コルディレラ山脈  雲と意識が生まれる瞬間  もしくは言葉が生まれる場所

 

 

今、こうやってあなたと文字で繋がっている。

書かれた文字でしかないけれど、本当に嬉しい瞬間。

これこそが一期一会の偶然でかつ必然の邂逅だから。

 

そしてこの書かれた文字を言の葉に乗せて、元々いた大気にまたちゃんと戻してみたい。

雲ができる前の元々あった大気に。

あなたの命の熱の力で。

 

 

エピローグ

はじめに「一」なるものがある。

そして観ることで「空」の世界から宇宙がうまれた。

「空」とは形がないのに全てがあり、

何も見えないのに全ての力が充満している世界。

ここには言葉は及ばない。見ることもできない。

意識以前の世界。

そう、生きている。

それから100億年の月日が積み重なった。

そしてついにこの地球が誕生した。 

そう我々が住むこの世界。

 

 

大気なる非意識 雲なる無意識 水なる語り 氷なる文字

H2Oの形

大気

意識の形

充満・非意識

思い・無意識

言葉・記号・音

話し言葉

書き言葉 文字

人から見た形

みえない

掴めない

触れる

形を変えられる

彫塑できる

Objectの多義性

主客未分

主客一体

客体

観念・内的対象

物・外的対象

量子力学

エネルギー

素粒子

原子と電子

分子結合

物質

 

 

 

例え話で伝えてみます。

「空」がカタチになる過程を、

意識と言葉をH2O(大気、雲、雨、水、氷)に見立てて。

 

H2Oは大気圏の外の電離圏にはない。

H2Oがあるのは地球の大気圏から内側、

H2O は見えはしないが大気の中のここにもそこにもどこにでもある

 

大気の中のH2O温度と湿度の力が加わると雲になる、

雲は掴むことはできないけれど見ることはでき、

雲が高気圧と低気圧の陰陽の気になり、この二つが重なりあうと雨となる。

この雨が地上に落ちて水たまりとなり、川となり、すべての川はにつながる。

そして温度が低いところでは、水が凍ると固まって氷となる。

 

氷に陽があたると水になる。

水はお日様と地球の自転のおかげで、気化すると霧となり、また大気の中に溶けていく。

そしてまた温度と湿度の力が加わると大気は雲になり、雲は雨となる。

 

 

大気は「ある」もの   

固体の地球は気体の大気とともに当然の如く悠然として、ある。

意識が及ぶ以前の非意識の世界。

空気のように普段は意識しないが、ないと生命体は暮らしていけない。

仏教の中観派や唯識派のいう「空」ごとし。 

「無」から生まれた「有」

すべてを含んでいるのにカタチがない摩訶不思議、表層の言語意識では体感できないもの。

 

は思い。

見えない非意識がついに雲のような無意識になった。

意識では気づかないけれど、いつもちゃんとはたらいている。

表層の顕在意識は認識できないけれど、眠っていてもちゃんと無意識は活動している。

「無」といっても、「ある」と「ない」とは同じ土俵の上のことであり、それはコインの裏表のこと。

つまり同じコインのことである。

どちらも思考パターンであることに違いはない。

脳の神経細胞に信号が流れることによって、

顕在意識がまだ寝ていても無意識は眠ることなく働いている。

 

は音や記号のイメージ。

掴めない雲がついに触れることができる雨になる。

潜在意識と顕在意識がついに目を醒ましてはたらきはじめる

音節や5味や400の嗅覚受容体や皮膚受容細胞や画像は、前に作っておいた籠に区分けされて入れられる。

それらはイメージ、音、記号、シンボル、香り、味覚、感触となる。

 

は話し言葉。

水は自由自在に変化でき、その都度にそこの器に相応しい形になれる。

具体的なものは抽象化されて、一般化や概念化された言葉になる。

たった一つしかない「いま・ここ」が消えてしまう代わりに、言葉はたくさんのものを包みこむことができる。

そして、言葉は枠組みを作り、両者を並べて、違いを見つけてくれる。

籠の組み合わせや順番や強弱に名前をつけることによって言語化がされるので、「わたし」は他の人に多くのことを伝達することができるようになる。

でも言語にされることによって、伝えられないものもできてくる。 

 

は書き言葉。

水の流れが止まり、固定化されて氷となる。

氷の結晶は美しいが、冷やし続けたままでは元の柔軟な水に戻れない。

氷はその時その場所に適応した形に変わることができないので、

人から理解されるときには、誤解されたり、時には偶像として過剰・過少評価されてしまう。

 

形が決まってしまっているので、大気から雲、雨、水と変化して氷になってしまったプロセスを再体験できる想像力がないと、形に囚われてしまい、真意を理解することができない。

またこの形の性質を悪用して使うと、お役所用語や法律用語が発達し、契約書にサインすることで相手の意思了解とみなす文化までも生まれた。

書かれた文字から対象を理解しようとすると、多層で奥行き深いH2Oを把握するのは難しい。

表層の氷のレベルだけで判断をしてしまうと、その先にある大事な世界は遠ざかっていく。

書かれた文字とは、簡単に表現するために命の豊かな流れを動かぬように仕方なく固めたもの。

また形を保つためには、常に冷やし続けるという「型に嵌める」「愛のない」「無理」によって初めて成り立つ。

 

 

 

氷は熱がないと水になれない

水は熱がないと雲にはなれない、

雲は熱がないと元の一つ」である大気に戻れない

 

雲の形になったH2Oは、大気の時の臨機応変融通無碍の自由自在を失った。

だって形になってしまったのだから、仕方がない。

形にならないことでしか伝わらない世界があり、

形になることで伝えることができる世界もある。

 

雲は風にのって彷徨い、他の雲と重なって、雨となる。

これが「意識」の定め。

これが顕在・潜在・無意識の限界。

 

大気は雲に

雲は雨に、

雨は水に

水は氷につながっていく

 

こうして、すべての氷たち大気とつながり、

文字は会話とイメージと意識たちは、未分の「一つ」とつながってる。

 

 

 

コルディレア山脈

フィリピンのコルディレラ山脈は素適なビジョンをみせてくれる場所のひとつだ。

ルソン島北部に広がる山の連なりは高度も200メートルから3000メートルと多様で真夏でも涼しいところが多い。 例えばバギオやサガダなどは夏でも気温は20度前後で湿度も低く、吹く風は樹木と花々の香に溢れている。

トレッキングにも良いコースは多く、ところどころには温泉もある。

ある日、違う温泉にも行ってみたいなと思っていたら、ジプニーの客がこの車も温泉に行くよ、と教えてくれた。もう満員だったので、屋根の上に乗せてもらって出発した。山あいの道は絶えず曲がりくねり、吹き飛ばされないように両手両足に力が入る。横に揺れるところでは決まって崖崩れの後の石が路上に転がっている。サダンガという村に到着した。

まずは温泉へ。無料公衆浴場があるのだが、子供達の遊び場になっている。ここは宿もない村なので、村を出る乗り合いジプニーがない時は、お願いすれば、村長か、地区長もしくは、村役場に泊めてくれる。 私は村役場に泊めてもらったのだが、役場といっても部屋は一つに机が4つと長椅子とトイレしかない。 17時が過ぎたらそこの長椅子に寝ていいよ、自由にくつろいでくれと言って、役場のお兄さんたちは鍵もしないで家に帰って行った。

 

雲ができる時  

太陽が昇る頃、松林の山中でまどろんでいるときにおきた出来事。

前夜は土砂降りの大雨だった。

近くに稲妻も落ちて下腹が揺れた。

春分の日だった。

そして今朝は辺りいったいが霧で見えず。 ゆったりとした夜明けだった。

出たばかりの太陽は満月のようにまん丸で白い。

 

丘に登った、息が切れてもなお登った。

下の谷から次々と白いもやが立ち昇ってくる。

千差万別の大きさ、流れ、濃淡をもって湯気のように立ち上る。

 

日がまた天頂に近づいた、もう直接見ると目が痛くなる。

目線を下に戻すると、手に届きそうな目の前で「もや」が大きな塊になっていく。

ほんのちょっと先だ。物干しを3本つなげれば届く。

霧は目線の高さ以上にはもう行こうとはしない、しかし下からの靄はやまない。

真っ白だ、雪よりも白く、できたての塊が、その奥底から眩しく力を放ってる。

大きな塊の霧が生まれたての雲となってゆっくりと動き始めた。

 

 

 

最後に譬え話 その2

海水が太陽の熱で水蒸気となり、天に雲ができ、それが雨となり、地上に落ちて水となる。

この山の湧水が大地の生物の旅の点となる。

そして湧水があつまり、川となり、一生が始まる。

そしてその川は最後には海に戻って一生を終える。

そう海とは死のことだ。

この海が全ての墓であり、同時に基でもある。

海とつながりあるときにだけ、水が生まれ、川が流れる。 

死からすべてが始まりすべてが終わる。

死は恐れるものではない。

私たちの体の一部だ。

意識にとってはまだ経験のないことなので恐れてしまうが、

体にとっては細胞が毎秒に500万の死を迎え、それによって同時に500万の新しい生を産みだす。

死こそがすべてを任せることができるものであり、

死はすべての産みの母。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

 

 

もう一つの宇宙論

ただ「観る」だけで、「無の空間」がうねり、エネルギーになる。   

エネルギーが集まると、霧が露に、露が一滴になるように形になっていく

「無の空間」と形は常に氣のやり取りをすることで、ここに「ある」ことができる。

それがこの宇宙、そして太陽、どれも「ある」ということ。

 

このように、すべてのエネルギーは記号は情報は「観られる」ことから始まっている

「観られたもの」実体と生きている私たちの本能であり、私たちをここにあらしめるもの。

 

生きているということは、「観る」「観られるエネルギー」「生まれた形」が重なり合って、つながって、相互に流れあっている特殊な一時。

生じては消えていく瞬間の連続。

 

どんな情報も、どんな形も、この生きているということの前ではなにもできない。

ちゃんというと、生きているということが情報を創りだしているのだから。

 

形に惑わされてはいけない、捕まってはいけない、囚われてはいけない。

氷は水から、水は雲から、雲は大気から、大気は宇宙から、宇宙は「無の空間」とつながり、それが生きているということだから。

 

そしてまずは形を大切にする。

無から宇宙へ、宇宙から大気へ、大気から雲へ、雲から水へ、自ら氷へ、と産まれてきたものであるから。

 

意識になる前の大気にこそ大切なモノがある。

体を大きな光と微細な波動奥の底から燃やしてみよう

氷を水に、水を雲に、雲を大気にできるように。

 

 

 

 

 

 

 

真空の中身とは

自然界には完全な真空は存在しない。

たとえば宇宙の遠い星と星の間でも1p3には1個の水素原子が存在する。

対してミクロの世界である原子核と電子の間は完全な真空だといえるが、現在の物理学ではこのような空間には「素粒子」が満ち溢れていると考えている。

 

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宇宙空間からわたしたちの体の中や細胞の原子にいたるまで、素粒子が突然現れては消えていく。

つまり無と有の区別がはっきりつかないというのが実際のようすである。

1つの粒子が複数の場所に共存するということは、Aという場所に存在している状態、Bという場所に存在している状態など、さまざまな状態が同時に多数(一般には無数)「共存」している。

日常生活では、もし、ここに1つのボールがあればそれはAという人の手の中とBという人の手の中に同時にあるということはありえず、どちらかにある。

このような事実から思考パターンを構築して、物事を判断する基準としてこれをミクロの世界にも適応すると19世紀までは考えていたが、事実は上の図のように電子は一つの粒子ではなく雲のように広がり位置は不確定であった。

これは電磁波の波にも同じことが言え、波は1つだけの振幅(波の高さ)で振動しているわけではなく、さまざまな振幅の波が共存していることが明らかになった。

 

 

真空のエネルギーの源はなにか?

素粒子の定義

このような常識が通用しない事実の世界に入り込むためには、まずは素粒子とは何かを確認しておくのがいい。

素粒子とは、エネルギーの塊のことなので、素粒子とエネルギーはたがいに変換が可能である。

素粒子は、粒子であると同時に波である。

素粒子は、位置と運動(速度)を同時に決定することができない

素粒子は、時間とエネルギーを同時に決定することができない

一方を正確に決めると他方があいまいになる。

たとえば位置を決めれば速度がわからなくなる。逆に速度を決めれば位置がわからなくなる。

電子がある特定の位置にあるとすると、次の瞬間には電子が全空間に広がってしまう。

したがって、電子が存在する位置を、原子のようにある程度限定された領域にとどめておこうとすれば、一点に固定させるのではなく、最初から共存するある程度の広がりをもって想定しなければならない。そうすれば共存する各状態がたがいに影響を及ぼし合って、それ以上広がらないようになる。

この性質を不確定性原理と呼ぶ。

換言すれば、ほんの一瞬であればエネルギーの量が大きく変動しうるが、平均値は一定である。

大きく変動した状態を粒子性、一定している状態を波動性とよぶ。

 

「場の振動」で真空と素粒子を考える

場の量子論では、素粒子を場の振動によってあらわす。場が大きく揺れた時はエネルギーがたくさんあり、素粒子が存在している状態である。

対してエネルギーがなくなると場の振動はおさまり、素粒子がないと考える。

この場の振動がおさまった状態が「真空」と定義される。

ただしこの真空が本当に何も存在しない「完全な真空」なのかどうかについては議論はしない。

真空の状態でも素粒子が沸き立っていると推測されるが、観測できないものなので、量子力学では、素粒子が存在する状態と真空との違いをエネルギーの差で表わすことに終始して、議論はしないのである。

19世紀までは、たとえば光子が0で、振幅が0という波がまったくない状態がエネルギーも最低だと考えていたが、20世紀からは量子力学が発見したことは、もしある瞬間に振幅が完全に0だったら、次の瞬間にはすべての振幅の波が共存することになる。

微小な振動の波が共存していることを認めずに、振動0を仮定してしまうと、それは予測もつかない莫大なエネルギーの潜在力を想定しなければならなくなる。

そこで最初から微小な振動の波が共存することを前提にすることで、波がお互いに影響を及ぼし合って、振幅がそれ以上大きくならないように働くことになる。

この微小な波のことを「ゼロ点振動」と呼ぶのは、振動0である状態の周辺にはわずかに振動している、という意味である。

たとえば光子がまったくない状態とは、電磁波の波がまったくないのではなく、この量子論的なゼロ点振動が充満している状態なのである。

そしてこれは光子に限ったことではなく、電子にしろ陽子にしろ、すべての粒子のゼロ点運動が、この空間には充満している。

 

無の空間で沸き立つ素粒子たち

誕生しては消える粒子のようすは、不確定性原理によって一瞬だけ存在することが許される粒子である。

対生成の際には「粒子」と「反粒子」のペアが誕生する。誕生した粒子のペアは即座に衝突して対消滅する。

この沸き立つ素粒子の寿命は1022秒(1兆×100億分の1秒)はあまりにも短いため直接に観測することができないので、仮想粒子と呼ばれている。

しかし実験によって存在は間接的に証明されている。下記のカシミール効果の実験などによって。

なお、原理的にすべての種類の素粒子が誕生しうる。

また、素粒子だけでなく、陽子や中性子といった内部に構造を持つ粒子も対生成と対消滅をくりかえす。

1020秒程度の時間では物質はある、ないという存在自体も定まらない。

何もないはずの真空中にでも、2つの粒子はペアになって生まれたかと思えば、すぐに消滅する。

現代物理学では、このような真空のことを「沸き立つ真空」とよんでいる。

 

対生成・対消滅がおきる理由

時間と空間の関係、また運動量とエネルギーの関係は相関関係であることから、

ΔtΔE/2    t時間の長さ Eエネルギー でも不確定性原理は成り立つので、

時間の幅を短くすれば、エネルギーは不確かになり、さまざまな値をとることになる。

ほんの一瞬だけに許された莫大なエネルギーを利用して素粒子が生成され、即座に消滅する。

逆に長い時間をかければ、エネルギーは限りなく0に近づき、概念としての真空の状態である「無」に見えるようになる。

 

原因は素粒子(物質)は、粒子性であり同時に波動性であること

素粒子はあるときには「粒子」のような性質をみせ、別の時には「波」のような性質をみせる。

 

概念的な「無」は概念の中でしか存在しないのだが、「無の空間」というと対生成・対消滅と粒子と波の2重の性質が想像されにくいので、「無」の代わりに「場」という表現を量子力学では使う。

 

対生成・対消滅を証明する実験がカシミール効果

2つの物体の間には万有引力がはたらくが、その引力よりもはるかに強い力がある。

これから説明するカシミール効果によってみられる強い力は、引力とは違い金属板の重量とは無関係の力が働いているからである。

真空でもゼロ点振動があるので、ゼロ点振動のようすがわかれば、そのエネルギーもわかる。

1948年にオランダのカシミールはその変化を計算した。

そして金属板の間隔がせまいほど、ゼロ点振動による真空のエネルギーが小さくなること示し、この予言された現象がカシミール効果である。

金属板に挟まれた限られた空間では、ある特定の波長しか存在できない。

金属板の表面では波の振幅が0になるので、金属板に挟まれた空間でちょうどそのような形におさまる波長しか存在せない。

このため限られた仮想粒子しか存在できず、この空間内の仮想粒子の数は少なくなる。

一方で金属板の外側の空間では、そのような制限はなく、どのような波長の仮想粒子でも存在できる。

この数の差が、金属板の間と外側とでエネルギーの差を生み、引力(カシミール力)として現れる。

この実験は、仮想粒子の対生成・対消滅の証拠を示すものであると同時に、真空がエネルギーをもつことを証明する実験でもあった。

ロスアラモス国立研究所のラモロウの実験でこれが証明されたのは1997年になってからである。

 

真空の正体 すべての物質のもをたどれば真空に行き着く

19世紀までは真空とは「何も存在していない空間」と日常生活の常識では定義されていた。

しかし現代物理学では、真空が無から物質をつくりだすという性質をもっていることがわかっている。

 

 

 

知識と体験の間

不思議なことに「人生は誠実に生きねばならない」という言葉を百万回聞かされるより、イソップ童話のアリとキリギリスの話をたった一回読んだほうが、私たちには自然に、しかも実感をもってその意味を理解することができる。

客観的で明確な意味をもった、それゆえ情報を正確につたえるのにふさわしいはずの言葉が、あいまいで主観的な含意を濃くうつす比喩や隠喩にはるかにおよばないのである。

そしてまた、私たちの「知る」には、いわば《ほんとうの知る》と《ほんとうでない知る》の2種類がある。

たしかにこれは奇妙だが、しかし、じっさい私たちは「ピンとくる」「腑に落ちる」「行間を読む」といったことばづかいによって、ものごとの理解にいわば《表層的な知る》と《深層的な知る》とをそれとは意識せずに、ごく自然に区別している。

この二つの「知る」の違いはいったいどこにあるのか?


教育とことば

「言葉」の性質にカギがある。

私たちが心底から《ああ、なるほど》と納得する「知る」ではなく、字面だけで実感の裏づけを欠いた表面的な「知る」は、なによりも言葉による知識である。

言葉とは他者と経験を共有するための媒体である。だからポイントは言葉というものがどこまで経験をつたえることができるかということである。

たとえば、

@「おい、それとってくれや」「これ?」「いやちがう、それだよ、それ」「ああ、こっちね」「うん、それそれ」…

A「絶対主義諸国は貿易や産業を統制した重商主義政策により、国内に貨幣や金銀をたくわえることにつとめた。そのため原料品を安く輸入し、国内産業を育成して海外に自国の製品を輸出し、あるいは中継貿易により利益をおさめたりする方法をとったが、いずれにしても植民地をもつことが必要であった。いわゆる《地理上の発見》以来、西ヨーロッパ各国が植民地獲得の競争に没頭したのはそのためである。」


 上の二つの文章のいちばんの《違い》はなんだろうか?それは@では言葉があくまでも私たちの経験のそのつどの具体的な状況という文脈のなかにはまり込んだ形でしか通用しないのに、Aでは言葉がそうした状況をはなれて《ひとり歩き》しているということだろう。@の文章に出てくる「それ」や「これ」は、会話がなされている状況に自分も身を置いてみなければわからない。だから@は他者と経験を共有するという点で言葉のはたらきがAに大きく劣っているのである。@では、その場に居合わせた人間しか話し手の言うことが理解できないが、Aのばあいにはこの文章を受けとった人間すべてが、どこに居ようが何をしていようがその内容を(おなじものとして一様に)理解することができるのだ。だが裏をかえせば、Aの言葉は(すべての人に共有されるという意味で)「普遍的」であるそのぶんだけ同時に「抽象的」でもある。ようするに「ピンと来ない」のである。逆に@のほうは個別的な経験からひき剥がせないぶんだけ具体的である。つまり、あくまでも経験のひとつの要素として言葉がそのなかに組み込まれているので、言葉が《独り立ち》できないのだ。

 おなじ言葉が同時に具体的にも抽象的にもなるのを、岡本夏木はそれを子どもの言葉の発達と関係づけて《一次的ことば》から《二次的ことば》への重心移動として性格づけている。

 

《二次的ことば》の特徴として、岡本はつぎのような点をあげている。(岡本夏木『ことばと発達』岩波新書 51頁)
(1)ある事象や事物について、それがじっさいに生起したり存在したりしている現実の場面をはなれたところで、それらについて言葉で表現することが求められる。したがってそこでは《一次的ことば》のように、現実の具体的状況の文脈にたよりながらコミュニケーションを成立させることが困難になり、ことばの文脈そのものにたよるしかすべがない。

(2)ことばをさしむけるコミュニケーションの対象が、《一次的ことば》のように、自分の経験や状況を共有してくれやすい親しい少数の特定者でない。自分と直接に交渉のない未知の不特定多数者にむけて、さらには抽象化された聞き手一般を想定して、ことばを使うことが要求される。

(3)《一次的ことば》が原則的には一対一の会話による自他の相互交渉、相互照合によって展開していったのに対して、《二次的ことば》では自分の側からの一方向的な伝達行為として言葉が用いられ、少なくともその行為がおこなわれるあいだは、相手から直接の言語的フィードバックは期待できない。そうした状況にあって、話のプロットは自分で設計し、調整してゆかなければならない。

 さらに岡本はこうした二つの言葉の違いをつぎのようにかんたんな表にして示している。

 


コミュニケーションの形態

一次的ことば

二次的ことば


状  況

具体的現実場面 

現実を離れた場面


成立の文脈

ことば+状況文脈

ことばの文脈


対   象

少数の親しい特定者

不特定の一般者


展   開

会話式の相互交渉

一方向的自己設計


媒   体

話しことば

話しことば、書きことば

 

 そして岡本は、こうした特徴をもつ《二次的ことば》はとりわけ学校の授業において子どもに優勢化してくるのだと述べている。

 かんたんにいえば《二次的ことば》とは言葉が人間の経験として「ひとり歩き」することだろう。しかし経験をかんぜんに、余す処なく言葉の土俵にのせることは可能なのだろうか?たとえば自分が苦心惨憺(くしんさんたん)して会得したゴルフのドライバーショットの打ち方を(他人に教えようと)言葉で表現しようとしても、とてもできるものではない。名状し難いなにかが残ってしまう。それがコツといわれるものだが、それはけっきょく各自が自分自身で《経験する》以外にないのである。(しかも面白いことにプロのコーチが言葉で教示するばあいにも専門用語などより、むしろたとえば《腕が笹竹になったような感じで》といったイメージや比喩を多用するという。感じをつかませるにはそのほうが効果的だというのである。ここからも比喩やイメージというものが経験をとらえる特有の力をもつことがわかる。その特有の力とは言葉によって経験を文脈ごとそっくり浮かび上がらせる点にあるのではなかろうか?ある意味で小説や詩というものは、一般的な言葉をつかって個別的な経験をつくり出す努力だといえるだろう。経験が個別的なものとして生命をもつためにはそれを文脈ごとひっくるめて再生しなければならない。小説が純粋の情報伝達という観点からみると必要以上?に膨大な言葉を費やすのはそのためである。)

 実験で、たとえばチョコレートの香りのエッセンスをカレーライスにかけて食べさせると、被験者は甘いと感じてしまう。においに味がひっぱられてしまうのだ。カレーにたいする私たちの味覚は見た目、匂い、舌の感覚、噛んだ時の音や弾力、そして味といった要素が複合的にからまりあってできあがっている。このように私たちの経験はそれ自体が複合的・多面的なものである。それを味や香りという単一の要素に還元してしまうことはできない。それをすれば経験の中身はひどく貧弱になってしまう。おなじことは言葉についてもいえる。つまり経験をかんぜんに言語化することはできないのである。

言葉へとおきかえることは一元化・一面化することであって、経験の中の何かが失われるのである。(もちろんそれだからといって言葉がもつ利点が失われるものではない。言葉は経験を凝集し、それを他者と共有することを可能にするのだ。私たちは父親を殺されなくともハムレットの苦悩を体験できるし、都会にいながら冒険者の目でアマゾンの奥地を見聞できるのである。もっとも、そのさい同時に私たちは実地の経験からは抜け落ちたものを、各自の創造力によって補わねばならない。)

 

 

自己意識 self-consciousness

2種類の意識

1 経験としての意識   見ること・聞くこと・喜び悲しみを感じること

2 省察としての意識   自己の経験について考えること 

自己意識とは内面世界の知覚のこと   内なる目で見て内なる耳で聞くここと

シンボルを経験すること

アウトプットされた一次的なプロセスをインプットとして扱う二次的なプロセスが自己意識である。

外部世界を遮断して、内面世界の出来事を「経験」し「行動する」。これが夢想・空想・計画・記憶の呼び起こし・夢などの認知活動である。

自己意識の現象は視覚の隠喩が多い   I see what you mean. I cannot think clearly.

視覚と自己意識は同じ基本戦略(構造・回路・メカニズム)を反映している。  Wallance Chafe

実験  視線追跡装置の軌跡と話の内容の強い相関性があった

仮説 3つは、スポットライトをあてる順序と照らしている時間によって管理する同じメカニズム

1視線(五感からの情報)の動き

2想起する時に、意識が記憶を走査する仕方

3言語化される仕方

 

内と外を分離する自己意識

自らに起こったことを思い出すには、自己意識がエピソード記憶を見る必要がある。自らの記憶を自意識が見ているのだ。これを人は思考と呼び、内と外とを分離することによって深まる技術だ。

自らの注意を内面世界に向け、同時に外部世界からの印象を無視して、二つを分離することが思考を高めることになる。

また自己意識は自分を見ようとするために、見ることにより「一つ」であった自分が見る者と見られる者に分離されてしまう。

自己意識が使われることによって、個性や行動や特徴や感情は本人にとって見慣れないものになってしまう。

はっきり言うと、見知らぬものになる。独自で個人的なものは、外部的で偶発的で取ってつけたようなものに変換してしまうからだ。分離することで親密性(未分)が異物(対象)となる。

 

パラドックス  矛盾の観る者  観る者が見られる者

自己意識は内面世界のさらに内側にあるのだろうか?

自分の眼を見ることはできるのだろうか?

それには鏡が必要だ。

内面世界の眼が自身を見るには鏡が必要だ。

この眼と鏡のセットが自己意識である。

内面の眼の出力はそれ自体の入力の一部である。

内面世界の凹んだ穴が眼と鏡である自己意識だとも言える。

 

自己意識  欺きの試み

服を着たり、化粧をしたり、刺青をいれて、意図的に自分を飾り立て、実際よりも魅力的に見せようとする自意識。

他人の印象と個我意識jivaの評価を気にする。

 

言語と貨幣のアナロジー

まずは取引があり、後に貨幣制度が発達し、取引は効率的になり、より安定した価格のシステムが出現した。

まずはコミュニケーションがあり、後に言語が発達し、より安定した意味のシステムが出現した。

そして言語は思考の共通様式となった。

 

コミュニケーションとは他者の注意

第一の機能は他者の注意を向けさせること  トマセロ

対話があっての独言   まずは体験した後に、練習

「ひとつにあってふたつ」 独言はみな対話である。はじめに対話、次に個人内での対話、すなわち独言であり、思考である。

お互いの注意にスポットライトを当てる(共同注意)  お互いの目の動きを見ることだ。目の動きは心の動きを映し出している。

他者の注意を操作することが、意図あるコミュニケーション。

相手と自分が共同的に何かに注意を払うように意図するだけで十分である。必要なのは一次的意図と二次的注意だけである。

例えば、「指差し」pointing「視線」を共有すること。指し示すものに注目する誰かがいなくてはコミュニケーションは始まらない。

 

三段階の指し示し

1 子供は欲しいおもちゃに手を伸ばすが届かない時

2 おもちゃに手を伸ばすと同時に、大人が注意を払っているかを見ようとする。Imperative行為指示

3 他者が指し示している内容を把握する  自閉症はしばしばそれを理解するのに困難を覚える。

「指し示し」は言語習得のメカニズムに欠かせない構成要素である。

 

シグナルとシンボルの違い

シンボル(言葉)として機能するためには、話し手は聞き手と両方の役割を引き受けなければならない。

例えば、子供は大人に話しかける時に、大人が子供に話す時に使うのと同じように言葉を使わねばならない。

シンボルには模倣が必要とされるのだ。対してシグナルには模倣よりも差異が効果的である。

 

言葉と行動

2歳の子供は言葉と活動が並行している。

4歳の子供は言葉を用いて行動を制御する。 見たことに感想を言う   移動の計画を言う

 

自己意識と恥

子供は第一の自己意識が生まれるのは、恥ずかしがることによって現れる。恥ずかしがるということは、他者の目から自分を見るということを前提にしている。しかし他者の内面世界を理解しているわけではない。

 

心の進化の起源の仮説

1 自己意識が二人称意識に先立っている  デカルト

  子供が他者の内面世界を理解できるよりも先に自分の内面世界を省察できることを示すものは何もない。

2 自己意識と二人称意識が同じコインの表裏「私は世の中心にいる。しかし、君もそう」Gombrwicz

3 自己は「あなた」を前提にする。他者の目を通して自分を見るようになった。それによって自分自身の意識を意識できるようになった。

私説 

4 weが分離して自己意識が生まれた。 細胞が分離するように、胎児が子宮の外に出るように。

そして自己意識である「我」が他者である「それ」を認知するようになった。

 

自己意識と鏡と他者

鏡の中にあるものが私の姿であることは、他人が私をこう見ていると想像できるとより理解しやすい。

Merleau=Ponty

自己意識とは、自分との対話である。他者とコミュニケーションするのと同じ方法で。自己意識には虚構の他者が必要なのである。他者がいなければ自己意識は発達しない。

 

Ime

「主体の私 I」は内面世界であり、「対象の私me」はさらに内側の内面世界における自己意識である。

自己意識のmeは、他者の目を通して自分自身を見ることできるときに現れる。

 

幻想の私・I・我

中心にある「私」が脳の様々なプロセスや体の様々な活動を操縦しているのではない。

「私」を捉えようとすると、幽霊のようにするりと逃げる。

「私」が幻想であれば、自己意識は仮想現実であり、「私」の知覚である。

 

仮想統治者 「我」

思考のまとまりは、内面世界の異なった部分間をつなげることによって意味のある考え方が生み出される。

内面世界のシンボルが結ばれることによって、「我」である自己経験はemergent(創発)される。 Roger Sperry

喩え 

調整された発電機が大量に繋ぎ合わられていると安定した出力が得られる。これに新たな発電機がシステム(全体)に加えられと、仮想統治者が全体と歩調が合うように調整する。この相互の同調化mutual entrainment

が自己組織の一例である

相互の同調化から仮想統治者が創発される。Norbert Wiener  

この仮想統治者は、システムの中の個々の発電機に因果関係を持たせ、システム全体の平衡保持するのが特性である。

「我」は意識の仮想調整器で、様々な認知上の制御機能の調整役である。もしある下位システムとのつながりが切れると「我」の機能も変わる。「我」は意識の他の構成要素と独立して存在しない。

「我」は一貫性の記憶もあるが、同時に変化を経験してきている。内面世界が時を経て変化しても、連続的であると感じている。しかし「我」である古い自己には大きな穴がある。記憶に、視野に。

「我」はぼやけた記憶の反映にすぎない。以前の古い記憶で構築した「我」は、私の脳が創作した話の一部にすぎない。

 

分離されたアイデンティティ

意識のお仕事はものを分断することである。

村のような共同社会gemeinschaftでは、「恥」が統制のメカニズムとしての中心的な役割を果たす。そして各自には「雑貨商の息子」や「蕎麦屋の女将さん」などの外側のアイデンティティが与えられる。

固定化されたアイデンティティを転覆させるのがカーニバルや祭りである。

これが統一性を高める。君主がいなかったり、道徳がなかったらいかにキチガイじみているかを実体験でき、伝統や道徳の大切さを再確認できるのである。

 

都市化した利益社会geselschaftはナショナリズムでも共同社会を打破し、出会う人は知らない人であり、自分の振る舞いを恥じる必要がなくなった。そして外側のアイデンティティが崩壊したのだ。

すると内側のアイデンティティが生み出された。自己意識は自らを他者の目から見ることで自己を創った。

こうしてヒトは動物にない自分自身の内面世界を創りあげたのだ。

時に外側と内側のアイデンティティは衝突する。二つの不一致に耐えることもあるし、この対立に耐えられず恥の源になることもある。

SNSやチャットなどのインターネットの世界ではアイデンティティを無効にする仮想カーニバルが毎夜繰り広げられている。