エル・ティンゴ 誰もが正しい      言葉と論理学の限界

 

だれもが正しく生きている。

だれもが自分の世界の中で、この今を生きている。

ずっとこれまでも、より良い方を選んできた。

そりゃあ失敗も後悔も山ほどあるけど、どの瞬間も、選択をしてきた。

だれもが正しく生きている。

 

正しくないことを今日もやっている、

誰もが正しいのに。

相手が嫌がることを今日もやっている、   

誰もが正しいのに。

自分の正しさで相手の正しさを叩いている、

誰もが正しいのに。

 

誰もが自分の正しさを大切にするには理由(わけ)があるんです。

そう信じる経験があるんです。

そうなる成功例を繰り返したんです。

そうなる結果が現実にあったんです。

そうなった必然があるんです。

だから誰もが正しいんです。

 

自殺する人だって、何とも繋がっていないと感じるからで、そうでなければ死にはしない。

もし繋がっていても自殺するならば、それはそれでもっと正しい。

 

万引きしている人だって、出来心や確信犯でやっているんで、見つかるためにはやっていない。

もし捕まりたくてやっているんなら、それはそれでもっと正しい。

 

無差別殺戮をするものも自分の中に正しさが少しあるから実行にうつしている。

その正しさは、洗脳や脅迫や言い訳や勘違いかもしれないけれど。

もしそれで死刑を望む者がいるのならばそれはそれでもっと正しい。

 

殺す者は殺られた者のことなんかわかろうともしない正しさを経験してきた。

その人がそのように正しさを信じることを理解するにはその人の体験に寄り添う必要がある。

だれもが正しく生きているから。

 

本人から見れば本人は正しさの中で生きている。

だけどどの正しさもだれもが同じじゃない。

その正しさって何?

誰の正しさなの、何処での正しさなの、何時の正しさなの、何のための正しさなの?

いろんな正しさが蠢いている。

自分の好きなところだけを好きなように切り取って自分だけの正しさをつくりあげる。

私にとって正しくないものや邪悪なものであっても

その本人には通らねばならない必要なものであれば、それはそれで正しい。

人のためというのは、

そんな正しくないことさえも受け入れること。

それが嫌なときは

見ないふりをしないで、ちゃんと面と向かって闘ってあげるのがいい。

 

 

 

「正しさ」の中でずっとふわふわと漂っていたら面白い関係が浮かんできた。

ちょっとあなたの体験と私の空想を重ね合わせてみませんか。

 

まずは話がわかりやすく整理しやすいように、正しさをいくつかに分けてみましょう。

オススメは4つの正しさ

 

なぜ四つなの?

二つだと白黒つけなくてはならないからでしょう。この世は真ん中の灰色もあるじゃない。二つだけだと時間は真っすぐにしか進めない。

ではなぜ3つじゃだめなの。まあいい時もあるんですけど、白か黒か灰色かにしっかりと分かれちゃうでしょう。

でも4つだと白の中の白、白なんだけど黒、黒なんだけど白、黒の中の黒と、白と黒のバランスの流動性を表現できるからです。時間も四つになれば直線から円に変化できます。

 

もしこの4を絵であらわすとしたら

そう、あの陰陽のシンボルです。

 

あとはこれにプラス1を加えます。

生命体とか全部とか一とか宇宙とかカミさまとか時空を超えたものに接する時は、プラス1が大切です。

例えばここでは4プラス1の5です。

最後のプラス1とは、この4つの全てを含んでいる世界のことです。

4がこの世のことならばプラス1はあの世を含んだこの世ということでしょうか。

例えで言うと、4枚の便箋とそれら入れる封筒がプラス1ということでしょうか。

洗練されてくると8と9、12131617と大事な分け方はあるのですが、どんどん数が大きくなっていくので、まずはできるだけシンプルにするために4と5いう分け方を多く使っていきます。

 

この四つに分けるというのは、多くの人が使う、基本の一つです。

ここではは本人、隣の人、共同体、地球の自然(動植物)の四つに分けてみました。

どんな基準でもいいんです。コツは深さです。例えば地層のような多重性です。バリエーションみたいな横に拡がる多様性ではありません。

 

最後の5つめはこの4つを含む宇宙の法則です。

 

4プラス1の分類法

 

人との関係

地理

H2O

身体論

本人

都市

法律

大脳皮質

隣の人

郊外

条例

大脳辺縁系

共同体

水蒸気

心肺

生命体

山林

自然の法則

空気

プラス1

あの世

地球の外

宇宙の法則

「空」

生まれる前

 

すると個々は正しいのに、その個がほかの場所に行けば必ずしも正しいとはかぎらなくなってしまうんです。

共同体で決めたルールが自分のやり方と違ったり、

村の掟が都市の法律とは相矛盾したりしてしまうんです。

 

そうなんです、

全ての領域において一つの正しさがないんです。

例えば時間だって変わってしまう可能性があるんです。

だからもし地球が隕石にでもぶつかって、自転のスピードが変わったら今の時間も旧時間と呼ばれちゃうんです。

セシウム原子が9,192,631,770回振動したから1秒になるんじゃないんです。

お日様が一日かけて出てくるの単位として、それを24時間と決めて、後から計算して原子の振動数を割り出したんです。

一つだけでどこでもいつでも正しいことはないんです。

言葉も数学も物理も条件内だけの普遍性なので、条件が変われば法則も変わっちゃうんです。

一つの法則があっても、それがこの時空間の中ではTPOに合わせて表現が変わっちゃいます。

 

正しいことをする人、組織、宗教、神々だって、全ての瞬間がすべての世界において正しいのではない、

あっちがあってのこっち、こっちがあってのあっちだから。

故意に正しくないことをすることだってあるのです。あっちのためには。

脳は勘違いする時だってあるわけです。この勘違いが生きやすくしてくれるんです。

 

これでも。

これが。

これ「で」いいんです。

 

正しいとは神さまのこと

実は正しさというのは自分の神さまのことで、神学なんです。

だから昔の日本は八百神なんで、みんなが正しい。

でも同じ日本人でも都市生活者のプロテスタントならば一つの正しさを求めてしまうし、

新興住宅地の無神論者ならば正しさなんてないさ、と思っちゃうんです。

 

人知を超えた出来事や啓示を受けたことがあるでしょうか?

でもそれって神か天使か悪魔か河童かトトロか、だれの仕業かわからないでしょう。本人が名乗ってくれたって、寝ぼけていたり、嘘をつくのも一杯います。

誤解されるから小さな声で言いますけど、実はどんな多神教だって、アニミズムだって神道だって、カミさまは一つなんです

伝え続けている本人に教えてもらうと、どの神話もはじめは一つのものから始まっています。

そしてもっと小声で言いますけど、ユダヤ教だってイスラム教だって、カミさまは実は一つじゃないんです。天使たちとか火の神とかね、人智を超えたカミさまグループが一杯いるんです。

本はダメです。誰が読むのかわからないことを前提にして書いていますから。インターネットもダメです。読む人がどこのステージまで習得してきたのかわからないので、いきなり本当のこと言えば誤解されるかもしれませんから。また本当のことは受け手にとって最善のこととは限りません。用意ができている人にしか受け手になれないのです。その人の状態に合わせて、ちゃんとメッセージを送るというのが基本です。

さて話をカミさまに戻すと、どちらに注意を向けているかだけの違いなんです。 意識を上か下かのどちらに置いているかだけの話なので、次の瞬間に上下の反対側に意識を移せば、一神教が多神教に、多神教が一神教になっちゃうんです。

だからなんでも分析して0と1に分けて、注意を一点に注ぎ、それを固定させてしまうと一つの正しさしかありません。でも、両方いっぺんに注意を注ぎ、固定させることなく動き続ければ、「これとあれのどっちもあるじゃん」、といった全体を直観でとらえる目線もいいよ、ってわけです。 私たちの日常生活では当たり前の行動です。

ところが、論理学ではこれを矛盾と呼びます。しかし「生きている命」にとってはどっちも正しいという理解の仕方があるんです。

それなのに、論理学で言う矛盾がダメだといって、矛盾していない「ただ一つの神が正しい」、と始めると、正しさと正しさが喧嘩をし始めちゃうんです。

まったくダメでしょう、論理学って。コンピューターをプログラムするときには大切な考え方なんですが、生きているものであるエントロピーの法則が当てはまらないものには、論理学は歯が立たないんです。

 

中には正しさを証明しようとする人がいます。

どのように証明するのか、それが問題なんですが、これがまた変わってるんです。

瞑想や直観や体感じゃなくて、言葉を使って0と1に分ける考え方を証明しないといけないと思っている人がいるんです。言葉の利用範囲を超えた勘違い野郎です。言葉を司る理性はモノを分けるのが仕事ですから、Aが一番正しいと言葉にしてしまえば、Bは一番正しいことはなくなってしまうんです。これが言葉を使う限界です。言葉と理性とが結びつくと論理学となり、「これが正しい神である。あれが正しい神である。」とどちらも正しいと捉えることができなくなるのが論理学です。

 

証明するときに論理学に則って相手というよりも自分自身を説得させようとします。そうしないと脳が落ち着かないので、自分の脳で自分自身を洗脳しちゃってる人たちです。自己催眠までかけちゃってます。そして正しさが証明できたと思い込むのが彼らにとって大切なことなんです。

これが論理学を使って正しさを証明するというやり方です。

大脳の中でしか成り立たないことや、時空に限定された世界では起こりえないことを、脳が勝手に世界を作り上げてしまい、証明をし始めちゃうんです。それが正しいことだと信じこんじゃうんです。そして一度証明されるやいなや、自分の正しさで他人をさばいちゃたりするんです。

目の前にあることの現実を無視することからでしか論理学ははじまらないのに。

 

正しいことはどんな時にこの世に現れると思いますか?

答えは、自分が閉じた時です。

ほかの言い方で言うと、線を使って囲いを作り、外と内に分けて、その片方を選ぶ時です。

自己が常に開いていると、線が引けないので、善悪、正邪の区別を作ることができません。

 

浮世人 結界を張るや 守護神ら たち顕れて 正義が宿る

結界や囲むのは大切なことですが、いつもそうしていると、結界の外の世界を理解できないばかりか、その狭い結界の中で酸欠になり、気が荒だって、自分の体や周りの人を踏み潰してしまいますよ。

正義の怖さ、善意の傲慢さ、正しさの悲しさを知る者は、強く囲ってしまう回数を減らすに越したことはありません。

 

論理学の限界

論理学って勉強したことありますか?いろいろな学問の基礎にもなっているんで大切なものらしいです。

ところがこの論理学のはじめの前提がありえないことばかりなので、みんなびっくりしちゃうと思いますよ。

こんな考え方で正しさとか正義とは何か?なんて言われてもどうしていいのやら。

ゲームとしては面白いけれど、真面目に信じるには怖くなっちゃいます。

胸を張って、ファッショナブルな格好して、自信溢れた表情しちゃうんですよ。どうしましょう。

でも少しだけオリエンテーションを。

 

記号論理学の第一歩は「二つのもの明確に分けること」である。 1/0 真/偽 T/F

これがすべての基本である。

まあこのゲームに少し乗っかってみましょう。

 

次は矛盾律です。どちらか一方が正しければ、もう一方は正しくない。

言い換えれば「両方が同時に成り立つことはない」という法則  これが思考の原理なんですって。

他の言い方をすると排中律 law of excluded middleで「正しい」か「正しくない」か、二つの立場しかない。その中間は存在しない。どちらか一方になるのが決まって中間はない、ってことらしいです。

最後は同一律   あるものがいつも同じである。AはAであるという論理の事。

いかなる事物も自己自身と同一であり,我々の思考過程においてもこれを否定するような思考をしてはならないという要求をいう。同一律は「自意識」の基礎であり、何かを定義したり説明したりする基本原理である。

例:いかなるものもそれが川であれば、川である。

 

記号論理学において、この世にありえない条件の式であってもいい。

例えば

私が王ならば、散歩を義務とする。  地球が正方形ならば働かなくてもいい、とか。

論理学の世界では「事実がどうであるか」は問題にならない。

ただ何にでも応用できるのが記号論理学の面白さなのである。

 

だそうです。

そんなゲームをやろうって言われても、世の中、いつもとか、二つに一つなんてこと滅多にないじゃん。

うそっぽいし、めんどくさいし。もっと本当のこと言えば、うそだし、インチキじゃん。この世の中には、どっちも正しいってことばっかりじゃない。

 

論理学の境界線は極めて厳格に決められている。その目的は、思考の形式的な法則を詳細に説明して厳密に証明することでしかない。その際、その思考が、先天的であるか後天的であるか、その起源や目的は何なのか、それが情緒的な阻害要因に出会うのが必然なのか偶然なのかは、問われないのである。

 

論理学がこれほど成功した理由は、ひとえにそれが自らに課した制限のおかげである。論理学では、認識の対象の内容や違いを無視することができる、否、無視しなければならず、そのために、論理学のなかでは、理性は自分自身の働きとその形式だけに取り組むことができる。

 

 しかし、もし理性が自分自身の働きだけでなく、その対象をも問題としなければならないのなら、理性の働きが確実な学問の道を歩むようになるのは当然はるかに難しいことになる。だから、論理学は予備的な学問として、いわば様々な学問の入り口としての役割だけを果たしているのである。そして、我々が知識を問題にするときには、知識を吟味する前提条件として論理学にたよることはあっても、知識を拡大する役割は、真に学問の名に値する別の学問に求めなければならないのである。

 

こりゃあ、でまかせでしょう。こんなのが入口ならばここから始まる学問は全部インチキになっちゃうでしょう。これが知識の前提条件なんてどうかしちゃってますよ!

 

 さて、そのような学問において理性が働いているとすると、その学問の知識のなかには経験に依存しない先天的な知識が含まれているにちがいない。そして、この知識はその対象となるものと次の二つのどちらかの方法でつながっている。その一つは、その対象を理解したり概念化(その概念自体はよそから持ってくる 必要がある)するという方法であり、もう一つは、その対象を実現するという方法である。前者を理性の理論的知識(理論理性)とすれば、後者は理性の実践的 知識(実践理性)ということになる。

どうですか、なにかピンとくることありましたか?

 

「正」の字源

 は 邑(町)に向かって足ですすむという字源       攻めて、征服するいう意味

すすんだ町の人からして税をとることをといい、これが服の意味。

その支配の方法をという。これは(攵)ボクとからなる。はムチでうつの意味である。

 

制服した人びとに重圧を加えて税の負担を強制することも政といい、

そのような行為を当とし、義とした。これで正は「ただす、ただしい」の意味となった。

正しさは常に権力者によって、意味が変わるのは字源をみれば当たり前のこと。

 

「心」をひよめき(田)(頭蓋骨の縫合部分)を通すと、う、になる。

ココロを大脳皮質の分別(言葉)であえて表現すると、という意味である。

 

 

 

 

 

エル・ティンゴ村

エクアドルの小さな村で暮らしていたことがある。人口が数百人ほどの静かで心安まるところで村には温泉があった。

家の周りはいつも鳥が囀り、庭にはアボカドの木があり、牛があくびし、近くの小川には温水が流れ込み、洗濯するのも楽しかった。 

 

共同生活をしていた。

詩人のジェニー、アクセサリー職人のルイス、日系3世のチエミ、亡命者のユリ。村の隣人たち、家の大家さん。

みんなの立場が違った。今まで考えたことがないことや、思いもよらないことの連続だった。

政府と闘わなければならない理由

お巡りさんと喧嘩する理由

スーパーマーケットで万引きする理由

ハリウッドの映画がいかに偏っているかという理由

電信網を広げたらいけない理由

舗装道路を作ってはいけない理由

奴隷制度をなくしてもなにも変わらない理由

あの時代にニーチェが必要だった理由

学問が人間のエゴに利用される理由

 

納得いかないことや驚くことや理解できないことが多かった。

それなのに、すべてが心地よかった。

誰もが正しかった。

そしてすべてがよかった。でもそれを一つ一つ分析していけば、よくないことのオンパレードだった。

でも、すべては、とってもとってもとーっても素晴らしくよかった。

もう30年前のことなのに、あの場所を思い浮かべるだけで今が幸せに包まれて胸が踊るぐらいに。

 

もうあの村に戻ることはないと思う。あまりに素晴らしいところだったので、私の心の中にあの楽園をずっとおいておきたいからだ。きっと今では、もう開発が進み、昔の様子は多分ないだろう。それでもあの楽園はいつまでも私のなかで生き続ける。

そしてみんなの中にも、各自が経験した楽園が、ずっとあり続ける、この場所がこの地球上からなくなったとしても。

 

 

 

参考資料

十七条憲法は聖徳太子が作ったとされていたが、

「十七条憲法の漢文の日本的特徴(和習)から7世紀とは考えられず、『日本書紀』編纂とともに創作されたもの」とした。『日本書紀』推古紀の文章に見られる誤字・誤記が十七条憲法中に共通して見られる(例えば「少事是輕」は「小事是輕」が正しい表記だが、小の字を少に誤る癖が推古紀に共通してある)と述べ、『日本書紀』編纂時に少なくとも文章の潤色は為されたものと考え、聖徳太子の書いた原本・十七条憲法は存在したかもしれないが、それは立証できないので、原状では後世の作とするよりないと推定されている。

森博達 、1999年(平成11年)の『日本書紀の謎を解く』

 

また、現代訳は学者による合理的理性によるものであり、この憲法を作ったものが意図した「智性」の見地から訳されていないのが、問題である。この憲法の底流にある「考え方」は理性の限界と理性だけにとらわれると本来のものがわからないという批判である。と私は読む。

 

第十条

十曰、絶忿棄瞋、不怒人違。人皆有心。々各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。、我獨雖得、從衆同擧

 

忿(こころのいかり)を絶ちて、瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違うことを怒らざれ。人皆心あり。心おのおのの執れることあり。かれ是とすれば、われ非とす。われ是とすれば、かれ非とす。われ必ずしも聖にあらず。

彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

 

現代訳

心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

 

誤訳にアンダーラインを引いた。

この現代訳は「理性の認識」によって訳されたもので、「智性の認識」だと、彼是則我非。我是則彼非。ここは「彼が是なれば(正しければ)私は非となる。(間違いとなる)。と文字通りに訳すべきで、他者と自分との間に線を引けば、どちらかが是となり他方は非となる。これが理性の限界であり、理性の特徴である。この世では理性を使って物事を分けることは必要だが、智性を使えば、本来はひとつのものなので、そこに是非があるわけではない。理性(コトバ・形)にとらわれず、智性(本性・力)をも使って、現実に対処せよ、というのがこの十条の意味である。

 

正しさの場所

何もしないとそこには正しさも間違いもない。

ところが、時空を線で「囲む」と「正しさ」が雲のように顕れ出る。

しかしこの「囲まれた世界」は休むこともなく流動して変化している。

それに合わせて「正しさ」も同じで変わりのないものではなく、

時空と状況と関係性に常に対応している。

この世にある正しさは、常に変化し続けているということ。

そして、私達にできるのは、このほんの一瞬の「いま・ここ」にしかない「正しさ」に気づき続けていること。

 

 

 

善意は悪いことではないですよね?

と東京からバンコクまで同じ飛行機になった隣の席の人に聞かれたことがある。

 

 

善意には良くないこともある。

それは相手の気持ちに寄り添っていない場合があるからだ。

こっちが良いと思っても相手にとってはありがた迷惑なことは少なくない。

 

またもう一つの良くない善意は「宇宙の法則」に沿っていない場合である。

これはいくら相手の気持ちや望みに寄り添っていても、宇宙の法則から外れている善意の場合は、最悪ではこちらが殺されることもあると言う実例である。

例えば海外援助。

グリーンピースやJICAは外国の地域から喜ばれることが多い。

ところが個々の状況を観てみると、政府関係機関の団体からは喜ばれていても、現地の人からは嫌がれているケースがないわけではない。

例えば1989?年にペルーでJICAの農業指導員が反政府組織によって殺されたことがある。

無償援助でペールの地元の農民を援助する品種改良や土壌改良の指導員で人徳があり優しくて地元の人にも好かれていたという。

誰が見ても悪いのは反政府組織で殺したグループはとんでもない「テロリスト」だと言われていた。

殺したことは確かにとんでもない。

だが、どうして殺されたのだろうか?

政府機関と付き合いがあるということで、事件を起こしたのだろうか?

このことはもう一度、現地に行って確認しなければならない問題だと思っているので、その時に詳細にレポートするが、農業の品種改良の問題は地元の人に嫌われることが少なくはない。

地元の農民は気候や害虫に強く生産高と売り上げが増える農作物を求め、それらを善意で無料で援助する指導員との関係には何の問題もないように思える。

しかし以下のようなケースが有る。

たとえばある品種改良の農作物はあるTPOでは結果を出した優れたものだが、同じ品種を場所を変えて栽培したら結果が出ないことがある。

理由は高度、気圧、土壌、虫、微生物などの環境の影響で、成功して生産高を上げていた品種改良が、新しい地域では全滅に近い結果をだしてしまったケースである。

これまで成功が続いた品種改良の農作物であればあるほど、何のためらいもせずに自信を持って栽培可能な畑に新種を植え付けるケースがあるが、TPOの違いで生産高が従来種に比べて落ち込んだり、場合によっては壊滅的になることがある。

指導員が人格が高いほど、地元の農民は新種を信用して栽培面積を増やしてしまうこともあるだろう。

ニュースのキャスターが人格が高く、良い人であるからと言って、読んでいるニュースが正しいとは限らないように。

この時にJICAは補填してくれるのだろうか?そのための予算は持っているのであろうか?

わたしの知っている限りはそのような場合にちゃんと面倒を見てくれるケースを知らない。

もしあるのならば教えてほしい。すぐに訂正したい。

本来は農民も自分の選択の失敗を後悔するべきだが、新種を勧めて結果を出さない場合の指導員に責任があると私には思えないが、恨みを買ってしまうのは至極当然のことである、と思う。

実は、この人の子供に東京であったことがある。ペルーが嫌いだと言っていた。

当然である。

なんとか状況を説明しようとしたが上手に説明できなかった思いがある。

 

このような良かれと思ってやって、反感を買ってしまったタンザニアの牛乳製造工場、スーダンのパン工場、ベトナムの病院のケースを知っている。

 

どれも現地の人たちの要望があったものであろうが、その地域の「自然の摂理」をしっかりと学んでから実施していないケースである。

新種を勧めるのであれば少なくても3年(3回)ほどは先に試して、その地域の気候や微生物にフィットするかどうか確かめるのが理にかなっているだろう。

 

井戸掘りにも同じような構造がある。

水が少なくて困っている極貧地域に井戸を掘ることは現地の人にとっては喜ばしきことだが、このようなことは一時的なことであって、井戸を掘ることによって人が増えるので、もともと井戸を掘らなければ暮らしにくい地形や気候のところに井戸を掘ったことで、数年後には水が枯れてしまうケースを考慮しないのだろうか?

井戸ができた恩恵で男女はより多くの子供を産むことができ、親戚や友人を近くに呼ぶことができたが、10年後に飢饉となり、もし村ごと死んでしまうのならば誰の責任となるのだろうか?

責任は死ぬ本人だと私はあえて言うしかないと思うが、井戸を掘った関係者はこのようなことが後に起こることをしっかりと説明し、井戸は一時しのぎであり、少人数しかサポートできないことをちゃんと説明しないと、ここでも善意は手放しで称賛されたり、これを援助する人たちによって、大きな苦しみを引き起こしてしまうだろう。

 

また援助国の支配地域の拡大というネオ・コロナイゼーションという深層にある無意識の思いや、

地元国の関係機関の無意識の利権や、農民などの関係者の支配という思いや、

援助国そして地元の公務員の無意識の中には、自分たちの存在意義を確認するためのプロジェクトである可能性が常にあることを、現地の指導者は身にしみて行動しないと、自分の命が危うくなる可能性が高まってしまう。

なぜこのようなことが起こるのか?

 

善意の構図   部分と全体

 

多くの問題は、手っ取り早いを選択しがちな「脳(理性)」のクセから起こる。

一つのことを二分してそれにラベルを貼り付け、心地よい方を選択するというメソッドのことだ。

部分で捉えた善意はどれも危うい。

部分というのは悪意に対しての善意という捉え方をした善意である。

 

 

 

 

 


しかし、全体性の中で善意を捉えると

善意の中に悪意がある。

余計に難しくなるメタファーになってしまうかもしれないが、カミという全体性の中に悪魔がいるというのが、全体性から事実をありのままに観た時の捉え方になる。

キリスト教で言えば、天使であってルシファーが慢心によって全体との繋がりを拒絶して道を踏み外し、堕天使となった悪魔になったように。

このような場合でもカミは悪魔の存在をただあるがままとして捉え、これを宇宙の法則の一つであるとし、悪魔から離れるためには、悪魔は幻想でしかないので、悪魔になった原因である、全体との繋がりをしなかったことを思い出して、また全体の一部を実感することで、瞬間的に悪の状態は消散する。

 

二元性で捉えるのではなく、カミが悪魔を包含する関係で捉え直すことで、カミの定義も変わってくる。

 

これをあえて図に書いてみると

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


という関係になる。

実際にはこの全体性については図に表すことができない。

その理由は、全体性には「範囲」がないからである。

だからもっと正確に図を書くとしたら

 

 

 

Oval: 悪魔
(悪意)
           カミ

            (善意)  

 

 

となる。

 

部分で捉える二分法は脳がいつもしていることだから、誰にでもすぐに分かるが、

全体性を捉えることは五官と表層意識ではできないので、文字に書くことも図に表すこともできなくなってしまう。

ただ方向を指し示し、後は各自の体験に頼る、という伝達方法はある。

 

善意の基準

話を元の井戸掘りに戻してみよう。

井戸を掘る基準を「わたし」にしては、相手の状況を理解していないことになる。

次に相手を基準にしても、それが自然の法則に反しているものならば、遅かれ早かれ、望まないだけではなく、当事者たちの想定外の厳しい結末に導かれる。

なにを基準にすればよいのか?

そう、ヒトの無意識の内にもある自然の摂理、自然の法則、宇宙の秩序と呼ばれる宇宙のリズムである。

これに沿ったものでないと、あらゆる善意は単なる起点としてのパワーであって、その後の安定を約束するものではない。

このように善意を考えたり、実行するには、何よりも先に、自然の法則をよく理解し、それが新たな場所ではどのように形になるのか、深く吟味して、TPOに適応しながら、状況の変化に常に修正をしながら勧めていくしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相手