オックスフォード 証明ができればなんでも正しい 1986年
正しいことをするってなんだろう?
正義とは何だろう?
と問われることは、誰が、どこで、だれに、言うかそして行動するか、でその内容が変わってくる。
すべての名詞には気をつけなくてはいけない。
名詞は周囲との関係の中にしか存在できないのに、それを自分で忘れるふりをするから。
百姓が畑で子供に言えば、お天道様の正しさだ。
大学の先生が講義室の中で生徒に言うと、自分のことの正当化だ。
JusticeではなくJustify になってしまう。
自分の立場に正義を与えてしまう。
一番の問題はどこに今いるのか?というのが私の問いです。
綺麗事(きれいごと)はもういいです。
それは正当化のことだから。
これは自己催眠で本音を隠してしまう自意識のお得意のお仕事のことだ。
これでいままで他をなぎ倒して暮らしてきたのだから。
今日も正しいことを証明して、これからも催眠の中を漂っていこう。
「正義とは何か」という倫理学の間違いに対しての疑問は○○ページです。
目次
証明の仕方には数学、論理学、科学、哲学、ビジネスの世界と各分野でいろいろな方法がある
トロッコ問題とは?
論理の組み立て方 証明の仕方
人間の行動の当たり前の原因とは
どのような思考形式で自己を正当化し、周囲を説得するのか 構造と歴史
理性とユートピアと共同体
プロローグ
ヒトは何故、議論をするんだろう?
議論とは、お互いが正しいこと(基準、理念、公理)だと思っていることのどこに相違があるかを探す行為です。同じ公理から出発したら、誰でも同じ結論にしか到達しません。公理が違うからこそ意見の相違があり、なぜ違うかという議論ができます。そして最終的な結論は、どちらの意見が正解でどちらの意見が間違いというものではありません。どうして意見の相違が生まれるのかを考えることが結論です。
例えば、正反対の結論が導かれたということはそこに公理の相違があるか、あるいは公理そのものが間違っているかのどちらかということになります。公理そのものの間違いを探す方はわかりやすい作業なのでよいとして、公理の相違がある場合にはどうしたらいいのでしょうか。
ここで「公理が違うから仕方ないね」と言ってしまうとそこで議論は終わってしまいます。なぜ公理が違うのか、公理のどこが違うのかを探してみてください。きっと多くの共通点と少しの相違点があることでしょう。本当に違うところだけを抜き出します。お互いの公理のどこが違うのかがはっきりしたら、お互いの意見を合わせてみましょう。
そうすると条件によって出てくる答えが違うことが分かってきます。
ですから議論が煮詰まってくると条件Aの時はα、条件Bの時はβ、と複数の解がある場合があります。
「正解は一つしかない」という固定観念を捨てれば何も困ることはありません。
なぜ争いになるのかその理由を考えましょう。それが議論のポイントです。互いに矛盾する結論とたくさんの理由を集めてくると対立軸が見えてきます。理由というのはすなわち基礎となるものの見方です。
対立軸というのは争いの現場から一歩退いた別の視点を持たないと見えてきません。一歩離れると議論のリングが見えてきます。
正しいのか間違っているのかとはリングのつくり方で変化しちゃいます。
リング作りが上手い人が議論を制してしるわけです。
そこで、逆にどうやったら負けるのか、ということを考えてみるのも面白いかと思います。
するとリング作りがわかってきます。
また面白いのは、問題そのものを議論するのではなく、その問題の解き方について議論するのが「メタ議論」です。
言葉の意味というものは厳密に定義することができないものです。意見の正しさは「この言葉をこういう意味にとるなら正しい」としか言えないのです。
例えば、相対主義というのは、「正解はあるが、それは言葉では言い表せない」という主張です。これは円周率を表現するようなものです。円周率は3と4の間のどこかにただ一つあるのですが、「ではいくつだ?」と聞かれても答えることはできません。「円周率は3.14159265358979……」と数字を並べている人に向かって「そんな事をいくらやっても真の円周率には到達できないんだから無駄だ」と言うことはできます。そしてそれに対して「そんな事はわかっている。しかし真の値にはたどり着けないけれどどんどん近づいていってるんだから無駄ではない」と言うのが相対主義です。
そこで答えを直接出す代わりに答えの出し方を答えるのです。
例えば計算式ならばπ=4*(1 - 1/3 + 1/5 - 1/7 + 1/9 - 1/11 ……)」というように。
円周率で言うとどんな性質を持っているかを知ることです。それは数字を追いかけているだけではわかりません。
大切なのは魚を捕まえるのではなく、魚の性質を知って、捕まえ方を伝えることです。
すると一回だけではなくいつも魚をが手に入れることができます。
ビジネスの証明の仕方
まあ手っ取り早いのが結果を出すことでしょうね。 そのためには信頼、約束、ルールなどが前提でしょう。
裁判での証明の仕方(法律学)
ある仮定の命題を、すでに証明されている命題を基礎にして、仮定の部分を論理的に結論に導くこと。
この推論を証明という。 “証明する”ことを、“論証する”ともいう。
数学の証明の仕方 百科事典やウィキペディア参照
認められた事実(公理、証明済みの命題)と仮定から適切な推論によって新たな命題を導く方法が数学の証明の仕方です。やっかいなのは「適切」です。これが難しいです。
ある証明の中で導入された仮定は、その証明の中で否定されるか(背理法)、証明の別の部分で証明されなければなりません。
cf.
数学では一つの理論体系を作る時に,一つの公理系,すなわち,いくつかの公理を定めて,その公理を基礎にして証明される命題,すなわち定理を順次作っていきます。したがって,ある公理系によって築いた理論体系内の証明は,他の公理系のもとで,そのまま適用できるとは限りません。
代表的な証明方法
直接証明法 仮定から出発して,既知の定理などを利用しながら三段論法によって進むもの。
P⇒Q を証明したいとき、P⇒Q を直に証明することを直接証明と言う。
対偶法 - 命題 P⇒Q を証明する代わりに、これと同値な ¬Q⇒¬P を証明する方法(¬は否定)。
転換法 - 全ての状況が P, Q, R のいずれかに分類でき、A,B,C が独立であるとする。今「P⇒A」「Q⇒B」「R⇒C」が証明できていたとする。このとき、それらの逆「A⇒P」「B⇒Q」「C⇒R」も成立する。
ディリクレの箱入れ論法 - n+1 個以上のボールのそれぞれが n 個の箱のいずれかに入っているとする。このとき、少なくとも1個の箱には2個以上のボールが入っている。
数学的帰納法 - 自然数に関する命題 P(n) が全ての n に対して成立することを示す論法。まず P(1) が成立することを示し、次に P(n) が成立すれば P(n+1) が成立することを示す。
反例 - ある命題 P⇒Q が偽であることを示すには、「Pであり,かつQではない」という反例をあげればよい。
否定 - ある命題 p の否定が偽であると証明できれば、命題 p は真である。
背理法 - 命題 P⇒Q を証明する代わりに、P∧¬Q を仮定して矛盾を導く方法(∧ は論理積(連言))。
誤りに帰着させる〉という意味で帰呈(きびゆう)法とも呼ばれる。
背理法の証明例
その一
「素数は無限個存在する」という命題の証明は以下のようになされる。
素数の個数は有限であると仮定する。すべての素数を掛け合わせた数に1を足したものはどの素数で割っても1余り、割り切れない。すなわちそれ自体が素数であるか、ここで想定した最大の素数よりも大きい素数でしか割り切れないことを意味する。いずれにしても、すべての素数以外に素数が存在することになり仮定と矛盾する。よって仮定は間違っており、素数は無限に存在することが示された(証明終わり! Q.E.D.)。
その二
素数が有限個しかなかったと仮定して,それら全体を p1,p2,……,pn としよう。N=1+p1p2……pn の素因数 q を考えると,q は p1,p2,……,pnのどれかと一致するのだから,右辺は q で割って1余る。これは,q が N の因数であることに反する。それゆえに素数は無限にある。
説明とは?
あることを複数の人の間で理解するには、解釈を一つにします。たくさんの解釈がある時は、一つ一つに焦点を当てて視点を共有します。また、いくらこちらが説明したと思っても、複数の人の間でそうは思わなければ、説明できているとは言えません。
説明とは一般的な行為とは違い、「知っている事実を基にして、明らかに導き出される結果を、その過程と共に説くこと」です。つまり、分っていることを基にして分っていないことを事実として明らかにするということです。
数学では答えだけを聞いても、数式が示されなければ合っているのかどうか分かりません。
また説明することで、複数の現象の中の共通のルールが見えてきます。
説明とは学問の世界では証明と同義です。
トロッコ問題
1985年のオックスフォードで出会った設問に25年ぶりにまた再会した。当時はその設問の出し方に気が乗らず、設問者の手法を残念に思った。勝手にトロッコに乗せられ、勝手に線路をひかれ、左右のどちらかを強制的に選ぶよう仕向けられ、その判断に対してどちらにしても設問者の価値観で意味付されるような感覚を持った。ハンドルから手を離したり、選ばないという選択は聞いてもらえない。21世紀に入りこの設問が流行っていて多くの大学生も知っているという。この再会に私なりにちゃんと答えるのも、もう25年間も行かなくなったイギリスとのケリのつけ方であるし礼儀かなと思う。
今のトロッコの設問は以下のようだ。
暴走する路面電車
あなたは路面電車の運転士で、時速六〇マイル(約九六キロメートル)で疾走している。前方を見ると、五人の作業員が工具を手に線路上に立っている。電車を止めようとするのだが、できない。ブレーキがきかないのだ。頭が真っ白になる。五人の作業員をはねれば、全員が死ぬとわかっているからだ(はっきりそうわかっているものとする)。
ふと、右側へとそれる待避線が目に入る。そこにも作業員がいる。だが、一人だけだ。路面電車を待避線に向ければ、一人の作業員は死ぬが、五人は助けられることに気づく。
どうすべきだろうか? ほとんどの人はこう言うだろう。「待避線に入れ! 何の罪もない一人の人を殺すのは悲劇だが、五人を殺すよりはましだ」。五人の命を救うために一人を犠牲にするのは、正しい行為のように思える。
さて、もう一つ別の物語を考えてみよう。今度は、あなたは運転手ではなく傍観者で、線路を見降ろす橋の上に立っている(今回は待避線はない)。線路上を路面電車が走ってくる。前方には作業員が五人いる。ここでも、ブレーキはきかない。路面電車はまさに五人をはねる寸前だ。大惨事を防ぐ手立ては見つからない──そのとき、隣にとても太った男がいるのに気がつく。あなたはその男を橋から突き落とし、疾走してくる路面電車の行く手を阻むことができる。その男は死ぬだろう。だが、五人の作業員は助かる(あなたは自分で跳び降りることも考えるが、小柄すぎて電車を止められないことがわかっている)。
その太った男を線路上に突き落とすのは正しい行為だろうか? ほとんどの人はこう言うだろう。「もちろん正しくない。その男を突き落とすのは完全な間違いだ」
誰かを橋から突き落として確実な死に至らしめるのは、五人の命を救うためであっても、実に恐ろしい行為のように思える。しかし、だとすればある道徳的な難題が持ち上がることになる。最初の事例では正しいと見えた原理──五人を救うために一人を犠牲にする──が二つ目の事例では間違っているように見えるのはなぜだろうか?
最初の事例に対するわれわれの反応が示すように、数が重要だとすれば、つまり一人を救うより五人を救うほうが良いとすれば、どうしてこの原理を第二の事例に当てはめ、太った男を突き落とさないのだろうか。正当な理由があるにしても、人を突き落として殺すのは残酷なことに思える。しかし、一人の男を路面電車ではねて殺すほうが、残酷さが少ないのだろうか。
突き落とすのが間違っている理由は、橋の上の男を本人の意思に反して利用することかもしれない。何しろ、彼は事故にかかわることを選んだわけではない。ただそこに立っていただけなのだ。
しかし、待避線で働いていた作業員にも同じことが言えるだろう。彼もまた事故にかかわることを選んだわけではない。ただ仕事をしていただけで、路面電車が暴走した場合に自分の命を捧げると申し出たわけではない。鉄道作業員は傍観者がとらないリスクを進んでとるものだという意見があるかもしれない。しかし、緊急時に自分の命を捨てて他人の命を救うことは職務記述書に書かれていないし、自分の命を投げ出す気があるかどうかは、橋の上の傍観者であろうと作業員であろうと変わりはないものとしよう。
以上設問終わり!
設問に答える前に
この設問はあまりに無理があるという人も多いのでいくつかの改善策を。
第一の設問を、判断するのは運転手のあなたではなく、離れた指令室で待避線の線路の切り替えスイッチを押すことができるオペレターに変える。
本線も待機線もどちらもその先は土嚢が積んであって電車は止まることする。
実際の列車暴走事故では、人を轢いたくらいでは列車を止めることができず、どうやって安全に止めるかが最大の問題になります。これは、脱線・衝突により、乗客・乗員・近隣の住民などを巻き込む大惨事を起こす恐れがあるためです。そうでないと、暴走する電車をより安全に止めるためには、人がいようがいまいが、待避線へ電車を入れるのが当然のはずです。
第二の設定は
橋の上で見ている「傍観者」である「大男」を、5人を助けるためなら殺しても良いか?という設定を現実に近い方に変えてみる。傍観者である私は声を出すこともできるし、大男を橋の下に落とすのも容易ではないし、それで電車が止まるとは普通は思えないからだ。
傍観者である私は、指令室にいるオペレーターだ。ビデオで路面電車と線路の状況を見ている。路面電車を制御するシステムは壊れている。この「大男」が線路の上にいるが、電車が近づいているのに気がつかない。「大男」の近くにはスピーカーがあるので、こちらが知らせれば助けることができるが、その先で作業をしている5人の作業員には声は届かない。電車はブレーキも警笛も壊れているが、電車の先頭には自動停車装置があるので、「大男」にぶつかれば作動して5人は助かる。さてこの指令室のオペレーターの私はは、「大男」に危険を知らせるべきか、それとも5人の作業員を救うために、1人の「大男」を見殺しにするべきか。
では現代の講師マイケル・サンデルさんに話を進めてもらおう。
https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=kBdfcR-8hEY
サンデルの論理(政治哲学)の組み立て方
はじめは数の問題、次は個人の自由と権利を基準とした問題で正義を語り始める。
(1)幸福の最大化、最大幸福原理 (数値 功利主義的、ベンサムの哲学)
(2)人間の自由や尊厳 (個人の権利 リバタリアニズム 自由原理主義 ロバート・ノージック)
(3)美徳を尊重し、よき生き方を培う(アリストテレス ローズのリベラリズム)
最後に(3)に留まりながら、ローズを超えていくコミュニタリアンの考え方をサンデルは表明している。
功利主義
功利主義者ベンサムは道徳の最高原則は社会の幸福のために、全体として快楽が苦痛を上回るようにすること、つまり「効用の最大化」だとした。そして共同体は個人の集まりだとした。この功利主義の論理は費用便益分析という名で昔から企業や政府がよく使い、効用は数値で表され、たいていはドルで換算される。
幸せの数値×人数=最大幸福
集団の幸福のために人を手段として利用するという功利主義的な考え方。大きい政府
リバタリアニズム(自由主義の一つ)
個人の権利を非常に重要だと考える哲学者ロバート・ノージックたちが主張。彼らはシートベルト着用という自分を守ることを強制するような干渉主義的な法律に反対し、同性愛者間の性的な親密さを禁止するような道徳的な法律に反対し、金持ちから貧しい人に再分配する課税法に反対する。その例としてビルゲイツやマイケルジョーダンをあげる。ノージックは税金を課することは所得を取り上げることに等しいと言う。課税は盗みだ。極端に言えば課税は道徳的に強制労働に等しい。個人の労働に対する独占権を政治団体が部分的に所有していることになるから、奴隷のようなものだ。つまり自分が自分を所有していないことになる。このようなリバタリアニズムの考え方の根本的な原則に自己所有の考え方がある。
ロックは民主的に選ばれた政府であっても、政府が覆せないある種の個人の基本的な権利が存在するとした。その権利は、生命・自由・財産に対する「自然権」だ。自然権を考えるには政府ができる前の状態、法律ができる前の状態を想像する必要がある。その状態をロックは「自然状態」と呼んだ。自然状態は自由で平等だが、好き勝手に行動することとは違い、ある種の法も存在する。それを「自然法」と呼ぶ。自然法の元では、私たちは他の人の生命、自由、財産を取り上げることはできないし、逆に自分自身の生命、自由、財産を取り上げることもできない。なぜなら自然権は不可譲なものだから。ロックの理論では政府誕生前から、私有財産を保有する権利を持っていたことになる。それは自然法で不可譲だが自己所有があり、自分の労働も所有している。労働は財産であり、所有されていないものに私の労働を加えると、それは私の所有物になる。しかしその所有物を守るために、我々は、自然状態を離れ、多数派や人間の法のシステムに支配されることに同意して社会に入り、政府をつくる。しかし、そもそも何をもって所有権とするのか、そしてその所有権を定義するのは政府なわけだが、これは矛盾しているのではないか。
暗黙の同意と契約によって生まれた義務と命と公平さ
所有権についてのロックの考え方では、民主的に選ばれた政府には国民に課税する権利があるが、それは同意に基づく必要があるとした。なぜなら課税とは公共の利益のために国民の財産を取り上げることだから。そして、税金を徴収する時に国民一人一人から同意を取り付ける必要はない。
必要なのは社会に参加し政治的な義務を引き受けることに対し、事前に同意を得ておくことだ。一度その義務を引き受ければ多数派に束縛されることに賛成したことと同じことになる。
今回は義務の話である。生存権について考える。政府は国民を徴兵し戦場に送ることができるのか。ロックの答えはイエスだ。ロックは将軍が兵士に対して大砲の前に出ろと命令できると言う(リバタリアンなら命令できないと言うだろう)。しかし将軍は兵士から1ペニーたりとも取り上げることはできない。なぜならそれは正当な経緯に基づく命令ではないからだ。ロックは将軍の命令に対する個人の同意ではなく、政府に参加し多数派の束縛を受け入れることに対する事前の同意を大事にする。そして国民には義務が生じる。南北戦争の例で考える。当時北軍は徴兵によって兵士を取ったが、軍隊へ行きたくないものは自分の替わりに誰か雇うことができるという、徴兵制と市場のシステムを導入した。
ローズのリベラリズム
私たち全員が、無知のベールの後ろにいると想像する。そのベールは、私たちが誰であるかを隠してしまう。人種、階級、社会における地位、強み、弱み、健康などを隠し、平等な状態を一時的につくり出す。
「無知のベール」という架空の平等なスタートな状態の下で実現される。つまり皆が自分がまだ誰でもない状態で、社会のルールをつくり、そして無知のベールを取り払うのだ。ロールズは功利主義を批判しているが、功利主義の原理は、最大多数の最大幸福だ。だから少数派が抑圧されてしまう。無知のベール内では、自分が少数派になる可能性があるため「平等な基本的自由」を採用することに皆が同意する。また、私たちは金持ちになるのか貧乏になるのか、健康になるのか不健康になるのかわからない。だから所得と富を平等に分配することを要求しよう、となる。しかしロールズは金持ちと貧乏人の格差を認めている。ただし条件付きだ。最も恵まれない人々が便益を得るようなシステムである場合の条件付きだ。これをロールズは格差原理と呼ぶ。格差原理とは、最も恵まれない人々の便益になるような、社会的、経済的不平等だけが認められるという原理だ。最適な人を最適な職に就かせることが、最下層にいる人の便益になるかもしれない。だから、格差原理が無知のベールの背後で選ばれる、とロールズは言う。
ローズは女神の目隠し「無知のヴェール」のたとえを用います。女神は目隠しされているので、どちらを選ぶかわかりません。今から一つのグループを二つのグループに分けるのですが、どちらに自分が選ばれてもいいように公平さを基準にするように求めるというのです。サンデルはこの公平さも十分ではない、といいます。
サンデルの提案 第三の道 ローズを超えて
美徳の推進 アリストテレス、カント、共同体で考える
サンデルの論理的な楽しさ
サンデルが「功利主義であれ、リバタリアニズムであれ、何らかの倫理原則によって、正義が導かれるという考え方は間違っている。」とちゃんと言ってくるのはいい。言っている内容は当たり前のことだけど、そうは思っておらず「一つの基準」があるんじゃないかという人もいるから、ここは楽しい。
そして、コミュニタリアンという考え方を導入することで、人は何らかのコミュニティに埋め込まれ、その価値観は(無意識のうちに)伝統的な「物語」に依拠しているとするのは、とてもいい。私の言葉でいう、見えない壁を作り、維持するにはコストがかかっているんだから、中で暮らす限りは、みんなで分担し、管理する責任があるということだ。この共同体という見えない壁に囲まれて恩恵を受けていることに気がつかない人たちが増えてきてしまったので、このことを強調するのは大切なことだ。彼が経済学の「非現実的な個人主義」を批判する部分は、多くの経済学者も同意することだ。
これまでの3つの公理をわかりやすくすると
正義に関する問題で、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の推進の3つの基準、公理、理念です
これを他の基準で分類すると数値化と形而上学と美学とも言えませんか?
人間社会で分類すると脳と個人と共同体に対比して考えてみます。
見えてくる構図
まずは対立する軸を探す。 次に基準を探る
1 数、 それでは数で判断して良いのか、 そうではない例を探す
2 個人の権利 同意、契約 それで判断して良いのか そうではない例を探す
3 共同体に属する責任 女神のヴェール 公平 メンバーの一員、義務
解決できない現実問題を次々に提示して、だんだんともっと抽象度の高い基準に導こうとするが、それにしたがって基準が多層化し、誰もが複数の共同体に属することから複雑度が高まる。
複数の共同体の利害による善の違いがあることから、解はなくなり、こういう問題を考えることに意味がある。という結論になる。論理をどちらに展開しようとするのか?
そして、次に「理性を使って問題に関わることが正しい」と断言して話を進めていく。
その根拠は何なんでしょうか?理性を使わなくてはいけない理由はあげない。なぜなんだろう?
サンデルへの疑問
彼はこの本や講義の目的を、抜粋すると以下のように言う。
The aim of this course is to awaken the restlessness of
reason and to see where it might lead.
本講義が目指すのは、理の不安を目覚めさせ、その行く末を見届けることです。
サンデルは第一回目の講義で受講者にこのような覚悟を求めることが本書の役割だと言っている。
私たちは多元的な社会に暮らしており、善が多様にあるため、善と善が衝突する。そのため、人々の間で善についての合意は存在しない。
他者を深く考え、関与していくことは、多元的な社会には、より適切でふさわしい理念ではないか。
哲学なんて答えが出ないと思ったり(懐疑主義)、自己満足に従っていては、理性の不安を克服することはできない。この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに通じるかみることだ。この講義で生じた不安が、何年も君たちを悩ませ続けるとすれば、我々は共に大きなことを成し遂げたということだ。
やっぱり悩ますことに、すなわち関わることに価値があるという。
何故?なんとかこのゲームに参加させてそんなに理性を他人につかわす理由はなんなんでしょう?
問題点
設問の舞台のつくり方
まず設問するには舞台が必要です。ここでは路面電車です。これについての条件については、まったく議論されていません。いきなり乗っているところから始めろ、そしてそこで正しく行動せよ、と迫ってきます。
小さな町や村には路面電車はありません。ある程度の人口密度があるところにしか路面電車はありません。
路面電車に普段乗らない人にとって、路面電車は凶器です。あんな重たい物体がスピードを出して街の中を走っているのですから。利用する人には理由があります。便利、早い、安い。利用者のメリットはわかりますが、それによって利用しない人のデメリットについては考慮されていません。利用しない人にとっては、路面電車に乗ることはメリットがある分だけリスクが伴います。周りに外を与えることを承知で自分たちのメリットのために利用しているのですが、そんな利用者たちに「正しいことをする」と言われても、利用しない人間は困ってしまいます。5人と1人の選択設問にしても正義ではなく、最悪か悪のどちらを選択するかというのが実情なので、ここから正義について語ろう、と言われても困ってしまいます。この立ち位置が彼のすべての哲学に貫かれています。F1レーシングカーで公道を走っておきながら、「正しいことをする」を考えようとしています。路面電車で言うと、街の中を走るのには時速20マイルあれば十分なのに60マイルも出せるエンジンを積んだ者の責任や、それを許可した者の責任は問われていません。この舞台の成立する条件を考えない「正義」をいくら討論してもつまりません。原発問題、テロ、食料問題、エネルギー、どれも大切な問題を討論するのに、その舞台を作った者が得てきたメリット(収入)と事故を起こした時の責任(賠償や破産)についての正義が確定しないと、いきなり路面電車の運転手にさせられても困ってしまいます。
アリストテレスをはじめいろいろな思想家の考え方を紹介していますが、誰もがポリスの中で暮らす人の立場で正義を語っているので、共同体という言葉を使ってもいても、それはポリスの中に住む人のことしか指していません。ポリス市民であることを前提にしてしか論議を進めようとしかしないのです。一見では便利な路面電車を使うことによって、実はどれだけの害を周囲の人に与えれているかについての正義には言及しません。
これについての私の答えはシンプルです。
路面電車に乗らないようにする。
しかし乗らなければならない時は、その利便性を得た責任を取り、「悪いことをする」ということです。
次にこのような話の進め方は、設問の順番を操ることで、自分が目指す方向に議論を導いて討論の舞台を自分の意図していたものに固定化させてしまうことです。オープンな状態と設定していますが、参加しているのは学生や興味のある人たちば辛いです。そこには被害者やこの種の劇場に関心のない人は入場していません。
問題を数から功利主義に導こうとしたり、
公平のチャンスの問題、合意の問題、契約の問題から個人の基準(リバタリアニズム)に導こうとしたり
利害を超えた公平さをリベラリズムに導こうとしたり、
いやそれを超えた自分の属する共同体での役割を考慮するコミュニタリアンに導こうたりして、
まずは抽象度を上げる演繹法をつかって、一つの法則の基準を導き出し、次にその基準で解決できない具体例を探してきます。
そして次々に自分の予定していた舞台に参加者を案内します。
ラスベガスのマジックショーやイルージョンなどのエンターテインメントとしては大切な手法ですが、正義について討論するには、はじめから引かれていた路面電車の線路の上を走らされている違和感を感じる方もいるでしょう。実はこの線路には仕掛けがあるので、後で一緒に考えてみましょう。
どの設問に対しても理性を持って一緒に考えてみようと提案してきますが、どの問題も人間の本当の姿から遠ざかるばかりです。
考えることと行動することの違い
何故なら、「正しいことをする」には行動が伴ってくるからです。正しさは名詞の世界ですが正義は動詞の世界だからです。他の言い方で言うと、正義は頭で考えるだけではなく、体を使って形にあらわれるのです。
指が、手が、腕が、足が動くんです。その時のヒトの意識についての考察がありません。まるで理性で選んだことがそのままヒトは行動できるかのように話を進めています。
ヒトは好き嫌いや習慣や偏見や錯覚でものを選び続ける生物です。しかし、それに対する想定の仕方や対処法や受け入れ方や諦め方には論理が進みません。
ヒトは行動の70%を無意識の中で行われていると言われています。
どちらの「悪いことをする」にしても、一人の方が嫌いな人に似ているからとか、国旗の色に似ているからとか、そのように勘違いしてしまうように大脳はできているからとか、というのが意識があるかないかに関わらずヒトの行動の大部分を占めることです。人類の未来もなにも変わりません。「悪いことをする」のを減らしたいのならば、理性で設問を判断するよりは、ヒトが行動する時におきてしまう間違いを減らす訓練を体に教え込む練習をすることの方がよっぽど効率的でしょう。
それなのにあくまでも理想を持ち出し、理性でものを考えるように人を強いろうとする。
自然法や自然権を取り上げることから分かるように、まずはありえない天国、実験室、理想、を想定してそこからモノを考えたり、数値化して、あたかもそんな世界があるかのように錯覚させる方法だ。
コミュニタリアンとは仲間に対してだけ、外に対しては実はリバタリアニズム
サンデルはリバタリアニズム批判の旗手として知られているが、よくみると、サンデルが具体的な政策論としてのリバタリアニズム(自由主義の一種)批判をしているわけではないのである。実は「リバタリアニズム的な政策を採用する」ことを少しも批判はしていません。極端な例を出すことで、リバタリアニズムが正義の原則とはなりえないことを示しているだけです。
「たしかに、リバタリアニズムは正義の原則にはなりえないけれど、多くの場合に有効である。政治的議論の結果、「共通善」として選ばれるのは、多くの場合リバタリアニズムにほかならない」。このように反論すれば、サンデルはこの主張に対して、中立を保つしかありません。
また「正義は倫理原則によって導かれるものではなく、アリストテレスの『徳』や『共通善』としか言いようがないものだ」。しかし、「徳」や「共通善」の内実がはっきりしていない以上、何も有意義な論点を追加していない。
アリストテレス的な共通善とは具体的に何なのか。特定の宗教や道徳だとすれば、それが「自然」な価値だという根拠は何か。その根拠を投票や慣習によって決めるとすれば、個人主義の集計にすぎない。またその共通善や理想といってもロールズの女神のヴェールの例でわかるように、公平なチャンスにあやかれるのは、その国家の内側の構成員であり、その公平性は国家構成員内という限界を持つ。やはり、ロールズの公平もナショナリズムである。ヴェールをはずすとアメリカ人がメキシコ人になっていた、という公平さは認めることはしないでしょう。
こうした批判に対してコミュニタリアンが十分な答を用意していないことも、サンデルは正直に認めます。アメリカのような多様な社会で、個人を超えた価値を絶対化することは不可能であることも。
共同体を議論に持ち込むと、その共同体に入っていない人たちや外側にいる人たちのことを除外して話を進めるしかなく、複数の共同体の善悪や真偽についてはろんをすすめることができないという弱点があります。
そして最後には、彼自身が認めているように共同体の価値観を持ち込むことによってどのグループに属するかによって正義が変わってくるので、目的が「正しいことをする」から「正しいすることについて考え続ける」に変わってしまっている。その意図はなんだろう?
アロウの不確定性原理でいうように、複数から一つを選ぶ時にその選出方法を変えることにより結果を思い通りの任意あるものに変えることができる。
最後に共同体を持ち出してきたのはどうしてだろう?
サンデルへの質問
理性の不安を克服することはできない、とは? 克服しなくていいんじゃない?というかはじめから答えはわかっていて理性の不安は克服できないでしょう? 呼吸を深くして、副交感神経を機能させた時に、理性の不安は低下します。わかりやすく言えば、理性をゆったりと休ませてあげてください。
城の中の理性は、城の外で多くの弊害を生むことの自覚は?
視点の移動 多様性がいいというのは誰がいうの?どこから見てるの? 理性、神、それとも人工衛星?
現代都市生活者が多様性を生活の中に求めているようには見えない。ラッシュ時の車椅子は?
実験室の中で寛いでいる理性はその多様性の恐ろしさを知らない 多様性の中で暮らしたことのないもののセリフでしかない。多様性とはあなたの嫌いなものに囲まれて無理強いされて生きていくことだ。
綺麗事いう人が属する共同体は周りを滅ぼしていくことによって、ますます綺麗事を言う共同体が成長する。
ユートピアを唱えることによって、多様性を破壊していくことに気がつかない今までにあった歴史上の集団のように。
人間の行動の当たり前の原因とは
より正しい選択、正しいことをしよう、正義とは、理性で考えると、
などといろいろサンデルは言っていますが、
実は好きか嫌いか、気分、なんとなく、本能、情動、思い込み、思考停止、保身などで人は今の自分の行動を決めているのではないでしょうか。
これは人類のこれまでにしてきたことを見るとわかってもらえると思います。
イギリスの植民地でしたきたこと、アメリカのインディアンにしてきたこと、今のアメリカが中近東でしていることを見ると人間の行動の実情は考えが共有できるのではないかと思います。
とくに無意識にしていることに注目するのがポイントです。ここには、すりこみ、自己催眠、自己経験、自意識、妄想、記憶、理念など多くのことと関連してきます。
大きく三つの分類に分けてみます。
脳 分析 優劣 推定 予測行動 思考停止
心 判断 好き嫌い 恐怖 怒り 流れ 自己保身 自己安全
体 条件反射 本能 必然
体の場所によって扱う情報や反応の仕方が違います。
そこで、ヒトが行動に至るまでの分かりやすいプロセスを見てみたいと思います。
これがわかると、考えていることを実行できなかったり、考えてもいないことを実行してしまっている私たちの行動がわかるので簡単に説明します。
五感を通しての体の外側からの伝達
内蔵など体の内側からの伝達
意識からの伝達
無意識からの伝達
これらに対して本能のものは体、五感のものは心、意識的なものは頭が対応します。
例えば後ろから急に叩かれると、その筋肉は収縮します。無条件に反応してしまうのが本能です。
それに比べて五感からの伝達は複雑です。
例えば道を歩いていたらある音楽を聴いたとします。
そのメロディーが心地よいものか、そうでないのか?好きなのか嫌いなのか?それから生まれてくる感情で悲しくなるのか、ウキウキしてしてくるのか?いろいろと感情が湧き上がってきます。はじめの心地よいかどうか、また感情が生まれるまでは無意識です。これらは心で処理されます。
またメロディーを聞くやいなや、これを前に聞いたことがあるのかどうか頭にある昔の記憶にアクセスします。使っている楽器が違ったり、テンポや音調は違っても探してきて、この曲の関連する事がらを思い出して時には涙を流すこともあります。これも無意識です。
次に歌詞を意識し始めると、それは頭にある側頭葉を通して歌詞の意味を理解し、歌詞と歌詞の間にある文脈である情景や心象や関係性の意味を理解していきます。これは意識のもとです。
このようにヒトは必ずしも意識のもとで、意思を持って行動しているとは限らないのです。
これも異論があるでしょうが、多くのことは無意識で行われていて、逆に反応や行動した後から、こんな意思があって判断したと、後付けで理由付けをしていることが多いのです。
無意識の中には、育った環境、習慣、文化も入ります。また教育によるImprinting(刷り込み)もそうです。
自己催眠や錯覚や思い込みや勘違いや偏見や幻想や夢もそうです。
それらに対する対処をしっかりしていないと、いくら意識のもとで、理想的なことを考えても実行されません。
特に、ここで言っておきたいのは、この情動を鍛えることをしているかどうかです。
例えば、蚊がいたらストレスになるとか、うるさいのはダメだとか、汗臭いのは苦手だとか、抗菌してないものは触りたくないとか、嫌いな色があるとか、苦手な性格な人がいるとか、があれば、意識する前からこれらの情報に影響を受けてしまうのが動物の生態です。
いくら理性と知性を使って頭の中で正しさや正義を追求しても、情動を訓練していなければ、外に出てくる行動は無意識に囚われて偏ったものになっているはずです。いくらあとから意思のある理性的なことを言ってもそれは後付けの理由付けであって、これを満足するのはその人の理性だけです。
これが行動するのならば、理性と同様に情動を鍛えることが必要であるということです。
正しいことを「考える」と正しいことを「する」、の違い 脳科学の視点から
脳科学では正しいことを考える部位と、正しいことをするのを判断する部位とは違います。
考える部位は大脳皮質で、判断するのは大脳辺縁系です。
「する」という行動を議論に含めるのならば、人間の行動するする仕組みをしらなければなりません。
行動する時には、人間の脳、特に大脳皮質にはできることとできないことがあるからです。
例えば、大脳皮質が如何に高度な計画行動を想定したとしても、そこに動機が発生しなければ一切の行動に移ることはできません。つまり我々の脳内では、大脳皮質には決定の機能がないのです。決定権があるのは大脳辺縁系の方です。
これは信じられないという人が大半かと思います。
これまでに大脳辺縁系を怪我した人の例や動物実験のケースなどいろいろあるのですが、身近の例を探すと、道で困った人がいたので100円を渡そうとしたが、気がつけばほかにお金を持っていなかったので、昨日から水を飲んでいなかったので、急に喉が渇いてきてその100円でミネラルウォーターを買ってしまったというようなことです。
人間の行動の選択とは、正確に言うと、実は自分の意識による意思決定ではありません。ほとんどが無意識による決定をしているのです。
我々の脳内で行動選択の動機として働くのは「欲求」や「意欲」で、これらは本能や情動によって起こります。。
これらは内蔵や五感を含めた内部や外部からの刺激に基づき定められた反応であり、これらを「自分の意思」とは、辞書や百科事典では呼びません。
我々は選んだ方を自分の意思と考えます。しかし、脳内で実際に存在するのは、与えられた状況を基に行動を選択するための機能でしかありません。我々はその結果を意思と呼んでいるのですが、飽くまでこれは生物学的構造によるものであり、何処を探しても我々の脳内に意思というものは見当たりません。現在では多くの生物学者、脳科学者が神経系を有する動物に蓋然的probablyな自由意志の存在を否定しています。
このように、意志とは大脳皮質の機能ではありません。それは、実現すべき欲求に伴って脳内に発生する心(意識と無意識)の変化であり、大脳皮質はただ単にそれを自覚しているだけに過ぎません。そして、大脳皮質の意識に上り、我々が自覚できるのは認知作業を伴うほんの一部でしかなく、それ以外の行動選択は全てが無意識のうちに行われています。
なぜか?
意思とは、実は選んだ結果のことで、選ぶ動機は無意識である本能と情動の影響を大きく受けているからです。
例えば、沙漠の真ん中で一人で残され、太陽が照りつける下で水筒にはもう半分しか水が残っていない状況にいるとしましょう。
本能は水を飲むことを要求します。
情感では水は冷たくて美味しいだろうなと感じています。
理性ではもし夜まで水が補給できないことを考えて、今は我慢することを考えます。
水を飲むのを我慢したとしましょう。ただこれだけで理性的な判断をしたとは言えません。それが必ずしも理性による結果とは限らないためです。
一度に飲むのがもったいない、大事なものは最後に消費する、汗が引いたあとに水を飲む習慣がある、など自分でも意識していないいろいろな可能性があるからです。
飲まないと判断したのは、果たして理性の意思だったのでしょうか?それとも情動の意思だったのでしょうか?本能の意思だったのでしょうか?
現在、脳科学では「三位一体説」が主流となっており、以下のような三層構造に機能分化していると考えられています。
「本能行動:生命中枢:無条件反射」無意識 無学習
「情動行動:大脳辺縁系:情動反応」無意識 学習
「理性行動:大脳皮質:認知・思考」意識 学習
大脳皮質は最も高度な情報処理を行う脳機能の最上位中枢であることに間違いないのですが、ここで如何に知的で論理的な判断が行われようとも、辺縁系の情動反応が好き嫌い、やりたいやりたくないの判定を下さない限り、実際にはそれが行動に移されることはありません。では、本能行動を実行に移すならば辺縁系の許可は一切不要ですが、ここには本来意志というものがありません。
ですが、これで「心=辺縁系」とすることはできません。心は本能とも理性とも関わっています。
外界からの感覚に何を思い、どのような言葉を使って何をするのか、このような入出力の機能も含め、心とは即ち我々の神経系における「総括的な人格を反映する精神活動」と定義するに至りました。
大脳皮質は「今現在の状況」と「過去の学習記憶」を基に論理的に矛盾のない「未来の結果」を予測します。この認知結果に応じて実行される計画行動が即ち理性行動であり、そして、大脳皮質がこのような認知作業を行うときには、我々の脳内には必ずや「意識」というものが発生しています。
ところが、大脳皮質にできるのは「論理的に矛盾のない結果を選別する」というところまでであり、この結果に対して利益・不利益の判定を下しているのは「大脳辺縁系の情動反応」であります。つまり、大脳皮質が如何に論理的で理性的な計画行動を立案しようとも、その認知結果が大脳辺縁系に入力され、我々の脳内に「心の動き」が発生しない限り、行動選択における動機付けは行われないということです。
「情動行動」と「理性行動」は行動選択に生後体験を用いた共に学習行動でありますが、このふたつの違いといいますのは、それが意識行動であるか無意識行動であるかということです。
「本能行動」と「情動行動」はその場の判定に基づいて直ちに選択されるものであるため、この結果は常に「無意識行動」です。これに対しまして、「理性行動」といいますのはその場の状況だけで選択されるものではなく、過去の学習体験を基に「未来の結果を予測する」という計画行動であり、こちらは原因と結果の自覚された「意識行動」ということになります。
では、この未来の結果を予測するために必要なのが「想像力」であります。我々の想像力、即ち「人間の高い知性」とは、本能行動や情動行動では予測することのできない「未来報酬」を想定し、より価値の高い行動の選択を行なうためにあります。
但し、この「知性」を以って可能となるのは未来を予測するというところまでありまして、この結果に対して利益・不利益の判定を下す機能は大脳皮質にはありません。このため、最終的な意思決定といいますのは大脳辺縁系の情動反応によって下されなければなりません。つまり、大脳皮質がどんなに素晴らしいアイディアを提案したとしましても、大脳辺縁系の情動反応、即ち脳内に何らかの「心の動き」が発生しない限りそれが実行に移されることはないということです。そして、これは我々の脳内では「思考を行う機関」と「情動を発生させる機関」がそれぞれに異なり、その機能が分離されているからです。
では、我々は情動の発生をどのように自覚するのかといいますと、大脳皮質は情動の発生に伴って自分の身体に表出された情動性身体反応の結果を体性感覚として知覚します。つまり、大脳皮質は選択された行動や反応の結果を基に自分にどのような情動が発生しているのかを過去の学習体験に基づいて推測するわけです。そして、今現在自分に与えられている状況の判断を行なうことによって、「自分今は何に対してその情動を発生させている」といったい原因帰結を行います。これにより、ここで初めて結果を予測した理性行動の選択が可能となり、それを学習記憶として保管することができるようになります。
このように、我々の脳内では大脳皮質での認知よりも情動反応の発生の方が必ず先になります。これが、我々が自分の意志によって情動をコントロールすることのできない理由です。
「自覚」といいますのは大脳皮質での認知作業に伴う意識現象でありますから、これが発生するためには対象は知覚情報として入力されなければなりません。そして「感情とは」、大脳辺縁系に発生した情動反応に従って身体に表出された情動性身体反応が体性感覚として大脳皮質に知覚され、認知・分類の可能になった状態を言います。
大脳皮質には、大脳辺縁系に発生した情動信号が直接送られて来るわけではありません。大脳皮質は、大脳辺縁系の情動反応に従って身体に発生した情動性身体反応を内臓感覚などの体性感覚を通して知覚し、その結果に対して過去の体験記憶を基に認知・分類を行います。これにより初めて、自分に発生した情動が「喜怒哀楽」のどのようなパターンに属するかということに判断が下され、そして、現在に与えられている状況と答え合わせをすることにより、自分がいったい何に対してそのような情動を発生させているのかを自覚することが可能になります。これを大脳皮質における「情動の原因帰結」といい、我々はこのようにして自分に感情が発生したことを自覚します。
感情とは大脳辺縁系に発生する情動反応の結果が大脳皮質に知覚されることによって初めて自覚されるものであ
従いまして、大脳皮質がそれに気付くまでの間に選択される反応や行動は、全てが「無意識行動」このため、自分の意思によって情動行動をコントロールすることは本質的に困難ということになるわけです。
では、最後に最も肝心なことを述べるようになりますが、行動選択には動機というものが必要不可欠であるわけなのですが、大脳皮質にはそれを作ることができません。何故ならば、全ての行動選択の動機とは「欲求の実現」であり、それが即ち「情動」であるからです。大脳皮質には情動を発生させる機能はありません。従いまして我々の脳内では、大脳皮質には行動選択の決定権というものは一切与えられておらず、如何に価値の高い計画行動を立案したとしましても、情動反応を司る大脳辺縁系がそれに対してYESと反応しなければ実行に移されることはないということです。
大脳皮質の計画行動が未来の結果を予測したより高度な行動選択であることは間違いありません。ですが、情動行動もまた、生後体験によって獲得された反応規準に基づく学習行動であるという点では、この両者に構造的な違いは全くありません。では、意識・無意識を問わず、全ての行動選択の動機を意志と呼ぶならば、本能行動の選択もまた自分の意志ということになります。ところがどっこい、この本能行動を選択するための動機といいますのは生得的に定められた「全人類に共通の反応規準」であり、意志は意志でも、こればかりは自分の意志ではありません。
何故、本能行動だけが除外され、神経系における何れも同様の信号伝達であるにも拘わらず、それは心理現象とはいったい何処が違うのでしょうか。果たして、生得的な本能行動の選択と、学習行動の選択に伴う心理現象では、その性質が全く異なります。
本能行動とは遺伝的に定められた「無条件反射」による「種に固有の先天的な行動様式」であります。まず、これは全人類に共通であり、反応の結果に「個人差・個体差」というものはなく、この規準が変更されるということは生涯に渡って絶対にありません。これに対しまして、学習行動といいますのは生後体験によって獲得された「条件反射」です。それは「個体に特有の後天的な行動様式」であり、反応の結果は状況に応じて臨機応変に変更され、その判断規準は生後学習に基づくものであるため、それぞれの個人体験に応じて明らかな「個人差・個体差」が発生します。
本能行動は本質的に全人類共通であり、遺伝的な体質や病気や事故などを除くならば個人差というものは一切ありません。そして、それは我々が動物として生きてゆくために最低限必要なものですから、如何なる状況においても確実に実行され、常に同じ結果が選択されなければなりません。しかしながら、ひとの心には明らかに個人差というものがあり、それは常にめまぐるしく変化するものです。
これが、心理現象から一切の本能行動が除外される理由です。従いまして、心とは学習行動を選択するための神経系の情報処理ということになります。
大脳皮質や大脳辺縁系といいますのは、それまでの生命中枢(脳幹以下、脊髄まで)のあとから発達した新皮質であり、我々哺乳類と鳥類が、進化の過程で脳内にその機能を発達させました。従いまして、脳にこのようなはっきりとした解剖学的な違いがあるわけですから、これを以ってすっぱり高等動物と分類することができます。
生命中枢によって司られる本能行動とは、生得的に定められた反応規準に従って発生する「無条件反射」によって構成されます。生得的に定められた反応規準といいますのは、例えば、ある特定の刺激入力に対しては必ず「苦痛」という判定を下すことが産まれながらにして決まっており、生涯に渡って絶対に変更されないということであります。従いまして、感覚系を通してこの刺激が入力されるならば、生命中枢は無条件で回避行動を選択することになります。
生物への刺激は情報伝達として、
「情報入力―情報処理―結果出力」と行われるので、
本能のレベルでは
「情報入力―脳幹―結果出力」
という経路で行われます。そして脳幹には学習機能というものがなく、常に同じ反応を発生させるように予めプログラムされています。
では、ここに大脳辺縁系という新しい皮質が発達することにより、それまでの反応経路に対しまして、
「情報入力―大脳辺縁系―結果出力」
という新たなバイパス配線も追加されることになりました。こちらの回路には学習機能が備わっており、産まれたときにはプログラムが白紙で、書き込みや書き換えの可能な仕組みになっています。
苦痛に対して回避行動を選択するだけならば脳幹の反応だけで十分です。しかし大脳辺縁系のバイパスの方にひとたび苦痛という結果が学習されると、次からは無理に痛い思いをしなくとも事前に回避行動を選択することができます。つまり学習記憶といいますのは、体験結果を保持することにより、次に同様の事態と遭遇した場合、より迅速な行動の選択を行うためのものです。
そして、この事前の回避行動を選択させているのは「恐怖」という感情であり、それは大脳辺縁系の学習記憶に基づく情動反応によって生み出されたものであります。
ただ単に脳幹が反応するのではなく、「怖い!」と感じる、「美味しい、嬉しい」と思う、これこそが我々の生きた心の動きです。脳幹による本能経路ではなく、新たなバイパスの方を、我々は「心」と呼ぶことになります。
どのような思考形式で自己を正当化し、周囲を説得するのか 構造と歴史
実際にサンデルがやっていること 効果と実態
理性について考え続けよう、理性的に実現させようと、学生を一般大衆を教育し続けるのをサンデルは自分に課している。
彼は「考え続けるのに意味がある」、というのが、尤もらしく聞こえるが、そりゃあ答えがないので実情は違う。
彼が言っているのは人類史の中で伝統に語らえてきたユートピア信仰説の20世紀バージョンに過ぎない。
これで自分たちの共同体を有利な位置に立たせる戦略の歴史だ。
このサンデルの考え方を真似するととんでもない人間になってしまう。あちこち周りににいる知識人みたいになっちゃいますよ。
これはいい、って単純な人もいるけれど、
良心的な人でさえも、「我々は全知全能ではないし、どこかおかしいといいながらも、サンデルの主張は理論的には確かに正しい」、なんていっちゃうんですよ、知識人は。
ユートピアと綺麗事という正当化
まずはユートピアを唱える
ユートピアを唱えて、正しさを証明する、というのはこれまでにあらゆる組織が行ってきた方法です。
この方法が効果を出すには、いろいろな条件があります。
言葉が通じる場所であること
未来があること
夢があること 理想であること
目に見える形になること
閉じた空間の中であること (人工の中にあること)(塀の中にあること)
具体例で見てみましょう。
都市の中にある自然公園
選挙をすることで実現しているように見える民主主義
警察力と軍隊の配備で実現している平和
街の中にある多様性のある動物園
囲いのあることによって成り立つ自然豊かなサファリパーク
共同体の外から奪ってきたものを陳列することで成り立つ知的な博物館
他の共同体を絶滅させてきたことで成り立つ歴史博物館
共同体の内部に確かなユートピアがあることで、そのグループはますます力を増し、信者を増やしていきます。そのユートピアを信じる共同体は見えない壁をつくり、自分たちのユートピアに反するものは、その壁の外に追い払います。
そしてユートピアに反しても共同体に必要なものは壁の外の世界にそれをやらせます。例えば他の命を殺さないというユートピアに住むジャイナ教はたとえ虫の命であっても殺したくないので、自然あふれる農地にはいられず、壁の中の仕事に精を出すことになります。結果として農業はやめて金融業をはじめとした直接に自然にかかわらなくても良いところで生活を始めます。命を大切にするという正義は、ジャイナ教以外の人たちに畑仕事をさせることで成り立つのです。
また土があると微生物がいるので、土の上にコンクリートでビルを立てていることで、毎日数兆の微生物、何万の虫を殺し続けることになっている。
ただそれを自覚していないだけ。命を大切にするという正しいことをしているので。
原生林を全部切って、その跡地に綺麗な何百種類のチューリップを植えて、自然と命と多様性を大切にしていると言っているのに似ている。
綺麗事は一杯ある。命の大切さ 関係性 多様性
綺麗事を言うことにより、そのユートピアを作り上げるために共同体の意見をまとまる。
無理な綺麗事のために目的を達成することができない。
しかしその目標のために共同体は働き続けるため、そのシステム維持にエネルギーが必要で、そのために外部から補給する。その外部にこそ、多様性の命があるのだが、それを一部の内部の人間がとってくる。そのことを多くの内部の人間は知らず、自分たちは命の多様性という理想の目標のために生きていると思っている。
それが動物園、高層ビルの間にできた公園、公平さ、平和、植物園である。
共同体の中に対する美徳は壁の外に対しては「独善」や「価値観の押し付け」や「多様性の欠如」や「少数派の弾圧」です。
これって何処かで見た構図ではありませんか?福音主義、植民地政策、ポリス主義です。
プラトンの洞窟の喩えに対して、アリストテレスの思想を過剰評価するのでしょうが、どちらもポリスの中で暮らす住人です。ソクラテスを引用せず、いくらアリストテレスを引っ張ってきても、彼らのユートピアに賛同しない者たちを排除する考え方は変わりません。
これによりますます塀の中で暮らし、次の世代には塀の中に入ったことも知らないので、塀の外の仕業を哀れみ、改善してあげようとする者まで出てきます。
またこれに似たものがあります、学問です。 嗚呼
ユートピアとは
ユートピアとは〈どこにもない ou 場所topos〉と〈良い eu 場所 topos〉とを結びつけた1516年のトーマス・モアの造語です。現実には存在しない,理想的な世界です。
学問の虚偽と有効性
はじめにユートピアをえがき、そこから出発してルールをみつけ、目の前の世界を判断する。
学問が武器になってきた理由です。
学問でユートピアと言えば、理想状態のことで、例えば経済学ではまず自由競争という「完全競争市場」を想定します。競争が最も理想的に行われる状態のことです。
この条件は4つあり、
1 売り手も買い手も十分に多数存在し、
2 売られている商品の質が全く均一で
3 市場の参加者が誰でも同じ情報をフリーに利用でき、
4 誰もが自由に参加・脱退できる
ということが前提です。こんなことはありえないでしょう。
哲学ではジョン・ロックは国家や社会が出来る前は、誰もが自由だったという世界を推定して、その自由で平等な人間を「自然人 a natural man」と呼び、その状況を「自然状態 state of nature」と名付けた。各国の違いで社会や国家を個別的にしか論じることができない状況だったので、あえて「自然人」を仮定して、そこから社会の成り立ちを考えようとした。「統治二論」Two Treatises of Government 1690年
この自然人の考え方は政治学や政治倫理学やマルクスの「資本論」につながっていきます。
個別的で議論にならないものを議論にしようとする試みとしては素晴らしいけれど、議論された後は、不完全な想定からの推論なので、役目は終わったと見るのが妥当ではないでしょうか?ところが、この方法論を使って人間の社会の問題を科学にみえるように仕立て上げていくことが流行りました。
新しいものを考えるときには、効果的な手法で、とくに慣性の法則の発見など物理学などでは有効です。
ただ生命体が関わる世界の学問には、このユートピアから始まってしまうと、自分の首を自分で占めてしまうか、これを利用して、この法則が通用する領域と地域を広げ、結果的に周囲の世界を侵略していきます。
Ignorance is blissとばかり、知らないことで罪はなく、自分は「正しいことをする」ことについて誠実に学問していると言い訳をして。
素晴らしいずる賢さと相手が納得する論理を全力を使って研究するのはさすがです。
サンデルの自覚
サンデルは脅かします。
The restlessness of reason. 休まることのできない理(ことわり)。
正しさについて考え、そしてそれを元に行動することには、常に不安がつきまとうのである。そして一度そうする癖がついたら、そこから抜け出すにはいかないと。
"Once known, it can never be unknown or unthought"。
それは無知という無垢との永遠の別れなのであると。
彼は講義の第一回目をこう締めくくり、そして最終講義もこうしめくくっている。
この考え方によって一般の人が陥る状態を自覚してやっているのならばヨーロッパの伝統を継いでいて安心できるのですが、もしアメリカの素朴からくる純粋さからくるのであれば、これは問題です。良心や良識さと幼稚さで、自分のしていることを疑いもせずに驀進してしまうからです。周りの人に理性を余分に使わせ、自分たちの自然を理解する力、諦める力、受け入れる力、体の声を蔑ろにしてしまうからです。
体に一番いけないのが脳が不安に陥ってしまうことです。
ここにもまたいる、いつもの奴が。
耳元で綺麗事を囁いて、自分だけが得する方向へ社会を導くお方たちが。
新しい証明の仕方
本来は証明とは、認められた事実(公理、証明済みの命題)と仮定から適切な推論によって新たな命題を導く方法で、数学や法律の証明の仕方もこのようにやります。
ところが、サンデルを始め倫理学(もっといえば社会学系学問)での証明の仕方は数学のように厳密にみせかけながらなにも証明できていません。認められた事実(ベンサム、ノーリッジ、ロック、カント、アリストテレス、ロールズ)を並べて、証明されたかのようみせる方法を使っています。
これが伝統的正当化のやり方です。
解や最後の一行を欠いたままで証明が終わっているので、背理法を使って真偽を確かめることもできません。
そして今までにない、相手を沼の奥に導く新しい方法も加えました。
理性の不安を克服して、一緒に証明をし続けていこう、永遠に。
と言うのです。
確かにこれは新しい。設問者の舞台に参加者をいさせながら正当化するのを手伝うのが参加者の義務である、と逃げないように条件づけられます。そして使える道具は理性だけだよ、と脅かします。心や体を使う方法は提示さえもしません。
先にプログラムは書かれているので、なにをインプットしてもアウトプットは決まっており、想定内です。おまけにインプットした人の自律に焦点を置くので、プログラムの責任はだれも問いません。あのトロッコ問題や原発問題のように。
考えたものです。
理性しか使わない「頭を第一にする」人はやっぱり賢いです。
私の証明の仕方
学ぶことは単純なことです、理性の限界です。
理性は何ができて何ができないのか?
そしてその理性ができることはそれほど多くはありません。
分割すること、推論すること、そして大脳自身の保身を考えることです。
脳が有利になるためには自由や平和や平等の状況が都合がよく心地よいのです。
実際の自然の中にはそんなものはないので、理性の言うことをそれほど聞くことはありません。
それよりも大切なのは周りの人やグループや環境に同化する行為です。そうすれば嫌でも親切になるでしょう、一心同体なんだから。
そして次はすべてのものが繋がっている感覚を取り戻すことです。そうすれば他を蔑ろにすることはなくります、だって他が自分が繋がっているんですから。全部がつながると他人も自分も宇宙の一部となってしまいます。すると、他と戦うことが自分を傷つけることになってしまいます。
こういう感覚を得ることができるようになると、理性がいう形だけの平和や平等はいらなくなります。
理性や理想とは、生命体の経験が脳に残した前世代からのタンパク質の組み合わせ(メッセージ)なのかもしれません。平和はあるんだよ、って。
そこへのアプローチの仕方は山登りや森林育成や合気道やタンゴや気功などの伝統があるので、まさか大脳先行の方法がこれほど力を持ってメジャーになるとは、大脳自身も予測していなかったかもしれません。
いまでは理性とその住処である脳によって社会だけではなく自分の体も殺される時代が始まってしまいました。
ですから、やたら理性やユートピアを語る人がいれば少し距離を置けばいいでしょう。
後はいらぬ心配は要りません。
雲を見て、種の根が伸びるのを見て、笑って暮らしましょう。
その方が理性は不安から解放されて、ゆったりと働いて心も体もそして理性自身も喜びますよ。
こうやって今日も新たに生きていくのが私の証明の仕方です。
オックスフォード
ケンブリッジにいる頃に、オックスフォードのBalliol Collegeでインタビューを受けたことがある。私の書いた論文のタイトルは「キリスト教のカトリックと仏教の浄土宗との共通点」「A contact point between Christianity and Buddhism」
インタビューの前には「Practical Ethics」by Peter SINGERを読んでくるのが課題だった。カレッジで出された問題は、トロッコの問題だった。あまりの見え見えの誘導尋問式の設問に驚いて、私の好きか嫌いかという感情や、私の未知や既知や偏見の実情や、仏教の説話である矢に射られた鹿の話をして、私が勉強したいのは聖書倫理解釈学であり、それは南米生活体験からくる聖書の解釈の書き換えの必要を感じたからだ、と教授に言って、苦笑いされたことを覚えている。30年前の話だ。
こんなことは記憶の遥か彼方で忘れていたが、「正しさ」のことを考えていたら、トロッコ問題がまた目の前に現れたので、今度はちゃんと相手のルールに乗りながら、反証しておくのが私のケリのつけ方なんだろうと思う。
その頃に、ケンブリッジで日本びいきの教授が日本に遊びに行って、その成果をスライドショーで発表する場に立ち会ったことがある。幼稚園の制服やルールに対する従順性やラッシュアワーにおける大都市での非人間的効率性や女子大生の性風俗でのアルバイトを得意満面の調子で皮肉っていた。そこでイギリスの階級制とは違い、日本では娼婦も大学で勉強しているんですよ、と嫌味を言ってそこを立ち去ったことも思い出した。
ある世界では正しさとは、自分のやったことや自分の立っている場所を肯定して、正しく見せることを、正義や正しいことをすると呼ぶ。
1985年当時は路面電車ではなくトロッコでの問題だった。イギリスではtrolleyというと鉱山などで使われるトロッコのことを意味しています。これがアメリカに輸出してtrolley carすなわち路面電車になったのでしょう。
人数が5人と1人というのと、次の設問が一緒なのですぐにピンときた。
はじめの設問は数の問題、次の設問は個人の自由と権利の問題として、正義の基準について論が進んでいく。当時は二つ目の設問でも「あなたはトロッコの運転手で横に助手がおり、その彼をトロッコの前に落とすとトロッコを止めることができる」という設定だった。少しは設問が洗練されたがまだまだだ。
30年前は数の問題から契約covenantの問題について設問者と話をした。設問者が宗教学の教授だったので話は個人の自由だけでは収まらず、その個人の自由は自律しているのか他律しているのかを含む議論になっていった。
追記
欧米の議論では、トロッコ問題のような設問のあとに必ず、敵を助けたらとんでもない目にあった、という実例を出してくる。サンデルもそうだし、スピルバーグの「プライベート・ライアン」をはじめほかの映画でもこのようなエピソードを欧米ではよく挟んでくる。キリスト教的な哀れみとそれによる自己壊滅的な結果と自己反省 の三点セットだ。彼らの狙いは明らかで、「敵を殺しておかないと自分たちが殺される、だから殺すことは必要なのだ。」「情をかけることは自分の命を危険にさらすことだからしてはいけない。」という結論に誘導するためである。敵を助けたことと自分たちが危険にさらされたという因果関係が証明されていないのだが、こういう時は論理ではなく、受け手の感情に強く訴えて、マインドコントロールする手法で、彼らの選択が正しいように話を持っていこうとする。どうしてなのかな、と思っていた。いつもは論理と言いながら、こんなときに限っては情感を使ってでも、「相手に情けをかけてはいけない」と訴えるのだ。ここまで自己矛盾をしてまでも隠したいこととは何なんだろう。
トロッコ問題をはじめとした、論理問題の参加者たちに対しては、「人間は無意識の情感によって行動を判断する」ということを隠したいのではないか、と思うようになった。
本能行動や情感行動の方向へ行ってしまうと、自分の持っていきたい理性行動の方向へ、人が導かれないので、感情を強く否定する必要が出てきたのだと思う。意識させて理性の舞台に人を持ってくれば、いくらでも人を操れることを知っているからだ。
アフガニスタンのヤギ飼い
さて、実際に生じた道徳的ジレンマについて考えてみよう。これは暴走する路面電車の架空の話にいくつかの点で似てはいるが、事態がどう進展するかがはっきりわからない点でもっと込み入っている。
二〇〇五年六月、アフガニスタンでのこと。マーカス・ラトレル二等兵曹は、米海軍特殊部隊のほかのメンバー三人とともに、パキスタン国境の近くから秘密の偵察に出発した。任務はオサマ・ビン・ラディンと親交の深いあるタリバン指導者の捜索だった。情報によれば、目標とする人物は一四〇ないし一五〇人の重武装した兵士を率いており、近寄ることの困難な山岳地帯の村にいるとのことだった。
特殊部隊が村を見降ろす山の尾根に陣取ってまもなく、一〇〇頭ほどのヤギを連れた二人のアフガニスタン人農夫と一四歳くらいの少年に出くわした。武器は持っていないようだった。
米兵たちは彼らにライフルを向け、身振りで地面に座るよう命じ、どうすべきか話し合った。
このヤギ飼いたちは非武装の民間人らしい。とはいえ、もし解放すれば米兵の存在をタリバンに知らせてしまうリスクがあった。
どんな方策があるかを考えながら、四人の兵士はふとロープを持っていないことに気づいた。
そのため男たちを縛りあげ、新たな隠れ家を見つけるまでの時間を稼ぐことはできなかった。
選択肢は、男たちを殺すか解放するかのどちらかしかなかった。
ラトレルの戦友の一人は殺すことを主張した。「われわれは敵陣に潜んで作戦を遂行中だ。ここには上官の命令で送り込まれた。自分たちの命を救うためなら、あらゆることを行なう権利を持っている。軍人として何を決定すべきかは明らかだ。彼らを解放するのは間違っている」。
ラトレルは迷った。「心のなかでは彼が正しいとわかっていた」とラトレルは回想記に書いている。「どう考えてもヤギ飼いを解放するわけにはいかなかった。しかし困ったことに、私にはもう一つの心があった。キリスト教徒としての心だ。それが私にのしかかっていた。武器を持っていないこの男たちを冷酷に殺すことは間違っていると、何かが心の奥でささやき続けていた」。
キリスト教徒の心とは何を意味するのか、ラトレルは述べていない。だが結局、彼の良心はヤギ飼いたちを殺すことを許さなかった。ラトレルは解放すべしというほうに事態を決する一票を投じた(三人の戦友のうち一人は投票を棄権した)。ラトレルはその一票を悔やむことになる。
ヤギ飼いたちを解放して一時間半位した頃、四人の兵士はAK48自動小銃や携行式ロケット弾で武装した八〇人から一〇〇人ほどのタリバン兵に包囲されていることに気づいた。その後の激しい銃撃戦で、ラトレルの三名の戦友は全員戦死した。そのうえ、ラトレルたちシールズ・チームを救出しようとしたヘリコプターも撃墜され、一六人の兵士が命を落とした。
ラトレルは重傷を負ったが、かろうじて生き延びた。山腹を転がり落ちると、一二キロメートル近くを這ってあるパシュトゥーン族の村にたどり着いたのだ。村人たちは救助が来るまでラトレルをタリバンから守ってくれた。
当時を振り返り、ラトレルはヤギ飼いたちを殺さないとした自分の投票を責めた。「これまでの人生において、最も愚かで、馬鹿馬鹿しく、間の抜けた判断だった」と、ラトレルはその出来事について書いている。「頭がおかしかったに違いない。墓穴を掘るとわかってる一票を実際に投じてしまったのだから……とにかく、いまはその時をそんなふうに思い出している……決定票を投じたのは私だ。東テキサスの墓地に安らぐまで、その事実は私をさいなむことだろう」