学問がしていること   因果を逆にする方法 

 

 

限界

歴史 日本

学問の考え方、前提

学問の限界  分けるということ 生きているものを言葉にする限界 

法則が通用する場所

因果を逆にして考える  ユートピア 仮定をベースにする

学問を信じたら馬鹿になる  学問の使われ方  科挙 教養 正統 趣味 研究 真理

 

学問の限界

学問の価値が疑われて時間が経つ。 小学生からマイナスの掛け算ってどんな意味があるのか問われても、ちゃんと答えることができない。 学問のはじめの基礎が怪しいことがバレてきた。さすがに裸の王様もそろそろ恥ずかしくなってきたらしい。

 

当たり前のことだが、いつも学問はある条件の中でしか通用しない。そしてやっとみんなその条件の範囲があまりに小さいことに気がつき始めたのが20世紀だった。

自分の経験と知識と法則を基準としたのだけど、それらはごく限られた経験と証明のできない見聞と知識と実験室の中でしか適応できない法則であったことが次々とわかってきたのだ。

ゲーデル、ヴィトゲンシュタイン、ハイゼンベルクたちもはじめの前提さえも脳が作り上げた人工のゲームであることを証明してくれている。

ノーベル賞

科学は、細分化することはできたがその意味は経験と統計でしか判断できないことが分かってしまった。

平均値の医学  統計値での考え方  悲観的になる必要はない。絶対でなくて参考である、ということだけのことなんだから。日進月歩の成分と解釈の書き換えが意識がなくなるまで行われているだけのことなのだから。 

これからは高圧的で胡散臭い既存の学問ではなく、その人のレベルに合わせたオーダーメイドの学問の時代をみんなで作るのが無理がなくていいんじゃない?

 

日本歴史における学問の扱われ方

 

学問に囚われてしまって、本当のことをわかっていないというのは、なにも今だけの話ではなく、今から1000年以上前の人たちも日常で感じていた感覚だ。学問に頼ってしまって、大事な体と情動と魂と精神の悦びと哀しみを考慮しない人たちを嘆いている。

才、文化、文明、文字、言葉、意識、そして学問のどこに問題があったのだろうか?

 

Cf.

−後拾遺和歌集より−

乳母(めのと)せんとて、まうで来たりける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける

妻に送る大江匡衡(おおえのまさひら)の歌、

『 果(はか)なくも 思いけるかな 乳(ち)もなくて 博士の家の 乳母せんとは 』

返し、赤染衛門

『 さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳(ほそぢ)に附けて あらすばかりぞ 』

 

−源氏物語 乙女の巻より−

『 猶、才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方(かた)も、強う侍らめ 』

(小林秀雄著「本居宣長」より)

唐国のもののしるしのくさぐさを 大和心にともしとや見む −赤染 衛門−

 

赤染衛門はなんだか男の名前に見えますが、平安中期の女流歌人です。大江匡衡(まさひら)に嫁し、藤原道長の妻倫子に仕え、家集「赤染衛門集」や「栄花物語」上編の作者ともいわれている才女です。

『 うちの亭主(男)はなんて馬鹿なんだろう。きっと大和心がないからに違いない! 』

「才」とあるのは「漢才」であり、漢詩や漢文学を指す。渡来の文化ということにもなろう。漢才をべースにしてこそ、大和魂(和魂)が世の中に作用してゆくありようは、ますます強くなると明言している。

 

大和魂とは判断力、情動を理解できる知性を持った力を意味している。

大和心とは、そのような使い方がなされていた言葉だったのです。この構図は現代でも全く同じこと。愚かな人間にならぬよう学問をすること。二千年もの間、日本人はそれと苦闘してきた、と言えるのです。

どうやら大和心も大和魂も平安期の女性が使いだした言葉だったようです。

 

学問は理性を使ってできる考え方で、なんでもものを分けることによって理解する方法です。

それに対して大和心は知性を使って、分けることができないものに対してはできないことを知ることで理解しようとする試みです。

平安の女性たちに馬鹿にされ、男たちが囚われていた学問とはなんだったのでしょうか?

 

学問の考え方、前提

学問の基本的な考え方は、対象物をどんどん分けて名前をつけて、その後にそれぞれの間に関係性を見つけて、それを法則にすることを目指しています。

理性ができることは分けることと、そこから法則を見つけることと、それを使って推定することです。

できないことは 体感すること 情感の理解、本能の理解、行動の判断ですから、 いくらちゃんと理性で未来推定ができても、理性だけでは本能の欲求や情動の価値判断を想定に入れられないので、脳みそだけで作り上げた妄想で世界を予測してしまいます。

ですから情動や本能を理解できないまでも、近づこうとする知性の力を借りて推論しないと、結果との差は広がるばかりです。

 

 

 

学問の限界  分けるということ 生きている言葉  の限界 

なぜか学問といえば文字をベースにした本や映像をベースにしている世界を指す。そして学問にされていれば権威があり、それは信用に値すると思っているのが21世紀の現状だ。

体の動きを中心とする舞やスポーツや祭りよりも、文字をベースにしたものの方が価値が高いと判断している。

ところがこの文字、言葉、意識というのは利用できるのだが限界が多くあり、かなり欠点のあることがわかってきている。これらをベースにして行動すると、自分自身の体や情動、そして魂や精神までもが被害を受けることになってきた。

その理由である学問の限界について考えてみよう。それは学問の前提である言葉によってもう始まってしまっている。

 

言葉は「囲む」ことによってはじめて成り立つ。例えで言うと、小腸は十二指腸の下からはじまり大腸の上まで続く器官だが、範囲を決めてその中のモノに名をつけることによってしか言葉にすることができない。認知するとは、二つ以上のモノの共通点を見つけ、それを土俵としてその上に並べ、二つの違いを第三者が見つけて、それぞれに記号をつけることだ。

 

これのどこが問題なのであろうか?全ての言語はこの過程を踏まないと認識されではないか?

確かに、これでしか言葉にする方法はない。

だが、これが言葉の限界なのだ。囲ったり、線を引いたり、して区別することでしか言葉にならない。

区別、すなわち分けることをしない限り、言葉にはならないのだからしょうがない。

ところが区別すると意味が変わったり、その物自体が変化してしまうものがある。例えば生命体。

全体を強引に分けることはできるが、それらをくっつけてもまた同じものにはならないのが有機体の特徴だ。

分けたり、一部を取り去ったりすると、内なる宇宙が壊れてしまうか、もしくはお互いを補うために自律的に変化してしまうのだ。だから一部取り去ったものを元に戻しても、元の状態にはならない。

有機体は流動的、循環的、可逆的、自律的、自己組織的、全体的、統合的、なおかつ必然的だ。

ところが生きているものは分けると死んでしまう。正確に言うと、各パーツはお互いに関係し合って、共依存しているので、一つだけを取り出してその機能を説明しているだけで、全体の中では他のパーツとの関係から複数の機能があることもまだ見つけられていない場合がある。例えば呼吸と肺と心臓と同化作用には強い関係性がある。また小腸と微生物と瞑想と悟りと酵素のあいだにも強い関係がある。しかしどれもまだ法則化されていないので社会ではこれらの知られていない機能については意識化されていない。分けられないものを分けるとこのような問題が出てくる。分けるとバランスが崩れ、すべてが機能しなくなってしまうこともあるのだ。

 

それに対して、機械はエンジンのようにパーツごとに分解して、ピストン、シャフト、シリンダーと組み立てるとまた元に戻る。

分けられるものはいい、金属、数字、無機物は何も問題ない。

 

 

法則が成り立つ場所

言葉の次に問題になるのは、法則です。

学問という限り、ただ分けたり集めたりするだけではなく、それらの関係を調べて、そこに一つのルールを見つけてそれを証明しなければなりません。

いつでもどこでも関係性が成り立つのが法則です。これができると学問としては箔がつき、世間の人が認めるということになっています。ですから学者たちはまだみんなが知らない要素と要素を結びつけて説明できる法則を生み出したり発見することに精を出してきました。

ところがこれがやっぱり難しいのです。理由はあまりに多くの要素エレメントがあってお互いに関係しているのでちゃんとした法則を作ろうとしたらあまりに多くの計算式になって可能性が無限大に広がってしまい、結果として法則にならなくなってしまうからです。わかりやすい例で言うと気象予測や地震予測です。

そこで学者と呼ばれる人はどうしたか? 一人は現実の自然の前で試行錯誤を重ね前のめりに倒れて死にました。

当たり前の当然の人らしい生き方です。

もう一人はどうしたか?条件をできるだけ狭めてそこでしか通用しない法則を生み出して世間に発表して名声を得ることにしました。

保身の優先です。利己心の優先です。人のサガです。

それを利用する支配者や商売人がいるからこうなるのは地球の必然性です。支配や金がないと生きていけないと心底信じ込んでいる人達です。法則が成り立ちさえすれば後はどうでもいいのです。

 

ここまではいい。

問題はこの法則からこの世を見て、全てを判断していった歴史です。すなわち人間たちです。これが人間なんです。

弱い法則ほど無菌状態を求めます。自然界では通用しないからです。世界の周囲を壁で囲って、その中でしか通用しない法則です。 その中では確かにそのような関係性があるので、法則通りに物事は動きます。悟った人にはわかりますがこんなことは当然です。この世は全てが繋がっているので、どんなものでも関係性を結ぶ法則を作ることができるからです。 

問題は閉じ込められた空間を基準にするということです。そして法則の絶対性を武器にして、その囲った空間の外をなぎ倒して否定することです。隙あればそれらの命を絶滅させます。そしてそのチャンスを活かし、死体のもっと先に新たな壁を作り上げて空間を拡大することです。これらを彼らは自由の拡大、正義の執行、平和の犠牲、平等への試み、理想の実現、夢の現実化と呼びます。福音主義、植民地政策、救い、近代化、文明化、虐殺、どれもやっていることは一緒です。

 

法則が通用する世界の拡大化

これこそが脳が作り上げたい世界です。理性の世界です。心と体を無視した世界です。心と体にに同調しようとする知性を踏みつけて作り上げようとした世界です。これは意識を脳外化させたもので、見える形にした記憶装置が建築であり、街であるわけです。法則が通用する場所を拡大化していったわけです。

そんな世界が今、わたしたちのいる文明世界、そして人口密度の高い都市の世界です。

外の世界からは水、空気、食べ物、原料、エネルギーを運んできて、中の世界の密をどんどんとあげて創造物をつくりあげます。

同時に外の世界をなぎ倒してその栄養を吸い取っているのを当たり前にします。

そんなことを気にしない感覚を持つ住人の集合体です。

自由民主主義は壁を強化し、科学的実験は細分化によって法則を信奉する無知の専門家を生み、工業化は同じものを大量生産することができたので、この三つが大衆を生みました。

責任を負わずに、口だけで存在できる「大衆」はますます都市の美醜を広げて、自然である心と体を抹殺し始めた。

爽やかに悪ぶって、にこやかに歌を口ずさみながら。

 

因果を逆にして考える試み        ユートピアという仮定をベースにする

学問の中に住む住人は、自然世界とは反対に法則から現実を考えるようになります。何故ならば住人の周囲に起こる出来事は、そのような順番で実際に起きているからです。

これが学問をしない人から見ると、因果関係が反対になっているように見えます。

具体的に、森の中ではいろいろな事象が起きているのを見てみます。

例えば急に風が吹いたので、紅葉が枝から落ちてきます。落ちてくる場所と時間を予測するとしましょう。

ガリレイの自由落下の法則で予測したとしても、空気抵抗、空気の密度も計算に入れなければ正確な予測はできません。それに葉に毛虫がついているかもしれません、また葉のねじれや表面の形状や角度、穴、重心なども計算式に入れなければなりません。

そして、いつ新たな突風が吹いてくるかもしれません、また落ちる途中で他の葉っぱに当たる可能性もあります。また鳥が途中でぶつかることもあります。正確に予測することは不可能になります。

これが自然界の現実です。あまりに多くの要因や条件や他の法則や未知の法則があり、それらが互いに関連しあっているからです。

 

これを予測可能にするにはどうすればいいのか?

想定外のことが起こることを減らしていけばいいのです。行き着くところは実験室です。ここでは四方上下を囲まれているので突風や鳥や虫は排除され予測に影響を与えることはありません。空気抵抗が減るように葉の形状や表面や重心を加工すればもっと予測しやすくなります。するとかなり予測ができるようになってきます。

ところが、予測ができやすくなるほど、自然界の現実とはかけ離れていくことになるのです。自然界のことを理解するために始めた考察なのに、法則が効果的であるほど、自然から遠ざかってしまうのです。これと同じことが学問の世界で起きています。

 

自然に起きていることをみて、そこから法則を見つけていこうとしていたのに、はじめに法則ありきとして、現実にはない時空間を作り上げ、そこから自然を推定して予測しようとし始めたのです。

まさに因果関係を逆にして理想郷をはじめの設定条件として成り立つ学問をつくる始めてしまいました。そしてこの法則が成り立つ空間を作るあげて広げていこうとする考え方です。

この枠組みから近代科学が発生しました。

 

言葉の問題、命の問題、枠組みの問題と学問が自然界では成立しないことを見てきました。

だからといって学問が無駄であると言っているのではありません。

参考になるし、面白いし、時間つぶしになるし、価値はあります。また学問を信じる人に対しては効果は絶大なので結果が伴います。

この中で特に問題が起きるのは命に関わる学問です。命を消滅させてしまうことを学問の名前のもとで押し通してしまおうとする例が多く見られるからです。医学、心理学、薬学、生物学、農学、畜産学などは注意が必要です。また命のある人間を扱った学問は因果関係を逆にすることから始まってしまっているので、どれも机上の空論になっています。

たとえば、経済学、社会学、法律学、経営学、哲学の一部

 

今度は少し各学問の矛盾を少し覗いてみましょう。

こんなことを人に教えてお金をもらったり、偉そうにしているのはどうしてなんでしょう?

 

経済学も自然の一部である人間というものをみないで作り上げたのが問題です。人間の行動や心理や情動や思考がロボットのようにプログラミングできればいいのですが、本能や無意識の情動行動がある人間はいくら理性でプログラミングしてもそのような行動をとるとは限りません。

例えば、よく経済学では「神の手」という考え方が出てきます。

それぞれの人間が利潤を最大にするように利己的に働けば社会全体が神の手に導かれて予定調和する、という前提を聞いてどう思いますか?

個人や国家の富をいかにして最大にすることばかり考えているのに、市場経済は消費者のためといってはばからない経済学にはどのようにして付き合うのがいいのでしょうか?

 

学問の虚偽と有効性

はじめにこの世には瞬間的には存在するかのように見える(実際にはないので捏造ですが)時空を基準にして、そこから出発してルールを作り上げ、目の前の世界を判断します。

学問が武器になってきた理由です。

学問でユートピアと言えば、理想状態のことで、例えば経済学ではまず自由競争という「完全競争市場」を想定します。競争が最も理想的に行われる状態のことです。

 

この条件は4つあり、

1 売り手も買い手も十分に多数存在し、

2 売られている商品の質が全く均一で

3 市場の参加者が誰でも同じ情報をフリーに利用でき、

4 誰もが自由に参加・脱退できる

ということが前提です。ご存知通りこんなことは人間界にはありえないでしょう。しかしこういうユートピアを作らないとルールは作れず、経済学の前提である土台を作ることができないのです。こんなことを前提した上に成り立っているのが経済学です。次の新しい経済学者は前のものを否定して新たな法則について語り始めますが、やっていることは同じです。 特殊な状況や条件の中でしか通用しないルールをほかの世界に広げようとする繰り返しが果てしなく続いていくだけなのです。真実を目指すのが学問ではなく、ゲームセンターやPCゲームで攻略方法を競い合っている大人たちと同じことをしているだけです。

 

 

次に哲学を見てみましょう。

デモクラシーというのもギリシャ時代の塀で囲まれた都市国家が、塀の外から原料や奴隷や収穫物を収奪して、それを塀の中で話し合って分配しようというのがコンセプトです。ですから、常に塀の外から略奪することを前提にした思想なので、塀が広がって奴隷や略奪物やエネルギー源がいなくなれば、いかに分配するかではなく、いかに自分の分け前を手に入れるかの道具に成り果ててしまうでしょう。

 

またジョン・ロックは国家や社会が出来る前は、誰もが自由だったという世界を推定して、その自由で平等な人間を「自然人 a natural man」と呼び、その状況を「自然状態 state of nature」と名付けた。各国の違いで社会や国家を個別的にしか論じることができない状況だったので、あえて「自然人」を仮定して、そこから社会の成り立ちを考えようとした。「統治二論」Two Treatises of Government 1690

この自然人の考え方は政治学や政治倫理学やマルクスの「資本論」につながっていきます。

 

個別的で議論にならないものを議論にしようとする試みとしては素晴らしいけれど、議論された後は、不完全な想定からの推論なので、役目は終わったと見るのが妥当ではないでしょうか?

ところが、この方法論を使って人間の社会の問題を科学にみえるように仕立て上げていくことが流行りました。

新しいものを考えるときには、効果的な手法で、とくに慣性の法則の発見など物理学などでは有効です。

 

ただ生命体が関わる世界の学問には、このユートピアから始まってしまうと、自分の首を自分で占めてしまうか、これを利用して、この法則が通用する領域と地域を広げ、結果的に周囲の世界を侵略していきます。

Ignorance is bliss」とばかり、知らないことで罪はなく、自分は「正しいことをする」ことについて誠実に学問していると言い訳をして。

 

素晴らしいずる賢さを使って、相手が納得する論理を全力で誠実に正しく一生懸命に悪意なく研究するのはさすがです。

「体」に必要なのは他とつながり、いい加減に、突発的に、悪意とともに、間違いながら、ちゃらんぽらんにすることです。

このネガティブなものたちも全体性の一部なので、これらを排除する「正義」とは10段階ある意識の1つに固執して自分の欲望で他者を踏みにじる行為であることは「正」の字源が示すとおりです。

 

は、一が邑(町)、止は足跡を意味し、町にに向かってすすむというのが字源、

進む方から見れば、町を攻めて、征服するいう意味

服して征服地の人から税をとることを征といい、その支配の方法をという。制服した人びとに重圧を加えて税の負担を強制することも政といい、そのような行為を当とし、義とした。これで正は「ただす、ただしい」の意味となった。

正しさは常に権力者によって、意味が変わるのは字源をみればわかる。

政は(攵)ボクとからなり、攵はムチでうつの意味である。

 

 

そして一番の問題は自然の中での実用性です。

脳内の妄想の中では悪を排除すれば善だけの世界ができあがるように思われるのでしょうが、2つの点で大きな問題になります。

1つ目は、分別することを前提に成り立っている世界では、全体性を善悪に区分して悪を排除したと思い込んでも、悪を排除した瞬間には、残った善が全体となるので、それが自動的に分別されて全体性の善は「比べるとよりよい善」と「比べるとよりよくない善」となり、これに新しい善悪のレッテルを貼り付けることで、また悪は排除されるという動きが起こり、このサイクルが分別を基準にする限り繰り返されます。

もう1つの問題は、実際にこれを実行してみると、その善なる世界は、自然から隔離され、「いのち」は弱まって死に至るということです。

 

 

学問を信じたら馬鹿になる

学問の社会での価値  

科挙  官僚やエリートであるかかどうかを決めるラインとして

順序  戦争や出世の時に秩序をつけるための偏差値の列

教養  利権やビルを持っていて家賃収入のある人たちの時間つぶしとしての趣味

研究  全体性を考えることができな専門バカが社会で悪さをしないためのエネルギーの昇華場所

正統  権力争いに勝つための論理を並べたように見せかける言い訳

理論  毎年変わるもので、ひとつの見解でしかない仮りの目安

法則  限られた小さい世界にしか通用しないルール

知   自分自身の認識プロセスの宿命と「無知の知」を体感していない勘違い

真理  体や自然から逃げた者たちの愚痴の集まり