メキシコ 二つの国の川
北アメリカの行商の旅に区切りがついた春、僕はついに南極を目指して走りつづけるときが来たことを、生唾をゆっくり飲み込み、自分に言い聞かせた。
古本は全部テキサスのアントニオで知り合ったコックさんのアパートに預け、その他の書類や日用品、雑貨は船便で日本に送ることにした。
愛車のスーパーバン、フォードにこれからの長旅に備えて、三日間に渡る整備と点検を施した。エンジンをきれいに洗い、オイルとフィルターを換え、ディストリビュータとプラグをやすりできれいに磨き、前に新しいクッションを取り付けた。後ろの二本のタイヤも、坊主になった前の二本に取りつけ、後ろにはバーゲンで買ったk-mratの新しいタイヤを履かせた。そして様々な部品やオイルも、いつでも交換ができるように買っておいた。
もう彼との付き合いも10000マイルに及ぶ。1年前、新聞で見つけたボロのバンを550ドルで買取り、フィルとジョーに手伝ってもらってなんとか走れるようにしたジャンクだった。それにペンキを塗り、バンパーには黄色のスプレーを吹きつけ、床にラバーとカーペットを敷き、車が傾いても落ちてこない角度に設計して本棚を取りつけ、油圧系、タコメーター、ライトをジャンクヤードから捜してきた。そこに小説を始めとする古本、漫画を本棚に並べ、ガスコンロ、食料、ラジカセ、ベッド、たんす、時計、ナイフ、工具、ロープ、エバーグリーンの鉢を積みこんだ。1971年産まれの6シリンダー5000ccのアンティックが、いつの間にかいとしくなっていた。
三月になるとアメリカの南部は嫌になるほど暑い。ただどこまでも続く、青い空と一直線に伸びるハイウェイ。そしてこの熱はあたかも生物を拒絶するかのように陽炎となる。人間の、動物の臭いのしない物質的空間。砂漠の上に作られたハイウェイ、街、木々は白々しくなるほど健康的でプラスティカルな色合いを放っている。
四年いたアメリカともしばらくの別れと、ラテンアメリカとの国境街ロレドの最後の晩は、中華料理屋で一人の祝宴をあげた。ミラーが胃にしみわたる。車の中のベッドから頭を持ち上げた翌朝は、コインランドリ-で昨晩会った、メキシコに三年間棲んでいるビジネスマンの助言に従って、近くの学食的カフェテリアへ行った。なぜかここでアメリカドルをメキシコドルに換えてくれる。このあたりでは交換レートが大きく違い、ここが最も良いレートだそうである。もうここからラテンが始まっていた。
川を一本渡れば、そこはもうラテンアメリカである。ここに僕にとって真のアメリカが、地平線の先まで広がっていた。
リオ・グランデ (大いなる川)
乾いた土に砂嵐
やせた土にぺんぺん草
熱い土にサボテン
そこに流れる一筋のオアシス - リオ・グランデ
春告げ鳥が 遥か遠くのロッキー山脈(ブランピーク)の粉雪を
一筋の清く凍れる流れにする。 火照る土を癒し、かなた南国の洋、
メキシコ湾でたわむれる。
人は昔、ロバをひきつれやってきた。
両手の汚れと土を洗い落し、その潤いの手一杯の冷に
汗の止まらぬ額を埋める。
乾いたからだの奥底にジンジンと音をたてて、しみわたる。
水は手の隙間から零れ落ち、人は頭を上げる。
目元はやわらかく
頬は微笑み
口元に象牙の歯をのぞかせ
髭は水の晶で輝く
山羊、ロバ、牛、馬も脚を水につけて深呼吸する
小さな筏はゆったりと昇り、下る
そう、この前までは
今はこの川に両足を入れ、美鈴のつぶやきに耳を傾けるものは誰もいない
柵が張られ おいそれと近づくこともできやしない
おまえはもう、お恵みを与え続けた「川」ではない
男たちによってひとつのものを二つに区切る目印とされた
ぼくは早々とレクイエムを歌い出そうとしていた。
これは浅はかな自然愛好家のとんだ早合点だったらしい。
こんなちっぽけな人間にうんぬん言われる玉じゃない。
今君は「まど」として流れ続ける。力強く音をたてて
この一本の川は人間界のワンダーラインだ。
この川は二つの世界を映す窓である。
あの世とこの世を結ぶシャーマンにはなれないが、同時に存在するふたつの空間を静かに見せる。
僕の目が川の流れと一体となり、両岸のうめきが不協和音のまま僕のからだに流れ込んでくる。その時はこの不協和御が僕の中で耽々と起きつづけるとは思いもしなかった。
今まで続いていたピカピカのアスファルトは、こちら側では所々に大穴のあいた砂利道となり、太陽を照り返すメタリック加工の車は、いまにも毀れそうなエンジンをグオングオン鳴らせたバスとなる。
ネクタイをきっちりと結んだビジネスマンは、埃だらけのシートに身を沈め、胸に鶏を抱く、深い皺の男だ。甘過ぎるチーズケーキとダイエットペプシは、やせ細った鶏の丸焼きの切り身と生暖かいビールに変わる。
この川を渡ったとき、ぼくはタブーを破った少年のように戸惑い、すぐに飛んで帰ろうかと怯えた自分を見つけた。が冒険心、好奇心、エキゾチックな未知への興味、そして体のそこから力強く熱くほとばしり出る何物かが、それを許さなかった。