精神病と論蔵
精神病とは間違った認識からはじまり、
怒りと欲によるパターンで勝手に反応してしまうので状況判断ができなくなり、
自分の想いと環境とのギャップに悩み苦しみ、
環境を受け入れることができずに自分の作る妄想を推し進めて、
判断が混乱したままの状態に陥ること。
はじめに
精神病の概要とプロセス
貪瞋痴
アプリ作成 信号に自動反応する回路
絶対の正しさを作る方法 100の内10だけに焦点を当てる
間違った見解、間違った判断 怒り、欲
比べる心でアプリの使用を増大
繰り返すことで、インプットではなく、アプリを動かすことに依存する こうなると精神病
心所
特に多い「怒り」の心
心の法則
治し方 元に戻る
はじめに
人は感情アプリの集合体 感情を論理で合理的に見えるようにしているだけ
一つの信号がインプットされれば、それにアプリが反応してアウトプットの感情が現れる。
信号に対して既に設定された「遠近・好き嫌い」によって行動している。
論理的な善悪ではない。いくら理性的なことを言っても、結局は好き嫌いという感情で生きている。
それなのに理屈や理論を交えて自己を正当化しようとするので、多くの精神病が生まれる。
たとえば潔癖症。
顕微鏡で見た細菌や学習した細菌学から、理論で考えるようになったから陥る症状です。どこもすべてが細菌だらけだとわかるまではいいのですが、ヒトは感情で動く生物なので、細菌に嫌悪感や遠ざかりたいというアプリを作成してしまうので、それによって動かされてしまうのです。
理論を学習したことで本人はそれを基準にしているつもりですが、実際には、その理論から導かれた感情によって支配されてしまっているためです。
名前は世俗の約束ごと
この世の中で認識するすべてのもの、経験するすべてのものに名前をつける。
ラベルという名前が違うと思ったら簡単に変える。
たとえば、痴呆症を認知症、精神分裂症を統合疾患症というように。
自分だけが名づけても通じないので、名付け作業は共通合意が必要になる。
だから名前というのは世俗諦であり、施設(みんなの約束事)させるからその名前などを声sadda(音)施設という。
精神病のプロセス
貪瞋痴
アプリ作成 信号に自動反応する回路
絶対の正しさを作る方法 100の内10だけに焦点を当てる
間違った見解、間違った判断 怒り、欲
比べる心でアプリの使用を増大
繰り返すことで、インプットではなく、アプリを動かすことに依存する こうなると精神病
妄想が基準に
精神病
幸福を嫌がる人。
好んで苦しみを経験して、できる限り暗い妄想をして、暮らすことを求めている人。
苦しみを味わうことが快感で、それを求めている人。
貪瞋痴を基準にしている人。
無知のせいで、強烈な刺激を期待してる人。
精神病と精進
まず精進の心所のある意門引転心が生まれ、そこから思考する心が流れる。
このように思考には善悪に関わらずに精進がある。
思考と妄想の違いは止められるか、止めにくいという程度の問題。
理由は過去に作った自動反応アプリケーションの違いであり、思考の原因は思考パターン、妄想の原因は感情パターンであるから。
思考パターンは論理的データをインプットとするのでそのデータをチェックする時間がもつことで管理しやすいが、感情パターンは条件反射ができるように快・不快(好き嫌い)のタグと直結して作られたものなので、インプットの信号を瞬間的に処理してアウトプットを出すので、管理しづらい。
また思考パターンは結論という結果に達する必要があるのに対して、感情パターンは結論に達する必要がないので管理しづらい。
精神病とは欲と怒り
欲望を作ったがそれが高すぎて、それを叶える手段がない。 失望、 心が止まった状態
欲望を作って、追っかけたが叶わない。 怒り
怒りを外に向けると、反社会的行動
怒りを内に向けると、自己犠牲 ひきこもり
各自は「我こそ正しい」と思っている理由とそこからの脱離
それは各自が何度も体験したことに基づいて間違いなく思考しているので、このように自分の見解に対して自信を持っている。
しかし認識のシステムを理解すると、「誰の知識も見解も大したことではない。それは単なるその人の「思いのパターン」でしかないので、信憑性も真実性もないことが分かる。」
これが分かれば、世の中の誰とも争おうとはしない。
逆にその思考パターンで暮らしていける世界があることを学ぶことができる。
自分とは違う環境で暮らすことによって得た価値観から、その人の境遇や周囲の事実が推定できる。
世の中のどんな意見にも別に魅せられることも囚われることも嫌になることもなく、クールに心安らかにしていられる。
これが仏教の智慧の世界観で、なんの意見も持たない立派な人間になり、世の中と逆らうこともなくなる。
精神疾患の大半は比べる心から発生する? 精神病
自己意識過剰から生まれる「慢」比較する心。この「慢」をコントロールする訓練をしたら、現代心理学が扱っている精神疾患を半分ほど治せるのではないか?
自己意識過剰で「妄想した考え」を繰り返すことで、怒りを倍増させて、それで心と身体の問題が次から次へと起こる。
精神疾患の半分が怒りで病気になっている。貪欲よりも多いのが瞋恚による病。
怒りをコントロールするように励めば、精神疾患は治る可能性がある。
すべての精神病は、妄想の結果で起きている。
妄想を管理するのは難しいので、精神病に罹った人は自分ではどうすることもできないように感じてしまう。
そこで向精神薬などの薬に依存することになる。
脳に刺激を与えて、心の機能を抑えるメカニズムである。具体例の化学変化
身体と心は連動しているので、長い間妄想を続けていると、身体が壊れて調子の悪いものになり、不健康なものになる。身体が悪くなると、身体の影響でさらに心の流れが悪くなる。
だから身体の建康が壊れる前に思考を変えれば、楽に治る。
医者が薬で肉体の機能を低下させると、妄想の悪循環を上書きすることができなくなり、薬に頼るしかなくなる。
薬とは一時的に症状を抑えるだけなので治療とは言えない。
執着がなければ苦しみなどの問題はない
膝が痛くても、癌になろうと、執着がない人は楽で楽しい。
「痛み」はあるが、これが痛みだと認識する地点で終わる。
ところが、「どうしよう、もっとひどくなる、なんとかしなくては」などと思うと痛みは継続する。
肉体的な痛みはあるが、精神の悩みや苦しみはないので、楽である。
想いは何でもでっち上げる 精神病はすべて妄想から生まれる
角の生えたウサギを見ることはできませんが、イメージすることはできる。
意門心路は事実とは違うことを何でも空想して、そこから感情パターン(自動反応アプリケーション、感情アプリ)を作成できるので、五門心路よりも、意門心路の妄想に徹底的に注意する必要がある。
心所
すべての不善にある4つの心所 akusala-sādhāraṇa-cetasika 共不善心所 sādhāraṇa共通
こころが不善かどうかはmoha痴、ahirika無慚、anottappa無愧、uddhacca掉挙によって決まる
どの不善の心にもこの4つが共通している。
罪を犯すために必要な基本条件である。
実感しにくい4つであるが、逆に言えば、この4つを取り除くことができると不善にならない。
こころが有効に機能しない原因はたったこの4つであるので、これらの心所が機能しないしようにできれば、現代心理学が抱えている問題を解決できる。
慚愧を患者に叩き込めれば精神病は治ると推定される。
moha痴 無知の痴。認識する対象について無知である働き。
ものごとの本当の姿、ありのままの姿がわかっていないこと。すなわち真理が分かっていないこと。
真理とはaniccā,dukkhā,anattā。
自分で認識できる世界しか私にとっては存在しないので、その世界が基準になる。言葉を変えれば「私が知る世界は正しいのである。」、
だからといって、私が知っていることが真理とはいえず、自分の未だ知らない領域も多く存在する。
言えることは、自分が認識できることは一時的に正しいとしか言えない。
このような状態を「無知」とよぶ。こうして生命体は皆、悉く無知、ということになる。
しかし、このように言えるのは、真理をありのままに体験した人、すなわち阿羅漢だけである。
たとえば、赤外線カメラを使用している者はその映像を見ることはできるが、裸眼では赤外線カメラのように見ることはできないので、認識の次元を越えたことにはならない。
五感感覚の次元に翻訳されたものを見ているにすぎないので、これも無知という。
貪瞋は、そうではない場合との相違(差異、ギャップ)があるので、自分自身で認識できるが、「無知」は「無知ではない状態」が殆どないので、認識しようがない。
何が無知なのか?
すべては生滅変化している「無常」であるので、その瞬間に現れる一時的な現象であるので、実体として存在するものではなく、すべては「空」であることを分かっていない状態。
たとえば、生花には、「これが美しさである」という実体はなく、それぞれの要素が相互に補い関係しあって、一部一部に、一時一時に、美しさを演出している。実体がない「空」を表現するのが生花である。
アートの一つの役割は無常を体感させることである。
生花とは小宇宙を作って、それを大宇宙の適所に置く技である。
眼耳鼻舌身意を「我」という小宇宙をまとめて、それをTPOに相応しいところに置くのが仏教の修行
また、本来の自分などはなく、「ある一部一部の自分」が「その時々の自分」としてあるだけである。
しかし、無知である私たちは、スミレの花は美しく、人生は苦しみだと言われてもやっぱり楽しい、と思ってしまって、無知の領域から抜け出せない。
無知を抜け出し、真理を知っていると、私の家もないし、私もいないし、何もなく、現象とは空であり、すべてが空であることが分かる。
無常を常に体感できていれば、無知mohaがなくなって、すべての問題は解決されて、「覚る」ことになる。
すべての罪papa、未熟askalaの基は、この無知mohaである。
ahirika無慚 a否定 hiri恥 ka状態 悪を為すことに恥じない働き。
かっこ悪い、世間から変に見られる、恥ずかしい。 見栄えや高慢なプライドではない。
罪を犯したくない人は人間としてのプライドを育て、自分自身をコントロールする。
anottappa無愧 an否定 ottappa怖い 悪を為すことに怖がらない働き。
悪いことをするのが怖くない 臆病者がする勇気のはき違い
弱い動物は、それを誤魔化すために、怖くないことをアピールする。
悪い行為は悪い結果になる、怖いものである。
慚愧によってモラルを守りセルフコントロールをしているので、無慚と無愧anottappaになると自分自身をコントロールできなくなり、罪を犯すようになる。
慚は内側に対する関心で、自分が恥ずかしく、
愧は外側に対する関心で、現象が怖い
uddhacca掉挙じょうこ 心が混乱して集中できず、落ち着かせない働き。
あがっていたり、焦っている状態。
人が悪いことをする瞬間は、だれもが心があがっていて、自分で何をしているのかまったく分かっていない。
自我意識がなく、自分自身をコントロールできなくなる状態。
一瞬の瞑想でも心は落ち着き掉挙から離れて自己意識が働くようになるので、たいへんな善行為だとする。
lobha欲セット lobha欲、diṭṭhi見、māna慢 共通点は「私」が好き。
lobha貪 知覚する対象を好いものとして受け入れるはたらき。
欲lobhaが起きると暗い気持ちになり、その瞬間は何もできずに落ち込む。
色声香味触の信号(情報)にこころが逆らわずに「まあいいんじゃないか」と受け入れる場合は、心にlobhaの心所がある。
lobhaは「欲」とも翻訳されるのは、色声香味触の信号を受け入れると、その信号に欲が生まれるから。
複数の音が同時に耳に入っても、ある音を受け入れ、ある音を受け入れない。
受け入れた音は欲lobhaが生まれ、受け入れない音には瞋dosaが生まれる
raga?渇望とdosa?嫌悪か 感覚のタグの快・不快・中立のパーリ語は?
気に入って受け入れたら「欲」が生まれる
色声香味触を認識して受け入れた瞬間に生まれるのが欲lobhaである。
きれいな音楽を聞いて気持ちよくなるのが欲である。
仏教は「○○がある」というように妄想するのではなく、色声香味触に対して、どのような態度をとっているか寄り添ってみることを勧めている。
ある味を受け入れるということは、その味に欲lobhaがあると、アビダンマではいう。
たとえば納豆の味を受け入れると、その味に欲lobhaがあるが、隣の人はこれは食べ物ではないといって拒絶するかもしれない。
衣食住の行動をする時にやりたいことだけをするという普通の生活が「欲」が心にある状態なので、「欲」は巨大で、並大抵のことでは捨てることなどはできない。
生物はこの欲lobhaのはたらきにより、安心してサバイバルしているとも言える。
覚っても欲lobhaはあるので、第三段階の不還果に達してはじめて消える心所である。
仏教が推奨する認識感覚
「ものごとに囚われることなく、蓮葉の上の水玉のごとくいること」と説く。出典?
akusala-cetasika 14 不善心所
moho ahirikaṃ
anottappaṃ
uddhaccaṃ
lobho diṭṭhi māno doso issā macchariyaṃ
kukkuccaṃ thīinaṃ middhaṃ vicikicchā ceti
cudda’ ime cetsikā
akusalā
nāma.
痴、無慚、無愧、掉挙、貪、見、慢、瞋、嫉、慳、悪作、惛沈、睡眠、疑の14の心所を不善心所という。
気をつけるべき罪は「邪見」
間違っている考え方を基礎概念にしていると、自分の行動をはじめ人生のすべてを間違えてしまう。
思考が間違っていると、いくら自他を守ろうとしても守れないし、どこで何をしていても自分を信用できない。
この邪見の一番罪深いのは、身体や言語での活動ではなく、こころの活動である。
心の状態が一番危ない罪である理由は、身体と言語の活動は条件が揃わないと形にならないが、心の想いは何度でも繰り返されるから。
釈尊は説く。「邪見の人の死後は地獄か畜生の二つの道である」出典?
cf.ジャイナ教では身体でしている行為が一番罪深く、次は言語活動で、最後に思考による罪である。
仏教はこころを第一とする宗教である。
diṭṭhi見 ものごとを、真実に反して理解する働き。邪見。
間違った考え方、見解。
本人の立場では、間違った見解ではなく、正しい見解であるが、他者の立場ではその見解に同意できないことが多々ある。お互いに見解が違うので「もの別れ」になる。
diṭṭhi見とは何か?
「私の見解は正しい」ということ。
誰もが自分の見解は間違っている、と思うことはしない。
すなわちどの生物も見diṭṭhiの心所を持っている。
認識して「理解」すると、見解という思考パターンが必然的に作られる。
釈尊の説いた邪見とは「我が意見こそ正しい。他人の意見は間違っている、と固執すること」
自分の見解が大好きで愛着を持っているので、他の理解の仕方に対して柔軟性や寛容性がなく頑固に拒絶する。
「見」に基づくと、人は融通がきかなくなり、頑固になり、心を閉ざす。
時に自分の見解と自我意識を同一視して、自分の意見を批判されることにも嫌な気持ちになる。
現代の病理は、自然法則を排除した文明圏の見解を過剰一般化させて、その外側にも矯正させようとして争いを起こしていることである。
なぜそこまでして自分の見解を他人に強制しようとするのか? 自意識を満足させるガソリンなのか?
智慧を完成させたブッダの「見」が真理
異見が成り立たない事実で、誰でも試してみるとそこにたどり着く見解で、これを真理という。
たとえば、地球は丸い、という見解に異見を持つ者はいない。
それはaniccā,dukkhā,anattāであり、すべての現象は因縁によって成り立つということが、ブッダの発見した真理であり、他は邪見になる。
仏教の立場の正しい思考とは何か?
ありのままの事実は正しく、知識は正しくない。
知識とは各自や社会の気持ちや好みや理解能力による都合によって作られたもののであるから。
生命体は始めから真理を知らない「無明」の状態からスタートするので、正しくはないが罪ではない。
ヒトは「こころ」を育てない限り、ありのままの事実を認識することができない。
ところが、多くの人は現象の世界がありのままの事実だと勘違いしており、その原因は「私がいる」と固く信じているからである。
この自己意識を基準にして得るデータ(科学的事実)で作られた知識に基づいて見解を作って、それに固執したならばそれが邪見である。
たとえば因果法則を科学的事実の領域だけで理解して、その奥層の領域にある「善因楽果、悪因悪果」を否定するならば、これは邪見であり、死後の輪廻転生にかかわる重罪になる。
これは道徳という「心の世界の『道』」の否定になるからである。
無明があっても、人には善行為をすることも、悪行為をすることも可能である。
kusalaとakusalaは道徳的な善と悪ではなく、上手か下手。
kusala じょうず、うまい、巧み 熟練
akusala へた、 まずい、稚拙 未熟
「こころ(心のはたらき)」も立派なこころとそうでないこころに分けることはできるが、
「心」はただの認識のはたらきなので、道徳的な善悪ではない。
特に多い「怒り」の心
原因のない不安は病気であり、怒りである
恐怖や不安とは、心の中で怒りを育てている証拠である。
精神的に言えば、それは病気である。
現代の精神病のほとんどは、怒り(自分、社会への絶望と拒絶)から生まれる。
あるがままを見るのではなく、拒絶することから始めてしまうのである。
自分の望む世界と現象との間にギャップがあるので、現象を拒否して生きることから、根本は怒りを持って心を回転し続けてしまって妄想にまでいたるのが、精神病の心のメカニズムの一つである。
byāpādo 病的な怒り
怒りが心の中に留まり続ける業kamma
けなしたり、悪口や暴力という形になって表に出ることなく、常に心の中で育まれ、膨張して孵化する。
「怒り」が小さくても悪口や暴力という形になることがあるが、罪の重い一番の問題は、byāpādo瞋恚である。
社会ではそれほど悪くないが、仏教では罪が大変重い。
なぜならば根拠もないのに怒りを孵化させていることがたいへん悪い。
いじめられて怒ったのであれば、いじめられなけれ怒らないので、精神的な病気ではない。
しかしbyāpādo瞋恚は形にして怒ることはせずに、心の中で見えない形にして孵化させている。
この心の流れに慣れてしまうと、再生の時に不幸な生まれになってしまう。
だから、心の中で怒りの感情を作ってはいけないのはクセになったらコントロールできなくなるからである。
特に怒りの妄想はものすごい勢いて回転してしまうので歯止めが効かなくなる。
異常な怒りという結びのシステムbyāpādo kāyagantho
原因不明のコントロールできない怒りなので、収める方法がない。
現代社会のキレる現象はbyāpādoによる精神病。「できることならもっとやりたかった」と思う加害者。
異常な欲と同じく妄想から生まれる。
心の法則
電気(認識)と電池(身体)
ヒトの認識は眼、耳、鼻、舌、身、意が身体という物質の中に生まれる。
電気はいつでも電池という物質の中に生まれるように。
こころ(認識の働き)のエネルギーは身体に依存している。
身体がなければこころは何も知ることはできない。
身体自身で外の世界を認識している。
身体自身がこころが働く物質(心色)である。
こころの場所は?
心臓の中の血液を拠り所にして、意識が働いている。 アビダンマッタサンガハ 10c
ヒンドゥー教で考えられている心臓の概念を取り入れいる。 ブッダゴーサ5c
人の魂は心臓の中にある。
魂はヒトの生命、生命・精神のことで、不滅である。
しかし血液は一箇所にとどまってはおらず、毎秒、死んでは新しいものが生まれるので、永遠の魂ではない。
「私」があるように感じてしまう理由 心の変化が早すぎること
心の速さは光速よりも17倍早い。
1秒間に音が4000万回(40メガヘルツ)変化するとヒトは音として認識できる。
変化する回数が速くなると、その変化を捉えられなくなる。
心が変化することでヒトは認識する。
その時にはbhavanga状態という「元の自分」に戻ってから17回の心の変化が始まるのだが、この回数があまりにも多くなると、戻る度に「自分という実感」があるのだが、この状態がずっと続くと、「自分がいる」と誤解が生まれる。
つまり、光や音よりも早く変化していく「心」自体を、「変化していない個体」として感じてしまう。
するといつでも「自分」という実感を持ってしまう。
そして、変化しない自分、永遠の我がここにあるのだと勘違いをしてしまう。
大異熟心は一生涯分の心の能力や性格を決めてしまうもの。
この大異熟心を基準にして思考を繰り返すと、自我になる。
「私」の実体は色受想行識であり、自我としての「私」ではない。
自己回転する心の法則
六根からの信号である対象がすべて消えてしまうと、心は自己回転する。
たとえば、寝て深い眠りに入ったら、起きている時のような「認識」はなくなる。
この時にも心は自分が持っているエネルギーで自己回転している。
この自分とは自分の心(生命)なのか、自分の身体なのか?
ただこれは面白くないので、そのうちに目が覚める。
止まらない心が3次元の殻にしがみつく
六根から入る信号が自分の命だから、死なないために、これらを大切に守ろうとする。
信号が入らないと、それだけで、とても不安になり、ストレスが溜まり、恐怖になる。 (二巻p234)
入院した時に、医学的には点滴で栄養補給は十分であるが、生命的には味と感触と香と目の信号がないので、不安になる。
六根からの信号(刺激)が欠乏すると飽きてしまう。
田舎にいられない、暗闇で落ち着かないのは、信号が欠乏して、それによって、自分の命が脅かされているかのように感じるほどのショックになる。
なぜならば、死とは心の回転がなくなることなので、心の回転を邪魔するものに対して無意識の恐怖を感じるからである。
しかし実際の事実は五根からの信号が遮断されても死ぬことはなく、心の回転は止まらない。
これを体験して、確信できれば、五根からの信号に頼る欲界を乗り越え、色界の心を着くために必要な条件であ
治し方
元の自分のリラックスした心に戻る
精進してももとに戻るのは大事なこと。
精神病になる人で「自分に戻って、休む」ことをしないことが多い。
「休まないのを美コして、リラックスしているのを認めない」と身体も心も壊れてしまう。
明るく楽しく生きたければ、元の心に戻ることを大切にすること。
pīti喜 知覚する対象を、好み喜ぶ働き。愛好
いかなる場合も喜pītiを感じられるように行為すれば現代の精神病の多くは治る。
物質から得る喜びには限界がある。
たとえば、読書、食事。はじめは楽しくても、続けると苦痛になるので、このようにモノに頼って得るpītiはたいしたものではない。
限界がきても喜びを感じたいので、次の刺激を探し続けるが、それも途中で麻痺して喜びではなくなる。
五欲の喜びを仏教が評価しないのは、喉が渇いた人が塩水を飲むようなものだからである。
喜びやキレイだと思うものを、そうではない、と感じられるようにこころを調教することもできる。
瞑想では、モノから喜びを感じるのではなく、モノから離れることで喜びを感じるので、限界がない。
静けさを喜ぶようにこころを育てた場合は、苦は生じない。
こころを集中させて落ち着くことでこころの荒波を消すと喜pītiが生まれる。
落ち着きという原因で喜pītiという結果が生じる。
喜pītiを育てると外の嫌なことでも内側のこころのはたらきで喜pītiに変えることができる。
喜pītiがないと何事も長く続けることができない。
精神的に悩んでいる人の治療法
14の不善心所によって精神(こころ)が病んでいるので、患者の状況を不善心所に照らし合わせて分析して、各患者の対処方法をそこから導き出す。
解決策
自分でどんな希望を持っているのか、はっきりと知る。
人生観、望み、欲しいもの、して欲しいものを全部明確に書いてみる。
書くことによって気づくことができる。
二回読むと馬鹿らしくてうんざりする。
治療のポイントは妄想もviriya精進が必要であるということ。
妄想の激しい流れを精進viriyaを使用して、妄想の悪循環の流れを変えるのが具体的な方法である。
妄想を具体的な合理的な思考に置き換える作業を繰り返すこと。
「いま・ここ」にある音しか聞こえない 心を清らかにする理由
この当たり前のことを再認識する。
つまり、それ以外の認識は意でおこる膨大な概念、知識、記憶、思想に膨らませたものである。
耳に入ったもの、目に入ったものが、生命体に精神的な苦しみを与えることはないが、私たちは限りのない苦しみがある。
これらの苦しみは自分の意の中で現れ出る。
だから心を清らかにする修行をするのである。