内臓の感受性のゆたかな子に 斎藤公子
三木成夫先生の講演は、あまりにも耳新らしく、また面白く、参加者一同時間のたつのも忘れて聞いた。先生の身振り手振りの実演も交えた具体的な"膀胱感覚"の話には、一同思いあたることであったことから、笑い通しであった。私はあまり受講者が笑いつづけて聞いてしまったので、かえって逆に心配になってしまったくらいである。
なぜなら、とてもとても大切なこと、乳幼児を育てる上での本当に大切なポイントを、先生は話されていたからである。
これまでの保育大学では、人間にとってもっとも大切な大脳新皮質の発達のために、つき出た脳髄である"手""足"の発達がいかに大切か、を学んだのであったが、三木先生は、"手""足"のような感覚器官や運動器官は動物のみがもつものであって、それをつかうことの大切さはもちろんであるが、その以前に、植物の姿である"内職"の感受性こそ、それらの土台になるものであって、いかに"心" の発達のために大切か、を話して下さったからである。
三木先生は、内臓とは、宇宙が内臓されているもの、という。内臓は、人間のからだの中の"植物"であり、植物とは天地を結ぶ巨大な循還路の手細血管のようなものともいう、実にスケールが大きい見方である。
「生命の起源」を書いたオバーリンは、原初の生命の誕生についてコアセルベートの誕生までには追ったが、いまだその後の人間は、なぜ、その原初の生命体が、宇宙を内臓に対人して生きた衛星といわれるようになったか、 なぜ、宇宙とおのれとの間に膜をもって独立する細胞が生じたか、またその最初の単細胞の生物が多細胞の生物になったかについては、迫りえないもどかしさをもっている。しかし、大昔の人たちは太陽系の一惑星の地球に生まれた人間を小宇宙とよび、この太陽系の運行とは無関係には生きられないことについてはさとっていたと、先生は強調された。
そして、この手苗のリズムと共に生きる"内臓の感受性"こそ、"心"のめばえの土台であると、"オシッコ"というごく身近のことからわかりやすく話して下さったのである。
築地書館の土井氏は、さきに三木先生にお会いして話をきかれたあと、私に電話をされ、「斎藤さん、三木先生は本当にさくら・さくらんぼにビタリの先生ですよ」といわれた。私は先生の講義をききながら本当にありがたいと思った。なぜなら、今まで公開保育に訪れる人たちの中で出された非難、「おしっこやうんこの躾をせずだらしがない」、とか、畳や床や土を這わせ、なめさせて不衛生だ」とかいわれつづけてきたことに対し、まったく明快な弁護をして下さったからである。
先生は、最初に"オシッコ"の間題ではたった二人の子どもを横からみていただけで、大勢の子どもを育てている保育者の皆さんに話をするのははずかしい」といわれたが、はずかしいのは保育者の方である。
保育をする上で、実際に子どもをよく観察せず、自分の考えを押しつけたり、大人の都合で子どもの本当の要求を無現したりして、かえって子どもの発達を阻害をしている場合が多いことを、私たちはよくよく反省しなければいけない。
"排泄"の躾たるものを、ここにふりかえってみよう。
乳児保育とは、いかにオムツをぬらさないようにするか、いかに早くトイレでする習慣をつけるか、にあると考えている人はまだまだ多い。デーリーブログラムの乳児のところをみてみると、OO時オムツ交換 と害いてある園が多い。
一人の保育者が、六人の子どもを見るという、国の最低基準のままの保育所では、一人一人の子どものオムツをはずし、オマルにのせてから食事をさせ、寝かせる前にまた一人一人オムツをとってオマルにのせ、またオムツをさせてねかせ、おきたらオムツを取りオマルにのせ……これを一日中繰り返し、オムツ交換と排泄の躾におわれている、とうったえる保育者が多い。
また一・二歳の子どもは、完全に排泄の自立はむずかしいのがあたりまえであるのに、失敗をさせないために早くトイレにゆくようにさせたり、時間でいっせいにオマルに坐らせる。なかには、出るまでまとうホトトギスで、オマルに、するまで坐らせておいて、そこで紙芝居を見せているところもあった。その話を私がすると、笑う人が多いが、大なり小なり排泄の躾が乳児保育の大切なポイントだと思っている人が保育界にはまだまだたくさんいる。
私が、さくら・さくらんぼでは、時間でつれてゆくような排泄の躾をしない、というと、「へえー?」とおどろく人が多い。また、オムツは寝返りをするようになったら取って、パンツにかえる、というと、「えっ?○歳児がもうおしえるんですか?」とおどろいた人がいた。こういう人たちは、オシッコを教えるまでオムツはさせておくものだ、と思っており、オムツをよごさないためにも、また一日でも早くトイレの自立を促がすために、時間でオマルに坐らせるのが効果がある、と考えているめである。そしてそのことが子どもの豊かな発達とどう関係があるのか、については深く考えないのである。
先日、映画「さくらんぼ坊や」の監督の山崎定人氏から、三日間でどんなちえおくれの子どもでも、トイレの自立をさせることができるという国立の能力開発駅究所で行われている指導の実際をフィルムにうつした、とぎいて、私は大変興味をもち見せてもらった。
ひとりのちえおくれの子どもが、入学期になってトイレの自立ができず、親が困って三日間通ってきたその実際をうつしたものである。
まず第一日目はその子にジュースをどんどんのませて、そのあとトイレにつれてゆき坐らせる。尿が出ると、"ビーツ"と昔が出るトイレである。するとすぐ指導員画チョコレートを一片その子の口に入れる。トイレから出るとパンツをはかせ、またジュースをのませてすぐトイレに坐らせる。ビーツと昔がするとすぐチョコレートを口にいれてやる。そのあとはパンツをいじらせ、ほかのことに興味がいかないようにして、少したつとまたジュースと繰り返す。
二日目も同じことを繰り返すが、そのうち何回かは自分からトイレにゆくようになり、三日目からは全部自分でゆくようになった。
そうしたらジュースとチョコレートもやめる。かえりにはきちんと靴も自分ではいて帰ってゆくところでフィルムは終っている。
山崎監督も、実際に撮影してみてその速効性におどろき感じ入ったようであった。これをみた人は誰でもとびつきそうである。そのため、このイルカの調教に似た方法、アメリカから輸入されたオベラント条件づけ、行動療法といわれれる方法が障害児保育にはやりはじめてきているのである。
さくらんぼのやり方は、これに比べ、何と何とまわりくどく、時間、年月をかげることであろうか。
"さくら、さくらんぼの障害児保育"(青木書店)に害いてあるA子は、七歳で自分からトイレにゆくようになった子どもである。
その間六年間の保育期間、私たちは実に気ながに彼女のバンツをとりかえて、お尻をふいてやった。六歳の頃は、友達がとりかえてやっていたこともしばしばであった。
ひとこともしからず、ひとこともいや味をいわず、「さあきれいなパンツにとりかえていい気持になろうね」と、保母はことばかけをしていた。A子はこの六年間、毎日毎日永に夢中になり、泥であそび、リズムあそびをし、積木をつみ、みんなと散歩にゆき花をつみ、やがてほうきをもち、くわをもち、動物の世話もし、のこぎりもつかい、絵筆をにぎり、マリつきが上手になり、なわとびも喜こんでするようになった。四歳で"ママ"ということばがでて、六歳までオランウータンのような前かがみのあるき方であったが、毎日往復四キロの登降園の際のあるきも成果があってか、一年就学をのばしたさいごの年、七歳でシャンと背すじがのびた姿勢となり、ことばが豊かになったとき、自然に自分でトイレにゆくようになった。そしてあふれんばかりの笑顔で卒園していったのであった。
何という手間のかかった保育であったろうか。三日でできる、という国立のあの研究所の方法と正反対に、実に根気のいる仕事なので多くの人たには喜ばれない方法であろう。
しかし、三木先生は、この方法こそ、"心"を育てる上に大切なこと、というすばらしい回答を下さったのである。
内臓の感受性を大切に持つことによって、森羅万象に心をひらく自然人に育ってゆくと。
A子は本当に心豊かな人間に育ってくれたのであった。彼女のやさしさ、彼女の人間信頼の深さ、は私には宝物のように思われたのである。
オシッコのことだけでなく、食物の与え方も同じであると先生はつづけられた。
「胃」の要求を大切にすることであると。
ルソーも、「エミー;ル」の中で、時間でお乳を与えるやり方をいましめ、本当の要求を大切に育てないと、欲望がもはや欲求(自然の必要)から生ずるのでなく、習性から生ずるようになる、というより、むしろ、習性が自然の欲求に、さらに新たな欲求をつげ加えることになるといって、こういうことにならぬようにいましめている。私たちはここで欲求と欲望について学んだ。欲求は自然的な必要で、欲望はそれを超えた人為的なものという、このことは子育ての上でとても大切なことで、私たちは欲求は大切に大切に考えて育てる必要があるが、欲望については警戒が必要なのである。
三木先生は、子どもが生まれるや、母の乳房に吸いつき、やがて溢れ出るようになった母乳を十分扱い、六ヶ月頃寝返りができるようになるや、畳を這い廻り、異常な好奇心で畳や手にふれたものをなめ廻し、排泄も膀胱から教わって素直に感受できるように育てられたものは、実に内臓の感受性が豊かに育ち、こうした子どもは満一歳頃から呼称音を伴う指差しが出て、やがて、人間だけがもつ強烈な衝動"遠い世界がみたい"という立上りの衝動で直立をしてゆく、という。これこそ心のめざめであり、人間らしく脳が育ってきたことをみせてくれることであり、その後は一層の好奇心で、歩いていっては、"コレナーニ""コレナーニ"とくりかえしいうことばの世界を急速にひろげてゆき、思考の世界にほいってめげる子どもに育ってゆくのだ、と話して下さった。「思」という字は脳と心一内職)を合わせたもの、とは実にすばらしい語源である。
指さしがなかなか出ず、ことばの獲得のおくれた子どもたちが私たちの園には何人も入園してくるが、どの子も、どの子も必ずことばを獲得してくれるようになる最大の理由は、私たちの園の保育が、この心の育ちゆく道すじを十分に保障してゆくからであると確信づけられたのであった。
A子は、溢れる母乳ものんで育たず、一歳一力月までねたままでなめ廻しもあまりない状態で育ったがゆえに、さくらんぼに入園してから、呼称音による指差しがでるのに四歳をまった。
ルードヴィヒ・クラーゲスというドイツの哲学者は幼児が「アー」と声を出しながら遠くのものを指差す、その動作こそ、人間を動物から区別する最初の標識だといった、と三木先生は紹介して下さった。
抽象的思考、概念的思考の、ずっとずっと前のこの原初の思考を"指示思考"と命名し、これが動物と人間をわける最初の標識だと見抜いた人はまことにすばらしい観察者である。三木先生はさらに、その指示思考を促がすその土台、"心のめざめ"は、あの六ヶ月頃からの舐め廻しが大切といわれた。
まだ手や目の感覚が十分に発達しない前、両生類やハチュウ類であるカエルやへビの手である"舌"によるなめ廻し、何でも口にもってゆくあの時代の・あの行為の大切さを、まことにわかりやすく話して下さったことに対し、私はどんなに感謝しても感謝しきれない感動である。しかも畳がよい、といって下さった。畳の目の中にある"バイキン"が良い、といって下さった。
私はこのなめ廻しの時代、子どもらの遠い祖先の感受したもの、生命の記憶にのこしたもの、木、草(たたみもはいる)水を大切に大切にしてきた。O歳の子どもにブラスティックの玩具でなく、高価でも木製玩具を与えてきたのである。この時代の、この行為が、知覚の土台となり、本当の知的発達、豊かな知的発達を促がしてゆく、という。三木先生の観察力も実にすばらしいものである。
知的な発達を促がしたいと、ただアイウエオをよみかきさせたり、数をいわせたりするひとが多いが、十歳をすぎ、本当の抽象的思考ができる年齢に学力低下が目立って来ることをよくよく考えてほしいことである。真の知的発達は、目ざめた瞬間、あ! 夏至がすぎた頃だ! とわかる人間だ、といわれた三木先生の感受性は実に実に新鮮ですばらしい。この感受性こそ、私のものであり、さくら・さくらんぼの子どもたちのものである。
子どもたちと土手に三月、「春」をさがしに散歩にでかけたときのこと、「アッ! この頬っぺをなでた風! これが春だ!」とよろこびの声をあげた五歳児。
立春とは名ばかり、赤城おろしの風にまだ思わず首をすこめる頃、子どもたちは遠くからみる柳のみどりに気づく。
八月のはじめになくコオロギの声で、立秋を知り、その頃、桜の葉は色づき落ちはじめるのである。私が若い頃長く病んでねていたとき、一枚の桜の色づいた葉が舞いこんできて秋をしらされ、この一枚の葉がとてもとてもいとおしく感じられ、思わずノートに詩をしたためたときの感動を思い出す。
さくら・さくらんぼの子どもたちは、こうした季節の移りかわりをごく素直に肌で感じて育っている。私自身が幼い時感じて育ったあの喜びを子どもたちに味わせてやりたい、というその一心で施設づくりをしてきたからであった。これが、さくら・さくらんぼの子どもたちの豊かな描画を生み出し、それにすばらしい知的発達をみるゆえんであろう。
その土台である。舌"による感受性|
"舌"は脊椎動物が、魚類から両生類になって、水から陸に上ってものを食べるときに必要な。手"である、と三木先生はおしえて下さった。水の中では尾とひれで動きが自由であった魚は、すばやくえものを口に入れることがでたが、陸にのぼるとこの敏捷な動きができなくなり、そのかわりに発達したのがカエルの"舌"だといわれた。
内臓の感覚がもっとも高度に分化した場所が唇と舌であって、それは毒物と栄養物とを選択する"触覚"に相当する場所だからであり、しかも"舌"は触覚の機能をはたすと同時に、両棲類、ハチュウ類は補食器官として発達し、体壁系の「手」「足」と相同器官であり「のどから手が出る」というように、ノドの奥から生まれた腕だ、と先生は話して下さった。三木先生はゲーテの形態学に大変造詣の深い方と伺った。先生は「形態学を勉強していると、人の顔が脱肛―要するに内臓の露出のようにみえる−」と私たちを笑わせた。人間の顔は鰓(えら)で鰓腸といって、腸の最初の部分が外に出ているところで、表情筋は内臓の感覚だと話されたことに皆おどろいた。
表情豊かな人間とは、やはり内臓の感受性の豊かさがあらわれている人間なのだ。
保育者たちは子育てをするとき、生き生きと、意欲のある子どもにしたい、とみんないう。最近の子どもは生き生きとしていない。無気力の子どもが多いとよくいわれる。さくら・さくらんぼ訪れる人はいちように子どもたちが生き生きしている、意欲的である、とうらやましがる。とくに生後二カ月頃からの保育をした子どもは意欲・好奇心が顕著に育つ。その目がいつもキラキラと何かを求めて輝いているのだ。そしてまことに話しことばが豊かである。さくら・さくらんぼの子どもたちがつくった「力ルタ」は多くの方にたのしんでもらっているが、それは、子どもの豊かな描画にもよるが、そのことばの奇抜さ、ユニークさにみせられるからであろう。
よ
ヨーヨーはブーメランではないのになんでもどっ てくるのかな
め
めんこのおとはいたいおと、
を
やまをみているとあおくてきれいだ
に
にじをのばってほしをつかまえたいなあ
み
みずたまりはながぐつではいるとピチヤビチャおとがする
ふ
ふねはしらないくにからてがみをはこんでくる
さくら・さくらんぼ保育園、園児の作品たよる"いろはかるた"より。
卒園生が人学して文字をおぼえてゆくと、その作文もまた大変豊かなユニークな発想で私は感動する。描画にしても作文にしても、何とも私たちの心をなごませてくれる豊かさなのである。この土台となった私たちの園のO歳児保育、一、二歳児の、あの気ながな保育の貴重さを見直させていただいたこのたびの保育大学は、まことに有意義であった。
今回の講演の題を「内臓の感受性について」と三木先生からいただいたとき、私は何と新鮮な題であろうかとこおどりしたが、はたして、その内容の新鮮さはきわだったものであった。内臓のはたらぎは、宇宙・遠い彼方と結ばれたふしぎな側面をも持つ、とは、何というすばらしさか。
内臓は宇宙を内臓したもの
内臓の感受性の豊かさは、この宇宙の神秘さを感受できる心とことばを育ててくれる