ペルー 故郷となる
ルイス、チエミ、ジェニーを始め、ボリビア人のカルロスやその他の旅行者と一緒にブラジルに行くことになっていた。だが皆な仕事が予定より長引き、なかなかエクアドルを後にすることができなかった。学校の終わった僕は何もすることがなかったので、先に出発してペルーのクスコで落ち合うことになった。
キトーから国境までの直行便のバスに乗った。長い間山の中で生活していたためか、バスがだんだんと高度を下って走るにしたがって、とても蒸し暑く感じられた。海抜に近いところまで来たときは、顔が熱くなるほど暑かった。緑色のバナナの木が地平線まで続く畑の真ん中を切り開くようにバスは進む。同じ国だというのに、空気の色もぜんぜん違った。
国境ではスイスから来ている自転車野郎たちと出会った。ベネズエラのカラカスから南米の最南島ティエラ・デル・フエゴまで行く道中の途中だという。水玉の汗を地面に叩きつけて元気よくペダルを漕いでいく姿は人の目を奪う。
ペルーの国境町Tumbesは砂埃と太陽がイヤらしい程に照りつける町だ。一枚しか着ていないシャツが有無を言わせず身体に張りついてくる。その水分で重くなったシャツの上に、車のたてた砂埃や排気ガスが面白いようにまとわりつく。この暑さにボケたのか、オタバロで買って大切にしていたヤギの毛で編んだセーターをバスの中に忘れてきてしまった。
Tumbesから首都Limaまでの陸路は長い。まるまる一日かかる。右手は太平洋、左手は砂丘と少しも変わることのない風景の中をバスは黙々と進む。このだるい暑さとバスの振動の中で本を読もうという気も起こらない。そんなバスの中でまる一日何もしないというのもなかなか難しいことだ。そんなときに見た砂丘の上を悠々と旋回しているコンドルは、僕に活気を与え、周りの様子を丹念に見る機会をつくってくれた。左側に聳え立つ砂丘の山のてっぺんは、顔を窓に近づけないと見ることができない。海から吹きつける風で絶えず表面の模様を替えている。丘の砂粒はそこから流れ落ち、砂丘と道路の境界線はなくなっている。道路の上を砂粒はすべるように舞い、その上を時速80kmで突っ走る大型バスは車体を左右に翻す。なんとも闘牛士のごとく軽やかな身の振りである。
急にバスが何もない海と砂丘の真ん中で止まった。休憩時間だそうである。まわりに一軒の家も見あたらないが、道路の脇にみかん箱を重ねたような出店があった。2つあるが、どちらも果物や炭酸飲料を売っている。のどが乾いていたのでパイナップルを一切れ買うことにした。値段を聞くと少し高い気がしたので、値切ることにした。ジョークをまぜた交渉で半分の値段になったので、自分も南米生活に慣れてきたし、人と交渉しても五分五分で対応できるほど、スペイン語が上達したんだなあと自画自賛の心境となる。何の気なしに隣で売っていた丸ごとのパイナップルの値段を聞いてみると、それは何故かしら値切って買ったパイナップル一切れの値段と少しも変わらなかった。
ペルーの首都リマの印象はメキシコ・シティーを思い出させた。旧市街とは決して交わることのない傲慢なほど新しいビル。あちらこちらに所狭しと立ち並ぶ壁にひび入ったコンクリート建築物、大都市特有の殺伐とした交通渋滞。南北東西、上下左右と歩き回る人ごみ。暫く田舎にいた人間には、どうも落ち着かない空間だ。その晩は街の中心にあるドミトリー形式(ひと部屋に4ベッド)の宿に泊まることにした。
ミネアポリスで、一時一緒に暮らしていたペドロの家に電話をしてみた。リマ出身の彼は、冬休みのバケーションで帰っているはずだった。電話口には母親が出てきて、ペドロはまだアメリカにいるが是非遊びにいらっしゃいということだった。
翌日バスを乗り継いで着いた彼の家は予想を上回る豪邸だった。高い塀に囲まれた家は外から見えない。車庫のドアも横10mほども幅がある。長いのは当然である。そこにはベンツ、プレリュード、キャディラック、セリカと並べてあった。中に入ると輝く家具や調度品がある居間が立派なのは勿論のこと、食堂が朝食、昼食、夕食用と別々にあるのには参った。ペドロの親爺は下水管の製造会社の社長なんだそうである。とても温和なジェントルマンで、背丈はそれほどもないが、男らしいしっかりとした顔だちをしていた。
それに比べてペドロとなると、僕はあんなユーモアのある陽気な奴を日本では見たことがない。僕がはじめてミネアポリスに行った時、一ヶ月だけ語学学校に通ったことがある。そのときペドロが同期で、クラス分けのテストを一緒に受けた。僕がさっぱりわからずウンウン言ってがんばっている横を彼は一番に答案を出して部屋を出ていった。それを横目で見て僕はコンプレックスを感じたものだった。あとになって分かったのだが、英語がさっぱりの彼は、答案は白紙で出したうえに、いつも流暢にアメリカ人と話している言葉は英語ではなくスペイン語だった。その頃英語とスペイン語の区別もできない僕は、誰にでも堂々と話すペドロの言葉が英語であると信じて疑わなかった。いたずら好きで明るいペドロとはエピソードが尽きない。あるとき鳥を大量に買いこみ、それをバーベキューにして道で売り歩いたことがあった。あるときはびっこを引いて歩いているのでどうしたのかと訊ねると、町で知り合った女の子の寝室にいたとき、突然旦那が帰ってきたので窓から逃げたらそこは2階だったそうだ。ある時はどこからか拳銃を仕入れてきて僕たちに見せびらかしていると思ったら、警察が2人、テレビに出てくるように身体を壁にぴたりとつけてピストルを抜いてやってきてひと騒動になった。あるときは、ストリップ劇場に一緒に行った帰りに、凍った道路の上を車がスピンしてしまい、パトカーがやって来た。車を運転していたペドロは、警官がちょっと眼を話した隙にアクセルを床まで踏みきって雪の平原の中を逃げきったこともある。あるときは凍った湖の上で馬鹿でかいダンボールをボール替わりにして車4台で敵味方に分かれアイスホッケーをしたこともある。彼について話し出したら、このノートが一冊アッという間に終わってしまう「ダイナマイトの毎日」を過ごしている男だった。二人ともすでに学校をやめてしまってので、気が合い、よく一緒に行動した。結局ペルー人の女性とウィスコンシン州で結婚式を挙げてからは少し落ち着いてきたようだった。
リマでは名高いペンションで西海さんの有名な左手で肩を叩かれたり、ダルマで飲んだりしたが、できるだけ早くクスコに行きたかったので、十分に観光もせずリマを後にした。旅はやはり汽車に限る。生まれて初めて1等車に乗ってArequipa-PunoPuno-Cuzcoを2日がかりでのんびりと旅行した。内田百門先生の気持ちが少しは分かったような気がした。いつもの貧乏性のためか、電車の長距離といえば夜行の鈍行しか乗ったことのない僕の頬はウキウキと緩みっぱなしであった。クスコに着いたのはもう日が暮れてからだった。道中一緒になったブラジルの大学で学ぶボリビア人のウルナンドと、知る人ぞ知るホテル・ボリバールを探して宿を取ることにする。荷物を部屋に置くが早いか、すぐに町のディスコに繰り出した。部屋に戻ったのは朝の6時を過ぎていた。
そして10時に起床。眠たい眼をこすったときに出会ったのが、共同の流しでマスをおろしていた篠田さんだった。もうクスコで10年ほどガイドとして働いてきた「クスコの師」的存在の人で、今では奥さんの直子さんとボリバーに暮らし、
彼の部屋には当然、冷蔵庫やガスコンロはなく、白灯式ポンプコンロがひとつあるだけであった。電化製品はラジカセぐらいしかなく、いたってシンプルである。本棚に並ぶインカ関係の本だけが家の中で際立って見える。雑然とした部屋、だがそれが人をよく落ち着かせる。
篠田さんの家の前には梅野さんが住んでいる。彼も元旅行者で、世界を回った後、日本に帰り、そしてクスコに戻ってきた。ケナとチャランゴの他に、尺八なども吹き、部屋には各地の笛や自作の笛が無造作に置かれている。尺八とケナを合わせたような笛もある。それは山に入って自分で見つけた竹で作られていた。棟方志功が好きで、古代から遠く連なる血を自分の身体の中に感じることのできる人で、物事の表面だけではなく、その内側も直感的に見ることができる才能を持っていた。僕はよく梅野さんと徹夜のチェスをして、いろいろと世界の話を聞いた。本当に「純」な物を見る目を持っており、芸術家や教育者の嘘をしっかりと認識しており、ときに悲しく批判じみたことを言った。彼はあまりに事実に忠実なため、情熱と愛の中で、町の中の隠居生活的振るまいをモットーにしているように見えた。彼の机には、陰陽五行や東洋街道(トルコー日本)の本がほんの数冊置かれているだけであった。
街には日系の方も住んでいて、時計屋の犬養さんやカフェ白雪をやっている白石さんにお世話になった。
クスコは旅行者にとって魅力的な町である。数々の遺跡や博物館が目白押しである。でもそれらのことはガイドブックに任せることにしよう。ここでは「僕のクスコ」のエピソードと話を書くことにする。まずはじめにメルカードと呼ばれる市場について。クスコには3カ所のメルカードがあるのだが、メインはマチュピチュ行きの列車が出る駅前にあるものである。横30m縦80mあまりの大きさで、屋根もちゃんとついてあり、体育館を4つくっつけた程のものである。ここにはありとあらゆる食品が売られている。たとえば南米特産のジャガイモにしても、マリバ、コシピス、オロネス、ユンガイ、ブランカ、ワイロ、ワイルール、カモテ、リサス、ラカチャ、オカ、アニョ、ユカ、エミリヤ、ボレと、ありとあらゆる品種が山と盛って並べられる。果物も、リンゴ、一口リンゴ、一口ナシ、みかん、パイナップル、ブドウ、オレンジ、マンゴ、バナナ、スモモ、カプリ、プラム、パパイヤ、メンブリーユが山積みされている。その他穀物、魚、野菜、チーズ、肉、薬草、花、乾物、種種のトウモロコシ、鳥のほか、食事やジュースも飲むことができる。また事務所とジャガイモの横には靴も並んでいる。
変わったところでは、塩の塊が売られているのだが、淡い紫色であるということだ。岩塩が土と混じったために、こんな色がついたそうだ。
珍しいものには、南米版の漢方薬がある。リンコと呼ばれるツルの一種は、下痢のときに利くし、木の一種のカタは歯痛に良い。香を固めたサオメリオは風邪の特効薬だ。馬鹿でかいニンニクを干したアオカスティヤは、牛の腹痛に、コンドルの脂はリウマチ、ヒトデの干物は頭痛と、奇妙奇天烈なものが机の上に並べられているところもある。
人を飲みこむカオスがここにある。肉売り場の近くには、少年が屠殺した牛の内臓を運んでいるカゴからは血が滴り落ち、のんびり歩いているとひっかけられるし、大きな籠を背負った市場で働く人たちは、あちらこちらから現れては消えていく。日中殷賑(いんしん)とした不思議な空間である。「気」の集まった場所でここに足を踏み入れると、自然と身体も活気付いてくる。日常生活の中の祭りである。毎朝9時になると男が辺りを回りながら笛を吹いてマーケットの開市を知らせる。
この市場は、クスコ市の直轄なので、誰でも申し込めば店を持つことができる。ちなみに小さなスペースでも良ければ1ヶ月の賃貸料は約6USドルである。
では食事の方はどうだろう。クスコは海抜3300mのところにあるので、沸点が低い。たしか89度前後だったと思う。だから熱湯を使う料理はなんでもベトついてしまい、旨くない。スパゲッティーなどもう最悪である。中温度でぐつぐつと煮こむ料理がやはり多い。メルカドの中のかきこみ飯屋も、シチューやスープ類が自然と多くなる。あと、よく目に付くのが、油で揚げたジャガイモ、ドーナツ、バナナ、タマゴなどで、何週間も取り替えていないような黒く濁った液体の中に何でもかんでもぶちこまれる。慣れていないとはじめのうちは、この質の悪い油で胃がもたれてしょうがないという毎日が続くかもしれない。
またこのメルカードで人気のある食事はセビチェと呼ばれる酢じめの魚である。レシピーを簡単に書くと、魚の小さなぶつ切りをクランドロと呼ばれる薬味草、緑ピーマン、ニンニク、コショウ、タマネギ、そしてアピオ(セロリ)、キヨン(生姜)、ロコト(唐辛子)と呼ばれる香辛料の中に漬け、半日置けばできあがりである。セビチェを売っているおばさんが言うのには、最後にアヒの素(味の素)を少し入れるのがその店の秘密だそうだ。、
町のレストランも数多くあり、観光地であるクスコは、旅行者用のちょっとしゃれたところもある反面、そのすぐ横では今にも天井が落ちてきそうな食事処が続く。値段も、旅行者用と地元の人用とは大きな隔たりがある。その高い旅行者用のレストランでも、「北」から来れば嘘のように安い。道端では、茹でトウモロコシ、揚げポテト、ハンバーグ、ホットドッグなども売っているが、同じものでも客によって、おばさんやお兄さんたちの言う値段は違う。当然旅行者には高く、地元の人には安くとなっている。旅行者から見ればとんでもない不公平なぼったくりであるが、見方を変えると、収入額に対応した値段の違いはとても理路整然としており、その公平さには驚いてしまう。
いつもはボリバールから歩いて1分のレストランで定食を注文していたが、時々安さにひかれてコミーダナショナルに足を運んだ。学校の給食よりずっとお粗末なもので、長年使いこまれて変形したアルミのお盆の上にプラスティックの茶碗とコップ、そして皿を載せるといった形式だ。味の方は、単にまずいとしか言えないが、始めて行った人なら驚いて一口も食べずに帰ってくるといった感じのものだ。だが料金だけは安く、一食30円だった。だからそう文句が言えたものではない。
普通のレストランの定食の献立は毎日変わるが、主食は米か芋、それに玉ねぎ、トマト、肉を使ったものが多い。食後のコーヒーは、ただお湯だけが出てきて、机の上のコーヒーのエッセンスを入れてできあがり。これもインスタントコーヒーというのだろうか。
僕が好きなレストランは「ゴビンダ」というハッシュクリシュナ系の菜食レストランである。ここのフルーツヨーグルトやケーキも旨いが、定食もスープで始まりデザートで終わるというちゃんとしたもので料金も150円ぐらいであった。あとよく利用したのは、道端で売っている茹でトウモロコシ。一粒一粒が馬鹿でかく、一本食べれば十分に腹が膨れた。
最後に珍食の話しを。いままで南米に来て「ゲテモノ食い」的珍食を食べてきた。いや食べたというより食べさせられた。イグアナ、アルマジロしかり。クスコでお気に入りの食事はアボドというスープで、豚汁に辛子を入れたような味がした。だが噂によると、スープの真中をじんどっている肉のカタマリは豚ではなくリャマだそうだ。ある日このスープを飲みに、路地の料理屋に行った。席に座るととポケットには5000s札が一枚しかなく、一杯6000sのスープには足りない。諦めて帰ろうとすると、4000sでアボドに負けない美味しいスープあると店のオバサンが言う。それを一杯くれと頼んだら、5分後に出てきたのはギザギザとした歯のついた骨のカタマリが皿の真ん中に浮かぶ、妙に湯気立つ液体だった。おびえながら、この浮いている物はなんだと聞くと、羊の頭をふたつに割ったものだという。黒魔術ではあるまいし、どうもこういうのは苦手であるが、おばさんは味の具合を知りたいのか、ずっと前に立ち続けて、こちらの様子を伺っている。覚悟を決めて口に放りこむと、急に海の味が口一杯に広がった。そしてカラスガイの味である。それをオバサンに告げると、満足顔をして、調理場に戻っていった。その後暫くの間、僕は羊の歯骨と頭蓋骨に穴開いた深い目を、じっと睨みつけていた。
一度だけ、自分の意思でちゃんとしたレストランに入り、「クイ」を食べたことがある。クイとはネズミ大のモルモットのような動物で、僕が最も苦手とする種の生き物である。マチュピチュのひとつ手前にアグアスカリエンテ(熱い水)という町があって、そこに行った時に食通と自称するフランス人に出会い、彼はいかにクイがおいしいかを話し続けた。ペルー人の友達に聞くと、田舎ではどこの家でもクイを飼っており、特別の日にはそれを殺して食べるという。子どもたちは、その日を楽しみに待っているそうだ。それではというわけで、レストランに行き、クイを注文した。クイを探しに行っているのか、何分待ってもクイが出てこない。腹がすいて困ったが、半分はしめたと思い、言い訳でもして出て行こうとしたとき、温かい皿を手にしたボーイが調理場から現れた。そのまま席について皿の上を見る。狐色に焦げた肉の焼けた良い香りがする。今度は顔を近づけてよく見る。すると長方形の肉の角に丸いものがついている。またまた顔を近づけてみると、その丸いものは、四つに分かれた指ではないか。いっぺんに血の気がひけて真っ青になってしまった。だが注文した以上俺は食うぞ。四隅2cm以内に触らないようにして平らげたは良いが、味わうどころではなかった。それでも青白い記憶を辿りながら思い出してみると、鶏のモモ肉の、身を少なくして味を淡白にしながら泥臭さを少し混ぜ、柔らかい身をもっと歯ごたえがあるようにプリプリさせたものだった。
ペルー特有のアルコールも数多い。旅行者に人気のあるピスコサワーは、透明になったブドウの蒸留酒ピスコに卵白を混ぜたもので、マイルドで口辺りが良い。いい気になって飲んでいると意識不明になるほど酔っ払ってしまう。またここは高度が3000m以上あるので、少しのアルコールでもすぐに身体に回ってしまう。
でも、もっともクスコらしい酒といったらやはりチッチャと呼ばれるトウモロコシから作られた飲み物だろう。酒というほどアルコールは強くなく、どちらかといえばビールほどのものだ。アルコールは3%ほど。地元の人が好む飲料で、旅行者の多い町には少ないが、町のはずれや近くの村に出かけると、家の入り口に旗棹をかざしたところがあり、それがチッチャの目印になる。昔は唾液醗酵方といって、チッチャを作る人―家庭では奥さんのことが多い―が、一度トウモロコシを奥歯で噛み砕き、吐き出す。それによってトウモロコシが醗酵して旨いチッチャができあがる。とてもロマンチックな作り方であるが、僕のタイプではない人が作ったチッチャは、飲むのにどうも気が引けるという難点がある。
現在では発芽醗酵法といって、一度トウモロコシの粒を水に浸して発芽させ、炭水化物を糖分に変えるアミラーゼが含まれた芽によって醗酵させるので、誰が作ったのか、ドキドキ想像する楽しみはなくなってしまった。チッチャを胃袋に収めたのち、大ジョッキ一杯で15円と庶民的値段なのがまた良い。ビールのホップスのように風味が喉に残るのを味わいながら、ゆっくりと時を遡ってゆくのは楽しいものだ。このチッチャは毎年6月24日のINTI(太陽)RAYMI(祭り)に捧げられる。帝国時代にはインカ皇帝自身が直接に司祭し、祭りの始まる7日前から断食して身を清め、当日の夜明けとともに、中央広場ワカイ・パタ(喜びの広場)で黄金の瓶に入ったチッチャを昇る太陽に向かって注いだ、という。
クスコ周辺にはサクサワマン城砦、ケンコー、タンボ、マチャイなどの遺跡、クスコ内に太陽の神殿、太陽処女の館、博物館、インカ時代から少しも変わらない石積みをはじめ、クスコの町自身、上から眺めるとピューマの形をしていて、心を躍らせるところで満ち溢れている。少し足を伸ばせばマーケットと山頂の遺跡で有名なピサック、時間を超えた昼寝にはもって来いのチンチェエロ、帝国時代の宿場町Urubanba、スペイン人の侵攻に最後まで抗したオリャンタイタンボの町と、考える前に足が四方八方に動き出す。足をずっと奥まで伸ばせば空中山上都市マチュピチュまでも辿りつく。クスコから歩けば3日の道のりだが、電車を使えば3時間のところである。
ここではマチュピチュ自身よりも、そこに住む少年たちのことを書いておきたい。観光客の話しを聞くと、人によっては,遺跡よりも少年達のほうが印象に残っているという。
マチュピチュの遺跡まで行くには、汽車から降りてマイクロバスに乗り換え、ジグザグ坂を20分ほど揺られたやっと入り口につく。そこから歩いて見学する。帰りはまた入り口に戻ってきて、マイクロバスに乗り、もと来た道を下って駅まで行く。だから今では、足で昇らなくても、座っていれば入り口についてしまう。そのぶん遺跡に対する思い入れは薄まるが、時間のない人にとっては確かに便利である。
見物も終わり、山上にあるホテルで食事を済ませたのち、観光客は満足顔でマイクロバスに乗りこむ。ホテルの上から離れたバスは坂道を下り、はじめの降り返しを過ぎたあたりで突然、巨石の上に、赤、黄、緑の服を着た少年たちが立っているのに目を引きつけられる。バスの運転手とガイド以外の、目という目はみんな、その巨石の上に注がれる。と、それを待っていたかのように、十分な間合いを見てその中の一人が雄たけびをあげる。バスの乗客は何事が起きるかと口をあけて目をギョロつかせていると、少年は手を振った。乗客も少し安心したかのようにつられて手を振って応える。そして皆はまた旅行話やマチュピチュの山の上には礼儀正しい少年がいるもんだと世間話を始める。と、何気なく前を見るとさっきの少年がまたいるではないか。乗客はお互いに顔を見合わせ、驚愕している。そこに少年の馬鹿でかい「バイバイ」の一声。乗客は、あはっとして、また何気なく右手を上げ、横に振るが、その手は心なしか力がなく、宙を漂っているようだ。でも中には、決まってこの不思議な出来事を論理的に説明づけて安心かつ得意になる人がいる。バスがジグザクにしか降りて来られない所を、少年はターザンの如く急坂を一直線に下るからバスよりも早く降りてこられるのだとわかって多少満足している。
少年は5、6回とバスの前いに現れては大声を出して手を振る。この辺りまで来れば乗客もだんだんと疲れてくるようである。と思いきやもう橋を超え坂道を渡れば駅である。みな何気なしに少年を窓の外に捜していると、後ろのほうに小さく少年が見える。少年は全速力で走り、少しづつバスに近づいて来る。早い、早い、まるで山の上から転げ落ちてきた勢いに乗っているかの如くである。バスが駐車のためトロトロしている間に少年はバスに追いついてしまった。彼はバスの入り口に立って両手を出して待っている。これが彼の生計を立てる仕事である。
インカ帝国については、まだまだ謎が多く、研究者の他の文明に比べて多くない。ひとつは彼らが文字を使わなかったので、記録が残っていないと言うこともあるが、もうひとつは、一般に思われているほど古代の文明ではなく、インカ帝国が成立したのは、1430年ころにライバルのチャンカ族を破った後であったし、滅びたのはスペイン人ピサロの征服による1533年までの百年間と、短い文化のためかもしれない。だが見方を変えれば,長年のアンデス地帯の文明がインカ帝国によって花咲いたとも言える。インカ帝国とはまだ呼べないインカ族の村の1430年当時の世界は、メディチ家のフィレンツェ支配に象徴されるルネッサンス、中国の鄭和によるアラビア、アフリカ貿易と、新しい大航海時代の土台をしっかりと築きあげていた。
Arequipa
プーノから電車でこの町に入ってきた時の印象は、騒がしく、工場が多く,町も汚れているので、リマの雰囲気を思い出した。町の中に進むにつれ、喧騒と殺伐としたリマのイメージに近づいてきた。「白い町」とあだ名されるアレキーパとは、ずっと昔の話に違いない。近くの活火山ミスティの灰をかぶったかのような現在は「灰色の町」とでも悪口を言いたくなる。
僕の泊まったサンタカタリーナホテルの横は、選挙講演会の事務所らしく、朝から晩まで大きなスピーカーで騒音を撒き散らしている。このときは丁度、大統領選挙の10日前で、この町でも中心の広場Plaza de Armasで連日候補者の演説が響き渡る。それにしても、ペルーの大統領候補の演説は面白い。調子に乗って次々と言葉が切れ目もなく口から飛び出すものだから、何を言っているのか全部はわからないが、とにかく声が良いことだけは確かだ。揃いも揃って惚れ惚れとさせ、人を酔わせる美声の持ち主である。また話し方がうまい。原稿は当然のごとくなく、両手、全身を使った表現は、一人一人の聴衆に訴えかける。顔の表情だけを見ても、豊かな感情表現が次々と変わるのを見ていれば、万華鏡なんか覗くよりも面白い。この国では小さいときから詩の暗誦をさせられるが、この候補者達は,それを100%活かしきっているようである。また演説の合間に絶妙の呼吸を盛って入る観衆のコールによって、ただの演説が舞台へと変わる。日本の新劇にも毎日通いつめている本当のファンがいて、場内の空気を引き締めるようなかけ声を出すが、その劇場的空間を夜空の下で作り出す。そして候補者と民衆の間の掛け合いによるスローガンにおいては、聴衆も舞台の端役に加わり、熱狂の中にすすんで身を置き、主役の候補者とともに祭りに参加し、盛りたてる。外から見ていても、この祭りの共同、共生、共熱、共一意識は快感のする喜びだ。祭りに欠かせない音楽も人びとを惹きつける。候補者の演説よりも長い音楽は、レコードだけではなく生演奏も加わって、ボリューム一杯に流れる。どの政党も陽気なテーマソングを流して、候補者自身、足でリズムを取り始める始末である。聴衆も負けずに手拍子を取り、中には踊り出すのもいる。前列の方には赤と白のユニフォームを着こんだ17、18歳の少女達が10人ほどプラカードを持ち、まるで流行歌手を声援するかのごとく、ワーワーと叫んでいた。
Taquile タキイレ島
目を覚ますと大きな島が僕を見下ろしていた。夢の中で見た小島とは、似ても似つかぬもので、覆い被さるほどである。
プーノからモーター付きの小船で一時間ほどチチカカ湖の上を突き進んだところにタキイレと呼ばれる小島がある。まっすぐに行けばもっと早く着くのだろうが、僕たちの乗った船は定期船ではなく、タキイレ島とプーノの間に浮かぶ、小さな島々の住人を乗せた船で、あちこちの島によっては、荷物を降ろしていた。正確には、これらは島ではなく、トトラと呼ばれる、コトアシを乾燥させ、それを水の上に浮かべて作っただけの平面だ。水の上に浮かぶ筏船のようなものだ。だからトトラでできた草面を少し掘るとすぐに湖水が顔を出す。中には大きな「島」もあって、小さなグラウンドでサッカーをしている子どもたちもいた。
子どもが走るたびに草面がゴトゴトゆれて、見慣れていない人間には、その揺れで地面に穴が開きそうで、気が気でない。歩くたびに足が草の中にめり込み、草面が、その下の水面に触れ、その波の余韻がまた草面を通して足の裏に伝わってくるという感覚は、楽しむには少々奇抜すぎた。長く住めばよく分かるのだろうが、所によりトトラがもう古くなって人を支えるだけの浮力がない。そこへ足を突っ込んだ僕は、足が吸い込まれるように水の中に入った時は、大いに慌てた。それからの僕の姿は、腰を折り曲げ、寸時も草面から目を離すことなく、抜き足差し足で歩いたものだから、その前のハプニングを知らない人はさぞ滑稽に見えたであろう。「島」の一部にはチチカカ湖で取れる15cmほどの丸い魚が開きにされて並べられていた。野菜を作れないこの「島」では、干魚を交換して生計を立てているのであろうか。ここにはカトリックの教会もある。天井1.5m、入り口1mぐらいで縦横3mぐらいの小さな所で、中にはまだ刈ったばかりの新しいトトラが奇麗に並べてあった。
話をタキイレ島に戻そう。ここでは,女性が織物、男性が編物を担当する。島に向かう途中の船で、幾人もの男性が毛糸と麺棒から手を離さないのを見て不思議に思ったものだった。船は港に着いた。ここにはホテルが一軒もなく、島の坂の上にある事務所で今夜泊まる民家を捜してくれると言うので、そこまで行かなければならないのだが、これが心臓破りの坂で、普通の旅行者はこれを見ただけで腰が引けてしまう。海抜3812mと、富士山の頂上より高いチチカカ湖にある島の頂上まで荷物を持って上がるのだから、すぐに息切れがして10mごとに休まなければダウンしてしまう。そんな僕の横を島の男たちは編物をしている手を少しも休めず、肩に穀物の入ったズタ袋を乗せてトントンと坂を登りつめていった。
紹介された民家に泊まることになった。家の持ち主は、近くにレストランを持っているのでここでは金持ちだ。土と草でできた6畳の部屋に入ると2つのベッドと机らしきものがあり、数枚の毛布と白い布きれがあちらこちら乱雑に散らかっている。アレキパから着た娘は言った。「なに、ここは。電気はないし、窓から光りもあまり入らないわ。本当に殺風景よ。なんといってもこのベッドはひどすぎるわ」
僕はそれを聞いてすぐに応えた。
「これだから都会育ちの女の子は嫌だ。すぐに我侭を言う。屋根があるから雨露はしのげるし、おまけにこんなに毛布があるのだから寒さも心配ない。たまにはこういうのも良いもんだ」
すると彼女は簡単に言いきった。「それは良かったじゃない。ここが気に入って。私は他所を探すわ」と、言葉を投げかける間もなく、背をまっすぐに伸ばして降りてきた階段をさっさと上がっていった。
その晩、稲妻と雷とともに強く雨が降った。
つぎの朝早く、彼女が爽やかな顔で戻ってきた。
「どう,よく眠れた?」
「ああ」と僕は言葉を濁しながら、急いで、雨に濡れたベッドらしきものを毛布で覆った。
「でもこうして見ると、ここも趣があるわね」と彼女は、少し残念そうな顔で部屋を見まわした。僕はシャツの下の赤く腫れた所を彼女に気付かれないように爪で掻きながら言った。
「そりゃあそうさ、こういうところで一泊するのがなんといっても旅の醍醐味だからね」
14箇所の蚤か南京虫にやられたところを10本の指を総動員でこすりながら見る、晴れ晴れとした空にきらめく朝日は、ネズミと雨のために寝不足の目には、頭痛がするほど眩しかった。
朝の散歩で島の人たちに道ですれ違うと、誰もが「こんにちは」と気楽に声をかけてくれる。時には男たちは親切にいろいろと声をかける。それに比べて島の女の子たちは、はにかみ屋が多く、シャイである。目が合うと、上目遣いに好奇心を持ってこちらを見上げるが、すぐに視線をはずして空を見つめてしまう。
タキイレの男たちの衣装は美しい。白い羊毛で編んだ上着の上に紺のチョッキを羽織り、下は黒のダボダボズボンを細かな模様のパターンで編み上げた帯でキュッと締め上げる。頭には、上半分は白、下半分は奇麗な模様が降りこまれている手編みの帽子をかぶっている。先にはボンボンがついており、その先端が途中から2つに折れているのだが、それがまたお洒落に見える。
カナダから一人の旅人が、羊たちの中にいる朱色の布と紺色のマントで身を包む少女にカメラを向けた。少女は小さく口の中でなにかを呟いた。その声は彼には届かなかったのだろう。スペイン語がわからなかったのかも知れない。彼はシャッターを押して、そして微笑を残して行ってしまった。少女は、「モデル料を頂戴」と、もう一度呟いた。
少女が、蒼穹色のマントを頭の上で翻し、畑の中を走る、舞う、飛ぶ。
滑り落ちるようにマントが風になびく。
マントの波が少女を海へと誘う。
颯爽と、流水のごとく。
あっ、マントが止まった。
風景だけが時の却につかまって流れている
永遠(とは)だ。
空気の薄い昼下がりは人を仙人にさせる
のどかな日差しは退屈しのぎに戦いを捜す
真剣な、一時の油断も許さぬ、血の吹きあがるやつだ
見事に生えて角は、雄羊の血を沸きたたせる
二頭は前足で地球を蹴って呼吸を整える
あとはお互い相手を貫かんとばかり猛進するばかりだ
「ぶぁぐぉーん」響音は乾いた空をつき抜ける
あくびの出る空間を喜びと悲しみのうねりがうめつくした
ようやく目覚めた目は朦朧と辺りを見まわす
「新しさ」をまとった幻想は人を鼓舞し勇気づける
平和を求めるという男たちよ
狂気が、魔性が、愛がないなら気をつけろ
あの雄羊は天使をも食いつぶす化け物
四方から固めて作られた偽りの平和だから