自己愛性人格障害の認知行動療法

 

自己愛性人格障害の認知的概念に関しては、ベック、ラッシュ、ショー、エメリーらによって1979年に提唱した「自己愛性人格障害は自己、世界、未来に関する非機能的スキーマの組み合わせに由来するものとして概念化できる」と認知療法家の人たちは考えている。

 このようなスキーマの初期の基礎は、両親や兄弟などのその患者の周りの人たちから直接的・間接的メッセージをもらうこと、個人の独自性と自己の重要性に関する信念を形作る経験を見出すごと、このようなことがまず情報として整現されなければならない。

 このことによって歪曲された信念が数多く見つかるものであり、そのため自己愛者は自分自身を特別で例外的で自分の満足だけを求めてもよい存在だと見なしている。彼らは他人かち、賞賛と尊敬と追従を期待する。彼らの将来に対する期待は、誇大的な空想から始まり、実現することに向けられる。

 同時に他人の気持ちを大切にするという信念がきわめて乏しい。

 行動面では要求が多く自己に寛容でありすぎ、時に攻撃的となることが過度にみられるだけでなく。協調性と相互的な対人関係に欠けている。 文化的に意味のある才能や身体的な特徴が存在していると、優れているとか特

別であるというスキーマを強化する周りからの反応が生じやすくなるだろう。しかしその特別スキーマを修正するフィードバックが乏しかったり、歪曲されていることがある。

 自己愛者には、他人との類似点に関するフィードバックがほとんどないのかもしれない。両親も子供に対する外部からの負のフィードバックを、ことごとく否定したり歪曲する。負のフィードバックから隔離されているため、自己愛者は他者の評価に過敏になりやすいのだろう。逆にもっと微妙な例では、持続的な負のフィードバックのために、批判と見なされたものに対する極端で破局的な反応が持続してしまい、他人の目を意識しすぎるようになる。自己スキーマが強くなりすぎて全体を統合するような判断による均衡が崩れてしまう時に、たいてい問題が生じる。 自己愛性人格障害の特徴として、選択的抽出や「全か無か」の思考方法といった認知の歪みが認められる。このょうな患者は常に周囲に注意を払って自分が卓越している証拠を探そうとしており、自分が発見した証拠を非常に重税する。 一方自分が平均的であることを示す証拠を無税したり。・自分が普通であることを示す指標に対しては怒りや不安や代償を求めるような行動で反応するだろう。 どのような場合でも、証拠を解釈するのに特殊な選択がされており、極端な結論が下される。

 自己愛性人格障害の背後に存在する適応的な主要な核心とは、自分は特別な人でなければならないという前提であることに疑いがない。自分が特別な存在であると確信していると、彼らは必然的な結果として、自分は特別な扱いを受けて当然であり、快楽や高い地位を求めることは妨げられるべきではないという前提が生じる。

 そのょうな対応がかなえられないと強い怒りを生じたり、あるいはまた特別な嫉妬心を抱いたり、他人を侮辱し馬鹿にじたような態度をとったり、他人を財めたり、実際に他人が作ったものを壊したりして、自己の優越tを維持しようとするだろう。 患者はどんなときにも自分のやり方をしなければならないと確信しているために、宿題をやってこなかったり特別な治療を求めたり精神療法家と権力争いをすることがよく起こる。

 そのうち治療者と患者の関係が安定したものになれば、患者は治療者と権力争いをする必要が無いことが分かり、むしろ争うことは目標を達成することに逆効果であることを理解するようになれば、きわめて順調な治療プロセスということになる。

 精神療法において、治療者が断固としたガイドラインや制限を設定して守ることは、非常に重要である。これは、「汚れた靴を診察室のソファにのせないで欲しい」と患者に頼むように直接的なことかもしれないし、もっと微妙なものかもしれない。

 たとえばある女性患者が、「胸になにかしこりのようなものがある」と男性の精神療法家に話し、医師にそれに触れてみたいかどうか尋ねた。そのような質問が場にふさわしい適切なものかどうかと精神療法家が尋ねると、患者は 「先生はお医者様でしょう。そんなに大げさなことなのですか。恥ずかしいのですか」と聞いたのだった。

 しばしばどの程度患者の自己愛にあわせるか、どの程度制限を加えるか、どの程度患者と対決するかなどを決めることは、治療の初期から問題になる。 自己愛性人格障害者の治療にあたって、治療が進みようやく患者の誇大的な傾向、傲慢な態度、共感の欠如といったことを指摘できるようになると、患者はわざと問題をずらして別の領域で自分の優れた点を探そうとするか、あるいは真正面から治療者とその自分の問題について直面し、誠実にそれに対応するならともかくも、むしろ自分が侮辱されたと感じて治療者と権力争いになることはよくみられることである。

 またそのような直面に対して、かえって治療者に対抗するのに相手の治療者が自尊心が高いとなると、「私のような問題は、OO大学のOO教授の方が鋭く問題を明らかにしてくれるのかもしれませんね」と間接的に治療者を批判し、治療者と権力的な争いを引き起こそうとすることもあるものである。

 

当然なものの「治療者はそのような操作に動かされてはならない。

 自己愛人格障害の認知療法では、初期の臨床的目標は、治療者と患者の共同関係を確立することである。認知モデルに患者をなじませることであり。問題の概念化と治療方法について相互の含意を得ることである。

 治療を能率的に進めることに関して、短期目標と長期目標という観点から患者に明確にしておくことが必要である。

 長期目標は、患者が自分を誇大的に評価するのを調整すること、他人からの評価にこだわる認知を制限すること、評価されることへの感情的反応を上手に管理すること、共感的な感情をさらにもてるようにすること、利己的な行動を取り除いていくことである。

 このようなことが、治療のスピードを速めていく能率のよい戦略である。 治療的介入として、行動上の責任を増やしたり、認知の歪みや非機能的感情を減らしたり、新しい態度を形成したりして、・その治療の焦点が変わっていく。 もっと具体的な長期目標としては、人の感情に敏感になり相手を思いやる行動がとれるようになること、人と協力して仕事を分担すること、自己中心的にならずにもっと道理にかなう期待を人にすること、習慣や気分の自己制御を増すこと、もっと識別力のある自己評価を行い人と自分の共通点をf握できるようになるこ

とである。

 このような治療目標を持てるためには患者は、「安定した気分になりたい、対人関係や仕事を続けたい、頑固で繰り返す症状を取り除きたい」という願望があることから強まるものである。

 自己愛の三つの大きな要素とは、誇大性、評価に対する過敏性、共感の不足である。

 誇大性については、認知的技法を使って自分自身に関する患者の歪んだ見方を修正し、それにともなう極端な感情を処理することに力点が置かれる:自分が特殊な人間であるという患者の信念は、普通はまったくもろいものであって、肯定的評価と否定的評価の両極端を揺れ動く。 患者は自分と人を自動的に比較し、自分が勝って独特である、あるいは劣っているというように、人との違いを強調するきらいがある。

 誇大性につながるもう一つのよくみられる誤りは、「全か無か」的思考である。この絶対二分法的な考えでは、自己愛者はずば抜けて秀でているかまったくだめかのどちらかということになる。この思考形式を修正することによって、自己の重要性を過大に評価するのを少なくできる。

 もう一つの適応的な考えとして、患者に自分自身の中で比較をしてもらう。たとえば自分に対する見方と他人に対する見方を並べて共通点を探すことである。

 また、現実にありえない特性や際限のない特性を空想して夢中になっている状態を変えるには、イメージによる再構成法が有効だろう。新しく置き換えられた空想はすぐに実現できる日常的な経験の中にある満足感や喜びを高めるものであり、自己愛的なイメージから注意をそらせる一形式として作り出される。

 このような空想をもし実行に移せれば、自尊心を高めてくれることになる活動を内的にリハーサルするという目的にもなるだろう。 たとえば、何千人もの聴衆の前でヒットソングを歌うどいう空想のかわりに、

ある患者は教会や地域の合唱団に入って歌うことに喜びを見いだす姿を空想するようになる。このような方向で、人から注意を集めたり認められる喜びを理想化しないようにすることが重要である。

 私自身の患者でも若い男性患者の中には、「ロック歌手になりたい、そして日本で有名になりたい」と主張する患者が再三いるものであるが、しかしギターが弾けなかったり、あるいはボーカルのトレーニングをしていなかったり、およそロック歌手として成功していく基盤がないにもかかわらず、それを大声で主張し大声で笑い、まるで実現可能で目の前にもう既にロックのスターがいるかのごとき態度を示すことがある。

 しかしこれはあまりその不当性を最初から説明したり、あるいはその非現実性を否定したりするよりも、しば  らくその考えが出てくるままに見逃し、それが終わったら別の考え、別の現実的な考えを持ち出して、それに取り込むように治療の内容を静かに変えていくことが必要なことが多い。

 仮に、「それではロック歌手にはなれないでしょう」と言ったとするならば、たいへんな怒りと治療放棄ということが起こってくるわけである。したがってそのようなことにあまり関わらなくても、実際にまわりの人々、親や先生からの「それではロック歌手になれるはずがない」という評判が患者の耳に届くにつれ、次第にその考えは恥をかきたくないので言わなくなってくることが多くなるものでめる。

 しかし目の前でそれを言えば、たいへんな怒りをよぶということである。 したがって、それはそれとしておきながら、現実的な生き方を一緒に探つていくということが彼らには特に必要であり、充分な配慮が要求されるものでめる。 ベックらは、「全か無か」の思考パターンや誇大性の思考を修正するのに、その患者の状態の適応的な代わりとなる考えを患者が比較して、自分自身に対する見方と他人に対する見方を比べて共通点を探すことがある。そこで見られる新しい信念について、ベックは次のように述べている。

 

新しい信念

,平凡であれ。平凡なことに大きな喜びとなりうる

・人と同じように、人間的に生きることは可能だ。しかも独自性を残したままで

・チームプレーをすると報われる

・いつももっと良くならねばではなく、人と同じでよい。そこに喜びがある

・いつもはみでた人間ではなく、仲間の一人となることを選ぼう

・一時の賞賛より、他人から長く尊敬されることをめざそう

・自分だけではなく他の人も大切な要望や意見をもっている

・同僚は単なる競争相手ではなく、頼みになる存在だ

・他人の意見は正しく役に立つ。それを破壊的と思うから、破壊的なのだ

・誰一人として私に何の借りもない

・誇大的な空想にふけるより、現実を見据える方が健康的だ

・生きて幸福を味わうのに、すべての人からいつも注目や賞賛を得る必要はまったくない

・人の優劣は価値基準であり、いつでも変わりうるものだ

・人はすべて欠点をもっている

・誰もが何か秀でたものを持っている

・自分の気分に責任を持づようにしょう。人の評価によって気分を左右されるなら、評価に頽っていることになり、抑制不能になってしまう

 

人格障害の認知療法一ベック他著より一

このように、信念を新たに獲得していく方向に認知の修正を行っていくことが重要であると、ベックらは考えている。

 このようにべックらは、治療者  患者間の信頼関係ができたときに、彼らの歪んだ自己愛的なスキーマを、より妥当で正常なそして適応的なスキーマに変える支持的な技法を用いるのである。治療者が自己愛に関する複雑な障害をより集中的で効果的な方法で治療していくことが、認知療法のより具体的な方法なのである。

 自己愛性人格障害の患者は認知療法で効果的に治療することは可能だと、ベックらは考えている。自己愛的なパターンを消し去るのではなく、むしろそのパターンを修正してより生産的な方法で活用できるようにするのである。患者の自己愛の程度や承認や特別な治療を患者が常に求めることにどれくらい精神療法家が耐えられるのか、ということが精神療法のよい指標になるだろう。