学問の限界とウソ

 

本末転倒  

種をまくと先ず根を張り、芽を出し、茎となり、それが本となり、そこから枝が出て、末端が成長する。

順序は本から末である。この順序を逆に考えるのが本末転倒である。

そこに因果関係はなく、ただの果因である。

枝葉の先にある花や実にスポットライトを当てることで、本である原因は暗くなり人目をひかない。

 

すべての学問は分類と比較である。そして比較したものに関係性をつくることである。

今までと違った視点で分類・比較すれば、今までにない新しい視点から自然や社会を考え直すことができる。

という幻想を持つ、多くの学問をする人たちは。

しかし、この分類、分けるのが限界となっている。新しい視点といっても、同じ「分ける」という穴の中だけで、外に出ることをしない。

 

学問Scholarship   Latin scola,  Greek skholê.     academy   the school where Plato taught

学校を意味する英語の school、フランス語の écoleの由来はギリシャ語のスコレー skholê

意味は、閑暇、レジャー

 

分けれないもの

この世には分けることと分けることができないものがある。

分けられるものは、学問になる。脳外でする物理学、工学、機械学。脳内でする数学、論理学、神学。

ただ分けられないものは、どうだろう?

分けられないのに、分けたように錯覚していることが多くはないだろうか?

例えば、生きている魚をナイフで半分に分けてしまえば、死んでしまう。

死んでしまえば、内蔵の形(解剖学)はわかるけれど、働き(機能)はわからない。

そこで実験をして一つ一つの部分をいろいろな手段で機能しないようにして、調査して、胃は消化機能があるとか、エラは呼吸器官であるということが分かってくる。ただ一つの器官に機能は一つしかないのだろうか?

そうとは限らない。例えば、舌には味を味蕾で感じる機能があるが、それ以外にも痛点や水分や温度や、もしかしたらトラのように消化器官としてのような役割があるのかもしれないし、カメレオンのように虫を捕まえる捕獲器官としての役割があるのかもしれないし、猫のように傷を癒す役割もあるかもしれないし、鳥のように鳴き声にビブラートをきかす役割があるのかもしれないし、ヤモリのように眼を嘗めてきれいにする役割かもしれないし、それ以外にも発酵させたり、かくまったり、包んだり、温めたり、掘ったり、叩いたり、潰したり、震わせたり、その気にさせたり、溶かしたり、いろいろなことをやっているのかもしれない。

人間の髪の毛も、もしかしたら猫のヒゲのように、体外のことを感知するアンテナのような役目があるので、旧約聖書のサムソンは髪の毛を切らないのかもしれない。

どれも命が絶たれてしまうと、わからないことばかりだ。命を絶たなくても、分けてしまっては機能が発揮されないことは多くある。

ただ分けないと話が進まないので、仕方なく、無理やり、ため息をつきながら、都合上、嘘をついて、便宜上に分けているに過ぎないことがある。大事なものが全部抜けちゃうけれど、確かにある種の形だけは見えやすくなるから。ただ分析するだけでは「いのち」にとっては害だけど、形にとっては益だから。

 

分けれないものを法則にする

分けることのできないものを認識するには、なんだかわかっちゃった、というのと統計。

なんでも強引に二つに分けて、実験をしてみると、そこに相関関係があるのがわかる。

そりゃあ一つのものを二つに分け続けるのだから、分かれた二つには関係性があるのは当然だ。元は一つのものだったんだから。

確かに二つの間だけで通じる法則はある。だけどこの法則を他の世界に持っていっても通じない。

理由は分けたものを元に戻してくっつけるものだけの法則だから。

こんな法則が無限にある、分け続ける限りにおいて。

そんな小さな法則を具体的なことに適応させようとしても、あまりに世界にはたくさんの法則があるので、通用しない。させようとしたら他の法則の影響を一つ一つ除外しなければならない、実験室の中で。

そうすると残ったのは分けた二つだけ、という笑い話。

結局は他では形を持つことができなかった、小さな法則。

 

仮説 学問は意味がない

分けることができないものってなんだろう?

いのち、自己、生命体、社会、時間と空間の枠に入らないモノ、抽象的なもの

ここでちょっと一つの説を唱えてみる。

現在では本来分けることができないものまでも、強引に分けて学問とよんでいる。

そこで

分けることのできない学問は有害である。と宣言する。

どんな学問?生きている命に関わる学問は全部。死んでいるものは学問になるよ、ちなみに。

多くの心理学、医学、法学、経済学、社会学、生物学、農学、

どれも生きている人間が関わっている。

 

有害だからといって必要がないわけじゃない。

遊びとして、ゲームとして、教養として、余裕のある人の時間つぶしとして。

学問の語源であるレジャーとして。

どれもが大事なもの。

ただ信じるものじゃないし、それほど賞賛されるものでもない。そしてこれらを職業にするほどのものじゃない。世界の一面を垣間見る趣味としてはとっても楽しい。

 

具体的な科学の適用

科学の具体的な方法論・手法・記述法などについては、各分野の科学がその対象の性質に応じてふさわしいものを発達させてきた。

学問には分けられるものと分けれないものがある。

分けれるのは物理や天文学

物理学や無機化学

対象の無機的・機械的なレベルでの振る舞いに限定して着目し、

実験で同一の現象が再現されることを重視しており、その記述は、一般法則や全称命題が中心である。

 

 天文学や考古学

実験による実証が困難な領域においては、十分な観察と分類にもとづき学問を成立させており、これらの学問も科学的な知見として尊重されている。

太陽が原子力で燃えているとわかったのはキューリー夫人のラジウムの崩壊の実験で分かった。

燃料はヘリウムとリチウム

分けれないのは命に関わる学問

生体によって引き起こされる現象を扱う医学、薬学、心理学や、人々の巨大な社会集団を扱う経済学、社会学は、考察対象とする生体や社会そのものが根本的に複雑性や複合性を内包している。これらにおいては個体差が重要な要素となったり、対象が情報を記憶することで内部状態を変化させてゆくものがあり、現象の再現性を問うこと自体が困難である場合が多い。そのため、統計論的な手法やその他の手法も適用されている。

 

 

脳内だけの学問と脳外での検証を必要とする学問

脳内 数学、神学、論理学   抽象度を上げていくゲーム    美を求める 

脳外 物理学 科学      具体的なデータから法則を導くゲーム

 

イギリスん詩人サミュエル・ジョンソンSamuel Johnson, 1709918

The road to hell is paved with good intentions.

この脳内できる善意は、正しさを盾にしているので多数派となり権力をもちうるのが特徴だ。

 

 

精神分析

フロイトの精神分析は、自分の諸結果をもって、目標を照らす。これは順序が逆である。

有限の総和をもっても実体は捉えることはできない。

はじめに経験的原理を捨てさらなければならない。

リビドーや経験よりもはるか以前に、存在選択がある。この選択とは、存在が事物の表面に到達するときの仕方のことだ。そのためには人間存在と素材との関係がいかなる象徴によって成り立っているか明らかにしなければならない。事実とTPOの関係だ。そのように現れる必然性や偶然性のことだ。

一般的な精神分析には欠けているのは、諸事物の意味作用の始原の起源と、人間存在に対する意味作用の真の関係(コギトの視野にも身を置くこと)である。

始源や起源が嫌だったら、目の前にあることに、ちゃんと向かい合うだけでいい。

まずは無がある、だからこそ、その横に存在がある。そしてその存在は特有の性質がある。すなわち性質とは、限られた条件のもとでしか、現れ出ない存在そのものである。

それゆえ、性質の意味作用を即自存在のせいにするわけにはいかない、その性質は無と存在を分け隔てた対自があり、私があるのだから。

ピエールがオレンジを好み、水を嫌うのはなぜか?好んでトマトを食べ、そら豆を食べないのはなぜか?

これらの理由をわかろうとしなければ精神分析は始まらない。

 

 

ひとつの他動的な存在をしか持たない。しかし、私にとっては、金銭は創作的な力としてあらわれる。

つまりある対象を買うとは、この対象を創作するのに匹敵する一つの象徴的な行為である。この意味でお金は力と同義である。お金は欲求という条件の中では効力をあらわすからである。

お金は事物へ向かって放たれ、単に巻き添えにされるが故に、対象と私を結ぶ魔術的な絆をあらわす。

魔法の願いのように、ただちに作用するものたらしめる。世界と意識(対自)を間をお金が結ぶことによって我有化できるのだ。お金は創作するものだ。この創作の絆が主観と対象との間に維持される。持つとは、まず、創作することである。所有される対象は、主観によって、私の環境という全体の中に挿入される。

私有することで、所有物を、私の全体の中で機能存在の位置を与えることによって自分の一部とする。これは視点を私から所有物に変えると、所有物によって、私は所有されていることだ。私の所有物の全体は、私の存在の全体を反映する。

所有とは対象は全面的に私であると同時に、全面的に私から独立している。

 

創作とは流出のことである。創作されたものは私から出たものであるから、それは私の一部である。創作者の悲劇は、彼は自己から外に出ることができないということだ。

 

私が登る山は私が征服する限りにおいて「私」である。頂上のパノラマは私が獲得した私の観点である。

拡大された観点は、私によって私にとってしか存在しない。

 

創作とは運動である。運動をやめたら創作の概念は消える。創作をやめたら概念も消滅する。

所有される対象は、所有されている限りにおいて、連続的な創作である。

 

 

学問のすすめ 福沢諭吉

実語経に、人学ばざれば智なし、智なきは愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ぶざることに由りて出来るものなり。

彼の言う智とはなんだろう?小賢しいことなのか?

何を学ぶのだろう? 「いのち」ではなく形?