「病」の意味 島田明徳
ウイルスを受容したら、B型肝炎が治った。
病原菌を拒絶するのではなく、自分の一部として認めたら奇跡的に治癒した例がある。
なぜこんな可能性があるのか?
病とはどんなメカニズムなのか?
心臓は誰が動かしているのか?
オートマティックです。
しかしあまりに自然なので、私たちはこの働きを自覚することができません。
このオートマティックな力によって肉体が機能しているのに、それを自覚できずに働きを無視し続けてしまっています。
病気の原因に気づけない理由
氣の働きがあって自分が誕生し、氣の働きで私たちは存在し生活しているという実感がないから。
あまりにも当たり前すぎて、氣の働きがあって自分がいられることが理解できないのです。
他人の自分勝手さはよく目につくのに、自分に関してはまったくというほど気が付かない。
これがなぜ病気が起こるのか?がわからない理由であり、社会が混乱している最大の原因です。
何故気づけないのか?
大脳皮質の外側で起きている出来事に関しては非常に強い関心がありますが、自分について、身体や心の働きについての内面的なことに対して関心を持ちません。
スポットライトは外側だけに向けて内側に向けないのです。
これが「生かされている」ことに気づけなくされている原因です。
この本当の意味に気づけたならば、自分を生かしている法則と調和して生きるようになり、「生ききる」ことができます。これが「自分で生きる」ことです。
法則があって自分がいることに気づかない限り、人は自分勝手をしていることがわかりません。
体と宇宙
どちらもミクロの世界を追求していくと、波動となり、波の集まりになると物理学の世界で解明されてきています。
物質の違いは波動の密度の違いでしかありません。
密度の違いを創り出しているのが法則です。
法則にそくして素粒子が働かないと、配列が狂い、細胞も異形になります。
病的な状態とは素粒子の配列の乱れです。
配列の乱れは宇宙の法則から離脱したことをすると起こります。
大自然の波動と調和していないと病気というシグナルを送ってくれます。
不調和の原因はヒトの心、すなわち自我意識です。
自我とは自分以外のものがあってはじめて自我として存在できます。
自分以外のものがなかったら自分も無くなってしまいます。
自分を形成し確立するには自分と自分以外が必要でした。
次にその確立した自分を深く認識するには、自分と自分以外の関係を統合することが必要になります。
この二つが統合されると、真の自分の姿である自然な自分を発見できます。
ヒトの目的
自分を満足させるため。
自分の自覚している欲求を満たすことではなく、欲求を持つ自分とはなにか?を知ること。
つまり外側の世界にあるものを求めるのではなく、自分の内側の世界へ向かうこと。
内臓の自分、自分の無意識、魂に出会うこと。
病気は生きている意味に気づかせるためにある
私たちを人間にたらしめしているのが法則、そしてこの法則と融合して一体になる。
その時に私たちは「自分とはなにか?人とはなにか?」といったことに対する明確な答えを得ることができる。
生じる苦しみは、この事に気づかせるためにある。
だから病気になった時が絶好のチャンス。
癌になったら
ガンになったことを嘆いたり、ガンを恨んだりすることはやめる。
人を生かしている働きとの不調和を感じとる。
不調和と感じるところを改善していく。
自分を生かしている法則と繋がる。
ガンはどこから創られるのか?
自覚できる自分が創るわけではない。
無自覚の自分が創っている。
細胞を構成する法則が何らかの障害によって機能できなくなって、細胞に歪みが起きてガンになる。
ガンは自分の中から出てくる。
ガンも自分であることに変わりはない。
ガンを憎むというのは、結局自分が自分を憎んでいることのほかならない。
憎んでいるうちは良くはならない。
ガンも自分の一部なので、ガンと友だちになって、一緒に過ごしていこう、という気持ちになる。
するとガンが自然退縮したり、治る例がある。
なぜこんなことが起きるのか?
自覚と無自覚の間の歪み、この歪みがすべての病気の根本原因。
つまり、自分を生かしている法則が、自分の勝手な考えによって乱されてしまい、病気が生じる。
ガンになるということは生かされている法則と、自覚している自分がうまくジョイントできていないということを示す身体のサインです。
いつも体からメッセージに気づけるようになるようにしなくてはいけません。
養生とは自分の身体に気持ちを向けること
病気になったら病気を治すのが先決で、養生どころではなくなります。
養生は病気になってからするものではない。元気な時に考えておくこと。
生きること養うとは、どう深く生きるか、ということ。
ここにいられるのは生かしてくれる法則によってだから、この法則を第一優先にして生活しなければならない。
波と海 自覚と無自覚 潮汐と海底 大脳と腸
波は波だけでは存在しない。
風や潮や太陽や雨が海に関わって、波ができる。
だから波は常にカタチを変え続けている。
しかし、これを波自身が理解できないのはなぜか?
波そのものは、自分が海のカタチの一つであることがわからない。
小さい波には大きな海がとらえきることができないからです。
だから波だけで存在していると思ってしまう。
波が自覚、海が無自覚。
自覚は自我意識、海は無意識、
自我意識はわたし、無意識は魂。
わたしは自由意志、魂は大自然の法則
学習の第一ステップは、法則である海があって、自分である波はこの世にいる、ということを理解することです。
まずは理性で理解することが先決です。
後で誤解や混乱に陥らなくても良いように。
第二ステップは、自覚できる領域である波を使って、無自覚の海を理解していくことです。
波が海を理解するためには、喩え(相似)が必要です。
波に海の体験が必要です。
常に変化している波はどうすれば自覚できない海を体験できるのか?
それは波を静めることことです。
静まった波は、もう変化のしない平静な状態になり、これはもう極小な海とも呼べる状態になります。
平静になった波の小さいカタチは海の大きなカタチと相似になり、波は海を体感します。
完全な平静な波はもうカタチがなくなり、海の一部になっています。
自覚している自分が静まった時にはじめて、自分が無自覚の海になります。
波にカタチがあるかぎり、波から海を理解しようとして、海に同化することはできません。
波は言葉(哲学)と形(科学)を使って、荒立つ波の頂点の一部を平らにして、海を表現します。
波は海の一部であると。
しかしこれは波が海を体感することありません。
障害者と健常者
障害を波側からとらえるとハンディキャップです。できることができなからです。
しかし海側からとらえると、障害こそが、人間の生きる目的を教えてくれる大切なものです。
海があってはじめて波があることを体感し、波である私たちのこの世の目的が自分が海であることを知ることであるのならば、障害があることで道は啓きます。
障害は無意識であるにせよ、人間の目的に向かって進むという試練と修行の実践者です。
障害や重病は、海(大自然の法則)の方から修行しろと強制されたようなものです。
海も自分ですから、無自覚な自分が自分に働きかけていることになります。
波はこれをすぐには受け入れることができません。
しかし障害は波からみれば不自由な分だけ、海からみれば法則に則り生きることができ自由です。
これに気がつくことが障害者にとって大事なことです。
健常者は自分の快楽を追うのに忙しくて、自分が海であることを知ろうとはしません。
健常者は人生を真剣に生きていないのです。
第三章 病気が治るとは
日野原重明 「延命の医学から生命を与えるケアへ」医学書院刊
人間が魂を持つ存在であることを知る時、・・・
医学は人間性(humanity)を重視した技術によるケアであり、病人へのアプローチはこのアートを使ってなされたのです。
意識=魂
生命体を維持する生命力そのもの。これが意識。
意識には表層の自我意識から、深層の魂まで密度によってあえてレベル分けすることもできる。
意識の源とは大自然の法則であり、他の呼び名は宇宙意識です。
島田氏の転生観
前世も來世もあり、肉体は滅びるが、それ以外の意識(体験した記憶)は残り、転生していく。
転生を繰り返す意識は自分(わたし、自我意識)ではありません。
転生する意識とは魂と呼ばれる個の意識です。
魂は遺伝子からの記憶(回路)と経験したきた体験のパターン(回路)が一つになって成り立ちます。
もし同一の遺伝子と体験の行動パターンが存在したとしても、TPO(環境)によって形づくられていくプロセスは違うので、同じ二人の自分がこの世で繰り返されることはありません。
繰り返されるのは深層意識の魂であって、表層意識の自我ではありません。
先天的な疾患と因果律
生後の自然の法則にそわないことにより、不調和が起こり細胞が変化して病気になることは論理性があります。
しかし、先天的に障害を持って誕生してくる赤ん坊がいます。
これを、因果律に則した考え方から解釈してみます。
すべての現象には結果と原因がある、という法則です。
すると、前世の経験が今生に生まれた時に影響を与えているということになり、先天的な疾患は前世の経験の結果だと解釈することができます。
前世において生活に追われ、ここに存在している意味を追求するという、根本欲求を前世において満たすことができなかったと仮定します。
すると、死ぬ時に魂との融合する目的を思い出します。
その時にこれではいけない、來世こそ目的を達成しようとしてもう一度やり直そうとします。
その時に前世に目的を見つけられなかったのは生活における欲求ばかりに関心がいってしまったからだと思えば、目的に常に気づいていられるためには必然的に体に不備(五体不満足、脳性マヒなど)があることが有利であると考えるかもしれません。
その方が自分の欲求が外側ではなく、自分の内部に働く法則に気づきやすいからです。
一般的な社会からは生まれもって脳性マヒの子供は可哀想だと思うかもしれませんが、もしかしたらその子は脳性マヒで生まれようとして生まれてきたとも考えることができます。
ハンディキャップを海側、すなわち魂の方から解釈してみます。
するとハンディキャップはデメリットではないことに気づきます。
魂との融合という目的にとっては、自分の内部に向かえるという点ではハンディキャップは有利に働きます。
人生を今生というスパンだけではなく、もっと長いスパンで考えてみると、また違った味方ができるようになります。
病気は人生の道標
病気という私たちにとって辛く苦しいものがなければ、私たち人間は、もっと自然からダンマから離れ傲慢になってしまうでしょう。
私たちを生かしている力である氣や自然との調和を理解することもできないでしょう。
病気は嫌なもの、怖いもの、悪いものと排除するのではなく、病気は自分自身がつくりだしているものということに気づくことが大切です。
食事や運動も大切ですが、何よりも大切なのは心の状態です。
食事や運動や身体に気を使いすぎていれば、かえってストレスをためてしまい、それだけ自分の不安を作り出すことにも繋がります。
ストレスとは物理学でいう歪みです。ストレスの解消とは、自分が自然の法則にかなった生活をすることでなされます。
どんな苦しい状況でも、自分の作り出した状況は、自分の力で克服できるようになっているのが自然の法則です。
まずは心身をリラックスさせ、身体と心の緊張を取り去ることからはじめましょう。
医療の本来のあり方
病気が縁になって自分のもとを訪ねた人に人間は自然の一部であること、その自然と調和していないことが病気の原因であることを教え、自然と調和する術を教えることです。
生死について
誕生はハッピー、死は苦しいというのは私たちの大脳の錯覚です。
生と死は、まったく同じものです、自然の側から見れば。
動物は誕生も喜ばず、死も悲しみません。
ただ動物はどちらの時も変性意識状態である恍惚の中にいます。
人間だけがじたばたしますが、それは誕生と死を妄想観念に勝手にしてしまっているからです。
誕生した目的は、自分自身がここにいることを知るため、自分自身について学ぶために、この世に生まれてきました。
この目的に向けて生きていないかぎりは、魂としてはいきていることになりません。
だから満足も得られないのです。
第四章 実感を超えた学習の必要性
実感できないことでも、納得し理解することはできます。
例えば地球が太陽の周りを回っているということ。
時速720キロで地球は動いているのに誰もそれを実感していません。
それでも地動説を信じて暮らしています。
実感に変わるべき新たな基準が生まれました。
根拠を持った知識です。
論理性、理性、観念とも呼ばれます。
地動説を学校で教えてから、実感は必ずしも事実ではない、という認識になりました。
百聞は一見にしかず、が通用しない世界に突入しました。
一見(実感)よりも百聞(根拠のある知識)を基準にする時代がやって来たのです。
この基準にはメリットもデメリットもあります。
メリットは仮定から理解して、次の実践の水先案内人になることです。
デメリットは、理性の構築した案内図が勘違いだった場合です。
もう一つは理性の限界です。
理性や道具(機械、望遠鏡、顕微鏡、電磁波計)に頼ってそれを盲信しなければ前に進めないということです。
まずは多くのメリットを見てみます。
自分の実感が絶対だ、という「象を触る盲人」の誤謬から解放されます。
他者の考え方や見方を考慮するきっかけになります。
自分の思いや考えを疑ってみる。
病気から学ぶ
障害を受容できる人ほど、自分中心(自我意識)の考え方から離れている。
1自分の障害を客観的に見られるようになる
2障害の状態を肯定的に見られるようになる
障害からのメッセージを受け止めることができる。
すぐには自分中心の考え方を改めることができないので、まずは客観的な知識から学習する。
まだ実感できてない生命体をここにいさせている法則を無視しない。
嫌な人、嫌いな病気 そこに解決への道がある
問題は嫌いな人ではなく、なぜあなたがその人を嫌いに思うのか、ということです。
何かを見て嫌いだと感じて、嫌いな人になったのです。
嫌いと感じた自分の嫌いになる回路に問題があるのです。
病気も同じです。
自分の中から生じた病気をあたかも自分以外のものに原因を転嫁し、病気を嫌い、遠ざけようとするのです。
病気を怖がり、問題が自分にあるとは思いたくないのです。
自分の問題が他人や病気として映っているにもかかわらず、それを認めようとはしません。
氣の意味 四章 病と氣の関係 氣を修練すると身体によい
病は気から
よい心の状態=楽しい、安らいだ心の状態がリンパ球をはじめとした免疫細胞を増加させ、免疫作用を高めることは医学的に証明されています。
気持ちのもち方で病気の状態が変化するといった意味です。
なぜ?なんでしょう。
病気を知る=自分自身を知る
医学システムの中にいると、病気の本質を理解しづらくなります。
病気を理解できない根本的な原因は、私たちが氣の働きによって存在していることに気づいていない、ということが挙げられます。
病気の原因は本人にあります。
病は苦しみです。
仏教の苦dukkaとは「満たされていない状態」という意味があります。
病気という苦しみである「満たされていない状態」を学び、何が満たされていないのか研究する必要があります。
満たされていない状態を自分の身体が必要として、病気というカタチとして身体が創り出している、ということです。
病気になったら、なぜこのように苦しい状況が自分に現れてきているのか?
この苦しみの原因は自分の中にないだろうか?
もし苦しみが必要なものだと仮定したら、この苦しみのメッセージは自分に何を教えようとしているのか?
ここから自分自身を知り、人として生きるということの意味を知る手がかりを見つけ出すということを理解できない限り、一つの苦しみを除去しても、次の苦しみが生じてきます。
苦しみから逃げることばかり考えないで、この苦しみを創り出している自分と向き合うことが必要なのです。
病気って何?
医学大辞典には、
「生体のすべての臓器がうまく調和して完全に機能を営み、その環境に適応していることを健康な状態という。
この状態から逸脱し、肉体的にも精神的にも生体の機能が障害を受け、停止ないし異常をきたした状態をいう」
これは病気の状況説明ではあるが、病気とは何なのか?という答えではありません。
なぜ、生体の機能が停止したり異常が起こるのか?という原因の説明がなされていないからです。
私たちの健康を維持している力が阻害された時に病気が生じます。
この力が氣です。
細菌やウイルスは直接の原因ではありません。もし原因であれば、人類全部が病気になっているはずです。
コレラなどの感染力のつよい病でも感染しない人はいます。
彼らは抵抗力が強いとか生命力が強いと説明されて理解したような気になる傾向があります。
すると一番大事なことを見失うことになってしまいます。
人間の内部で働く氣があって、はじめて私たちは人間として営みができます。
氣の働きこそが自分自身であるのです。
この氣の働きに気づくことが重要です。
病気は、氣の働きが、充分にその力を発揮できていない時に生じます。
では、なぜ氣の力がうまく発揮できなくなってしまうのか?
私たちの身体
身体に病的な状態が現れるのは、細胞が正常な機能を果たせなくなっているということです。
原子や他の原子との波動(電気、磁気)の働きが悪いということです。
この波動が悪ければ、素粒子や電子の配列が狂い、細胞も異常な形になります。
ではなぜ波動の働きが悪くなってしまうのか?
私たちの身体と地球を構成している物質は同じものです。
身体を構成している細胞を分解し続けていくと、物質である氣に行き着きます。
これは地球や宇宙をつくっているものと全く同じものです。
つまり、私たちも地球も同じものでできている、ということは、私たちは地球の一部、自然の一部である、ということにほかなりません。
人間と地球と宇宙は原子のレベルでは、お互いに影響しあっているわけです。
人間は地球の気象や飲食物などのエネルギーに包まれ、受け入れ、体の一部にして、これらを創造的なエネルギーに転換して、地球に影響を与えています。
氣の集合体であり、原子の集合体である人間の身体が、地球の氣すなわち原子と調和し、振動し、共和し、お互いに影響を与え合わなければ、異常が生じるのは当然のことです。
原子の波動の働きが悪くなるのは、身体と自然の原子の波動が調和していないから、身体に流れる生体磁気力(氣精)が弱くなるからです。
私たちが自然の一部として存在していることを忘れて行動すると、私たちの体を正常に保とうとしている働きに悪影響があらわてくるのです。
自然との不調和が病気の原因
病気の真の原因は、自然の一部である人間が自然の法則にかなった生活をしていない、ことにある。
自然の法則には多くの名前があります。
宇宙の摂理、カミ、大いなるもの、ダンマ、空、
自然と調和した心とは、楽しく安らいだ状態、とらわれのない状態、余計なことを考えずに、自分を支えている力に自分を委ねている状態のことです。
自然と調和していない心とは、イライラして、落ち込んで、何かにとらわれている状態です。
自然と調和するカギは各自の持つ観念が作り上げた回路を捨て去ることです。
気功法
精エネルギーの調整よりも、神(自己意識から深層意識)の調整が大きなウェートを占めている。
気功師の手から出る外気を病人に投射する外気治療は、病気を治すものではありません。
病人が入静し、緊張の取れた安らいだ気持ちになり、自らの持つ自然治癒力が働いて病気が治るのです。
放鬆(リラックス)と入静が気功法の真髄です。
リラックスとは緊張や回路を取り去ることです。
先天の神、後天の神
どんな微細な物質も意識(法則)のパターンを持っています。
これは深層意識とも、本能とも、内臓の意識とも、自然の意識とも、仙道では先天の神と呼ばれます。
これに対して、表層意識、理性、大脳皮質の意識、自我意識を後天の神と呼びます。
この二つの意識(神)が調和しているか否かによって、身体に現象が現れます。
後天の神(自我意識)は両刃の剣で、この使い方を誤ってしまったのが、人間が自然の法則から逸脱してしまった原因です。
進化の意味
なぜ宇宙は進化を続けているのか?
なぜ自然の法則に反することができる自由意志を行使できるほど、人は高度な意識を持つことができるようになったのでしょうか?
宇宙は百数十億年にわたり、素粒子が集まり拡散し続け、48億年前には集まった素粒子が地球となりました。
ここから生物が誕生し、いまの私たちがいます。
私たちの源は素粒子です。この素粒子は氣とも呼ばれます。
物質的には素粒子、そして素粒子は法則をもち、法則には目的と機能があり、目的があることを意図をもつといい、意図は意識という前提があってはじめて存在するものです。
これをまとめると法則があるということは意識をもつということなります。
すなわちすべてのものは意識をもって存在しています。
そしてこの意識は進化することで、ヒトの自我意識が生まれ、意識の進化に応じてカタチも変化してきました。
なぜ宇宙は意識を進化させる必要があったのか?
宇宙の存在を認識できるのはヒトだけです。
有るか無いかだけならば蟻だって空を見上げます。
しかし、宇宙を認識してその意味を意義を理解しなくては、宇宙はないに等しいことです。
これは他者の立場になるとわかります。
たとえば自分が一生懸命に人生をかけてやっていることを他者が認識してくれてはじめて、他者にとって自分は存在していることになります。自分の意図を理解されていなければ、自分はここにいないように感じてしまいます。
自分がやっていることを理解されていなければ、自分がここにいると他者は判断しますが、それは自分の本来のわかってほしいことではなく、ただカタチとして認識されているだけで、自分がいま・ここにいる意義はないものとして扱われてしまいます。自分が望むものとしての存在を認めてもらえないわけです。
これと同様に宇宙も宇宙を認識できるだけの関心と理解力(意識)が存在しなければ、宇宙は存在しないことになってしまいます。ただの空間でしかありません。
宇宙の美しさ、素晴らしさ、秘められた働きも知覚できる意識があってこそ、その存在があることになります。
ヒトの関心と理解力(高度な意識)をいちばん必要としているのは、宇宙そのものなのです。
地球上では、ヒトの自我意識の存在があってはじめて、宇宙も、宇宙の法則も、その存在が明らかになるのです。
宇宙には、宇宙を認識する意識が必要です。
地球上では電気を発見するまでの48億年もの間、電気ははじめからありましたが、電気はこの世に存在していなかったということです。
宇宙も宇宙としての存在を明らかにするためには、宇宙を認識できるだけの深い意識が必要です。
そのために、宇宙は自らの力によって、人間の自我意識ような高度な意識を創り出し、さらにそれが深まるように、宇宙自身を認識するために意識を進化させ続けています。
法則から逸脱する必要性
認識には相対するものが必要です。二つの相対する減少があってはじめて認識できるようになっています。
光を認識するには闇が必要なように。
では宇宙を、宇宙意識を理解するためには何が必要なのでしょうか?
人は宇宙を物理的には認識できます。
しかし宇宙意識としては認識していません。
しかし宇宙の物理法則を追求していけば、法則とは意識であることに必ずたどり着きます。
どのように法則を追求すればよいのでしょうか?
どうすれば法則を認識できるのでしょうか?
そう、認識には相対するものが必要です。
つまり法則に則っていない状態が必要なのです。
それは、宇宙法則から離れることです。
例えば、微生物の麹菌は、その菌が持つ法則に従って活動しています。動物ならば本能、人ならば内臓の働き、仙道ならば先天の神、意識ならば深層意識です。
しかしこの法則によって活動しているかぎりは、麹菌は宇宙のことは理解できません。
なぜならば、法則ににしたがって活動している状態なので、宇宙を認識するために必要な相対する状態がないからです。
ではどうすれば相対する状態をつくることができるでしょか?
麹菌は法則から外れた活動をする必要があります。
つまり先天の神から後天の神によって活動できる状態にならなくては、宇宙の法則を理解することはできません。
法則からの逸脱し、自由意志で行動できてはじめて宇宙そのものを理解することができます。
自由意志は勝手気ままに行動するためではなく、宇宙を理解するためにあるのです。
ただ残念ながら?麹菌には自由意志という進化した高度な意識がないので宇宙を認識することができません。
法則を認識にするためには、法則から逸脱する必要です。
そして法則から逸脱すると、存在することに不都合な現象が生じます。
病気や氣の減少や苦しみや死です。
このようにヒトは宇宙の法則から逸脱したままではいられません。
軌道修正をせざるを得なくなります。
これも宇宙の法則です。
宇宙の法則から逸脱するのも、また宇宙の法則に戻るのも、どちらも宇宙の法則です。
この逸脱と、それに伴う氣の減少を、因果応報、神の罰と宗教では呼ばれてきました。