心は病気 アルボムッレ・スマナサーラ長老 Alubomulle Sumanasara Thero
心は自分の偉さを実感している。
この生命は、自分がしたいこと、欲しいものを、死んでも手に入れてくれる。必ず言う通りに動く。
ということを体験して知っているから、「私が偉い。」と思っているのです。
人を簡単に壊す
自我すなわちプライドを決して認めずに、徹底的に傷つける。
相手の立場を壊す。
死ぬまで忘れないし傷つく。
精神的な病気は自分を守るカラクリ
競争して負けそうな時に、ココロが精神的な病気を作ることがある。
勝負をしたら自分の自信が消えるとわかったら、体や精神状態に異常を感じて、寝込んだり引きこもりになったりすることがある。
こうなると、「病気だからしょうがない」「競争したくてもできないのだから仕方がない」
こうやって自分のプライドをそのまま傷つけることなく守る方法です。
「私こそ偉い」という自我はそのままに保つことができます。
自分に自信がなくなって、うつ病になったとすれば、それは自分で自分の命を守っていることになります。
病気なのだから、私のせいではないという論理を作ることで、プライドを守っているのです。
どれも逃げです。自分を否定される事態から逃げているのです。
自分の体を犠牲に差し出してでも、自我の優越を守るために、目の前の事実を捻じ曲げて、妄想のストーリーを作り、それに同調するように、自分自身の意識に、自分の体に、周囲の人に強要する。
自我意識とエゴ
自我意識はそれ自身で意味があり大事なことなのだが、それが増長するとエゴになる。
自分にしか通じないエゴのルールを他人に強要し始めると、もうどうしようもない。
自分のことをよく見ずに考えて判断してしまうと、とたんにエゴが出てきます。
強いエゴの塊になると、その人は柔軟性を失ってしまいます。
自我とは自分のことを気が付くことができない状態のことです。
つまりエゴの時には「確固たる私がいる」と信じて疑うことができません。
見たり、聞いたり、話したりする、変わらない自分がいる、存在していると思っている時です。
この状態では、瞬間瞬間に変わっていく環境に適応できなくなります。
これが精神的な病気になる原因です。
そして病気になると、「私はそういう病気だからしょうがない」と思うようにします。
体に病気がある時も同じように、○○病だからできないんだ、として自分を正当化します。
そしてますます精神的に弱くなります。
教育とはしっかりした人間をつくること。
両親、家族、親戚、地域の仕事。 みんなですること。
昔は現代ほど精神的な病気がなかった
自然の中で生きていたことで、「自然のルールを認める」ことをその人の意思にかかわらず生活の中でしていたから。
都会には都合の悪いことが少ないので宇宙のルールを認識したり、納得したりする機会がないので、これらを何一つ認めない性格になります。
台風、地震、死。
病気が見つかると、これも認められないので、都合よく治そうとします。
自然のルールがあるところでは、「悲しいけれど仕方がない」という心構えでした。
自分にはどうしようもない現象はそのまま受け入れることが、当たり前にできていました。
受け入れられないだけではなく、「自分の手でコントロールできる」と思って行動します。
するとモグラたたきのように、抑えると今度はほかのところに抑えたものが出てきてしまいます。
完璧にコントロールできるという高慢さと妄想をすてれば精神的な問題も存在しないのです。
ココロを慈悲にする
相手の立場を自己に投影してみる。
相手を他人ではなく自分として見る。
慈悲の瞑想
私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回)
私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回)
生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
これまでがワンセットですが、さらに続きがあります。 次は、自分が嫌いな生命、苦手な生命のことを思い浮かべます。嫌いな生命のいない人はまずいないはずですから、それらの生命を心に思い浮かべて、 それらの生命のために「慈悲の瞑想」を実践します。 さらに続けて、自分のことを嫌っていると思われる生命のことを思い浮かべて、それらの生命にも「慈悲の瞑想」を実践します。
私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように
そして最後にもう一度、
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)
智慧が育つと
「怒りと欲の激しい波」ではなく「落ち着いた静かな波」
失敗も成功も仏教から見れば大した変わりはないことが実感できる。
ヴィパッサナーとは
ヴィ ありのまま
パッサナー 寄り添う、見守る、ココロの目で見る
洞察の瞑想
心地よいことでも不快なことでも、ありのままの体験を価値判断しないで、そのまま観ます。
排除という解決策は新たな問題が起きるだけです。
葛藤やストレスを除外したり、コントロールしたり、改善したりしてするのではなく、ただ気づいているだけです。
すると、波立っていた心の水面が穏やかになって、そこから深い智慧と洞察力が生まれてきます。
そして原始脳から操られることなく、大脳の活性化により疲れてしまうことなく、太陽光バッテリーが充電されるようにエネルギーが充満してきます。
その状態を見つめてみれば、安穏し、緩み、平和なココロの状態になっているということです。
実践方法は
スローモーション
実況生中継
感覚の変化を感じ取る 変化を解釈せずにただ感じるだけです。
の3つの原則を守ることが瞑想です。
キーポイントは自分の体に「気づいている」ことです。
気づくことは「わたし」が自己や自我すなわち思考や感情に囚われていない純粋な状態にいるということです。
また時間と場所と行動することが重要です。
最後に慈悲のココロでいることがこの状態を長く保つコツです。
慈悲とは、エゴを弱める秘密兵器です。私と他人の区別が薄まれば、それだけエゴは弱くなっているのですから。
気づくとなぜ穏やかになるのか。
穏やかになると智慧が生まれるメカニズムとは?
私の仮説
気づいているとは、「わたし」が脳幹に寄り添っている時の自分なので、「わたし」が大脳に寄り添うことで思考している状態でもないし、「わたし」が大脳辺縁系に寄り添うことで感情に支配されている状態でもありません。
つまり、固定化してカタチを持ってしまった自己でも、感情の中に入り込んでしまって操られている自我でもない、純粋な「わたし(観察者、スポットライトを当てる人、知る者、knower,watcher)」でいられるのです。
この「わたし」の状態でいられることは、思考や感情に振り回されないで、静かに穏やかにいられるわけです。
では穏やかでいられるとどのように智慧は発生するのでしょうか?
智慧とは漢字では日(宇宙)の法則を知り、知識や思考を箒で掃うことを意味します。
穏やかになるとは、自分の中の感情や自動反応回路の条件反射や情報の選択や判断をしていない状態のことなので、これまではココロの中の思考や感情の激しい信号で聞こえなかったダンマ(宇宙の法則)の信号が感知できるようになるのです。
宇宙の法則はいつもあるのですが、微細で、繊細で、微妙で、幽玄なので、ココロの波が荒い時には気が付かないだけなのです。
智慧とはパーリ語のパンニャPaññāの漢訳で、3つの種類があり、経典や師匠から教わるもの、大脳で分析して理解するもの、そして個々の己の体験から直接に獲得するものがあります。
大事なのは3つ目の直接の体験ですが、これも思考や感情がある時空ではそちらの信号や刺激や決めつけや習慣やルーティンや条件反射が強すぎて、生まれては消えていく微妙な変化の感覚をココロが穏やかな状態でないと体験することができません。
頭の中のガラクタを片付ける
わたしたちは無意識の中に一瞬一瞬に入ってくる情報に対して評価という反応をしてしまっています。
これに莫大なエネルギーを使い、疲れ、思考が作り上げた世界の中で彷徨っています。
これらの思考や感情の自動反応回路をかたづけないと、智慧の入る場所がないので、成長することができません。
考えることで人はバカになる
人間がバカなのは考えるからです。
人の問題は考えること自体にあります。
思考とは妄想です。
思考をやめるとすごく穏やかに生きていけます。