捏造されたロゴス
弱者と囲いと言語と理想と知識人と大学と保身が命を蔑ろにすることがつながるわけ。
ロゴスには現在に影響を与える大きな問題がある。
ロゴスの解釈を変えることで、多くの混乱が生み続けられている。はじめの故意がこれほど大きな問題をずっと引き起こし続けるとは思わなかったのだろう。
古代ギリシャで使われていたロゴス
キリスト教会が捏造したロゴスの解釈
そこから出てきた言葉の問題
この三つについて探ってみよう。
ロゴスの歴史 古代ギリシャ
火のような絶えず流動する世界を根幹でつなぐのがロゴスである、と紀元前5世紀のヘラクレイトスは定義した。
彼は万物は流転していると考え、自然界は絶えず変化していると考えた。しかし一方で、その背後に変化しないものをロゴスとした。ヘラクレイトスはまたロゴスは火であるといった。変化と闘争を万物の根源とし、火をロゴスの象徴とした。燃焼は絶えざる変化であり、変化と保存が同時進行する姿を示している。そしてこの火が万物のアルケーであり、水や他の物質は火から生ずると言った。
ロゴスが哲学用語として注目されるのは、ヘレニズム期のストア哲学である。ゼノンをはじめとするストア派の哲学者は、神が定めた世界の神的な論理を「ロゴス」と呼び、ときにこれを神とも同一視した。
ロゴスは根幹となる概念であり、世界を定める理を意味する。「自然」(ピュシス、本性)や「運命」〔テュケー)とも表現された。また人間は世界の一部であり「人間の自然本性」としてロゴスを持って生まれているとされる。こうした「人間の自然」としてのロゴスはダイモーンやヌースとも呼ばれ、これに従った生き方が賢者の生き方であるとされる。
Cf. δαίμων 英語: daemon
「人間と神々の中間に位置する、あるいは善性あるいは悪性の超自然的存在で、下位の神格や死んだ英雄の霊など」を指す(プラトン『饗宴』を参照)。和訳例は「鬼神」、「神霊」、「精霊」。
ダイモーンはユダヤ・キリスト教のデーモン(人間を誘惑したり、苦しませたり、取り憑く悪霊)をも指し、デーモンに相当する西洋諸語(英: demon, 独: Dämon, 仏: démon)は、これより派生したものである。
ホメロスの著作では θεοί(テオイ=神々)と δαίμονες(ダイモネス=神的なるものたち)とは実質的に同義語であったが、後のプラトンらはこの2つを区別して扱うようになった。
プラトンの『饗宴』では、巫女のディオティーマがソクラテスに対して、愛(エロース)は神ではなくむしろ「偉大なダイモーン」であると説く (202d)。彼女はさらに「全てのダイモニオン(ダイモーン的なもの)は神と死すべき人間の中間にあるのです」(202d-e) と語り、ダイモーンは「人間に属する事柄を神々に、神々に属する事柄を人間に、解釈し伝達するのです。たとえば、人間から神へは嘆願と生贄を、神から人間へは法令と報酬を、ということです」(202e) と説明する。プラトンの『ソクラテスの弁明』の中でソクラテスは、自分には「ダイモニオン」(字義的には「神的な何か」)というものがあり、間違いを犯さないように「声」の形でしばしばソクラテスに警告したが、何をすべきかを教えてくれることはなかったと主張した。ただし、プラトンの描くソクラテスはダイモニオンがダイモーンだとは全く述べていない。それは常に非人格的な「何か」であり「しるし」であった。
まとめると、ロゴスとは古代ギリシャ時代では
火のような絶えず流動する世界を根幹でつなぎ、神が世界を定める理を「ロゴス」と呼び、ときにこれを神とも同一視した。別の言葉では「自然」(ピュシス、本性)や「運命」〔テュケー)とも表現された。そして、人間も世界の一部であるので、「人間の自然本性」としてロゴスを持って生まれているとしていた。
ところが、新約聖書の解釈でロゴスの意味が明らかに変わった。いくら言い訳しようが、ラテン語版聖書(ウルガタ版)では ロゴスのことをverbumという訳をあてているので、古代ギリシャで使われていた神の理から神の言葉に解釈を変えられていることがわかる。優しく?言うと、変えたのではなく付け加えた、もしくは強調したと協会は言うのかもしれない。しかし、この意図的な捏造の誤訳がそのあとの世界を勘違いさせた。
なぜ、こんなことをしたのだろうか? 当時の言葉を扱う学者、特に新約聖書の編纂者の社会的立場が弱かったためにローマ時代の世間に対して強く「かます」必要があった。当時はまだ識字率も低く、一般人の文字を書ける者に対して憧れが強いことを利用して、神は言葉である、というのが効いた。迫害を受けている弱者の立場をとることでエリートがよくやる戦法である。どの時代にもこのやり方で社会を騙すインテリがいるのである。モーゼの十戒の石碑がヤハウェの神から授けられたものであったことが、言葉と神を直接に結びつけた一因にもなる。
捏造されたロゴス
書斎の中に住む人がロゴスを「言」と訳してくれた。もしかしたら「言」を使って、人を惑わして商売にしている人にとって都合が良かったのが理由ではないか、と思う。ともかく、これには答えがすぐに出るのでありがたい。
少なくても人間のいう言語を植物は持たない。ロゴスはないが生きている。太陽と水、温度と湿度の中で成長し、命をつなげる。種を残すものもあるし、粘菌のように姿を変えるのいるし、二つに分裂して次々と数を増やしていくのもいる。
進化したり、退化したり、各々が生きている。
「言葉」を持たずしても、闘いながらも悠々と生きている。
Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος.
はじめに言(ロゴス)があった。言は神とともにあり、言は神であった
— 『ヨハネによる福音書』1:1(Κατά Ιωάννην Ευαγγέλιο)
Cf.
λόγοςは、ラテン語版聖書(ウルガタ版)では verbum と訳された。
単数の中性名詞で(属格は verbī) 言葉、詞、単語の意味である。
in principio erat Verbum et Verbum erat apud Deum et Deus erat Verbum.
— Biblia Sacra Vulgata (Stuttgartensia) Ioannes
もしこのロゴスを「言」と訳する、とローマ教会が言い張るのならば、ヨハネの福音書を聖書に取り入れたのは新たな教義をつっくた教会の企みだ。
ロゴスの解釈をどうするかということや本来の意味に関わらず、ロゴスは神であり、ロゴスを「言」と訳し続ける歴史の積み重ねがある。
旧約聖書の中にある「はじめ」
創世記
第1章
1:1はじめに神は天と地とを創造された。
1:2地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
1:5神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
1:6神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
1:7そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
1:8神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。
1:9神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。
1:10神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。
1:11神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。
1:12地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。
1:13夕となり、また朝となった。第三日である。
1:14神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、
1:15天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。
1:16神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。
1:17神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、
1:18昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。
1:19夕となり、また朝となった。第四日である。
解釈は人の数だけある。私は14節から太陽系についての話で、それ以前は宇宙生成のメタファーとして捉える解釈があってもいいのではないかと思う。水、空、地、青草、果樹、木も、「存在」「無」「場」素粒子、電子、原子のメタファーとして読んでいる。
新約のロゴスが生まれる前の話である。
一般的には古典ギリシア語で論理と理性を表す語はともにロゴスであったが、このロゴスという語は古典ギリシア語で元来は、比や割合という意味を有していた。そこから、ラテン語でも同じ意味を持つ日常語であったratioがロゴスの訳語とされ、ロマンス語や英語で理性を意味する語もその流れを引き継いだ。
ロゴスは (希:λόγος→羅:ratio→仏:raison→英:reason)と言語も意味も変化して、reasonは日本語では1881年(明治14)《哲学字彙》で仏教用語の理性と道理との関連性の中で「理性」と訳された。これはヨハネの福音書の本来のロゴスとは違うものだが、関連性や共通性が見えてきて面白い。
理性は、人間存在に本来的に備わるとされる知的能力の一つである。平たく言えば推論(reasoning)能力である。世界理性というときは人間の能力という意味ではなく、世界を統べる原理、という意味である。
ここまで来ると、いきなりヨハネのいうロゴスに近くなる。
問題はロゴスを「言」と訳して、それを自然から人間へ、体から意識へ、脳幹から大脳皮質へと、ロゴスを言葉や言語に限定してしまった人たちであろう。
スコラ哲学者は、新約聖書「ヨハネ福音書」の冒頭にあるを文字通りに受け入れて、言語は神によって人間に与えられたとする「言語神授説」を信じていました。この考え方を発展させたのが、エドワード・サピアとベンジャミン・ウォーフで「科学としての言語学の地位」1929年の中で、言語決定論という説を立て、言語が思考を決定することを証明しようとしました。思考が言語に依存する、というのです。
ところがこれらを徹底的に否定することは200年前以上も前からあり、カントの弟子であるヨハン・ヘルダーもその一人です。「言語起源論」では人間とチンパンジーの発声器官を形態学morphology的に研究し、人間精神に内在する理性に言語の起源を求めて、人間を「言語の生物」と名付けました。
言語を理解することは、どのようなルールに基づいてそれを「使用」すればよいのか習得することと同一なので、言語とはルールに基づかず使用されていれば理解されていない、ということです。
言葉と思いについての論はルロワ=グーランAndre Leroi-Gourhanの「言語は思いを実現するための技術」であるとか、数学や記号論理学などいろいろあります。
欧米の文化人は自分達を「最も論理的で真理に近い」と考えがちだがその論理も怪しいもんだ、というのを「言葉」のレベルで揺さぶってみたのがソシュール、「文化」のレベルで揺さぶったのがメルロ=ポンティで「知覚」や「認識」のレベルで揺さぶったのがデリダです。
Cf.
ロゴスは、ミュトスと対比して用いられていた。
ミュトスは、人が語る“ものがたり”や“お話”全般を指し、ギリシャ悲劇や喜劇、アイソーポス(イソップ)の寓話の題材もミュトスである。
このミュトスに対して、ロゴスはある。「空想」に対して「理性」があり、「物語る言葉」に対して「論証する言葉」である。
言葉を重要視する現在の学校教育
それ以降はこの異訳によって、ヨーロッパ哲学や神学から現在の学校教育まで影響を与え続けている。
「目に見えないような真理は言葉による論理的思考で捉えることができる」というとんでもない勘違いだ。
キリストとしての神の本性が、ロゴスすなわち論理と解されたことによって、西ヨーロッパにおける哲学のひとつの流れである、論理と思弁を重んじる風潮、さらには論理と言語によって神を把握しようとする積極神学の道が拓かれた。このような背景もあり、今日哲学の分野で「ロゴス」といわれるときには、程度の差はあれ、単なる構造としての論理ではなく、“語られる力ある言”という“人格的な、かつ神的なロゴス”理解の影響があることが一般的だ。
現代でも繰り返して行われている言葉を第一といって利用する人たちの生き方
人の為に善をする者を、偽善者という。
自分の意識を大切にして、その優しさに惚ける自己に満足し、弱者のためだと宣い、それを助けるためにと、努力と頑張りと誠実さと正しさと勤勉を厭わず、手段を選ばず、目標に向かって突き進む者たちは、言葉に頼り、利用するのはなぜだか知ってますか?
どんな方法を使うか知っていますか?
どんな結果を迎えるのか知っていますか?
はじめにひどい例もしくは素晴らしい例を作り、同情を引く。
例のつくり方のコツは塀の中に閉じ込めるということだ。
特殊な例を作る 塀で囲む トリミングする フレーミングする
自然の力が及ばない人工の空間に、その中にしかない理想や可愛さを並べる
次に、その中のモノの素晴らしさや尊さと同体である裏側の顔は隠し、表側だけを誇張する。
Cf. 束縛があっての自由、戦いがあっての平和
塀の中の弱々しい可憐さを守るといって、それが理解できないものは塀の外のものとし、ぶった切る。
言葉を変えると塀の中の弱者になりかわって、塀の外の考え方を批判する。
理想や可憐さを守ることが正義だと錦の旗を降る。
もうひとつのやり方は、自然の中に人工物を加えてコントラストを作り、自然を守れと叫ぶ。自分たちは自然を潰して作り上げた世界の中にいるものに限って大声で叫ぶ。
これをかわりばんこに行うことによって、塀をますます立派に強くして、塀の外のものを寄せ付けない自分たちだけが得をする世界を作り上げていく。中にはみんなを惹きつける幻想を、外にはぶった切る言葉の論理武装をした刃物。アメリカ合衆国がやる手口だ。
これは脳内で起きている言葉を生み出す構造と同じだ。共通項を作るためにまずは囲いを作り、その中の特徴のあるものが言葉として浮かび上がってくる。次にこの言葉を基準にすることで、他の物と差別化して特別の存在となる。
これは知識、意識でも同じことが起こっている。次々と囲いを作ることで保身をする学問の構造も同じだ。
命は全てをつなげようとする動きだから、学問がしようとすることとはまるっきり反対の動きだ。囲いの中のものを次々と分解して、新たな化合物を生み出す「命」は、言葉の世界にとっては恐怖だ。安定志向の言葉や知識にとって、いつも動いていて発展する命は扱いにくく困ってしまう。
言葉と知識をベースにして論理を組み立てるインテリが命をないがしろにするのは無理もない話だ。
生物変化史と脳
言葉がロゴスの中心だとすると、大脳皮質の活動がなくなってしまい、話すことができなくなった植物状態の人はロゴスがないことになる。
はじめの生物は分子の並びや、膜や、一つの管で外界と繋がっているだけなのに、生きている。動いている。まるで意志をもっているかのように。ウイルスは生物とも言えないのに増殖する。
1億の精子は先を争って一つの卵子に向かっていく。
言語処理能力のある大脳皮質ができ始めたのは1億年ぐらい前だと推定されているから、それ以前はロゴスはな
かったことになる。ここまで来るとヨハネの福音書のロゴスは明らかに誤訳であるか、もしくはこの福音書は神の言葉を本当に分かっておらず、勝手に書き始めてしまったのか、神の真意がわからず悪魔に書かされてしまったことになる。
誤訳とすれば、この誤訳によりヨーロッパ哲学や生き方は偏狭な世界に閉じこもる自己の意識を中心にして、それが偉いような文化に傾いたので早く訂正して、たとえば「意思」とか「波」とか「ある」とか「命」とかあたりにしておけばまだ良かったのに。
もし誤訳ではないというのならば、勘違いの領域なので、教会は得意の宗教会議を開いて、最初の章を削除するのが恥を晒し続けるよりかはよかろう。
ロゴスを言葉と勘違いしてしまった人へ
間違えを組織が受け入れるのは難しい。今の組織が成り立っているのは、その間違えの上に立っていると勘違いしている人がいるからだ。間違えを認めると、組織が崩壊してしまうと妄想しているからだ。
安心するがいい。
どんな間違えさえ、正しいのだから。
どんな間違えさえ、必要なのだから。
どんな間違えさえ、この命なのだから。
すぐに人は自分の過ちを認めようとしない。
するには時間と手順がかかるのだ。
急にああ、そうですか、とはいかない。
例えば、急に医者から死の宣告をされたとする。
その時に、人が起こすリアクションは大まかに次のようなことが多い。
『死ぬ瞬間』(On Death and Dying)より 著者は医師のエリザベス・キューブラー・ロス
第1段階 「否認」
患者は大きな衝撃を受け、自分が死ぬということはないはずだと否認する段階。「仮にそうだとしても、特効薬が発明されて自分は助かるのではないか」といった部分的否認の形をとる場合もある。
第2段階 「怒り」
なぜ自分がこんな目に遭うのか、死ななければならないのかという怒りを周囲に向ける段階。
第3段階 「取引」
延命への取引である。「悪いところはすべて改めるので何とか命だけは助けてほしい」あるいは「もう数ヶ月生かしてくれればどんなことでもする」などと死なずにすむように取引を試みる。神(絶対的なもの)にすがろうとする状態。
第4段階 「抑うつ」
取引が無駄と認識し、運命に対し無力さを感じ、失望し、ひどい抑うつに襲われなにもできなくなる段階。すべてに絶望を感じ、間歇的に「部分的悲嘆」のプロセスへと移行する。
第5段階 「受容」
部分的悲嘆のプロセスと並行し、死を受容する最終段階へ入っていく。最終的に自分が死に行くことを受け入れるが、同時に一縷の希望も捨てきれない場合もある。受容段階の後半には、突然すべてを悟った解脱の境地が現れる。希望ともきっぱりと別れを告げ、安らかに死を受け入れる。「デカセクシス(Decathexis)」とロスが呼んだ状態である。この状態で最期の言葉を残すことがある(例:ゲーテ「もっと光を」、夏目漱石「もう泣いてもいいよ」)。
これは死ぬ時に起こることなので、自分が信じていたことを訂正する時や解脱に至る時の境地に似ているのも当然である。
Pythagoras and Plato both divided soul into two representative parts, independent of each other -- the one, the rational soul, or [[logos]], the other irrational, [[alogos]] -- the latter being again subdivided into two parts or aspects the [[thymichon]] and the [[epithymichon]], which, with the divine soul and its spirit and the body, make the seven principles of Theosophy"
Epithumia (Greek) In Greek metaphysics, equivalent in the human constitution to kama or the desire principle. Psyche or soul was a union of bios (physical vitality, prana), epithumia, and phren or mens (mind, manas). (BCW 1:292, 365)
ロゴス
アロゴンAlogon 合理的ではない魂 言葉で表すことができないもの、 神なる霊と身体の魂がある