体を緩めると元気になる

 

なぜ体を緩めると元気になるのか?

 

「体」と「呼吸」と「意識」はお互いに連動する関係性があるので、

体と呼吸のことを意識して、

体を緩ませる体操をすることで、

血液はよく循環し

呼吸は深くなり、

心は軽やかになり、

免疫力は上がり、

細胞は活性化し、

体は元気になる。

 

体を緩めることを目指している究極の人たち

アスリート

格闘家 武道家

ヨガ 太極拳 合氣道

瞑想者

 

共通点

柔軟な立ち振舞い

瞬発力と耐久力

心と体の一致

 

なぜ緩めるのか     力学、生理学、心理学

個別の筋肉をフルに鍛えてもパワーの限界がある。

しかし他の筋肉とつながる動きを会得すると、総量のパワーは増大して余裕をもって体を動かすことができる。

そのためには個別の筋肉や関節や筋を緩め、それらを連動させる必要がある。

 

体の各箇所を緩めると、体の活性化が始まる。

血液循環、呼吸循環、内臓運動、関節、筋肉、筋の活性化と連動性がうまれてくる。

 

また、体が緩むと呼吸と心も緩む。

心が緩むとは固定化された心情や考え方のパターンから解放されて、

変化し続けるTPOに流動的に対応できるようになる。

 

 

 

 

 

具体的な体の緩ませ方   初級編

体の先端を緩めることから始めて、段々と中心に向かっていく。

 

一箇所から始めて、段々と全体を緩めていく。

 

体操の順番

手首ブラブラ

前腕、肘、上腕、肩、頭の先から足先まで

 

ゆるゆる歩き

緩み解けるように歩くことを意識する。

 

参考動画

https://www.youtube.com/watch?v=4Ibv7d3WBlQ

https://www.youtube.com/watch?v=bqUl4hLD2lQ

 

 

体の緩みと呼吸の深さ     動的平衡と自律神経とストレス

体の緩みは心の緩みとも深く関係している。たとえば自律神経の機能。

 

自律神経の波を作ったり消したりする

いかに交感神経をオフにして、副交感神経をオンにするかで呼吸と意識が反応する。

そしてこの2つを波のように緩やかにつなげることで、体と呼吸と意識の安静化と活性化をコントロールする。

 

呼吸法によって、副交感神経が働き、脈拍は下がり、血管は緩み、血圧は下がります。

そしてこれができるようになったら「波の周期」を作る練習です。

交感神経と副交感神経を交互に大きくゆったりと繰り返す周波を大切にする生活習慣を身につけることです。

そのためには、体を適度に動かすことによって、先端の毛細血管に血が巡り、代謝を促します。

今までは無意識のうちに反応していた形、音、匂いを自分で意識することができるようになり、

もしそれらが日常生活の中で必要のない反応パターンであるならば、そこを上書きすることで、書き換えることも可能です。

それによって、自律神経の働きが自動的にオンになってしまう条件反射のように、作ってしまった行動パターンを止めることができます。

無意識だった考え方の癖(パターン)を止めることによってニュートラルの状態に戻します。

 

意識と自律神経

また、意識は自律神経との間にも密接な相関関係があります。

脊椎動物の受精卵は内胚葉が消化器系器官に、中胚葉が循環器系器官に、外胚葉が神経管系器官として成長していきます。

TPOにより消化器系器官が活性化する必要性がある時には内臓に血液が多く送られ、神経管器官が活性化する必要性がある時には脳に血液が多く送られます。

この割り振りをしているのが無意識で働いている自律神経です。

脳や筋肉が活性化する時には交感神経が働き、消化や血液循環が活性化する時には副交感神経が働きます。

血液はその時の意識の状態によって割り振りされ、脳と内臓を交互に補うことで効率の良い生命維持がなされます。

血液は意識を使う時には脳に、使わないときは内臓に多く流れます。

 

自律神経と内臓の関係は

 

自律神経

血圧

心拍

グリコゲン

胃液分泌

インスリン

小腸消化

意識

交感神経

上昇

上昇

分解

減少

低下

便秘傾向

非意識

副交感神経

下降

下降

合成

増加

上昇

下痢傾向

 

上の表からわかるように、副交感神経の役割は重要で、意識の活動していない睡眠時や休憩時に、成長ホルモンやエンザイムや免疫細胞が生成されます。       

参照   初心者のための睡眠の基礎と臨床  19996月 井上昌次郎

 

無意識と自律神経

話をヒトの日常生活に戻してみると、多くの行動を意識せずにやっていることに気がつくと思います。

例えば、外出する時に意識せずに靴の紐を結んだり、歩く時に右足から始めていたり、このエッセイを読みながら意識せずにコップからコーヒーを飲んでいたり、気がつかずに頭を右手で触っていたりです。

また、行動だけではなく、頭の中で起こっている脳の活動も多くは意識にかかわらずに行われています。

なにかを思い出す時に意図せずに多くのことが浮かんできたり、条件反射では意識にのぼることもなく外からの刺激に反応して行動していたりしています。

実は新しいアイディアが浮かぶ時や創造力にも、非意識が大きく関与するメカニズムによって、生み出されています。

これらのことから、生命体がサバイバルするには意識を使わないことが必要で不可欠なことがわかります。

 

現代医学の異常と「かたち」    伝統療法の失調と「はたらき」

江戸時代以降に西洋から導入された現代医学では、病とは「異常である状態」だととらえます。

異常とは正常に対して使う対義語です。

その異常の証明を形態学的、器質的な変化として現代医学はとらえる。

X線診断にしても、現在ではまだ形態学が主流であって、X線機能学は遅れており、機能異常だけの疾患は未だ熟慮されていないのが現状だ。

消化器系や循環器系のような自律神経の支配を受ける臓器は、臓器自体の異常の他にも、自律神経の異常が関与している。

心因が発病や疾病の経過に大きな影響を与えている。

情動が自律神経の中核に影響を及ばし、自律神経系や内分泌系に異常を起こし、ストレス潰瘍をはじめ、いろいろな機能的、またさらに器質的病変を生ずることは古代から認識されており、東洋医学においては「気」という概念が用いられてきた。

西洋医学では病変を追求し、これを証明して「完全体」に向かって治療するように訓練されてきた。 

東洋医学ではこれと並行して気と血、機能と物質、用と体としての生命体を理解し、この調和を健康、不和を失調とする。

西洋医学では病いと判断されても、東洋医学ではバランスが取れているのならば、波線グラフでいう「谷」状態である場合は健康と判断されることもある。

民間医療では人の考え方や気持ちや情感や学習してしまった認識や無意識の条件反射や自律神経やホルモンや酵素や体内信号や末梢運動神経のパターンまでも治療の範囲として扱っている。

今日の科学でいうと周波や電子のレベルまで含めての治療である。

そして自然治癒力の世界では、この瞬間にも新たな細胞が何百万という単位で滅び生み出し続けていることにスポットライトを当てる。

この生滅の働きがスムーズに行われるようにするためにはどのように暮せばいいのかを実践する。

 

新陳代謝という当たり前の奇蹟

生命体には現状を保とうとする新陳代謝という秘密兵器がある。

例えば食事をしたり甘いものを食べると歯は溶けるが、食べていない間に溶けた部分をカルシウムが自動的に補充している。

また使わない筋肉は衰えるが、使う筋肉は隆々になる。これらの力を活かす考え方が生命体と向かい合う時には必要となる。

有機体の更新とは新陳代謝のことで毎秒に何百万の細胞が消滅し同時に同じ数だけの細胞が新しく生まれている。

現代医学はフィルヒョウやメンデル・モルガンの理論のように分けることを前提とし、これらを基本として固定化させてしまっている。

ホリスティック医療やゲシュタルト心理学などもあるが、基本的にはまだ古典的な考え方である分化することにスポットライトを当てる考え方で病院の現場は動いている。

治療者と患者はこの生命体の新陳代謝の柔らかさと弱さと緩やかさとはかなさと奇跡を体感する必要がある。

 

病気の癒やし方    健康法

病気の時には西洋医学、東洋医学、伝統医学、自然治癒という4つの対処法がある。

それぞれの特徴は、

 

西洋医学         解剖・薬              表層意識                脳                 物理的な考え方のパターン

東洋医学              血の循環              中層意識                心肺                 周期のパターン

伝統医学    気の流れ              深層意識                丹田                内外の電子・周波のパターン

自然治癒              天然           非意識                 全体                「いのち」の法則

 

部分と全体

西洋医学は「二から一」を選択して、善悪の区別を作り、

東洋医学は「二を一」にして、ものごとの根源である叡智を基準にし、             

伝統医学は「一のまま」で体感する日常生活を大切にし、

自然治癒は「一から二」が自然に生まれる宇宙の法則にゆだねる。

 

体を緩めるのは自然治癒力を元に戻すためのはじめのステップになる。

 

 

 

参考資料

瞑想

坐禅には「調身・調息・調心(ちょうしん・ちょうそく・ちょうしん)」という言葉があります。身(姿勢)が整うと、息(呼吸)が整って、そして心が整うという意味です。

 

三つの調をそれぞれバラバラにやっている限り、意識が行動(坐禅)を主導していることになります。

本来バラバラではないものを、わざわざバラバラにしてしまうのが、大脳皮質と五感による認識の特徴だからです。

 

そこで、調身、調息、調心をバラバラにやるのではなく、坐るという単純な動作の中でこの三つを一挙に同時にやるというのがポイントです。

このためには、表層の自己意識の主導ではなく、もっと深層にある基底的な意識である身心に任せておくと、三つが一つのことの三側面として、自ずからできてしまいます。

ここに自然の摂理があるからです。

 

これまでに身につけたバラバラするというクセはすぐには解除されるものではないので、気がつくと自己意識でコントロールしてしまっています。

しかし、これまでとは違う「任せる」そして「待つ」というアプローチで、新しい門がひらかれたという実感できるチャンスがあります。

 

もし体感できれば、あとは、その門を入って、ゆっくりと歩いて行くだけです。

こういう新しい視点が生まれると、不思議なことにそれをサポートしてくれるような人や情報や出来事が次々と向こうからやって来てくれるようになりました。

藤田一照著「現代坐禅講義」の一部を勝手に解釈。

 

医学の限界 

「自然医学の基礎」森下敬一  抜粋

「(西洋思想の土台となっている)二元論というものは、物理の世界では大変重宝な考え方である。車やロケットなど機械を扱う分野で役に立つ。そういう世界では、この分析的、直線的、不可逆的、排中律的な考え方で十分通用する。

しかし生命の世界はこの考え方ではダメだ。生命の世界は、機械のそれとはまるっきり反対のものだからだ。

生命現象の本質は一言でいうと波動であり、ラセンである。生命の世界には直線も直角も存在しない。また生命の世界においては、すべては可逆的である。たとえば病気になっても、しかるべき処置を施せば必ず『治る』という現象が生じる。

『治る』ということは『元へ戻る』ということで、すなわち『可逆』ということである。よく今の医学は特定の慢性病に対して"不治の病"とか、"絶対に治らない"などというが、それこそまさに西洋思想なのだ。アタマが痛いとか下痢をしたというような症状に対しては、たいてい一過性で終わることから、さすがの現代医学も『治る』と考えているが、膠原病とかがんなどの難病に対しては、彼らは『治らない』と考えている。

いろいろと理屈はつけるが、基本線としては『治らない』という考え方をすえている。一度病気になったら治らない・・・この直線的思考こそ西洋思想の真骨頂だ。

けれども実際には決してそんなことはない。生きている限り、いい替えれば生命現象が存在する限り、必ず元に戻りうる。条件さえ整えば、病気は必ず治るものだ。がんも例外ではない。この元へ戻るということが生命現象の最大の特徴である。

にもかかわらず、現代の医学者自身が西洋思想にかぶれてしまっていて、直線的で不可逆的な考え方をしているから、『この病気はもうダメですよ』などということを平気でいうのである。これは実に重大な間違いである。『どんな重症ながんの場合でも、生きている限り必ず治るチャンスがある』ということを、私は口がすっぱくなるほど患者さんに話している」

 

優秀さと誠意と一生懸命

前世紀から医学の問題が周囲にも溢れかえっている。医学は命を扱っているのでその判断や治療には直接に生死にかかわってくるのだから、俎上にあげられることがどうしても多くなる。そして医学の判断によってついに自分や家族の命まで危うくなってくると、誰もが黙っているわけにはいかなくなる。人様といえど自分の命を無配慮に預けるわけにはいかない。それも受験、大学、国家試験、病院の世界で過ごしてきた人たちに対してはことさらである。何故ならば、はじめから正解がある中から答えを選んだり、二つの中から一つを選択することにかけては熟練者で、その技法と合理性と思考法とそれらのスピードにおいてはプロであるがゆえに、この思考法が体の隅々まで染み込んでしまったことが時と場合には逆に足枷になることがあるからである。もし医学の矛盾と恐ろしさを知らないのならば、ますます人の命やこの世の生命体は医学によって危なくなる。彼らは総じて、優秀で誠意があり一生懸命だからである。

 

なぜこんなことになるのか?

答えはシンプルで明快だ。

一つ目は、命に関わる判断をしなくてはならないから。職業柄なのでこれは仕方がない。

問題は二つ目の医学そのものにある。正確に言うと命にかかわる学問そのもの、もっと大きく言うと「全体性」の中では言葉(学問)の限界があるので、意識そのものの扱い方が間違っていることからはじまる。

優秀さとは何が優れているのか?   主語は何?    劣のメリットを選択せずに排除してしまう。

誠実さとは何に対してなのか?    目的語は何?   体からのメッセージではなく意識に真摯で忠誠。

一所懸命とは何をやっているの?   動詞は何?    決まった目標に懸命で無常には耳を傾けない。

 

名詞を扱うときには注意が必要だ。名詞にはTPOの条件が定かでなく、主語と目的語と動詞が抜けているので、流動化したものを固定化することで勘違いが始まってしまう。

これらのことがちゃんと認識されていない限り、これからもずっと医師によって、いや自分自身の意識によって、命は危険に冒される。

これからの医師には医学だけではなく、この意識の仕組みと無意識の仕組みと全体性についての理解をしてもらった上での判断と治療でないと、これまでと同じように引き続き医学治療が命の力を弱める行動を続ける可能性が出てきてしまう。

逆に言うと、医師と患者が命という全体性をどう認知するかということさえ習得すればいいのだから、それほど難しいことではない。

 

言葉の分割性

言葉は「囲む」ことによってはじめて成り立つ。

例えで言うと、小腸は十二指腸の下からはじまり大腸の上まで続く器官だが、範囲を決めてその中のモノに名をつけることによってしか言葉にすることができない。認知するとは、二つ以上のモノの共通点を見つけ、それを土俵としてその上にモノを並べて、二つ(それぞれ)の違いを第三者が見つけて、それぞれに記号(名前)をつけることだ。消化器官という一つのモノを二つ以上に分けて一つずつに胃や小腸と名前をつけることだ。そして学問ならば、それらの器官の間に因果関係を見つけようとする。例えばそれぞれの器官の機能を特定していくことだ。そして科学はそれが間違いではないかと何度も検証を重ねて再現性を求める。

 

これらのどこが問題なのであろうか?全ての言語はこの過程を踏まないと認識されないではないか?

確かに、この過程しか言葉にする方法はない。

だが、これが言葉や学問(現代医学)の限界なのだ。囲ったり、線を引いたり、左右・上下・内外を区別することでしか言葉は成り立たない。

区別、すなわち分けることをしない限り、言葉にはならないのだからしょうがない。

 

機械と生命体

次に「分けたもの」と「分けられないもの」の対比がある、

機械と生命体の違いだ。

たしかに機械はエンジンのようにパーツごとにピストン、シャフト、シリンダーと分解して、それらをまた組み立てると元の形と機能に戻る。機械ばかりではなく人間界にも同じような仕組みや構造は多い。マニュアル化されているものは誰でもその通りにすれば結果が出るようになっているので、これは交換可能なことを前提にしないと作ることができない。こう考えるとこの世は仕事に勉学に生活とほとんどのことはパーツ化と再構築ができるものばかりになっている。できないものは個人では芸能、技術、存在感、人間関係では親子、家族、友人などがそうだろう。だから人はなんでもエンジニアのメタファーでこの世界を理解しようとしてしまうのだろう。

しかし有機体は、車のようにダメになったパーツを交換できる機械とは違う。名称になった器官たちをバラバラにしてまた元のように繋げても元の有機体にはならない。

有機体は流動的、循環的、可逆的、自律的、自己組織的、全体的、統合的、なおかつ必然的だ。分けたり、一部を取り去ったりすると、内なる関係性が壊れてしまうか、もしくはお互いを補うために自律的に変化してしまう。体の内外の変化に対して均衡状態を保とうとするホメオスタシスである。だから一部分を取り去った間に、相互関係が微妙に変化をするので、取り去った部分を元に戻しても、細胞は改めて適応するが、元と同じ状態にはならない。

例えばプラナリア(Planaria)というウズムシを三つに切断するとそこからまた欠けた部分が補われて、三匹の成虫に成長する。

生命体を分解してもすぐ死ぬとは限らず、生きてはいる間は現状に適応するために、内部で変化が続けられる。生命体の全体を物理的にも名称的にも強引に分けることはできるが、それらを元のようにくっつけたからといって、原型と同じものにはならないのが「いのち」の特徴だ。

 

分割すると見えなくなるもの

分けられるものはいい、一般的な金属、数字、無機物は問題がない。(厳密に言うと変化はあるのだが)ところが生きているものは分けると死んでしまう。正確に言うと、各パーツはお互いに関係し合って、共依存しているので、一つだけを取り出してその機能を説明しているだけで、全体の中では他のパーツとの関係から複数の機能があることもまだ見つけられていない場合がある。

例えば呼吸と肺と心臓には「同化作用」と強い関係性がある。また小腸と微生物と酵素には「瞑想と他者と悟り」と深い関係性がある。しかし分割化されると関係性は見えてこず、相関関係があらわれない。分割できないものは、体験を通して実感し、多くの違った条件の下で統計的な事象を積み重ね、新たな法則を推定するしかない。相関関係は示せるが、統計や確率以外の数値による因果関係は証明できない。相関関係があるだけで平気で薬を開発するほどにまったく科学的ではないのが医学界だ。それなのに、分割しないものに関心を払うことがあまりに少ない。いや敢えて分割しないことを見ないようにしているのが、医学という「分けること」を使命にする学問の宿命である。

分割するとで分かることは、数値に置き換えることができるメカニズムの世界観だ。

分割して機能を調査しても因果関係が証明できるのは機械的なものしかない。分けられないものを分けるとこのようなことしか分からない。

このような「分ける」というアプローチは必要だ。

しかし、盲人たちが象の一部を触って各自の見解に固執する話のように、見えなくなることもある。

分けることにより全体のバランスと相互関係が変化して新たな世界が作られ、分割しなかったからこそあった機能が消えてしまうこともあるのだ。

そこを体感してから、遊びとして分割するのは楽しいひと時である。