ベネズエラ マラカイボの侍
ホンジュラスから一泊二日の飛行機旅行でやっとベネズエラに着いた。直線距離にして2000キロあまりしかないのだが、あちこちと寄っていき、パナマでは予期せぬ一泊があった。テグシガルパからカリブ海側にあるホンジュラスの工業都市サンペドロスラまでプロペラ機で行き、そこからジェット機に乗り換えてニカラグア湖の上を通ってコスタリカ,パナマ,コロンビアに寄ったのち、ベネズエラに到着の予定だった。しかしパナマに着いて3時間も過ぎたのに出発しない。乗客がスチュワーデスに問い詰めたところ、ジェットエンジンが主翼から取れかかっているので、その修理に時間がかかっていると答えた。強者ぞろいの乗客もさすがにため息とも歓声ともつかぬ声をオーッと漏らしていた。
結局その晩は航空会社もちでホテルに泊まることになった。ビジネスで忙しい人や急いでいる人は大変だろうが、そのどれでもない僕は、予定外のパナマ見物、食事つきのホテル宿泊で喜んでしまった。乗客はヨーロッパから来ているビジネスマンが多く、誰も一癖も二癖もありそうな面構えの連中で、またかと言う感じ、平然と見えた。アメリカでもヨーロッパ人に会ったことは多いが、皆どこか違った雰囲気を持っている。メキシコの小さい村で会った、ヨーロッパからきたヒッピー旅行者たちも独特の個性とポリシーを持っているうえに、数カ国語をいとも簡単に使い分ける。まだ旅行歴もそれほどなかった当時の僕は、彼らが不気味な化け物に見えた。19世紀の盛りを過ぎたヨーロッパをなめていた僕にとっては大きなショックであった。そしてこのヨーロッパからきたビジネスマンたち、もう中南米に長いのか、気さくでラフな感じであるが、お互いに事情通の話、政治,外交,経済の裏話、歴史,芸術,文学,音楽の話を4,5カ国後チャンポンで話している。堂々とした態度,相手を引きこむ笑い、時々光る鋭い目つき、そして紳士的応対と、どれも人をコンプレックスに陥らせるための要素が十二分にある。ピュアな僕を見て驚いてか、皆親切にそれぞれ中南米の裏話を教えてくれた。ニカラグアのソモサ政権とその末路、コロンビアのコカイン業者とフロリダのマフィア、コーヒー酒を製造するためにガテマラから豆を買うコスタリカ、ニカラグアとイエズス会、ボリビアのコカインとソ連、パナマ独立とアメリカ政府、アメリカ資本の果物会社と中南米、と次から次へと驚く話が続いていく。僕を囲んだ4人のビジネスマンはまるで誰が一番僕を驚かすことができるか競っているようだった。
朝の4時頃、気持ちよくベッドの上で寝ている僕を、ホテルの内線電話のベルが起こした。修理が済んだのですぐ出発だそうである。飛行機はコロンビアのバランキアに寄った後、ついにベネズエラ第二の工業都市マラカイボに到着した。飛行機から出るや否や、全身の毛穴から汗が噴き出した。空港から出ると、燦燦と日が肌を焼く。正直言って、とんでもないところに来てしまったという感が強かった。
結果的に言うと、一ヶ月の予定だったベネズエラ滞在は、5ヶ月近くにもなってしまった。南米旅行の中でも,思い出は一段と強い。
レストランのオープニングメンバーとしてきた僕は、他の二人よりも二週間ばかり早く着き、ついた次の日から仕事に入った。まだレストランは完成されておらず、昼夜を通じての作業にあたっていた。僕はキッチンの配置、器具、仕入先、メニュー作成など主に調理側と雑用に携わった。このレストランは,基本的に二人のオーナーの資金によって作られ、マネージャーは在ベネズエラ10年の日本人、コックは3人アメリカから呼ぶという形式で経営される予定だった。日本レストランと銘打ってオープンするが、メニューはアメリカの日本レストランを真似た鉄板焼きだった。といっても、お好み焼き屋ではなく、ステーキ、ロブスタ、エビ、鳥をメインに調理する高級レストランで、値段もその一番高くなるはずである。店内はバーセクションとダイニングセクションに分かれて、小さな滝と池にかかる橋もある大きなものだ。新聞はもちろん、ラジオ、映画館用のコマーシャルも行うほどしっかりと宣伝もしている。オープニングには、市長、軍司令部をはじめ、各界の大物を招待するといった企画が組まれていた。ウェイトレスにも破格の給料を払い、スチュワーデスなみの容貌とサービスの質で客に接待するという意気込みで、ともかくマラカイボ一のレストランを目指していた。
僕はいままであちこちで働いたことがあるが、人から憎まれたことというのは想いあたらない。ただこのレストランのオーナー図師さんを除いては。
図師さんは満州で生まれ、戦後日本に戻り、結婚。その後すぐにアメリカの船でコックとして働き、たまたま寄ったベネズエラで、金貨の山を持った日本人に会い、「ここで俺は一山あてる」と決め、その場で下船してベネズエラに住み付いた。二年後には妻を日本から呼び寄せ、それからずっとベネズエラで暮らしている。いまではマラカイボ湖の南にある小さい町で雑貨商を経営して、今回始めてレストラン業に関り、レストランの資金の半分近くを出していた。身に一銭もないところからここまできた叩き上げの男である。
それに比べて僕は都会育ちで、その後は物質と金の溢れるアメリカで暮らしていた。料理を覚えたのもアメリカのレストランでだった。僕にとって,当たり前や当然のことは、ベネズエラでは、そうではなかった。
例を挙げればきりがないのだが,北アメリカと南アメリカの違いを知るには次の例が必要かも知れない。ここではなぜか犬がキッチンの中に居り,ハエが二十匹ばかり辺り構わず、調理場の中を飛んでいる。そのハエが、肉に,えびに、鳥に群がっているのを左手で払いながら右手に包丁を持って仕事を進めなければならない。結局ハエ取り紙を天上から吊るすことで少しはましになった。
次に、夏のためか水が蛇口から出てこないのだ。水のないレストラン。台所で水を使わないで料理することを想像して欲しい。朝は少し水が出るので、起きるや一番にレストランに行き、大きいポリバケツに水をためておかなければならない。水を使うときはその都度、外まで行って水を汲んで来なければならない。それに冷蔵庫が家庭用の2つと、2m×2m×0.5mのものがひとつ、それに冷凍庫がひとつしかなく、一晩で200人が来るレストランにしてはお粗末で、野菜などは冷蔵庫に全部入らなかった。マラカイボは連日35℃を越える厚さで、野菜は痛み易かった。特に瓜科のズキーニはすぐに周りから腐ってくる。もっと大きな冷蔵庫が必要なことを図師さんに言うと、「ベネズエラのズッキーニはアメリカのと違って根性が入っているからそう簡単には腐らない」と答えた。それを聞いて、アメリカに住んでいた僕たちは、あいた口が塞がらなかった。コレは半年後になってわかったのだが、根性が入っているかどうかは別として、確かに同じ条件ではベネズエラのズッキーニのほうがアメリカのものに比べて保存はよかった。
またこのレストランでは、なんでもよく再利用した。一度使ったサランラップは捨てるものという固定観念があった僕は、それを洗ってまた干して使うというのは、驚きに価した。丸ごと一羽の鶏をさばいた後の鶏がらはスープに使うだけだと思っていたが、ここでは竹ひごで、まだついている身をきれいにとって団子をつくった。実際やってみると一羽につき、小さな団子一個分が取れた。客の残した料理はゴミ箱に捨てず,集めて犬にやった。
量の多くない水を上手に使うため、始めに野菜、つぎに海産物、最後に洗剤をつけた食器と、同じ水を順番づけて使った。アメリカでそんなことをやれば保健所が飛んできそうである。食器を洗うと言ってもアメリカのようにウォッシュマシーンが有るわけでなく、洗剤を入れた水槽で軽く洗ったのち、もう一つの水につけてゆすいで終わり.である。そういえばイギリスで入ったレストランでは、洗剤のついた食器やグラスをそのまま乾かして使っているところがあった。そんなところばかりでは当然なのだろうけれど、そんなことをみてもイギリス人はあまり文句を言わないみたいだから、このレストランの方もそう悪くはないのかもしれない。しかしアメリカや日本のレストランの事情を知っている者にとっては、やはり驚くべきことである。特に金、能率、時間を価値システムの最上級においている人々には。
ベネズエラには冷凍食品が少ない。あったとしても生のほうが安いのだから、相対的に値段は高くなる。アメリカでは,多くのものが、生で買うほうが高い。たとえばトマトを買うにしても、生より缶詰や冷凍食品のほうが半額以下である。だから金持ちは生、貧乏人は缶詰か冷凍である。そういう方程式はここでは通用しない。鉄板焼きのレストランは一日だいたい千匹あまりの海老を使うのだが、アメリカでは頭の取れた粒のそろっている海老が冷凍パックで来るので解凍すればよいのだが、ここでは港から上がった海老がそのままやってくる。確かに新鮮には違いないのだが、手間が3倍かかるうえ、皮をむくときに指に傷ができるのか、そこが化膿してパンパンに膨れ上がってしまう。大きさも20センチ大のがあるかと思えば、8センチ弱のもあって区分けに大変である。
ここマラカイボは石油の町で名高いようだ。発掘、精製、販売をここですべて一貫して行われる。日本と比べると値段はすべて信じられないほど安く、90octaros1リットルで約20円である。ちなみにエクアドルとボリビアではこれよりももっと安く、もう無料同然である。この石油を使った火力発電が電気源であるから電気料金も確かに安い。給料のそれほど多くない一般家庭では相対的割合では日本と大きく変わらないが、企業にとっては魅力であり、大きなアドバンテージである。だからかどうか知らないが、レストランでは毎日6台のクーラーを全開にしていた。ところがヒューズがときどき飛んでしまうのである。そんなときはロウソクを何本かテーブルの上に立てて営業を続ける。
今から思えばロマンチックで趣があったのかも知れないが、クーラーは止まって暑くなるし、煙は外に逃げないし、ひと騒動である。毎回世界一のアメリカと比べるのはナンセンスであるが、日本とアメリカのレストランしか知らない男にとって、他の基準がない以上、どうしても無意識のうちにくらべてしまう。アメリカでは設備がしっかりとされ、また国や対の検査官もうるさい。左手にマニュアルと査定表を持って見て回る。だから目に見えないところでも、しっかりとしておかなければレストランとして経営を続けることができない。それに防火、建築、衛生、リカーライセンス、労働、土地、と縦横に通る法律の中に収められていなければ1日として客を店内に入れることすらできない。
ベネズエラには、そういう法律がいい加減なところがあり、誰もが無頓着である。自然とオーナーとしては目に見えないところの経費はできるだけ落とそうとするものだ。そう言えばレストランの横に8階建てのマンションを建設していた。そのオーナーも経費節減には一所懸命らしく、ビルの周りに何も囲いをしないで仕事を続けている。ある日そこからレンガの塊が降ってきて、レストランの裏口通路の屋根を破った。幸い誰にも被害はなかったが、これからもまた降ってきそうなビルの8階を、穴の空いた屋根を通して見上げるのは気持ちの良いものではない。でもそのときのオーナーの反応は、「今度きつく注意しなきゃいかん」で終わってしまった。そういえば、こちらの高層ビルのつくりは本当にいい加減で、極端に言うと、中空の赤レンがにセメントをつけて積み上げていっておしまいである。ここには自身がないから良いようなものの、外から空手家が気合をこめて正拳一突きすれば壁に穴が開いてしまうに違いない。
お金というのは、つくづく面白いものだなと思う。世界の現象を、物を、価値に換算して一元的な世界に置き換えてしまうのだから、魔法による空間を生み出すわけである。だから人は金に魅いられるのではなく、その魔法に惑わされる。また金には落ち着く場所がない。昨日はここ、明日はあそこと、絶えず放浪しなければならないのが金の宿命である。私は銀行に預金をしているからと人は言うが、銀行の内情を知っている人はわかると思うが、あそこ程金があちこち飛び回っているところはない。ところで、ここでいう金とは、金属の金ではなく、紙幣、コインのことである。金属の方は、飛び回る金とは違って、しっかり腰を落ち着けて回りを惹き付け、その虜にすることができる。放浪者というよりも、横綱相撲のできるキングに近い。この20世紀の相対化という流れのなかで、今までのようにふんぞり返っている訳にはいかなくなったが、人はまだまだその名前とあの輝きに弱いらしく、近頃忘れられて困るとでもいうように、蔵の奥からまた顔を出し始め、人に笑みを振りまいている。話しは少し横道にそれたようだが、金は何でも一元化しようとする性質からいって面白くもあり、また金ほど厚かましく、憎らしいものもない。ふたつの空間、例えば歴史、風土、習慣、伝統、文化、思考が違う二つの場所も、金はなんの躊躇もなく飛び越えてしまう。というよりも、有無を言わせず横たわるのだ。そこに人様の都合や生活や美意識、ポリシーを思いやる気持ちがないのは、彼の強みであると同様、なんでも一元化しなければならないという宿命は哀れで人の涙を誘う。
北アメリカとベネズエラの平均所得の差は大きい。1982年まではまだそれほど問題ではなかったのだが、その後の南米ショックで、中南米諸国の通過は一度に暴落した。ベネズエラではいっとき5分の一まで落ち、今は四分の一ぐらいで落ち着いている。いままで1万円だったものが突然2000円になるのだから、たまったものではない。とくにひと昔前は、アメリカ人をはじめ、ヨーロッパ人も出稼ぎに来た裕福な国、ベネズエラであったから、この落差は精神的にも大きかった。オイルの勢いに乗って、プライドの高いベネズエラ人のことであるから天国から急に地獄に蹴り落とされた様にショックは大きかったであろう。こういう内情を知らないでアメリカからこのレストランにヘルプに来る男の気持ちはこうである。確かに今働いているところと比べて給料は半分ほどしかないが、飛行機代も出してくれるし、宿も提供してくれるというから、1,2ヶ月向こうで働くのも悪くないな、という軽い気持ちである。期間も2ヶ月ときまっている。
ところがこちらのオーナーとしては、アメリカから来る男にとっては、半分の給料でも、ここでは銀行の頭取の倍の給料を支払っての雇用である。当然採算あての支払いであるが、思いこみが違う。旅行気分で仕事に来た男たちと、大金を張ってそれ相当の仕事を期待するオーナーとのギャップはいかんともしがたい。オーナーの意気込みと思いやりがわかったとしても、アメリカでアパートを借り、ローンを支払い、保険金を毎日銀行に振り込んで生活している男にとっては、ベネズエラに長く居れば居るほど、経済的にはマイナスになってしまう。アメリカに地盤があるものとしてはどうすることもできない。家庭や家があるものとしてはなおさらである。それをまとめてこちらに引き上げることができなければ、お互いの立場を理解したうえで一種の諦めがその間になければならない。
たとえば「時間」という観念にも同じことが言える。アメリカで生活していると自然と「時間」というものが大きく頭の中に入りこんでくる。時も金なりと有効に時間を使おうとするのだ。時間を売って生活しているとも言える。仕事全体に喜びを感じないものは、極端に言って、給料を得るために仕事をする。言いかえれば、自分の時間、才能、技術、自身、情報、友好関係を売って、金を得るのである。単調な、祈りのない、夢のない、思想のない、情念のない、ポリシーのない、感情のない、大気のない仕事と思いこんでしまえば、そういう思考になってしまうのは道理である。実際僕にはそう言う傾向が強かった。アメリカに行く前にはその旅費を貯めるためにガムシャラに働き、食べ物というガソリンを身体に詰め込み、補給してエンジンを回しつづけるという思いがときどきあった。
各民族の料理に対する感覚を簡単に言った喩えがある。
中国人は舌で食べ、日本人は目で食べる。ドイツ人は胃で食べ、アメリカ人は頭で食べる。アメリカ人はカロリー計算に忙しいわけである。では南米ではどうか。
一口に言ったら、こだわらないというのが、的を射ていると思う。腹が空くから食べる。だから美味しいのだ。調理法も秤にしっかりと載せ、匙を何倍と、ヘラを使って正確に調理するアメリカのマニュアル式調理法から見れば、南米のは、いい加減で適当で豪快である。繊細さは感じられないが、この大味もビールと一緒に食べ、笑えばこりゃあ美味い。
これは時間に対する観念にもあてはまる。アメリカではレストランとはいえ、タイムカードを使って週に何時間と労働時間が決まっているうえに、仕事が終われば自由な一個人として扱われる。小さなところではそこまでシステマティックにはならないが、確かにその傾向があることに変わりはない。日本はそこまで行かないが、ひとつの流れとしてそれがある。これは国別というよりも、都会と地方という区分の方が理解しやすい。
そういう都会型、アメリカ型、多国籍型、能率型、時間観念の持主が、南アメリカや外国の日本人コミュニティー、根性優先の社会に来たときの戸惑いは大きい。そしてあの有名なアスタ マニャーナ(hasta manana)。これはすなわち「明日までね」ということである。でもこれは本来の明日、物理的な24時間後でなく、永遠に続く未来の1日という意味でしかない。その明日がいつやってくるのか見当がつかない。1日は一週間、一週間は一ヶ月、一ヶ月は1年と思って丁度である。これはこちらの銀行や一流企業でも同じなので、始めのうちは慣れるまで怒りが絶えない。また約束というのも、何とも頼りないものに感じる。しばらく生活していれば、彼らの価値観、美学もわかってくるから、というよりも、何時の間にか自分の身体にも染み込んできてしまうから、トラブルは少なくなる。
レストランでアメリカから来た3人だけでは仕込みが大変なので、2人のキッチンヘルパーを雇った。一人はまだ17歳ぐらいの青年で、学校が休みの間アルバイトでここで働くという。彼は海老、スペイン語でいういカマロンの殻むきが役割で、いつも昼の1時から夕方の6時まで働いていた。彼の仕事の手際は遅いのなんの、おおげさでなく、こちらが5匹の海老の殻をむくとき、彼はやっとひとつが終わるかどうかであった。はじめは多めに見ていた皆も、2週間後も変わらぬ彼を見て、なんとかならぬのかとやり方を教えたが、あまり変わり映えはしない。こちらは仕事が山のようにあり、一分を争うかのように必死でやっているのに、隣でウダウダやっているのを見ると、腹が立つのも必然である。あるとき彼がダンボールをはさみで切りだした。何をやるのかと見ていると、それで蝿叩きを作るらしい。蝿は海老が好きらしく、殻をむいていると30匹は飛んできてたかるのである。かれはそれを追い払うために蝿叩きをつくったのであるが、それは大きすぎて空気抵抗が強く、叩くどころか団扇で風を送っているようなものだった。僕達が機械のように休み無く働く横で、カマロンをひとつ剥いては団扇で蝿たちに風を送り、またひとつ剥いては同じことを繰り返す。ここまで堂々と無意識にされれば、彼が大物に見えてきた。彼は何時の間にかカマロンボーイと呼ばれ、レストランのアイドルになってしまった。
今まで書いてきたのは、二つの世界、―アメリカとベネズエラ(南米)―の対比であるが、これだけを並べてみても見えてこなかったり、誤解してしまうことも、ある事実だ。その理由のひとつは、僕が日本人であるということ。日本の都会で1961年から80年までの間暮らし、アメリカに渡り、あまり違和感なしにそこの生活に溶け込み、暮らしてきた男の感覚だということ。
もうひとつは、ここでベネズエラとして書いたことの多くはレストラン内のことで、それも日本人がオーナーである。言いかえれば、ベネズエラの日本人社会というファクターをよく理解しないと誤解を招いてしまうことがある。
日本国外の日本人社会、これはもう研究課題といえるほど、面白く大きく、そこの深いテーマである。これを研究した方が、下手に地図を片手に町を歩きまわるよりよっぽど、その国の雰囲気と実態を掴めることになる。外国で暮らす日本人の生活を見て、一緒に体験して、どのようにその土地の影響を受け、しかしどこまでは日本人の感性、習慣、思想を残すか。当然ここには本人の出身地、年齢、家庭、性格が基となってくるのだから、これらの方が、その場所よりも実際に強い影響を与えている。しかしやはりなにかしらの形で、その場所だからこそ、というのも自分の中に引き入れることになる。
日本にいる人は「何故わざわざ日本から離れて外国にいるのに日本人社会で暮らすのか」という素朴な疑問が沸いてくる。実は僕もはじめてアメリカに行った時分はそうだった。実際、1年ほどは、日本人とあまりつきあいが無かった時期もある。といっても片田舎に住んでいたため、1人も日本人がいなかったためであるが、旅行で外国に行く場合は、少しでも日本と違ったものをその新しい場所で見つけたい気持ちの人が多い。特に期間が短ければなおさらである。だがそこに住み、暮らすということは、旅行する者と同じ視線で同じ世界を見る。それが留学や期間の決まった滞在ならば話は別であるが、暮らすということは、日常生活のことである。朝起きて夜寝る普通の生活である。となると毎日の新鮮な驚きや発見が大切であると同様、落ち着いた、肩の張らない、のんびりした時間がとても重要になってくる。またこんな時間がないと明日への活力がなくなってしまう。すると当然同じ感性,好み、習慣、経験を持った人と時間をともにしたくなる。外国人も同じ面を持っている人がいると同様、日本人にも同じことがいえる。いや同じ言葉、同じ童話、同じ味、同じ風土というだけで、もう多くの共通点ができる。それを見ないで日本人とはつきあわないという日本人の方が不自然に見える。日本人がすぐに徒党を組んで外との接触を持たないというアメリカ的フレンドリ―の常識から見ると、悪い癖に対するアンチテーゼなのだろうか、はじめのうちの突っ張りは可愛くても、それが続くと目が吊り上り、ほっぺたが凍りつくように固くなってしまう。
話しが横道にそれてしまったが、では外国の日本人社会とはどういうところなんだろう。
外国で日本人に話しをすると、まず驚くことがある。日本にいる日本人よりも日本人らしいということだ。どちらが日本人だか分からなくなってしまう。「新しい」「美しい」「創造的」「便利」「楽しい」などが善である都会人の立場からすると、彼らがなんだか日本人ではないと感じられてしまうほどである。「そんなの古い」と一言できられてしまいそうだ。
これは何についても言えることだが、自分が輪の中にいるとき、それをそのまま受け入れ、自分の立っている位置を調べて見ようとすることはあまりない。そこが自分にとっては当たり前の世界だからである。特別、疑問をもたないでも、というより、何故いつも吸っている空気について考える必要があろう。ところが何かのきっかけで、その輪の外に出ると、何時の間にか、当たり前だったもの―絶対―が、対比されるもの。それが3つ以上になれば程度―相対―となってしまう。そして何時の間にか自分までが相対化されてしまうのだ。旅行をしていると自分がスターになれるとヒロイックなナルシシズムに浸る人の話を聞くが、もう少し目を開けると、残念ながらヒーローやヒロインでなく、自分を相対化せざるを得ない。これは旅の宿命である。
そして輪を一歩はずれて「観る」ことによって起こる疑問は、今いる社会と自分との差異、そして相対化された自分のいた社会、そして最後には自分とは何であろうかという素朴な問いかけである。そこから日本の文化を勉強する人もいれば、歴史の本を読み返す人もいる。急に日本画だ、枕草子だ、尺八だと実践に飛びつく人もいる。だから日本の都会の感覚を持って外国の日本人に会うと、違和感を感じてしまうのである。
この町マラカイボにいる日本人の90%は、商業関係、とくに雑貨商が多い。小さいデパート、電気製品取扱い店がほとんどである。そしてまた、今の日本では見られないような古い習慣も残っている。その中でも驚くのは、20代30代は丁稚奉公。それを勤め上げれば暖簾分けをしてもらって、支店を新しく出したとき、そこの支店長になれるという不文律である。考え方によってはとても良いシステムで、40歳になれば自分の店を持てるのだから悪くない。ただ都会人にとってそれまでの20年間、オーナーの家の一室を借りて暮らしていくのは、なかなか難しいのではないか?部屋代、食事代はひとつもかからないが、給料もまた極端に低い。日本の生活を知らなければ良いのかもしれないが、今の現代人にいくら20年後に店を持たせてやるといっても辛抱して待つだろうか?
日本国外の日本人社会の特徴は、土地のものを、どれほど取り入れ、日本古来のものをどれほど残すか、それで決まる。下手をすると、どんどん我侭にもなってしまう。自分の都合で、「ここは日本でないから」ということもできるし「土地が変わっても私は日本人だから」と使い分けることができる。いくら日本人社会といっても暫くは黙ってその社会の掟を見ていないととんでもない誤解をすることもある。
ではこのベネズエラの特徴は何だろう?僕の印象では「荒い」という形容詞がはじめに浮かんできた。
まず車の運転。運転手の手からクラクションが離れることはなく、一方通行を逆から入るのなんてへっちゃら。ストップサインの四つ角は早い者勝ち。大きな道でも平気で突然車を止めてしまう。
住んでいたアパートの前にビクトリアをという名の大きいスーパーマーケットがある。もう毎日のように買い物に行っていたが、そのドアの前にガードマンが立っている。右手に重々しいマシンガンを抱えていつもしかめっ面をしている黒ひげの男だ。またこのスーパーで野菜や果物を買うのは考えものだ。メロンひとつに、セントロの市場の4倍の値段を平気でつけるのだから、ぼったくりだ。
一度図師さんの町へ遊びに行った。そこは古い西部劇を思わせるようにピストルを手にした男たちが歩いていた。レストランで牛肉を注文したら厚さ4センチ草鞋大のステーキがドンとテーブルに投げ出された。サルサの踊りにしても、呼吸とステップを合わせ、一見優雅に見えるが、あのスピードと動きは荒荒しいと形容してもよい魂がないと舞うことはできない。
どの家も、5重6重のドアがあり、その度に鍵が必要だ。車の中にラジオなど置いてあれば、もう30分後には消えてなくなること請け合いだ。半日車を停めておけば、タイヤが4本ともなくなるだろう。
そんな社会のなかで生き抜き、異邦人としてひと財産を築き上げた図師さんは、なぜか都会育ちの僕を気に入ってくれた。僕は断りつづけていたが、このままここに住めば、後継ぎのない図師さんの財産の一億とレストランを譲るとまで言ってくれた。しかし僕の気持ちは動かなかった。レストランのオープンの一週間前に大きなパーティーをやった。その夜僕は不意に高熱が出て、身体じゅうの関節が震えだし、立っているだけで油汗が出てきた。このまま無理をして病を重くしてもどうしようもないと思い、マネージャーに一言告げてアパートに帰って寝るのが明日のためにも最善策だと判断した。後でわかった病名は、溶連菌感染症というリウマチ熱の子分だった。名は長いけれど、尻にペニシリン注射を打てば直る単純な病気だ。その夜図師さんがアパートに帰ってきて言った。「熱が出て倒れるような奴じゃあ使い物にならない。今すぐに出て行ってもらおう」彼のそのときの怒りは身体を真っ二つに叩き割った。図師は、そこまで言っても、実際は僕に出ていかれると店が続けられなくなるし、僕は僕で、言葉もわからぬ異国でどうすることもできず、それから2人の間でずっと冷戦状態が続いた。あの時は殺してやりたいぐらい憎み、憎まれた二人の仲であったが、今は男として感謝している。レストラン「サムライ」のガラス張りの床の間に掛軸がかかっていた。そこには濃い墨で、角の取れたはっきりした文字が真っ白な紙の中央に堂々と座っていた。
常在戦場 日々決戦