千里ニュータウン 新しい街のホント        昭和551015

 

ホントのことを知りたかった。

田畑をつぶして山里を削って池を埋めてできた街で育った。

そこから今がはじまった。

 

何百万も人が住む都会だけど、近所には乞食も猟師も漁師も農家もおらず、圧倒的大多数の勤め人と小さな店の自営業の親父とおばさんしかいなかった。みんな個性があって面白くていい人だったのでいろんなことを聞いてみた。 

 

勉強してなにがわかるの?

公害を人間はなくすことができるの?

かっこいい話や劇や音や絵や味って何?

どうやったら金持ちやスターや名士になれるの?

人間は何故生きてるの?

 

親も近所のおじさんおばさんも学校の先生も習い事の先生もクラブのコーチも悪ガキ大将のだれも、私が納得するようなことを答えてくれなかった。 真正面に座ってくれる人もいなかった。 いや一人、狭いアパートの部屋にまで呼んでくれて、太った豚より痩せたソクラテスの話をしてくれた学校の先生がいた。 大切なのは理性よりも心だから、今ならわかるけど、当時はみんなの言葉だけはなにか浮いてるように感じた。

だれもがひとまず学校に行って、それから考えればいいじゃない、と優しくしてくれた。

といって学校に行った人でなってみたいような人がいなかった。 頭でっかちの少年には大人たちの言葉にはワクワクできなかった。 

そう新興住宅地のガキどもは純でか弱く自己愛に満ち世知辛く小賢しく計算高く、いつもワクワクしてないと死にたくなる病にかかっているから。

そんな訳で学校には適当に行ってアルバイトなどするわけだが、疲れて下を向いて歩く深夜の家路には、家族のために働く勤め人のほうがよっぽど格好よく見えた。

学校に行って勤め人になるか、そうじゃなかったらホームレスになるしかなさそうにみえた。あまりに狭い視野だけど。

本も覗いてみたが、知りたかったのは書かれていることではない、目の前に存在して生きているものだった。

ホームレスでもいいか、真理がわかるのなら、とうそぶくことにした。

そうして旅にでることにする。前から準備した通りに。

この世のことわり、宇宙のルール、地球の不思議、ヒトの宿命を知りたい。

ぶつかっているうちに、なにかわかることもあるだろう。貨物船の乗務員になって日本から出航しようとしたが船員免許をとるのに時間がかかるのがわかり、働いて貯めたお金で片道の飛行機の切符を買った。

フレームバックパックと押し入れで使ってたプラスティックの衣装ケースを持って、三里塚で少し疚しい気がしていた成田から太陽が沈む方向よりも出ずる方へと飛び立った。山口百恵がステージにマイクを置いたのを空港のテレビで見て、気が引き締まった。

友人が見送りに来てくれたのが気恥ずかしくて、免税で買ったタバコのカートンをガラスのついたての向こうへ投げ入れたのを覚えている。 そのうちの一人はもうこの世にいない。

意識の奥では、私たちのサバイバルの方法を真剣にみつけだす気で飛行機に乗った。

5年間一度も帰れる事もなく、それから3ヶ月のトランジットの後また2年半という、合計八年かかった第一回目の旅がはじまった。

 

 

 

千里ニュータウン、そして狛江の多摩川住宅

昭和30年代は長屋や文化住宅の一部の庶民にとって団地は憧れの場所だった。

村の掟もない新たな街に未来を思う者があちこちから集まってきていた。

なんでもニューがつけば、すてきだった時代だ。

この時期に新興住宅地で生まれた子供たちは人類の歴史の中で、はじめての感覚を持っているものが少なくない。 それは現代情報文明の塀の中に生まれ育ち、それが当たり前となった者たちだ。それまで都会の外壁は小さく低く、少し外に出るだけで、いや中にも生の自然があった。川がまだコンクリートで覆われておらず、丘には整備された道がなかった。

里山を削り、池を埋め、日本最大のタウンをつくった。10年後に何もないところに万博会場までつくりあげた。 新宿の西はまだ淀橋浄水場で地平線に夕陽が見え、渋谷にはまだパルコもできていなかったから、公園通りは区役所通りと呼ばれていた。

新たな時代の子供たちにとっては、公園が唯一の自然であり、空気や水に思いを馳せなくても生きていける、いやそんなことさえ気がつかない、人類である。そりゃあ、山にスキーやキャンプにいったり、海に海水浴にいったりはした、ただ生活として暮らしたことがない。 これがどんなに大切なことかということは、これからみんな嫌というほど身に染みわたるだろう。 なぜなら新興住宅地で育った子供たちがもう初老どころか、老年期を迎えようとしている今、つらく見えるケースが多すぎるから。 自然と生まれ育った場所を去り、故郷はなく、離散したコミュニティーにつながりはなく、自分の体も家族もいい話が少ない。死んじまったのもいる。大手の社員や公務員以外は生活が不安のものも少なくない。その自称エリート?でさえも、今は忙しさの中に逃げ込んでいる有様だ。

 

新しい街のどこに問題があったんだろう? 便利で、綺麗で、洒落ていて、モダンで、カッコよかったはずなのに。

一言でいうと、効率、便利、心地よさを求めたことだと思う、身も蓋もないことだけど。これはヒトの普通の要求だし当たり前のことだから。 良い事の裏側には必ずいくつかのデメリットがあるので、それに対する配慮をしてこなかったからだろうか。したいことをする前に、しなくちゃいけないことをしてこなかった、ていうことかな。

便利さの怖さを知らなかった、ということかもしれない。それと人間は動物の一部で自然の一部であるという実体験がなく育ってきたということかな。

 

具体的には、共同作業がないこと、借りてきたルール、都市の自然観。

はじめに、家族で楽しく共同作業をした記憶がない。一緒に旅行に行ったり、レストランに行ったり、劇を見に行ったり、運動会に行ったり、文化祭に行ったり楽しい思い出は一杯あるんだけど。

みんなでちょっとは大変なこともありながら、何かを作り上げたりした覚えがないんだ。みんなで役割分担しながら、それで何か一つのものをつくるという。何かを作ること、消費者でなく生産者であること。日常の食べるものでも、商売のものでも、イベントのものでもなんでもよかったんだけど。

次に、おばあちゃんの智慧を引き継がなかったこと。便利さを求め、電気を中心とした器具が増え、これまでの方法は役に立たないことが多くなった、ただ、効率化できるものとできないものを区分して、生命や心や魂や体に対しての智慧もが、新しい考えやモードやシステムに流されて大事にされなかったのは残念だ。 いきなり街が出来上がり、各地から違うバックグラウンドの者たちが集まった街、そこには踏襲すべき掟や法則があるわけではない、土も水も事情も違う欧米や中国から借りてきた価値観をまるで自分のもののように早とちりして、その上にモダンとコスモポリタンの薄化粧をして、急遽新しいルールを創らなければならなかった。 そして、それを疑わないというやり方をはじめた。試しながら選択するのならわかるけど、自己愛が強いからカッコよく行きたかった。まだ20代や30代で家の主人となり親となった移住者、文句を言う親戚も近所の口うるさい長老もいない、自由で新しい生活。

子供を産むにも近くに産婆さんがいるわけもなく、病院に行くしかない。重湯を作ってくれる祖母はいないし、栄養価は高ければいいと思っているから、隣の人も使っていた離乳食を買うのが当たり前になる。手本もなく、昔のやり方を聞くこともせず、「スポック博士の育児書」を片手に、教育雑誌で真面目に勉強する不安で向こう見ずで大胆な人たち、いままでのおばあちゃんの智慧は古臭く効率が悪いと決め込み、欧米の都市生活者の考え方を接木して、自らの手で生み出すよりも、良い情報を得て消費する暮らしを大切にする人たち。無意識の不安を覆うかのように本棚には百科事典とクラシック全曲集と世界文学全集が並ぶ。

本音はだれもここが本当の自分の場所だとは信じられないので、背景が違うのを言い訳として、遠慮して、だれもがいい面をして、真剣に向き合わない。 怒ったり、叱ったり、諭したりしない。当たり障りなく傷つけないようにカッコよくて教養があるいい人でたい。

 

そして最後は都市の自然観、これを中心にしていった者の苦しさと恐ろしさ。これはこれから後の散文でいろいろ書いていくので、だんだんとわかってもらえると嬉しい。

新たな土地に行って生活を始めるものはいい、満更でもない一生を終えるだろう、だが彼らの生き方は個性や自由の可能性などと呼ばれたが、そこから零(こぼ)れたものを省みないやり方は、次の世代に厳しい思いもよらぬ現実を与えている。

時代だったのだ。予想だにしなかったのだ。考えたこともなかったのだ。

大丈夫、ただ少しこちら側からの話を聞いて欲しいだけ。

腹を割って呑もう、きょうは。