「自分」と客観 自分を科学にあけ渡すと、心がない人になっちまう
エッセイ
言葉を使って表現すると 自我 言葉の限界
5つの段階
客観のインチキ 主観と科学
ゲーテとニュートン
主体と客体が変わる時
十牛禅図
この世とあの世 分断と全体 生と死の視点が主観と客観に変化した。
いつごろ、何故?
エッセイ
「わたし」って何? 「わたし」とは主観とも自我とも主体とも呼ばれるもので、今、この世を観ている者、そう今この文を読んでいるあなたのこと。 意識を使うときは、いつもこの「わたし」の視点から他のモノを観ている自分のこと。
でも、あの世から見れば、全体の中の小さな一部でしかない「わたし」。
「わたし」は客観という見方じゃない、
学校で習う科学とも違う。
人工衛星からの見方でもない。
どちらも表面の形しか見えない。
どれも命も住めない場所から自分を見つめようとしているからダメなんだ。
体感ができないんだ。
客観なんて主観の一部でしかないんだよ。
二つは対立しているんじゃない、主観の中に小さな客観があるだけさ。
命と全体と時空間を超えたものは、科学も理性も言葉も届かない世界なんだ。
客観が通用しないんだ。
客観とは外から分けて分断して理解することだから。
主観しか通じないんだ。
そしてその先に不思議な世界がある。
自分と相手が溶けて一つになるところ
次に相手が消えて、自分がどこかに行っちゃうところ。
すると大きなものが現れるんだ。
あの世からのまなざしとは、みんなを一つにつなげる大きな大きな温泉。
科学が迷信と魔術から離れた時に大義名分を勝ち得て、この世を我が物顔で歩きはじめた。
これまでの時代は近代から続いてきた科学ががんばって、形だけを模倣する幻想や組織に喝を入れてきた。しっかりやったよ、しなくちゃいけないことを。
でも自我をアンチしての客観や科学なんて、自分自身が苦しくなっちゃうのはわかっていたじゃない、そりゃあ正義感や乙女の純粋さがでがんばってきたのはよくわかっちゃうけどさ。
だけどもういいでしょう、そんな科学は、こんな世の中になっちゃったんだから。
これからは、ちゃんとした眼(まな)差しの科学や客観が、迷信の合理的根拠や魔術の論理的知性に付き合えるほど大人になれるんだから。
科学とは誰がどこでやっても同じ結果が出ることだけではない。 人によって、その人の鍛錬や技術や意識によって結果が変わる科学がある。
オカルトや啓蒙主義やロマン主義をおそれなくていい、柔らかくいこうよ。大丈夫だからさ、科学さん。
アンチではなくて自我を含んだ他、言い換えれば、自我意識も含まれる全体、すべての生命体、宇宙の誕生からみた星や元素やエネルギーを命としてとらえる科学はもうはじまっている。
この世を偶数で分けて分析してまたくっつけて一つにして見るのではなく、この偶数分裂にプラス1で奇数にして、あの世からこの世を見る眼差しだ。
生まれる前の世界、自分がいない世界、死んだ後にもある世界、ビッグバンの前の世界、生命が誕生する前の世界、虫の時代、哺乳類の時代、人類がまだ猿人に近かった時代、赤ちゃんから見た大人の世界。
石から見た生き物、川から見た社会、雲から見た人間界、成層圏から見た生命体、星々から見た太陽系。
人工衛星から見た地球ではなく、月になっちゃったあなたが見た地球。
これは一つの悟り、でもそんなにすごいものじゃない。 だれだってこの眼差しには簡単に経験できるから。
大切なのは悟りの視点を得たことではなく、毎日を悟り続けて生きることを難しいけど積み重ねることだから。
言葉を使って表現すると 自我 言葉の限界 意識はどのように培われてきたか?
言葉を使う、ということは「わたし」や自我が生まれてしまう世界だから、いつも「自分」から辺りを観まわして話が進められていく。
「自分」が主人公なので、周りのモノのことを話す時は、客観的な表現が好まれる。だって「自分」は自分の好き嫌いと各自の経験で好き勝手なことを言い始めるから。
数学や機械学にはこれで十分なんだけど、命や時空や「一つ」の話になると、言葉では捉えることができなくなってしまう。
分けることができるものはなんでも言葉にできるんだけど、分けることができないものはあえて言葉にすると、という気持ちを持って接するしかありません。だって目を閉じて、手を胸と腹において、感じてみれば、「自己」だって、本当はないんだから。自分は生命体と同じように、分けたら死んじゃうものだから、分けて「自己」にすることはできないけれど、話が進まないから仮の姿で自分を表しているに過ぎないんだよね。
日本の美学の「わび」の気持ちで表現するしかありません。おわびして、本物は出せないけれど、その方向性を示すだけ。
これが言葉の限界。
時間と空間はつながっているものなので、分けることができないので、本来は言葉で捉えることができません。
ですから、アウグスティヌスは「時とは何か」という問いに、「誰も私に問わなければ、私はそれを知っている。誰か問う者に説明しようとすれば、私はそれを知ってはいない」と書いています。
普通は時間といっても時計の針の時間でお互いに通じるからこれでいいのですが、量子力学や物理学などで精密に話をしようとすると、時計の時間だけでは、時について語ることができません。相対性理論のように、光に近いスピードで進むと空間が縮んじゃったりしちゃいますから。
分ける前の世界では、意識にものぼらないが、時のことを知っている、と確信が持てる。
ところが、対話ダイアローグを通じて、分けてしまえば、自意識では知ることができない。
5つの段階
世界 |
|
数 |
哲学 |
美学 |
アーシュラマ |
観点 |
|
1 |
幼児期 |
未分 |
カオス |
成長 |
学生期 |
主観 |
|
2 |
青年期 |
2 |
二元論 |
正義 |
家住期 |
客観重視 |
|
3 |
壮年期 |
2→1 |
相反一致 |
義 |
林棲期 |
主観=客観 |
|
4 |
老年期 |
1 |
一元論 |
往生 |
遊行期 |
主観消滅 |
|
5 |
生前 死 |
1も2も |
空論 |
再生 |
涅槃 |
大きなもの |
|
1 未だ分かれていない状態
分かれるにつれて主観を重視
2 二つに分かれた状態
主観ばかりではまとまらないので客観を重視 他者との比較 他人の意見 平均値の考え方
3 分かれたものが一つである状態
主観と客観に分けたがコインの裏表であることに気づく 主観と客観が一緒に溶ける
4 分ける必要もない状態
主観でいたつもりが、客観になっていた 主観と客観が入れ替わったり消えたりする
5 分けることも分けないことも大切な状態
主観であると同時に大きなものの客観でもある 主観がなくなる時もある時もある
主観から客観へ 不確定(特殊性)から科学(普遍性)への移行
魔女裁判と宗派戦争(宗教戦争)で共同体が破壊されました。
ここで注目するのは内から外へは逃げることができない枠の中での争いをしたということです。
魔女裁判ではキリスト教徒でないことは魔女となり殺されました。カトリックとプロテスタントの宗派戦争は同じ宗教内での争いで、外に新たな世界を作ることはせず、同じ聖書の共同体にいることでした。昔話、神話、子守歌、風習をシェアした者同士の争いなので、外を作ったり、外へ逃げることはしなかったのです。
同じ枠の中で闘い、その枠の内側で争いを集結するためには、内側にいる主体たちの違いを認め、共通のルールを必要としました。
なぜ内側にとどまらなければならなかったのか?というのは別のところで説明しますが、ここでは主観と客観の関係が変化せざるを得ない背景に注目しましょう。
プロテスタント以前では一つの主観から客観を見渡すのがマジョリティーでした。一つの視点で全てを理解しようとする文化圏の人々の中で、他者に譲ることのできない考え方が生じました。それは神との関係で、自分の命よりも大切なものは共同体ではなく、意識から生じた自意識であり、そこに神がいると認識しました。プロテスタントの誕生です。そこで宗派戦争が始まったのですが、他を認めない自意識は、他との関係を結ぶことができないので、戦争は終わることがありません。しかし30年も経てば、体の方が悲鳴をあげ始めました。このままではもう体は持たないことを自意識にもやっと理解し始めました。ここで戦争を終結しなければならないのですが、困ったことが起きました。主観である自意識が十人十色であるばかりか、そのいくつかは自分の主観以外は絶対に認めないと今でも臨戦態勢です。ここで、でてきたのが普遍性です。共通の認識というベースが必要でした。誰でもどこでもいつでも通用するものを核にして和平交渉しないと、戦争を終わらすことができないと思ったのです。この時に自意識を緩め、他も認めるという自意識にさせる技は残念ながら発揮されませんでした。一番安易でお手軽で愛の無い方法が取られました。外側の衣は普遍性と科学と客観性でできていますが、内側は言葉という形に囚われてしまい、情感と体の本能には蓋をされた無機質なものでした。私たちは有機物なのに。
これで新たな関係を生活に取り入れるようになりました。客体である観られるモノが普遍的で科学的であり、個によって見方の違う主体よりも価値が高いという勘違いがはじまりました。判断の基準を主観から客観に明け渡してしまい、自分で責任を取ることをしなくなる、心のない人々の時代が誕生してしまった。
客体は主体が観たモノでしかないので、いくら客体が普遍的であり科学的であったしても、それは主体が観たモノでしかありません。またこの普遍性や科学というものは、生命体ではない無機質においての思考法なので、有機質である生命体はその場所(各時空)における特殊性の中でしか存在し得ないのです。事件は会議所ではなく現場で起きている、ということです。
例えば、一人の旅人が長い道のりを歩いてきたとします。自分の歩いてきた道をよく見るとそこには普遍性や科学の法則が見つけることができます。しかしその普遍性や科学の法則を道しるべや目標にして進むものではありません。それが最善だと信じこんでその道を進み、多くの人の血が流されました。そして、これからも流されます。進む力は主観の中にあります。もっと正確に言うと、客観と関係を持った主観です。
そんな主観についてこれから探求していきたいと思います。
主観と客観の関係のいろいろ
青年期の時代
観る者が一なるものを二に分化する 無知からだんだんと細部が認識できるようになり、知識と認識力も分化する 単純から分化するのが観る者
観られる者 モノから観る者によって意味あるものに昇華される バラバラなものは観る者によって統合される
視線を仲介した内側(観る主体)は「一つのもの」を分化し、バラバラな外側(観られる客体)は内側によって統合する。
様々な違いの中から共通点を見いだすことによって統合化する。 分化したものから「一なるもの」へと意味の結合を繰り返し、最後には物質も意識も区別のない源流の世界へと回帰できる時がある。
これはこの青年期の時代の特徴であり、エクスタシーだ。
ところがこの主客関係にも限界がある。
意識と固定化
特定の興味のあることに対して、新しい意味や重要性を見出したいとヒトは思います。
その時には他のことには関心が及ばない。関心のないことはできるだけ、オートマティックに機能するようにしておきたい。五官と意識のインプットから行動のアウトプットの過程で、いろいろと状況や処理の仕方を変化させる流動するものより固定化したほうが便利。なぜって本気で考えるには労力が必要だからです。 ですから無関心と、通念を踏襲し常識を採用することとは根は同じで、インからアウトまでのプロセスをできるだけ自動的にして、意識を使ってTPOに合わせて考えることをしないようにするということです。
法則を重視してそこから現実を見ようとするのは、相手の状況を考えるという労力を使わず、自動的に通用するものが欲しいからです。分業化が進むと関心があること以外は常識や通念で固定化するのが便利な時代です。
こんな人たちの特徴は、
自然界を開発の対象にしてしまう。
自然界や現象が自分の考えに従属するものだと思っている。
自然界は人間にとっては便利な道具でしかなくなっています。
観る者と観られるモノとの関係を固定的にとらえてしまっています。
観る側が絶対であるという強硬な姿勢がなせる業で、ユートピア信仰や強迫観念症や幻想や妄信的な姿勢な人が多くなります。
自然界には直線も三角形も円もありません。理想の形を理念といいます。プラトンはこれをイデアと呼びました。理念にあわない現実はノイズであり、できそこないと考える癖がついてしまった人です。
主体の視線を固定すれば、そこから見えるものには秩序があるが、視点が変わればこれまでの秩序はなくなります。例えば満月を肉眼で見れば、綺麗な円ですが、望遠鏡で見れば、円の弧はクレーターで凸凹しています。
ゲーテ 対 ニュートン ウォルター・ハイトラー 人間と自然科学的な認識
色彩を帯びた影 と 電波 はそれぞれの方法で解明することはできない。
色彩論と物理学 この二つを統合する科学が必要である。
ニュートン
色とは光によって導かれる現象の一つです。光がなければ色は存在できないのです。
科学が求めているのはこうした普遍の真理です。
ゲーテ
色は自然の中にあります。
人間の目を通して景色を眺めるとき、そこに色が立ち現れるのです。
科学は人間のため、人間があってこそ存在します。科学的な真理とは自然と人間の間にあるのです。
ゲーテの色彩論 farbenlehre
プリズムで光は色に分かれなかった。色彩を生じさせるためには境界が必要なのだ。
光は闇から生み出される 色はこの二つの境界線の中にある
ニュートンよ、暗室から出て太陽の下で光を見ればいい。
「友よ、暗室を離れたまえ、光を歪める暗室、複雑怪奇な像にひれ伏せるばかり、あの惨めな暗室」
現代でもニュートン光学では分光器によって数値化した後に統合して色を決める
色の研究は人間の目を通して行うべきである。
ファウスト
光は闇から生まれた。母なる闇と光は本家争いをしているが勝ち目はない、何故ならば光は物質にしばられたものだからである。
人間の目の仕組み
色彩を帯びた影 夕焼けの時の影が緑色になる。
錐体は色を感じる (稈体は光の強さ) 赤と白の光線がまじった影は赤色の波長が交じり、これに錐体が反応して、補色である緑や青色を作り出し大脳皮質に信号を送る。
ベンハムのコマ
白と黒色のコマを回すと、色がついているように見える。回転数により色が変わる。
主体と客体のゆらぎ 王様と民衆 太陽と月
意識からこの世を見ることを主観と呼びます。ぼんやりした気分の時や夢を見ているのも主観です。
ここに新しい主観の考え方を持ち込んだのが、16世紀のプロテスタントです。意識の中にある自意識に焦点を当てました。ぼんやりしている時や夢を見る視点を主観からのぞき、理性によってできた理念や体験を主観と言い換えました。そして、この主観が、すべての意味を定義する中心としました。 唯一神の父なる神のように。
世界でまどろんでいるもので、意識化(他との共通性や普遍性が見つけられるもの)できないものは、意味を持たないものとして、意識の外に置き(無意識)ました。そしてそれらを無視することで、新しい定義の主観ができたのです。
意識から生まれる自意識を、まず第一として、そこから生まれる理念からこの世を見ることをはじめました。
そうして、自然界はこの自意識に従属するものとして捉えます。
物理学の法則や数式はイデアとして捉えることができたので、自然界も同じようにイデアで理解できると、自意識は考えようとします。
自意識は観る者なので、一つのものを分化させるのが役割なので、そうなってしまうのは当然です。
言葉とは意味がありルールがあるということです。四本足でヒゲがあってミャーと鳴けば、猫だというように、各種の共通点を探し、それで纏(まと)められるものに名詞をつけ、意味づけできます。
ノイズに焦点を当ててみる世界
ノイズはイデアから逃れた余分なものです。ところが、もしくはだからこそ、ここに新しい発想の芽がある。
ここで仮説を立てます。ノイズとは異次元のものがこの次元に侵入したのではないか?と。
ノイズが異次元では秩序あるものだとしたら、この次元でノイズであるとしても、切り捨てるのではなく、異次元の秩序について想いを馳せてみませんか?
ゴミや破綻や病気や失敗や落胆は秩序という観る側にある意識にとっては汚点ですが、次の世界からのメッセージだという考え方もできます。
例えば、荒野では羊の糞は植物のノビルから見れば、天の恵です。栄養の塊ですから。視点が変わるとゴミが宝となります。
自意識とは自分自身という意識です。「わたし」は、と思うと自分がいるし、「わたし」という主語に使わないと、自分がいない世界観を語ることになります。 自分を意識するかしないかの違いです。
自意識はいつも観る者です。だから自意識自身のことはあまり考えようとしません。自分自身は見ることができませんから。鏡を見たり、他人に指摘されない限り。
自分を意識していない時は、何かに夢中になったり気になったり心を奪われたりボーとしている状態です。一日24時間のうち自分を意識しているのは3時間もないと言われています。
観る者である自意識はそんなにいつも全部をしきっているわけではないのです。
デカルトは「我思う故に我あり」と自意識の絶対と支配権の強さを書きましが、実際は、そんな時も一日なかで時々あるというのが私たちの生活です。散歩やコーヒーを飲んでいて、何も考えていない無意識の時間ってあるでしょう。いつも自意識で周囲を支配しているのではなく、周囲によって自意識が影響を受けている時間も多いはずです。実際にはほとんどこれです。周囲が自意識よりも優位にあります。
人(特に両親や学校の先生)に言われたことを日常生活で実践している時に、「自分は主体的に生きている、自分で考え、自主的に自立している」と思い込んでいる人は多いです。が、実際は集団の共通した考えに従っているだけのことも多くあります。
自意識が観ることができないものから、強く影響を受けています。無意識と呼ばれているものです。
それは体の本能行動、情動の条件反射、そして社会の無意識です。
ヤコブの梯子の法則 カバラ 創造の三つ組の等級連鎖
ヤコブの梯子の逸話があります。旧約聖書の創世記28章12節でヤコブが夢に見た、天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子(あるいは階段)のことです。
このメタファーは中世の職人の師弟間でもよく使われたものです。
師の教えを受け継いだ者が、次には、、次世代の人に教えを積極的に強く布教する。
受動だった弟子が、次のステージでは能動となって師となる。
受け継ぐつという結果により、客体が次には主体になり、新たな枝葉を伸ばしていくのが、ヤコブの梯子の法則です。
これは創造の原理で、意識発展の過程と同じ構造を持ちます。
生命体の子供の産出から、日本の神話に至るまで、いつもこの主体と客体と結果による新たな主体という連鎖する三角形ができます。この主体、客体、その結果の三角形をつくり安定性を作り上げています。
また、この連鎖を見ると、客体があとでは主体になり、主体もまえでは客体でした。
これらののことから、しかし普段はこんなことを意識していませんが、純粋な主体はなく、主体を生み出したものがあることがわかります。どんな主体も前の代では受動的なものであり、また客体もその中に主体を持っている、ということです。分断された時空間ではなく、つながりの時空間でモノを見ると、主体も客体であるという、ことが実感するようになります。
純粋な理念も実は存在しません。例えば純粋な自由などは存在しません。あるように感じられるのはほんの一瞬の小さい範囲の中だけです。長い期間にその範囲の外に出ると自由は消え去っており、新たな自由ではないことの中にいることがわかります。そう、なんでもすべてのつながりの中にある。
これは仏教における「空」について説いたナーガルジュナの『中論』にも同じ考え方が根底に流れています。
われわれの心にはつねに瞬間瞬間で「空・仮・中」という三つの観点が集中しているという見方で「一心三観」の会得です。
世界や自分から形やはたらきがあらわれるときは、それは「仮」となり、
形やはたらきが隠れるなら「空」となり、
この両者が融和しているときは「中」となるという、
摩訶止観です。「仮のまま、空のまま、中のまま」でいいという教えです。
仮の主体の状態、空の主体がなくなって客体となった状態、中の主体であって客体でもあるという状態はヤコブの梯子の例えと共通性があります。
このつながりの感覚を得て、その中で生きるにはいくつかの方法があります。
ここで大切になるのが順番です。これを間違えると人類史上で繰り返されてきた粛清や虐殺をしてきたカルトと同じ結末を辿ることになってしまいます。
上記の表をもう一度見てみます。
|
|
細胞数 |
アーシュラマ |
1と2 |
生活 |
他と主観 |
哲学 |
美学 |
観点 |
1 |
幼児期 |
2→ |
学生期 |
1→2 |
経験 |
共感 |
カオス |
成長 |
主観 |
2 |
青年期 |
60兆 |
家住期 |
2 |
論理 |
言葉 |
二元論 |
正義 |
客観重視 |
3 |
壮年期 |
60兆 |
林棲期 |
2→1 |
術・道 |
陰陽一致 |
相反一致 |
義 |
主観=客観 |
4 |
老年期 |
60兆→ |
遊行期 |
1 |
ボケ |
非分化 |
一元論 |
往生 |
主観消滅 |
5 |
生前死後 |
0 |
|
1も2も |
|
|
空論 |
再生 |
大きなもの |
上から下に行くのが順番ですが、大量殺人をするグループはどれも3をすっ飛ばして、実践することのできないイメージだけの4で人々を偽って、これに異を唱える者たちを抹殺してきた歴史を持ちます。
だから2から3へのスムーズな移行が最も大切なポイントです。
いくつかの方法があるのですが、まずは2の世界で準備をする必要があります。
主観の準備運動
それは主観を複数もつということです。
複数の主体性を持つことによって、厚みのある自意識をつくり、多次元的にして、宇宙的な全体性の中で生きることができます。多くの自意識は、視点が人工衛星や父なる神と同じで、すべての中心は個としての主体にあるという単一次元化されてしまっています。まずは複数の主体をもつことで葛藤した緊張感の中で暮らす人たちの自意識にマッサージしてあげて緩めてあげることが大切です。
例えば、彼ら自身はほとんど自覚していないのですが、欧米の人達はいまだ精神の鎖国状態を続けています。大航海時代以降は世界を荒らし、植民地をつくり、略奪と貿易を続けていますが、やっていることは 安いものを仕入れるだけです。イスラムや他民族を考慮に入れる価値はないとして腹を割って付き合うことはなく、故意に無視し続ける自意識で外の世界と付き合っています。
主体と客体が入れ替わったり、両方向から影響を与える状態は、多重の重なりを意識しなければならないので、単一化させて主体を固定させて、関心を集中化させる技術に特化したのが自意識を大切にするプロテスタントの手法です。客体を物質を主とすることにより、主体をもっと固定化されました。変化するものや生命体ならば、主体も影響を受けてしまい、主体が変化していってしまいますもんね
西欧がはじめから単層だったわけではありません。多層から単層にするために、目の前でしていること以外は存在しない、と視点を一つにして狭くするという手法を取りました。確かにこれは面白いやり方で有効ですが、この方法だけで生きていく必要はありません。
自然に対して優位に立つ人間という考え方。これを簡単にモデル化すると他に対して優位に立つ自意識ということです。ですから、体に対して優位な意識、感情に対しての意識、他人に対しての自分、公よりも私といろいろなTPOでこの考え方が実践されます。この考え方のパターンも現実の一つですが、こればっかりでは心の休まる時がありません。ストレスが大になって体が強制休止を意識に命令して、ブレイクダウンさせて休養させてしまいます。
大切なのは、主観と客観の揺れです、柔らかさです、緩み具合です。 例えば呼吸のように、まずは息が出てから入ってくるといった注意が必要です。吸ってばかりいたら過呼吸になってしまいます。
500年続くこの自意識の主観とは、これほど硬くなってしまっています。
この中で西欧人たちが努力しなかったわけではありません。例えばニーチェは主体を離れて、ディオニュソスの時間の中に入ることを説きました。しかし多くの哲学者たちの言うことは、結局は自意識(自我)から見つめている単一の視点でしかありませんでした。例えばフィヒテのように、主体が客体の中に溶けていき、一体化して無の領域に入るという考え方も、いまだ主体から見た世界です。
学問の世界でこの問題に関わるのならば免疫学がお勧めです。自己がは非自己から生まれてきます。胸腺の役割を学ぶと主体と客体の関係に新しい視点が加わるかもしれません。
主体と客体は連鎖しているので、上下の果てしない等級の連なりにいることが感じられると、個人の意識は大きな全体的な宇宙の運動の中に正確な位置づけを持つことができ、自意識から幽閉されにくくなります。
愛する人
次に主体と客体の固定化された方法を緩めるのは、自分の愛する人の生まれた時から現在までを一緒に追憶して、彼の必然性を一緒に体験することです。そうすることによってその人の条件反射や正しさも理解することが少しはできるようになります。
これは主体の一つだけの観点でこの世を見ようとしているのではなく、愛する人である、主体にとっては客体によってこの世を再現してみよとすることだからです。
そしてもしあなたが、自分たちの共同体の枠から外に出たりしようとするならば、次には自分が好きではない人たちの「正しさ」もその人の立場になって理解することが大切になってきます。
主体にとっては理解できないことがらでも、客体の目線で生き直すことをしてみることが本当に大切なことになります。
主体が消えると
最後には、主体が消えてしまい、思わぬことが起きるというお話です。
主体は客体がないと、自分の存在に自信を持てなくなり、客体を探します。両方がないと意識は働かないのです。なにか外(外界、客体、意識の外化(サルトル))にあるものに向かって意識が働くことによって、自意識は存在できます。
意識の働きは二つの世界の差成分によってできています。二つの違う世界の大きな格差が意識の生まれる根源です。
例えば、暗闇で何も見えないものを見続けてみます。眠ってはダメです。眠るとは主体の休止だからです。
客体である五感からの刺激の負荷が減ると、主体は勝手に自分の望むところに向かいます。主体はあらぬ夢を見始めるのです。
客体とのかかわりをはずすことにより、主体が空中にブラブラの状態になります。
これは古今東西で行われてきた方法で、陰陽、ヒンドゥー教、チベット仏教、デルフォイの巫女の瞑想法も同じ主体と客体の関係の訓練をしてきました。
この時に出会うのが、「主体の後ろにいる主体」です。主体は観る者なので、それ自身が見えなかったのですが、客体がなくなることで、主体の観る者として役割がなくなり、主体自身が観られる客体の役割をする可能性が出てきたのです。そしていつの間にかほかの大きなもの(主体)が現れて、自分の主体は、その大きなものに観られることが起こります。主体が客体になった瞬間です。自意識が積極性だけではなく受容性を重ね持つことができました。
主体の維持に強いプライドがあると、主体を客体として扱うこと自体が許せないので、このような体験をすることができません。
今までは主人だった人が従者になることを受け入れることができれば、大きなものと出会うことができます。
生命圏の連鎖から切り離された孤立した人間から、宇宙のはじまりからの連鎖の「伝統」の世界に回帰することになる。自分より前があり、自分よりも後があるという生命の連続性です。
禅には十牛図(じゅうぎゅうず)があります。
禅の悟りにいたる道筋を牛を主題とした十枚の絵で表したもので十牛禅図(じゅうぎゅうぜんず)ともいいます。中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵(かくあん)禅師によるものが有名です。
以下の十枚の図からなる。ここで牛は人の心の象徴とされる。またあるいは、牛を悟り、童子を修行者と見立てる。
1. 尋牛(じんぎゅう)
- 牛を捜そうと志すこと。悟りを探すがどこにいるかわからず途方にくれた姿を表す。
2. 見跡(けんせき)
- 牛の足跡を見出すこと。足跡とは経典や古人の公案の類を意味する。
3. 見牛(けんぎゅう)
- 牛の姿をかいまみること。優れた師に出会い「悟り」が少しばかり見えた状態。
4. 得牛(とくぎゅう)
- 力づくで牛をつかまえること。何とか悟りの実態を得たものの、いまだ自分のものになっていない姿。
5. 牧牛(ぼくぎゅう)
- 牛をてなづけること。悟りを自分のものにするための修行を表す。
6. 騎牛帰家(きぎゅうきか) - 牛の背に乗り家へむかうこと。悟りがようやく得られて世間に戻る姿。
7. 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんにん) - 家にもどり牛のことも忘れること。悟りは逃げたのではなく修行者の中にあることに気づく。
8. 人牛倶忘(にんぎゅうぐぼう) - すべてが忘れさられ、無に帰一すること。悟りを得た修行者も特別な存在ではなく本来の自然な姿に気づく。
9. 返本還源(へんぽんげんげん) - 原初の自然の美しさがあらわれてくること。悟りとはこのような自然の中にあることを表す。
10. 入鄽垂手(にってんすいしゅ) - まちへ... 悟りを得た修行者(童子から布袋和尚の姿になっている)が街へ出て、別の童子と遊ぶ姿を描き、人を導くことを表す。
巻子、画帖など、また掛幅1幅に10描いたもので、ほとんどが絵のみで、文字をまじえない。中国伝来のものもあるが、日本の室町時代以後の禅僧、また絵画の各派の画人によって制作されたものが多い。
参考資料
ブーバーは「我」それ自体というものがありえないというところから出発した。「我」がないのなら、「我」という存在もありえないというのである。
では、何があるのかといえば、存在するのは根元語の「我−汝」という根本的な関係をあらわす言語概念性だけがある。これが交互性(Wecheselseitgkeit)あるいは相互性(Gegenseitigkeit)とよばれるものである。
しばらく、ぼく自身がブーバーとなって、本書がドイツ語的に進行させている内実を半ば日本語に置き換えて、諸君のブーバー体験を代行したいと思う。
われわれは何かを経験しつつあるとき、世界には関与していないと知るべきである。経験とはわれわれの内部におこることであって、われわれと世界の「あいだ」におきることとはなっていないからである。
では、どのようにすれば「あいだ」に入りこみ、世界と向きあうことができるのか。まずは、私という我の中に汝を見出すべきなのだ。そうすれば、私の我は汝のさまざまなモノやコトによって成立している光景に出会うにちがいない。そうだとすれば、経験とは実は「我からの遠ざかり」であって、それが了解できれば、次には私の我が「汝からの遠ざかり」であろうとしたときの「あいだ」に逢着できるはずなのである。
しかし、私が我と汝に出会うのは、探索などではおこらない。私が根元語を私の中の汝にぶつけることによって生じる恩寵をいかすしかない。この恩寵は「存立の岸辺」のようなところからやってくるものである。
これをようするに「汝を言う能力」(Dusagenkonnen)とも「関係の中へ歩みいる」(In-Beziehung-treten)ともいう。
こうして、当初に「関係」があるわけなのである。これは原始人のことを想定すればよい。かれらには主体も客体もなく、主語も対象もなく、そもそも「我−汝」すらおこっていなかった。しかしながら、それは逆にいえば、どんなことも「我−汝」の関係から始めるしかなかったということなのである。
ということは、原世界(Urwelt)とは関係の始原であるということだ。「現身(うつしみ)の母」ということなのである。われわれのすべての対話は、この「現身の母」との、原世界との対話なのである。そして、このことが了解できたとき、われわれは、われわれ自身の内に「生得の汝」がいることに気がついていく。それは擬人化ではなく、われわれ自身における「我−汝」の恩寵的交代なのである。
以上のことを、世界は人間にとって人間の二重に応じて二重なのであると、いう。
個の歴史と類の歴史は、どのようにその外見が異なろうとも、そこには関係がある。我(自己)と組(組織)との相違性にも関係がある。
けれどもわれわれは、自身を「我」と呼びながら、歴史や組織を「それ」とよぶ。それらの両方を「共に在る」とよぶ力をもってはいない。なぜなら、個にとって類の歴史は外部であり、我にとって組織はいつでも外部化できるからである。が、この錯覚を除去しようとしたとき、初めてわれわれはこの両者のあいだの「感情」をもつことができるのだ。
この感情がつくるもの、それは「汝の境界線」を生ける中心として、そこに向かう者たちのズレを頼みに「あいだ」をつくり、その「あいだ」にそれぞれが生ける相互関係を立たせていくということである。これが感情が生み出す「真の共同体」(Gemeinde)というものではなかろうか。そうでない共同体が理想だというのなら、その例を持ち出してもらいたい。
哺乳類のような高等動物には、人間と同じように「自己・他者」の区別を付けることができるのでしょうか。これは、世界中の学者たちが研究をしているのですが、未だに決着が付いていません。動物にもそれができると主張する側には、どうしてもそうとしか考えられないといった結果が山ほど見付かってはいるのですが、これといった証明がまだありません。
何故、人間の脳が言語を扱うことができるのか?「言語中枢」という明らかな解剖学的違いかあります。ですが、どうして「自己を認識できるのか」といった理由は、他の動物の脳との解剖学的違いは特定できません。つまり、人間も他の哺乳動物も、「情動を発生させる機能」と「考える機能」は全く同じものだということです。
とすると、人間以外の他の高等動物にも「死を恐れるための機能は備わっている」、というしかありません。
中国仏教における「空」は、天台と華厳と禅においていっそう独得のものになる。
天台では北斉の慧文がナーガルジュナの『中論』を読んで愕然と悟り、「一心三観」を会得した。われわれの心にはつねに瞬間瞬間で三つの観点が集中しているという見方である。これが天台大師智をへて、「空・仮・中」の三諦止観や三諦円融の思想になった。
世界や自分から形やはたらきがあらわれるときは、それは「仮」となり、
形やはたらきが隠れるなら「空」となり、
この両者が融和しているときは「中」となるという、
有名な摩訶止観である。
「仮のまま、空のまま、中のまま」などという。
華厳の法蔵による「空」の議論はさらに大胆で劇的である。またまた色即是空の話を例にすると、法蔵の『般若心経略疎』は「色即是空」を二別して止揚するという方法をとっていた。『般若心経』の色即是空は、よく知られているように、次の4段階のステップを踏んでいる。法蔵はこの4ステップそのままに「空」の議論をそこへ内蔵してみせた。
(1)色不異空(色は空に異ならず)
(2)空不異色(空は色に異ならず)
(3)色即是空(色はすなわち、これ空なりて)
(4)空即是色(空はすなわち、これまた色なり)
法蔵はこの四句を「空をもって色をのぞむ」と「色をもって空をのぞむ」に分けて考察し、そこにそもそも自と他の関係が、「合わせれば一つとなるような関係」のように潜在して、その自他を補償しているとみた。まるでメルロー=ポンティである。
その考察ぶりを集約すると、
(1)では、自は「空」を他は「色」をさす。こうすることで、法蔵は自である空を否定することが、他である色を成立させると考えた。
(2)では他である色が“眠っている”とみなし、自としての空があらわれると考えた。それが
(3)では自と他、すなわち空と色とが同時に成立し、
(4)ではその自他がともに“眠る”とみた。
ようするに、最初に空が隠れて色が現れ、色が隠れて空が出現し、色と空がともにあらわれ、ともに隠れていくという展開を想定したのである。この色即是空が出没するところが、華厳にいう「法界」になる。
スピノザを解く鍵になる。『エチカ』は冒頭に「自己原因」という概念の定義から始まっているのだが、そしてそれが『エチカ』全体の魅力になっているのだが、その魅力は同時にスピノザの思想から生い立ちまでを含む問題の大半を象徴的に解こうとしているかのようなのだ。
【主体性】
1 現代哲学で、存在論的に意識と身体をもつ存在者であるとともに、倫理的、実践的に周囲の情況に働きかけていく個体的な行為者であること。
2 行動する際、自分の意志や判断に基づいていて自覚的であるさま。また、そういう態度や性格。「主体性がある人」
しゅたい‐てき【主体的】 〔形動〕
1 他に強制されたり、盲従したり、また、衝動的に行ったりしないで、自分の意志、判断に基づいて行動するさま。自主的。
【客体】
主体の意志や行為の対象となる物。意志や行為が及ぶ目的物。かくたい。
【主観】(英subjectの訳語)
1 体験、認識、行動の対象に対して、体験し表象し思惟し認識し感動し意志する存在。主体。また、その意識
【主観主義】
1 哲学で、真理、認識、道徳的価値、美的価値などが主観のうちにあるとする立場。人間の価値判断が、ただ個別の主観が対象にどのようにかかわるかということだけに依存しているとし、厳密な普遍妥当で客観的な判断や価値判断はないとする立場。ソフィストの相対論、バークリーの観念論の類。⇔客観主義。
2 社会事象が主観的、恣意的に形成されるとし、主観的要素を過大視する観念論的社会学。マルクス主義でいう。
3 刑法理論上の一つの立場。犯罪の外形的行為とその結果を重視する客観主義に対し、行為の主体である犯人の意思、反社会的性格、危険性を重視して、刑法的価値判断を下そうとするもの。刑罰は、この悪性を改善し、社会をその危険から防衛するためのものであるとする。⇔客観主義
しゅかん‐せい(シュクヮン‥)【主観性】 主観的であること。主観的である性質。⇔客観性
しゅかん‐てき(シュクヮン‥)【主観的】 〔形動〕
1 主観に基づくさま。自分だけにしか通用しない、ひとりよがりなさま。
2 表象、判断、評価が、個々の人間や、人間間の心理的性質に依存しているさま。客観的存在にはかかわらない。⇔客観的。
しゅかんてき‐かんねんろん(シュクヮンテキクヮンネンロン)【主観的観念論】 哲学で、事物の存在は、個人の主観がもっている表象または感覚内容にすぎないとする説。バークリーの観念論の類。
しゅかんてき‐ひひょう(シュクヮンテキヒヒャウ)【主観的批評】 外的な基準によらないで、主観的印象を主として行う批評。印象批評。鑑賞批評の類。
【魂は、身体に対する無意識の機能の総計による仮設なんです】
ここでラカンの「鏡像段階」仮説を紹介しておく。これは1936年に自己(自我=私)の機能を構成するものとして“発見”されたもので、生後1年前後の乳幼児が「鏡」ととりむすぶ関係から推察された。『去年マリエンバートで』というアラン・レネのモノクロ映画があったものだが、そのマリエンバートの学会での研究発表のときだった。
乳幼児はまだ神経系が十全に発達していない。身体感覚が全身に届いていず、したがって自己受容知覚も統合されていない。そのため乳幼児は、いわば「寸断された身体」の状態にある(ぼくは必ずしもそう見ていない。むしろハイパーボディ状態にあると見ているが、まあ、それは別の話としておく)。
で、乳幼児の全身感覚が未発達なのにくらべて視覚はけっこう発達しているため、鏡に映った自分の映像と対面した乳幼児は、ラカンの言い方によれば「彼自身の映像と世界の映像の光学的な関係による諸知覚を処理して、彼自身の像を世界の中での特権的な地位を占めるものとして認知する」(難解な言い方だねえ)。こうして視覚が先取りした映像の上に、あとから自己の能動性の中心が仮託され、そこに「私」という自己中心が発生してしまう。
これが有名な「鏡像段階」仮説だ。これをどう解釈するかはさておいて、この仮説をラカン自身がどう意味づけているかということを書いておく。3つに絞っておこう。
第1には、われわれは幼児期のみならず、つねに身体的な未統合状態にいるのではないかということだ。これは誰しも心当たりがあるだろう。
とくに幼児期の知覚のアンバランスから生じた自己映像性の漠然とした確立は、その後の自己形成のモデルとして大きく作用して、よくいえば、自分の欠陥やアンバランスを克服して理想的な自己像を求めるという意識を発達させるというふうになる。けれどもこれは実際の自己像とのあいだに亀裂があることを確認することにもなるので、そうとうな緊張を強いられる。この緊張を維持しながらも亀裂を突破していければよいけれど、それで何度も挫折しているうちに、かえって自己像そのものを喪失しかねない。これも心当たりがありますね。
ただしここで、「鏡」とは実はひとつの例示であって、実際には母親の体との相対的比較や、両親兄弟親戚の言葉による自己映像の予想なども次々に加わって(つまりいろいろな鏡像が加わって)、自己鏡像はますます虚の次元に確立されていく。
第2にラカンは、このような鏡像段階があるということは、結局のところ、自己(自我)というものは最初から社会関係の中にくみこまれているものだとみなした。つまり、無垢の自己なんてものは最初からありはしないとみなしたのだ。もっとはっきりいえば、そのような社会的関係によって疎外されるということが自我をつくるのだと考えた。
第3に、以上のことは他者との関係が自己像の本質だということを説明していることになる。が、そうなってくると、その一方、人間というものは他者に見えているだろう自分自身の像を否定したくなって、「実は、私は‥‥」と言いたくなる自分がしばしば浮上してくる。いわば“真実の自己”の“復権要求”だ。
むろん、「実は、私は‥‥」というような本来的な自己なんていうものは、ありえない。だから、この復権にはムリがある。自己像はそもそもにして他者との関係の中以外にはないものだった。
それゆえ自己像の過度の復権要求は、その当人にパラノイア的な苦悩をつきつけることになっていく。しかもそれが幼児期このかたの鏡像段階をスタートにしているがゆえに、ついつい虚像として出てしまうのだ。まことに苦しいことである。ラカンはその「虚像としての自己」の出現に注目したわけだった。
これは第245夜に紹介したR・D・レインが「ニセ自己」と呼んだものにも近かった。詳しくは『エクリ』Tの「〈わたし〉の機能を構成する鏡像段階」を読むとよい。
ペンフィールド先生は「心は脳のどこにも局在しない」と言ったのだった。そして、にもかかわらず「心を脳のしくみだけで説明することはできない」と言ったのだ。
ぼくが本書を「脳と心の一書」と感じつづけてきた理由は、この二つの言明を同時に提起しているところにある。
かつてデカルトは心の正体は松果体にあると考えたが、そのように心が体のどこかに局在することはない。また脳の中にも局在していない。先生はそう考えたのだ。
そう言うと、ずっとのちにカール・プリブラムが提起したホログラフィック・モデルを想定したくなるが、先生はそう考えたのではなかった。プリブラムは脳のホログラフィックな状態を心の動きの現場とみなしたわけだが、先生は心はそのような脳のしくみでは、それがどのようなモデルであれ説明ができないと見たわけだ。
ともかくもペンフィールド先生が本書でのべたことは、ここまでである。「心の正体がここにあると言うべきではない」という決断までがのべられたのだ。
しかしペンフィールド先生は最後の最後になって、こんな問題にも言及した。それは、先生の考え方が「心は独立した存在だ」というものとして人々に受け入れられるなら、「その心は死後はどうなるのか」という疑問にも答えるべきなのだろうというものだ。よくぞこんな問題にまで言及したものだと思う。
これは、心が脳と別なものであるとすると、肉体の活動に所属している脳の活動が生命の灯が消えることによって停止したとしても、心の活動が継続されることがあるだろうという"霊魂不滅説"のような問題だ。そこをどう考えればいいかということだ。
偉大な脳科学者がそこまで踏みこんでいくというのはあまりにも大胆であるのだが、ペンフィールド先生は平気でその道を通過していった。
第一の結論は、心は脳のしくみを通してのみ交信状態をつくれるのだから、脳の活動がないところでは心は作動しないというものである。第二の結論は、心が脳の活動停止後も動くとすれば、そこには心の動きのためにどこからかエネルギー源が補給されていなければならないのだから、肉体が死んだのちの補給は外部しかないということになる。
これは大胆というより無謀な結論である。
けれどもペンフィールド先生は平然と、こう書いた。「私たちが生きていて脳と心がめざめているあいだに、ときどき他の人の心あるいは神の心とのあいだに直接の交信がなされたとしていたら、どうだろう。この場合には私たちの外部に由来するエネルギーがじかに心に達しうることも不可能とはいえない。心が死後に脳以外のエネルギー源にめざめることを期待するのも、あながち不合理とはいえないのである」!
18世紀に入ると、しだいに産業と機械が結びつき、知の生産は新たなシステム思考を受け入れる。神と人間の知的関係だけでは、知の記述がムリになってくる。それとともに学芸の分野が肥大し、工芸の分野が社会の隅々に波及した。これを博物学的な知識でカバーするのは不可能である。
そこで、新たな全知識を横断的に展望する枠組が必要とされた。一人の知的活動ではカバーしきれないことも明白だった。そこにはコレクティブ・ブレイン(集合脳)ともいうべきエンジンが、まさに知的エンジンの装置化が必要だったのだ。
機械からの視点が一般の中にも入ってきた。 人間と機械というふうに分けた場合、これが主観と客観とむすびつく。
自我は他によって作られたものなのに、言い換えれば、他の中に自我があるのに、この人と機械の分類につられる様に、自我と他は対立するものとしてとらえられた。 ありゃ。
「どこにも中心がなく、どこにも過去のない、けれどもどこにもアイデンティティがある現在」がいっぱい並立する
主観の取り違え 客観や科学の意味を主のアンチとしてとらえてしまっている
主観と客観の関係を逆にしている。
間のムセオを数式化する
自分の「精神」や「心」を含んだシステムのふるまいを勘定に入れた科学を構想
人口密度が自我を決めるという仮説
これによって時空や法律や美学が変わる
波動方程式と時空方程式を加える
極値は人口密度が高くて発生する小さな自我の部屋である無菌ルーム
空間にはそれぞれ「世界」の性質が付着しているのではないかという考え方だ。
特殊相対性理論は運動の速度が光の速度にくらべて無視できないほど大きくなる物理現象を扱っている。完全無欠と見えていたニュートン力学による運動の法則が、どうも光の運動については成り立たない。
こうしてユークリッド空間が破棄される。ロバチェフスキー空間やリーマン空間が導入された。それらの空間では光がまっすぐ進まない。平行線は交わるか、ないしは永遠に別れ別れになっていく。しかし空間がそんなものだとしたら、時間も変わってくるのではないか。時間の捉え方も変えるべきなのではないか。
空間の中に物質があるのではない。物質の詰まりぐあいが空間なのである。
その空間は空間として単独にはいない。空間は時間に連続し、重力の性質をつくっている。重力の分布こそが空間であって時間なのである。光はこれらの時空の性質に沿って動き、そして時空の特異点のなかで幽閉される。
アインシュタインが提示した世界観は、このように破天荒のものだった。ここから先、一般相対性理論は重力場の理論をあきらかにし、重力波を予告し、中性子星の宿命やブラックホールの特異な性質を予測した。
いま、アインシュタインの著書とそれを解釈しようとしたさまざまな研究書や解説書を読んでみると、いかにアインシュタインが提示した世界観によって従来の自然像や物質観が揺らいでいったかがよくわかる。日本でこれを紹介したのは、冒頭に紹介した石原純なのだが、どうもその解説は相対性理論の本質をついているとはいえないものに終わっている。
それだけではなく、相対性理論はその後の科学者の踏み絵にすらされた。実際にも、この理論をめぐる解説書ほど、世界でたくさん出版されたものはないといっていいだろうが、その7、8割はむしろ読まないほうがいいというようなものばかりなのだ。ということは、アインシュタインは長きにわたって誤解されつづけてきた天才だったということになる。
「われわれは宇宙は世界について“箱”と“空虚”という考え方をもちすぎたのではないか」というものだ。
たしかにそうである。相対性理論をちょっとでも理解したいのなら、世界を眺めるにあたって、まず“箱”というイメージをなくしてしまうことだ。それには、自分のアタマの中で去らないどのような形の“箱”であれ、それを構成している“仕切り”や“厚み”をまず消してしまうことである。そしてその次に、その“仕切りのない箱”は実は別の理由でそこに“置かれている”ように感じただけだと、あるいはそこに“投影されている”ように感じただけだと思うことである。
かつて、このように説明して相対論的宇宙論の入口に入ってもらおうとしたことがあったものだが、多くの人々が“仕切りのない世界”や“厚みのない世界”に抵抗を示した。しかたなくジョージ・ガモフの説明に切り替えたものだった。
こういうことが多いので、相対性理論は数学から入ったほうがわかりやすいということになる。しかし、アインシュタインのフィジカル・イメージとの壮絶な闘いこそを、ほんとうは理解すべきなのである。
「アインシュタインがおもしろそうに考えたということばかりが気になってましたから」。
科学の中の生命体 2ではない3の世界 主体と客体が入れ替わるとき
K中間子はこの世で確認されている唯一の時間反転物質である。これまで、どんな素粒子の反応にも時間の逆転など一度も観測されたことはない。たとえ100万分の1秒程度の出来事ではあっても、原子核反応のすべての現象で時間の対称性は守られていた。多くの原子核は電子を放出するとたちまちベータ崩壊して反粒子をつくるけれど、そこでも時間はちゃんと流れていた。それがK中間子だけには時間の反転が見られた。
ある状況のもとでガンマ線が粒子と反粒子の対に変換することがある。ガンマ線がある条件のもとではガンマ線自身を消失させて、そこに電子と陽電子がひょっこりあらわれるのだ。ファインマンはこのことを、陽電子が「時間を逆向きに動く電子」だというふうにみなしてもかまわないのではないかと仮説した。何事にも出現と消滅があるけれど、電子においては突然の時間の逆転が消滅なのである。
パストゥールが酒石酸の左旋性に注目して「私たちが目にする生命は宇宙の非対称性の結果である」
コバルト60の崩壊でパリティが破れたこと
ブラックホールでは、時間が重力場の外に出ることすらできないと考えられている。そこにはシュヴァルツシルドの半径というこの世で一番厳格な半径が張っている。むろん証明されたわけではない。ホーキングはいっとき、ブラックホールが少ないほうが「過去」、ブラックホールがふえていくほうが「未来」だと考えたほうがわかりやすいんじゃないかと言っていた。大半の科学が扱う時間に対称性が成り立っているからといって、科学が時間の不可逆にしがみついていることはないのである。
おそらく健全な科学にとっては、時間が有史以来、特定の方向に向かって一様に流れているというのは、宇宙がビッグバンこのかた膨張していることから由来するのだろうけれど、だからといってそれがどんな細部の現象にもあてはまると考えるのは、やりすぎである。そればかりか、生命にとっての時間や情報にとっての時間を考えると、K中間子で時間の対称性が破れたくらいのことは、とっくにおこっているとさえ言いたくなる。ようするに、時間をひとつの現象として扱うのは、そろそろ限界にきているということなのである。
Cf. K中間子は人工的にしか観察されたことがない。自然界にあるとは断定できない。加速器のなかで見えるだけである。それも3種類のK中間子があって、一つはプラスの電荷、一つはマイナスの電荷、一つは中性になっている。このうちの中性K中間子だけがごくわずかではあるけれど、時間の対称性を破ってしまうのだ。
特殊相対性理論は観測者にとっての時間の歩みを伸ばしたり縮ませたりしたのだし、一般相対性理論は時間を単独で扱うことをあきらめさせて、時空連続体という見方をしなければ話にならないというところまであきらかにしている。
時間の矢リチャード・モリスRichard Morris [訳]荒井喬
K中間子はこの世で確認されている唯一の時間反転物質である。これまで、どんな素粒子の反応にも時間の逆転など一度も観測されたことはない。たとえ100万分の1秒程度の出来事ではあっても、原子核反応のすべての現象で時間の対称性は守られていた。多くの原子核は電子を放出するとたちまちベータ崩壊して反粒子をつくるけれど、そこでも時間はちゃんと流れていた。それがK中間子だけには時間の反転が見られた。なんということか。
このことを知ったときは驚いた。何かがこみあげてきて、ちょっと嬉しかった。この嬉しさは、パストゥールが酒石酸の左旋性に注目して「私たちが目にする生命は宇宙の非対称性の結果である」と言ったことを知ったときとか、コバルト60の崩壊でパリティが破れたことを知ったときの嬉しさに似ている。ふっふっふという嬉しさだ。
もっともK中間子は人工的にしか観察されたことがない。自然界にあるとは断定できない。加速器のなかで見えるだけである。それも3種類のK中間子があって、一つはプラスの電荷、一つはマイナスの電荷、一つは中性になっている。このうちの中性K中間子だけがごくわずかではあるけれど、時間の対称性を破ってしまうのだ。
これで充分ではないかという気がする。すでに特殊相対性理論は観測者にとっての時間の歩みを伸ばしたり縮ませたりしたのだし、一般相対性理論は時間を単独で扱うことをあきらめさせて、時空連続体という見方をしなければ話にならないというところまであきらかにしたのだ。
陽電子が発見されてその研究がすすんだとき、ファインマンがおもしろいことを仮説した。
ほとんどの粒子には反粒子があるのだが、その粒子と反粒子が衝突すると互いに消滅し(対消滅)し、その場にエネルギーが発生する。たとえば電子とその反粒子である陽電子がぶつかると、二つが消えてガンマ線が出る。この反応は物質がエネルギーに変換した例で、世界で最も恐ろしい方程式といわれるアインシュタインのE=mc2から導ける。物質がこのようにエネルギーに変換されるなら、この逆のプロセスもおこるかもしれない。事実、ある状況のもとでガンマ線が粒子と反粒子の対に変換することがある。ガンマ線がある条件のもとではガンマ線自身を消失させて、そこに電子と陽電子がひょっこりあらわれるのだ。
ファインマンはこのことを、陽電子が「時間を逆向きに動く電子」だというふうにみなしてもかまわないのではないかと仮説した。これもおもしろかった。何事にも出現と消滅があるけれど、電子においては突然の時間の逆転が消滅なのである。時間の物理学についてはときどきこういう発想が出てくるから、ふっふっふなのである。
ファインマン図
反粒子には未来から過去の方向に矢印がついている
ファインマンの仮説はまだ証明されていない。しかし、このようなことが時間をめぐって許容されているというのは、時間そのものを相手にした議論としては、もう充分なほどの思考実験をしてきたことを告げているようにおもう。
たとえばブラックホールでは、時間が重力場の外に出ることすらできないと考えられている。そこにはシュヴァルツシルドの半径というこの世で一番厳格な半径が張っている。むろん証明されたわけではない。しかし、時間なんてそんなものではないかとおもうのだ。ホーキングはいっとき、ブラックホールが少ないほうが「過去」、ブラックホールがふえていくほうが「未来」だと考えたほうがわかりやすいんじゃないかと言ったほどだった。大半の科学が扱う時間に対称性が成り立っているからといって、科学が時間の不可逆にしがみついていることはないのである。ぼくは漠然とそう思っている。
おそらく健全な科学にとっては、時間が有史以来、特定の方向に向かって一様に流れているというのは、宇宙がビッグバンこのかた膨張していることから由来するのだろうけれど、だからといってそれがどんな細部の現象にもあてはまると考えるのは、やりすぎである。そればかりか、生命にとっての時間や情報にとっての時間を考えると、K中間子で時間の対称性が破れたくらいのことは、とっくにおこっているとさえ言いたくなる。ようするに、時間をひとつの現象として扱うのは、そろそろ限界にきているということなのである。
宇宙の時間軸と空間軸での人間の位置づけ
時間
時間を考えるのは大好きだ。時間に関する書物もおおむね魅力に富んでいる。いったいどのくらい読んできたかわからないが、数十冊、あるいは百冊をこえているかもしれない。本気で時間の正体を究めたいとおもって読んだのではなかった。緑陰でおいしいワッフルやパンケーキを紅茶とともにつまむように読んできた。むろんシロップやバターの出来が悪いのもまじっていた。
インド哲学の松山俊太郎さんは「時間については五百冊は読んだねえ」と豪語したあとに、「ところがね、読めば読むほどとんでもないことになってくるんだよ」と笑っていた。古代インドでは時間は流れない。そういうことをあらわす言葉がない。「流れる」ではなくて、「静止」「持続」「消滅」があるだけなのだ。だからインド哲学や仏教の時間論は、経典の文中に「静止」「持続」「消滅」の同義語や反意語があるたびに言及されているといっていい。わかりやすいところでいうなら、たとえば「色即是空」ですら時間論なのである。インド哲学者が500冊の時間論を読んだとしても不思議はなかったのだ。
ぼくのばあいはどうだったかというと、最初に道元の「有時」(うじ)をめぐる発議やアンリ・ベルグソンの瞬間と持続を対比させた時間論に色気を感じたのがよかったのか、そうではなかったのか、いまとなってはわからない。
また、そのころ国際時間学会の会長をしていたジェラルド・ウィットロウの『時間・その性質』や渡辺慧の『時』を当初に読んだのが薬効がなかったのか、そうでもなかったのかも、判定しがたい。時間ワッフルなら手当たりしだいにむしゃむしゃやってきたぼくの嗜好がそもそも奈辺にあったのかは、いまや時の彼方の出来事の影響というしかないわけだ。
それはともかく、時間を考えるというのはなかなかオツなものではある。真剣に時間論にとりくむのもいいけれど、ちょっとオシャレに時間を遊びたいというのもあったってよい。ぼくはそんなふうに読んできた。
ワッフルむしゃむしゃでは失礼だというなら、ミステリーを次々に読んできたという印象だ。この比喩は存外悪くない。ミステリーではどの物語の犯人も別人であるのは当たり前であるけれど、実は「時間の犯人」も時間論の本を読むたびに変わるのだ。「時間の犯人」は何人も容疑者がいるからだ。アウグスティヌスにして「時とは何か」という問いに応えて、すでにこう書いていた、「誰も私に問わなければ、私はそれを知っている。誰か問う者に説明しようとすれば、私はそれを知ってはいない」というふうに。
古代は総じて、時間は循環的なもの、周期的なもの、もしくは円環的なものだと想定されていた。また、古代ギリシアにおけるアイオーンやカイロスやクロノスのように、時間といっても民族や地域によってはいくつも種類があった。「永遠」と「瞬間」は異なる時間なのである。サンスクリット語のカーラは時輪と訳せるけれど、あれは時間をバームクーヘンのように重ねて眺められるものにした。時間は好きに選べたはずなのだ。
それがだんだん直線的な時間の観念ばかりが大手をふるようになっていったのは、おそらくユダヤ・キリスト教のせいである。とくにキリスト教が天地創造を特定時点での開始とみなしたのに辻褄をあわせて終末論というものをもちこんでから、時間はせっせせっせと直線を流れるようになった。時間は不分明な開始と忌まわしい終点をもったのだ。いまでは鉛筆で左から右に向かって一本の線を引き、そこに任意の1点を打って、「ここを現在とするとね」といえば、誰もが左は「過去」で、右が「未来」というふうに認識するようになってしまった。かつて仏教では「三世実有」(さんぜじつう)とも「過未無体」(かみむたい)とも言ったのに‥‥。
科学において、このキリスト教的な時間の流れの見方に乗ったのはアイザック・ニュートンである。ニュートンは絶対空間とともに絶対時間を確定し、tと−t
とのあいだの不可逆を樹立してみせた。
これはその後の科学と哲学の大半をのせる土台になっていく。世の家系図もダーウィンの進化論もこの「時間の矢」の絶対進行を疑わない。世の中も脱進機のついた時計の普及とともにこの矢を疑わなくなった。世界はたった一種類の時間の支配下に入ったのだ。
言い忘れないうちに書いておけば、このことに反旗をひるがえしたのがフリードリッヒ・ニーチェである。ニーチェの「永遠回帰」の思想とは、キリスト教的な「時間の矢」に対決するためのものだったといってよい。ニーチェの思想には古代ディオニソスの循環時間世界が蘇っていたのである。しかしこれは遅すぎた。すでに19世紀の後半は、直線的な時間の流れに乗って近代科学の基礎の大半が築かれていた。
もうひとつ言い忘れないうちに書いておけば、こと時間の科学や哲学に関するかぎりは、ニーチェは線状的なキリスト教型時間を壊すために永劫の循環時間をもちだすこともなかったのである。いまでは時間の科学は「時空図」というX軸に空間をY軸に時間をあらわしたグラフ上にあらわすようになっていて、そこでは「過去」も「現在」も「未来」も同時に存在しうるようになっているからだ。これはアインシュタインの相対性理論を理解するにはどうしても手放せない。
時空図の例
光の進む道筋が光円錐とよばれる
本書は時間論の本としては、75点か79点くらいの出来である。平均点をこえているのは啓蒙書でありながら冗長度を振り切っているところ(つまりくだらない比喩に頼っていないところ)、75点を突破しているのは理論物理学者らしく微積分と時間の関係から熱力学をへて量子重力論にひそむ時間問題を分断させることなく記述しているところに魅力があるからで、80点を突破していないのは、あとで説明するけれど、せっかく「5つの時間の矢」をあげていながら、それを十全に説明しなかったせいだ。
それでも、ただ1冊だけ時間の科学をめぐる本を推薦してほしいと言われるなら、ぼくは本書を推したい。これはリチャード・モリスが『宇宙の最期』や『宇宙を解体する』でも見せていた正確さによっている。論証できていない仮説を適当にまぜて論旨をおもしろくさせようとはしていないのが、推薦の理由なのである。
日本人の科学者や科学史家による時間をめぐる科学書もそれなりにある。さきほどあげた渡辺慧の『時間の歴史』や『時』は初期の名著だったし、これをうけた伏見康治と柳瀬睦夫の『時間とは何か』、伏見康治の『幅のある時間』、村上陽一郎の『時間の科学』もバランスのよい労作だった。しかし最近は松田卓也と二間瀬敏史の京大理学部出身コンビが群を抜いていて、一般読者にも存分な時間科学のエッセンスを提供している。『時間の逆流する世界』や『時間の本質をさぐる』がお勧めだ。
物理学の法則の大半は微分方程式になっている。微分方程式がわからないではフィジカル・イメージはほとんど描像を結ばない。べつだん不思議じゃない。これは科学が扱う物理量の大部分が時間とともに変化しているからで、そのため、時間の科学は「時間とともに変化するものとは何か」をめぐっていくつかの劇的な結節点を迎えた。そして、その結節点のつど、奇妙な時間のふるまいとの闘いが何度も演じられた。
最初の結節点はおそらく数学が「瞬間」や「極限」や「無限小」に立ち向かったときで、これはニュートンやライプニッツが微積分の方法を発見(発明?)して、「限りなく微小な不可分割量」や「生成しはじめる増分」という考え方を白日のもとに引きずり出したせいだった。どんなすぐれた科学もそうであるけれど、この考え方も当初はかなり分の悪いものだった。知覚の相対性に関心をよせた18世紀初頭の怪僧ジョージ・バークリー(ぼくがいっときハマった『人知原理論』の著者)は、無限小だなんてまるで「死んだ量の幽霊」のようなものじゃないかと揶揄したし、ニュートン力学のフランスへの普及に貢献したはずのヴォルテールでさえ、微積分は「存在さえ許されないものを厳密にしようとしている技術」だと苦笑した。
しかし、やがて微積分法と微分方程式こそが自然界の摂理を牛耳っていることがあきらかになっていった。いわゆる「ラプラスの魔」の存在だって、微分方程式の全能ぶりに惚れての発案だった。ラプラスは、自然の運動に関するどこか1点の運動方程式がわかれば、その次の瞬間の運動もその次の瞬間の運動も確定できるのだから、宇宙のどこかにはそうした運動のすべてを知っている全知全能の魔物(決定論の魔物)がいるということを"予言"したわけで、この魔物も微積分法が正当でなければその存在は許されないはずなのである。
やがてコーシーが無限小という厄介を「極限」の概念に替え、さらにワイエルシュトラウスがこれを洗練させると、微積分法はすっかり論理の矛盾を払拭したものになった。そのとき、時間が微分方程式に隠された科学の主語として全世界に躍り出たのである。
時間をめぐる最も難解な結節点は、熱力学第二法則によってやってきたといっていいだろう。
熱力学第二法則は、「エネルギーを或るかたちから別のかたちに変えるどんなプロセスにおいても、エネルギーの一部は必ず熱となって散逸する」というもので、物理法則のなかではいつも特別扱いされてきて、最も深遠な法則だとみなされてきた。たしかに熱力学の法則にはいくらつきあっていても謎を創り出す魔法の槌のようなところがあって、他の物理法則にくらべて格段の真相を秘めているとおもえるものなのではあるけれど、言明していることは明確で単純である。熱力学第一法則である「エネルギー保存の原理」とともにくだいていえば、第一法則は「無から何かを生み出すことはできない」、第二法則は「その収支の辻褄はあわない」と言明したわけだ。
この熱力学第二法則が時間の問題に立ちはだかる結節点になったというのは、近代科学が地球の起源や宇宙の起源や原子の起源の解明に乗り出したためである。
ジェームズ・ハットンは1795年の『地球の理論』で、岩石や鉱物を分析すれば地球は少なくとも数百万年の時間をへてきたはずだと説いて、「現在というのは過去を含んでいるのだ」という仮説を発表した。これをチャールズ・ライエルが1830年に『地質学原理』に普遍化して採用し、この『地質学原理』一冊を携えてチャールズ・ダーウィンがビーグル号の航海に出て、かの進化論を確立した。
これらはすべての発展・進化・進歩は時間とともに未来に向かっているという通念を世の中に植え付けた。ハットン、ライエル、ダーウィンは正真正銘の科学者ではあったけれど、そこには「時間とともに進歩するもの」があるという明白な含意があって、それを社会の通念としてハーバート・スペンサーやトマス・ハックスリーが抜き出した。そのため近代社会のいっさいの進歩思想を支えるエンジンが、ここに一挙にまわりはじめたわけである。
ところが、時間とともにすべてがうまく進むということはありえないのではないかというのが、熱力学第二法則なのだ。このことに最初に気がついたのは、クラウジウスとともに熱力学の法則を導いたケルヴィン卿ことウィリアム・トムソンだったろう。ケルヴィンは世界を斉一的に解明するのには無理があると考えた。それはつまり、効率の悪いこと、辻褄があわないことが時間とともにおきているという警告だったのだ。
しかし、このような熱力学が示唆した問題を社会通念がうけいれるのは容易ではない。いまでも熱力学的な時間のことを理解している社会人なんて、ごくわずかしかいないにちがいない。
熱力学と時間の関係というのは「エントロピーの矢」をどう考えるかという問題である。「エントロピーの矢」が「時間の矢」や「情報の矢」とどういう関係にあるのかという問題である。
この問題は全物理学にとっても全生物学にとっても、かなりの難問だ。エントロピーの動向は平衡系と非平衡系ではまったく異なる様相となるし、閉鎖系と開放系でも異なっている。生物は非平衡開放系に属しているのだから、たんなる物理的熱力学的の現象とは区別しなければならない。だから、腰を入れて議論せざるをえない問題なのだ。まだそういう哲人はあまり出現していないけれど、エントロピーと時間の関係は、科学を成立させている根拠を問題にする哲学にも関与するはずである。時間の正体を究めたいのではなく、時間の議論に遊びたいという趣向のぼくとしては、こういう問題をとりあげるには、今夜のようなワッフル気分をかなぐり捨てて、あらためて姿勢をたださなくてはならなくなってくる。
それに「エントロピーの矢」がどういうものであるかを理解するには、その前に時間の科学が20世紀になって未曾有の解釈の変更を迫られていたことを知っておかなくてはならない。このことも時間ワッフルを食べるお気楽な気分のままでは書きにくい。でも、少しだけ感想を書いておくことにする。
20世紀になって、時間の科学はめまぐるしい変転を見せた。次から次へと結節点がやってきた。ほんとうのところは時間の科学は自立できなくなったというほうがいい。
たとえば、原子核の物理学を拓いたラザフォードは原子の"生存時間"を問題にしたのだが、やがて量子力学が急速に拡充し、素粒子の相互作用があきらかになるにつれ、時間は極小粒子のふるまいによってあらわされているのではないかという考え方が出てきた。「有限」というものを極小に向けて考えようとすれば、その有限をあらわす現象(たとえばベータ崩壊)が時間そのものの発生に見えてくるからである。
いまさら説明するまでもないだろうが、アインシュタインが特殊相対性理論で披露した時間のふるまいも驚くべきものだった。空間的にへだたった出来事には同時はありえないという理論で、運動状態の異なる観測者によってなされた時間測定は一致しないということを告げた。ある観測者には「過去」であることが、他の観測者には「未来」になることがありうる。アインシュタインは、はっきりとそう言明したのである。これを時間のほうからいえば、時間は空間のなかで伸びたり縮んだりしているということになる。また観測者のほうからいえば、運動している観測者にはそれぞれの「固有時」というものがあるということになる。ここに、誰もが2000年にわたってなんとなく疑いもしなかった「同時」の真実が崩れたのだ。
もっというなら、このときもはや時間を時間としてだけ追いかけることが不可能になったのである。時間の科学はここで立ち往生したのだ。物質が時空の曲率や重力場のシワそのものを意味することになったように、時間は空間とひっつき、もはや分離不能のものになったのだ。ファイマンが陽電子は時間を逆向きに動いていると見たのは、いいかえれば、電子の動向の裏側に時間がひっついてしまったということなのである。
だから21世紀に純粋な時間の科学だけにとりくみたいということは、もはや不可能になったと諦めてもよかったのだ。ぼくがあらためて時間論だけを読書の旅から引き出しにくいというのも、このせいだ。むしろ古代に戻って「いくつもの時間」とつきあいなおす気分になったほうがいいくらいなのである。
とはいえ、2000年も続いた時間の観念を古代回帰してすませるわけにはいかない。超難問ではあるが、科学者たちは「いくつもの時間」の分類と縁組を検討するしかなくなった。それが、いいかえれば、いったい、「時間の矢」は何本あるのだろうかということなのである。もうすこし正確にいえば、時間の方向は何をもってどのくらい区別できるのかということである。
ここで話が戻ってくる。時間の矢の本数を数える段になると、やはり熱力学がもたらす時間、すなわち「エントロピーの矢」が厄介なのだ。この矢は宇宙開闢以来の秘密を握っているからだ。
本書では、時間の方向を区別するには、少なくとも5本の「時間の矢」をもちださなければならないと書いてある。第1の矢は「宇宙膨張がもたらした時間の矢」である。これは、宇宙の物質が過去には圧縮し、未来に向かって分散しているということをあらわす。第2の矢が「熱力学の矢」で、これが「エントロピーの矢」にあたる。ちょっとだけ気分をただして、あとで少々案内したい。
第3の矢は「電磁気学的な矢」だ。光を含む電磁波が過去から未来に向かっていることを示す。この矢が少しでも曖昧なそぶりをあらわすなら、過去のどの一点にも信号をおくることが可能になって、ほとんどの因果律が壊れることになる。タイムマシンもすぐ作れることになる。だからこれが崩れることはないだろう。それでも1945年のこと、ホイーラーとファインマンはこの矢と宇宙膨張がどこかで関連していることを示唆して、物質がなんらかの理由で時間を"吸収"するという仮説をたてた。が、いまのところこの仮説は証明されてはいない。もし実証されれば、「未来から収束してくる波動」というものを想定することになり、ぼくとしてはまたニヤッとしたくなるのだが‥‥。
第4の矢はK中間子が見せた「人工時空における逆時間の矢」である。このことは、実はもっともっと議論されたほうがよい問題で、K中間子だけがあらわしたものではないはずだ。ひょっとすると、ここには物質の旋回性や対称性の問題がからまってきて、かなり複雑な様相を呈するはずなのだが、モリスは本書ではまったくふれなかった。そこが80点に届かなかった理由のひとつでもある。
第5の矢についても、本書はまったく言及しなかった。ただ「意識の矢」があると指摘しただけだった。むろんここにも生物時計のありかからセロトニンの作用まで、ざっと1ダース以上の時間の区別が認められるはずである。
このほか本書はほとんど話題にしなかったのだが、第5の矢の手前に「生物を成立させている矢」というもの、もっと今後の科学が必需品とするであろう言い方でいえば、おそらく「情報の矢」というものがあるはずである。しかし、この第6、第7の矢を今後に議論するにも、第2の矢にあげた「エントロピーの矢」が掴めなくてはならない。
さきほども書いたように、熱力学第二法則は「エネルギーを或るかたちから別のかたちに変えるどんなプロセスにおいても、エネルギーの一部は必ず熱となって散逸する」ということを言っている。ところが、分子の衝突、原子核の反応、物体の運動、惑星の動向などとは異なって、熱の散逸は時間に対称的ではないプロセスをもつ。
熱というものはどんなときも熱い状態から冷たい状態に流れる。自然ではこの逆はおこらない。これがエントロピー増大の法則である。「エントロピーの矢」のふるまいである。けれども熱が逆向きに流れるということ、いや、熱を逆向きに流すようにすることは、自然の摂理にさからいさえすれば、いくらでもできることなのだ。冷蔵庫がそのようになっているのだが、冷蔵庫のモーターは外から電気を入れて熱を汲み出し、これを外部に放出している。これはエネルギーを消費しているということにあたる。物理学ではこれを「仕事をした」という。
つまりエネルギーを消費して仕事をするのなら、熱は逆向きに流れるのである。外部に熱を流し出せるなら(これが「散逸」だ)、「エントロピーの矢」に逆行する出来事をおこしたっていいわけなのである。
実は生命系こそがこのことをやってのけた系だった。生命系は冷蔵庫ではないけれど、太陽と地球がもたらす熱力学的な外部環境(エネルギー)をうまくつかって、情報転写や物質代謝をやってのけるバイオモーターをつくり、これを動かしつづける自律的なしくみをつくった。そこでは「エントロピーの矢」はエントロピーを増大させないような仕組みが仕上がった。生命系は、シュレディンガーがまさに言ったように「負のエントロピー」を食べたのだ。
エントロピーは事態を無秩序に運ぶ矢をもっている。生命系はその矢に対抗して秩序をつくる。むろん宇宙全体からみれば太陽-地球には大エントロピーが支配しているのだが(だからいずれは太陽の炎症か地球の危機とともに生命系をあやしくさせるはずではあるけれど)、少なくとも生命系というものをひとつの"数十億年のつらなり"と見るのなら、そこでは小エントロピーを吐き出す仕組みがみごとに成立したということなのである。
そうだとすれば、この小エントロピーの処理の仕方に時間の処理が(したがって情報の処理が)交じっていてもおかしくはない。
エネルギーを消費して仕事をする能力をもつ系のことを、熱力学では「非平衡系」という。熱の散逸を内外のエネルギーの差で処理している系である。
ということは、エントロピーが増大するとは非平衡が欠如しているということになる。非平衡になること、すなわち利用可能なエネルギーが消失していくことが、エントロピーが増大することなのだ。
エントロピーの増大は閉鎖系でしかおこらない。系として閉じているところにエントロピーの増大がおこる。これは熱力学閉鎖系というものになる。宇宙全体は、当たり前のことではあるけれど、巨大な熱平衡に向かっている閉鎖系である。ここでは大エントロピーが支配する。
一方、外部の影響をうける系、いいかえれば外部の影響によって仕事ができる系は熱力学的には非平衡な開放系である。宇宙には外部はないから、宇宙全体に開放系を想定することは意味がない。つまり大エントロピーには開放系はない。そのかわり宇宙の局所には、小エントロピーとの拮抗をくりかえしているような適度な開放系はいくらでも想定することができる。太陽と地球がこの小エントロピーとの拮抗の舞台となった開放系だった。
こうして、すべての地球上の生命がこの非平衡開放系をたくみに活用した「負のエントロピー」を食べるシステムをつくりあげたということになる。太陽の光エネルギーをつかってクロロフィルが光合成をして、その養分をつかって全生物が生きまくること、これが非平衡開放系の生物たちの最大の特色になったのである。
しかし、このような説明は「エントロピーの矢」と「時間の矢」の関係をいっさい解読していない。のみならず「秩序が生まれる」ということを「情報の矢」の仕事とみなすのなら、「エントロピーの矢」と「情報の矢」はなんらかの帳合をとって折り合いをつけているはずなのに、そのこともこのような熱力学論議からは説明できない。すなわち、「時間の矢」や「エントロピーの矢」を生命系にあてはめようとしたとたん、往々にして科学の得意なロジックの多くが立ち往生してしまうのだ。
だから言わないこっちゃなかっただろうという気分に、ぼくはまた戻っている。時間を時間だけとりあげて議論するのは、もう無理なのである。それだけではなく、時間をt
や−t といった時間だけで成立させているかぎり、エントロピーも情報もいったんは自立して考えざるをえなくなって、仮にそれらの関係をまぜこぜにしたくとも、それをすることができなくなってしまうのだ。
せめて「時空」を単位に思考をすすめるか、「時間の非対称性」を最初からロジックに入れておくか、それとも時間をひとつの単位にしないで、メタ時間や時間子や派生時間子といったことを勘定に入れるべきなのだ。熱力学と時間のことを説明しようとすると、ぼくはいつもこういう気分になってしまうのだ。
まあ、今夜はこのくらいのところにしておこう。1979年9月のこと、『遊』1009号に「亜時間・国家論」という特集をした。それは「亜時間」というタイトルにあらわれている。このときぼくの時間論についての未熟な思いは吐露しておいた。いつか読む機会があれば、覗いてほしい。ぼくが次に時間をめぐるときは、もはや時間を単体として取り扱いはしないだろう。
附記¶リチャード・モリスはネバダ大学・ニューメキシコ大学などの理論物理学者で、著作も多い。『光の博物誌』(白揚社)、『宇宙の最期』(三笠書房)、『宇宙を解体する』(産業図書)などが邦訳されている。文中に紹介した本は、ジェラルド・ウィットロウ『時間・その性質』(文化放送)、渡辺慧の『時』(河出書房新社)、村上一郎『時間の科学』(岩波書店)など。松田卓也と二間瀬敏史のコンビのものとしては、『時間の逆流する世界』(丸善)、『時間の本質をさぐる』(講談社現代新書)のほか、『ビッグバンからブラックホールへ』(岩波書店)がある。
そのほか、宇宙的時間の誕生や測定をめぐるゲーザ・サモンの『時間と空間の誕生』(青土社)やジョン・グリビンの『時の誕生・宇宙の誕生』(翔泳社)、地質学的時間を扱ったスティーブン・グールドの『時間の矢・時間の環』(工作舎)、時間と論理学の関係を扱った中村秀吉の『時間のパラドックス』(中公新書)、ちょっと高度な時間論として田崎秀一『カオスから見た時間の矢』(講談社ブルーバックス)、生物時計や人間の時間意識を案内したジェレミー・キャンベル『チャーチルの昼寝』(青土社)などが比較的手に入りやすい時間科学書の水準値。ベルグソンをはじめ哲学的な時間論は数多いけれど、たとえばエマニュエル・レヴィナスの『時間と他者』(法政大学出版会)、木村敏の『時間と自己』、滝浦静雄『時間』(岩波新書)などを味見してみてはどうか。
ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの『生物から見た世界』★3を取り上げている。この著書は、ギブソンの『生態学的視覚論』とは対象的に、カントの知覚論を生物学的な知覚論として展開しているものである★4。
──生きた主体なしには空間も時間もあり得ないのである。これによって生物学はカントの学説と決定的な関係をもつことになった。生物学は環世界説で主体の決定的な役割を強調することによって、カントの学説を自然科学的に活用しようとするものである★5。
「環世界」とは、ある生物に固有の知覚世界のことである。ユクスキュルによると、生物が知覚する刺激はあらかじめ生物内で決められており、世界の見え方は、個々の生物によってそれぞれ異なるという。ダニにはダニの「環世界」があり、人には人の「環世界」がある。つまり生物の数だけ環世界が存在する。
アフォーダンス理論が、ある独立した環境を土台とする知覚理論であったのに対し、ユクスキュルの環世界論にはそのような土台が存在しない。ある動物と他の動物では、知覚世界の共有は不可能なのである。ユクスキュルは、あるアフリアから来た若者のエピソードを取り上げている。
──唯一彼に欠けていたのはヨーロッパ式の日用品の知識であった。私が彼に短い梯子に登るようにいうと、彼はこうたずねた。「支柱と隙間しか見えないけれど、いったいどうすればいいんですか。」もう一人の黒人が彼の前で登ってみせたところ、彼は難なくまねることができた。それ以来、彼にとって知覚的に与えられた「支柱と隙間」は上るというトーンを持つようになり、いつでも梯子と見なせるようになった★6。
ユクスキュルの言う「トーン」とは、ギブソンの言う「アフォーダンス」とほぼ同意語である。ただし、それは誰もが初見で知覚可能な情報ではなく、経験を経て得た知覚情報である。「支柱と隙間」は「梯子」という意味をもつに至るまで、固さや材質、プロポーションなどのあらゆる情報が経験を通じてアフリカの若者のなかで構造化され、それが彼固有の知覚概念としてストックされる。ギブソンの知覚理論においても、ユクスキュルの知覚理論においても、世界に存在するあらゆる刺激は構造化のプロセスを経て情報として意味付けされる。異なるのは、その構造が環境の側にあるか、生物の側にあるかだけである。それらは恐らく共に存在し、相互作用的に生物の知覚に影響を及ぼしている。
行為をデザインすること
アフォーダンスや環世界論は、生物の知覚、行為に関する理論である。デザイン理論にギブソンやユクスキュルの理論を応用しようと試みるとき、知覚や行為の諸概念を、具体的な物へと落とし込まねばならない。ギブソンは、行為と物の関係について以下のように語っている。
──支えの面が、もし地面よりも膝の高さほど高ければ、その面はその上に座る事をアフォードする。我々は一般にはそれを坐るもの(seat)とよぶが、特にスツール、ベンチ、チェアー等ともよぶ。それは傾斜面の岩棚のような自然物であるかもしれないし、寝いすのような人工的なものであるかもしれない★7。
ギブソンにとって、物の名前より行為の知覚が先にある。たとえ言語化されていない行為や物があったとしても、人や動物は無意識的にその情報を知覚している。ユクスキュル的な視点から言うと、すでにその行為や物に対して固有の知覚概念が存在している状態である。
デザインを情報の伝達手段ととらえるならば、人々が無意識的に共有しているアフォーダンスを、実際の物に落とし込んでやればいい。公園のベンチ、建物のエントランス、扉の取手など、その形状の意味が人々に共有された物を作り出すことによって、それ自身を情報伝達の媒体として利用することができる。
そのようにみると、すでに共有されたアフォーダンスを用いたデザインは、新たなデザインを創作するプロセスとは別次元である。それは確実な情報を伝達するという意味で計画論的に有効であるが、新たな体験を生み出すことはない。新たな体験には、無意識的な知覚を意識化するプロセスが必要となる。
深沢直人などのプロダクトデザイナーのターゲットはそこにある。彼らのデザインは、行為の知覚が言語化に先立って行なわれるということを前提としている。
──最近「お皿つきライト」という卓上のライトをデザインした。(...中略...)帰宅してライトのスイッチを入れるということと、時計やアクセサリーをはずして置いたり、鍵とかコインをポケットの中から置いたりすることは、帰宅してまず行うことだと思った。「帰宅」ということに関わる意識の中心が、この行為の流れの中にあるふたつのことであると感じたから、このデザインをした★8。
深沢直人は、言語化されていないふたつの行為を物の形に反映することで、無意識的な行為の意識化をうながした。さらにいうと、デザインした深沢自身には、それらの行為はすでに意識化されていた。「帰宅ということに関わる意識の中心」に付随する行為は、あらゆる人々に共有された意識的な行為ではなく、深沢直人個人のなかにある意識的な行為である。新たなデザインを生み出すには、あらゆる動物が知覚可能な情報を引き出す理論(アフォーダンス理論)だけではなく、固有の知覚世界(環世界論)をそこに紛れ込ませる必要があるのではないか。
空間をデザインすること
建築デザインとプロダクトデザインの違いは、内包する行為の多様さである。建築デザインの場合、ある空間から「情報」を抽出するファクターは無数にあり、それをどのように組み立てていくかが問題となる。プロダクトデザインが行為をデザインするのに対し、建築のデザインは行為を内包する空間をデザインする。そういう意味で、空間のデザインは行為のデザインのひとつ上の次元に位置している。
20世紀モダニズムは、万人の共通認識が存在するということを前提にユニバーサル・スペースを導入することによって、ありとあらゆる行為をひとつのフレーム内に納めようとした。これは、知覚や行為の概念から建築の概念の分離である。
複雑にコードが絡み合っている状態は、生物学者の福岡伸一の「動的平衡」に近いのかもしれない。つねに建築空間の中では、知覚者である人間も動きの中にあり、時間軸に沿って動的な平衡状態を維持し続けている。ある建築形態において、それに特有の行為、もしくは使用用途を固定することは、可変性の乏しさを意味する。仮設的な美術作品としてつくられた空間ならば、知覚理論を有効に利用することができたとしても、長いスパンで使い続けられる建築の場合、特定の行為をデザイン操作に加えることは、建築の自由度を狭める可能性も否定できない。
オラファー・エリアソンの《The Weather Project》(2003)は、ロンドンのテート・モダンの吹き抜けの大空間に人工の太陽を作り出したプロジェクトである。室内に出現した巨大な太陽は、観客の感覚に大きな揺さぶりをかけた。観客は、屋内空間にいるとわかりながらも、そこに屋内でも屋外でもない新しい空間を体験した。美術館という特有の舞台をあらかじめ設定したうえで、観客の知覚を揺さぶる作品を作り出した。これも、地球上のどこにもない、ただ一人オラファー・エリアソンのみが持っていた知覚世界を具体化したものである。
共有不可能な個人の知覚世界が具体化し、それを他人が体験することで新たな体験が生まれる。このような新たな知覚体験が可能にするような試みは、建築の世界でなくアートの世界で活発に挑戦されている。
知覚理論をアフォーダンス的に共有可能性としてみたとき、それは情報媒体として計画学的に大いに有効であり、知覚理論を環世界的に固有の知覚世界としてみたとき、それは新たな体験を生み出す起爆剤となる。計画学とも異なり、プロダクトデザインやアート作品とはひとつ上の次元に存在する建築デザインにおいては、恐らく双方の視点を取り入れながら、新たなデザインに結びつける必要があるのではないだろうか。
主体と客体
分業化の時代
観る者 一なるものから分化する 無知からだんだんと細部が認識できるようになり、知識と認識力も分化する 単純から分化するのが観る者
観られる者 モノから観る者によって意味あるものに昇華される バラバラなものは統合される
様々な違いの中から共通点を見いだすことによって統合化する 分化したものから一なるものへと意味の結合を繰り返し、物質も意識も区別のない源流の世界へと回帰する。
単一なものは分化し、バラバラなものは統合する
視線を仲介した内側(観る主体)と外側(観られる客体)
意識と固定化
特定の興味のあることに対して新しい意義を見出したいとヒトは思う。
他のことはオートマティックに機能するようにしておきたい。流動化より固定化したほうが便利。
本気で考えるには労力が必要だからです。 無関心と通年を踏襲するのは根が同じ。
法則を重視してそこから現実を見ようとするのは、労力を使いわず、自動的に通用するものが欲しいから。
幻想や妄信的な姿勢な人が多く、観る者と観られるモノの関係を固定的にとらえる。自然界や現象が自分の考えに従属するものだと思っている。 自然界を開発の対象にしてしまう。自然界は人間にとっては便利な道具でしかなくなった。観る側が絶対であるという強硬な姿勢がなせる業です。
自然界には直線も三角形も円もない。理想の形を理念やプラトンはイデアと呼びました。理念にあわない現実はノイズであり、できそこないと考える癖がついた人がいます。
分業化が進むと関心があること以外は通年で固定化するのが便利な時代
主体の視線を固定すれば、そこから見えるものには秩序があるが、視点が変わればこれまでの秩序はなくなります。肉眼から望遠鏡。満月、クレーターの凸凹した弧
意味とはルールがあるということです。四本足でヒゲがあってミャーと鳴けば、猫だというように、各種の共通点を探し、それで纏められるものに名詞をつけ、意味づけできます。
主体と客体 王様と民衆 太陽と月
プロテスタントが自意識に焦点を当てた 唯一神の父なる神のように、すべての意味を定義する中心となった。
意識から生まれる自意識を、まず第一として、そこから生まれる理念からはじまる世界でまどろんでいるもの。
自然界はこの自意識に従属するものとして捉え、自然界は女性形で表現されます
物理学の法則の数式はイデアとして、自然界はこの公式の通りに働くと、自意識は考えようとします。
自意識は観る者なので、一つのものを分化させる役割なので、そうなってしまうのは当然です。
ノイズに焦点を当ててみる世界 イデアから逃れた余分なもの。ここに新しい発想の芽がある。ノイズとは異次元のものがこの次元に侵入したということです。異次元では秩序あるものなので、ノイズとして切り捨てるのではなく、異次元の秩序について想いを馳せてみませんか?
ゴミや破綻や病気や失敗や落胆は秩序という観る側にある意識にとっては汚点ですが、次の世界からのメッセージなので大切にしましょう。
動物の糞は植物から見れば、天啓です。栄養の塊ですから。視点が変わるとゴミが宝となります。
自意識とは自分自身、わたし自身という意識です。「わたし」は、と思うと自分がいるし、主語に使わないと、自分がいない世界観を語ることになります。 自分を意識するかしないかの違いです。
自意識はいつも観る者です。だから自意識自身のことはあまり考えようとしません。自分自身は見ることができませんから。鏡を見たり、他人に指摘されない限り。
自分を意識していない時は、何かに夢中になったり気になったり心を奪われたりボーとしている状態です。一日24時間のうち自分を意識しているのは3時間もないと言われています。
観る者である自意識はそんなにいつも全部をしきっているわけではないのです。
デカルトは「我思う故に我あり」と自意識の絶対と支配権の強さを書きましが、実際は、そんな時も一日なかで時々あるというのが私たちの生活です。散歩やコーヒーを飲んでいて、何も考えていない無意識の時間ってあるでしょう。いつも自意識で周囲を支配しているのではなく、周囲によって自意識が影響を受けている時間も多いはずです。実際にはほとんどこれです。周囲が自意識よりも優位にあります。
人(特に両親や学校の先生)に言われたことを日常生活で実践している時に、「自分は主体的に生きている、自分で考え、自主的に自立している」と思い込んでいる人は多いです。が、実際は集団の共通した考えに従っているだけのことも多くあります。
自意識が観ることができないものから、強く影響を受けています。無意識と呼ばれているものです。
それは体の本能行動、情動の条件反射、そして社会の無意識です。
カバラ 創造の三つ組の等級連鎖 ヤコブの梯子の法則
旧約聖書の創世記28章12節でヤコブが夢に見た、天使が上り下りしている、天から地まで至る梯子、あるいは階段
師の教えを受け継いだ者が、次には積極的に強く、次世代の人に教えを布教する。
受動だったものが、次のステージでは能動になる
結果が、次には主体になり、枝葉を伸ばしていく。
創造の原理で、意識の発展の過程と同じ構造。 子供の産出、日本の神話、連鎖する三角形
主体、客体、その結果の三角形をつくり安定性を作り上げる。この連鎖を見ると、客体が二代あとには主体になり、主体も二代前では客体になる。
純粋な主体はなく、主体を生み出したものがあることがわかります。普段はこんなことを意識していません。
どんな主体も前の代では受動的なものであった。また客体もその中に主体を持っている、ということ。
自由は存在しない。あるのは小さい範囲の中だけ。すべてのつながりの中にある。
複数主体性を持つことによって、厚みのある自意識をつくり、多次元的にして、宇宙的な全体性の中で生きることができる。多くの自意識は、視点が人工衛星や父なる神と同一で、すべての中心は個としての主体にあるという単一次元化されてしまっている。葛藤した緊張感の中で暮らす人たち。
自覚していない鎖国の西欧社会 安いものを仕入れるだけ、イスラムや他民族を考慮に入れる価値はないとして目を開けず、故意に無視する自意識。
主体が客体の中に溶けていき、一体化して無の領域に入るというのがフィヒテ。これは自我から見つめている単一の視点。
主体と客体は連鎖しているので、上下の果てしない等級の連なりにいることが感じられると、個人の意識は大きな全体的な宇宙の運動の中に正確な位置づけを持つことができ、自意識から幽閉されにくくなります。
主体と客体が入れ替わったり、両方向から影響を与える状態は、多重の重なりを意識しなければならないので、単一化させて主体を固定させて、関心を集中化させる技術に特化したのが自意識を大切にするプロテスタントの手法です。客体を物質を主とすることにより、主体をもっと固定化されました。変化するものや生命体ならば、主体も影響を受けてしまい、主体が変化していってしまいますもんね
多層から単層にするために、目の前でしていること以外は存在しない、と視点を一つにして狭くするという手法を取りました。
自然に対して優位に立つ人間という考え方。これを簡単にモデル化すると他に対して優位に立つ自意識ということです。ですから、体に対して優位な意識、感情に対しての意識、他人に対しての自分、公よりも私といろいろなTPOでこの考え方が実践されます。この考え方のパターンも現実の一つですが、こればっかりでは心の休まる時がありません。ストレスが大になって体が強制休止を意識に命令して、ブレイクダウンさせて休養させてしまいます。
合わせ鏡
主体は客体がないと、自分の存在に自信を持てなくなり、客体を探します。両方がないと意識は働かないのです。なにか外(外界、客体、意識の外化(サルトル))にあるものに向かって意識が働くことによって、自意識は存在できます。
意識の働きは二つの世界の差成分によってできています。二つの違う世界の大きな格差が意識の生まれる根源です。
暗闇で何も見えないものを見続ける。眠ってはダメ。眠るとは主体の休止だからです。
客体である五感からの刺激の負荷が減ると、主体は勝手に自分の望むところに向かいます。主体はあらぬ夢を見始めるのです。
客体とのかかわりをはずすことにより、主体が空中にブラブラの状態になる。
陰陽、ヒンドゥー教、チベット仏教、デルフォイの巫女の瞑想法と古今東西からある方法です。
この時に出会うのが、「主体の後ろにいる主体」です。主体は観る者なので、それ自身が見えなかったのですが、客体がなくなることで、主体の観る者として役割がなくなり、主体自身が観られる客体の役割をする可能性が出てきたのです。そしていつの間にかほかの大きなもの(主体)が現れて、自分の主体は、その大きなものに観られることが起こります。主体が客体になった瞬間です。自意識が積極性だけではなく受容性を重ね持つことができました。
主体の維持に強いプライドがあると、主体を客体として扱うこと自体が許せないので、このような体験をすることができません。
今までは主人だった人が従者になることを受け入れることができれば、大きなものと出会うことができます。
生命圏の連鎖から切り離された孤立した人間から、宇宙のはじまりからの連鎖の「伝統」の世界に回帰することになる。自分より前があり、自分よりも後があるという生命の連続性です。
士農工商 封建制度 は他人が見ている自分は保証されている
私小説 大正 自分の説明をしないとわからない 名刺と肩書きが必要
主観と客観
主観も自我も主体も、あの世から見れば、全体の中の小さな一部でしかないという実感。
これは客観という見方じゃない、学校で習う科学とも違う。
人工衛星からこの地球を見つめても、表面の形しか見えない。
どれも命も住めない場所から自分を見つめようとしてもダメなんだ。
客観なんて主観の一部でしかないんだよ。
君が生きている間はね。
対立しているんじゃない、主観の中に客観が含まれているんだ。
どんな客観を選ぶかは主観しだいなんだから。
そしてその客観的なことだって実は間違いの積み重ねなんだ。
錯覚、思い込み、時代、理性、偏った客観、一面性の客観、表層だけの客観、来年には誰にも振り向かれない客観。
命と全体と時空間を超えたものは、科学も言葉も理性も届かない世界だ。
客観とは分けて分断して理解することでしかない。
五感はあるがままに感じること 主観の世界
智性はあるものの深層まで理解しようとする力 主観の世界
あの世からのまなざしとは、みんなを一つにつなげること 主観の世界
科学とは誰がどこでやっても同じ結果が出ることだけではない。
科学が迷信や魔術から離れた時に大義名分を勝ち得て、この世を我が物顔で歩きはじめた。
だけどもういいでしょう、そんな理知科学は、こんな世になっちゃったんだから。
これまでの時代はそんな理知科学ががんばって、しっかりやったよ、しなくちゃいけないことを。
近代から続いてきた幻想自我にアンチしての客観や科学なんて、自分自身が苦しくなっちゃうのはわかっていたじゃない、そりゃあ正義感や乙女の純粋さがでがんばってきたのはよくわかっちゃうけどさ。
でもこれからは、ちゃんとした眼差しの科学や主観が、迷信の合理的根拠や魔術の論理的知性に付き合えるほど大人になった。
オカルトや啓蒙主義やロマン主義をおそれなくていい、柔らかくいこうよ。大丈夫だから。
アンチではなくて自我を含んだ他、言い換えれば、自我意識も含まれる全体、すべての生命体、全体からとの関わりでしかない部分、宇宙の誕生からみた星や元素やエネルギーを命としてとらえる科学がもうはじまっている。
この世を偶数で分けて分析してまたくっつけて一つにして見るのではなく、この偶数分裂にプラス1で奇数にして、あの世からこの世を見る眼差しだ。
生まれる前の世界、自分がいない世界、死んだ後にもある世界、ビッグバンの前の世界、生命が誕生する前の世界、星から見た太陽系、石から見た生き物、川から見た社会、雲から見た人間界、成層圏から見た生命体。
人工衛星から見た地球ではなく、月になっちゃったあなたが見た地球。
これは一つの悟り、でもそんなにすごいものじゃない。 だれだってこの眼差しには簡単に経験できるから。
大切なのは悟りの視点を得たことではなく、難しいけど毎日を生きることを積み重ねることだから。