現代の病   モノを分けることを優先して始まった

 

一面病

全体の一部だけを見て法則を作る

常に善であろうとする

正しいことを求める

矛盾を受け入れない  ヒトの起源 神話と科学

 

 

生物とロボットの違い  バカな生物の欠点と長所

生物 学校(法則の学習)がないので、トライ&エラーで探って、結果から判断する

各器官になるまでの試行錯誤の歴史がある。

生命体にとっての毒から身を守る防御法も巧みであるが、多くの犠牲の歴史のもとに完成された。

 

自然と人間

複雑な自然と浅はかな知恵の人間

人間の不十分な知識で自然に手を加える例は多いが、多くの場合は、最初の期待と反対の結果になることがある。

政治や宗教としての「自然保護運動」

正しい側にいることによって安心を得る。

 

 

 

理解病

わからないことへの恐怖

ひとつ抽象度を上げて理解したら満足

分けられたら満足

 

役者病

真の自分(自意識)と偽りの自分(社会)

役を演じる

モノマネ

役に自分が呑み込まれる

 

不安病

体験したこと少ないので、未知への恐怖

 

ひとつの具体的なことを普遍性として捉える病気

東京と山頂で温暖化しているので、地球全体も温暖化している。

 

理性の内側に乗っ取られ病

 

まずは自分にとって大事な仲間である内側とそうでない外側に分けていた。

ところが、ここに大脳によってのいいことである内側と良くないことである外側が加わった。

ヨーロッパで言うとプロテスタントの出生だ。理性を感情や肉体と同様に大切にするグループだ。

そして後に、この理性から生まれた理念を身体よりも大切にするのを当たり前にするグループが出現した。

彼らが乗っ取られ病の患者たちだ。 競売の裁判所の執行官の意向を家主よりも優先させる人たち。

 

認められれたい病  見られることによって安心する

 

「女性アナウンサーって、すごくコスプレっぽいと思うんです。年収も高いですし、言ってみれば究極の勝ち組女子コスプレではないかと」

 そして、「女子アナコスプレ」が自然とできてしまう女子とは“見られる女”であることにずっとむかしから自覚的であり、かつ、それを“満たされている人には必要ない作業”と述べる。

「テレビみたいないろんなことを言われる場所にわざわざ出て行くなんて、ほんとに幸せな女の子なら、そんなことしないですよ。そういう意味では、女子アナって自分と折り合いがつかない人たちの集団なのかなって気もします。同病相憐れむというか」

 男性によって“見られる”=認められる性であること、そのことで自分が承認されたような気になり、もっと多くの人に認められたいと願う。さらに女子アナとなれば、それなりの学歴も要求される。たしかに女子アナとは、男性に欲望されるという色と、学歴という才、そして高年収をも手に入れる“究極の勝ち組女子”なのかもしれない。

「男性優位社会」という世界のなかの話だ。そして、小島は本作でもこの点を強調する。

たとえば、女子アナになれず記者という道からディレクターに進む望美は〈男の領域は排他的で独善的な互助会なのだ〉と言い、〈私はそれに媚びて甘い汁を吸う女なんかじゃない。正当に評価されたいのだ〉と、男性社会のなかでうまく立ち回る女子アナたちを腐すが、そのあと小島は〈自分がそうやって無意識に男に権威づけをしていることに望美は気付いていない〉と書く。そう、小器用で物わかりのいいふりをして男に取り入る女を女は嫌うが、それ自体が〈理想化した男への信仰〉であり、女の〈女嫌いの源〉になっているのだ、と。

 

 

 

自分が問題を起こした病

良いことが悪いことになった  産業、二酸化炭素

自己反省という自意識

 

分裂症の時代

精神と体を分けることのデメリット

分裂症に発展する出発点

身体化されない自己self

 意識過剰、

imago幼児期に父母の像を基に形成され,他者関係に影響を及ぼす無意識的人物原型.を仮定しようとする

 自己selfと人格personalityは全く異なった二つのものであるという考えを当然として成長してきた。

 Selfは自身のことで、personalityとは他者が彼にそうあって欲しいと望むものである。

 内的selfと外的personalityとの分析により彼の存在は成り立っている

 Selfは本当の、真の、自身の、内的な、というように表現される。

演じることの日常化   自分自身であるのではなく、自分自身さえも演じた。

自分自身を他者の手に引き渡さないのが理想 他者に対して迂遠で韜晦(誤魔化して分からないようにする)を行う

理想は、自分自身にできるだけ完全に率直で正直であること。

 

他人からの認証

FB いいね  自己が不安定なので他人からの認証を必要とする

実在性の確信を得たいという欲求が根本の問題。「生きているぞと確信できる時間が絶えてなかった。」

客体の自分を意識できれば、確信を得ることができると思ってしまう。「人に見られるというのが私の人生の目的なんです。」これにより自分が存在していること、また彼らが存在していることを認識する手段。

 

全能者

分裂症者は全能的であろうとする。閉鎖された、私的、個人の世界(自己)の内に小宇宙を発展させようとする。

他者が実際に必要とするような関係は持たないで、全能的であろうとする。

都会人は自給自足に憧れる。

Herosアメリカドラマ

 

 

評価されたい

認められたい

つながりたい

 

刺激に追われたい病気

坐禅をしている時間が、一番安らかなありがたい時間でね。正法眼蔵「弁道話」で言われている安楽なるためにと言うのは、まさに文字通り安楽なんです。安楽な時間を持つ事が、次の活動の原動力でもあるわけです。だからそういう原動力になる時間を持たないで、次から次へと駆けずり回れば、どっかで体の調子がおかしくなって、お医者さんから「まあ病院で寝てください」と言われる。しかしそう言われないうちは、なかなか寝ないと言う事で人間の生活は動いているんだと思う。

 

睡眠時間以外にも休む時間は必要なわけです。眼が覚めているんだけれども、ものを考えない時間、刺激を受けない時間があるとさあどうしたらいいか、何をしたらいいかと言う事がはっきりして来る訳です。だからそういう時間がなしに次から次へと物事を考える、あるいは刺激を追っかけ回すという事でやっておれば何が何だかよくわからなくなって来る。何が何だかよくわからなくなっているのに、さらに頑張るからますますおかしくなってくる。時代そのものがそうだと思う。今、社会の全般が夢中になって努力している訳だけどもね。

 

最善を尽くす病気

ある会社の例にしても、非常に一所懸命努力して最善を尽くしたわけですよ。商売の上ではね。ただ最善を尽くし過ぎたから世間から、ちょっとやり過ぎだぞと言われているだけの事でね。こんなのは世間にいくらでもある事と知っているんだけれども、皆でいじめている訳だからいじめられる方は大変だけれどもね。それに、まあいじめれれるだけの酷さもあったんでしょうね。そういう点では、世の中なかなかうまくできているから。途中で止めておけばいいんだけれども、なかなか止められないところがあったのかも知れない。

 

この世の中はなかなか微妙にできていると思う。非常によくできていると思う。よく「この世の中は間違っている」なんて考える人がいるけれども、そう間違ってはいない。やっぱりやるべき事をやっているといい結果が出る。おかしな事をやっていると、うまくやったと思っていても世の中と言うものは実にうまく出来ているから、そのうち途轍もない所から悪い結果がポロッと出て来る。そうすると、非常に努力をして営々と積み重ねても、積み上げ方が悪いとすぐ崩れてしまうという問題があるわけですよね。だから、私はこの世の中は非常に結構な世の中だと思う。

 

 

コギト病

コギトとスムは別物なのだ。われと我は同じではありません。

はじめのわれは主体、次の我は自己であり、同じものではない。

そしてこの自己とは無意識や生命体は含まれていません。自分を自己と身体に分割した片割れだけを指しています。

この我には無意識の自分や、体の自分は含まれていません。脳機能学で言うと大脳辺縁系と脳幹は含まれていません。

 

デカルトは世界を数式にするためには、世界の中心点を作り上げる必要がありました。それで生まれてきた考え方です。現実では中心点は主体、大脳皮質の自己、大脳辺縁系の無意識、脳幹の生命体とあちこちにあります。

 

次の問題点は「故に」という翻訳だ。  正確な訳は「すなわち」である。三段論法で使われるだから○○になる、ではなく、思うこととあることが直に結びついていることをあらわしている。

 

「われ思う、ゆえに我あり」(われおもう、ゆえにわれあり、仏: Je pense, donc je suis、羅: Cogito ergo sum

I think so I am

は、デカルトがフランス語の自著『方法序説』(Discours de la méthode)の中で提唱した有名な命題である。

『方法序説』の他、『省察』、『哲学原理』、『真理の探究』でも類似した表現が使われているが、一様でなく、その解釈について争いがある。ラテン語訳のCogito, ergo sum

(コーギトー・エルゴー・スム、cogito = 私は思う、ergo = それゆえに、sum = 私はある)

との標題が有名だが、これは第三者の著者(訳者)はニコラ・ド・マルブランシュ(Nicolas de Malebranche)です。訳による『真理の探求』で用いられたもので、デカルト自身がこのような表現をしたことはない。

『方法序説』の幾何学部分以外は、神学者のエティエンヌ・ド・クルセル(Étienne de Courcelles)がラテン語に訳し、デカルト自身が校閲し[1]Ego cogito, ergo sum, sive existo or to exist)との表現がされている。デカルト自身がラテン語で書いた『哲学原理』(Principia philosophiae)ではego cogito, ergo sum 、『省察』では、Ego sum, ego existo と表現されている[2]

 

何かあることは疑えないが、それ自身は何か特定できないと解釈しています。

 

まず、ルネ・デカルト(René Descartes1596-1650)が確立したかったものは、近世合理主義の理想の一つとされる数学の構想に他ならない。それは、あらゆる知識を厳密な学問の場に移し変えたいとする理想とも言えた。

デカルトは、疑い得る全てを、更に疑うことを己に課した。「方法的懐疑(Doute méthodique)」とよばれる、デカルト哲学における基本的態度に他ならない。デカルトはスコラ学の学究でもあった。しかし、其処に内在する不確実なものを一掃することが、彼自身の課題でもあった。だが勿論、この懐疑は「疑うために疑う」という、不決断を良しとする懐疑論者のそれとは違い、不動の真理を獲得するという目的のための懐疑であった。

 

「我思う、故に我在り(Je pense donc je suis)」。ラテン語で「Cogitoergo sum」。

このデカルト哲学の根本原理は、一つの認識によって成立する。その認識とは、「明晰判明(Clair et distinct)」が齎すものである。

「明晰判明」について、簡単に説明しよう。形式論理学では、外延が明らかな概念を「明晰」、内包が明らかな概念を「判明」とよぶ。「明晰(Clair)」は「曖昧(Obscur)」に対する概念であり、「判明(Distinct)」は「混同(Confusion)」に対する概念である。そして、この二つの概念は、次のような関係を持つ。「判明」でなくて「明晰」なものは在る、しかし、「明晰」でなくて「判明」なものは無い。

 

ここで、「論理学の徒」が陥りやすい過ちを避けなければなるまい。「Cogitoergo sum」。………「故に」、の語があるため(ラテン語でergo、フランス語でdonc)、この命題は、いかにも大前提が省略された三段論法のように見えるが、そうではなく、「我思う」に即して「我在り」が直感的に把握されることを表明したものである。この考え方は、すでに教父神学の完成者・聖アウグスチヌスにおいてみられたものであり、この教父神学からスコラ哲学に導入された考え方を、デカルトは継承している。

 

ベルンハルト・ボルツァーノ(Bernhard Bolzano1781-1848)は、「思惟(Pensée)」と「存在(atre)」を明示した、この有名な命題の意味を、次のように説明している。「存在する私が思惟するのではなく、思惟する私が存在する」。言い換えれば、まさしく、思惟が存在を確認せしめるということである。

因みに、ボルツァーノは、やがて反カント主義を明確にしたことにより、カントに支配された「日本哲学界の流れ」の中で馴染みの薄い人物となっている。だがヨーロッパ大陸では、このボヘミア出身の哲学者は、デカルトに劣らぬ数学者でもあることが知られている。「ボルツァーノ=ワイアシュトラウスの定理」は、数学界に遺した大きな業績のひとつである。彼は司祭職を完うし、優れた教育者としても知られている。

 

デカルトは、冒頭に記したように、あらゆる知識を厳密な学問の場に移し変えたいとする強い理念を持っていた。それは究極において、完全性を有する神の存在に結びついた。

 

今、要点を、ここでの問題に絞ってみよう。たしかに、全てに疑いを持つことから発してはいる。しかし、その懐疑を超えた拡がりが、デカルトの命題には確かなこととして存在する。

例えば、デカルトには「神の存在証明の三つの試み」が認められる。その一つである「存在論的証明」が、近世的自我主体という一種の「超越的な虚焦点」として、見えざる神との交接を意味づけている。

 

さて、その先に、私は現代を代表する一人の人物にたどり着く。勿論、私だけではなく、こういう人達はそれなりの数を占めているが………。「神を語らず、しかし、神の存在を思惟する」ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインである。

 

非常に残念なことは、「デカルトのこの命題を、推論あるいは論証と捉える間違い」は、日本だけのことのようです。この日本だけに特有の間違いについても、私が記しました。

私個人の考えとしては、「デカルト哲学」には、それなりの批判がされなければならない問題点があると思っています。それは、彼の哲学が、数学的厳密さのうえで成立させようとする意図に起因しています。そして、この近世の時代は、アリストテレス以降中世にかけて発展してきた論理学が途絶えてしまった時代であること、そのため十全な論理的展開が行なわれず、全てを数学的立論に委ねるという結果を招いているからです。

しかし、「デカルト哲学」について、こうした問題点に議論が展開しないで、日本だけの初歩的な問題に留まっていることを、私は残念に思っています。

デカルトがJe pense donc je suis Jeを余り意識せずに使ったものだから、

論証と誤解を招くことになったようです。

私なら「思う即我、即在り」とするか、「思う即在り」としたいところですね。

 

世の中にあるもので、絶対に存在を証明することのできるものは一つもない、ということになります。あるように見えるけど、本当にあるのか?ということです。

しかし、ここでデカルトは気づきます。そのように考えている思いがあることは確かだ、と。ということは、そのことを考えている「自分」がいることも、間違いなく事実だ、ということになります。つまり世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは、今このことを考えている、「自分自身」のみである、ということになります。

だから、「われ思う、故に我あり」なのです。

 

彼は「考えている自分は疑いようがない」ということを発見したのです。

そのときの言葉が「われ思う、故に我あり」です。なぜなら疑うことは考えることに

他ならないからです。考えている自分は存在するから、デカルトはこの自分を出

発点に哲学を構築しようとしたのです。

 

government of the people, by the people, for the people》米国大統領リンカーン186311

 

 

バリア病

マスクは自分だけの「最小のバリア」

 

しかし、欧米ではマスクをしている人は、いまだほとんどみかけないという。していると「何かのウイルス感染者」か「瀕死の病人」か「これから強盗でもしようとしている人」かと疑われるそうだ。

 

アジアの街中では、かなり昔からマスクをする光景は見かけたが、これは目的がはっきりしていた。排気ガス除けだ。バイクにまたがって、ど派手なピンクのマスクをするベトナム女子、ファンシーなプリント柄のマスクをする台湾の子供たちなど、いやでもマスクに目がいってしまった。目立つファッションという点ではアジアのマスク事情は進んでいる。

 

日本、特に都心ではどうだろう。朝の満員電車に乗れば、相手との距離はほぼないに等しい状態だ。そこでは、マスク本来の使い方は存在するだろうが、「病気をうつさない」というより、「うつされたくない」と自分を隔離、浄化したいといった願望が強く出ているように思える。臭い体臭や香水からも身を守る。自分だけの最小のバリアをはっているのだ。

 

そういえば、以前の職場で、四六時中マスクをつけている人がいたが、「話しかけないでください」という暗黙の意思表示のようで、その人が誰かと話しているのはめったに見たことはなかった。表情を隠したい。これは、精神的なバリアの一種であろう。

 

1996年、抗菌グッズが世の中に溢れ始めた頃、筆者は、汚れを祓い清い場所で守られたいといった願望を「サナトリウム症候群」と名づけた(カラダの中から根こそぎ「悪毒病菌」を排除してさらに心地よい空間に保とうとする人々の生態)が、20年のときが過ぎ、もはやその域は超えてしまったようだ。

 

アイドル病

 

自らの男性性を消し去ってしまおうとするその姿勢は、むしろ、マツコ・デラックスに近いとさえ言えるだろう。たしかに、マツコになれば、年齢や性別を超越して、いくつになってもアイドルで居続けることができるのだ。

 しかも、この戦略はマーケティング的にも正しい。マツコに限らず、坂上忍や有吉弘行と、今、テレビ界を制圧している人気バラエティタレントはいずれも、普通の恋愛や幸せな家庭に背を向けた、孤独な私生活のにおいがする人物ばかりだ。

 みんなが孤独なこの時代、ほんとうの孤独を抱えた者だけが、大衆の嫉妬や反感を買うことなく、その存在を肯定され、その言葉を受け入れられる。ひょっとしたら、中居はそのあたりの時代の空気感も察知して、「結婚に向いていない中年」という「孤独」を演じているのかもしれない。

 

条件外適用病

ある条件のもとでしか通用しないことを、条件外でも適用し、強制する

環境保護団体  シー・シェパード

関連病 大脳皮質固執病 理性主義 正義一片変主義  

 

完全純粋志向病

ビーガン

 

 

ヒステリー者の語りと同じ病

多重人格  解離性同一性障害  DID dissociative Identity Disorder

「健康」は表象不可能である。病気ではない状態としか定義できない。

心身の存在を自覚させる契機は苦痛であり、病気である、と医者は信じている。

心があるから病気がある。

完璧な身体がないから、反省して身体が表象する。

 

健康も身体も想像でしかない。なぜならどちらも意識からみた外界だから。意識の領域の中でのお話で、単なるナルシズムだから。

ナルシズムは他者の身体に鏡像として同一化することで、疎外の効果としての身体のイメージを獲得すること ラカン

ナルシズムは集団性を志向する。

美形とは誰もが容易に同一化できる形のこと。 集団的ナルシズムの産物。 理想の身体。 単なる自我理想。

多様性よりは平板な単一性を選択している。 ありえぬ身体に自己愛を投影している。

 

 

不安病  支配病

[44]ロビンソン的自我は、むき出しの自我と自我がぶつかり相手を呑み込もうとする状況、すなわち社会性が解体された自然状態に早々と向き合おうとする。「カニバリズム」【人食い】はそのメタファー【隠喩】なのだ。ロビンソン的自我の問題はどこまでもロビンソン的社会すなわち西洋近代社会の問題である。……。他者脅威と食人妄想は相互増幅し合う。有用性・具体的目的の範囲を超えたロビンソンの搬出行動の根底にあるのも、食人妄想によってことさらに他者脅威を増幅した不安の中で、一切の社会性が解体された極限状態に早々と向き合おうとする傾向であったと考えることができる。(同書、p.181

 

【この世は食うか食われるかだ→奴らは俺を食おうとしている→俺は自分の身を守らねばならない→使えそうな物や情報はすべて手元に集めねばならない→それでも完全な安全はない→俺が奴らを食わねば(滅ぼさねば)ならない】

 

[45]ロビンソンを近代人の原像となし、このテクストを近代の政治経済学の対象となすのは、デフォーがついに無自覚なままに、それでいて十分に写し出したこの観念の病においてであって、一見そう思われがちな合理的思考と行動においてではない。少なくとも私にはロビンソンを突き動かしているのは、快適な住居建設という目的をもったポジティブな造形的動機ではなく、ついには対象化されえぬ不安の消去という過程だけが発現するネガティブな形なき動機であるように思われる。(同書、p.196

 

[46]……ロビンソンが、この「安全」という目的達成のための理想状態としてひそかに願っているのは、次のような状態である。

(1)受動的存在としての自己の身体を縮小・廃棄して、傷を負うことのない存在、完全に能動的存在へと自己純化すること。

(2)比喩的に言えば、他者から決して眼差されることなく、他者すべてを眼差すことができる単なる点のごとき存在へと自己縮減すること、いわば眼それ自体となること。

(3)他者との、他者からの物理的接触抜きに他者を操作・支配しうる純粋な力それ自体と化すこと。

 ロビンソンは、この【相手から見られずに相手を覗くという】隠れた、手前勝手な、殆ど視姦ポルノ的ともいえる願望を、のちに第二部で彼の「植民地」と化した島において、しかしそこに身体を置かずに純粋・不可触・不可視の権力となるという形で空想的に実現する。(同書、pp.234-5

 

[47]ロビンソンはその欲望という本質において眼である。(同書、p.236

 

【他者を監視し、支配する「眼」は、他者に眺められ、モノとして貪り食われる「肉体」の対極にある。】

 

 

 

 

現代の病   モノを分けることを優先して始まった

 

一面病

全体の一部だけを見て法則を作る

常に善であろうとする

正しいことを求める

 

理解病

わからないことへの恐怖

ひとつ抽象度を上げて理解したら満足

分けられたら満足

 

役者病

真の自分(自意識)と偽りの自分(社会)

役を演じる

モノマネ

役に自分が呑み込まれる

 

不安病  恐怖を煽る  不安産業  

体験したこと少ないので、未知への恐怖

保険、 宗教 

争い 家族

ポア 

ポジティブな来世のために死ぬ

命を軽んじる

軽い不安で商売

 

 

 

自分が問題を起こした病

良いことが悪いことになった  産業、二酸化炭素

自己反省という自意識

 

不安病の原因の一つ

分裂病者は自分自身を離人化した存在として感じやすく、他者を離人化する傾向がある。他者によって離人化されることを恐れている。〈それ〉として扱われると彼の主体性が遠のいてしまう。いつも他者から普段にひとりの人間であることを確認してもらう必要がある。

他者を部分的に離人化するのは日常生活や大きな組織の一部として取り扱うことは、広く行われている。

しかしこのような非人間化を被らない自由な生活領域があるはずだと幻想を持とうする人がいる。彼らは存在論的に不安定であるのは、この離人化から解放された自由な生活領域においてこそ、もっとも危険な体験をしているからだ。

二つの意味で危険である。

一つ目は分裂病者にとっての危険とは、他者が自由な行為者として活動すれば、他者の活動の客体として自分の主体に影響を与えることにより、自己の主体が消え去ってしまう可能性にさらされるからである。

他者の世界の内の一事物でしかなく自分自身の存在を失う危険性に脅かされる。

他者によって自己が活気づけられることもあるが、意気阻喪することもある。ある分裂病者は他者との関わりがいかなる時も自己の意気を不毛にするものだと予想してしまうのだ。だからいかなる他者も脅威となるのだ。

二つ目は、現実にはない離人化のない世界(ユートピア)があるという妄想をもつことで、これを基準としてもモノを考えるときに、この現実は不完全で欠けた世界になるので、不安定になってしまうのだ。

ありえない理想の世界を判断の基準にすることで、現実は不合理で不誠実に溢れる世界に感じ、受け入れがたいものだと判断してしまう。

 

 

分裂症の時代

精神と体を分けることのデメリット

分裂症に発展する出発点

身体化されない自己self

 意識過剰、

imago幼児期に父母の像を基に形成され,他者関係に影響を及ぼす無意識的人物原型.を仮定しようとする

 自己selfと人格personalityは全く異なった二つのものであるという考えを当然として成長してきた。

 Selfは自身のことで、personalityとは他者が彼にそうあって欲しいと望むものである。

 内的selfと外的personalityとの分析により彼の存在は成り立っている

 Selfは本当の、真の、自身の、内的な、というように表現される。

演じることの日常化   自分自身であるのではなく、自分自身さえも演じた。

自分自身を他者の手に引き渡さないのが理想 他者に対して迂遠で韜晦(誤魔化して分からないようにする)を行う

理想は、自分自身にできるだけ完全に率直で正直であること。

 

オーム真理教

反省しない 責任がない 何故? 私のペルソナがその役割を演じただけ、私ではない。

自分の足元は自分で照らすのが佛の道なのに、しない  考えなくていい、他所から答えをもらう

マニュアルに頼る、正解を探してくる

人のために できないくせに   善意と良心でいらぬことをする 能力がないくせに無駄な良心 

明解な答えを出す 答えがわからないのに、ニセの分かりやすさを求めるだけ。 

人間放棄の状態   頭が悪い奴  基準

成長の順番が違う

宗教はプライド 自意識  特別な人  信じるに値する人

その中に階級を持ち込む  修行で実感する  選民思考 

 

生きていることが実感できないでいる生  実存的境地の確かさの欠如 

悪の自覚があるかどうか あるものはアイデンティティがある  キーツ

悪の自覚がない     人間の苦悩と宇宙的疎外感      カフカ

一個の人間たるものをすべて剥奪されてしまっている。両親、家庭、妻、子、社会的関与、食欲、力、美、愛、機知、勇気、忠節、名声、自尊心とも関係がない。

カフカの悪の観念は、健康と正当性を備えた自己という矛盾する観念なしに存在する。

 

確信の欠如のなかに生きるとはいかなることかを伝達するのが現代の作家やアーティストの特徴

サミュエル・ベケットの作品は、存在の絶望、恐怖、倦怠を緩和するはずの「健康と正当性」を備えた自己という概念の全く存在しない世界へ人を誘っていく。

 

世界の周縁にあるあやふやにしかカテゴライズされないものとして、非実在的な自分を感じている。このために彼のアイデンティティと自律性は、たえず疑問にさらされる。

身近な人間関係が安定していない。

時間的持続性の体験が欠如している。

一貫しておりまとまった存在だという、つよい感覚をもつことができない。

自分の素材やエレメントが真正のよき価値あるものとは思うことができない。

自己を身体から離別された部分として感じる。

自己の保持で精一杯

日常生活でさえ安定度の低いコンフォートゾーンを脅かす。致命的脅威になる。ここがはじめの一歩だ。

「彼自身の世界」の内に住んでいる人

彼が他人に対して「無関心」になったり「引きこもったり」しているのではなく反対に大きく影響を受けている。しかし彼の体験世界は他の人々ともはや共有しえないものになっている。

特徴は「呑みこみ」engulfment「内破」「石化」

 

自撮り プリクラ

分裂症者はいつも自己を意識することによって存在する自己を確かめる。そしてこの洞察力と明晰さによっていつも迫害されている。

 

 

 

他人からの認証

FB いいね  自己が不安定なので他人からの認証を必要とする

実在性の確信を得たいという欲求が根本の問題。「生きているぞと確信できる時間が絶えてなかった。」

客体の自分を意識できれば、確信を得ることができると思ってしまう。「人に見られるというのが私の人生の目的なんです。」これにより自分が存在していること、また彼らが存在していることを認識する手段。

 

全能者

分裂症者は全能的であろうとする。閉鎖された、私的、個人の世界(自己)の内に小宇宙を発展させようとする。

他者が実際に必要とするような関係は持たないで、全能的であろうとする。

都会人は自給自足に憧れる。

Herosアメリカドラマ

 

 

評価されたい

認められたい

つながりたい

 

 

ベター病  改善病

つねにベターのものを求め、休むことをしない。

分けて優性を選択する。

分け続ける限り、選択は発生する。 分けることが好きな理性  分けていないと落ち着かない精神状態

 

 

ポア

悪徳を積む人間を殺してあげる

 

弱者捏造

学者

 

学者は信用するものじゃない、参考にするものだ。

ちゃんとした学説を2つ唱えても次の一つがトンチンカンのこともある。

理由は学問がかかえる宿命と頭を使う人間のクセだ。

学問とはものを分けていくことで知識を増やすのだけれども、だからこその欠点がある。参照 学問の限界

もう一つは学問をすることによって頭を多用し、それによりあるクセや考え方ができ、学者になった場合は、そのクセを商売にしてしまっているからだ。

専門家の特徴である責任を取れない体質になるのは、何事も大脳皮質を基準とするために、情感を司る大脳辺縁系や本能を司る脳幹を基準とする機会が減少してしまうことから源を発する。

同じことが学者にも起きるので

理性を基準にすることにより、普遍的なユニバーサルを目指す  

内側の人間の視点よりも、外側の幻想を基準にする。主観性よりも客観性の方が意味があると思いたがっている。

というクセが生じてしまう。

するとそのような考え方でこの世の中で暮らしていくと、理性の視点でこの世の出来事を見て判断して行動してしまう機会が増えてしまう。

世でいうリベラルの徒となってしまうのだ。

理性という囲いの中で暮らしていると、それが当たり前と思い、その外の世界を受け入れられないものだと判断してしまう。そして場合によって外の世界を変革しなければならないと思い込もうとするのだ。そうしないと囲いが崩れるかのように。

例えば、良識が肉欲をコントロールしなければならないと思うように。

この囲いの中に外側の異物が入ることは許すことができない。異物に対しては徹底的に排除しようとする。

脳機能学で言うと、大脳皮質が大脳辺縁系と脳幹をコントロールしようとするのだ。

 

しかし大脳皮質には判断を司る機能がない

ところが学者は理性で判断できると思ってしまう傾向がある。

 

すると情感に一つの特徴が出てくる。

弱者を守ろうとすることに関心が強くなる。無理矢理にも弱者をつくり、それを守ることが自分の存在意義だと思う気質が発生する。

何故か?

 

判断の基準が無意識も含む情感であるのにそれを認めないために、無理矢理に意識を判断の基準にするための仕組みを作ろうとする。それが弱者の捏造だ。弱者という枠組みを作れるのは意識だけであって、無意識にはできないことである。意識がなければ何もできないと思うことは理性にとって必要な装置なのである。

 

人間の本能や感情を基準とした枠組みを避けようとする傾向がある。枠組みを作ってしまうと内側を○外側を✕と判断しなければならない機会が増えるので、理性の✕と本能や感情の○がぶつかってしまうのだ。またここに囲いを作るということは自分で作ったことを意識せざるを得ないので、責任が生じる。はじめから有ったものや押し付けられたものには責任を感じなくてもいい、と思いたがることができると思う人もいるからだ。

成人はこの矛盾を受け入れるが、理性中心主義者たちはこのような矛盾を極力避けようとする。

すると起きることは感情や本能の基準を持たないという選択だ。具体的に言うと、家族、地域社会の接点を減らし、理性や趣味で社会と繋がろうとする新たな集団だ。

弱点は自然や生命や想定外や変化のある安定。

 

 

政治家は、公の発言をなす場合にも、世論の表面に対して好むと好まざるとにかかわらず少々は迎合してみせなければならない。世論の風向きに添わねば、その地位を保証されないというのが民主主義の習いだからである。

こうした心理的力学から最も自由なのは本来は知識人のはずである。知識の見地からすれば、世論の裏面に無関心ではおれるわけがない。ところが物事の裏表には言及せず、世論の美味しい方だけを語り、世論から嫌われることせず、ただ迎合するのを生業にするものは、知識の基準である「真偽」を、政治の基準つまり「多少」に変えたり、道徳宗教の基準「善悪」に変えてしまっている者が少なくない。

 

 

学問をするとリベラルになって、内側である共同体を裏切り地域を壊し、理性を尊び仮想集団との付き合いにシンパシーができます。

 

 

 

 

 

無駄なことをする意味

西田幾多郎は「善の研究」のなかで

 

人は皆宇宙に一定不変の理なるものあって、万物はこれによりて成立すると信じている。この理とは万物の統一力であって兼ねて意識内面の統一力である、理は物や心によって所持せられるのではなく、理が物心を成立せしむるのである。理は独立依存であって、時間、空間、人によって異なることなく、顕滅用不用によりて変ぜざるものである。……理そのものは創作的であって、我々はこれになりきりこれに即して働くことができるが、これを意識の対象として見ことのできないものである。*2

と述べている。

 

これだと思った。

根源的統一力である理(ことわり)が人間にも自然にも作用しているのだと。

これなら初見の曲を聞いたときに曲想が一致することも説明がつく。

 

"悟り"

 

この根本原理を垣間見るのが日常の"悟り"ではないかと思う。

 

西田はこれを"感得"と言った。

 

悟りについて日常生活とは遠いものか近いものかという議論や、悟りの本質とはという考え方も多数ある。

その悟りではなく、ここでは仏教の言葉を借りて、私が何度か経験した思考が急激に加速して歯車が自然とかみ合う、言葉にする前に答えがポンと出て来る何とも言えないあの不思議な感覚を指して"悟り"と呼ぶことにする。

 

私の個人的な経験で言えば、美術館や博物館に行って作品を見たり、一生懸命悩んだり、ぼーっとしたり、いろいろ読んだり見たり、たくさんの経験をして、(自分では何が要るのかわからないが)必要な要素が全部そろった時に、自然と答えが出て来るのではないかと思う。

 

見聞きしたものが思考の泉に溶けて行って、そうやっていろんな経験をして要素を増やしていってかき混ぜて、必要な時に答えがポンと出て来る。

 

私は"悟り"を得た時、光が差して一気に目の前が開ける感覚を受ける。

悩みが一気になくなって、安心感を得る。

そりゃそうだ。人間はわからないから恐怖なのであり、その恐怖は想像することによって生まれるのだから。

(分からないから想像し、想像するから恐怖を感じる。つまり、分からないことは恐怖である。恐怖は想像によって生じ、その想像は分からないことが基になっている)

 

「人は想像するから恐ろしいんだ……想像は全ての感情の源。分からないからこそ人は想像してしまう」*5

考える

 

いろんなことを逐一考えて、自分の中に今のところ矛盾のない方程式を何本か持っている。

そのたびに思考の泉に栄養を与え続けて、答え(方程式)がポンと出てくる経験を何度もした。

 

根源的統一力、西田が理(ことわり)と呼んだそれを垣間見ること、それこそが哲学だと思っている。

 

哲学の動機

どうして私が哲学するに至ったかを振り返ってみるとそれは悲しみであると思う。

祖母が怪我をし、入院したことでボケた。認知症だ。

人が変わり、それへの対応で家庭の環境が激変。家が崩壊しかけた。

小学校六年の私の心はその環境変化に耐えられず、中学校に入っても環境に大きな変化がなかったため、衝動的に学校の備品を破壊したり、いきなり泣き出したり叫んだり、暴言を吐いたり、いきなり人を殴ったり今から考えると恐ろしいことを繰り返していたなと思う。

申し訳なさもあるが、当時の幼い私にはどうにもならなかったと思う。

親もクラスメイトも先生も、どうすることもできなかったと思う。

もちろん、クラスメイトは私を避ける。家に帰っても地獄。祖父や両親は私以上に大変だったと思う。

私が何をしても祖母は変わらず、乱れた心を制することもできない。

それによって日常生活も、勉強も、部活動もままならない。

何をやってもダメな気がしたし、何よりやる気も起らなかった。

無気力、虚脱感から抜け出せず、たくさんの矛盾を抱えて絶望の日々を送るしかなかった。

動くと、行動すると大半の場合状況が悪化すると学習した私は考えまくった。

 

辛く悲しい思考を幾度となく繰り返し、自問自答をして答えのない出口のない海をさまよった。

 

西田は

 哲学は我々の自己の自己矛盾の事実より始まるのである。哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。*6

 

哲学する理由

 

理由なんてなくて、必然的にそうなっているだけなのだと思う。

よく私の哲学的発言を見て「よくお前はそんなことが言えるな」「お前はそんなに偉いのか」「何様のつもりなんだ」と言われることがある。

私は世の中に対する批判を述べたいわけではない。

出来た人間でないことは自分がよく分かっている。

なのになぜ、そんなことを言うか。

それは私にも本当は分かっていないと思う。

ありのままを感じているだけで、着想そのものは何も考えていないのだ。

私の"純粋経験"を述べているだけで、それによって世界が変わって欲しいなんてこれっぽちも思っていない。

 

むしろ逆で、

 

「あなたの行動がほとんど無意味であったとしても、それでもあなたはしなくてはならない。それは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである。」(マハトマ・ガンジー)

 

に近いかもしれない。

 

哲学、考えることが私が生きていることであり、目の前の世界を感じ取ることこそ、人の人生かなと思っている。

 

 

 

分類学

リンネ 1707-1778

植物を人為的に分類して分類学の基礎を作った。

葉形、花びら数など多くの基準があるが、雄しべの数を基準とした。24

はじめに以前の人たちの研究した記録や考え方を調べた。

アリストテレスの弟子テオフラストス、チェザルピーノ1585 1520種の植物を15のグループに分類する

名付け方

二つの特徴の組み合わせで学名をつけた

 

ラマルク

自然は最初は簡単である低級な生物が作られた。それが変化と発展をして、複雑で高級な生物になった。

いつも使われているところは子孫にいくにつれて発達し、使わないところは衰える。 要不要説

 

ダーウィン

ラマルクの生物はひとりでに発展する能力を持っているのに同意できない。子にバラエティーがあり、環境に合うものが生き残ったり増えたりした。

野生と飼育の違いを考える  人間の都合の良い品種を選ぶことを何代も続けると、それは新しい品種といえる

人為淘汰だけではなく自然でも同じことが起こり得る。

マルサスの人口論 限られた食料の中で人口増加を抑えるのは、悪天候、伝染病、戦争である

自然淘汰は生存競争の結果におこるのではないかという仮説をもつ。

生存競争によって、生きていくのに都合のよいものが生き残り、子孫を増やす。

自然選択と生存競争によって、より環境にあったものが生き残って、現在の人類になった。

適者生存  the survival of the fittest

生存競争 the struggle for existence

 

 

 

 

 

Description: 心の病一覧表と治療法


病名一覧表で背景色が白色以外の黄色の付いた心の病は薬物療法と森田療法の組み合わせで治療効果が上がるとされる病気です。このような症状をお持ちの方は是非一度横浜第2集談会にいらしてみて下さい。最初は見学からでもOKですよ。(本一覧表はリンク集にもある「心の病」のサイトから許可を得て転載させて頂いた内容と、実際に集談会でお目に掛かった、特徴の方も加えています。)(治療法については以下のサイトを参考に管理人が文章を纏めています。「岡本記念財団、慈恵医大、九州大学」)


広汎性発達障害
 精神遅滞障害
 (知能程度によって分類、何らかの脳障害で有って心の病ではない)

  

軽度精神遅滞障害

先天性代謝異常や染色体異常、脳の奇形等が原因となって日常生活や社会生活への適応が困難になっている状態を言います。知能指数に応じて軽度ー最重度に分類します。軽度はIQ50-60
小学生程度。社会生活に充分適応できます。

 

原因となる病気により障害や後遺症を最小限に食い止める事が

出来ます。初期の場合食事療法やホルモン置換法等により、

進行を防ぐ事が出来ます。

 

 

 

中程度精神遅滞障害

IQ45−55程度の場合

重度精神遅滞障害

IQ20−45程度の場合

最重度精神障害

IQ20−25以下の場合

 自閉症
 (脳障害であることが分かっており、心の病ではない)

自閉症

社会性、行動等が年令相応に発達しない状態。一つの事に異常に関心が高く良く覚える。

有効な薬剤、治療法は確立されていません。

しかしスキンシップを深め常に話し掛けをする事が有効と

考えられている。

高機能自閉症

両者は同じと考えてよい。知能、言語の発達はほぼ普通。但し、会話はぎこちない。

アスペルガー症候群

 人格障害
 (人格が著しく偏る事に拠って社会生活に何らかの破錠をきたす障害のことをいいます。しかし此れを精神疾患とするかどうかには議論があり、又この障害者には余り自覚が無い場合が多いのが特徴です)

分裂質人格障害

妄想性人格障害

猜疑心と敏感性が非常に強い。従って他人に対する不信論争好き頑固自負心が強いのが特徴。

はっきりとした治療法はまだ確立されていません。

しかし状況に応じて、精神療法により社会に

適応可能な考え方や行動に導くといった方法や

抗不安薬、精神刺激薬などの薬物療法を

用いることもある

分裂病質人格障害

自閉的で孤独になり勝ち。感情も表さない。異性を含めて「人」に余り興味が無い。

分裂病方人格障害

他人は理解できない存在であり、皆と旨く交流できない。境界性と似ているが、より統合失調に近い

情緒性人格障害

反社会性人格障害

良心の呵責を感じなく冷静に凶悪犯罪を行える。犯罪者に多い障害。

境界性人格障害

神経症と統合失調症との境界型。衝動的で感情の起伏が激しくそのため対人関係が不安定。

演技性人格障害

常に周りの人の関心を自分中心にしないと気がすまない性格。底は浅く旨く行かないと感情を爆発させる

自己愛性人格障害

ナルシストの事です。其の原因は母親の過保護と父親の不在です。常に自分は特別に優れていると思って居るので対人的に問題を起こしやすい。

恐怖性人格障害

回避性人格障害

他人から拒絶批判を恐れ恥をかく事に非常に敏感です。引篭もりに成りやすい人格障害です。

依存性人格障害

甘えの強い性格です。大切な事も自分で決められず他人の判断に任せます。並外れて従順です。

強迫性人格障害

秩序、ルール、完全主義に囚われすぎて柔軟性や効率性が無い性格です。

 学習障害
 (学習障害とは全体的には知能の遅れは無いものの、聞く:読む:書く:話す:といった特定の能力に対して困難を示す障害の事です。)

読字障害

読字障害の主な症状は言葉を認識する能力が期待されるレベルより著しく低い場合をいいます。

この症状の原因はまだはっきり判っていません。しかし治療法として、教育を中心としたリハビリを行います。此れを続ける事により脳内の神経系ネットワークが広がってゆき、徐々に能力が高まって行きます。

算数障害

算数能力が期待されるレベルより著しく低い場合を言います。

書字表出障害

書字能力が期待されるレベルより著しく低い場合を言います。

 コミュニケーション障害
 (脳や視聴覚器官などに異常がないものの言語能力が年令相応に達していない障害をいいます)

音韻障害

年令相応の発音が出来ないという特徴が有ります。又、話し方が幼く、オーム返しなどの症状もあります。

治療は主に言語療法が用いられます。又、精神的治療が

なされる場合も有ります。しかし家族などが無理に

発音矯正をすると逆効果となり精神的悪影響を及ぼす

場合があるので注意が必要です。

表出性言語障害

年令相応の話す能力が無いという特徴があります。しかし言葉などの理解は出来ており、身振りなどで意思表示する事は可能です。

受容ー表出性言語障害

年令相応の話す能力と言葉を理解する能力に欠如が見られるのが特徴です。自分の名前を呼ばれても反応が薄いため難聴と勘違いする場合もあるため注意が必要です。

吃音症(どもり)

語音が反復されたり、詰まったりするなどの特徴があります。慢性化すると治すのが難しくなるので、早期の治療が望ましい。圧倒的に男の子に多い障害のようです。あまり「吃音」を嫌うと「対人障害」等の「神経症」に発展するので注意が必要。


社会不適応群
 社会不適応症候群
(心の病では無いと主張する医師も多い。自分に自信が無い。即ち「自立」していない青年に多い、と言われている。但し、精神神経疾患としてマニュアル化されている症状もあり、医師の助けが必要な場合も多い。)

青い鳥症候群

一頃騒がれた症状。自分の適職はこれでは無いと夢見て転職を繰り返す。現在のように贅沢を言えない状況では余り聞かれなくなっている。

アダルトチルドレンが主な原因と言われている。自立できていない青年に多い。自立を促すように家族や友人のサポートが一番良い。

出社拒否症候群

職場のストレス等に依って、会社に行けなくなる症状。実際に出社時刻になると眩暈、吐き気、緊張感、下痢等が出る。最近は新人だけでは無く「リストラ」や「IT不適応」でベテランにも多い。

繊細な性格に多い。「うつ」と同じで「励す」のは反って良く無いとされている。良いコミュニケーションを保つ。趣味を持つ等が良い。

登校拒否症
(学校恐怖症とも言う) 

 精神的に追い詰められている学童が学校に行く時に突然腹痛や頭痛等の症状に見舞われる。国際的には「学校恐怖症」の病名で精神神経疾患としてマニュアル化されている。世界共通の現象のようである。

 子供がこのような状況になったら、問題は簡単ではないと推察して(「いじめ」の場合も有ります)解決を急がない事です。専門家の助けを借りて、真剣に対処する必要があります。

引籠り

学童だけでは無く、一旦社会人に成ってから、引籠りになるケースも多い。いじめやちょっとした挫折からなる場合が多くきっかけははっきりしているが、その後の引籠り続ける原因は良く分っていない。豊かな社会だけに起こる現象で有る事は分っている。

10年以上を経過すると、解決が非常に難しくなる。粘り強く本人を勇気づける働きかけが有効だが、嫌がられる場合も多く、極めて解決が困難な場合が多い。突然、本人が外に出たがるように成って解決する事も案外多い。

社会不適応症候群

非常に範囲の広い言葉で、学校や職場で強いストレスを感じ、長く続く。或いはその事を想像すると「胃腸の不全感」や「不安感」が出る。等のケースを総称してこう呼ぶ。雅子様で有名になった「適応障害」もこの中に入る。

一人では解決が難しいので、専門家に相談するのが良い。ほっておくと「うつ」や「心身症」或いは「神経症」に迄発展する場合がある。

 五月病

 五月病(ごがつびょう)とは、新人社員や大学の新入生などに見られる、新しい環境に適応できないことに起因する精神的な症状の総称である。抑うつ、無気力、不安感、あせり等の症状を伴うので「適応障害」或いは「うつ病」と診断される場合も多い。

特別な治療が必要になる場合を除き、暫く、精神的な休みを取る事で十分回復する。この間、同級生や家族との交流が最も役に立つとも言われる。 

 燃え尽き症候群

 Burnout Syndrome)大きな仕事や研究をやり終えた後に、虚脱感に襲われ、朝起きられない、会社または職場に行きたくない等の状況に陥る。「うつ」状態になる場合もある。1974年に米国で発見されたと言われる。

症状に応じた処方を行う。少し肉体的にも精神的にも休養を取る必要がある。新しい人生目標を立てる事が役に立つ。その間は薬物療法に頼るのが良い。 


 家族問題症候群
(心の病では無いケースもあり、判断が難しい。医師も「心の病では無い」と主張するケースが多い。)

 

 親離れ子離れ不適応

一番の原因は親の子離れが出来ないケースが元々存在する事から始まる。親の子離れは育児の時代から子供を独立した人格と認識できなくて、過保護、過干渉、(マイナス言葉)で育てる親が原因。子供が自立したり結婚した時には一切手を引きべきだが、それが出来ない。このような親に育てられる子供が親離れできないケースを生む。更には上の社会不適応や出社拒否症等を生ずる「自立」していない人格を作る元に成っている。現在60代から下の年代の親がこのような原因を作っている可能性が高い。

 

 空の巣症候群

Empty-nest Syndrome)は、40代から50代の女性によく見られる抑うつ症状。子育てが終わり、子どもが家を巣立っていったあたりから出てくる事が多いので、こう呼ばれる。燃え尽き症候群、五月病などとも似通ったもの。子どもが自立し、夫は仕事で忙しく、構ってくれず、夫婦生活もないに等しくなり、涙もろくなり、夫の定年が近いというと、退職、即離婚といった方に展開していく事もある。育児時代から子供に入れ込む親ほど成り易い。

 

 夫(妻)在宅症候群

仕事一筋・無趣味だった夫が定年退職等で仕事がなくなり、1日中在宅するようになって、妻を束縛すると、妻は大変なストレスを感じるようになることが多い。特に団塊の世代が定年退職した2007年以降は深刻化している。長年、平日日中は主婦一人あるいは気心の知れた近所の来客との雑談といった生活が普通であった。しかし、夫の定年退職後は昼夜を分かたず束縛されて多くの病気を発症する。また、若い世代でもリストラされた夫がずっと家にいて妻を束縛する場合もある。夫の側も今迄は遅く帰宅して妻は食事と風呂の世話して終わりだったのに、一日中妻と居るように成って大変困難と感ずる場合もこの症状になる。妻(夫)共に深刻化すると「心身症」から「うつ」状態や「パニック発作」を生じたりする場合がある

 

 

 

 


 心身症
(様々なストレスを主とする心理的要因で起こると認められる、身体的症状のみに使われる病名である。一般的には心の病の範疇ではないとされるケースが多い。)

 循環器系症状

 本能性高血圧 不整脈等

症状は実に様々で此処に記載したのはほんの一部です。 人と関わる場所で、或いはハードな仕事、受験勉強等で嫌な事が続きストレスが長引きこれら心理的要因で起きていると認められる時のみに使われる病名です。これらの病気だけでなく全ての病気は何らかのストレスが関与していると言われ心身症でない病気の方がむしろ稀だと考えられています。 

 心理社会的な側面が関与している為心と体の両面から治療します。心は安定剤等の薬物療法とカウンセリングや自律訓練法等体は各症状に応じた治療法。

 呼吸器系症状

 気管支喘息

 消化器系症状

 しゃっくり 十二指腸潰瘍等 慢性胃炎等

 皮膚科系症状

 アトピー性皮膚炎 円形脱毛症

 全身的症状

 自律神経失調症 性的不能等

 

物質依存症
 物質依存症

アルコール依存症

主な症状は「離脱症状」です。これは飲酒を辞める事によって起こる禁断症状の事で、手の振るえ、幻覚症状、不眠、寝汗、動悸、吐き気等

現在の所、断酒或いは吸引をやめるしかないと言われています。本人の意思だけでは100%無理なので、入院や精神療法及び断酒の会などで仲間と励ましあいながらこれらの物質以外のもので、気を紛らせながら併用して行います。

麻薬、シンナー、ガソリン依存症

主な症状は「離脱症状です。これは麻薬等の吸引をやめる事によって起こる禁断症状の事で、手の振るえ、幻覚症状、不眠、寝汗、吐き気等

精神病

 統合失調型

統合失調症

幻想、幻視、幻聴や異常な言動奇妙な行動等がある。原因不明の精神病であり、日本に役70万人居ると言われている。

薬物療法以外に今の所有効な治療法は有りません

分裂感情障害

非定型精神病とも呼ばれ、躁鬱病などの気分障害と統合失調症が合わさった病気です。一部は遺伝性があると言われていますが、全ての原因は判っていません。女性の方が多いです。

妄想性障害

一日の内の殆どをこの妄想をしています。次の7つの種別があります。被害形、嫉妬型、誇大型、色情型、身体型、混合型。

 解離障害
 (解離性ヒステリーの一つで強いストレスや心の傷による防衛反応として現れるものです)

解離性健忘

強いストレスや心の傷を負った時に、記憶を失う状態を言います。若い女性に多いと言われます。次の3種が有ります。極限性健忘:数時間ー数日と言う一定期間の記憶を失う。全般製健忘:今迄の過去の記憶を一切失う。選択的健忘:思い出したくない記憶だけを失う。診断には何れも統合失調症との区別が必要。

治療なしで突然思い出す事も有るが極めて少ない。治療を行って思い出す方がが断然多い。催眠療法、精神療法が有ります。

解離性遁走

強いストレスや心の傷を負った時に、突然自分の家や職場から逃出し、行方を眩ます状態を言います。やはり記憶を一定期間失ったり、全ての記憶を失ったりします。本人に其の自覚が無いので、他人からは普通の人に見えます。診断には統合失調症との区別が必要です。

数時間ー数日で遁走前の状態に戻って自然に治癒する事が多いです。但し、遁走の事は覚えていません。治療する場合は薬物療法、催眠療法、精神療法が多いです。

解離性同一障害

本人の人格以外にも別の人格が現れる状態を言います。其の別の人格は本人の人格と立ち代り現れて、その人の行動をコントロールします。この症状は女性に多く、青年期後期から成人期に掛けて起こりやすいと言われている。他の人格が現れて居る時の記憶が落ちてしまうタイプと、覚えているタイプが有ります。

アメリカでは催眠療法と薬物療法が一般的で、精神療法を用いる事が有ります。何れも自我の再統合を目指します。

離人症性障害

自分が自分の心や身体から離れて、他人の目で傍観して夢の中に居るような現実感の無い感じ。見慣れた何時もの町並みが外国のように感じたり、自分が自分でない感じが現れる状態です。その他には、手足が大きく感じたり、物の見方が変わったり、時間感覚、空間感覚の異常を起す事も有ります。軽い状態も含めると幅広い年齢層に比較的多く見られる症状です。

明確な治療法が無いのが実情です。自然に収まるケースも比較的多いです。抗不安薬による薬物療法、支持的精神療法、認知行動療法などの治療を行います。

 気分障害(うつ病)

うつ病

憂鬱な気分になって元気が無くなり、興味も喪失します。几帳面な人、正義感の強い人、完全主義の人がなりやすいと言われています。

薬物療法が主ですが、最近は認知行動療法など本人の気持ちの持ち方を変える療法と組み合わせると効果が上がる事が知られるように成りました。

双極性うつ病

躁鬱病とも呼ばれ、躁の状態とうつの状態が交互に見られる病気です。躁の状態は陽気で活動的ですが気が大きくなって、社会的なダメージが大きく成ります。T形とU形があります。U型は躁が軽いタイプです。

薬物療法が主です。但し「うつ病」と薬の処方が大分違うので、正しく診断して貰う事が必要です。うつ全般に言えますが、薬の種類が多く病気との相性が有ります。このため治り難い場合は医師を変えてみる事も考慮すべきです。認知行動療法との併用で効果が上がる事が知られるように成りました。

仮面うつ病

うつ病の精神症状が身体症状(胃腸症状、動悸息切れ、頭痛、眩暈など)で隠されているうつ病。患者は主として身体症状の方を訴えるため適切な診断が遅れ勝ちになるケースが多い

病院各科を転々とした後仮面うつ病と的確な診断がなされると、以後はうつと同じ薬物療法での投薬が始まり身体症状も消える。それからは比較的治りが早いうつ。認知行動療法を併用すると再発率が低くなると言われている。

気分変調性障害

抑うつ神経症とも呼ばれ、軽いうつ状態が慢性的に続く病気です。女性の方が多い病気です。うつ程重い病気では有りません。うつが慢性化した場合もこのように成ります。

薬物療法と精神療法(主として認知療法又は認知行動療法)が併用されます。考え方のパターンを変えるのが有効とされます。

非定型うつ病

最近若者に多く見られると言われる新しいタイプのうつ病です。楽しい事や仕事中は明るくなるが、自宅に戻ると気分が落込む。通常のうつと違って夕方から夜に掛けて気分が落ち込むなどです。女性が圧倒的に多く、小さい頃から「いい子」と言われ「他人からどう見られるか」を気にして育った子に多く発症すると言われる。

このうつは薬物療法が主たる療法になるが、多少辛くとも仕事に行った方が良いとされる。認知行動療法の併用が適している。(森田療法にも出番が有りそう)

季節性うつ病

最近日本でも見られるようになったうつ。英国では非常に多い。夏が過ぎ秋から冬に掛けて気分が落ち込むようになる。2月頃が最悪。特徴は、午前は良いが午後になると落ち込む。食欲が出て甘いものを欲しがるので体重は増える。眠気も襲う為、睡眠過多になる。2年以上続いたら診断する

薬物療法の他、生活習慣の変更を指導する。朝決まった時間に起きてベランダなどで1時間位明るい空を見る。自宅での高照度治療(明るい光を浴びる)。太陽光を浴びるのも良い。重症の場合は入院して行う。


「慾うつ神経症」と診断され、何回も「治癒」「再発」を繰り返した方が集談会で森田療法を勉強して、15年来のうつを「自分は落ち込みやすい性格だから、これを受け入れよう」と決心した事により「軽快」してすっかり楽になりました。と言われたので、森田療法適とします。

社会不安障害
 不安障害

全般性不安障害

昔は下欄のパニック障害を合わせて不安神経症と呼ばれていました。発作性ではない自分でもコントロールできない程の不安や心配が漠然と続き、精神症状だけでなく、身体的にも現れる。精神症状は不安感、焦燥感、無気力、集中力低下、思考力低下など。身体的症状は頭痛、眩暈、筋肉痛、疲労感、下痢便秘、嘔吐などです。

薬物療法と精神療法があります。精神療法は力動的精神療法と行動療法です。森田療法も適して居ると思います。

パニック障害

突然パニック発作が起こります。発作は急性の不安や恐怖感を伴います。身体症状として、動悸、胸痛、眩暈、震え、息苦しい、発汗、痺れ、離人感などが有ります。突然のパニック発作は、強いストレスが3ヶ月以上続いた時、強い疲労状態が長く続いた時、他人の事故や死に遭遇した時などに起こります。通常、死を意識する程の恐怖感を抱きますので又起こるのでは無いかと囚われるようになり反復発作を繰り返します。

薬物療法と精神療法があります。精神療法には行動療法や認知療法、認知行動療法及び森田療法が有ります。発作の強さの割には比較的治りやすいとされる症状です。 

広場恐怖

広々とした所に来ると発作を起こす人も居る為この名前が付きましたが、多くは駅、電車、エレベーター、散髪、歯医者、美容院等自分が逃げられない場所に居ると強い恐怖感を覚える状態。通常パニック発作を伴う事が多く、パニック発作の後遺症として起こるケースが多い。従ってパニック障害の一種と考えられます。

乗り物恐怖

広場恐怖の一種で、特に乗り物に対して恐怖感を抱き乗れない状態になる事を言います。パニック障害の後遺症として現れる事が多く、パニック発作の一種と考えられます。

過呼吸症候群

パニック発作の後遺症で起るケースが多い。パニック障害の中に入れても良いが、この発作が起こると死の恐怖にさいなまれて重大視するので独立した症状として記載する事にした。吸入過多がほとんどで、吐き出すのがうまく出来なくなる。 

閉所恐怖症

広場恐怖と似ていますが、パニック障害が引き金になるのでは無く、子供の頃の体験などからといったはっきり原因が判っているケースもありますが、原因不明の場合が多いです。動悸、震え、眩暈といったパニック発作を起こす事があります。

薬物療法や精神療法があります。精神療法には行動療法や集団療法があります。其の他に呼吸法やリラキゼーション法を取り入れる事があります。

高所恐怖症

飛行機や高いビルなど高い所に対して強い恐怖や不安を感じ動悸、震え、眩暈といったパニック発作を起こす事もあります。子供の頃の体験などが原因になる事が有りますが、はっきり判っていません。

 対人恐怖
 (日本人に顕著に見られる症状であり、外国にも似た症状はあるが多くは居ないとされて来ました。但し、最近SSRI等が病気以外にも使われるように成って(例えば、大事な試験や面接時に心を落ち着かせる為に使われる等)、軽度の「対人障害」は外国にも結構多い事が分って来ました。外国では、「赤面恐怖」や「パーティ恐怖」等が多いようです。日本では周囲との関係を重視する日本独特の文化に拠るものと考えられ外国と比べると視線恐怖型が比較的多いとされています。一般的に劣等意識と同居する場合が非常に多い)

 他者からの注目を恐れる障害型

大勢の人前に出ると緊張する

最も多いタイプ。大勢の人の前に出ると、緊張しひどい時は、動悸、、発汗、息切れ、眩暈、痺れなどの症状が出る。

この症状は一般に「この治療法が良い」と知られていないため治療に混乱を来たす症状である。まずは薬物療法が主たる治療法である。薬が全然効かないタイプの人も居る為混乱に拍車が掛る。実際はかなり薬物療法で治る。良い医師を探すのが一番良い。此れに加えて精神療法(認知行動療法或いは森田療法)を併用すべきである。考え方の持ち方を変える事で治療効果が格段に上がる。治療法に混乱する為、民間療法に頼るケースが多いようであるが費用対効果の点から余り望ましくない。

目上の人と会うのが苦手で緊張する

目上の人の前に出ると緊張し、ひどい場合は動悸、発汗、息切れ、眩暈、痺れなどの症状が出る。

一人の前や目下の人の前で緊張する

上記のタイプと反対のタイプ、緊張やひどい時の症状は同じ。

未知の人と会うのが苦手

未知の人の前で緊張するタイプ。ひどい時は動悸、発汗、息切れ、眩暈、痺れなどの症状が出る。

良く知る人と会うのが苦手

上記の逆のタイプ。緊張やひどい時の症状は同じ。

他人の視線が気になり緊張するタイプ

かなり多いタイプ。特に電車の中などで、大勢の人が自分を見つめているのでは無いかと緊張する。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れ等の症状を伴う。

同姓に対してのみ緊張するタイプ

同姓の前でのみ緊張する。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れ等の症状を伴う。このタイプは女性に多いが絶対数は非常に少ない。

異性に対してのみ緊張するタイプ

異性の前でのみ緊張する。同姓のみに緊張するタイプよりはるかに多い。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れ等の症状を伴う。

 自分の身体的欠陥を確信している障害型

大勢の前で赤面する赤面恐怖

赤面する事を恥ずかしいと思い緊張する。ひどい時は赤面の熱で動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れなどの症状が出る。

この症状は一般に「この治療法が良い」と知られていないため治療に混乱を来たす症状である。まずは薬物療法が主たる治療法である。薬が全然効かないタイプの人も居る為混乱に拍車が掛る。実際はかなり薬物療法で治る。良い医師を探すのが一番良い。此れに加えて精神療法(認知行動療法或いは森田療法)を併用すべきである。考え方の持ち方を変える事で治療効果が格段に上がる。治療法に混乱する為、民間療法に頼るケースが多いようであるが費用対効果の点から余り望ましくない。

人前で字を書くとき手が震える書痙

冠婚葬祭など受付の人の前で字を書く時、手が震えるのを恥ずかしいと思い緊張する。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れなどの症状が出る。このタイプは予め日時が判った時の予期恐怖が非常に強いのが特徴。

人前でお茶だしする時に手が震える茶痙

会議など大勢の人が見ている前でお茶だしする時、手が震えるのを恥ずかしいと思い、ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れなどの症状が出る。予めお茶出しが判った時の予期恐怖が非常に強いのが特徴。

自分の容姿、表情、動作が変で相手に不快感を与えると思い緊張する。

自分が他人に不快感や迷惑を掛けていると思い込み、緊張する。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れなどの症状を伴う。劣等感が特に強いタイプ

自分の視線が他人に不快感を与えていると思い緊張する。

自分の視線が異常であり、他人に不快感を与えていると思い込む。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れ等の症状を伴う。

自分から異臭が出て相手に不快感を与えていると緊張するタイプ。

自分の臭気は異常であり、他人に不快感を与えていると思い込み緊張する。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れなどの症状を伴う。

 社会的障害型

雑談するグループに入って行けない

かなり多く居るタイプ。会話が苦手で、雑談グループに入り難いと感ずるタイプ。ひどく緊張する事は少なく、ひどい症状も伴わない。孤独感を味わう。

この症状は一般に「この治療法が良い」と知られていないため治療に混乱を来たす症状である。まずは薬物療法が主たる治療法である。薬が全然効かないタイプの人も居る為混乱に拍車が掛る。実際はかなり薬物療法で治る。良い医師を探すのが一番良い。此れに加えて精神療法(認知行動療法或いは森田療法)を併用すべきである。考え方の持ち方を変える事で治療効果が格段に上がる。治療法に混乱する為、民間療法に頼るケースが多いようであるが費用対効果の点から余り望ましくない。

人前でオナラをするのでは無いかと緊張するタイプ

一人で居る時は何でも無いが、他人の前ではオナラが出るのでは無いかと緊張する。通常女の人は人前ではしないので女性に多い。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れなどの症状が出る。

人前で尿意を催す頻尿タイプ

男女とも居る。一人で居る時は何でも無いが他人と居る時に尿意を催す。このため頻繁にトイレに入る。トイレが無い場所では緊張感が高まり、ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れ等の症状を伴う。

人前で便意を催す頻便タイプ

一人で居る時は何でも無いが、人前で頻繁に便意を催す。トイレの無い所では緊張感が強く、ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れなどの症状を伴う。

人前で発汗するのを恐れる

一人のときは何でも無いが、人前で汗が出て不快感を与えるのではないかと恐れる。ひどい時は更に発汗が強まる上、動悸、息切れ、眩暈、痺れなどの症状が出る。

人と話をすると声が震えるのでは無いかと恐れる。

他人と会話する時、声が震えるのでは無いかと緊張する。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れ等の症状が出る。

電話で旨く話せないため電話がなかなか取れない。

電話で旨く話せないと思い込んで、電話が鳴ると一挙に緊張する。やむなく電話を取っても、しどろもどろで旨く話せない。吃音の人にも同様の場合がある。ひどい時は動悸、息切れ、発汗、眩暈、痺れ等の症状を伴う。

 強迫性障害
 (不合理であると本人も自覚しているのに、囚われた観念や行為を抑制できない症状)

 行動障害型

不潔恐怖

汚染、不潔、感染への恐怖がある。汚染されたものに触ってしまった場合、自分の手洗い、その他洗濯、掃除、消毒などを過剰にする。又、汚染されたと感じる場所を回避する。通常、この潔癖症が行過ぎて苦痛をもたらす状態を言う。放射能や化学物質など肉眼で見えない危険なものに過剰に心配する事もこれに含む。

今までは、森田療法が一番適している(森田療法以外に治療法が無い)と考えられていたが,暴露反応妨害法が新しい精神療法として登場している。又、最近の医学の発達で、脳内物質或いは脳内ネットワークに異常が見られるということが判って来た為、治療の第1選択肢は薬物療法。特に抗うつ薬のSSRIで有るとされる。第2選択肢が暴露反応妨害法(日本には専門家がまだ少ない)認知行動療法か森田療法の精神療法を受ける事。しかしこの組み合わせ即ち、薬物療法を受けながら、精神療法を併用するのが最も効果的では無いかと言われ始めている。

確認障害

戸締り、火の元、落し物など何かをきちんとしたかどうか等、自信が無く、何度も行ってしまい生活に支障が出る状態を言う。自分で確認した事を判っているのに何度も確認してしまう。

縁起障害

両者は良く似ている。回数、順番、言葉又は道順、服装など自分で決めたやり方道順に拘り、それに従わないと気がすまない。服のサイズ、物の並び方もぴったりしていないと気がすまない。もしこれに反した事をしてしまうともう一度やり直すため生活に支障を来たす。

ルール障害

加害恐怖

事故を起こしていないか、人に大きな迷惑を掛けて居ないか心配して落ち着かない。この程度が通常以上なので日常生活に支障を来たす状態。

先端恐怖

刃物、はさみ、鉛筆など先端が尖った物を見ると、自分が怪我をするのでは無いか、誰か他の人がケガをするのでは無いかと恐怖感を抱く。他の物(尖っていないもの)でも恐怖感を抱く場合もこの中に含む。

被害恐怖

駅のホームなどから転落してしまうのでは無いかと恐怖感を抱く。他人を落としてしまうのでは無いかと心配するのは加害恐怖に近いがこの中に含む。パニック発作を伴う場合も多い。

 認知障害型

認知儀式障害

強迫観念や嫌な考え方を打ち消す為に、頭の中での良いイメージ、数字、言葉などを考える儀式を頭の中で何回と無く確認しないと気がすまない。このため日常生活や仕事などに支障が出る。

今までは、森田療法が一番適している(森田療法以外に治療法が無い)と考えられていたが暴露反応妨害法が新しい精神療法として登場している。又、最近の医学の発達で、脳内物質或いは脳内ネットワークに異常が見られるということが判って来た為、治療の第1選択肢は薬物療法。特に抗うつ薬のSSRIで有るとされる。第2選択肢が暴露反応妨害法、認知行動療法、森田療法の精神療法を受ける事。しかしこの組み合わせ即ち、薬物療法を受けながら、精神療法を併用するのが最も効果的では無いかと言われ始めている。

反芻障害

強迫観念に反応して、其のテーマについてもっと考えたいという強迫衝動が起こる。収穫の無い思考を果てしなく繰り返し続けるので、生活や仕事に支障が出る。

雑念障害

本人の意思に反して様々な考え方やイメージが頻繁に頭の中に思い浮かび、こびりついて離れず苦痛となる。正常な考えの時にこのような雑念に邪魔されて、生活に支障が出る。

強迫性緩慢

頭の中が、強迫的な考え方に囚われているため必要な行動にとても時間が掛ってしまい、他の人には動作が緩慢と見られる症状。

疾病恐怖

ちょっとした身体の違和感を大病では無いかと心配する。最近は癌やエイズ恐怖が多い。其の度に病院に行く。

 その他の障害

動物恐怖

ヘビ、蜘蛛、コキブリ、ムカデなどといった動物や昆虫に対して恐怖を感じ、動悸、震え、眩暈といったパニック発作を起す事もある恐怖症です。原因は子供の頃の体験と言った、分かっている場合も有りますが、はっきりしない場合が多いです。

薬物療法や精神療法があります。薬には抗不安薬、抗うつ薬、β遮断薬などを使います。精神療法には暴露反応行動療法、集団療法が有ります。その他、呼吸法やリラキザーション法を取り入れる事も有ります。

外傷後ストレス障害(PTSD)

過去の強い事故、火災、自然災害など様々な心的外傷体験(トラウマ)を持っています。恐怖体験を思い出して、動悸、頻脈、発汗を引き起こしたり、日常的に無感動、無関心、睡眠障害を持っていることもあります。

精神療法と薬物療法が有ります。精神療法には支持的精神療法、リラキゼーション法、認知療法、暴露療法、睡眠療法、集団療法、家族療法などが有ります。薬物療法は、抗うつ薬、抗てんかん薬、鎮静剤、催眠薬などが有ります。

拒食症(摂食障害)

根本に「やせたい」と言う強烈な願望が有ると言われます。栄養失調、無月経、貧血、低血圧、低体温などの症状が現れて来ます。其れでも本人は太っていると言い張り、更に痩せ様とするのが特徴です。若い女性に圧倒的に多いです。

両者とも状態に拠っては入院が必要で、行動療法と合わせた治療法が取られる事が多いです。他にも精神療法や薬物療法が用いられます。

過食症(摂食障害)

過食症は「やせたい願望」の裏返し或いは「ストレス」などが原因と言われます。急に暴食をする「過食発作」が特徴的です。しかし太くなりたくない欲求を持っている事が多いため、暴食後、口に手を入れて吐こうとしたり、自然に嘔吐する場合が多いです。若い女性に圧倒的に多いです。

 心気的神経症
(これは当集談会の造語です。病名一覧には無いのですが(一部有るのも含む)、現実に居ります。それでこの名前で掲載する事にしました。医師の検査でも何処も悪く無いのに症状を訴えるのをこう呼ぶ事にしました。生活の発見会で言う、普通神経症に相当します)

不眠症

うつや統合失調症に拠る不眠とは違います。何処にも異常は無いのに本人が「眠れない」と訴える症状を言います。目覚めても睡眠感が取れていない感じを訴えます。本当に測定すると眠れているケースがほとんでですが、あくまで眠れないと訴えます

まず本人が検査結果を医師からキチンと聞いて、生理的には何の問題も無い事を自覚しておく事が大切です。その後、薬物療法と精神療法(認知行動療法や森田療法)を組み合わせた治療が効果が上がるとされます。

胃腸不全感

何時も胃や腸の様々な症状を訴えますが、どんな検査をしても異常が認められないケースです。本人は何時も胃腸薬を持参しています。

頭痛

やはり医師のどんな検査でも異常が無いのに、本人が様々なタイプの頭痛を訴えるケースです。本人は何時も頭痛薬を持参しています。

疼痛性障害

どんな検査をしても異常が認められず。顔、関節、手、足、腹部、胸部などの様々な部位に一つ以上の疼痛と呼ばれるズキズキした痛みが起こります。

心気性神経症

 軽い「うつ」状態。或いは「心配性」が少し強くて、色々な事に心配して「不安」を起こす。このような多少の体の変調を「何とかしたい」と強く思い。神経症と同じような、不安、緊張、冷や汗、落ち込む等の症状が出る。医師から「神経症」と診断されないケースに対して不信感を持つ場合が多い。

 この程度は本来「心の病」では無いのですが、本人が嫌がる為、「神経症」の症状を作り出している。その事に気が付けば、嘘のように治る。

 

 

窪み病

すぐに窪みに逃げ込む。窪みはは意識が発動されるところ。卵の窪み。自己意識の核。家の中。

風が当たらないので安全でいられる。風に対処する必要がなくなる。

自然や他者を考える必要のないところ。