報も入力されていません。そこで、思い(意識)は、「そこにある熱湯が自分の皮膚にかかった」と思い込んでしまいます。先ほどに熱湯を見たという記憶から、視覚情報が感覚連合野に行ってしまいます。
大脳皮質には自律神経系に命令を出す接続路はありません。あるのは大脳辺縁系です。しかし感覚連合野が「熱い!」という判定をすると、それまで「冷たい」という温覚の入力を受け取っていた「体性感覚野」の情報が思い込みの記憶である視覚情報によって、痛覚の熱いという入力に置き換えられてしまいます。すると「熱い」という情報として扱われます。その熱さが高温と思い込んだため、その信号が瞬時に大脳辺縁系に流れ、実際には発生していない火傷に条件反射として対処しようとします。こうして自律神経系が自動的に動き出します。
この自律神経系の働きは、
「刺激の発生した部位の血管を開いて血流を多くする」
「血圧を上昇させる」
「立毛筋を緊縮させる」
で、体を緊張させるものです。
すると血行が良くなり皮膚は赤くなり、その部分にひりひりとした痛みを覚えることもあります。
ですが、実際に掛かったのは水ですから、皮膚に損傷が発生しているわけではありませんので、それを視覚(もしくは思い)で認識すれば、自律神経が働かなくなり、放っておけば自然になくなります。
身近で直ぐに実験ができる脳をからかってあげる方法
ラバーハンド・イリュージョンとは
自身の手(リアルハンド)と偽物の手(ラバーハンド)を机の上に並べて置き、リアルハンドが見えないように仕切りを立てる。
被験者がラバーハンドを観察しているときに、リアルハンドとラバーハンドを同時に撫でたり触ったりすると、触られているという感覚をラバーハンドのある位置に感じる(触覚の位置の錯覚)。
また、ラバーハンドが自分の手であると感じる(身体保持感の錯覚)。
実際にやってみたら分かることもある。
ラバーハンドイリュージョン 実験方法。
@被験者が椅子に座って片腕を机の上におく。被験者の腕が被験者から見えないように板で隠します。
A被験者が見える位置にラバーハンド(ゴム製の手)を本物の腕と並行になるように置く。
B実験者が本物の手と偽物の手を同期して筆で触る。
結果:被験者は自分が見えているラバーハンド(偽物の手)がまるで本人の手のように感じるようになってしまった。