パタゴニアの粘土細工
イースター島からサンチャゴに帰ってきてしばしの間、僕は雑踏の中で、帰るところのない家なき子のように立ち竦み、軽く口をあけたままボーとしていた。クラクションを鳴らす車や、忙しげに駆け抜ける人びとの画像は目に映りはしたが、どれもゲームセンターのTVゲームのように現実的ではなく、僕は今、始めてきた時に見たサンチャゴと別の視点―別の世界観―をもってこの都市を見つめていた。同じ空間、同じ時間に立っているのに、ものが立体的に層をなして見えた。黒はグリーンとレッドとイエローが重なり合ってできるように、黒だけを見ながらその瞬間、その後ろに黙って立つ3つの色も、鮮明に見ることができるような気がした。一度に広がった世界に驚きながらも、夢中になって入り込んだとき、今までになかった経験のためか、押しつぶされるような疲労感を感じた。
次の日、友達のノラに会いに行くことにした。彼女とはアメリカで同じ大学におり、もう4年も会っていなかったので、胸がときめいた。同じ大学といっても、彼女はその大学で授業を取っている本当の学生だったが、僕は1ヶ月でやめた語学学校の生徒だった。彼女の家には電話がなかったので、直接彼女の家に行ってみることにした。親爺さんがドアまで出てきて、彼女が出かけていることを告げたが、中に入れて椅子に座らせてくれた。2時間ほど待っただろうか。ノラが帰ってきた。彼女を見て飛び上がるほど驚いた。彼女のアパートを捜している時に見かけた、チャリンコに乗っているハクイ娘じゃないか。女性は奇麗に化けるというか、歳とともに美しくなるもんだなと溜め息をついてしまった。むかしの面影はところどころにしか残っていない。だが笑ったときの顔は昔も今も変わらない。興奮と感激のあまり英語とスペイン語のチャンポンで話しに夢中になり、声はうわずっていた。
彼女と話をすると、会話は途切れることなく、悲しい話でも笑いが絶えることなく、優しさが感じられる。彼女との話は「人間」が感じられ、人を落ち着かせ、安らぎと愛が伝わってくる。チリについてもいろいろと話してくれた。
チリの政権は十二年前から独裁政権を敷くピノチェが握っているのは有名だ。どこの国からも評判はいたって悪い。政権を取ってから一度も外国に行ったことがなく、フィリピンに行ったときも、何故かマニラの土を踏むことなく帰ってきた。1985年の3月にあった大地震のとき、ピノチェはサンチャゴにおらず、南の端のプンタアレナにいっていた。噂によると大地震の前から揺れが何度もあり、大地震がくることを予測しての行動だったという。それにしてもこの大地震は,現政権の政府にとっては願ってもいないひと揺れだった。事件後、世界各地からの援助が集まり、危機に瀕していた財政に対する影響は計り知れない。チリ人の中には、アレはピノチェ大統領が計画的に起こしたものだと信じている者もいるそうだ。
チリではまだ「苗字」というのが大きなステイタスシンボルであって、それによって人から人間を判断されることもある。だから社交界では大きな武器になる。人が関心をもって質問してくる順番は「苗字」「住んでいるところ」「父の職業」「車種」だそうだ。
だが社交界の連中も、アルゼンチンに対してはコンプレックスを持っており、「小さな」を表す語尾―itoが使われるのもそれがひとつの原因で、領土、文化、政治にいたるまで、アルゼンチンよりもスケールが小さいという想いが着いて回るそうだ。そんなわけであるから、チリ人は概してアルゼンチン人が好きでないという。アルゼンチンは南米のパリにあたるという人もおり、人々のお高くとまった感じ、洗練された身のこなし、ウィットのきいた会話、豊かな土壌、ワインといったところが似ているのだろう。またアルゼンチン人の議論好きは有名で、道端ではそれぞれのグループがそれぞれのテーマでウィットを織り交ぜて争うので、決して手は出さないスポーツ的血統だ。
2人で何かをテーマに論議していると1人,2人と加わって白熱する。レストランのウェイトレスにアルゼンチンについてのイメージを聞くと、エレガント、紳士という答が帰ってきた。ひとつのものをいろいろと言い表すのも面白いが、その言葉を選んだ人の状況や思想を見ることはもっと面白い。チリ人はペルー人に対して割合と友好的であるが、インカのインディオというイメージの強いボリビアを嫌うことが多いというのも、チリ人の目指しているもの―美学―が垣間見えて面白い。この美学と現実の差を助けるものに、アルコーホリックという問題がある。チリは世界でこの割合が一番高い国で、その主因があのワインにあることは間違いない。冗談で、チリが世界に誇れるものは女性とワインだという程、ここのワインは旨い。食事のときにワインを一緒に飲む人が多いが、グラス一杯ではなく、ボトル一本である。それもそのはずで、うまいだけではなく、値段も信じられぬほどで、コカコーラやミネラルウォーターよりも安い。金持ちの子がコカコーラを飲むところ、一般ではワインを飲み、その消費量が多い分だけ、子どもの頃からアルコーホリックの子どもも少なくない。これからは子どもが店でアルコール類を買うことができないように指導していく方針だというのだから、今までの状態がだいたい想像がつく。
ノラと話しながら政府を皮肉った話や、法に触れることの話もジョークを交えて、お互いの口からどんどん出てくる。冗談は何を言っても分かってくれるし、豪快に笑うし、ときたまきついジョークのお返しもある。彼女みたいな人を教養があるというのだろうね。女性として素晴らしいノラ。久しぶりに同じ世界にいる人と会ったという気がして、一遍にホレちゃいました。
彼女と別れてから隣街のバルパライソでホテルを探すことにした。この街は、景色の美しいことでも有名だ。港町としても有名で、昔は世界3大性地のひとつとして数えられたほど娼婦が多いことでも知られている。しかし現在は、入稿する船も極端に減ってしまったので、街もさびれている。赤線の中に飲み屋「かんぱい」を持っているマスター古川さんも、今では日本船が入ったときにしか店を空けない。それを知らなかった僕は「かんぱい」の前でどうしよう困っていると、やたらと陽気な女の子が声をかけてきて、このあたりを案内してくれるという。あちこちのホテルやバー、ディスコに顔を出すが、女の子の数は多く、少したじろいでしまった。バーで働いている四十歳ぐらいの女性は古川さんのことも詳しく、住所を流暢な日本語で教えてくれた。観光案内の途中、まだ7、8歳のガキが隠れるように細い路地でタバコを吸っていたが、こりゃあ先行き危ないよ。それに比べて女の子の中には、すれた娘もいるけれど、中にはまるで天使のような娘もいる。少し話せば分かるが,人間の悲しさを知りながら、それに押しつぶされない力強さと、清らかで純な厚いハート(コラソン)を持っている。仕事柄、計算高い娘もいるが、人間として尊く、やさしく、美しい、なんだか自分を鏡に映すのが恥ずかしくなってきた。娼婦として彼女たちを、そこに足を運ぶ男たちを非難するのは易しいが、彼女らによって救われた男たちもいるはずである。自分の立っているところを知り、それでも愛を与え続けたいと願う彼女らは天使と呼ばれるのにふさわしい。
サンチャゴに戻ってから、ノラの同級生、クリスティーナのアパートに寄った。言葉がマシンガンのように口から出て、時にシニカルにおどけてみせる彼女は昔と少しも変わらない。自由なアメリカから帰ってから暫くの間、ノイローゼにかかっていたようだが、今ではテレビ局で企画やレポーターをしている。妹のパウリナは二十四歳の医者の卵だが、医者になる目的は金やステイタスでなく、肉体だけでなく精神面の治療をする医者になるというのが、彼女のグリーンの瞳を見ただけでもわかる。
レストラン「ハポン」のオーナーが1ヶ月ばかり日本に帰ることになり、その間僕がすしを握ることになった。朝は魚市場に行き、魚の選び方、午前中は魚の下ろし方、午後は経営を教えてくれ、昔の記憶を頼りに学んだ。早乙女さんが帰って来る1週間前に現れたのが、ニューヨークで3本の指に入ると言われる四季さんだ。バイタリティーに満ち溢れ、朝から晩まで走りまわっており、すしを握るときは、7回戦まで行ったというボクシングのフットワークで仕事をする。
ノラ、パウリナは、一緒に居るだけでこちらも何時の間にかやる気に刺せてくれる、単純なパワー-を持っている。四季さんもまた違ったパワーを持ち、他人に影響を与える。
この3人とも、今やっていることが好きで好きでたまらないという。ノラは英語を教え、生徒が理解したときは快感だという。パウリナも勉強が好きでたまらないというし、自分の手で患者を癒すことができる仕事に就けたことを神に感謝しているという。四季さんは、すし職人はアーティストだという持論を持ち、とにかく人に美味しいものを食べてもらうのが生きがいで、どんどん新しいアイディアを取り入れ、子どもにはプロとしての切り絵を作ってあげるほどのサービス精神を持って自ら進んでやっていく。3人とも音楽とアートが好きで、ノラの絵、四季さんの歌、パウリナのギターと、どれも玄人なみだ。皆目が輝いており、自分に素直に生きている。
南米の最南端の島「火の国」に行く前に何気なく街を歩いていたらショーウィンドウの中に日本を特集したビデオが目に止まった。キックボクシング、猿ダンス、京都が、縦横5つづつ並べたスクリーンに映し出されていた。キックボクシングは日本人の根性、一瞬に生をかけるという美学を象徴し、外人ダンサーを真ん中に立たせて見世物にしている日本人に、いくら経済が強くなっても消え去ることがない欧米コンプレックスを見、新しい技術を駆使したカットをつなぎ合わせて見ているものを驚かす京都の紹介も、日本人が命を燃やして作り上げてきた文化遺産を表面的にしか捕らえることのできないテレビ、写真が食いつぶしていくばかりで、もう新しい文化を作り出して行く魂が、この画面からは奇麗さっぱりと消えうせていた。
こう思ったとき、文化を西カリフォルニア的、刺激をニューヨーク的に求めている日本とその周辺に対して、僕は七十年前のロシア人だという、とっぴな考えが頭に浮かんだ。アメリカとこれからの日本の目に見える文化に対して、ソ連と僕のユートピアの目指している精神の方向。ユートピアは単なる机上の空想である。でもそれに対する思いが,情熱が、愛があるのならば、それはまったく無意味なものではない。人が自分の手で物をつくり、自分のつくったものを愛し、物質ではなく、愛着によって人生のひとつになる。調和のある生活、でも調和は逆説的に傾きによってしか生まれない。人間がいくら科学を駆使したところで万能にはなれず、人間であることには変わらない。
精神の美学を物質としてこの世にそのまま表現されることはないが、より近い状態になればなるほど皮肉にも人間は自分自身によってスポイルされてゆく。物質の自由をかかげるアメリカが堂々と立ちはだかるのならば、ソ連のように精神をこの世に無茶に現した国は、軽い鎖国状態に似た制度を必然的に背負うことになる。すると当然その枠から出ようとする力が出てくる。ソ連人の方がアメリカ人よりも精神的に豊かかどうかは言えないが、間違いなく深さを持っている。だがアメリカに亡命したがっているソ連人は少なくない。七十年前のロシアの精神の方向だけは強い共感を覚えるのは何故だろう。アメリカの幻想の方が大きくて強いとわかっていても。
プンタアレナスに行く前にイチゴの原産地のチロエ島に寄った。秋の終わりを告げる海風が絶え間なく吹きつける。
遠くから見つめればカモメが一羽
波が飛沫に変わる
その上で悠々と宙に止まっている
一度も翼を羽ばたかせることなく宙に浮く
だが見るが良い。彼の熱い目を、神経に満ち溢れた一本一本の羽を、そこには柔軟な緊張が、羽ばたくよりも力強い心が黙って海を見つめている。
今日プンタアレナスからマゼラン海峡を渡り、「火の国」にやってきた。旅券を見ると日本を出たのは1980年10月15日とある。
今またこの街は雪がパラつき、風が存分に吹き荒れ、帽子はアっと言う間に後方に転がってゆく。あれから4年と7ヶ月が過ぎていた。この間に僕は1点を見つめながら流れるように生きてきた。知らぬうちに僕の人生が出来上がっていた。次々と今まで出会った人の顔が一人一人浮かんでは声をかけて消え去る。私というものが存在するとすれば、それはこの大地と彼等が作り上げた粘土のようなものだ。