ひき裂かれた自己 R.D.Laing
The Divided Self An Existential Study of Sanity and Madness
精神医学の専門語は、自由、選択、責任を避けようと努めた結果に生まれた言葉であり、精神病者が達することのできないあり方を含んでいる侮蔑の語彙と言ってい良い。
分裂症の打ち砕かれた心に、光が差し込むことがある。
心を閉ざした正気の人の心や無傷な心には、この光が差し込まないこともある。
預言者エゼキエルはヤスパースによると分裂病者だ。
自分は「非現実の人間」だと告げると妄想者とみなされる。
彼は数年来にわたって実在の人間であるふりをしてきたが、もはやごまかし続けることができなくなった、と言っているのである。
自己を露呈したい欲望と自己を隠蔽したい欲望との間で葛藤してきた。
はじめて嘘が見抜かれなかった時に、私たちは救いようもない孤独であることを発見する。自意識の中は自分の足跡しかない。ところがこれを体験しない者もいる。
真正の秘密(プライバシー)こそ、真正の関係(リレーション)の基礎である。
だが、分裂病質者と呼ばれる人々は、他者に暴露されており、傷つきやすく、孤立していると感じている。嘘が他人から見抜かれてしまうと感じているのだ。
自分はガラスでできていて透明で壊れやすいので、自分に向けられた眼差しが自分を木っ端微塵に打ち砕き、自分をまっすぐに貫き通す、と感じる。
この傷つきやすさの中で自己隠蔽の数々を学んできた。時に彼は楽しい時に泣き、悲しい時に笑うことを学んだ。
「他者が見抜けるすべてが私ではない」ことを表現するために。
演じている自分を続けている時に、実は「非現実の人間だ」と告白してしまうのである。
日常行動は、象徴的な曖昧な存在で「神話的」人間を演じるので、自分の現実的な存在は無い。
彼が演技をやめ、神話的人間になりきって生きることは、現実の人間としてではない。身体を持たずに存在し、彼は何者でもない。Nobodyだ。
あるひとが、自分は死んだが生きていると言ったとする。彼にとっては実在的に文字通りに死んでいると言っているのだが、この真実を懸命に伝達しようとすればするほど狂気である、と評価される。なぜならば社会は死といえば生物的死が唯一の基準だからである。
分裂病者で一人の人間として神から愛されていると言い得た患者を見たことがない。彼らは神から遠ざけられて、彼自身が神か悪魔か地獄の存在である。常に疎外と孤独と絶望の中で暮らしている。彼の特殊性と差異を認識しなければ交流はできない。
生きていることが実感できないでいる生 実存的境地の確かさの欠如
悪の自覚があるかどうか あるものはアイデンティティがある キーツ
悪の自覚がない 人間の苦悩と宇宙的疎外感 カフカ
一個の人間たるものをすべて剥奪されてしまっている。両親、家庭、妻、子、社会的関与、食欲、力、美、愛、機知、勇気、忠節、名声、自尊心とも関係がない。
カフカの悪の観念は、健康と正当性を備えた自己という矛盾する観念なしに存在する。
確信の欠如のなかに生きるとはいかなることかを伝達するのが現代の作家やアーティストの特徴
サミュエル・ベケットの作品は、存在の絶望、恐怖、倦怠を緩和するはずの「健康と正当性」を備えた自己という概念の全く存在しない世界へ人を誘っていく。
世界の周縁にあるあやふやにしかカテゴライズされないものとして、非実在的な自分を感じている。このために彼のアイデンティティと自律性は、たえず疑問にさらされる。
身近な人間関係が安定していない。
時間的持続性の体験が欠如している。
一貫しておりまとまった存在だという、つよい感覚をもつことができない。
自分の素材やエレメントが真正のよき価値あるものとは思うことができない。
自己を身体から離別された部分として感じる。
自己の保持で精一杯
日常生活でさえ安定度の低いコンフォートゾーンを脅かす。致命的脅威になる。ここがはじめの一歩だ。
「彼自身の世界」の内に住んでいる人
彼が他人に対して「無関心」になったり「引きこもったり」しているのではなく反対に大きく影響を受けている。しかし彼の体験世界は他の人々ともはや共有しえないものになっている。
特徴は「呑みこみ」engulfment「内破」「石化」
「呑みこみ」engulfment
他人だけではなく自分との関わりさえも怖れる
恐れているのはアイデンティティを失うこと
Latin idem, the same (influenced by Late Latin essentitâs, being, and identidem, repeatedly), from id, it.
同一性 それ自身であること 中心? 司令官? 情報が集まり、発するところ?
何故か?
「君とは違って僕は自分の存在を保つために議論しているんだぞ」
自律性とアイデンティティを失いはしまいかと怖れに直面している。
絶望的方法で自分を救うことに汲々としている
理解される、把握される、了解される、愛される、見られることすら、危険が感じられる。
アイデンティティ維持のために使われる戦略は孤立である。他者に吸収される呑みこみか、孤立かの対立だ。
どちらかしかない。第三の道はない。
内破 implosion 内向爆発
自己のアイデンティティを破壊し抹消する恐怖
自分の内部の空虚さを見つめる時に、寂しさと日常性を感じている。 この空虚さが自分になってしまう症状。自分と内部の空虚さが同化して、いつの間にか自分が空虚さが一体化している。
空虚さは満たされることを熱望しながら、満たされることを怖れる。理由は自分が自分でありえるのは、真空であり、無であり、空虚であるからである。
現実といかなる接触も脅威の体験となる。理由は体験とは空虚の中に入ってくるものであり、それは空虚を破壊するからだ。
現実が迫害者である。一般者もこの感性を持ち、また常に近い状態のところにいる。ホンの数度の違いだけだ。
抵抗力のなくなってしまった無菌室に住む病人のように。
石化と離人化 Petrification and depersonalization
1 人が石に変えられること
2 人間的自律性を欠き主体性のないもの(石、死体、ロボット)に変えられる怖れ
3 他人を石化し、自律性と感情を無視して、一つのモノとみなすことで、その生命を抹殺する行為。
分裂病者は自分自身を離人化した存在として感じやすく、他者を離人化する傾向がある。他者によって離人化されることを恐れている。〈それ〉として扱われると彼の主体性が遠のいてしまう。いつも他者から普段にひとりの人間であることを確認してもらう必要がある。
他者を部分的に離人化するのは日常生活や大きな組織の一部として取り扱うことは、広く行われている。
しかしこのような非人間化を被らない自由な生活領域があるはずだと幻想を持とうする人がいる。彼らは存在論的に不安定であるのは、この離人化から解放された自由な生活領域においてこそ、もっとも危険な体験をしているからだ。
二つの意味で危険である。
一つ目は分裂病者にとっての危険とは、他者が自由な行為者として活動すれば、他者の活動の客体として自分の主体に影響を与えることにより、自己の主体が消え去ってしまう可能性にさらされるからである。
他者の世界の内の一事物でしかなく自分自身の存在を失う危険性に脅かされる。
他者によって自己が活気づけられることもあるが、意気阻喪することもある。ある分裂病者は他者との関わりがいかなる時も自己の意気を不毛にするものだと予想してしまうのだ。だからいかなる他者も脅威となるのだ。
二つ目は、現実にはない離人化のない世界(ユートピア)があるという妄想をもつことで、これを基準としてもモノを考えるときに、この現実は不完全で欠けた世界になるので、不安定になってしまうのだ。
ありえない理想の世界を判断の基準にすることで、現実は不合理で不誠実に溢れる世界に感じ、受け入れがたいものだと判断してしまう。
生きている実感を持たない人々の策略 自分は体重が軽く、不全感を持ち、非実体として感じる。
二つの策略が彼の主体性を保護していた 呑み込まれない、離人化されな方法
1他者に対して表面的には従順にすること
2他者に対して内面的にはモノとして扱うこと
具体的な防御 私は大洋に浮かぶコルク栓にすぎない これほど安全なものはない 危険の機先を制する
他者を機械の一片としてみることで、他者が彼のことを付属品に変える危険を防いだ。
他人の行動を予測可能な条件付けられたロボットとして理解しようとしている。
入力すると言語的通信を発する自動翻訳機として他人を見る秘密の策略
こうすることによって自分が「人間」であるかの如き態度が取れた。耐えられないのは人間対人間の関係であった。
恐怖
予測不可能なもの 想定外なもの モノではないもの 入力と出力が決まっていないもの
自己をおびやかすもの
安心をおびやかすもの
恐怖の症状
黒いものが部屋の隅に現れてそれが大きくなって彼を呑み込もうとする。 黒いものとはペルソナ?
自分の体が燃える夢 体の殻は飛び散り、体の奥の火も消えてしまった。 その後に急性増悪をきたした。
体の殻は身体と別れた自己? 体の奥とはpersonalityから別れた自己?
家族が石になり触ると崩れる夢 その後に本人が石化するという精神分裂病になった 石化は防御の手段
共通点
先にそれ以上に悪くならない場所を確保する 死体、石、コルク栓 自分を呑み込む
攻撃性
自己の主体性が他者によって圧倒され侵害され凝結されるのを怖れ、逆に他者の主体性を抹殺しようとする。
他者を無価値にすることによって自己の自律性とアイデンティティを守ろうとする。
他者と自己の矛盾
他の人々が私に私の存在を与えると同時に、他者は私の存在を消し去るという矛盾の両立。
自己の自律性
他者が喜んでいても悲しんでいても、私は私である。
自分が誰からも分離した人間である。私は彼ではありえない。
自律性を感じない人 分裂症者
自分の存在が他者に拘束されている
他者が自分に拘束されている
つまり自分の存在そのものに依存する代わりに、他者に依存する 存在論的依存性
完全な孤立か愛着の二つに一つ ここでいう愛着とは他人の生命がその人の生存のために必要
分離か関わり(完全に他者に没入)かのどちらかに永遠に揺れ動く。無限に反復
孤立して空虚に感じる時は他者を適量(多すぎないように)だけ服用するために、短時間の略奪をしに社会生活の中へ出かけていく。
怖れ恥じているのは他者の存在
入っていった社会で見破られて罠にかけられる危険があると感じるようになり、絶望と屈辱に混乱してまた孤立に戻って閉じこもる。
日常生活では常に自意識をいたわってくれる他者を必要とする。もしくは他者をいたわり続けることを必要とする。
誰かと一緒の時はいいが、一人の時には不安を感じる。
「みんな自分たちのことで夢中になっています。道に倒れている人がいても誰ひとりそれにかまおうとはしません。」
自分が知っている人がいない時にアイデンティティの観念が彼女から遠ざかる。
彼女の存在を信じてくれるほかの誰かを必要とした。存在することとは他者から知覚されることであった。
無名の通行人や特別重要でない人や事物として見られると石化してしまう。
見られていない時は想像で親しい人を魔術的に出現させた。それができない時はパニックになった。
一人でいることの恐れに対する防衛として色々と妄想して不安になるのをふせいだ。
安定を求めるための努力である。
性交することで他人に愛されることを信じることができた。
自分をみせびらかせるが、自分の本体を暴露しようとはしなかった。ex-hibitしながら in-hibit(自己抑制)していた。いつもひとりぼっちで孤独であった。人から必要とされていることが重要であった。
独力で自分自身になることはできないため、真に自分自身になることはなかった。
分裂症的な引きこもり
人を愛することを怖れる、自分が相手に呑み込まれてしまうからである。
自分が憎み無縁であると思われた望まないパーソナリティを無理矢理に引き受けてしまった場合、自己のアイデンティティに分裂を生じさせてしまう場合がある。この呑みこみから逃れるための引きこもりである。
分裂症者の間違った対策
他者を演じることは自分自身になることを避けて不安を克服する方法であるが、それは不安(dis-ease)を持ったままでいることよりも悪い解決法である。
より真実の自己に近づくためには
自分が孤独でおびやかされ途方に暮れ失われた存在だと感じる時
そのためにはこれに慣れる練習が必要である。
責任を取らない人
どうあるべきかを告げないことによって、どんな人間になるべきか自分自身が決断を下さざるをえない状況になることが重要だ。
これが責任を自ら引き受ける機会である。
ヤスパース 患者の自由に呼びかけること。
あるグノーシス派の勘違い デカルト以前
霊魂(真の自己self)と身体を分離させるのが理想 原始キリスト教 ブルトマン1956年
罪の贖い(代償をはらう)とは霊魂と身体の融合の全面阻止
身体は暗き牢獄、生ける死、感覚授けられし屍、汝につきまとう墓なり。この墓は汝とともにさまよい、汝を愛することによりて汝を憎み、汝を憎むことによりて汝をねたむ不正の輩なり 169ページ
精神と体を分けることのメリット
戦争や社会不信から逃れる手っ取り早い方法
精神と体を分けることのデメリット
分裂症に発展する出発点
身体化されない自己self
意識過剰、
imago幼児期に父母の像を基に形成され、他者関係に影響を及ぼす無意識的人物原型.を仮定しようとする
自己selfと人格personalityは全く異なった二つのものであるという考えを当然として成長してきた。
Selfは自身のことで、personalityとは他者が彼にそうあって欲しいと望むものである。
内的selfと外的personalityとの分析により彼の存在は成り立っている
演じることの日常化 自分自身であるのではなく、自分自身さえも演じた。
自分自身を他者の手に引き渡さないのが理想 他者に対して迂遠で韜晦(誤魔化して分からないようにする)を行う
理想は、自分自身にできるだけ完全に率直で正直であること。
Selfは、本当の、真の、自身の、内的な、というように表現される。
Personalityの行動は「にせ」で無益に感じられる。 これによって無用感と自発性の欠如を増大させている。
外や偽に対して閉じこもる
現実感がなく、現実の外側にいて、本来的には生きていないという。
自己については極度に冷静で醒めている。ペルソナに対しては高度に批判的な観察をしている。
ペルソナを非人格化して取り扱う。あれは○○毒舌家だから、とか。
内部からペルソナの行動を覗きみて、ペルソナを他人であるかのように忌み嫌う。
外界の人や物に全く頼らずに、個人の内部で人や物との関係を創り出そうとする試みを重ねる。
身体化されないことによって超越的になり、捕らえられず、所有されず、アイデンティティと自由を保持することに専念する。
Selfの目的は客観を全く持たない純粋主観となること。 客観的存在はpersonalityの表現とみなす。
想像の中、鏡を前にしての遊び(他人の目線ではない)の場面においてしかない。
Personalityは、ニセ自己の体系
仮面、表ヅラ、ペルソナ、キャラと表現される。不完全な部分自己の集合体。
単一ではなく、数ある断片のアマルガムamalgam 結合物
解離され、部分的自立性を持っている
反省的意識性が極めて不完全である。ペルソナが不完全である一つの理由。
何故、反省できないのかというと自己が選択をしないので責任を取る必要もなく現実を生きている感覚が少なく、過去の出来事を思い浮かべないので比較することがないため。
Personalityが機械的で自律的であるので、分裂症者は恐怖に感じる
他人の目に映っているモノとして知覚してペルソナは作り上げられていく。聖人とか悪人とか、
ほかの誰かのマントをかぶると、それだけに有能に円滑にしっかりと行動できる。
Selfであることから由来する無力を体験する危険よりも、ペルソナに必然的に伴って湧いてくる無益感の方がまだしも好ましいいと考える。
必要不可欠となったロボットであるペルソナに全権委譲した人もいる。だがこのペルソナはしだいに死んでいく。
Personalityとはペルソナの寄り集まった体系。
自律性に対する対応
正常人の行為
多くの行為は潜在的で機械的 e.g.自転車の運転 性に合わなくても拒否しない それを認めて生きている
分裂症者の感じ方
機械的行動が独自に生きており、彼を殺しに来ると感じてしまう。これを攻撃して破壊しなければならないと感じてしまう。
正常化するために必要なことは、放っておいても大丈夫だという体験の積み重ね
脅威
演じている役に吸い込まれてしまい、ありのままになること。これは破綻と感じられた。
呑み込まれ、自己さえ呑み込みかねず、彼から大切な自己存在の統御と支配をも奪おうとしていた。
自分でも嫌で周囲からも笑われる役割を演じざるを得なくなるのかわからなかった。しかしこの役割を演じることが、彼の内にあり外に出てくるパーソナリティに呑み込まれることから逃れるための唯一の手段であった。
全能者
分裂症者は全能的であろうとする。閉鎖された、私的、個人の世界(自己)の内に小宇宙を発展させようとする。
他者が実際に必要とするような関係は持たないで、全能的であろうとする。
目的 利益 プログラムされたもの
真の自己の安全 危険から逃れて安全を得る
他者からの孤立と自由
自己満足
自分の統御
現実
全能者という不可能なやり方で自己の安全や自由を求めるため、永続的に絶望に至る
空虚
持続的に脳裏を去ることがない無益感を避けることができない。
理由は閉じこもった自己はペルソナの自律的活動への参与を拒否 他人格として現れる場合もある
閉じこもった自己は孤立し、外的体験により豊かにされることはなく、次第に貧困化し、真空だと感じてしまう。
全能感(どんなことでもなしうる感じ)と空虚感が隣り合って存在する。
ここSelfは豊かで、かなたpersonalityは平凡陳腐だと軽蔑するふりをして、生(現実)の外側にいることで優越感を感じている。そして次に生の内側に到達して生を獲得したいと切望する。
分裂病者の特徴 不安の性質
主体性をも人間が石化されて、一つの「それ」に変えられる不安。
なぜならば、自分が自己の存在について十分な確信がないから。一対の目から出る視線が分裂病者を石化して殺すしてしまうメドゥサの目である。先に他者を石に変えて自分の石化を前もって防ごうとする。
自己は潜伏と孤立においてのみ安全を感じる。他者が目の前にいても孤立することができる。
渾沌とした非実体ウイリアム・ブレイクへの自己解体の恐れに悩まされる。
空虚を感じている限り、他者の充実した生ける実在性は彼の手に負えない内破的な侵害であり、自己を圧倒し抹殺するように感じる。 彼は離人化された人間や自己の空想の幻影(imago)や事物や動物とだけ自己を關係づけることができる。
正常な環境での基本の諸要素
時間の持続、自己と非自己の区別、空想と現実の区別・・これらの上に人間の性格の中の柔軟性が存在する。
しかし、分裂病質の者の性格構造は、この基礎の諸要素の不安定さと代償的な硬直化がみられる。
ある目的のために大切な事をささげること。また、そのささげもの。 compensate sacrifice
.
防御の仕方
防衛の境界を収縮し中心の砦に引きこもる。そして自己以外の自分の全てを抹消しようとする。しかしこのように、自己がこんなふうに防衛されればされるほど、自己はますます破壊されてしまうのである。この自己は終局的には分裂病状態へと崩壊して解体していく。
強制収容所の囚人の一時的危険回避
恐るべき世界に閉じ込められ脱出不可能な場合、自己を身体から一時的に解離する方法を会得しようとする。
自己の中へ、身体の外への、精神的退避が唯一の脱出口
夢の一部、私には影響を与えない、私には起こっていない 疎隔感と実在感喪失 身体が勝手に行為している。
不安の一時回避の仕方
他人の眼差しに曝され、傷つきやすい者
1 他人をモノに変えて離人化する 利用し、操作できる。
2 離人化されたモノに対する自己の感情を客体視する
3 無関心を装う
事物の特徴 人間に対立するもの
事物がそれ自身の主体性を持たず、相互的志向性を持たないこと。
無関心
無関心は人やモノに対してそれらの意味を否定する。
相互作用と創造的関係
生命がない不毛の関係 準それ・それ モノどうし
相互的豊穣化 われ・なんじ 生命体どうし
内的自己
代償的利益によって生きる personalityに現実を任せることによって。
理想を抱く たとえば内的誠実を求める
他者とはごまかし、偽善 何かを隠す 他者に対しては一つも誠実ではない
しかし自分自身とは正直・誠実・率直 何事も秘密にされない
さらなる分裂
真の自己がまた分裂して、 真の自己とSM関係の自己を持つ
にせの自己
サルトル
想像界に属するSM自己と現実の自己の二つ
共存できない還元不可能な二つのタイプ どちらに譲るしかない
想像界を好むものは、現実の平凡よりもイマージュを好むといった明瞭なものだけではなく、想像界に属する感情や行為を、その創造的な性格のために選ぶということだ。単に現実界の貧困、失恋、失敗から逃避するのみではなく、現実界の形態やルールやパターンや法則からも現実界が私たちに要求する感情の生成発展の仕方、責任、リスクとベネフィットからも逃避することである。
分裂症の力を活かす生き方
自分とは何であるかを言うことができるものであっては決してならない。常に把握し難く、不可解で超越的なものであらねばならない。彼の行為が現にある通りのものであるならば、彼は無力な通行人に左右される存在になってしまう。行為はつねにニセ自己の産物である。
現実である客体的要素と関わらない限り、なんでも夢想し万能感にひたる自由がある。その想像力は幻影を作り出す能力に過ぎない。自己の二重性、真の自由の欠如、完全な無力という仮借ない観念が同時に存在する。
空想の中のイメージを現実の諸事物と結びつけることで成功している者もいる。
この力を利用する作家や芸術家たち。
この世を破壊したくなる背景
自己の空虚と無価値を感じ、この世の豊富と連帯感と温かさの妄想の両方を感じる時に、他者がもち自分に欠けているモノに対して絶望的なあこがれを持ち、凶暴な妬みから、この世のすべての良きものを破壊したいという欲望が湧く。そしてこれに対して侮蔑、屈辱、無関心という感情を呼び起こす。
選択した孤立性を喪失しても問題にならない時 自分を失う時
音楽に聞き入る
神と呼ばれる非自己に没入する
盗み
盗む側が支配権を持っている。
盗みたいという欲望は盗まれはしないかなという疑惑を生む
自己が盗まれたという分裂症に共通の訴え。 これを防ぐための防衛が生じてしまう。
自己の破壊性
分裂症の人がよく信じてしまうこと
空虚を埋めるためには存在するものを無に還元しなくてはならないと思う
自己の愛や他者の愛を憎しみと同じく破壊的なものだと見なす。
逃避の技巧
サルトル「存在と無」の自己欺瞞の章
自分がやっていることの中に、自分が存在していないふりを自己に対してする仕方を現象学的描写
ヒステリー
ヒステリー者の行動は本人に利得をもたらすが、その行動の意味を知らない。自分の行動や言ったことに対して気にしないでいる。
神経症者はただ他人がホッしていいるに過ぎないと自分に言い聞かせながら、同時にSelfの密かにホッしていることをし続けている。
それに対して分裂症者はpersonalityの行動はselfの実現や満足には役立たず、selfは飢え乾いたままである。
ヒステリー者は自己の存在の諸側面を忘却し、抑圧できることをただ喜ぶばかりであるが、分裂症者は自分の意識性をできるだけ強くかつ広くしようとするのが特徴的である。
いい子
他者の意図や期待と感じられるものに盲従する
困りものにならない
自分が持つ反対意見を主張もしなければ漏らしもしない。
他者から善と言われることを自分の側から積極的にしようとしたのではなく、他者の基準に対する消極的服従である。
Selfへの背信であり、selfの可能性の隠蔽でもある。
憎悪
Personalityは正常なことが多い、模範的な子供、理想的な夫、勤勉な労働者。しかしこの常同性の中に奇態が発展してくる。
自分の意図に従わず他人の意図に従うのはなぜか?
そこには憎悪が存在する。自分の自己を危険に陥れる者に対しての恐怖と憎しみである。
Selfはpersonalityが長年にわたって従属してきた本人に一転して迫害の非難を浴びせかける。
殺そうとした。精神を盗もうとした。暴君、暗殺者、拷問者、子供殺しだというかもしれない。
真似への憎悪もある 盲従の対象者の性格を身につける傾向があり、ついには真似まで達することがある。この真似が戯画(誇張、風刺、皮肉)に変わると憎悪となる。
この戯画が対象物への批評であり指摘であるので、分裂症者の行動が衒奇性や奇矯性を持つことがある。
Selfはpersonalityの特性を憎み恐れている。なぜならpersonalityのみせかけの力が呑み込みの脅威となるからである。
過保護の母、依存過度の娘。 母親を憎む。 母親似の自分の顔を憎む 鏡を見るときは憎んでいる母親に同化して、自分自身を見つめている。自分の顔を化粧で隠すのは自己の憎悪を隠蔽し、母への代理攻撃。
盲従を攻撃に変え、selfをパロディにして暴露したのは母親のグロテスクな誇張であり、これまでの服従に対しての嘲笑的な表現である。
他者に対する憎悪とは、自分の内部に作り上げられてきたその他者のイメージに対しての嫌悪や否定である。そのイメージを模倣し、服従し、それに従って騙されたと感じる場合が多い。この模倣は自己として存在しなくても良いための方便である。
Personalityは容易にその人に取り憑いた異質な存在と見なされる。自己から見て、敵の占領する地域となる。外部の敵意に満ちた破壊的なものによって統御され指図されていると感じる。
モノマネ
自分の行動が自分ではなく誰かの癖・仕草・言い回し・声の抑揚であることに突然と気がつく。普通のことである。
分裂病者は行動全体が他人の特性の寄木細工以外の何物ではないことが分かり苦しむ。他者のTPOとは違うのでこのモノマネは奇妙なものになってしまう。
意識の芽生え
自分の隠していた考えは、自らが暴露しないかぎり他者には接近の方法がない。こう確信することは子供にとって重要である。秘密を隠すことや嘘をつくことができない子供は自律性と自己のアイデンティティが十分に確立されていない。
自意識
隠す欲望を露出することはペニスやセックスの露出者と似ている。隠したいものを見世物とする。自意識が表現される。
実在性の確信を得たいという欲求が根本の問題。「生きているぞと確信できる時間が絶えてなかった。」
客体の自分を意識できれば、確信を得ることができると思ってしまう。「人に見られるというのが私の人生の目的なんです。」これにより自分が存在していること、また彼らが存在していることを認識する手段。
一番熱望するのは認知された瞬間であるが、その時は正体を現したことなので、狼狽し恐慌状態になる。
他者から見えるので潜在的に危険にされされていることにたいする意識。防御法は自分を見えなくすることである。
自分を確かめる他人の意識が時に、天秤の反対側に振れすぎて、悪魔の眼になる妄想になってしまう。
注目される不安の防衛法と自己を忘れる恐怖
時間的自己が途切れることへの恐怖 少しでも我を忘れてはいけないのです。時計とにらめっこしながらせっせと働いています。そうしなければ私は自分自身が何者かわからなくなるでしょう。
空間的自己 景色を眺めていたら、そこが空っぽになり私も消失したかのように、私はそれと入り混じるように感じました。いわば景色に溶け込むのです。その時に怖くなって、自分をこの世に呼び戻すために、何度も自分の名前(自己のアイデンティティ)を呼びました。
自然との一体感とは主体の消失であり、それを怖がる意識、喜ぶ心情 体の世界に入っていくのが怖い意識
目立つこと・特殊であること・注目されることの不安から防衛するための自己を没し去る試みである。
私見 素直に溶け込むのは気持ちがいいと体が言っているから。
神経症は存在を回避することによって、非存在を回避する様態である。
意識の二つの主要特徴
1石化能力 自己や他者を事物に変える 殺人光線
2透過する能力 電波探知機
他者が自己に対して意識を使う場合は他者の支配と統御の下にあると思い、恒久的な怖れと恨みがある。
極度の自己愛と露出症
自分を憎み、自己を他者に露呈するのを恐れているが、単なる上辺の飾りと思えるものを他者に見せつけ、派手な衣装を身にまとい、大きな声でしつこく話をする。彼は絶えず人の注意を自分に引きつけ同時に自我から人の注意をそらせる。こうした自己は彼しか知らない超越的実体になり、身体やpersonalityは自己の表現ではなくなる。自己は身体から解離され、「私は、他人が私の存在とみなす通りの存在に過ぎない」
鏡の中から消える遊び 二つの自己
繰り返すことによって、危険状況の不安を自分の支配下におこうとする試み。母親に会えない不安。
二つの自己 一つは鏡の外の現実的自己は母親と同一化される自己
自己と空想の自分を観ている人間と同一化すると、現実的自己は決定的に影響をうける。これは客体を観察する自己の性質が母親の視点と似ることを意味する。 観察する自己は客体を支配するので、時に破壊的観察者にとりつかれることがある。こんな場合はもう一つの自己が、現実的自己を観察することによって客観しようとして、他人の目からどう映るか意識するようになる。二つ目の自己は視線を他者に貸すのである。
すると新たな局面が始まる。
二つ目の自己は見ることによって意識は加害者的色彩を帯びるようになり、今度は一つ目の自己が二つ目の自己を外に実在する人物と感じるようになる。
息子は母親が見ることができないだけではなく、母親に見られていないと感じており、これらが危険状況を生じさせている。
存在することesse=知覚されることpercipiは他者だけではなく自己についても当てはまる。
遊びの変種
鏡を覗き込んだら映っていたのは「あいつ」だった。追跡者であり、陰謀の先導者である。彼はこの疎外された自己によって弾丸を打ち込まれるに決まっていた。
いないいないバー
子供がせがむ遊び
子供は自分が一時的に「見られていない存在」であることを体験するのが必要である。
子供は母親が室内から姿を消すと、自分の存在を消失することを怖れる。子供にとって知覚されることが存在することだからである。
子供たちは夜、灯りを求め、眠りにつくまで、あやしてくれるのを望むのは、誰かによって見られなくなると怖くなるからである。現象学的には眠りは、世界についての意識を喪失することであるのだ。自分の意識性が失われていく間、他人によって見られたり聞かれたりするのを望む。
灯りを点けたままにするのは、睡眠中も安心な存在(親、天使)が自分を見守ってくれている確信を得るためである。たぶん闇の中に誰も存在しないことが悪いものが存在するよりも恐ろしいのではないか?
分裂症者はいつも事故を意識することによって存在する自己を確かめる。そしてこの洞察力と明晰さによっていつも迫害されている。
ピーターのベストの選択
自己と他人の両方から自己を分離した。このために不安を軽減し、正常に見えるように一時的にはなった。
Disconnxcionで自己と他人との間の距離を拡げ、uncouplingで自己とpersonalityとの関係を切断した。
Personalityからselfを分離することを決意したのみならず、ありとあらゆるものを破壊することに熱中した。
自分の臭いが気になって止まらなくなった。
何故ならばこれは自分が存在を所有としていることを確信されるための回りくどい方法であったためである。
自意識は「生」と遮断したため、生きていることを感じるためには他人からの五感による自分の身体への接触を必要としたからだ。自分を確認するのに、他者からのコンタクトを必要としたのである。
異邦人として放浪する必然性
この特異な不安に適応させるもうひとつの方法を発見した。
彼のことを誰も何も知らない場合は、他者と交わりながらも自分自身でありえた。
すなわち他の地方へ行き「異邦人」となることを意味していた。転々と放浪している間は幸福さえ覚えた。自由でありのびのび出来た。匿名の時は身体化された人間になることができた。しかし彼が知られてしまった場合には、また身体と自己との内的離断が始まってしまった。
「存在の淵」で片足だけを生の世界に突っ込んで、佇んでいる。本当には生きていない。自分は人生の外側にいると考えた。
世界の内においてくつろぐことが決してなかった。
目の見えない少女、巡察犬だけが自然な愛情を示し、また受け取ることのできる唯一の生物だった。
ピーターからのメッセージ
あなたは世界の中で他の人と共に生きねばなりません。そうしなければ、内部で何かが死にます。奇妙なことですが。
精神病への発展
Selfは自分だけを対象とする私的な世界とだけ関係を結ぶことにしてしまう。
それ以外の事柄はpersonalityに担当してもらうのだ。
Selfはpersonalityを観察だけで、他者との共有の世界はpersonalityに譲り渡しと決めた。
また自己に対する破壊的な危害を予防するために防壁を作るのだが、これが逆に自己を閉じ込める牢獄の壁になった。
この壁のために不安は以前よりも遥かに強く忍び寄ってくる。
他とのコミュニケーションはpersonalityを通しての自己なので、知覚の非現実性
Personalityの目的からくる欺瞞性、嘘 社会と向き合わない態度
そして他者と共有される世界全体の死を感じるようになる。
そしてその死がついにはselfにも侵入するに至るのである。
すべては無によって満たされる。
内なる自己自身も完全に非現実的になり、白昼夢化する。
そしてこの壁を使っての戦略をはじめる。
アイデンティティ保持のために、壁を使ってアイデンティティを他者から確認されることを逃れる。
しかしアイデンティティとは自己と他人からの両方からの確認が必要なのである。自分を知っている第三者の実在をアイデンティティは必要とするからだ。
生きることの苦痛に対する防衛として、「生きながらの死」の状態を続ける計画を作り上げる。
現実逃避も再生努力もどちらも精神病を悪化させる。
内的自己(分裂症のpersonalityと分けられた自己)の変化
1 自己は幻想化ないし気化されて、錨をおろしたアイデンティティは全くなくなってしまう。
2 内的自己は非現実的となる。
3 内的自己はやせ細り、空っぽになり、死に、引き裂かれる。
4 内的自己は、いよいよ憎しみと恐怖と羨望を充満させる。
見たり考えたり感じたり行動することは、彼にとって機械的であり非現実なのであった。
他者への非常な憎悪と自分への非常な恥辱とからなり、真の感情の隠蔽であり表出であった。
限られた領域の中でなら彼は自分の考え方や特殊な体験を他者とともに分かち合える時があった。
錬金術、占星術、秘密の法則、神との合一
意図したことは現実によって条件付けられ制限されざるを得ない。
制限のない自己は、時空を駆け巡ることができる。この全能性は無能性の上に築かれている。真空の中の自由でしかない。そして自己は干からび、死んでいく。
責任のないpersonality 批評や行動のできないpersonality
他者にとっての世界がいかなるものであるかは知っている。しかし他者が経験するのと同じ仕方で世界を体験できなくなっている。Personalityは直接に現実を知覚することができない。またpersonalityは現実を検討したり行動することができない。なぜなら現実を検討するためには、情感反応で二者択一して、ベターの選択を選ばなければならないのに、この選択と責任をしないからである。自分で選ぶのではなく、他人や社会に合わせただけであるからだ。
社会的に受け入れられるためには、計略かまたは技術によらなければならない。変化に対する適応や調整は、personalityによって取り仕切るしかない。しかし自己は現実の世界の変化についていけない。終始同じ基本的パターンを持ったままである。Personalityの体験したことを自己は現実に照らして調整したり、検討したり、訂正することを考えることはない。このように考える機会がないのである。この自己には現実に働きかけて変化を起こそうとする努力は一切しなくなる。
自己⇔身体
身体はpersonalityの水準器である。
実際上すべてがこのpersonalityに属するように感じられるようになる。最後には視力・聴力・触覚によって対象を感じることがなくなった。
1 ニセ自己の体系はますます大規模なものとなる。
2 それは今まで以上に自律的なものとなっていく。
3 それは強迫観念の断片によって、悩まされるようになる。
4 それに属するすべてのものはますます死に、非現実となり、虚妄となり、機械的となる。
知的活動のほとんどが、思考と感情を自分の統制下におくことに費やされた。
現実性と生命
は、自然の中と身体の内側に存在している。知的なもので捉えることができない。自己は他の場所では常に存在するが、ここには決してない現実と生命に深い嫉妬と憎しみで満ちている。
口唇的自己
いかに飲み、食べさせてもらい、食べ、吸ったとしても、決して満たされない。何ものも自己に取り入れることはできない。底なしの穴、決して満ことのない裂けた胃袋である。
もし世界を食物として摂取して破壊する可能性があれば、そこに生じてくるかもしれない罪責が、この口唇的自己には生じえない。対象を消化することなしに無と化せしめる。世界を同化はせずに塵埃と化す。
この自己は、他者の中に存在している現実性と生命を取り入れることはなく、ただ破壊しなければならない。
取り入れる方法は魔術的だ。
1 接触
2 複写、模倣
3 それを盗み取る魔術的形式。
手の甲にタバコ
生きている感じをもっとはっきりと体験するために、自分を非常な苦痛や恐怖に晒す。
刺激を求めのは、生命を驚かせてそれによって力を得ようとしているためだ。
同性愛的執着
世界ない存在の二重様式 ビンスワンガー1942年 を突破する最後の希望。
孤立の中で自己と世界が萎縮し狭小となった人間にとって、同性愛の形式が演じる役割
心臓も頭も萎縮すると訴えている男性
従姉妹との恋愛で感じた天国的な幸福や情熱や輝きを体験することができなくなった。
男女の愛は存在の横溢(力がみなぎり溢れる)を拡げ深める。
分裂症による彼の実存の空虚化にとともに、女性は親しみのない現存在の極みとして、彼にとって共鳴しなくなり、女性は青白い蜃気楼となり、やがて消化できない食べ物と感じられ、そしてついに彼の世界の範囲外のものになった。
分裂病的過程において、自己が萎縮したことで、男性としても空虚になり、男らしさがなくなってしまった。
その時に突然と同性愛的欲望にとらわれるのを感じた。
男らしさとは、 責任、共同体のために戦う、筋肉運動、単純、智慧、形、背負う覚悟、計画
女らしさとは、 命、いま、深さと拡がり、命の制限されない拡がり、安全
男性として現存在の充実を体験することができるようになった。
女性との愛とは違い、同性愛は深さと拡がりが制限されているので、自己を見失って無限の彼方へ突き抜けてしまう危険もなかった。
同性愛は彼の実存を再び、一人前の男として充実させることができたのだった。
同性愛と被害妄想は、分裂症的な萎縮と崩壊から失われた部分を再び獲得しようとする試みだと考えたい。
ボス「性的倒錯」
現実の異性関係から退き、彼の存在の中にある、一つは男性で一つは女性という二つの部分の間に関係を成立させることができる。
自分自身の中で自分自身と同性愛的関係を作り上げる。
最後の愛の絆 子供や動物としての他者 人形
外見上の正常
Selfから攻撃されていないpersonality
断片の集積によらないpersonality
しかし内部では秘密裏に精神病過程が静かに進行している。
うまく日常の生活に適応しているということが、彼の真の自己によっては、恥ずべき、馬鹿げた見せかけと考えられてくる。
するここれに歩調を合わせて、自己の方も幻想的関係の中で蒸発してしまう。この世界の中で他者に混じって、骨と肉に深くつなぎとめられている偶然と必然から解き離れようとするのだ。
正常はpersonalityによって支えられている。言動、動作、外観。
相手を馬鹿にしたい 無理解な連中と彼らがみなしている人たちにわざと罠をかけるような会話をする。
蒸発した自己が自分を取り戻そうとする悲劇
閉鎖性からのがれ、見せかけをやめ、正直となり、ごまかしなしの自己を現わし、自らをして語り知らしめようとすれば、急性精神病の発病を見る。
Personalityの歴史が収集出来た時に、精神病が説明可能となる。
精神病から治癒した者
正常であるかの如く演じようと決心した者たち
不死なる自己
身体から別れた自己は不滅であり、魂とか生命物質とか呼んでいる。またこれが盗まれることがありうるとも思っている。
インポテンツのアナロジー
生殖器の喪失を怖れる
去勢を防ごうとする
去勢されたように見せかける 生殖機能を保持する
去勢の恐怖を減らす
生殖と自己を入れ替えてみると、分裂症者の気持ちがわかる。
恐ろしさ(記憶・現実・妄想)との付き合い方
自分自身を忘れる
時間
未来はなかった。時間は動くのを止めた。先を見ることができなかった。記憶は頭の中で押し合いへし合いで厚く固くなっていた。
生きた時間を区別する力を失っていた。
二つの私
声が聞こえてくる。これが自分に属していることを知っていた。私と私自身です。
例えば母を殺せという声が聞こえる。
こめかみから上は綿が詰まっている。自分自身の考えがない。
自己の断片の一片が通常「私」という感覚を保持する。もう一方の「自己」を彼(女)と呼ぶとしよう。
しかしこの彼はやはり受身の「私」である。彼は一つの私を探しているもう一つの私だ。
いくつかの人格はそれぞれ
I-sence能動態を持ち、他の断片をNot-me受身として体験している。
幻覚の原因
他の自己の思考が幻覚の基礎である。
幻覚とは、I-senceの見せかけの知覚である。インプットは統合性を失った他の自己の断片がI-senceに残余したものである。
内なる幻影的自己を殺すことは不可能である。幽霊を殺すことはできない。
罪悪感
自分を殺すのは不安や恐怖だけではなく、罪悪感からも自殺に至る。
罪悪感の圧力で何物でもなくなる人もいる
自己治癒
自分の人生が自己のアイデンティティを破壊する、組織的な試みであるということがわかった。
正常な場合 現実的な結果を得るために行動する
分裂症の場合 特定なTPOに特別のことをしないことによって、自己を消滅させる試みをする。
不断の抽象化によってどこにでもある場所と時間にしようとした。
行為の中に自分を入らせないことが可能のように振舞う
誰でもない者になろうとした 何者であるかは単なる見せかけ
唯一の正直な道は誰でもないものになること
これが自分を本当に存在すると感じさせるものであった。
治療の仕事
個人の本来の自己と接触を作り上げることにある。本来の自己が現実にないにしても、まだ可能性を持っていることを信じるべきである。
治療者は分裂症者の憎しみを感じることができるが、傷つけられたりしないことを示す必要がある。
体と自己がともに望まれていると感じさせるとと
不平を言っても安全な人 喜ばす必要のない人
真の自己が出発点
Meを見つけることのできなくなったIがいる。Iが存在しなくなったのではない、ただそれは実体がなくなり、身体を失い、アイデンティティを失い、共にあるべきMeを持っていないだけである。I(自己)が最後の破片でも残り屑でも残っていなければ治療も不可能だろう。
治療者によって致命的なことは、実際以上の愛や関心があるフリをすることである。
必要なのは呑みこみや偽りや無関心ではなく、単なる関心である。
中心
中心が維持されないと、同一性、統合性、結合性、活動性を保持できなくなる。そして混沌たる非実在性の状態に凝集されていく。
ウイリアム・ブレイクの予言の書
正気に止まりながら自分の内部で分裂した状態を生きている。普通だったら精神病になっているはずだ。
キチガイになる
助けを呼んでも答えるもののない悪夢を見るようなもの。
助けを呼んでも誰も理解してもらえないようなもの。
誰かが聞きつけて起こしてくれなければ、悪夢から覚めることはできない。
母親
彼の全てを愛してくれる母がいたと確信できねばなりません。ありのままの存在です。そうでないと自分が存在する権利を持たないと感じてしまいます。この経験を持つと人生に何が起ころうと、どんなに傷つこうと、このことを思い返すことができ、自分が愛されうる人間だと感じれます。自分を愛することができ、潰れることはありません。
赤ん坊が自我本能の満足を達成することに失敗し続け、母親がこれを理解できない組み合わせは、よく見られる。
ぶってください
そうすれば少なくても、私の心底をあなたが受け入れてくださったことになるからです。そうすれば私も私の心底を受け入れることができるし、私の一部分とすることができるのです。
断絶 内と外
身体から自己を引き裂く亀裂
私−感覚は身体から失われ、身体はニセ自己の体系の中心となる。
さらなる分裂は自己・身体・世界という縦断的な分裂があると、身体は不明確な位置を占めることになる。
体験の二つの基本的な区分
ここ あそこ
内部 外部
Me Not‐Me
分裂によって私Iという感覚が身体からなくなる。それによって分けた二つの境界線について判断する者がいなくなってしまう。境界では混合、融合、錯乱が続く。
Meは身体をしっかりと感じることができないのだ。
他者から識別された身体
この時に自己は他の人になってしまう危険なしに、他の人のように振舞うことができる。
感情を他者の感情と混合したりしないで、他者との感情を共有し合うことができる。
ここの我とそこの非‐我とのあいだに明確な区別が確立することによって初めて可能になる。
重要なのは内と外との境界線をよく体験することである。このようにして自己は本当に肉体化された自己となる。
危険な願望
死への願望と非存在への願望 この二つが合わさると、生きながらの死の状態を促進方向へ向かう。
私は誰か他人を傷つけるかわりに自分を殺してしまったのだと思います。
分裂病者とその母親とのあいだの陽性感情の存在がある。シアルズ 1958年
患者の対人的ミクロコスモスのおける本人の生活である。
便宜上一時的に括弧で括られたものが本来持っている諸関連を大切にして、除外されてしまうような閉ざされた
体系にとならないようにしなければならない。
精神病への段階
1 患者が良い正常な子供である。
2 悪くなり、悩みの種になるようなことを言ったりするが全体としては「やんちゃ」
3 忍耐の限度を超えてしまたため、彼女は完全な狂気とみなされるほかなくなった時期。
病気になる救い
母親が生きさせてくれない、といった時は変化がなかったが、母親がかつて子供を殺した、と言うと、すべてが許された。彼女は病気です、責任はありません。
離乳遊び 自律性の訓練
子供の流儀によって行わなければならない。子供が自分で統御していると思わせるのが必要だ。
ガラガラを落として拾わせる。また落としては拾わせる。母親が落として子供が拾うのではない。子供の自立性にこちらが合わせるのだ。モノが去ったり戻ったりするのを楽しんでいるように思われる。
これが離乳につながる。
自分が、自分自身の行動の起源であるという観念を発達させるのが重要だ。
毒親
安定を阻害する親 必要なのは安心を促進することだ。
両親は単純なパターンを与える。カオスをパターンで規制するのだ。子供が育つに連れて、条件をつけてパターンを加えて、例外をも学んでいく。
両親がパターンを使える環境を与えながら、自律性の成長に付き合わない場合は、子供は独自の鋭い洞察力を養い、それによって生きうるようにしなければならない。
そうしなければ狂気におちいる。
小児が対自存在の初まりを展開するのは母親との最初の絆によってである。
これによって子供に世界を媒介する。
子供をとがめることによって、親の弁明を行う必要がなくなる
分裂病
常識や社会観念の体験を他者とともにすることができない病。
与えられた条件の下、その中で構成し統一することが社会で生きるということだ。
陳述が真実でないから病気ではないのではなく、謎めいているがゆえに病気なのだ。
分裂した部分的体系を統合する機能がない。
この統合方法が恐怖がなく使えれば分裂症は解消する。?
反省
自分を反省をするためには、個人としての統一がまず必要である。
二つ以上の自意識を比べる必要があるから、一つ自意識をまとめてひとつにする必要がある。
Personalityが統一していても全体が統一されていないとちゃんとした反省にはならない。
反省意識の前提になる全生涯の記憶が現在の中でツギハギとなり、記憶を操作することができなくなる。これは自分の存在の内と外の境界をベースとする体験を欠いていることを意味している。
しかしpersonalityの横の境界はしっかりしているように見える。
人形と身心の喪失
人形は彼女自身であり、親でもあった。
体と心をなくしたものが人形遊びをする。大人は動物を飼う。
分裂症の時代は自己と身体が分離しているのだ。
みんな身体を確認することで、正気を保っていようとする。
正常よりも分裂状態を好むわけ
全体が部分的体系(準自律性を持つ)へと分裂し、これらの部分のそれぞれがパーソナリティーを持っていた。
全体的統一はなく、パーソナリティの一群たちで、これらを使うと単語の統合さえも分解されるのであった。
時々立派にパーソナリティを統合し、現状の悲劇をはっきりと自覚した。しかしこの統合の瞬間を様々な理由で恐れていた。非常な不安を経験した。また統合した後の分裂の過程でひどく恐ろしい記憶が思い出されてしまう。
むしろ統合欠如、非現実、死の状態の方が快適に思え、そこを逃げ場所にしていた。
不安とは何か?恐怖とは何か?
自己がなくなること
安定
安心がない
愛の危険
好むということが似ることになり、さらに同一ということになる。
盗むということは、自己と非自己の間の境界が存在することを前提にしている。
二つの部分
二つに分ける簡単な方法は、彼女が自分に命令を下し、それに従う場合だ。
幻聴による声、つまりある部分体系の声が命令し、彼女、つまり他の他の部分体系の行動が、それに従ったのである。部分体系の役割は一定している。
この準―自律的な部分体系の一つに「悪」を担当するものがある。
他の部分体系には善良だったり、養護者的だったり、いろいろある。
内的自己からの派生
内的自己はほとんど完全に気化して、純粋な可能性として残っていない。それでもか弱いものがある。
真の母
真の母を持たない人 真の母とは何か?
悪役になってあげることができる人
自分の中の不完全さや悪を認めることができる人
良心からの強迫観念を和らげることができる人
分裂病の成立
全体としての統合の欠如
正気かどうかではない
正気は閉じ込められ、分裂している。
治癒は彼女の全存在が全体的統合を獲得することができるかどうかにかかっている。
自己は自分自身を第三者として話したりする 彼、彼女、あなた
自己体系は空想化された内的自己の派生態であった。
自己体系はそのまわりに統合が再び生じうる中心点を形作っている。
これが真の狂気の核心であり、自分が殺されないようにと妄想して、そのために中心をつくらず混沌を保ち、正常に生きることができない状態をつくろうとする基になっている。
内部の世界では欲しいものはなんでも手に入ったし、それになれた。その欲望、意思、恐怖に現実は光も影も照らすことはできなかった。あらゆる欲求は即座に幻影として充足せられた。
あらゆる幻影にとり憑かれていた。
自己体系は現実の世界では自由も自律性も力もない。
ある患者の信念
何か大きな価値あるものが自分の内部に深く埋められ、自分にも他人にもまだ発見されていない。もし誰かがこの暗い地球の奥深く進みえたならば、「輝く黄金」を発見しうるであろう。
分裂病者の2つの性格特徴のタイプ クレッチマー
非社交的、ものしずか、控え目、真面目でユーモアを欠く、偏屈
1 敏感型 はにかみや、臆病、繊細、過敏、神経質、激しやすい、自然や書を友とする
2 鈍感型 従順、善良、無頓着、鈍感、おとなしい
幼児期の3つの自己 サリヴァン
Not-me 成人から非難され価値付けることのできない体験
言語と象徴が理解でき、他者との共有性をもたざることを学ぶと
MeであるGood-meと Bad-meが構成される。
Not-me は自己体系に組み入れられることなく、パーソナリティ以外の残余部分にとどまる。
自己の観念が健康で正当なものとして確立され安定している一般人たち 常識人 は実はマイノリティだが、マスコミでは彼らこそがマジョリティであるとして扱うことによって話が進む。
知識と体験の間
不思議なことに「人生は誠実に生きねばならない」という言葉を百万回聞かされるより、イソップ童話のアリとキリギリスの話をたった一回読んだほうが、われわれには自然に、しかも実感をもってその意味を理解することができるのである。
客観的で明確な意味をもった、それゆえ情報を正確につたえるのにふさわしいはずの言葉が、あいまいで主観的な含意を濃くうつす比喩や隠喩にはるかにおよばないというのである。そしてまた、われわれの「知る」には、いわば《ほんとうの知る》と《ほんとうでない知る》とがあるというのだ。たしかにこれは奇妙だが、しかし、じっさいわれわれは「ピンとくる」「腑に落ちる」「行間を読む」といったことばづかいによって、ものごとの理解にいわば《表層的な知る》と《深層的な知る》とをそれと意識せずに、ごく自然に区別しているのではなかろうか? しかし、この二つの「知る」の違いはいったいどこにあるのだろう?
教育とことば
ここまで述べてくれば、「知る」ことをめぐる奇妙さはすべて「言葉」というものの性質にそのカギがあるらしいことがわかるだろう。われわれが心底から《ああ、なるほど》と納得する「知る」ではない、あの字面だけの、実感の裏づけを欠いた表面的な「知る」は、なによりも言葉による知識なのである。かんたんにいえば言葉とは他者と経験を共有するための媒体である。だからもんだいは言葉というものがどこまで経験をつたえることができるかということなのだ。このことをもうすこし具体的に述べてみよう。
@「おい、それとってくれや」「これ?」「いやちがう、それだよ、それ」「ああ、こっちね」「うん、それそれ」…
A「絶対主義諸国は貿易や産業を統制した重商主義政策により、国内に貨幣や金銀をたくわえることにつとめた。そのため原料品を安く輸入し、国内産業を育成して海外に自国の製品を輸出し、あるいは中継貿易により利益をおさめたりする方法をとったが、いずれにしても植民地をもつことが必要であった。いわゆる《地理上の発見》以来、西ヨーロッパ各国が植民地獲得の競争に没頭したのはそのためである。」
上の二つの文章のいちばんの《違い》はなんだろうか?それは@では言葉があくまでもわれわれの経験のそのつどの具体的な状況という文脈のなかにはまり込んだ形でしか通用しないのに、Aでは言葉がそうした状況をはなれて《ひとり歩き》しているということだろう。@の文章に出てくる「それ」や「これ」は、会話がなされている状況に自分も身を置いてみなければわからない。だから@は他者と経験を共有するという点で言葉のはたらきがAに大きく劣っているのである。@では、その場に居合わせた人間しか話し手の言うことが理解できないが、Aのばあいにはこの文章を受けとった人間すべてが、どこに居ようが何をしていようがその内容を(おなじものとして一様に)理解することができるのだ。だが裏をかえせば、Aの言葉は(すべての人に共有されるという意味で)「普遍的」であるそのぶんだけ同時に「抽象的」でもある。ようするに「ピンと来ない」のである。逆に@のほうは個別的な経験からひき剥がせないぶんだけ具体的である。つまり、あくまでも経験のひとつの要素として言葉がそのなかに組み込まれているので、言葉が《独り立ち》できないのだ。
おなじ言葉が同時に具体的にも抽象的にもなるというのは不思議だが、岡本夏木はそれを子どもの言葉の発達と関係づけて《一次的ことば》から《二次的ことば》への重心移動として性格づけている。《二次的ことば》の特徴として、岡本はつぎのような点をあげている。(岡本夏木『ことばと発達』岩波新書 51頁)
(1)ある事象や事物について、それがじっさいに生起したり存在したりしている現実の場面をはなれたところで、それらについて言葉で表現することが求められる。したがってそこでは《一次的ことば》のように、現実の具体的状況の文脈にたよりながらコミュニケーションを成立させることが困難になり、ことばの文脈そのものにたよるしかすべがない。
(2)ことばをさしむけるコミュニケーションの対象が、《一次的ことば》のように、自分の経験や状況を共有してくれやすい親しい少数の特定者でない。自分と直接に交渉のない未知の不特定多数者にむけて、さらには抽象化された聞き手一般を想定して、ことばを使うことが要求される。
(3)《一次的ことば》が原則的には一対一の会話による自他の相互交渉、相互照合によって展開していったのに対して、《二次的ことば》では自分の側からの一方向的な伝達行為として言葉が用いられ、少なくともその行為がおこなわれるあいだは、相手から直接の言語的フィードバックは期待できない。そうした状況にあって、話のプロットは自分で設計し、調整してゆかなければならない。
さらに岡本はこうした二つの言葉の違いをつぎのようにかんたんな表にして示している。
|
一次的ことば |
二次的ことば |
|
具体的現実場面 |
現実を離れた場面 |
|
ことば+状況文脈 |
ことばの文脈 |
|
少数の親しい特定者 |
不特定の一般者 |
|
会話式の相互交渉 |
一方向的自己設計 |
|
話しことば |
話しことば、書きことば |
そして岡本は、こうした特徴をもつ《二次的ことば》はとりわけ学校の授業において子どもに優勢化してくるのだと述べている。
かんたんにいえば《二次的ことば》とは言葉が人間の経験として「ひとり歩き」することだろう。しかし経験をかんぜんに、余す処なく言葉の土俵にのせることは可能なのだろうか?たとえば自分が苦心惨憺(くしんさんたん)して会得したゴルフのドライバーショットの打ち方を(他人に教えようと)言葉で表現しようとしても、とてもできるものではない。名状し難いなにかが残ってしまう。それがコツといわれるものだが、それはけっきょく各自が自分自身で《経験する》以外にないのである。(しかも面白いことにプロのコーチが言葉で教示するばあいにも専門用語などより、むしろたとえば《腕が笹竹になったような感じで》といったイメージや比喩を多用するという。感じをつかませるにはそのほうが効果的だというのである。ここからも比喩やイメージというものが経験をとらえる特有の力をもつことがわかる。その特有の力とは言葉によって経験を文脈ごとそっくり浮かび上がらせる点にあるのではなかろうか?ある意味で小説や詩というものは、一般的な言葉をつかって個別的な経験をつくり出す努力だといえるだろう。経験が個別的なものとして生命をもつためにはそれを文脈ごとひっくるめて再生しなければならない。小説が純粋の情報伝達という観点からみると必要以上?に膨大な言葉を費やすのはそのためである。)
実験で、たとえばチョコレートの香りのエッセンスをカレーライスにかけて食べさせると、被験者は甘いと感じてしまう。においに味がひっぱられてしまうのだ。カレーにたいするわれわれの味覚は見た目、匂い、舌の感覚、噛んだ時の音や弾力、そして味といった要素が複合的にからまりあってできあがっている。このようにわれわれの経験はそれ自体が複合的・多面的なものである。それを味や香りという単一の要素に還元してしまうことはできない。それをすれば経験の中身はひどく貧弱になってしまう。おなじことは言葉についてもいえる。つまり経験をかんぜんに言語化することはできないのである。言葉へとおきかえることは一元化・一面化することであって、経験の中の何かが失われるのである。(もちろんそれだからといって言葉がもつ利点が失われるものではない。言葉は経験を凝集し、それを他者と共有することを可能にするのだ。われわれは父親を殺されなくともハムレットの苦悩を体験できるし、都会にいながら冒険者の目でアマゾンの奥地を見聞できるのである。もっとも、そのさい同時にわれわれは実地の経験からは抜け落ちたものを、各自の創造力によって補わねばならない。)
ところで学校の教育、いわゆる勉強というものはまさにこうした言葉をとおして子どもに「知る」を媒介するものである。しかも岡本が述べているように、それは徹底して《二次的ことば》によっておこなわれる。国語、算数、理科、社会、英語のいずれにおいても授業は(そのつど具体的な経験を参照しながら副次的に言葉をもちいるのではなく)言葉そのものを独立に操作する作業によってその大部分が占められている。だから言葉をぬきにした授業など、これらの教科では考えられない。(ちなみに2頁のAにあげたのは中学の歴史の教科書に記載されていた文章である。)こうした作業にわれわれはどこまで「知る」という言葉を当てがうことができるのだろうか?それは大いに疑わしいのではないだろうか?それはちょうど、人に香りだけ嗅がせておいて、ライスカレーを食べさせたというのと同じではあるまいか?しかし、それでは(「世の中は教科書どおりにはゆかない」とよく言われるように)そこにはほんとうの《知る》が全くないということになってしまうのだろうか?もしそうだとすれば、たとえばゴルフのスイングを「知る」のに教本(マニュアル)などまったく無意味だということになってしまう。
だがこれは、教本(マニュアル)を読むだけでかんぜんにスイングのコツがマスターできると思い込むのとおなじくバカげたことだ。ほんとうに問題なのは言葉に置き換えることができなかった経験の次元を実地の経験でおぎなうこと、つまりマニュアルを読みながら同時に自分で手足を動かしてあれこれ試行錯誤してみることなのである。それは言うなれば、言葉に翻訳された他者の経験をこんどは自分自身の手でもう一度経験に翻訳しなおす作業である。そしてこれはたんなる機械的な「置き換え」ではない。むしろそれ自体が一つの創造的な作業だと言えるだろう。それというのも経験を言葉にするとき、かならず経験のある要素が抜け落ちてしまう。その抜け落ちた部分を自分自身の実地の経験でもっておぎなってやらなければならないのだが、それには想像力が不可欠だからである。(「真っ赤なりんご」というきわめて具体的にひびく言葉も、じつはまったく具体性が乏しい。それが脳裏にありありと思い浮かぶのは、われわれがそのつど個人的な経験によってその欠損部分を補填(ほてん)するからであって、言葉そのもののおかげではない。そしかし言葉というものは、それによって人間たちの間に状況の共有ができれば良いのである。それは事物をありのままにコピーするものではないのだ。)
だからほんとうに肝腎なのは、言葉を、もともとそれが生まれた経験の文脈のなかにもういっぺん投げ返してやることである。あとはこれが学校の勉強のなかでどこまでやれるかという問題ではないだろうか?