智性の扉を開けるには    マニラのジプニー

 

はじめに

理性と無意識

智性の場所

智性の特徴   個と全体  肉体化 

智性と無意識  心と体と魂の領域

実例

平安時代の智性   

利用された智性  戦争と全体性

智性への応援歌

負を取り入れた智性 暴力・いじめ・悪

智性の秘術  マイナスを大切な一部として仲間にする

地球の中心にすべてを委ねる

ストレスを減らす方法

訓練

智性の限界

ジプニー体験 異心同体

 

コラム 気取った知性の冷たさと恐ろしさ

コラム 責任と智性の関係

 

 

はじめに 智性とは

誰もが持っている能力がある。

毎日の生活の中で無意識に使っている「全体」を考える力だ。自分たちの集団の外にあるものも含めた「全体」だ。

そんなに難しいものではない。

例えば「急がば回れ」「負けるが勝ち」「失敗は成功のもと」などの相反するものが一つになる世界だ。知性と混同しないように、これに新たな名前をつけることにする。まずは「智性」と呼ぶことにしよう。学者の語る知性とは違う。実は日常で使っている知性とは18世紀に生まれた新しいものなので、長い人類史からみれば、まだ200年しか経っていない。辞書では、知性とは「物事を知り、考え、判断する能力のこと」をいいます。また「感覚・知覚から受け取ったモノを、抽象的・概念的・総合的認識に作りあげる能力」とも辞書には書いています。この知性とは、理性(なんでも分類して名前をつけて、矛盾しない法則をつくる世界)の領域の中に押し込められてしまった能力のことです。しかしこの理性の領域に収まらない能力がある。それがこのエッセイのテーマである智性です。

智性とは何も新しいものではなく、古今東西のどこにでもある力です。

「智性」とは古代ギリシャ語のnousヌースのことで、現代でいうと、叡智が生み出される能力のこと。「個」を生み出す力を理性だとすれば、「みんな」を考える時に、浮かび上がってくるのが智性です。「みんな」といっても、小さな内向きの集団をイメージする人がいますが、ここでいう「みんな」は常に外に拡がっていく集合体です。例えば、千木良字から相模湖町へ、相模湖町から相模原市へ、相模原市から神奈川県へ、神奈川県から関東へ、関東から東日本へ、東日本から日本へ、日本から東アジアへ、東アジアからアジアへ、アジアからユーラシアへ、ユーラシアから北半球へ、北半球から地球へ、地球から太陽惑星へ、太陽惑星から銀河系へ、銀河系から宇宙へ、と常に大きなものとの共通点をみつけようとする力でもあります。この「共通性」にスポットライトを当てて、その視線でこの世界を体感するのがポイントです。

また智性とは頭で理解するだけではなく、心で感じ、身体感覚を持つことです。 

18世紀以前のintellectus智性は、この世の矛盾を前提とし、矛盾を含めて考慮することでした。ところが西欧ではintellectusの解釈が智性から知性へと変わってしまいました。いや、変えてしまいました。intellectusの定義が変わってしまったのは、カントとヘーゲルが新たな概念を唱えそれを一般の社会が受け入れたためです。背景に経済、宗教、科学、都市、効率、戦争があります。カントのいう知性とは、理性の中に含まれるもので、カント以前は「生命や神や時空を超えたもの」を智性が扱っていましたが、カントはこれらを智性ではなく、理性の領域で扱うことにしました。そしてこれらを「道徳」と呼ぶことにしました。この新しくできた知性の概念を他の地域は輸入して翻訳しました。当時の西欧が地球の国々を植民地にして征覇していたので、「後進国」はそのままこの考え方を受け入れました。実は知性にはヒトを支配する力もあるので、植民地を広げていくには「武器」になるのです。特に後進国の知識人(インテリ)と上層部のエリートたちは、新たに発見?された知性に飛びつきました。これには現実化させる力(力を形に変える力)を持っており、目に見える結果が出るからです。エリートとは理性の力を使うことに卓越した人たちですから、待ってました、と喜びました。そしてインテリとは自分たちの中にある答えを探して闘うのではなく、外から借りてきた力を利用して、周囲よりも自分を優位にしようとする無意識の性向が強い人たちなので、彼らも嬉々として利用することにしました。なぜならば、インテリは理性の力を大事にして、磨き、多用して、汎用して、しまいには武器にして、職業にまでしてしまうのを生業としているからです。理性の力は、全体を二つに分けてその間に優劣をつけてしまうので、理性の領域とは自分と他者との違いをみつけて、自分が優位になることを選ぶことで、必然的に他者を劣位に押さえ込みみます。同じことが古今東西、そして未来にも地球外でも起こります。理性と智性の問題は何も欧米人だけのことではなく、過去・現在・未来・記憶・現実・バーチャル・地球上・地球外でも、人類が日々に直面することです。平安時代の日本でもありましたし、現在のこの瞬間にもありますし、未来の宇宙船の中でも起こります。

そして知性が力を増大させいくら蔓延しても、智性がどこにでもあることは昔から未来まで変わりません。だからいくら人間がこれを無視しても、いままでも、そしてこれからも、ずっと智性は私たちの中に有り続けます。

 

理性と無意識

智性は、最高の理性の境界線の外にあります。

ここでいう理性とは全体を感性・理性・智性・霊魂性と4つに分けて、その中の一つである理性のことです。本能を抑制する理性のことではありません。

理性の領域とは、「分ける」世界のことで、区別、対立することで、「形のないもの」を「形」にする世界のことです。意識とはモノを分けるのが仕事で、意識があるところには区別が生まれます。

ある宗教者にとって「良いもの」とは神を信じることであり、これを意識の中心においてしまうと(理性の領域だけで認知すると)理性は一つのもの(全体)を二つに分け、一つを選択することですから、神の認知にも善悪の善だけを選択してしまいます。その結果、神は善一辺倒で悪は一切含まれないことになってしまいます。この思考法が悪魔を生み出し、魔女狩りも生み出してしまいました。

喩えてみると、無意識と意識の関係は、海に浮かぶ岩礁です。海という無意識に浮かぶ浅瀬が意識です。潮の満ち引きで、岩礁は現れたり、隠れたりします。起きている時や興奮している時は岩礁として現れ、寝ている時や緩んでいる時は海中に沈んでいます。無意識は常時あり続ける主役で、意識は姿を時々表すトリックスターです。

ところが、理性中心の人は意識を主役にしようとして中心にすえるので、押し寄せる波である無意識は岩礁の海岸の外に追い出されてしまいます。これが「分ける」行為です。無理に分けてしまったために対立は高まります。そんな中で潮の満ち引きが起こります。無意識が意識に反する動きをはじめました。これは太陽と月の力なので、人の力などナシのつぶてです。意識によって押さえ込まれていたものが、押し返し始めます。意識が押さえ込んでいた暴力や冷酷さや恐ろしさや不安や不気味さや訳の分からないものや怪しげさや極端なものです。

これが意識に頼り、意識を中心にしてしまった時に起こる反作用です。だからこそ、理性のできることと、できないことを知ることが大切なのです。

中世の「聖アントニウス伝」のように、聖人が立派で悪というものを抑圧すればするほど、かえって悪のイメージが大きくなり、しまいにはイメージが独立してしまい悪魔になっていく過程です。ですから実は聖人こそが悪魔を作り上げた張本人です。酔っぱらいの怠け者はニコニコしてヘラヘラしているだけですから、悪魔を生み出すことはできません。

 

智性がある場所 

こんな時には意識のもうひとつの力を使います。そう智性の力です。 

悪の利用価値や役割を探してみることです。

自分が悪魔だと見ているものは、本当に悪いものなのか、よく観てみることです。その正体を見極め、TPOが変われば、その悪が必要な状況があるかどうかを考慮することです。そしてその働きの意味を見つけることができれば、「別に除外することはないな」とか「こういう特殊な条件の下では使い道があるな」と判断して、その働きを自分の中で工夫を凝らして活用していくと、悪魔はいきなり力を失い、可愛いいたずら坊主に縮こまってしまいます。

悪はそれだけを取り出すと悪だが、全体性の中で活かすと、それが良い働きをすることもあるのです。

こんな智性が発生するのは、「自然の理」が対立している両者を結びつけるためです。ラテン語で言うConiunctio oppositorumです。相反一致や対立一致や正負統合などと呼ばれています。

理性では受け付けられないパラドックスを、智性の世界ではそれを素直にそのままで受け付けることができます。意識は白黒のどちらかを選ばなければならない世界ですが、非意識はどちらも同時に選ぶことができるのがルールです。智性は意識の中での力ですが、非意識のルールを体現しているので、矛盾も簡単に受け入れることができ、矛盾にこだわる理性の「幼児性」を指摘します。生命体の「成熟」した姿を意識化するのが智性の役目です。そして非意識までも認知し、それを頭で理解するだけではなく、相手に同化して体感までしようとするのです。理性から見れば智性はとんでもない代物です。理性が智性を理解したくないのも当然です。智性は白も黒も同時に両方と接することができるのですから。なぜならば智性は白と黒に分ける前の世界に入り込む力なので、白黒の両方であるし、白黒にまだ分かれていないので、白黒のどちらでもないことが体験できます。

対立したものが結合している状態なので、物質と精神も、肉体と霊も、右と左も、うちも外も、両方ともがお互いが大切で必要で関係し合っています。

 

こう言うと、なんだか智性が凄そうだけど、私たちの日常生活にも普通にあることばかりです。

身近で言うと、目の前の人の気持ちを分かりたいな、というのも智性の世界です。

他者の立場でこの世を見ることができ、同時に自分の立場でもある、という時間と場所のこと。

そして自分の身体の外にある、他人、社会、宇宙を理解したいということ。

他者の心情、条件反射、無意識、身体までも自分の一部として含んでしまう所です。

自己意識が「他」を理解しようとする時空間は智性が働いている場所です。  

 

自分の心の条件反射(無意識)を理解しようとすること。

自分の体の本性を知ろうとすること。

家族や仲間を知りたいと思うこと。

そして、最後まで避けてきたことや嫌いな人や敵をも彼らの立場に立って知ろうとすること。

相違点ではなく共通点を探そうとする時空間。

部分が全体と結びついた時空間。

個ではなく「みんな」を受け入れる時空間。

この世を白黒に分けるのではなく、実はなんでも50100歩の程度の差でしかない、ということを基準にする時空間。

二つに分けられていたプラスとマイナスが元の一つになる時空間です。 

そしてヒト(意識を持った原子)がまた土に還っていく準備をする時空間です。

 

智性の特徴    個とみんな   相反するものが一つになる   心と体

矛盾しないことを前提にしているのが理性の世界。論理性を保つために、矛盾がないようにモノを分類し続けて世界を築いていく。

でも、この「ものさし」で世界を観ることをちょっとだけやめてみて、代わりにほんの一時でいいから矛盾があることをまずは受け入れてみて、試してみてみるのはどうだろう?

簡単に矛盾を取り入れる方法がある。

自分が中心だとなんでも割り切ることはできるけれど、「みんな」となるとそれぞれに中心があるので、キレイに割り切ることができず、それぞれの中心をたてると、他が立たなくなる。理性から見れば、秩序のある世界は崩れ、お互いが矛盾してしまう。それを理性は破滅や崩壊や死滅だと声高に叫んで怯えるが、実際の現実では、何事もなかったように、新たな智性の調和が立ち顕れ、世界は安定する。

あれかこれか、ではなく、あれもこれもが同時にあることを理性では納得できないが、一度は騙されてこの矛盾の状態を感じてみるのはどうだろう?

そして次には、どちらでもあって、どちらでもない矛盾の世界を自分から探してみる。自分の中に、家に、仕事場に、政治に、地球に。どこに行っても矛盾の山は峰をなして続いている。

日常生活の中で実感するのは、相反するものが一緒にいる「ことわざ」だろう。マイナスだと思っていたものが実はプラスである、ことを示す慣用語句だ。

「急がば回れ」

「負けるが勝ち」

「失敗は成功のもと」

「かわいい子には旅させよ」

「虎穴に入らずんば虎子を得ず」

「負うた子に教えられて浅瀬を渡る」

「老いては子に従え」

「いい加減」

また「賢明な愚者」「明るい闇」といったような、通常は互いに矛盾していると考えられる表現も撞着語法(oxymoron)と呼ばれて日常生活の中で使われている。

理性の領域である集合論・論理学的では、「Aであって、かつ、not A」であるということはありえない(矛盾律)と扱われて除外されてしまうものだ。全体を分け続けて分析して判断すると、つじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見えるが、全体性をとらえるときには複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている。

あれでもなく同時にこれでもないということは、あれでもこれでもあるということ。

「あれ」あるいは「これ」であるということ。

この世が矛盾していることを理解して受け入れる力が智性の特徴だ。

 

心情をわかろうとする力

そして最も大事なのは身体感覚。

例えば人の痛みを自分の痛みにする能力のことだ。

ギリシャ語源のSympathy 同じ痛み  ラテン語源のcompassion 同じ受難

頭で憐れんだり、ドウジョウするのではなく、文字通り同じ情けを共有し自分の胸も痛くなる「同情」です。

これが情感における智性の力。

 

智性と無意識   心と体   魂の領域

意識とは目ざめている時に大脳皮質に浮かび上がってくる働きのこと。

五識を通してとらえる色、声、香、味、触の五境を含む一切のものを対象として、それを認識、推理、追想する脳内の世界だ。

このような意識が理性の領域だが、実は智性もこの意識の中に立ち顕れる。そして智性とは意識だけではなく無意識のことまでも考慮する力のことだ。

無意識とは、意識では把握することが困難で、意識が意図せずに勝手に起こってしまう世界のことだ。

例えば膝の下を叩いたら足が振り子のようにはね上がる膝蓋腱(しつがいけん)反射のように、一度試してみない限り、自分の体であろうと「意識」が知らないことは、たくさんある。そしてなぜ泣いたか「意識」がわからないような出来事も毎日の生活で時々おこる。夢も無意識の世界だ。

無意識と非意識の違いは、なんだろう?

意識を中心とする人にとっては、意識のない劣ったものを意識の無いものとして無意識と呼び、海としての無意識の中の岩礁を意識と考える人にとっては、この海のことを非意識と呼ぶ、という定義はどうだろう。ただ、現在の社会では、非意識という呼称は一般的ではなく、これらを無意識と呼ぶ慣わしがある。また、言語によるコミュニケーションは意識に頼ったものであり、意識が中心となることにより成り立つ伝達方法なので、このエッセイでは非意識よりも無意識と呼ぶことにする。

自分の心や体だけでも一生かけても意識が理解できないことが一杯ある上に、他者や社会や生物や無機物や地球や宇宙のことを含めていくと、この世は殆ど脳内(意識)の外にある無意識の世界だということができる。

これだと意識にとっては、安心ができない居心地が悪い世界なので、「意識」は悟性と理性を使って分類しては何でもかんでも名前をつけたり、法則を当てはめたりして、分かった気になることで、ひとまず安心するという手段を採ることにした。そしてこうでないと安心できない条件反射を身につけてしまった輩が急に増えた。都市化、理性教育、文明、機械化、利便化、簡略化を目的にした情報過多の世界を受け入れたのだから仕方がない。この世を表面的に認識することが理性の目的なので、これに矛盾する法則や解釈は必要としない。理性にとっては、この世の深さ(他者の事実)と向き合って深く理解することよりも、分類して安心することの方が、優先順位が上だ。

だが、一息ついて落ち着いたのを確認したら、「取り敢えずの理解」だけではなく、次の世界を探求する旅に出よう。

深遠で、ワクワクして、不思議で、面白くて、多層で、「いのち」に近づいていく魂の領域への旅だ。

これが智性の世界。

 

体の各器官の機能は必ずしも一つとは限らない 実は多くのことと関わっている。

偉大なものを感じる場所が腸と微生物の交感性communion   「全部」とつながることができる

一体を感じる場所が心肺の同化性 assimilation       他と一緒になれる

偉大なものを考えることができる脳の智性性intellect     「一」と直知できる  分ける前を想像する力

分析して推論し未来予測する脳の理性rationality     整理して「形」を作ることができる 

分類することができる脳の悟性understanding        分別して記憶したり言語化したりできる

生命体の判断ができる脳の感性sensitivity         情感で好き嫌いなどを判断できる

意識が無意識の世界にワクワクしながらゆったりとダイブする。

「無意識と体」は大脳皮質が休んでいてもちゃんと活動をしている、呼吸のように、血流のように。 

 

実例

智性のある世界は小難しいことばかりではない。それらを商売にいている者もいる。技としている者もいる。「道」としている組織もある。

スコッチウイスキーはクセのあるピートのにじむ水で作ったウイスキーがブレントの時には重要なモルトになる、

広島にいる片足が義足の靴屋さん。ないからこそないものに注意を払えるプロフェッショナル。 

アメリカにはゾウムシの博物館がある。綿花農業に打撃を与えた虫のおかげで多角農業に移行できたことを感謝している。

合気道では、相手が自分の一部と感じられる瞬間が体験できる。

まだまだいくらでもある。あなたの周りにはどんな形の智性がありますか?

良い実例を書き足していきたのであなたの知っている智性を教えてください。

 

各場所にもある智性の考え方

智性の考え方は組織の中でも有効です。組織の末端にいる底辺のやり方で未来を作り上げる方法を考えつくことができる上層部には智性の力があるといえます。他者の立場に立ってモノを考える力があるからです。

 

敵に対しても有効です。

相対する「相手の正しさ」の必然性をわかろうとする気持ちはお互いの関係を緩める力があります。相手の背景、環境、血筋、歴史、TPO、状況、時代の谷と山の流れなどを考慮してから、相手に向き合うと、何故、相手がそんな馬鹿げたことを実践しなければならないのかがわかるかもしれません。

 

負は悪いものとは限りません。 差別、攻撃性、いじめ、どれも必要な瞬間や特殊条件があるのかもしれません。  

智性の負は、理性の負とは違います。

理性の差別は、ある対象を差別して、それらを排除し、時に抹殺しようとする。

智性の差別は、ある対象を差別して、それらを自らの内側に取り込み包み込む。これによって人は深化する。

ポイントは負を外に出すのではなく、内に取り込むことだ。すると差別は相互理解につながり、攻撃性は防衛と相手への尊重となり、いじめは己の欠如を補う訓練(修行)となる。

 

無用の用

荘子の論敵である恵施(けいし)が、荘子の説くところは現実離れしていて「無用」、すなわち実際の役には立たないと批判した。すると荘子は次のように応えた。

 

そもそも「無用」とはどういうことか、それを知ってはじめて「有用」を語ることができるというもの。たとえば大地は広大だが、人が実際に使っているのは足の踏む大きさ。しかし、だからといって足の大きさだけ残して周囲を掘ってしまったらどうだろう。それでも「有用」と言えようか。要するに、一見何の役に立たないように見える「無用」こそが、実は本当に「有用」なのだ。(外物篇)

 

「無用の用」ということわざの元になったという老子の言葉とは

「三十輻共一轂。当其無有車之用。挺埴以為器。当其無有器之用。鑿戸?以為室。当其無有室之用。        

故有之以為利、無之以為用。」    

 

車輪は、三十本の輻が真ん中の轂に集まって出来ている。

その轂に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用を為すのだ。

器を作るときには粘土をこねて作る。

その器に何もない空間があってこそ器としての用を為すのだ。

戸や窓をくりぬいて家は出来ている。

その家の何もない空間こそが家としての用を為しているのだ。

だから何かが「有る」という事で利益が得られるのは、

「無い」という事が影でその効用を発揮しているからなのだ。

 

次には無用を無意識に、有用を意識に替えてはじめから読んでみてください。新たな解釈ができるかもしれません。

 

平安時代の理性と智性                

智性とは日本の歴史では平安時代の大和魂のことです。(参照 理性のできること・できないこと)

ただ現代では大和魂は昔と違う使われ方が多くされるようになりました。戦争をする度に、内集団が大和魂の解釈を組織の保持のために都合の良いように変えて利用したからです。ですからここでは、本来の大和魂(大和心)を。

−後拾遺和歌集・1219より− 

乳母(めのと)せんとて、まうで来たりける女の、乳の細く侍りければ、詠み侍りける

妻に送る大江匡衡(おおえのまさひら)の歌、

『 果(はか)なくも 思いけるかな 乳(ち)もなくて 博士の家の 乳母せんとは 』

返し、赤染衛門(匡衡の妻)

『 さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳(ほそぢ)に附けて あらすばかりぞ 』

 

意訳

乳母を頼んだら、やって来た女が乳の出が悪いので詠んだ歌

「あさはかに思うのだけど、知識もなく、乳も出ない者を、博士というちゃんとした家で乳母として働かせるのは、いかがなもんだろうか」

「何はともあれ、大和心さえしっかりしていれば、乳の出が悪くとも家にいさせることにしましょうよ。」

 

ちもなくて=ちに「乳」と「知」を掛けている。

博士の家=大江家は当時有名な学閥の家系であり、古代においては博士とは日本最高の人材の一人である。

大江匡衛=おおえのまさひら。9521012。従五位 文章博士

赤染衛門は、匡衡の妻。「房」( 部屋)のある高位の女官で藤原道長の奥方の倫子の下で仕事をしてた。

衛門とはガードマンの役職が語源なのだが、女性の名前でも呼ばれることもあった。

さもあらばあれ=然も有れば有れ。そうならそれでかまわない。何はともあれ。

大和心し=広く知恵、才能、胆力に気骨がある事。「し」は強調の語。

ほそぢ=細乳。乳の出が悪いこと。

あらすばかりぞ=いさせるだけですよ。「あらす」はあらせる、いさせるの意。

 

勝手に解説

乳母を一人雇ったのだが、ちょうど乳の出が悪かったので、夫の匡衛(まさひら)は調子にのって、知と乳をかけて、ちょっと得意になりながら洒落て歌を詠んでみた、そんな知識も乳もない人が博士の家の乳母になるなんておかしいでしょう、と妻に向かって解雇を持ちかけた歌。

すると、妻は夫のつまらない洒落やその奥にある漢才や、自分の利益を優先させる判断した理性の浅はかさをピシャリとおさえて、三十一文字の「こころ」をもって詠み返した。匡衡(理性)が赤染衛門(智性)に見事に一本とられた様子である。匡衡も「やまとごころ」がよくわかっていたからである。

「やまとごころ」とは、学問をして身に付ける漢才とか、花鳥風月をもてあそぶ雅びな教養とも違う。知識のない乳母が持つような「こころ」だった。現代で言う、情の機微がわかり、心の奥にあるものを感じ理解する智慧があり、それを場の状況に合わせて表現できる芯とたおやかさの両方を併せ持つ「こころ」である。

 

ほかの智性では、

唐国のもののしるしのくさぐさを 大和心にともしとや見む −赤染衛門−

 

−源氏物語 乙女の巻より−にも大和魂についての詩がある。

『 猶、才(ざえ)を本(もと)としてこそ、大和魂の世に用ひらるる方(かた)も、強う侍らめ 』

 

『うちの亭主(男)はなんて馬鹿なんだろう。きっと大和心がないからに違いない!』

大和魂(心)とは、上のような文脈での使い方もされていた言葉だった。以上のように、大和心も大和魂も平安期の女性が使いだした言葉でした。

しかし、私の推測では庶民の中では意識もせずに大和魂(心)を普通の基準として生活していたが、官僚機構の文献主義者たちがあまりにも文字や理性を優先し、知識にかぶれた判断をしていたので、女性たちがこれらをおちょっくたのであろう、と思われます。ですから現存している文献では大和魂は女性が使い出した言葉であるが、実際の社会では一般の庶民が単に「魂」や「心」としてすでに使っていたものをエリート女性たちが、外国と比較することで、魂や心の上に「大和」をつけて外から来た知識ばかりを尊重する人たちを皮肉ったのではなかろうかと推測します。

一部の冴えたエリートの女たちが、知識や分析知を偏重しているエリートの男たちに、一般の庶民の日本人(大和)が優先している「心」を基準にして判断する方が大切なのは明らかでしょうが、と肘鉄をくらわしているのです。「大事なものは外じゃなくてはじめから内にあるじゃない」、と。

智性は女性だけのものではなく、自然や無意識や体や情感や体が中心になるところで発動される能力であるのですが、現代では女性でさえも、智性よりも知識を優先させる人が増えてきました。みんな官僚階級を目指しているからなのでしょうか?それとも明治維新以降の教育のためなのでしょうか?

そう、愚かな人間にならぬよう学問をしなさい、って学校の先生は言うでしょう?。

中世以前から日本でも、智性は分析知を優先させることに疑問を持たない人たちと苦闘してきました。この構図は平安時代と現代でも全く同じなので、もしかしたら未来でも同じことが続くのでしょう。

 

利用されるニセの智性

胡散臭い啓蒙書や啓発セミナーでも、この智性の考え方を先ず取り上げます。何故ならば、この智性を表面だけを部分的に扱って利用することで、人や社会を操作できるからです。

パラドックスの視点の限界は、これもまだ意識の世界なので、意識の限界と同じ弱点を持っていることです。

非意識とつながってオープンの状態にしておくことが、利用されない智性になります。

 

利用されたニセの智性のわかりやすい例を日本で探すと戦中の大和魂です。国から強制されたり、操られた大和魂には智性はありません。智性は「土に還る」ために立ち顕れる力であって、合理化の中で利用されるものでは決してありません。これはどの組織(国連・国・会社など)でも使う戦法で、智性のパラドックスの視点だけを組織の都合の良いように利用して、非意識の原理を切り離してしまうことから起きる出来事です。

スパイの世界のインテリジェンスや、ヒトの心の動きを読むメンタリストの技術や、NLPNeuroLearningProgram)と呼ばれる条件反射(無意識)の書き換えや、潜在意識に直接つながる催眠術や、組織の利益の為に魂を強調する宗教も、智性のメカニズムだけを利用して、自分たちのプラス(メリット・利益・得)を増やすことに励みます。これらは利用されてしまった智性であり、正確には理性の領域に引き込まれてしまった偽の智性すなわち「知性」でしかありません。

本来の智性は非意識を「待つ」ことで向き合うものなのですが、智性を利用する者は上澄みのシステムと非合理性と法則だけを掠め取ろうとして自らが先に動き始めます。

本来の智性は、ある集団にとって利益があるものではなく、常に全体性の中での関係でしか表すことができないものです。決まった形があるのではなく、常に変化する自分や他者や環境や時間や状況に対応して形を変えていく力です。一言でいうと、「この世から静かに消えていく」技術です。

わかりやすく智性と知性を見分けるのは、その考え方を実行すると、ちゃんと消えていけるのか?そして全体(宇宙)のためになるのか?もしくはある集団だけが得になるのかを見極めることです。

あの世を怖がらずに自然の一部として戻っていくのが智性であるのに対して、あの世を怖がらないような条件反射の回路を作って夢を見させて、ある集団のために、と自己犠牲と洗脳に導くのが「閉じてしまった理性」の世界です。閉じた意識には善意や悪意があるのに対して、この二つが一致する智性は開いた意識です。

理性の外にしかない智性を、理性の中に無理矢理に閉じ込めるのも閉じた意識の仕業です。

智性は同じもの(共通性)を焦点に、知性は差異(特殊性)にスポットライトを当てます。

この見える世界では、大事なことほど勘違いされ誤用されてしまう、という法則があります。特にヒトや「いのち」に関わるものは、注意が必要です。「形」が作られる世界では、智性をあえてミスリードさせようとしてしまう力が働きます。善意や悪意に関係なく、誤読、誤用、曲解、捏造させてしまうのが、「形」の特徴です。

これに善悪はなく、これが「形」の性質であり、いいところでもあり、限界でもあるのです。

自分が「みんな」のことを考えた時に、ほのかに立ち上がってくるのが智性です。その後に非意識とのツナガリがないと理性に悪用されてしまうので、法則や見た目がパラドックスなので智性であると思うのは要注意です。

 

本来の智性は時間と空間と因果律に関係のない非意識との接触から内部から湧き上がるものなので、外部の都合によって方向づけられるものではありません。

また、智性とは成熟さを意味します。まだ酸っぱい理性のリンゴではなく、熟れた味わいのあるリンゴです。「形」がちゃんと消えて「非意識」に戻る道程に導くのが智性の性質です。

しかし外見だけを利用する組織人は多くいます。そんな組織人と付き合う時は、彼らが組織人ではなく、単なる一人の人間としての「素」に戻る時にしましょう。組織人も一人の人間ですから。

 

 

智性が避けられる理由

戦争中には外見だけの智性、すなわち閉じた意識を悪用して利用する例が人類史の中で毎回見られます。だから戦争が終わると、この表面だけは美味しそうだが中身は自己保身しか考えないインチキな偽の智性を体験した人は、「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」と、あらゆる智性を嫌って理性を基にした理念に頼るインテリが続出します。時代の流れからいって理解できることですが、この理念を推し進めることで、また次の戦争を生み出してしまうという皮肉が人類史を通して繰り返されます。

これからは智性の本質をしっかり体感し、一つの集団の全体性ではなく、本来の智性の特徴である「敵を含めたみんな」と非意識を基準とした智性を発揮することで、理性を中心にしてしまった考え方から、理性も智性も共に活用する暮らしにするのが、風が通って爽快です。

「みんな」とは本当の全体性とのことで、自分たちの集団の外にあるものも含めた「みんな」です。

参照 

智性や魂性は、「形」になった個が「非意識」に戻っていく時に使われる能力なので、これを組織が自らの保身のために利用すると、とんでもないものになる。だから世界史の中でどの戦後も、しばらくの間は智性や魂性は大衆から忌み嫌われて、代わりに理性や感性にスポットライトが当てられる傾向があります。

 

コラム 智性がないと起こる怖さ

理性の分析する力が科学の基本

分析知は善悪のどちらにも使える力

周囲の個々の状況に適応する力は持たないので、一つの真実を声高に語り、それを周りに押し付けて平気でいる 

他者を踏みにじっていることに気がつくことさえもできない

だから必要なのは「他者の痛みを共有する」心の智性、

さらにこれまで「選ばなかったものに向きあう」意識の智性、

そしてすべてが結びつく「つながり」の霊魂性、 

これらがないと理性だけでは周りを傷つけて暴走してしまう

吐く息にスポットライトを当てろ

吸うことではなく、吐く方だ

静かにゆったりとボーとしながら待つのがいい

すると智性が顕れでる

 

意識への応援歌

意識よ、気づけ、

自らだけではできないことがあることを

理性の限界をわかってもらうには、智性の力に頼るのがいい。

理性よ、智性が言葉にすると相反してしまうことを、汲み取っておくれ。

情動を、本能を、

心を、体を、

無意識を、潜在意識を

全体を、「空」を。

これらと交わる時には、理性の外に出るしか向かい合うことができない。

理性ではどうすることもできない。

吐く息を大切にしていると、智性が意識の中でゆっくりと立ち上がる。

智性は理性の外側にある意識だ。

智性と理性は意識というコインの裏表だ。

そしてその後は、言葉で表すことができない力にお願いするしかない。

言葉にすると「矛盾」したことになってしまうから。

 

智性への応援歌

智性は知っている。

ありあまる意思の力では、できないことがあることを。

扉を開けるには、意識から少し離れるしかない。

その後は静かにして「待つ」ことしかできない。

人事を尽くした後は、開き直りと充実感と諦念で静かに天命を待つかのように。

だから祈りがあり、尊敬があり、希望があり、安心がある。

 

ヒトの中には体験はしなくても「始め」からいろいろなものがある、全てがある。

だからそれに耳を傾けるだけでいい

時間、空間、偉大なるもの・・・。

誰でも体験し共有できるもの。

言葉であらわせないのが分かっていても

それらに名前をつけるとしよう

みんなが混乱しないように、同じテーマで話ができるように

智性と霊魂性いう名前で

 

負の力   いじめ・暴力

前もって言っておきたいのですが、いじめや暴力を肯定しているのではありません。これらの負の力はこの世には存在するものだという前提の上で、これらの本質を知り、これらを否定して排除するだけではなく、向き合おうとする試みです。向き合うことによって、排除するよりももっとしなやかに負の力と付き合っていけるのではないか、という提案です。

 

いじめ

いじめは何でも悪いものだと思っている人がいる。ネガティブなものなので、そのように見るのは当然のことだ。それは実際に苦しんでいる人が多く、辛い体験をした人が今日も一杯いるからだ。確かにひどいものはそれをなくすことが必要だ。だが同時に何故いじめがなくならないのか、そしていじめにも良いものがあるのかどうかについて考えみて、ネガティブなモノを元の全体性の中に戻すのが智性の仕事だ。ネガティブなものを排除するだけでは、表面的には綺麗になって心地よくなるが、ネガティブな力はただ地下に潜って前よりも一段と、酷い状況に追い込むだけのことになる。例えば菌がいけないからといって、皮膚の表面に住んでいる常在菌を殺菌し続けると、そこに湿度と新たな菌が加わると、体部白癬(たむし)になる確率が増えてしまうようなもの。

普段は特に役に立たなかったり、邪魔をする菌も、人間にとっては必要なこともあるのです。

 

他人に対するいじめは相手に迷惑がかかるので実験はできませんが、自分の体ならば、いじめることはどんなことなのか、わかるきっかけになります。よくみんながする筋トレはまさしく自分で自分の筋肉をいじめることで、筋肉が反発して発達する訓練法です。いじめてあげなければ、筋力は退化してしまうだけです。入院などして数日間でも寝たきりになると、驚く程に筋力が落ちてしまう体験をした人もいると思います。

 

農家が早春に麦の芽を足で踏みつける「麦踏み」も植物に対するいじめと呼んでもいいかもしれません。

このいじめが麦を強くしています。

目的は、麦が伸びすぎないように穂揃いの均一化、霜柱を防いで根張りをよくし倒伏しがたくする、分けつの促進(穂の数を多くする)です。

生物学で言うと、この麦踏みは「エチレン」という植物ホルモンを働かせるためにやっています。

植物が生長する時に、芽が伸びてゆく先に邪魔なものがあったときに面白い作用を起こします。例えば、上に石があり、芽が僅かに傷くと、傷口からエチレンが放出され、これによって芽が少し茎が太くなって、石を押しのけようと働きます。(逆に、背は伸びなくなる)

太くなった茎は風で倒れにくく、さらに分枝も多く出て、強い麦になります。

 

暴力

暴力も排除することも必要ですが、同時に取り込む智慧も必要です。

他者は私のことを知るまでは自由勝手にふるまいます。また私の不快を知った後でも、行動し続けるかもしれません。暴力とは他者からの望まぬ力ですから、この世がある限り、なくなるものではありません。

イスラム教は一見すると暴力を肯定しているように思っている人もいます。

目には目を 復讐倫理 クルアーン第五章45

汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。しかし侵略的であってはならぬ。第二章190

 

参照

وَكَتَبْنَا عَلَيْهِمْ فِيهَا أَنَّ النَّفْسَ بِالنَّفْسِ وَالْعَيْنَ بِالْعَيْنِ وَالْأَنْفَ بِالْأَنْفِ وَالْأُذُنَ بِالْأُذُنِ وَالسِّنَّ بِالسِّنِّ وَالْجُرُوحَ قِصَاصٌ فَمَنْ تَصَدَّقَ بِهِ فَهُوَ كَفَّارَةٌ لَهُ وَمَنْ لَمْ يَحْكُمْ بِمَا أَنْزَلَ اللَّهُ فَأُولَئِكَ هُمُ الظَّالِمُونَ

「ユダヤ教の聖典の中で、我々はユダヤ教徒のためにこう記した、『報復の際には、命には命を、目には目を、鼻には鼻を、耳には耳を、歯には歯を』と。あらゆる傷害には報復がある。そこで、誰でも赦し、報復を忘れる者は、それがその人の[罪の]償いとなる。誰でも神から下された事柄を適用しない者は、[覚えておくがよい]、彼らは圧制を行う者である」(5:45)

وَقَاتِلُوا فِي سَبِيلِ اللَّهِ الَّذِينَ يُقَاتِلُونَكُمْ وَلَا تَعْتَدُوا إِنَّ اللَّهَ لَا يُحِبُّ الْمُعْتَدِينَ

「汝らに戦いを挑む者があれば、アッラーの道のために戦え。しかし侵略的であってはならぬ。まことにアッラーは、侵略者を愛でたまわぬ。」 (2:190)

 

これを暴力礼賛と解釈してはならない。

善悪併せ持つ弱い人間に、暴力を奮わなければ仕方がないという止むに止まれぬ事情がある以上、できるだけその被害と連鎖をくい止めるために苦しみながら生み出された智慧の一つ。また一騎打ちの倫理や限定戦争の智慧もしかり。

キリスト教の「愛の教え」は素晴らしい、しかしその教えを聴き入れなかった場合にその相手をどう扱ってきたのか?、それは歴史を見たらわかる。聴き入れない者は、理性を理解できないのだから人間ではない、人間未満の存在の獣として皆殺しにしてきた。誤解されないように主語をもう一度書く。イエス・キリストではなく、キリスト教会の歴史と教えの話である。

「はたしてインディオは人間なりや否や」と会議をして新大陸に出かけた修道会の宣教師たちの中南米での滞在記に目を通すがいい。中近東で、アフリカで、アジアで、太平洋で、大西洋で、インド洋で。そして欧米の中でこそ、酷い抹殺が行われてきた歴史がある。

目には目をの倫理観がいつも正しく優れているわけではない。だがこの倫理観は、責任の所在を明確にさせなければ無責任という反省なき繰り返しを避けたいという思想の表れであって、この態度こそがちゃんと自分と相手に向き合っている人間的(政治的)なものではないのか。

 

上手にもめる

揉め事を避けるのではなく、ちゃんと揉める。そうすると自分も相手も互いに適応して、見解に変化が起こる。そして場合によっては、自分を訂正せざるを得ない、

さあ、右手ではしっかり握手して、左手ではちゃんと殴り合おう。

 

悪を否定することは、生きている力を否定することになるので、結果的には活力を失なってしまう

優劣や善悪を決めた後に、劣悪のものに蓋をしたり、排除してきた文明がある。しかし世界にはそうではない地域もまだまだある。いや地球全体の人口でいえば、こちらの方が多い。例えば、日本にだって村や集落のありかたはどうだろうか。祖母は風呂もない長屋に住んでいた時期があったのだが、近所に色々な人がいて楽しかった。短い期間ではあるが、私が京都の町家で暮らし時は昔が懐かしくなった。こちらの壁が隣の壁である町家とは長屋のことだ。銀水湯の番台のばあちゃんも豆腐屋のオヤジさんもどんな人が来ても受け入れて商売をしていた。長屋の住人はみんな職業がちがっていて、奇人・変人も含んでいる。それでいて繋がりと分断が同時にある。 

Cf.井伏鱒二の『多甚古村』 山本周五郎の『季節のない街』 佐々木邦の『奇人群像』では長屋の原理がある。長屋のようなしくみにはワルを吸収する仕組みもあると長田弘は言う。アフリカ社会でワルがどのように社会や文化に溶けこんでいるかを分析した山口昌男はそこからトリックスターという役割を引き出した。「いたずらもの」という意味だが、ワルでもある。学校社会にもこういうトリックスターやワルが必ずいた。しかし、これらを殺菌して排除してしまうと、その社会や文化がツルツルになって衛生上では無害になる。ように見える。

するとどうなるのか?

免疫のメカニズムで考えてみよう。社会の中にある異物がある時に、各自は自分の菌で対抗するのだけど、菌がなくなると免疫のメカニズムが発動しなくなるので、少しの異物の菌でもワル(悪)はアッという間に全体に広がってしまう。すると、そうしないために常に殺菌剤をかけ続けなければならなくなる。それでワル菌がなくなればいいのだけど、そうはなりません。だって外からくるワルの菌をいくら防御しても次々とやってくる。そのうちに今度は自分の中にもワル菌がいることに気がついてしまうんだから、もう仕方がありません。それでもなんとかそれを除外しようとし続けます。この排除しようとする行動こそが、学校や会社の中で起きている陰湿ないじめと呼ばれるものです。自分から排除できたと思った菌は実は体内に深く押し込められており、時々それが暴発しています、これはタチが悪い。

同じことが病院や各自の体内でも起きている。

常に耐性に打ち勝つ抗生物質をつくり続け、それを使用し続けなければならないのだが、抗生物質は腸内に棲む消化に必要な菌までも殺してしまう。そして病原体は次々と学習し、今度は本当に排除しなきゃならない耐性病原体にまで成長させてしまったのは抗生物質で菌を殺し続けたことにほかならない。

微生物によってヒトは生きていることができるというのに。まさしくヒトは菌によって生かされている。腸内菌の分解によってヒトは食料を血液に流れる栄養に変えることができるように。確かに病原菌を排除するのために緊急的に抗生物質を使うことは有効だ。しかし薬に頼りきって、菌を殺菌し続けるのはリスクがある。自らの内側にそれらに対抗する力をつける必要があるのだ。 

智性とは抵抗力のことでもある。ワル菌とちゃんと付き合い、自分の中に置いておきながらも、それが暴発しないように制御する力だ。ワル菌も私たちの一部であり、そこに生命の源がある。しかしあまりに強力なので、全体を弱めてしまう前に、ワル菌の量と時間を極端に減らし、活躍する時空間を小さく限定させるのが、智性の役割だ。

 

智性の秘術 マイナスを大切な一部として仲間とする

負を活用して全体性を取り戻した時に、智性が現れ出る。

いや智性がヒトをマイナスの必然性と全体性に導く。

嫌なこと、嫌いなこと、避けてきたこと、認められないこと、の中に智性の扉を開ける鍵が隠されている。

選択しなかった中にその価値を認め、それを自分の一部として取り込んで、「足る」を知る時を与えてくれる。

 

智性を身体で表現すると、胸の前に両手を合わせること。

この動きは平均値や左右対称を求めるものではない、

形ではそのように見えるが、結果的にそうなっているだけだ。

この時に大切なのは左右両方の手に反発しあう力があることを感じること

逆に向いた二つの方向をみつけ、その間に立って、両方の矢印を自分の一部とすること

すると体の中心(丹田)に力が集まることを感じてもらえるだろうか

 

智性の術は、不幸といかにうまく折り合いをつけていくか、ということでもある。

不幸をも大切な一部だとするか、それとも、そこから逃げ続けるのか。

不幸も慣れれば生活の一部でレクリエーションだ、

と感じるようになれば、これは智性の力を使っているな、ということだ。

 

現象でいうと、水と火の関係。

例えばスチームサウナの熱霧を理性の力で分析すると、水とエネルギーです。エネルギーは火力に置き換えることができるので、水と火だと言える。この水と火を単に合わせても、この二つの特徴は相反しているので、お互いが相手の特徴を消してしまい、元の熱霧に戻ることはない。ところが、この二つの間に鍋や鉄板を置いてみるとどうだろう。水と火がお互いの特徴を活かして、熱の塊となった水蒸気が立ち上る。

この二つの間に気を配ることによって、分かれた二つは新たな一つに生まれかわる。これも智性の力。

 

抵抗力を活かすのも智性の力。

なぜ、魚が水の中で泳げ、鳥は空を飛ぶ事ができるのか?

彼らは何を使って動いているのか?

それは、進路を邪魔する力、すなわち水の抵抗力や空気の抵抗力だ。

だがこのマイナスとも捉えられる抵抗力がないと前にも後ろにも進めない。

この力を使ってはじめて動くことができる。

この力を使わないと、ひとつも動くことができない。

抵抗する力を活かすことによってしか、

この抵抗力を上手に使う技を習得することではじめて、

動物はこの世で生かされている。

 

参照

弁証法は理性の枠組みの中での結合なので、この智性とは階層(深さ)が違います。

アルケミー的に言うと、王と王妃の結合は弁証法、王と女王の一致が智性です。王と王妃は対になるものですが、(男)王と女王が両立することはなく、実際にはどちらか一人しか王になれません。しかし智性ではこの矛盾を受け入れて一致させるという、理性にとってはナンセンスな荒技です。

 

地球の中心にすべてを委ねる体操

野口三千三をはじめ、高岡英夫や、太極拳や合気道がすすめるリラックスする体の動かし方です。

地球の確かさと重さがまずあり、次に自分の体の重さを感じます。

この体操は下確かな(したたかな)体の動きを探り、下確かに生きることを探検する営みです。 

 

体操の基本はぶら下がり。

足を肩幅に広げ、楽に立ち、自分のからだの重さを地球と骨に任せきって、骨盤を含めた上体を前下にぶら下げる。その「重さと思い」を大切にして、ぶら下がり流れて行き、この二つがよりよい通り道を作るようにする。

足の裏、脚、骨盤、腹、胸、肩、頚、頭・腕、の中身の細胞と細胞との間を空けるように、優しく細やかに、ゆくりと、いたわるように、思いつくまま、ゆらゆら、ニョロニョロ、波のように、左右にゆすりながら、

・・・間を待つ。

まかせる。ゆだねる。向こうから来るまで待つ。

やがて「重さと思い」が地球の中心にまで繋がりつく、という実感が生まれればOKです。

すべての存在は重さ。からだの重さが存在感。動きとは重さの流れ。

からだの中身を「あらひ、さらし、すすぎ」の感覚です。

手洗い洗濯のようにはじめは「ゆるめ、ほぐし、つけ、ひたし」準備をしたら、次には

「ふれ、なで、さすり、おし、こすり、もみ、ゆり、ふり、うち、たたき、ひねり、しぼり、ひろげ、のばし、たたみ、かわかし、ほし」ます。

からだの中を空けて、新しく道を作る感覚を持ちながら、洗濯する者と洗濯されるモノの動きが体操の極意です。

 

地球の中心とつながる実感は包まれたような感覚だ。安らかで静かになるか、不安で苦しくなるかの両方がある。それが安心である時に、自分の内側(裏側)から自由奔放・変幻自在な、少しいたずらっぽく甘えるような新しい自分が生まれ出るのを感ずる。この気持ちよさは格別な味わいである。特有の快感だ。循環の気持ちよさ。あるがままでいい、喜びだ。大自然のエネルギーのよりよい通り道となり得る能力を力という。道とは力のこと。

大自然の原理に任せ切った動きの感覚が、生命体の霊力の始まりなのである。

この時に智性が働き始めています。

 

体感のストレスを低下させる実践

暴露反応妨害法

これは、試してみる人が自分や他者の気持ちに対応する能力を必要とする方法です。楽しみながらやればうまくいきますが、緊張してやれば逆効果になって状態がより悪くなってしまいます。

人は「梅干を見たら唾液が出る」ように無意識の条件反射を多く持っています。人によっては、蛇を想像するだけで鳥肌が立つ人がいます。これらの条件反射を変えるには、気持ちを安定させた状態で同じ動作を何度か繰り返すことで、条件反射をなくしたり、希望する新たな条件反射を作り出すことができます。

 

苦手と感じてこれまで恐れていたことに、呼吸をゆったりさせて向かい合い、(暴露法)

心を安定させた状態で、これまで不安を下げるためにしてきた強迫行為をあえてしない(反応妨害法)

 

暴露反応妨害法を楽しみながら続けていくと苦手なことに直面してもほとんど不安を感じなくなります(つまり苦手なことがどんどんへっていきます)

強迫行為をしなくても不安にならなくなります

強迫観念がおこりにくくなります

その結果強迫症状に支配されない自由な生活ができるようになります。

しかし、気持ちが安定せずに緊張しながらこの方法を実践すると、状況が悪化します。

森田治療法について関心がある方は、文末の参考資料にて。

 

訓練・修行・修練が必要なわけ

未知なるものを脳の悟性が分類してカテゴリー別の籠の中に入れる。

次に脳の理性がそれらに共通の法則がないか調べる。

合理性を超えた矛盾の解決は、理性ではできないので、智性に頼む。

智性は合理主義では理解できないものや、生命体の情感や本能の働きの意味や無意識に気づこうとする。

ときにはカミや異次元などの特殊なケースをも気づこうとして「待つ」。

これらも人間が生きている意味の一つだ。

そして向こうからきてくれたものに気づけた智性は理性に、理性は悟性に、悟性は感性に、感性は身体に、メッセージを伝えていく。

すると智性にメッセージを送ったのは実は身体そのものであったことを会得するときがある。びっくり仰天だ。

智性が発信源で送り先が身体だとおもっていたら、実はその逆のことが多々あるということに。

これを繰り返して生きることによって訓練がなされて、はじめて大切なものが伝わっていく。

試行錯誤・挑戦と修復が必要な理由です。

 

智性の限界    大いなるもの

智性は理性とは異なり、自己の限界と残された課題を認識することができる。

智性は、自己が無知であること、そして無限性である「大いなるもの」を把握することは不可能であることを知っている。

智性は、観られないものに観られ、近づきえないものが近づかられる場合にのみ、「大いなるも」が知られうるのであることを知っている。

だが残念ながらできるのはそれだけだ。その先の世界を智性では体感することはできない。

 

ジプニーの一心同体     心を取り戻す一つの術     同化  異身同心

私が、フィリピンが好きな理由のひとつはジプニーに乗るのが好きだからと思う。

ジプニー (jeepney) とは、フィリピンの全土でみられる小さな乗合バスで現地では単に「ジープ」と呼ばれる。

 

もともとは第二次世界大戦後にフィリピン駐留アメリカ軍払い下げのジープを改造して製作されたのが始まりで、

各種各サイズの中古部品を利用して作成されるため、1台として同じ車両はない。

トラックの普通荷台の左右にベンチシートを向かい合わせに設置し、運転席の屋根から一続きに車体後端まで延ばした背の低い屋根が架けられる。鋼板張りの平らな屋根には、大量の荷物が積載される。側窓はないものが多く、雨が降ると巻き上げられていたビニールをおろして雨の侵入を防ぐ。客は後部の開口部から背中をかがめて乗降する。一般的には16人乗りのものが多いが、そこに20人から30人が乗ることもある。乗客があふれるような場合は後部にぶら下がる客が出たり、屋根の上に座り込む客もいる。

 

狭い車内で、みんなが一体になって移動している。体が隣の人にくっつくので、ズボン越しに隣の人の脈動を感じるほどだ。

初乗りは10ペソ(20円)ほどで、運賃は運転手に直接支払うが、後部にいて直接に手が届かないときは運転手に近いところに座った者が、乗客のお金の受け渡しをする。後ろから順番に運転席寄りの乗客にお金を渡し、手から手へと運転手までリレーされる。お釣りがある場合には逆のルートできちんと返ってくる。

また、行き先を周りの人に行っておけば、たとえ居眠りしていても、到着地が近づくと、誰かが起こしてくれ、運転手に止まってくれ(Para pho)、と伝えてくれる。

みんな初対面なんだけど、ジブニーに乗ってしまえば、嫌でも一体になっちゃうんだよね。

智性は難しいことや哲学や思考法ではない。

こんな身近なところから始まっている。

 

 

コラム

智性を発動させない気取った理性

智性を野蛮なものとして否定し、人間の本性には蓋をし、理性だけでこの世を見ようとする組織がある。

この組織では、自分の宣言していることがおかしいとは少しも思ったことがない。自分を疑うことをしないんだ。自分がこの世の基準だから。

都会育ちの現代人には、以下のちゃんとした宣言に文句をつけるのは不思議に感じるだろう。しかし、まあちょっとでいいんで、お付き合いいただければ幸いです。

 

原文は

All human beings are born free and equal in dignity and rights. They are endowed by nature with reason and conscience, and should act towards one another in a spirit of brotherhood.

 

第一条

すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。

 

この宣言のどこがおかしんだろう?

まともじゃん、っていうか、素晴らしいじゃない。こんな世の中にしたいと思う人は多いと思う。ところがこの宣言に反対する国があったんだ。

棄権や欠席をしたのがソ連、ウクライナ、白ロシア、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、サウジアラビア、南アフリカ)、欠席2(ホンジュラス、イエメン)賛成したのは48カ国しかない。(まだ独立していない国が多かったせいもあって)

反対するのは共産圏の政治的理由もあるけれどそれだけではない。

 

実はこれが有名な、1948年の国際連合の「世界人権宣言」なんだよね。

理性的な良い宣言だと思う。しかし智性的ではない。人間の本当の性質については蓋をして見ないようにして「いのち」から逃げているんだ。

 

「生まれながら自由にして、尊厳と権利において平等である」

本当にみんなが不平等に苦しんできたのだろうか? 

貧しき者や弱き者は自由も尊厳も権利もないことを嫌がってきたのだろうか?

確かに一杯いただろう。

しかし多くの人は不平等や不自由を受け入れることで人生をスタートさせてきたし、これからもさせるであろう。

各自が工夫をして智慧を使って平等のない現実の中で生きている。

こんな当たり前の人類史の現実の対処法を教えてくれるわけでもなく、いきなり神の立場に立って、妄想に取り憑かれたように、ありもしない生まれつきの権利があるかのように表記するのは、体の底から違和感がある。同じ人間としても見ている世界や感じている現実感が違いすぎる。こんなことを言う人に兄弟姉妹愛が湧くわけがない。どんなに恵まれた人なんだろう。どれだけ上から下を見下ろしているのだろう。その傲慢さでどれほどの人を踏みつけてきたのだろう。この宣言に気持ちが締め付けられる人がこの世にいることを想像したことはありますか?

どうしてもこのように言いたいのならば、should be にして、残念ながら現実はそうなではないが、そこを目指すのが我々の務めである、ぐらいならばほんの少しだけならばわかる。少しだけの理由は、こんな宣言を支持する集団は、この世のマイナスを自分の中に取り込んで、厳しい状況で生きていかざるを得ない立場の人への努力や智慧や闘いを、一緒にしてくれない人たちだから。

この世に産まれるとは具体的なことである、身体、環境、両親、時代、階級などすべてがセットのなのだ。こちはセットなんだけど固定化はされておらず、柔らかくしなやかで下確かことを実践しているんだ。それを、先進国や金持ちが作り上げた妄想の囲いで覆われた理念だけを勝手に語られても、こちら側はこんな宣言を基準にして話を進めていく人たちのことを宇宙人みたいだと思って口を開けたまま閉じるしかない。

理念(大脳皮質)も人間の一部だが、それを基準にして他の情念行動(大脳辺縁系)や本能行動(脳幹)を考慮に入れない考え方は、人間においては機能しない。原始林を焼き、芋畑を焼き、地平線まで花畑にして、そこから世界を見るかのようだ。人間の心と体の特徴を含めた評価や判断や思考を共有してほしい。そうでないと、単なる「天国での思いつき」でしかなく、理念に近づけば近づくほど不都合だけではなく、カタストロフィが待ち受けている。だって人間は脳だけではなく、体と心があるから。そしてその脳でさえ体の一部でしかないんだから。そして彼らの天国とは、一部の特権階級の利益を保ち続けることを本性としているのだから。

これらのことをよく深く向き合って考えて欲しい。これこそが普遍的で国際性のあることであるから。そしてもし人権があるというのならばこの不公平こそがある人にとってはその人の存在意義であったり宝物といっていい独自性だ。これらを活かすことこそが智慧のある生き方であるから。

宣言者の美学によって、こちらを含めた全部を平等でのっぺらぼうにされるのは、たまったものではない。

これが現実であることは、宣言した者でも心の中では同意してくれるのではないか?

 

理性と意識にスポットライトがあてて、大切な心情や身体はなおざりのままだ。相変わらず、欧米を始め世界に拡がったプロテスタント・キリスト教会と、自然を知らない都会人と、田舎で暮らしても人の気持ちに関心のない自己愛主義者たちは、人間のサガを知ろうとはせず、躰の聲を聴こうとはしない。未だ理性の限界を知らない理念教の信者たちの思想でしかない。全世界に君臨する上部5%の者だけが得をするやり方を他者に強制し、自己保身するための考え方だと、こちらは声を大にしてぼやいているんだ。これに先進国やインテリや大学卒業者や都会生活者が気がつきたくないから、「現在」の問題が起き続けているのに。

 

はじめから人間の自由の権利が保証されているような思想は「人間の分」を弁えぬ傲慢さに溢れている。

こんなことが言えるのは、「唯一の全体性」だけ。

イスラムから言えば、神の創造の業、

仏教徒から言えば法 धर्म,  dhárma、ダルマの普遍性、

無神論者から言えば、「いのち」の素晴らしさ

哲学者から言えば身体の聲、

先住民から言えば、大いなるもの

これらを体感して毎日をちゃんと向き合っている者だけが言葉にすることができる権利である。こんな凄いものが実践も努力も試行錯誤も思いさえもしない者までに保証されているわけがない。それを保証されていると勘違いしている者こそが、裏で人を踏みつけているのに気がつこうとしない、誠実な仮面をつけて。

こんな宣言は、自分の頭の内側で作られたものを善だと決め付けるばかりでなく、なんと外部にそれを押し付けて強制させている。

こちらが踏みつけられて苦しいと叫び声をこれだけあげても、踏みつけている者は、「理性が理解できない野蛮な動物は可愛そうだわ」、と心の底から優しく心を震わせて同情してくれるばかりだ。

清純な優しき乙女に気をつけるのもたまには必要だ。

 

 

コラム

逃げて責任を取らない生き方   理性の対処法   向き合わない生き方

全体を分析して推論する理性や、そこから生まれてくる一般的な科学には、責任をとるということができません。分析能力の高く短時間で問題解決ができる理性能力を訓練した優れた人や科学者が、責任をとることができないのは何故なのでしょうか?

立派なはずの人たちが無責任なはずはないでしょう?

ところが理性の特徴と責任の意味がわかれば、理由はすぐに出てきます。

理性行動とは、分析をし続けることですから、矛盾しないように一つを二つに分け続ける行為です。そこには自らが選択をするのではなく、ルールに則って分けただけですし、その分けたものの相違点や優劣を指し示すだけです。矛盾しているモノでも強引に分けて、分けた部分同士が矛盾していないように見せかけて、分けます。もしまだ矛盾していることを指摘されれば、ずっと分け続けていればいいのです。すると矛盾に向かい合う必要がなくなるのです。この考え方に固執することが、便利なことに気がつく人がある時から急に増えました。

責任とは自らが選択した結果に責めを負うことです。ということは自らの選択さえしなければ、責任を負うことがないのです。ですからまず分析して優劣を決め、その結果に従っていれば、自分が判断したのではなく、事実に従っただけということで許される世界を作り上げていこうとしました。「いのち」や「人間」などの全体性は常に複数の相反する(矛盾している)力の中にあるので、矛盾のない部分だけに関わるようにしていれば、責任を回避できるというのが、理性中心主義者のこの世の対処法です。これならば他人や社会に文句を言われる筋合いがないと思っているようです。近頃では政治的には対中国の辛辣な意見を言いながら、経済では中国の銀行の株に投資するように、部分ごとで接するのならば、問題がないという考え方です。

自らは矛盾したことや嫌なことから逃げ続けているのに、自分の外にある矛盾や嫌なことに対しては、「おかしい」と断罪し強制的に正そうとします。いや逃げているからこそ、矛盾を忌み嫌い、否定しようとしようとするのです。矛盾を否定するために、科学的証拠を探し集めて不安を解消しようとするのが常套手段です。しかし、この矛盾の中にこそ「大いなるいのち」があります。そして、これと向き合うことで智性はゆったりと光り輝き始めます。

 

 

不用の用 イントロン

遺伝子の中のイントロン 渾沌とは何か?

イントロンとは遺伝子DNAに入った雑音です。これを取り除かないといけないので作業工程が増えてしまいます。

不要のものですが、「不用の用」ということもあります。

短期的には、イントロンという雑音の存在により、一つの遺伝子から異なる複数の酵素を作り出すことができます。小説の例えで言うと、ラストシーンが異なる二つのバージョンのストーリーを1つのタネ本から作れるようなものです。

長期的役割は、遺伝子の組み換えです。低頻度ですが、異なる遺伝子がイントロンで分離して、新たな結びつきをするのです。小説で言うと、「吾輩は猫である」と「風と共に去りぬ」の合作です。失敗作が生まれる可能性は高いですが、思わぬ成功が見られることがないとはいえません。

 

遺伝子内に雑音を持つことで、生命体は多様な可能性を試すことができ、発展が促進されます。大腸菌に代表される原核生物たちは原則的にイントロンを持たないので、ムダを排して効率を追求したので短期的には良いことのようだが、それにより多様な可能性を試すチャンスが極端に減り、長期的には発展の芽をつんでしまったとも言える。

 

遠い昔に真核生物の祖先は、グループUイントロンに近い「病原体」に侵入され、それに苦しみながらも共存する策を見つけ出し、さらにはそれを自分にとって役立つ存在へと飼い馴らすことに成功した、というストーリーが想像できます。

 

ポストイットの発明をした3Mは勤務時間の「15%」を自分の好きな研究に使っても良いというルールと、上司の命令に背いても自分の研究のために会社の設備を使っても良い「ブートレッギングbootlegging

 

渾沌とは?

渾沌を排することで秩序がつくられるプロセス

渾沌はエネルギーが渦巻く理想の状態であり、そこから時々生み出されるのが秩序。渾沌は創造の源である。

 

渾沌と付き合うコツ

渾沌から価値を生むのか、排除して効率を目指すのか、どちらかはっきり決める。

渾沌を生む仕組みを制度化する

短期的には悪の渾沌も、長期的でとらえると善になる

引き出された渾沌の価値を明確化する

 

性は不要 しかし・・・

マウスの単為生殖 河野友宏 東京農大2004年  哺乳類でさえ性がなくても子孫が残せる。

多くの生物は性という混沌と非効率の道をあえて選び、「渾沌から価値を引き出す」

 

オスとメスがいる渾沌の世界により、不変も含めたバリエーションが生まれた。

有性生殖を行う事により、とんでもない大失敗や、生存確率に直接関係のないバラエティの広がりや、たまに成功といった混合物が生じる。

生殖分裂のプロセスは、2セットあった染色体(2倍体)がランダムに組み合わされ、1倍体である精子や卵子になる。223 である約838万のパターンで混ぜ合わされる。

 

自然淘汰 生き残ったものが適者

自然の摂理、「光あれ」「生存せよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

悲観から生まれる楽観主義

ハルトマンの宇宙的無意識 「無意識の哲学」

人間は無意識に支配され、その無意識が三つの幻想を人間に抱かせる。

1人間は現世で幸福になる   この世にユートピアが作れると思っている。

2人間は来世で幸福になる   この世に救済があることを信じる

3科学の発展によって少なくても人間世界は改善されている

この三つが欲望を生み出す。

人間は苦悩するために存在しているので、こんな世界で生きていく必要はないのですが、個人が自殺しても、いや全人類が自殺しても、数億年すれば、再び「宇宙的無意識」は新たな生命体を地球上に生み出して、次は彼らが再び苦悩しなければなりません。仮に地球を破壊したとしても、「宇宙的無意識」はどこか別の惑星上に「盲目的意思」に支配される知的生命を生み出し、彼らが人間と似たような苦悩を背負わなければならない。では人間はどうすればよいのか?科学を発展させるべきだ、なぜなら宇宙が二度と生命を生み出したりしないように、絶対的に宇宙そのものを消滅させる方法を見つけるために。

人間が科学的に進歩することによって「宇宙的無意識」を「宇宙的意識」に進化させ、宇宙そのものを永遠に消滅させる方法を発見するに違いないと心の底から信じていた。だからこそ幸福な調子で終わっている。

 

茂木健一郎の知性   

非典型 アップル 多様性  イニシアチブを取れる人 変なことはいいことだ

無意識と繋がる能力  無意識の栓をひねる力

偶有性に適応する能力 個々ではなく社会 すなわちソシアル・ネットワーク

天才は収束ではない 社会では不適応的  天才の周りには落伍者 地獄の道 屍累々

秀才は収束進化  平均顔が美人 IQ 

グループの社会感性  お互いを補う 推し量る

 

森田治療法

 

森田療法は内観療法と共に日本で開発された精神療法です。一番の特徴は「治そうとすると治らない神経症」に対する、受け入れ療法です。

 

一人で行える精神療法です。

 森田療法には「心理療法士」は居りません。一人で治す精神療法と言われています。そうは言っても最初から一人ではできませんから、何らかの方法でやり方を習得しなくてはなりません。症状の酷い人は入院して森田療法を指導して貰うことはできます最も一般的なお勧めは精神科医に掛る事だと思います。森田療法を実施する医師に指導して貰いながら実践すると良いと思います。医師の指導の元で確かな森田療法を行う事が早い治癒に至る事になると思います。

対応症状 下記のような神経症に対してとても有効とされています。

(1)対人障害

(2)パニック障害

(3)強迫神経症。

(4)心気性神経症

神経症の大半は、従来の「コントロールモデル(普通に治そうとする方法)の治療法では「非常に治り難い」ので、認知行動療法でも「受容」して治そうとする新しい方法が開発されています。

 

(5)適応障害

社会に出て様々なストレスにさらされて、多様な体と心の不調に悩む症状を「適応障害」として表現しています。

 

森田療法は現在の境遇や過去を問いません。

森田療法はあなたの考え方や生い立ちを分析的に解説して是正するやり方では有りません。

今のあなたのままで森田療法を始める事ができます。

又、当初は森田療法に疑問を持ったままでも結構です。

問題点

1.「受け入れて治す」事はどういう事なのか。それが難しい理由、又その時の治った状態とはどうなるのか?これらについて、はじめての人に理解して貰えるような具体的な説明が上手くできていない。

2、難しい言葉を使用しているケースが結構多く、分かり難い。又、「あるがまま」のように言葉の意味はやさしいのに、どのように理解すればよいのか難しいと言うような言い回しも多くあります。これらは多分、悩んでいる人にどのように役立てて貰えるのかの分かりやすい記述が不足しているためとも考えています。

3.森田療法は良く体得するのものです。と言われます。しかし、理論からこの体得の間が空白でただ「症状を持ちながら目の前の事をしなさい」と強調はしますが、(これも一つの方法では有ると思いますが)その他の心理学的な知見に基づく方法等により、体得への道程を具体的に示すことができないでいます。

4.森田療法は人間の再教育です。と言う場合もままあちこちの記述で見られます。これに良く似た表現は時々出てきます。これは間違いではないのですが、症状があることを人間として傷があるような意味合いにも受け取れ、純粋な精神療法とは異なる印象を与えるような気がします。

5.療法が上手くやれているかどうか、図る目安がないので、上手く治らないような場合にどのように軌道修正すれば良いのか、分かり難い。

 

 

 

 

森田療法

1919年(大正8年)に森田正馬により創始された神経質に対する精神療法。神経質は神経衰弱、神経症、不安障害と重なる部分が大きい。また近年はうつ病などの疾患に対して適用されることもある。

なお森田正馬は薬を使わなかったが、現代では薬を併用することが多い。さらに元来入院が基本だったが、最近では通院が中心になりつつある。そのため重度や長期の人は入院、軽度で短期の人は通院が基本になっている。

またそれ以外に自助グループ「生活の発見会」や会員制掲示板「体験フォーラム」などの利用方法もある。なお日本国内だけでなく、海外でも中国を中心に活動が展開されている。

 

森田学説 

森田正馬は、病(神経質)=素質(ヒポコンドリー性基調)×機会×病因(精神交互作用)と考えた。その後の慈恵医大の治療者は、森田神経質の発症機制=素質(神経質性格)×病因(精神交互作用)×病因(思想の矛盾)と表現している。

ヒポコンドリー性基調:いたずらに病苦を気にする精神的基調のこと。

神経質性格:弱力性(内向性・心配性・過敏症・心気症・受動的 )と強力性(完全欲・優越欲求・自尊欲求・健康欲求・支配欲求)を合わせ持つ性格。

精神交互作用:ある「感覚」に対する「注意」が強くなるとその「感覚」が強くなり、「感覚」が強くなるとさらにまた「注意」が強くなること。注意と感覚の悪循環。

思想の矛盾:理想の自分と現実の自分のギャップ。かくあるべしと思う「考え」とそうではない「事実」がある場合に考えを事実よりも優先すること。

生の欲望:向上・発展しようとする欲望。

 

あるがまま

森田療法では「あるがまま」という言葉が使われることが多い。

森田正馬はその著書で『治療の主眼については、言語では、いろいろと言い現わし方もあるけれども、詮じつめれば「あるがままでよい、あるがままよりほかに仕方がない、あるがままでなければならない」とかいうことになる。』と述べている。また同じ著書では『ことさらに、そのままになろうとか、心頭滅却しようとかすれば、それはすでにそのままでもなく、心頭滅却でもない。』『当然とも、不当然とも、また思い捨てるとも、捨てぬとも、何とも思わないからである。そのままである。あるがままである。』とも述べている。

さらに晩年は、『理屈をいってもわからないから、ただ働きさえすればよい』『暑さでも対人恐怖でも、皆受け入れるとか任せるとかあるがままとかいったら、その一言で苦しくなる。』『強迫観念の本を読んで、「あるがまま」とか、「なりきる」とかいう事を、なるほどと理解し承認すればよいけれども、一度自分が「あるがまま」になろうとしては、それは「求めんとすれば得られず」で、既に「あるがまま」ではない。』などともいっている。

なお森田療法で使われる「あるがまま」という言葉は「治療過程」と「治療目標」の2つの意味で用いられ、一般的な意味とは少し異なり「症状受容」と「生の欲望の発揮」の2つの側面があると考えられている。また北西憲二は「あるがまま」という言葉がさまざまに解釈され、理解の混乱を招いてきたことを指摘している。さらに鈴木知準のように、「あるがまま」という言葉は使わない方が良いと考えている人もいた。また立松一徳のように、とらわれの強い患者に「あるがまま」という言葉を使うのは禁忌で、『不安をあるがままには受けいれられない方が健全』と考える人もいる。

 

治療方法

入院

第一期 - 絶対臥褥(がじょく)期:患者を個室に隔離し、食事・洗面・トイレ以外の活動をさせずに布団で寝ているようにする。

第二期 - 軽作業期:外界に触れさせ軽作業をさせたりする。なおこの時期から主治医との「個人面談」と「日記指導」も行う。

第三期 - 作業期:睡眠時間以外はほとんど何かの活動をしているという生活にする。なお現代では適時休憩をとるように指導するところもある。

第四期 - 社会生活準備期:日常生活に戻れるよう社会生活の準備に当てられる。

  上記の課程を40日〜3ヶ月程度行う。

 

通院

「個人面談」が中心だが「日記指導」を併用することもある。なお入院までの準備期間や退院後のアフターケアとして行われることもある。また並行して「生活の発見会」や「体験フォーラム」を利用することもある。

 

その他

生活の発見会 - 森田療法を相互に学習する自助グループ。

体験フォーラム - (財)メンタルヘルス岡本記念財団のホームページにあり、不安障害などに悩む人達のコミュニケーションの場。

 

全治と悟り

森田正馬は神経質が「全治」した状態に対して「悟り」という言葉を用いており、その体験者として釈迦や白隠の名前を挙げている。

また鈴木知準は神経質の「全治」と禅の「悟り」は同じ心理状態と考えており、宇佐玄雄は近い状態と考えていた。ただし森田正馬自身は神経質の「全治」と禅の「悟り」は全く違うと述べている。さらに宇佐晋一のように、神経質の「全治」は不安がありながらも働いている姿で瞬間、瞬間にしかなく、あるがままを「悟り」と考える人もいる。

なお北西憲二のように、神経質の「全治」と「悟り」は無関係と考える人もいる。また大原健士郎のように、神経質の「全治」と仏教の「悟り」は似て非なるものであり、治療者は森田療法を体験すると「悟り」を得られるなどという、おごった気持ちになるべきでないと考える人もいた。

 

治療結果

「全治」に到るまでの期間は数十日から数年と個人差がある。なお治療結果で「全治」や「軽快」の率がかなり高いが、「全治」や「軽快」の定義がさまざまであるため注意が必要。また「治療結果がどのような方法で得られたものであるか」にも注意が必要。なお森田正馬は薬を使わなかったが、現代では薬を併用することが多い。しかし治療結果が「森田療法単独」のものか「森田療法+薬物療法」のものかを明記していないものがあるので注意が必要。

くさみ

森田療法で治った人の中には、専門家ではないのに自ら指導的立場に立ったり、禅や森田正馬の言葉をふんだんに引用したり、治ったことを自慢する者の存在が指摘されている。このような「くさみ」のある治癒者は、森田療法特有の現象ではないかと考えられている。

また岡本重慶は「症状へのとらわれ」が「森田療法へのとらわれ」に変化することがあると指摘している。一つ目のタイプは「狭義の森田療法へのとらわれ」であり、何十年森田療法をやっても駄目であるのに、いつまでも森田療法をやり続けることなどである。また二つ目のタイプは「広義の森田療法へのとらわれ」であり、客観的に治ってないのに自分は全治したと主観的な錯誤にとらわれることである。このような人は症状へのとらわれを放棄するだけでなく自己内省も放棄して、人間的成長がなく自分は全治したという勝ち誇ったような驕りにとらわれている擬似的な治癒像で、森田療法で治癒した人によくある特徴(くさみ)として、かなり古くから指摘されていた。

 

その他

森田正馬は自身の療法を「神経質療法」「神経質の特殊療法」「自覚療法」「自然療法」「体験療法」「体得療法」「訓練療法」「鍛錬療法」などと呼んでいた。また森田正馬は「神経質」を「病」「病的気質や変質者(現在のパーソナリティ障害)」「病ではない」などと表現していた。さらに森田正馬は「治療」と言わず「修養」「教育」「訓練」「しつけ」などの言葉をよく使っていた。

なお森田正馬は患者に対して、医者には「治らない」とは言い難いから、「大分良くなった」と言えばいいと述べており、医者に「少しも良くならない」と言う患者は、医者に愛想をつかされると述べている。また森田正馬の側近患者であった井上氏や山野井氏は、森田正馬の前では「治らない」と言い難かったと述べており、山野井氏は「治らない」と森田正馬に言って、よく叱られたと述べている。

なお岩田真理は森田正馬が使う言葉の多義性や曖昧さを指摘しており、例として「ものそのものになる」「恐怖突入」「あるがまま」「自然服従」という言葉が同じ意味で使われている場合があると述べている。また「なすべきをなす」ことがかえって悩みを深くする可能性を指摘しており、この言葉は恐怖で動けない人がそのまま実生活に取り組むための言葉であり、教条的でどんな状況でもやるべきことをやらなければならない、という押しつけの意味ではないと述べている。

なお立松一徳は「目的本位に」「なすべきことをなせ」「恐怖突入」という言葉を治療中に使うことは禁忌で、これらの言葉が患者の治療抵抗を強化したり副作用の原因になる可能性を指摘している。また以前日本森田療法学会には、神経症を克服した体験を持つ者しか治療を理解できない、などのやや狂信的な考えを持つ者によって議論が困難になる場合あり、このような学会内の神経症的態度を克服できず自閉的な体質があったと指摘している。しかし最近はさまざまな分野の若い専門家の参加により、学会の雰囲気はかなり変化していると述べている。

また森田療法では患者が治らなかった時、原因が患者側にあると考える場合があり、田代信維のように森田療法で治らなかった場合は、明らかに患者の理解と実行の不完全さが原因と考える専門家もいる。なお治療効果を得るには患者自身の「治したい」という意思が重要であり、このような心構えがないと治療の過程で脱落しやすい。他の療法と比べると厳しく感じられたり、「生き方」や「人生観」に関わってくる治療法であるため、一部の患者には敬遠される場合もある。

 

8識の上の9識と10

 

1. 環境と人間生命の関係を洞察した仏教の「九識論」

 

◆「外的な運命」と「内的な運命」

 

 ドイツの文豪ヘルマン・ヘッセは小説『ゲルトルート』で運命についてこう記している。「避けることのできないものをはっきりした自覚をもって甘受し、幸福もわざわいも十分に味わいつくし、外的な運命とともに、より真実な、偶然のものではない内的な運命をかちとることこそ人生における重要事であるとすれば、わたしの人生は貧しいものでもなく、悪いものでもなかった。外的な運命は、すべての人びとと同様にわたしの上をさけがたく、神々によって定められたままに過ぎ去っていったのだが、内的な運命は、わたし自身がつくりあげたものである。その甘さや苦さは、当然わたしのものであり、また、自分の内的な運命にたいする責任は、わたしひとりで引きうけるつもりである」(彌生書房刊『人生の知恵I ヘッセの言葉』)

 

 私たちは生きていくなかで、様々な出来事に巡り合い、悲喜こもごもの体験を重ねている。「外的な運命」とは、自身に訪れる種々の出来事の“積み重ね”である。 それに対して「内的な運命」とは、その出来事を自身の問題として、“意義づけ”“価値づけ”した、いわば“構成物”である。

 

 大切にしていたものを失ったという事件は、それ自体では、「悲しみ」の体験であろう。しかし、そのことによって、より大切なものがあることに気づけば、自身の人生の上で、貴重な成長のチャンスとして位置付けられ、新たな価値を与えられるだろう。「内的な運命」とは、「外的な運命」として起こってきた出来事に価値を付与する創造的な営みの成果である。

 

 それはヘッセがいう「神々によって定められたままに過ぎ去っていった」「外的な運命」に対して、自分の努力によって意味付けて「内的な運命」として創造し直すことである。

 それはすなわち、勝手気ままな“運命”に対して“人間”が“勝利”することである。また、一人一人の人間が自らの人生を自分の手に取り戻し、自らの人生という舞台で主役になることである。

◆自己責任の原理―「自業自得」

 

 客観的な出来事の集積と主体的な体験の構成は分かちがたく密接に結びついているが、そこには大きな隔(へだ)たりがある。 人が「私の人生は……であった」と振り返るときの「人生」とは、この二つの運命のうち、「内的な運命」であろう。

 

 私たちが自身の人生を「外的な運命」に翻弄(ほんろう)されるままに任せるか否かは、どのような「内的な運命」を主体的に築いていくかに関(かか)わっている。  それ故、ヘッセがいうように「自分の内的な運命にたいする責任は、わたしひとりで引きうけるつもり」でいなければならない。

 

 これは、まさに仏法で説く「自業自得(じごうじとく)」の原理である。  〈世間では自業自得は、“悪い行いが巡り巡って本人が苦しむ事態を招く”という意味でのみ使われる。しかし、仏法が元来示していた自業自得の原理は、悪行にとどまらず、すべての行いの結果を自身が必ず受けるという、いわば「自己責任」を明確にしたものである〉

 

 また「業(ごう)」という言葉にしばしばもつ決定論的なイメージは誤った理解に基づくものである。

 

 元来、「業」とは、「行い」「振る舞い」という意味である。  自らの善悪の振る舞いが自身の運命を決定づけるということは、とりもなおさず、自身の運命に対して自らが決定権をもっているということにほかならない。

 

 「業」の思想は、人間が出あう「外的な運命」に対する主体的な関わりを示すものなのである。 

◆内なる生から問題の解決を―「内道」

 

 仏法は、万人の苦悩を解決し、ゆるぎない幸福の構築を目指すための教えである。 自身の人生を幸福なものにするためには、外から訪れた出来事にどのように関わっているのかを知らなければならない。そして、その出来事をどのようにとらえ、位置付けているかを知る必要があるだろう。

 

 その上でこそ、問題を解決する方向性が見えるものである。 もちろん、外から襲いくる不幸な出来事をいかにして減らすかについて、その原因を究明し、その解決に取り組むことも、もちろん大切である。

 

 仏教でも外なる環境の影響を受けながら主体者の人間が形成されると考える。人間と環境は相互に影響しフィードバックするシステムを形作っているのである。それ故、外なる環境の改善も自身の向上に不可欠である。  その上でなお、自身の責任と自覚で解決できることを知り、解決法を身につけておくことを、より大事と考えるのである。

 外側の原因は一つ断ち切ってもまた別のものには別の原因があり、対処法も様々なものが必要である。

 

 また複雑にからみあいながら広がっている環境世界は、常に移り変わり次々と新たな事態が私たちを襲う。しかも、構成要素に分解して対処する分析的手法では、複雑な全体としては問題が解決しないことが多々ある。しかも複雑な全体をそのまま扱うほど種々の知識・技術が発達していない。したがって私たちの対応は、常に後手後手になってしまう。

 

 この方向では、最大の努力を払っていても、また最善の結果でも“いたちごっこ”でしかありえない。もちろん、その努力をし続けることは、人間と社会の向上の上で大切であることは決して否定するものではないが。

 

 それに対して、「内なる運命」について深く知っていれば、何が起ころうともそれを受け止め、それを価値あるものへと高めていくことができるようになる。 何が起ころうともゆるぎない幸福境涯を築く道は、むしろ「内なる運命」の探究にあろう。

 

 したがって、仏法が、人間の内なる生(生命・生活)を探究する道、すなわち「内道」を選び、「内なる運命」「業」の問題に取り組んだのは、卓見であろう。

 

 環境に左右されず本質的に苦悩から解放されて自由自在に生きるには、自身を「強く、賢く」すること、言い換えれば価値ある生活を行うことができる生の活力という意味での生活力、生命力が大切だ――ということになる。

 

 九識論は、環境と人間生命の関わりについて深く考察した仏教の理論である。  どのように外界の環境と関わるのか、また環境と関わりながらどのように人生を築いていくのかを考察し、そして苦悩の原因を探り、幸福への道を求めているのである。  

2. 「九識論」は人間の「心」を5つのレベルに分類

 

 生命の真実を明らかにし、人間が抱える苦悩の原因を見究め、苦悩を根本的に解決していくのが、仏の願いであり、仏教の目的である。九識論では、人間の「心」のはたらきを大きく(1)五識(2)第六識(3)第七識(4)第八識(5)第九識という五つのレベルに分けて探究している。ここでは、それぞれの関連と現代的意味を中心に順にみていきたい。

 

◆外界の感覚―「五識」

 

 まず、五識について見ていこう。  眼・耳・鼻・舌・身(皮膚)という五官(五根〈こん〉)が、それぞれ色(しき=色・形)・声(音声)などの対象(五境〈きょう〉)を感受して、それぞれに対応した眼識・耳識などの五識を生じる。

 

 すなわち、外界の種々の刺激に応じて起こる「感覚」が、五識である。これは、刺激に応じるという、極めて受動的なはたらきである。

 その一方、五官に障害があれば、外なる世界を受容する心のはたらきに制限が起こる。とはいえ、一つの心の窓が少しぐらい曇っていようとも、他の窓のはたらきや六識以降に広がる心のもつはたらきが確かならば、人格・人間性の発達に大きな問題はない。

 

 ところが、ややもすれば、より深層の第六識・第七識・第八識の影響で、五識にひずみが生まれ、心がとらえる世界をゆがめてしまうのである。外を眺める窓が部屋のごみやほこりで汚れ曇り、それを通して見た世界が汚れているようなものである。この点については、後に詳しく見ていきたい。

◆リアリティーの認識―「第六識・意識」

 

 第六識のはたらきは、「意識」と呼ばれる。西洋の心理学の「意識」とは重なる面と異なる面がある。

 

 第六識には、大きく分けて、(1)五識の影響をより内面でとらえ返すはたらきと、(2)五識と直接には関係のない自立的なはたらき(例えば、「夢を見る」「想像する」などのはたらき)がある。

 

仮想も含むリアリティー

 

 第六識「意識」では、認識する対象は、「法」と呼ばれる。「法」には、さまざまな意味があるが、ここでの「法」は「諸法実相」の「法」と同じく、“存在”“現象”という意味である。  ただし、存在・現象といっても、客観的・外在的なものではない。主体的・内在的なもので、人間の心が「リアリティー(生々しい実感)」としてとらえた「リアルな(ありありとした)もの」である。

 

 この「内的なリアリティー」には、大きく分けて、外界に五官の対象となる客観的実体があるものと、ないものがある。ないものには、現代のハイテク(高度科学技術)を駆使した「ヴァーチャル・リアリティー(仮想現実)」から、古代からある「夢」や「空想」まで入るだろう。

 

 いずれのリアリティーも認識されれば区別なく同じように心に影響を与え、大なり小なり生き方をも変えていく。この内的リアリティーを「法」と呼び、第六識の対象とする。  

 

リアリティーにも個人差

 

 この内的リアリティーには「怒り」「喜び」「愛」「平等」などの抽象的な観念も含まれる。ただし、第六識の対象は、当人が直接・間接に体験した“あの時のああいう怒り”や“この時のこういう喜び”という、ありありとした具体的なものに基づく観念である。  抽象的といっても、普遍的・中立的なものというよりは、むしろ、厳密には当人が自らの体験から抽出してきた個人的・相対的なものである。無論、抽象化する際に一定の普遍性があるのだが、その抽出する際に、個人的要因をすべて免れることはできない。

 

 九識論は、この個人的要因に注目し、さらに深いレベルを探るのである。  

 

実践のための内的な因果論

 

 このようにみてくると、仏法は、客観的な存在の実証にこだわらず、人間の生命・生活にどのような効果を生み出すかという実用性・実効性に重きを置いたプラグマティク(実用主義的)な面をもつことが分かる。どのような価値を生み出すかに関心が高い「価値論」の面があるのである。

 

 この側面は、今回、冒頭で述べたように、仏法が“人間の現実の苦悩の解決を目指す”「実践哲学」であることから来る必然なのである。 それ故、第六識における想像・推理も、純粋に客観的な真理に基づく科学的実証主義の論証とは異なる。

 

 それは、いままで見たように、九識論をはじめ仏教思想は「内道」であり、客観的なできごとの集積である「外的な運命」ではなく、一人一人が主体的にとらえ価値づけ創造した「内的な運命」に関するものであるからである。

 

 「心地観経」の

 

「過去の因を知らんと欲せば其(そ)の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」 (御書231ページ)の文は、自身の運命を「主体的」に探究しようとして、その因果の考察の枠を今世に限らず、三世に広げるものである。

 

 日蓮大聖人が 「凡夫なれば過去をしらず、現在は見へて法華経の行者なり又未来は決定として当詣(とうけい)道場なるべし、過去をも是を以て推するに虚空会(こくうえ)にもやありつらん、三世各別あるべからず」 (同1360ページ)

 

と仰せのように、普通の人間には実証的に三世を覚知することなどない。しかし、三世=永遠という枠組みで自身の「運命」を考察することが、目先のできごと=「外的な運命」に翻弄されることなく、人間が自身の運命を自分の手に取り戻し、「内的な運命」を創造し、自身がとらえ「再創造した世界」で、自身の「生きる意味」――「生きがい」「使命」といってもいいだろう――を獲得するのに重要なのである。

 

 仏法では、「宿業の認識」も「使命感」も、外在的・客観的な事実というよりも、むしろ内在的・主体的な「生命の次元での真実」なのである。

◆自我へのこだわり―「第七識・末那(まな)識」

 

 第六識までが自身の外側の世界を認識しようとするのに対して、自身の内面を深く見つめようとするのが、第七識の「末那(まな)識」である。 末那識は「我(が)」(アートマン)を特徴とし、西洋心理学でいう「自我」(エゴ)のはたらきと似た面がある。

 

 「我」とは“不変の実体としての自分”である。私たちは「我」とその自分の所有である「我有(がう)」の拡大に、執着するのである。しかし、現実には、常にさまざまな人やものごとと出あい、それとかかわり合う中で、身も心も変化し続ける。このように、自身の実態はうつろいゆくものであり、「我」はない(無我)。

 

 ところが、人間という存在は、ほとんどまず、「無我」に無知(我癡〈がち〉)で、「我」にこだわる見識(我見)をもち、虚妄(こもう)な「我」をたのんで、正しい法を求めない慢心(我慢)すら起こし、「我」に強い執着心(我愛)をもつのである。  

 

小さな自分の世界を作る

 

 末那識はまた自他を分別し選びとる力(慧〈え〉)を特徴とする。自他の間に境界線を引き、自分の世界=「境界(きょうがい)」を作り、自分を守り、自分を拡大しようとする。境界とは、意識的にせよ無意識的にせよ、自身の手で築いた、「自分らしさ」に満ちた内的な世界である。

 

 このように末那識は強烈な自己保存の欲望であり、それが苦悩の源であるが、その欲望自体を消し去ってしまうと自身を消し去ってしまうことになる。

 

 かといって、この末那識に翻弄されている限り、小さな自身へのこだわりから、本当の「自分らしい自分」を見失い、本来の自分がもつ豊かな可能性を知らない。かえって「自分らしさ」が持つ広がりを押しつぶしたり、もっと普遍的な「人間らしさ」を忘れてしまうことさえある。

 

 十界論でいえば、自らが作り出した「小さな自分」に閉じ込められ苦しみ怒っているのが、地獄の境界である。目先の欲望にとらわれているのが餓鬼(がき)界である。自身のために弱い他者を犠牲にするのが畜生界である。自身におごり人を見下し、虚栄で自身を飾るのが修羅(しゅら)界である。

 

 “本当の自身を見失う”ということ、“自分と違う他人だから大切にしない”というのは、仏法では、「人間らしさ」を失った人間以下の存在と見る。  

 

慈悲の力が乗り越えるカギ

 

 この小さな自分を乗り越えるには、「他人のかけがえのない尊さ」「他人の種々の苦悩」を“我がこと”としてとらえる力、「ありありと想像する力」「心豊かに共感する力」が必要なのである。

 

 要するに「慈悲」の力が乗り越えるカギである。このことを知り、そして、そのカギが万人の生命に元来、具わっており、いつでもどこでも開き顕すことができる――こう、仏法は教える。ここには、人間への深い信頼がある。

◆経験の貯蔵庫―「第八識・阿頼耶識」

 

 前回、第七識である「末那(まな)識」が「我(が)」への執着を持っていることを見た。この「我」は第八識の阿頼耶(あらや)識とされる。

 

 「阿頼耶」とは、サンスクリット(梵語)で「蔵」という意味である。行動、発言、思考・感情などの種々の行いはサンスクリットで「カルマ」と呼ばれ、「業(ごう)」と漢訳される。この「業」の情報を集積するのが「阿頼耶識」である。 現代風にいえば、種々の経験のトラウマ(痕跡〈こんせき〉)が心の奥底に刻まれている、ということになるだろう。

 

 強烈な体験をした人には、精神的トラウマが残り、人格形成や後の人生の幸不幸が左右されるという。  

 

行いの報いを生み出す側面

 

 仏法の阿頼耶識に蓄えられる業の痕跡は、心身の振る舞いのすべてにわたり、決してなくならず、それぞれに応じた縁によって発現し果報をもたらす。

 

 たとえば、太ったり、やせたりしている体形は、その人の生活習慣や環境の影響を反映しているものである。精神面でも、それまでの生き方、経験、学んだことなどを反映して、その人の現在のものの見方、考え方が形作られている。

 

 「阿頼耶識」とは、このような“行いの集積の結果としての自分自身”という側面と“その集積が熟成して果報をもたらす原因としての自分自身”という側面がある。  

 

はかない自身への執着

 

 その自分自身は、時々刻々、積み重ねられる種々の精神・肉体の行為によって、常に変化している。さらに、その果報が現れてきて、変化が一層、大きくなっている。「暴流(ぼる)」にたとえられるように、固定的であるどころか常に大激動しているのである。  

 

ところが、第七識・末那識は、この「阿頼耶識」を自身の揺るぎない基盤のごとくとらえて執着し、むしろ、それがはかなくうつろいゆくことに苦悩する。

 

 なお、今の自分を毛嫌いするのも、自分への執着の一変形である。そこには、自身が作り上げた理想の自分への執着があり、理想へと向かう自分への執着がある。 

 

変化するからこそ自由

 

 仏法では、このように常に生成消滅していく自身に対する正しい対処法を示し、苦悩を解決し、より豊かな人生を構築するよう促すのである。

 

 すなわち、自身は行いの集積なのだから、今の自分はどうであれ、これからの行いで変革し向上していける自由があるととらえ、失われていく価値をはかなく追い求めたり、さらには今の自分に安住したりすることなく、“新たな価値創造”へと向かうことが道理にかなった生き方である――こう教える。

 

 人生は一編のドラマのようなものである。

 

 途中に種々の過ちや苦悩があっても、それを反省し克服し、むしろバネにして、最後には人々にも幸福をもたらすようになれば、ハッピーエンドの物語である。また逆に、最初は正しい道を歩み順調で人々にも慕われていても、途中でつまずいて変節してしまえば、自身も不幸である。のみならず、慕っていた人々をも迷わせ、不幸へと向かわせかねない。

 

 「過去の業」に縛られることなく、常に「今から」「これから」と前向きな姿勢で、「過去の業」をも生かして豊かな人生を築くことが求められている。

◆根源の生命エネルギー―「第九識・阿摩羅(あまら)識」

 

 とはいえ、第八識・阿頼耶識に積み重なった深く厚い業を打ち破り、自由自在に自身の人生を築いていくことは、大変な労苦である。

 

 生命を三世永遠の枠組みの中で自己責任を徹底して考えるなら、無限の過去から蓄積された悪業に匹敵する善業を同じく長遠な時間をかけて行ってはじめて、自身の境界を転換できることになる。しかも、その間、この悪縁多い世の中で、新たな悪業を積まないようにしなければならない。実に想像を絶する大変さである。

 

 ただし、これは、第八識までを前提として組み立てた因果の道理である。 では、それを乗り越えるカギは何か――それが第九識・阿摩羅(あまら)識である。 阿摩羅とはサンスクリットで「汚れのない」という意味で、阿摩羅識は「根本清浄識」と漢訳される。

 

 生命の最も奥底・中核には、この第九識があり、この根源の清浄な生命のはたらきを開き顕すことによって、生命を根底から変革できるとする。

 

 「内道」である仏法では、「外なる神」などではなく、自身の生命の「内なるはたらき」が、「内的な運命」を切り開く原動力であると説くのである。

 

 さらには、自身を幸福にする根源の力を得るために、無数の悪業を一つ一つ消し去りながら無数の善業を一つ一つ自身の内に積み重ねることも必要ないのである。

 

 第九識は、生命に本源的に具わる「生きる力」であり「よく生きる力」である。「自他を生かし、価値創造する“大生命力”“大生活力”」「自他を幸福にする力」である。  「自他を幸福にする力」とは、慈悲と智慧を兼ね備えた仏のはたらきである。それ故、第九識は「仏識」ともいわれる。

 

 第九識は「九識法性(ほっしょう)」(御書826ページ)ともいわれる。法性とは“あらゆる存在・現象の本質”という意味である。九識こそが、生命そのものの本質である、と仏法はとらえるのである。

 

 ということは「生命の本質は仏のはたらき」なのである。生命が本来、仏(覚者)のはたらきを具えていると知るのが九識なので、「九識本覚」(同808ページ)という。  あらゆる生命は仏になる根本因を自らのうちに具え、それを開き顕すことによって、「自他共の幸福」という根源の願いを実現できるのである。 

3. 「自覚」があらゆる「識」を智慧に転換

 

 この自身の生命の本質を自覚し、生命本源の願いに気づいた時、第八識までの次元にも変革が起こる。それが「転識得智(てんじきとくち)」である。

 

 種々の業の蓄積によってものごとの本質を覆い隠していた第八識は“すべてのものの本質をありのままにみる”「大円鏡智」となり、万物は本質として仏であると知る。

 

 自他を区別し自我にとらわれた第七識は“あらゆるものが平等に尊厳で大切なものと見る”「平等性智」となり、他をも自分と同じ大切なものととらえ、小さな自我意識を打ち破る。

 

 種々のリアリティーを認識する第六識は“あらゆるものがそれぞれにもつかけがえのない個性を正しく見る”「妙観察智」となり、それまでもっていた誤った先入観を捨て去ることになる。  五官による感覚である五識は、“成すべき行いを成し遂げる”「成所作(じょうしょさ)智」となり、五官を駆使し、「成すべき行い」即ち「自他ともの幸福の実現」という「仏の行い」(仏事、如来事)を可能にするのである。

 

◆妙法に生ききった魂を鏡として

 

 生命の奥深く核心に迫る九識論は、第九識=仏界が生命の奥底・中核にあることが示されてこそ、その価値を発揮する。

 

 「生命の本質は仏との自覚」という成仏の根本因である「妙なる法」を明かした経典――それが法華経である。

 

 方便品では、あらゆる生命の本質が仏であり、生命に具わる仏界(仏知見)を開き、仏界を自覚し、仏界に基づいて生ききることこそ、苦悩の根本的な解決であると説いた。また寿量品には、「仏が常にあらゆる生命を仏道へと導き無上の幸福を得させたい」との永遠の仏の願いが示されている。

 

 日蓮大聖人は、寿量品の仏の願い、奥底の心が

「無作本有(むさほんぬ)の南無妙法蓮華経の一念」 (同758ページ)

であると述べ、“あらゆる生命に本来的に具わる南無妙法蓮華経の心”であることを明かされている。

 

 日蓮大聖人は、「自他ともの幸福の実現」のために、この妙法を文字通り命を賭(と)して弘(ひろ)められた。とともに

 

「日蓮がたましひ(魂)をすみ(墨)にそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意(みこころ)は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」 (同1124ページ)

 

と記されているように、あらゆる困難を克服して自他ともの幸福を実現する妙法に生ききる自身の「内的な世界」をそのまま漫荼羅(まんだら)に図顕し、人々が信ずべき本尊として与えられたのである。

 

 この御本尊は、一人一人の内なる九識=仏性、仏界を映す鏡であり、開き顕すカギなのである。  

 

◆根源の願いが大生命力を

 

 この御本尊を信受し、生命に具わる根源の願いである「自他ともの幸福の実現」を「我が心」とする時――それは、自身を含めてあらゆる生命の本源の願いにかなった生き方を貫く時である。

 

 それ故、その時にこそ、目先のできごと=「外的な運命」に圧迫・翻弄されることなく、人間が自分の手で「内的な運命」を創造し、自身がとらえ「再創造した世界」で、自身の「生きる意味」(生きがい、使命)を獲得できるのである。

 

 “いろんなことがあった。けれども、いや、だからこそ、楽しかった”と一生を振り返り、“これが人生なのか、ならばもう一度”と、この苦楽ともに満ちた世界に遊楽するために次もまた生まれてこよう、と思えるのである。

 

 池田名誉会長は、仏法の真髄について、『法華経の智慧』でこう語っている。

 

 「仏教の真髄は、何かに頼るものではない。自分自身が、自分自身の決意と、自分自身の努力で、自分自身を開いていくのです。(中略)観念論ではない。何かにすがる、弱々しい生き方ではない。かといって、“我、尊し”と傲(おご)る利己主義でもない。自分の中の『大いなる生命力』を信ずることは、万人の中の『大いなる生命力』を信ずることと一体です。自分を大切にし、同じように、人を大切にしていくのが仏法です」 (第4巻44ページ)と。 

 

 

 

 

 

 

心眼をあける

智性とは心眼でこの世をとらえることである。

心眼とは自己意識の善悪や意識の白黒が二つを分割させてとらえるのではなく、一つの波としてとらえることを言う。海の潮汐のように一つの流れの中で相反する白黒をとらえ手法である。

 

神奈川県鎌倉の700年前に作られた堤防の築き方は、まず岸の12メートル先に丸石を積み重ね、波の力を分散させ、その後に岸に杭を打って防波堤を築いた。  樋口清之 梅干しと日本刀 

流れに従って流れを制す   曲線のセンス

 

 

ふすまは、心の中で障壁としての用をなす。   会田雄次 日本人の意識構造

 

 

因果関係の逆転  

結果が原因を作る  

時間は一方的ではない

両方から流れる

二つがつながっているということ

全てのものがつながっている