ギアナ絶崖の霧 2004年5月14日
ギアナ高地ロライマ山に単独登頂成功!
といってもツアーも出ている場所なので、危険度はないのですが、知らない自然の中を道に迷いながら行くのはやはり緊張します。
雨が多かったのでサンダルのまま上まで登っちゃいました。おかげで足の裏の皮がベロベロです。
テーブルのように平らな山頂には恐竜はいませんでしたが、水晶がいっぱいありました。
前から見たかった植物を観察したり、食べれる葉など探ししたりした後は、特にすることもなかったので、午後の半日、屹立した岸壁に座って、ボーっと宙を見ていました。
すると、動くものから目が離れなくなりました。
霧雨と雲と光線と影が絶えず動き、変化し続けています。一瞬たりとも同じことがない。
ずっと動き輝き続けてるんです。
常に、何一つ固定して形づけられることがないんだ。リアルな世界では。
そしてこれらを産み出しては消え去らせるあの世はなにも変わらない。
当たり前の「奇跡」にまた一つ出遭いました。
The success of climbing the Roraima Mountain of the Guiana
Highlands, the border of Venezuela, Guiana, and Brazil. It is not radical trekking. There is a tour to go; however, I
still feel the strain whenever I walk into the unknown Nature all by myself.
It
has been raining every day, so I go all the way with my sandals. Consequently,
some skins of the sole has come off.
There
are no dinosaurs on the top of the Table Mountain, but clusters of crystals.
I
enjoy the observation of plants I wanted to see, and looked for edible plants
for lunch.
After
that, I just look at airs without any purpose all afternoon, sitting on the
edge of a tower precipice.
For
quiet a while, I cannot take my eyes off from things to move.
Drizzles,
Clouds, Light and Shadows always move, and go on to change. There are never
identical in any instants. They continue to run and sparkle constantly.
At
all times it is nothing to be fixed and formed, in the world of the Reality.
I
meet again the ordinary Miracle.
登頂の2日前。
さっきまで雨が降っていたので虹が雲の上までかかっています。ギアナ高地のロライマはまだ厚い霧に覆われて、全容を見せていません。今日から一人で向かいます。何があるのか楽しみです。
今日はテントも張らず、バナナの皮で作った屋根の四阿(あずまや)で寝ます。暗くなって、犬たちが囲み始めました。5匹ぐらいでしょうか?仲良くなりたくて来たのかもしれませんが、暗くなっていたのと、一人で不安なせいもあって、近くにあった木の棒で棒術の真似事を始めました。棒は木の幹だったので重すぎて、棒に振り回されましたが、犬たちを追い払ってやっと一息。一番星が輝き始めるころで、もうすっかり暗くなり、足先もうっすらとしか見えなくなっていました。辺りを見渡すとなにやら、火の粉が近くの草原から舞い上がっているようでした。よく目を凝らしてみると、あちらこちらにも火の粉があがっています。四方八方どの方向にも無数の火の粉が暗闇に浮かび上がるように舞い踊っている!美しすぎる。口は開いたまま。
ウオーと声が出そうになったところで、一つの火の粉の動き方が重力や風にも逆らうようだったので、又々目を凝らしてみると、
ホタルだ、何千というホタルだ、草原を埋め尽くすホタルだ。
空には満天の星星。オリオンは山影にゆっくり沈んでいく。同じ宙に北斗七星と南十字星がいました。ずっと空を見上げていると、動く光が流れ星か、ホタルかわからなくなります。
そして地平線の彼方向こうで時折、音のない稲妻が光ります。
光の饗宴の中でただ佇みながら、もう一生こんな場所にいることができないことが瞬間的にわかりました。この世は無限の可能性の中にあるのに。
この今にしか存在しない「場」でした。
永遠の・・・、なんていったらデイモンの手先に違いない。
だってこの世は「今」のつながりでしかないのに、「永久不滅の形」なんて嘘を真面目な顔して言うんだもの。永遠があるといえば、常に変化することと、意識は常に永遠を探し出そうとして見つからないことぐらいかな。
この世の「正しさ」ははじめは緑色なんだけど時間がたつと、だんだんとそしていきなり「悪い」赤になる。
自己意識というのは変化し続けるものは認識することができないから、生きている空間(変化しづける場所)を閉じて、その中を分けて名前をつけるこで分かることができる。私の言う、暗闇にスポットライトを当てて、明るくなったところを次々に分けてレッテルを張っていく作業のこと。つまり、本体は自己意識はとらえることができないから、閉じ込めて・固定化させて・バラバラにすることで理解したつもりになって満足して安心している。仮の世界を作り上げて(虚構して)、歩きやすいようにかんたんな地図を作るようなものさ、常に環境が変化するから地図を更新する必要があるという条件のもとで。ところがこの地図を更新しないで、絶対のものとしてしまうヤツがいる。これが緑色の地図が赤色に変わってしまう原因だ。
そう、自己意識なんてその場しのぎの単なる仮の地図でしかない。本物はとらえることができないから、カタチだけを写したものだし、そのカタチも常に変わっていってしまう。だから幻といえばまさしく幻。
ただこんな便利なものはなく、あれば目的地に早く無事に到着できる確率が画期的に上昇する。効果があるから本物といえば確かに本物だ。
皮肉というよりは必然なんだけど、清く正しければ正しいほど、時とともに、濁ってひどい悪臭を放つ。言ってることが綺麗な形をして、相手のことを考えない自覚症状なしの自己愛の中にいるから余計にね。だから正しい世界にずっといるのは気をつけてね、それよりも少し濁ったところで、絶えず変わる世界と面して、お互いに向かい合って変化して微笑んでいるのがいい。
変化することを恐れないで、
だって私たちはもう、その世界のエキスパートなんだから。
朝と昼と夕方と夜の気温、春夏秋冬、市町村森、仕事と友人と家族と己、と体が勝手に反応して生きている。
変化の中でいろいろな発見や自分の運命や秘密にであう。
安全を確保したら、一度は未知のことにも試してみて、
自分に合ってなかったら、すぐに引き返せばいいんだから。
経験値が上がってくれば、インチキなのは試すこともしなくなるから。
絶えず移り変わりゆくそよ風の中で、静かにゆっくりと嬉しく息を吐いて、体を風にあずける至福の時。
豆知識
地球の月は、斜め方向の巨大衝突によってできたものと考えられている。それが起きたのはおそらくジャイアント・インパクト期の終わりに近い頃で、衝突した天体(ティアラ)は火星程度の質量だったと考えられる。地球への衝突によって、この天体のマントル部分が軌道上に叩き出され、それが集まって月が形成された。
このような衝突があったとする証拠は、アポロ計画で採取された月の岩石の酸素同位体比が地球のマントルのものとほとんど同一だったことである。化学的な調査の結果、採取された岩石には揮発性物質や軽元素がほとんど含まれていないことが分かり、それらが気化してしまうほどの極端な高温状態で形成されたという結論が導かれた。月面に置かれた地震計(月震計)からニッケルや鉄でできた核の大きさが測定され、地球と月が同時に形成されたと考えた場合に予測される大きさに比べて実際の核の大きさが非常に小さいことが分かった。核が小さいということは衝突により月が形成されたとする説の予測と一致する。それは、この説では、月は大部分が地球のマントル、一部が衝突した天体のマントルから形成され、衝突した天体の核から形成されたわけではないと考えられるからである。ジャイアント・インパクト直後には地球は全体が高熱になりマグマの海(マグマオーシャン)が形成されたと考えられており、衝突した天体の核は融けた地球の深部へ沈んでいき地球の核と合体したと考えられている。
地球と月は自転と公転の同期が起こっており、月は常に地球に同じ面だけを見せている。月は地球から遠ざかり続けており、地球の自転は徐々に遅くなっている。現在でも地球と月は1年に3.8cmずつ遠ざかり、地球の自転速度も少しずつ遅くなっていることが実測されている。同様の例は、木星のガリレオ衛星や土星の大きな衛星でも見られる。
太陽系は、銀河核を中心に約3万光年の軌道を単独で回っている。その速度はおよそ秒速220kmであり、一周に要する期間、銀河年は、およそ2億2000万年から2億5000万年である。その形成以来、太陽系は銀河系を少なくとも20周したことになる。
地球の赤道傾斜角で、月の潮汐力によってマントル内部で生じる摩擦のため、15億年から45億年先の値については正確に計算できない。
外惑星の軌道については、200万年から2億3000万年とさらに長いリアプノフ時間でカオス的である。これは、将来の惑星の順番というのは正確性を持って予測することはできないということを示している。惑星ごとの離心率もカオス的に変化している。
究極的には、太陽系は次の数10億年間で惑星同士が衝突したり、系外に弾き出されたりしない程度には安定であると考えられる。しかしそれを超えると、例えば50億年後以内には火星の離心率が0.2程度まで増大し、地球の軌道と交差するようになって衝突の可能性が出てくる。同様の時間スケールでは、水星の離心率も大きくなって金星の軌道と接近し、理論的には一緒に太陽系の外に弾き出されたり、金星を地球に衝突させる可能性も考えられる。
銀河の衝突と惑星系の擾乱
宇宙に存在する大多数の銀河は銀河系から遠く離れた場所に存在するが、局部銀河群で最大であるアンドロメダ銀河は、秒速120qの速さで銀河系に近付いている。20億年後には両銀河が衝突し、潮汐力で腕が歪むと考えられる。この衝突が起こると、太陽系は12%の確率で銀河系から投げ出され、3%の確率でアンドロメダ銀河の重力に引っ張られると見積もられている。30%の確率で超大質量ブラックホールが生成し、約70億年かけて銀河系とアンドロメダ銀河は楕円銀河として融合する。融合の過程で十分なガスがあれば、増大する重力によって楕円銀河の中心が形成され、スターバースト銀河と呼ばれる、常よりも激しい勢いで星形成が行われる銀河になる。さらに新しくできるブラックホールにガスが流れこみ、活動銀河が形成される。これらの相互作用によって、太陽系は新しい銀河のハロに押し出され、衝突による放射からは比較的逃れられると考えられる
参考資料
時間と空間 実証主義と形而上学
中国はエターナルなものへの関心が強い。
天という歴史を超えたある究極のものがある。インドもそう。もっと超歴史的だからメタフィジックになるわけです。
それが日本だと歴史中心になる。だから実証主義が形而上学とかファンダメンタルに関心が低い。
すべてを時間の相においてとらえるのはむしろ日本の方であって、永遠とか恒常の相においてという考え方はあまりない。
ヨーロッパは極度に歴史的。ギリシャ、ローマ、イスラムは自分じゃないから、自分の位置を歴史的軸で決めようとする。
中国では事実が大事といっっても、事実を通じて名を正すことが一番大事である。
孔子の「春秋」では人間の生き方として何が正しく何がまちがった生き方なのかについて書いてある。それは歴史を通じてみればわかることであって、事実に対する興味、それ自身ではない。だから歴史は「道」という永遠の規範に従属している。だから芸術のための芸術や歴史それ自身をおもしろがる態度はあまりないと思う、丸山眞男が言う。
格物
朱子によれば、「物にいたる」と訓じ、個々の事物についての道理を徹底的に究明すること。宋代になってとくに重要視された概念で、王陽明によれば「物をただす」と訓じ、対象に向かう心の動きを正しくすること。
「大学」によると、理想的な政治をする最初の段階。格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国平天下の順に発展する。
【格物学】 物理学の旧称。
格物窮理
5感で知覚した情報について、思考すること。思考のみで究極に到達すること。
格物致知
5感で知覚した情報について、情報処理すること。有意義な情報を抽出すること。インフォメーションをインテリジェンスにすること。
(「大学」の「致レ知在レ格レ物」から)理想的な政治をするための第一と第二の段階。
「致知」とは、朱子によれば、自分の知識を極限にまで推し広めること。
王陽明によれば、自然な心情、本来的な心のはたらきを徹底的に発現させること
英語と日本語の違い
日本語には複数と単数の区別があいまい。
「全部の人民」となると「政府」の意味にある英語
英語ではPeople’s right はない。 Rightは個人の権利で、民権という意味にはならない。
民権には人権と参政権とを混同している、と福沢は指摘していた。
集合概念としての人権の権利と、個々人のindivisualな権利は違う。
社会人としての権利と個人の権利。
福沢は人民の権利についてプラグマティックでラディカルではない。
自由
消極的な「からの自由」
積極的な「への自由」
ヨーロッパの理念や社会保障では「からの自由」が強調されてきたが、ワイマール憲法では「財産権は義務をともなう」とう条文があり、フランス革命以来の私有財産絶対に対して、留保をつけた。
これがナチの共同体思想の主張の表層では合致した。
翼賛会やナチの民主主義は個人的自由はゼロに近く、自由主義と民主主義の矛盾を劇的に示した。
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実証 プラグマティック |
周辺 |
歴史軸 |
義務 |
個人の自由がない |
村の平等 |
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観念 ラディカル |
中心 |
観念軸 |
理念 |
自由と平等 |
都市の平等 |
社会主義の洗礼をうけているから、私有財産絶対は悪い、という気分が強かった。国有の方が進歩的であるという考え方があった。
ヨーロッパ政治思想においては、人権があるのだからだれでも自由で平等である、とつながっていた。
しかし日本では、人権は自由と繋がり、民権は平等につながった。
個人の権利は自由を求め、社会人の権利は平等な社会を求めた。
自由から切り離された平等と、人権から切り離された民権ができた。
そしてヨーロッパでは都市生活者の観念的権利から自由と平等につながったが、
日本では、村共同体の平等と区別が明治時代にはあった。
日本の平等は「一君万民」で主君は別だけど、あとは万民平等である。貴族であろうが平民であろうが平等である。中国の普天率土ふてんそっと天下を治める王と国の果てに拡がる民の意。「詩経‐小雅・北山」による)
オルトドクシー
ギリシャ語orthódoxos (ortho-正しい+dóx意見=意見が正しい orthoまっすぐな、 直角の、 標準の
西周は孔孟のいけないところは「オルトドクシー」の立場に立ち、政教一致をしようとすることを批判した。
西は徂徠学を学び、道理と物理の区別を注意した。物理とは「物の筋目」の法則概念のことである。
当為 行くべき道 修身的思考 道理の優越、修身の優越
法則 客観的なパターン 抽象的思考 物理の優越 「福翁百話」
(ドイツSollenの訳語)哲学で、現に存在すること、必然的であること、またはありうることに対して、かくあるべし、かくすべしとしてその実現が要求されること。カントでは、至上命令としてかくすべしと命ずる定言命法を意味するが、目的論的倫理学では、望ましい目的や価値を実現するための手段としてなすべき行為をさす。
因果
因果応報が因果必然になった。Causal chainsの考え方だ。
前世と來世を含む因果関係から、現世での因果関係に捉え方が変化した。
現世の「原因と結果」の法則が一つではあまりにも説明できないことが多すぎるので、表層と深層もしくは近因と遠因などと複数にすることで事態を説明することで大脳皮質は納得しようとする。
日本の思想史では18世紀の富永仲基が「出定後語」ですべての言説を相対化する視点を「加上」として提示した。
古いものの説明ほど後から作られたものだという命題を提示した。
Nature
ラテン語nDtYra (nDtus生まれた+-Yra-URE=生まれて持つもの
nature 「自然」の nat は[誕生、生まれ] を意味するラテン語 nation に由来します。nature はまた「性質、本質」の意味を持ちます。
innate は 「生まれつきの、先天的な」です。in (中に) + nate (生れつき持つ)というわけですね。
native は「母国の、生まれた土地の」を意味し、英語を母国語とする英語の先生は、native English teacher です。
nation は「国、国家」 を意味しますが、これは[生まれた場所]だからです。
形容詞は national 「国の、国立の」で
international は inter が[間 (between) ]を示しますので「国際的な」となります。「国籍」は nationality ですね。
「超自然の、人間離れした」は super(超)+ natural でsupernatural、renaissance
(the Renaissance) 「ルネサンス、文芸復興」[もう一度生まれたもの] も nais が nat のフランス語化したもので同語源です。
こう見ると、生物と自然は一体的なものであり、私たちが敬意を持って大切にすべきものであることが実感できるのではないでしょうか。
18世紀に生まれた進歩思想と19世紀後半の進化思想
進歩はいいものに決まっているけれども、進化はいいとは決まっていない。
進化論は明治10年以降にハックスレーHuxleyの「万物進化要論」が訳されてから。
進化論に影響を受けた中江兆民と受けなかった福沢諭吉
兆民はいいことも戦争も「進化神」の影響である、という。
だから進化論は自由民権にも影響を与えるし、加藤弘之のような反動的な面にも利用される両義性をもって日本に入ってきた。
福沢は数学的物理学(ニュートン力学)が東洋になくて西洋にあるものと見て、西洋の学問の基礎にすえた。
東洋になくて西洋にあるものは、人民独立の精神と科学観である。
東洋ではアプリオリの陰陽五行の範疇で理解しようとするが、西洋では実験(試験)する。
「開闢の初より今日に至るまで、或いは之を試験の世の中と云いて可なり」
実験で仮説を修正していく。だから「文明は間違いの進歩だ」
抽象的な数理を客観的探求する上にヨーロッパ文明は築かれている。
主観と客観を完全に対立させて、あらゆる意味性とか価値性を剥奪して見る見方は、日本思想史の文脈では仏教にも儒教にも神道にもない。
「造化を攻略する、これ自由なり」造化という客観的自然を人間がだんだん侵していく、その過程が科学の進歩であるというのが、西洋の進歩であり、その上に実学が築かれている。
科学と技術を峻別し、技術の基礎にあるものが(近代)科学であると指摘している。
ニュートン力学の抽象的な自然理解では、科学(物理学)と技術は乖離していた。
しかし19世紀後半になって、熱力学などが出てきて変わっていった。
レラティヴィズム相対主義を持っていたので、明治維新を革命と呼び、試験してみればその結果間違うかもしれないことをフランスにおけるロベスピエールの支配を指摘していた。
Survival of the fittest 適者生存 欧米では弱肉強食、中国の厳復以前では弱者にも生きる場所があると解釈
natural selection 自然淘汰
ユダヤ人は近代中国的な解釈
アメリカの社会進化論研究
ホフスタッターHofstadter アメリカの歴史学者
アメリカの自由競争は強いものが勝つというパターンをうまく説明する。
Social Darwinismはアメリカでもっとも早く広がり、それがインディヴィジュアリズムになっていった。
このアメリカ的解釈は強者の競争原理で、人間の平等性や自然法説や天賦人権論を否定する。
因果当然・因果必然だけで全部を解釈しようとするので、他の姿が見えない。
科学の意味の変化
17世紀から18世紀はニュートン物理学
19世紀は進化論と化学
20世紀は相対性理論と量子力学
21世紀は分子生物学
中国ではハックスレーのEvolution and Ethicsを「進化と倫理」ではなく「天演論」と訳した。
天が動くという驚くべきものとしてとらえた。
朱子学以降では、「太極」や「理(アリストテレスの純粋形相のようなものを含めて)」という究極存在を、万物の基で、動くものの背後に絶対不動のものを想定していた。
だから厳復の「すべてが動く」ということは中国の知識人にとって古典哲学を揺るがす思想の革命的事件となった。
日本は「万物流転」が昔からあるので永遠の実在にこだわらず、日本儒教では「理」よりも「気」の哲学がスポットライトを当てる傾向があった。
伊藤仁斎の天地は一大生気であるという「気」の優位性を唱えた。
日本には大有機体という伝統的な把握パターンがある。これをつかって細胞や士農工商までも理解しようとした。