プラトンの可能性と限界
プラトン(428-347bc)は、直接ミトラ教を創始したのではない。
しかし、バビロニア=ストア学派の師たちは、天圏流出論を形成する際にプラトンの哲学を基礎とした。そのため、西方ミトラ教は「プラトンの宗教」と呼ばれるほどプラトン哲学の影響を受けている。
プラトン神学はミトラ教の影響による。
セネカの書簡の中に、「プラトンの臨終の際、おりしもアテネに滞在していたマギが病んでいるプラトンのために神事を執りおこなった。」
5cのギリシャ資料に「ペルシャからマギがやってきてプラトンの哲学に参加した。」
プラトンはマギたちから教えを授かって、それを取り入れて自らの哲学の中で華を咲かせたと考えられる。
ペルシャの宗教ゾロアスター教など
+カルデアの星星の宇宙論を持つマギ バビロニアの占星学
+インドからのバラモン僧 (ブラヴァツキーによると) 輪廻転生
+ギリシャのプラトン哲学
→原始ミトラ教の誕生
プラトンの哲学(無知の知)
プラトンの哲学 (岩波新書)
藤沢令夫
プラトン哲学を理解するために ソクラテスから受け取った哲学の火
p36 「ソクラテスから受けとめたもの」は、最後の最後まで、著作から知られるプラトンの哲学の変わらぬ基層となっている。
ではその、そのソクラテス的競うとは何であり、どのようなものであったか?
p42 ソクラテスは、人間を教育すると豪語してカネを払わせるソフィストたちの「知」を、皮肉をこめて「人間なみ以上の知」と呼び、それに対して自分がもっている「知」を「人間なみの知」と呼んで区別し、その意味を、デルポイの神託をめぐる自分の体験によって説明する。
「ほんとうの知者は神だけ」であり、それに比べて、「人間たちのうちで一番の知者とは、ソクラテスのように、自分が知に関しては何の値打ちもないと知った者なのだ」ということを、教えようとしたのにちがいない。
いちばん大切な真・善・美に関しては全く何も知らなかったプラトン
神の意志とは何か? 人の生き方はどうであるべきか?
p78-80 イデア論形成の基礎そのものとしてもっとも重要な要因は、ソクラテスが勇気、節制、敬虔、正しさ、美しさ、また「徳」そのものについて問うていた「それぞれが何であるか」という問である。
このようなソクラテスの「Xとは何であるか」という問は、アリストテレス以来今日でもXの「定義」を求める問であると言われるのが通例で、ソクラテスの求めていたものが「定義」であると言ってしまうと、その「定義」が最後まで得られない上記の対話篇はみな、失敗と挫折の記録という以上の意味を持たず、成果は単純にゼロというほかないように思われる。
しかし、ソクラテスの問を「何であるか」という問のままで考えてゆくならば、そうした答の脚下そのものが重要な意味を持つことに気づく。
定義とは探求の前の言葉遊びの段階。
自由、正義、徳、などは、定義することができない悟り(禅師のあるがまま)のように、これらは言語で言い表すことはできない。
真・善・美という究極の真相に近づけば近づくほど絶対に言語化できない。
それに迫るためには一つしか方法がない。
脚下そのものである。
Plátōn、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。
プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた。『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする。
青年期はアテナイを代表するレスラーとしても活躍し、イストミア大祭に出場した他、プラトンという名前そのものがレスリングの師から付けられた仇名であると言われている
プラトンの哲学(イデア)
プラトンの哲学 (岩波新書)
藤沢令夫
プラトンはイデアを直観的には理解したが、体験してはいないと推定する理由は4つの特徴が誤謬だからである。
徳や正義が真に存在するとすれば、元なるものを想定するという哲学的要請から作り上げたもの
どこが間違った定義なのか、そしてなぜ間違ったのか?を考えてみる。
プラトンの美のイデア 本性の「美」の獲得
1不生不滅 つねにあるもの 神々も不滅ではない
2美そのもの 醜い箇所がない 自性
3具体的なものとして現れることはない 内にあるものでもない 超越的存在
cf.アリストテレスは内在している幽体をイデアとした。
4純粋でただ一つの相を維持しており、ここからカタチに美を分有している。
後に分有を否定し、似像である、とした。 似像とは劣化コピーのこと。
グノーシスの源流はプラトンのイデア論を基盤にしている。
ロゴスはプレローマの似像 その似像がケイリ? その似像が肉体
イデア論
一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。
最初期の対話篇を執筆していた30代のプラトンは、「無知の知」「アポリア(行き詰まり)」を経ながら、問答を駆使し、正義・徳・善の「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続けるソクラテスの姿を描き、「徳は知識である」といった主知主義的な姿勢を提示するに留まっていたが、40歳頃の第一回シケリア旅行において、ピュタゴラス派と交流を持ったことにより、初期末の『メノン』の頃から、「思いなし」(思惑、臆見、doxa ドクサ)と「知識」(episteme エピステーメー)の区別、数学・幾何学や「魂」との結びつきを明確に打ち出していくようになり、その延長線上で、感覚を超えた真実在としての「イデア」の概念が、中期対話篇から提示されていくようになった。
生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、数学・幾何学や問答を通して、その記憶を「想起」(anamnêsis、アナムネーシス)することによって近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。
こうした発想は、『国家』『パイドロス』で典型的に描かれており、『国家』においては、「太陽の比喩」「線分の比喩」「洞窟の比喩」などによっても例えられてもいる。プラトンは、最高のイデアは「善のイデア」であり、存在と知識を超える最高原理であるとした。哲学者は知を愛するが、その愛の対象は「あるもの」である。しかるに、ドクサ(思いなし、思い込み)を抱くにすぎない者の愛の対象は「あり、かつ、あらぬもの」である。このように論じてプラトンは、存在論と知識を結びつけている。
『パルメニデス』『テアイテトス』『ソピステス』『政治家』といった中期の終わりから後期にかけては、エレア派の影響も顕著になる。
『ティマイオス』では、この世界・宇宙は、善なる製作者(デミウルゴス)たる神によって、永遠なるイデアを範型として模倣・制作したものであることが語られる。『法律』では、諸天体が神々の「最善の魂」の知性(ヌース)によって動かされていることを説明する。
プレローマ界 イデア界
星辰界
月下界
地球
プレーローマ Pleroma (Koinē Greek: πλήρωμα, 'fullness'
グノーシス主義におけるアイオーンは、高次の霊または霊的な階梯圏域で、アイオーンこそは「真の神」で、ユダヤ教やキリスト教などが信仰している神は、「偽の神」である。またアイオーンは複数が存在し、プレーローマと呼ばれる超永遠世界にあって、男性アイオーンと女性アイオーンが対になって「両性具有」状態を実現している。
紀元2世紀の大ウァレンティノスと呼ばれるグノーシスの思想家の高弟であるプトレマイオスの説では、プレーローマには、男女を一対として、四対、合計八体の至高アイオーンが存在するとされる。それらは、オグドアス(8個の集まり)とも呼ばれ、次のようなアイオーンで構成される。
プロパトール − 伴侶:エンノイア(思考)
ヌース −伴侶:アレーテイア(真理)
ロゴス − 伴侶:ゾーエー(生命)
アントローポス − 伴侶:エクレシア(教会)
伴侶は女性アイオーンである。アイオーンの筆頭に来るのは「プロパトール」であるが、この名は「先在の父」とも訳され、超越性の更に超越性にあるとされる。プロパトールとは何かは、人間は無論のこと至高アイオーンであるオグドアスのアイオーンもまた、それを知ることはなかったとされる。プロパトールは、ビュトス(深淵)の名でも呼ばれる。またオグドアスはプレーローマの中心であるが、そのなかにあって更に上位の四アイオーンは、テトラクテュス(4個の集まり)と称する。
グノーシス主義では、新プラトン主義のプロティノスの考えを取り入れ、流出説を提唱した。
ウァレンティノス派では、原初、先在の父(プロパトール)が唯一存在し、プロパトールは流出によって諸アイオーンを創造したとされる。
プラトンの哲学(魂と身体)
真相をついているプラトンの哲学
霊的世界を無視して概念としてプラトンを捉えることで、二元論に陥る現代哲学者。
通俗的なプラトン理解
p101 魂と身体、2つの生き方
「イデアは感覚(知覚)によってではとらえられず、思惟によってのみとらえられる」
このイデア論の基本論点が「魂」プシューケー対身体ソーマという対立の枠組みの中に組み込まれて、
「できるだけ目からも耳からも逃れ、いうなれば全身体からも―――これらとともにあれば魂をかき乱されて、真実と知の獲得はかなえられぬと考えて―――逃れること」
につとめなければならないと言われ、それゆえに知の愛求者(哲学者)は、つねに魂の清浄化(カタルシス)につとめてやまないのだと説明される。
魂に意識を向けて、身体(感覚)から離れるようにしなければならない、と確かに言っているが
肉体は汚れた嫌悪するものとして嫌い、魂のイデア(霊的なプレーローマ)の世界を肯定したというのはグノーシス的二元論な通俗的な理解の仕方で、そのようなことはプラトンは主張していない。
p102 ケベスの疑問に答えて
「魂が純粋清純なままで身体を離れるならば、すなわち、その生涯みずから進んでは身体とともにあったことの少しもなかった魂なればこそ、いかなる身体的なものをも一緒に引きずってゆくようなことはなく、それはみずからと相似た、かの見えざるもののほうへ、神的で、不死で、叡智的なもののほうへと去ってゆき、ひとたびそこへ到り着いたのちは、魂は彷徨や愚かしさや、さまざまの恐怖や荒々しい欲情や、その他もろもろの人間的な悪からすっかり解放されて、幸福はそのときこそ、魂のものとなるのではないだろうか」
心を清めた魂は死後にイデア界に引き上げられ、永く生きることができる。
解脱はしていないので転生するが、3回ほど繰り返すと解脱するようなことも記載している。
たった一人でここまでの完成された思想をもったのは素晴らしいことで、偉人であった。
100人に1人しか知の愛求者はいないので、それを前提にして他人の話を聞くべきである。
「死にのぞんで嘆き悲しむ人を君が見たら、それはその人が実は知の愛求者ではなく、身体の愛求者であったことの十分な証拠ではないだろうか。そしてその同じ人間は、金銭の愛求者であり、名誉の愛鳩でもある――そのどちらであるか、両者であるかだろう」
プラトンがこのソクラテスの意志を継ぐ闘いを闘っていることを思えば、「バイドン」でほんとうに意識されているのは、このような2つの生き方の対比をさらに哲学的に根拠付けることだったかもしれない。
p108「物」的自然観との闘いへ向けて
プラトンは「物」的世界像・自然像――「物」を最基本要因とみなす世界像・自然像――を正面から原理的に吟味して、その相対化と一定の位置づけに努めた史上最初の哲学者である。
心が想いがこの世界を創る。
プラトンの哲学(コスモロジー)
プラトンはすべての思想の源流である
プラトンを基準にしてどのように解釈するかによって思想が生まれる グノーシス、ヘルメス、現代神智学
物質性を否定しないプラトン
魂をどう把えているのか 幽体を魂と把えているプラトン
p142 「動」の始源としての魂
「魂はすべて不死である。なぜならば、つねに動いてやまぬものは、不死なるものであるから、これに対して、他のものを動かしながらも、また他のものによって動かされるものは、動くのをやめることがあり、ひいてはそのとき、生きることをやめる」
魂不死の論証は「しかるに、自分で自分を動かすものとは魂にほかならないとすれば、魂は必然的に不生不死のものということにあるであろう」という言葉で結ばれる。
「自分で自分を動かすもの」というプシュケー(生命、活力の意味を含む)の本質規定は、ここで初めて現れる新しい着眼であった。
前半は論理的に誤謬であるので無意味。プラトンの魂とは幽体のことを指しているのだが、幽体はいつか死ぬものであって不死ではない。
後半の「物質(肉体)は他のものから動かされるもの」に対して「魂は自分で自分を動かすもの」は、野口晴哉も肯定する見地であろう。
p190ミトラ教とプラトンの世界観 宇宙論的な魂とは
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ミトラ教 |
両性具有ズルワーン |
父ズルワーン |
母ソフィア |
ミトラ |
世界卵 |
プラトン |
善 |
ヌース |
原初物質 ヘカテー |
造り主 |
レアー |
インド思想 |
パラアートマン |
プルシャ |
プラクティ |
アートマン |
マハート |
両性具有のズルワーン→ 父 → ミトラ
→ 母 → 世界卵
p142この造り主とは宇宙論的なプシュケー(魂)に座を持つ、宇宙論的なヌースの神話的イメージのこと。
プシューケーはヌースの力によって、「美しく善きものどもの造り主(デーミウールゴス)となる、と表現されている。
プラトンは宇宙論的プシューケーを造り主(デーミウールゴス)としており、それはミトラ教のミトラのこと。
p191 宇宙の創造
造り主は、万有ができるだけ自分に似るように、すなわち、すべてができるだけ善く美しいものとなるように望んだ。造られた宇宙の全体は「真実らしい言説に従えば、真実に、魂(プシューケー)をもち知性(ヌース)をそなえた生けるもの」であった。
「ティマイオスTimaeus」におけるこの造り主の宇宙創造は、キリスト教の造物主・創造神と違って、無からの創造でなく、造り主は「必然」(アナンケー)の抵抗に出会い、ヌースによって必然を「説得することによって」承服させながら、この世界を造ってゆくのである。
このようにして、――この宇宙創造はある段階以後、生み出された第二序列の神々に委ねられるのであるが――いたるところで数的構造に言及されつつ宇宙の魂と身体(物体)が造られ、惑星などの天体とその周期的運動が説明され、人間をはじめ生物たちが造られ――というふうに、森羅万象に及んでゆく。
ヘルメス選集の第一文書「ポイマンドレース」とプラトンの宇宙論
デミウルゴスが水に映った「至高なる者」(ソピアーの像またはアイオーンの像)を自己の映像と錯覚して人間を創造するということになっている。
これもおそらくプラトンを起源にしていると考えられる
「ポイマンドレース」では造り主と世界卵が交感し卵が割れて、宇宙が誕生した。
そしてイデア界に戻っていった純粋ロゴスと、下の界である宇宙にとどまった霊的ロゴスがおり、この霊的ロゴス(ヌース)が造り主デミウルゴス(宇宙的プシューケーのこと)を造って、このデミウルゴスに霊的ロゴス(ヌース)が入る(合体して)ことで宇宙を造ったことになっている。
造られた宇宙はプシューケー(魂)をもち、ヌース(知性)をもつ。
プラトンの哲学(知覚論)
イデア論の問題点
分有の問題点はプラトンの哲学 (岩波新書)
藤沢令夫にかかれているので参照
プラトンの真意を汲み取る 分有と似像
p156
「美」そのもの(美のイデア)を除いて他の何かが美しいとすれば、それはただ、そのもがかの「美」そのものを分けもっている(分有)からにほかならない」
p159分有用語の記述方式の難点
「個物XはイデアΦを分有することによってFである(Fという性質をもつ)というこの記述方式においては、個物Xが記述の主語しての重責を担っていて、あたかも、イデアΦを分有し性質Fをもつということに先立ってまず個物Xが、その当の主体として確在していなければならないかのように記述される。
記述 イデアΦがFをもつ→個物X
プラトン イデアΦ(実在) →個物XがFをもつ (影)
常識的思考はモノと性質を分けて考えている。
まずは実体としての椿がある。この椿はピンク色や多花弁や香の性質を持っていると認識する。
個物Xと性質Fを分離させて考える。
しかし実際には個物Xと性質Fは一体したもので分離させることはできない。
この椿とこの香は一体であり、この香はこの椿であり、この椿はこの香であるので、分離などできない。
このように常識的な記述によって、プラトンのイデア論と読み手との間に違いができる。
常識的記述は観念(一般化)を中心にする常識的思考を発動させ、個物Xと性質Fとの区別を安定させ、これを基本枠とする。
一般化とは個々のユニークな存在を類同することなので、一般的記述ではプラトンのイデア論を伝えることが難しい。
たとえば「イデア原因論はトートロジー同語反復だ」という批評もこのイデアΦと性質Fを同一視してしまっている批評家だからしてしまう意見であった。
プラトンの主張 イデアΦ(実在) →個物XがFをもつ (影)
観念から考える批評家 イデアΦ=性質Fなのでプラトンは同じこと言葉を変えていっているにすぎない
プラトンが主張しているのはカタチのないイデアΦが形に成るときにFになるのであって、
決してデアΦ=性質Fなのではない。
p165
「パルメニデス」(第一部)において炙りだされたイデア論の不備は・・・逆に類同化されて無力化されるという、取り返しのつかぬ事態におちいる危険性がきわめて大きいということであった。
常識思考とは観念を基準にして、眼の前のありのままの状態を見ないで観念という過去に学習した思考パターンで、眼の前の現実を観念として解釈することである。
「観念のしたたかさと闘っていたプラトン」
観念に絡め取られて、それを中心にして言動することで、だれでも自己正当化することができる。
どんな悪いことをしても、その悪という性質と自分自身とを区別することで責任転嫁させる方法がある。
主体のSを悪の性質と分別することで、悪に影響を受けた主体S’といつものSとを別のものとすることで、S’を分離させて、なんでもS’の責任にすれば、Sはそのままの自分を正当化させることができる。
これが観念的人間の行う典型的な行動である。
ヘルメス文書:ポイマンドレース(宇宙の創造)
三位一体 父、母、息子
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一者 |
父 |
母 |
息子 |
娘 |
ミトラ教 |
両性具有 |
ズルワーン |
ソフィア |
ミトラ |
世界卵 |
プトレマイオス |
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プロパトール |
エンノイア |
ヌース |
アレーテイア |
プラトン |
一者 |
ヌース |
原初物質 |
創造主 デミウルゴス |
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新プラトン主義 |
一者 |
ヌース かくれた大 |
原初物質 |
アイオーン火・光 |
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神智学 |
モナド 三重のロゴス |
第一ロゴス パラアートマン |
第三ロゴス 活動知性 |
第二ロゴス マハーブッディ |
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三部の教え |
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唯一なる者 |
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御子 |
エクレーシア |
ポイマンドレース |
なし |
絶対のヌース |
闇 |
主なるロゴス アントローポス |
蛇 胚珠 フュシス |
グノーシスと古代宇宙論 柴田
有
5
さて、光から、・・・聖なるロゴスがフュシスに乗った。すると、純粋な火が湿潤なフュシスから出て上へと立ち昇った。その火は敏捷で軽快であり、同時に活発であった。また空気(アエール)は軽かったので霊気(すなわち火)に続いて行った。すなわち、空気が土と水を離れて火の所にまで昇り、あたかも火からぶら下がっているかのようだったのである。ところで、、土と水は混り合い、土は水から見分けることができないほどであった。それ(混り合ったもの)は、覆っている霊的ロゴスに聞き従い、動いていた。
7 彼は長い間、こうしたことを語りながら私を凝視していた。それで、私は彼の相貌に震え上がった。しかし、私はたじろぎながらも自分の叡智の内に見た――それは光が無数の力から成り、世界(コスモス)が無際限に広がり、火が甚だ強い力によって包まれ、力を受けつつ秩序を保っている様である。私はポイマンドレース
ポイマンドレースの主なるロゴスとはプレーローマの内側にいるミトラのこと
聖なるロゴスとはプレーローマから外に出たミトラのこと
p121
10 神のロゴスはただちに下降する元素から飛び出して、フュシスの清い被造物の中に入り、造物主デミウルゴスなるヌースと一つになった――それ(ロゴス)は造物主なるヌースと同質であったからである。
そこでフュシスの下降する元素は、ロゴス無きままに取り残され、質料ヒゥレーは孤立して存在した。
11 さて、造物主デミウルゴスたるヌースはロゴスと共にあって、(世界の)円周を包み、(これを)シュルシュルと回す者であって、自分の被造物を回転させ、限りない始めから無限の終わりの時まで回転するままにしておいた。それは、終わる所で始まるからである。
ところで、被造物の円転運動は、ヌースの意のままに、下降する元素からロゴス無き生きものをもたらした――それはロゴスを持っていないのである。すなわち、空は飛ぶものを、水は泳ぐものをもたらした。それから、土と水とは、ヌースの意のままに、お互いに分離し、土は自分の中から孕んでいたもの、すなわち四足獣と這うもの、野獣と家畜とを産出した。
霊的ロゴス 宇宙に遍満するマイナスのロゴス
恒星に近づくほど霊的ロゴスは濃くなり、地に近づくと薄くなる。土はゼロ。
聖なるロゴス プレーローマから外に出たロゴスのことで、後に創造主だと勘違いして思い上がることになる。
造物主はプレーローマ界にいるプラスのロゴスの霊導によって動く中間界にあるマイナスのロゴスと一体になって、すなわち三位一体となって活動している。
神智学の三位一体
霊(プラスのロゴス、アートマ―)
心魂(マイナスのロゴス、ブッディ)
物質(マナス)
新プラトン主義
テウルギアとは「神的な働き」を意味する。記録の上でのこの言葉の初出は2世紀中葉の新プラトン主義文献『カルデア神託』にある(断片153 デ・プラス(パリ、1971年):テウールゴスたちは運命に支配された群衆の内に入らぬものなれば)[12]。西洋のテウルギアの源泉は後期ネオプラトニズム哲学、とりわけイアンブリコスに見出すことができる。後期ネオプラトニズムでは、霊的宇宙は〈一者〉からの一連の流出であるとされた。〈一者〉より〈神的精神〉(ヌース)が流出し、次いで〈神的精神〉より〈世界霊魂〉(プシューケー)が流出する。
新プラトン主義者は、〈一者〉は絶対的に超越的なものであり、流出においては上位のものは何も損なわれることもなければ下位のレベルに伝達されることもなく、下位の諸流出によって変化することもないと説いた。
古代の新プラトン主義者は多神教徒であったとみなされているが、ある種の一元論を採用した。
プロティノス、そしてイアンブリコスの師であったポルピュリオスにとって、流出とは次のようなものであった。
ト・ヘン (τό ἕν) すなわち〈一なるもの〉:無味の〈神性〉。〈善なるもの〉とも呼ばれる。
ヌース (Νοῦς) すなわち〈精神〉:〈普遍的意識〉、これよりプシューケーを生ずる。
プシューケー (Ψυχή) すなわち〈霊魂〉:個の霊魂と世界霊魂の両者を含み、最終的にピュシスに至る。
ピュシス (Φύσις) すなわち〈自然〉。
プロティノスはテウルギアを行うことを望む人々に観想〔テオーリア〕を勧奨した。その目指すところは神的なものとの再統合であった(これをヘノーシスという)。そのためかれの学派は瞑想もしくは観照の一派の観を呈した。ポルピュリオス(かれ自身はプロティノスの弟子であった)の門弟であったカルキスのイアンブリコスは、祈祷や、宗教的であると同時に魔術的でもある儀式を伴う、より儀式化されたテウルギアの方法を教えた[13]。イアンブリコスは、テウルギアは神々の模倣であると信じ、主著『エジプト人の秘儀について』において、テウルギア的祭儀は、受肉せる魂に宇宙の創造と保護という神的責任を負わせる「儀式化された宇宙創成」であると表現した。
イアンブリコスの分析するところでは、超越的なるものは理性を超えたものであるがゆえに心的観想によっては把握しえない。テウルギアは、存在の諸階層を通じて神的「しるし」を辿ることによって超越的本質を回復することを目指す一連の儀式と作業である。
アリストテレス、プラトン、ピュタゴラス、そして『カルデア神託』の呈示する事物の枠組というものを理解するためには教養が重要である[14]。テウルゴス(神働術者)は「類似のものを以て類似のものを」作用させる。物質的なレベルでは、物質的なシンボルと「魔術」によって、より高いレベルでは、心的かつ純粋に霊的な実践によって。神働術師は物質において神的なるものを調和させることから始め、最終的に魂の内なる神性を〈神的なるもの〉と合一させる段階に達する[15]。