シベリアのナイフ  モノは誰にも属さない

                                        2000年1月1日

モノは声を発しない。

ずっとこの世にいるだけ。

モノはかりそめの姿をした旅人。

必要な人のところに行くだけ。

それがモノの宿命。

 

 

カバンの中にはシベリアのものが一杯ある。セイウチの骨で作られた人形、トナカイの骨で作ったギザギザの馬銜、トナカイのマント、銀狐の防寒帽、人を殺したナイフ、クマの歯、マンモスの歯。

 

シベリアの人はやさしい。

いいものを持っているね、と言うとそれをくれることが多い。 なんて気前の良い人なんだろうと思っていた。

マガダン、ヤクーツク、イルクーツクからタイガやツンドラ気候であるコリャーク、エベンキ、エベン、チュクチ、イテリメンとベーリング海やカムチャッカ山岳部と自然に分け入った集落に行くほどにそう感じる。

 

2000年の元旦、私は何故か、マイナス40度の氷と雪の世界に囲まれ、外が透けて見える天幕の中で人を殺したことがあるという男と二人きりでいた。 クリスマスの始まる前には他の遊牧民たちは犬と一緒にそれぞれの家族の元に集まるために旅立っていった。身寄りのない私達だけが何百頭のトナカイと一緒にタイガの森林の中に取り残されて暮らしていた。

同居者は料理が上手な男でトナカイの肉をさいころステーキの大きさに切って、丁度よい塩加減と焼き具合にしてくれた。ここでは薪を作るのも一仕事なので一日一回しか火を熾(おこ)さない。木はいくらでもあるのだが、それをノコギリで伐る作業をしていると、吐く息で口の下には氷柱のヒゲができる。汗をかいてしまえばそこが凍傷になってしまうので発汗する作業はできらだけ減らしたい。 だから温かいものは一日一回だけ。調理したものを天幕の中に置いておいても氷のように固まってしまうので、それらはビニール袋で包み肌着と服の間に入れて置き、少しずつ食べるようにする。

雲のずっと向こうにある日本はちょうど正月。体が冷えきるシベリアでは、熱い雑煮の出汁がなつかしい。

 

 一緒に生活を始めて数日すると、私達の一通りの話は終わった。ある晩のこと、長い沈黙の後、彼は自分の妻を殺した話を始めた。次の日にはその数年後に付き合っていた女性に半死の刺し傷を与えてしまったという話をした。どちらも手に持ってるこのナイフを使ってしまったという。 長い冬が怖いという。閉ざされた時間が続くと感情が一気に出てしまうのだそうだ。

 

彼にシベリアを旅していると、モノを分けてくれるやさしい人が多いという話をしたら、

「だってモノは誰のものでもないから」といとも簡単に言う。

だから人に請われたその人に渡すのが慣習だという。でも大事なものだったらそうはいかないだろうと言ったら、断る方法を教えてくれた。

 

「私もこれは好きなんですよ」と。

もし二度目に聞かれた時は、「親の形見なんですよ、とか、彼女から貰ったもので、とっても大事にしているんですよ」と。

しかし三度目にきかれたら、その人にあげるのが慣習になっていると。

 

いままで安易に、それいいね、と口に出していた自分を恥じた。

ここでは本当に必要なのかどうか、まず自分に聞いてみるのがいい。

モノは誰のものでもない、必要な人が使うのがモノの役目だ。

モノは誰にも属していない、モノは必要なところにあるのがいい。

 

布地の向こうが見えるテントを離れる日の朝、彼は黙ってあのナイフを私の手につかませて、こちらを振り返ることもなくそのまま山の方へ消え去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

現前性(presence)とは、「現れていること」であり、何かの眼差しの前に存在することである。このまなざしの主体は客体(対象)を観察し、それに光を当てて解明する認識主体である。対象に対して意味付けし、解釈と判断をしているともいえる。こうした意味付けなどの行為によって、対象は認識主体の解釈の枠組みのなかに取り込まれて、一種の所有物となり、操作対象となる。これが現前性の権力構造(所有構造)である。

 

現前性の権力構造の根本規則は、propreという概念にあるという。「〜に固有に・本来の」という意味である。ここから派生させて考えると、「所有」・「所有権」・「本来的属性」などが浮かび上がってくる。西洋哲学は、事物の固有性を、本質・真理・自然などの名のもとに研究してきたが、固有性=本来性(もともとそうであること、そうであることがあたりまえであること)は純粋(外的・偶然的なものをまじえず,それ自体の内的な普遍性・必然性をもつさま。)なものと考えられ、固有=本来が清潔の観念と結託している。西洋哲学は純粋な存在の探求に傾き、不純な存在を排除しようとしてきたという。

 

 純粋なもの、不純なもののような二項対立はある種のヒエラルキーを形成している。真と偽、実在と仮像(鉱物が,温度・圧力・化学的状態の変化により,その外形を保ったまま成分の一部または全部が置換して,別の鉱物になったもの)、存在と不在、形相と質量、必然と偶然、永遠と瞬間、不変と特殊、意味と記号、固有の意味と比喩、メッセージとメディア、自然とその対立物(人為、技術、文化、社会、制度)、自己と他者、自律と他律、など。

 

 デリダいわく、自己の所有を固有的=本来的と思い込むのは、所有と現前の暴力性を否認したり忘却することが原因だという。ここでいう自己の所有は"現前性の性質である、対象を意味付けすることによってその対象が認識主体の解釈の枠組みの中に取り込まれ、一種の所有物となること"である。デリダはこうした現前性の暴力構造を否認したり忘却するのではなく、こうした暴力の痕跡(エクリチュール)をたえず読み返そうとすること(グラマトロジー)が必要であると訴える。

 

 

我有化 所有 私とモノ

所有が神聖な序列まで高められるには、対自と具体的な即時との間に自発的に打ち立てられた関係として存在しなければならない。

あれは所有されているものだ。・・・に属するもの。

葬儀 死者のもの 死者とともにひとつの全体をなしていた。 古代は故人の常用品を埋葬することは当然であった。その品が人間である場合もあった。所有されている人間であれば。

幽霊は家や家具が所有されていることを物質化しているものだ。他人のものを使わせてもらううちはいいが、まるで自分の所有のものに扱うようになると幽霊が現れる。

 

「私のもの」とは何か?

「私」の絶対的な内面性と「非−私」の絶対的な外面性との間における一つの媒介的な存在関係

同一の混合において「非―私になる私」であり、「私になる非―私」である。

何かを「私のもの」にするきっかけは、私の意識(対自)である。対象を我がものにしうるという可能性が産み出るのはこの対自(意識)だ。これは一つを無と対自に分けることによって出来上がる。この対自がモノ(即自)と同一になると、私のものとなる。この時の私は分化できない統一された一つで絶対的な私自身であり、モノは単なる可能性という、二つの違うものが一つになることによって、私の所有が成り立つ。

モノは私の外にあるもので、即時であり、瞬間ごとに私から逃れ出るが、私は瞬間ごとにそのモノを捕獲(創作)し続ける。視点を私からモノに変えると、私がモノを所有するとき、私はそのモノに対して、私を他有化する。

モノが私を所有しているのだ。私はモノが無ければひとつの不完全で不十分なものでしかなく、その完全と充足は、このモノのうちにある。所有したモノが私の根拠となる。我有化は、対自の理想の象徴である。理想の象徴を幻想と言い換えて良い。所有することによって、私は、私の対他を回復する。すなわち、他者は私を襲うことができない。所有は他人に対する一つの防御である。

私のものとは、「非―主観」の私そのものである。

自転車を私の所属とするためには、一枚の紙幣を手渡すだけでことが足りるが、この所有を実現するためには、私の全生涯が必要になる。所有とは常に死によって未完に終わらせるひとつの企てである。

我有化は象徴性である。享受を指示するものでしかない。

一つの対象を所有することがそもそも不可能であるので、意識はいっそこの対象を破壊してしまいたいという激しい欲望が生じてくる。

破壊するとは、私の内に吸収することであり、私とモノが深い関係を保つことである。破壊は、創作よりも一層鮮やかに、我有化を実現する。なぜなら破壊された対象はもはや自己を浸透不可能なものとして示すためにそこに存在しないからである。

映画で言うとディゾルブだ。2つの映像の重ね合わせた絵だ。

破壊とは存在していたモノの唯一の責任者として、全ての人に代って、自己を引き受けることで再び創作することである。

利用するとは使い古すことである。使い古すとは部分的破壊だ。ひそかな喜びだ。損耗はわれわれから来るからだ。それが嬉しいのだ。使い古したのは私だからである。私の損耗は私の生活の裏側だ。

消費は消滅させることであり、食うことだ。我有化的な破壊を意味している。破壊して、自己に合体させるという二重の喜びがある。

贈与の気前のよさも気持ちがいい。実はこれも原初的な破壊である。人にあげることは自分の世界からの視点で見ると、所有物の破壊である。贈与物は私の眼から取り除かれる。過去の対象物を透明のままにしたのは、私ひとりだけである。与えることによって、最高の仕方で享受する。 

贈与は、激しくて短い、ほとんど性的な、ひとつの享受である。またそれは、他人に対する挑戦で、他人を束縛する。相手はこの贈与物を連続的な把握をすることで維持するように強制する。与えるとは屈従させることである。与えるとは、破壊を利用して他人を自己に屈従させると同時に、「我がものにする」ということである。

与えた者は創作(保持)するよりも、破壊して我がものにすることをなぜ選んだのであろうか?

この問いは贈与者の「存在への根源的な関係」を発見させてくれる。

この発見が実存的精神分析だ。

好みが一つの世界観、一つの存在選択を指し示している。ポーの水の流動性、ランボーにおける地質学的なもの。

好みを通して、自己を顕示する選択がわかるからである。

精神分析はイマージュを追い求めるものではなく、モノの意味を明らかにするものでなければならない。

 

 

 

所有権 property      平凡社百科事典より

 

明確な形態で規定されたのはフランスの人権宣言(1789)である。人権宣言17条は〈所有権は不可侵かつ神聖な権利であるから,法律によって公共の必要のために明らかにそれを要求することが認定され,かつ正当な補償が支払われるという条件の下でなければこれを奪うことができない〉と定めた。そして,このような規定の形式は,19世紀における近代諸国の憲法に取り入れられていった。日本でも大日本帝国憲法(明治憲法)27条は〈日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルルコトナシ。公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル〉と定めた。そして,これをうけて,民法206条は〈所有者ハ法令ノ制限内ニ於テ自由ニ其所有物ノ使用,収益及ヒ処分ヲ為ス権利ヲ有ス〉と規定した。また,土地所有権について207条で〈土地ノ所有権ハ法令ノ制限内ニ於テ其土地ノ上下ニ及フ〉と規定した。

所有権絶対の原則は,フランスの民法学が19世紀半ば権利濫用の法理を確立してから修正を受けるようになる。そして隣国ドイツでも,19世紀後半には社会的所有権の思想が現れて修正されるようになる。こうした所有権を制限しようとする傾向はしだいに強まった。とりわけ1919年のワイマール憲法はその153条に〈所有権は憲法によって保障される。その内容および限界は法律によってこれを定める。所有権は義務を伴う。その行使は同時に公共の福祉に役立つべきである〉と明確に定めた。19世紀的憲法において所有権は自然権とみられていたのに対して20世紀になると制度的保障としての権利へと性格が変わったのである。具体的には公共の福祉によって制限されるべき内容へと変更されている。

 

所有権は完全な物権とも典型的物権ともいわれるのみならず,財産権の土台ひいては私有財産制度の基礎ともいわれるのである。西欧諸国において,所有権という言葉が財産という用語をもってあてられるのをみても,この間の事情を察することができる。このため,所有権絶対の原則が,契約自由の原則および過失責任の原則と並んで,近代法の三大原則とされたものである。つまり,近代社会は,所有権の絶対性を通じて保障される私的所有が起点となり,商品の生産,交換,再生産という経済活動が契約の自由により円滑に行われる。そして自由競争は不法行為における過失責任の原則により背後から支えられる,というしくみとして成立し,存続するのである。

 

 

[所有権の取得とその効力]  所有権の存続期間については制限がない。所有権は消滅時効にかかることもない。所有権の取得原因は第1は承継取得である。これは売買,贈与,交換,相続,遺贈などである。第2は原始取得である(原始取得・承継取得)。これは無主物先占,遺失物拾得,埋蔵物発見,付合,混和,加工,取得時効などである。所有権の効力としては,所有者は法令の制限内においてその所有物の使用,収益,処分をなす権利を有する。また,土地の所有権は法令の制限内においてその土地の上下に及ぶ。この点は,フランス民法と同じであり,ドイツ民法やスイス民法は,利益の存する限度において,土地所有権の効力は上空および地下に及ぶと規定している。学説は,日本の場合も,ドイツ民法やスイス民法と同様に解釈すべきであるものが多い。しかし他人の土地の上下を利用するについては,土地所有権の効力が及ぶとされるので,たとえば地下鉄を地下深く通すときでも,その土地を任意買収するか,土地収用法に基づき強制収用ないし強制使用をするか,または,任意に地下目的の地上権(これを地中権ともいう。民法269条ノ2)の設定契約を結ぶかするほかはない。土地所有権の効力は伝統的に相隣関係においては制限される。民法は,境界または近傍における建物等の築造・修繕のための隣地使用権,袋地所有者の隣地通行権,自然流水・雨水等に関する受忍義務等,界標設置権,囲障設置権,竹木・竹木の根の切除,境界線近傍の建物築造,便所の設置,水埋設等につき規定をおいている(209238)。所有権は,物権の代表的な権利であるから,物権の一般的効力であるところの物権的請求権を有する。これは所有権が侵害された場合の救済である。所有物返還請求権,所有権妨害排除請求権および所有権妨害予防請求権に分かれる。

[共同所有]  一つの物を複数の人間が所有している場合を共同所有という。共同所有には3種の形態がある。第1は共有である。共有の特色は各人は持分を有し,分割請求権を有する点にある。たとえば,ABC3人が一定の金銭を出し合って山林を買ったとする。この場合,ABC は,原則として,出資に応じて,山林に対し持分を有し,いつでも持分に応じて分割することを他の者に請求することができる。第2は合有である。合有の特色は各人は持分を有するが分割請求権を有しない点にある。民法上の組合所有財産や遺産分割前の共同相続財産が合有財産であるといわれてきた。しかし,遺産分割前の共同相続財産については近年共有説も強くなっている。むしろ,マンションなどの集合住宅の敷地の共同所有形態が合有として典型的である。敷地については,各個の区分所有権者は区分所有の広さに応じて敷地につき持分を有し持分の登記も認められている。しかし,分割請求はできないのである。第3は総有である。総有は持分も分割請求権もない点に特色がある。純粋な入会(いりあい)権による所有がこの例にあたる。民法は,以上3種の共同所有のうち,共有について規定している(249264)。そこで,共有が共同所有の原則であると解されている。