躰の聲   フィリピンの粘った土

 

20186月、私はルソン島の南部の小さな村で、日当500円の日雇い人夫として働いていた。

なんでそんなことになったのかは後で書くことにする。

幹線道路から砂利道にはいり、車が一台しか通れない道を歩いて2時間ぐらいのところが現場だった。

 

まずはバナナの木をマチェテで伐り倒す

次にココナッツの木をチェーンソーで切り倒して、それらを柱材にする。

初老の職人が刃をヤスリで毎回のように砥いでから、一本の木から4×4×3=58本の柱を切り出す。

これをチェーンソーだけで正確に素早く次々の木柱の山ができあがる魔術のような技だった。

そして、これでやっと大地を掘り下げる基礎工事に入ることができる。

まずは建物の大きさを決めて、その外郭に杭を打って糸で結び、枠を想定する。

今回は10メートル四方の建物を5棟、壁のない四阿を2棟ほど作る予定になっている。

ツルハシとシャベルを使って、糸に沿って外枠を深さ60センチ横幅40センチ程に掘り下げる。

外枠を掘り終わると鉄鋼を針金で結びつけて鉄筋を作り、基礎と柱の中に入れて、これらをセメントで囲んで基礎工事とする。

 

穴を堀り終わった時に、建物の位置がずれていることに親方が気がついた。依頼者か設計者か施行者だれかのミスなのだろう。

これまでに苦労して寸法通りに正確に綺麗に掘った穴を埋めて、その横にまたはじめから穴を掘らなくてはならなかった。

人夫たちは裸足で作業している者とサンダルで作業している者と半々だ。

このあたりの地質は粘土質なので、乾くとひび割れ、雨が降ると土が泥の塊となり、サンダルにまとわり絡みつき足が持ち上がらなくなる。

なかなかの作業になる。

そして4日かかって4本の溝が完成しそうになった時に、また親方からの指示があった。

横に1メートルずらせたところに溝が必要なことがわかったので、これまでの溝は塞いで、また新たな溝を掘ってくれ、とのことだった。

 

その時に不意に頭に浮かんできたのがギリシャ神話の話だ。

神々の怒りでシーシュポスが大きな岩を山頂に押して運ぶという罰を受けた、という話。

やっと岩を山頂に運び終えても岩は麓に転がり落ちてしまうので、何度繰り返しても終わりがこない。

この話は、いつか死んでしまうのを承知しているのにもかかわらず、それでも意味もなく生き続ける人間の姿に重ねて、アルベール・カミュは、「Le Mythe de Sisyphe」という随筆で描いたとされている。

 

日本にも「賽の河原」で石を積んでも翌日にはまた崩れているので、また石を積み続ける話がある。

ロシアでは、半日かけて穴を掘って、半日かけてまた埋めていくことを繰り返すという拷問の話が、ドストエフスキーの「死の家の記録 Записки из Мёртвого дома」の小説の中にある。

ナチスや他の刑務所でも同じ話を聞いたことがある。

 

このような「果てしない徒労」を続ける神話にはいろいろな解釈がある。

人間には耐えられない究極の拷問の話として、

目的が永遠に達成されない地獄の話として、

究極的には生きる意味などはなく、「何のために生きるか」ではなく、「どう生きるか」が大切な話として、

無意味なことを反復して忍耐させられるが、これが強靱な肉体へと自身を鍛え上げることになる話として、

虚無的な結末を知った上で、それでも岩を運び続けることが大切である話として、 

 

どれもが脳にとっては意味のない虚無的な不条理な話として解釈される。

そしてそこからなにかしらの「意味」を見つけようと努力する脳。

大脳皮質は「意味」を見つけるのがお仕事だから。

しかし、カラダにとっては、この岩運びは日常的な「生きる」ための当たり前のエクソサイズである。

息を吐いて吸う呼吸のように、

食事のたびに繰り返す胃腸の収縮運動のように、

細胞が生まれ滅びる新陳代謝のように。

 

シーシュポスがこの繰り返される反復の運動の大切さに気がつかずに「意識」だけの価値観で生きているので、それを察した神が愛のある教えを伝えたにすぎない、

という解釈もカラダからの視点から見るとある。

 

しかしそれを「脳」は罰だとか地獄だとか虚無だとか苦しみだという。

神話とは神経系器官から循環器系器官そして消化器系器官の体感に気が付かせてくれる「糸」を垂らしてくれている宝物だとは考えてみて、はじめから再読してみるのはどうでしょうか?

あらたな発見があるかもしれない。

発見discoverとは覆いcoverを外すdisというシンプルなことだから。

 

 

 

この随筆を書いたカミュの言葉。

「絶望より怒りを!」

「今、ここに在ることをそのままの状況で受け容れた時、かれはかれを苦しめるあの岩より強いのだ」

「この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。

こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず無意味だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる瞬間だけだ。」

 

単純な賃金労働こそが、現代のシシュフォスの岩である。

賃金以外には無意味な苦役と感じてしまえば、日々同じ単純作業を反復するだけの難行苦行である。

二世代前までは、丁稚奉公、弟子入り、修行と遍歴といった青少年に課された汗と涙の労苦があった。

これは、その苦労による利益は親方のもので、自分は無報酬に近いので、現代の賃金労働以上に「シシュフォスの岩」的であった。

 

同じ労働であっても信頼のある集団や家族や自然の厳しい村では、これらは自分の内側を知る契機になり、カラダの視点を持つ事ができる絶好の機会でもあった。

賃金はなくても「利益」は参加した全員に還元された。

 

「夜と霧」の作者である精神分析医のフランクは、過酷な環境にあっても「生きる意味を見つけたものが生き残った」と言ったが、それは作者のような性格の人にとっての解釈であろうと私は思っている。

もしくは、なんでも言葉で表現しなくてはならない環境にいたための方便かもしれないと思っている。

 

意識が発見するのは因果関係である。

もしそれが表層の因果をただ結んだものであるのならば、深層から見ると、それは屁理屈でしかない。

 

生き残った者の脳が意味を見つけたのではなく、脳は意味を見つけることができなかったので脳は機能そのものを諦めた時に、カラダの視点で自分自身を見ることができ、穴を掘ってその穴を埋めるような反復こそが「いのち」にとって大切なことであることに気づいたのだと思う。

「意味がない」と判断しているのは脳から見た価値観だからであって、体から見ればこの「反復」とは、外部と内部の交流である呼吸や、ふくらはぎの血流の循環機能や、仙腸関節の緩みや、肩甲骨のほぐしや、天と地の間にいられる氣の流れであったり、自分が重力と中心と流動体であることを感じられる機会であり、これらが「生きること」にとってはいちばん大切なことにやっと気がつき始めているという吉兆である。

 

 

 

猛暑での土方仕事

今年はフィリピンの運転免許の書き換えがあったので、避暑もかねてフィリピンに行った。

フィリピンは南国で暑いところだろうと思っている人も多いが、実際は夏にどの島に行っても先進国の大都市よりは涼しい。

夏には水分を含む緑ではなくアスファルトとコンクリとクーラーを動かすためにエネルギーを外に排出し続けているためにヒートアイランド現象を起こしている大都市よりも、いくら強い直射日光があっても毎日訪れるスコールと海水温度の風のために思ったよりも暑くないのが熱帯の島々。

そしてフィリピンにはコルディリェーラ山脈をはじめ2000メートル以上の高地があるので、夏でも蓼科や軽井沢のような涼しく暮らしやすい避暑地がある。

 

ところが免許の書き換えの手続きで行ったマニラは都会なのでやっぱり暑く車や電車の混雑もひどい。

そこでどこかゆっくりと瞑想できるところでもないかなと思って訪ねたのが、冒頭に書いたルソン島の南部の小さな村。

ここで一日の瞑想会の集まりがあると聞いたので、バスとヒッチハイクを乗り継ぎながら行ってみた。

そしてその会が終わった時に、その集会所の前にいつでも短期(10日)の瞑想ができるセンターを来週から作る計画があるのだけど、みんなマニラに戻らなくてはならないから、よかったらここに残って手伝ってくれないかとお誘い?があった。

 

旅は流れなので、そのまま残って樹を伐って、大地に基礎工事のための溝穴を掘る生活が始まってしまった、というわけ。

寝所は軒下に蚊帳を張って、食事はバナナ、飲み物はココナツというシンプルなやつ。

それから3日目ぐらいに、10人ぐらいの集団がトラックの荷台に乗って現れた。

建築の現場のあんちゃんやベテランたちの職人集団だ。

若いのは15歳ぐらいはベテランは60歳ぐらい。

来てあっという間に落ちている切れ端を集めて、掘っ立て小屋を作ってしまい、その中に鉄線やコンクリや炊事道具などを投げ入れる。

毎日のようにスコールが降るので屋根がある場所が必要なのだ。

 

そしてもう次には縄をはって目印にするとその下を鉄棒で掘り始める。幅は足二本分、深さは膝ほどの高さだ。

削った土塊はシャベルで掻き出す。

これは太陽の照りつける下での大変そうな仕事なので、これらはただ見るだけにして、こちらは料理の準備などをしていたのだけど、建築士らしきおっちゃんが、手伝わないかとやってきた。

少しだけなら固くなった体をほぐすにはちょうど良いだろう、とはじめの数日は午前中だけ手伝っていた。

すると建築士兼監督みたいなおっちゃんが3日目に「これで昼飯でも食べろ」と、200ペソ(500円ぐらい)を私のポケットに押し込んだ。

これがいけなかった。

お金をもらっていなければ好きな時だけ好きなことだけを手伝うボランティアでいられるけれど、メシ代とはいえお金をもらうと、一緒に作業している仲間たちの様子も変わってくる。

なんだか私が朝から夕方までずっと働いていて当たり前だろうという雰囲気になるのである。

そして数日後にはだんだんとみんなと打ち解けはじめた頃に、ただ一人の日本人であるので、ヤシの木を移動させる時には現場の若者たちが日本人はこれぐらいでもう運べないだろうと、いじってきた。

はじめは彼らの楽しい挑発を聞き流していたのだけど、こっちもちょっとはできるかなと思って、面白そうな挑発には乗って、いつもより余分にヤシの木材を運んでみたりした。

するとみんなもやんやと喜んで、それからは毎日のように、これはできるかの楽しい挑発の応酬となった。

ある日は素手でヤシの木の上まで登ってヤシの実を落とした青年がこれはどうだ、とけしかけてきたが、それはさすがに無理なので、はじめから降参した。

 

これまでの生きていた中でもうこれほどの量の汗が出ないと言うほどの汗をかいた。

滝のように汗が出る、という喩えは本当にあるはずはないだろう、と思っていたが、一度でも経験すると、玉のよう滴ではなく水が一度に流れ落ちるのがわかった。

毎日ヤシの実を3つほど食べた。一つで1から2キロはあるから、4リットルぐらいの水分と、白くてまったりとしたココナツの実を貪った。

どうもこのあたりでは実は精力がつくと思われているので、そんなに食べたら夜は大変になるぞ、とからかわれた。

予想もしていなかった旅がまた始まった。