1 辨道話 別巻
「弁」勉める、「道」釈尊の説かれた教え。
「弁道」とは、釈尊の説かれた教えを一所懸命勉強するということ。
ただ黙々と毎日坐禅することによって、坐禅が自分の心身となり、朝から晩まで一切のことが坐禅に教わって行われるのが仏道。
仏教書は一字も読まなくても坐禅を毎日やっていれば、仏道と心身が一体になって、仏道から離れようとしても離れられない、という。
オリエンテーション
まずは坐ってみる、
すると自分自身が近くになる。
足を組んで、手を組んで、背骨を伸ばして坐っていれば、一番身近に感じられるものは自分自身。
「足が痛いなあ」とか「いろんな考えが浮かんでくるなあ」とか「退屈だなあ」とか「早く終わればいいなあ」などを考えていると同時に、一番身近になってくるものは自分自身。
関心というスポットライトが自分の外側ではなく自分自身に当たっている。
「道」とは何か?といえば、自分自身を実感することを一番の基準にしていくということ。
釈尊が亡くなられるときに、
「自分自身と「法」(ダンマ 宇宙法則)を頼りにせよ、そしてそれ以外のものは頼りにするな」と言われた。
「自灯明・法灯明」 長部経典16「大般涅槃経(Mahāparinibbānasuttaṃ)」第2章より
自分自身とは自己意識のことだけではない。その奥にある内臓の意識や魂の意識も含まれている。
実際の坐禅
宗教とは偉い教えがあって、その教えを勉強して頭に入れると新たな世界がわかってくる、というような一般な考え方があるけれども、「道」とは単なる思想ではないので考えることがその出発点にはならない。
坐禅をやっている時に身につく態度や状態が「道」の基本。
だから坐禅さえやっていれば体も考えも変わってくる。
坐禅によって仏と同じ体になる、仏と同じ心になる。
本当かな?
だからあれこれと努力する必要はない。
だったらいいけれど。
坐禅さえやっていれば、自然に「道」にかなった日常生活にならざるを得ない。
ではなにか特別なことが起きているというのか?
坐禅によって得られる悟りを特別の体験と考える必要はない。
坐禅をした時に各人が感じられるもの、それが仏の世界。
色々な考えが浮かんで来ることも坐禅の中身の一つ。
「何か考えているな」と気がつくまでは、だれでも何かを考えている。
「考えているな」ということに気がつかないうちは、その考えをやめようという段階にはならない。
そして「考えているな」という事に気がついて「考えをやめた」と思っても、また何か他のことを考えている。
こうして「やめた」と思っても、また考えているという、行ったり来たりの繰り返し。
それも坐禅、それもまた仏の姿。
こういう状態が坐禅の中身。
もちろん非常に静かに落ちついて、考えない状態もある。
しかしそういう状態ばかりではない、ものを考えたり、考えるのをやめたりという全部が坐禅の中身。
だから、坐禅をすれば誰でもが無念無想になる、無念無想にならなきゃならないというようなことはない。
この無念無想という言葉が坐禅を誤解させている。
無念無想なんていうのは我々は気絶した時とか、麻酔にかかっている時とか、寝ている時とか以外にはあまり経験しない。
私たちは意識をはっきりさせながら坐禅をしてるわけだから、無念無想というようなことはない。
ところがよく坐禅を勧める人の間では、「無念無想にならなきゃいかん」という。
そうするとみんな一所懸命になって、「無念無想」を目指そうとする。
ところがいろいろな方法を一所懸命にやってみても「どうやっても無念無想になりません」とか「どうも駄目だからあきらめた」ということが多い。
それは当然のことで、これらは坐禅というもんじゃない。
無念無想なんていうがそんなもの必要はない。
ただ足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ−ッとしている時に感じられるもの、それが「道」の究極です。
坐禅をすることで何か特別な考え方が生まれてくるようなことはないことを、実際に坐ってみれば誰にでもわかる。
例えば、水を使う人が、冷たい水を使えば冷たいと感じ、温かいお湯を使えば温かいと感じるのと同じように、
坐禅をやれば、それに従った体験と言うものは直ぐに得られる。
坐禅への誤解
ふつう坐禅と言うと、よく悟るためにやると、お寺へ行って、菜食して、朝早くから棒で叩かれて「そのうちに悟るんだ」と考えているけれども、そんなものではない。
それでは、「たまにやってみようか」と言って寺に行って一所懸命やるんだけれども、和尚さんの言っていることは論理的にはよくわからない。
「他の人は悟ったなんて言っているけれども、私はどうも全然わからない」と言って、がっかりして帰っていく。
一所懸命やっているんだけれども、「どうも結局わからないからやめた」「こんなのバカらしくてやってられない」となり、坐禅というものに対する誤解がはびこっていく。
ところが、
坐禅をやることそのものが尊いんだという考え方になると、今度は「さとり、さとり」なんて言って焦る必要がなくなる。
やりさえすればいいんだということになってくれば、そのことが日常生活の基準になり、それが楽しみになることもある。
坐禅に理解はいらない
修行とは、高徳の僧侶にお会いして、「どのように修行をしたらよろしいでしょうか」とやり方を尋ねて、後はひたすら坐禅によって真実を求めていくものなので、様々の理解を心にとどめておく必要はない。
この様に坐禅を行うことを通して「道」とは何なんだろう?という問さえあれば、それは決して空虚なものではなく、無駄になるものではない。
そして、かならず実体として私たちに「道」を教えてくれる、という。
坐禅と自律神経の波動
坐禅とは「自受用三昧」のこと。
自分自身を受け取って、しかもその自分自身を使いこなすことが大切だという意味である。
自分自身の躰の聲を受け取るには副交感神経の波を必要とし、それを使いこなすには交感神経の波が必要になる。
自受用三昧を坐禅によって得るということは、自律神経の波動のバランスがよい状態である。
この自律神経のバランスがよい時が、私たちの体には、一番の健康。抵抗力も一番ある。
交感神経が強すぎると、頭が働きすぎて、クヨクヨと心配して、夜になって「さあ寝なきゃ」と思ってもなかなか寝られないということがある。あるいは副交感神経が強い人は、食欲が旺盛になり、パクパクと食べ、そしてすぐ眠くなって横になる。
サルとヒトの違いの一つには、脳細胞の発達具合がある。
ものを考える力が優れているということは、逆にがその力に引きずり回されるということでもある。
実際にヒトは、現実の世界よりも、頭の中で考えている世界の方が大切だと思いがちである。
例えば、本を読んで色々な知識を求めるということ、そして、いろいろな考え方を学ぶことの方が大事で、日常生活をしっかりと見つめるということは二の次にしている現状がある。
現代では副交感神経よりも交感神経が活躍する場面が多く、頭のいいということが災いして、おかしな方向にいっててしまうという例は、もう何千年も昔から、人類が発生すると同時に生れてきた傾向である。
坐禅と法(ダンマ)
坐禅の体験の上に、一切の宇宙を実現させ、行動の世界においてたった一つの真実を実行する、と先達はいう。
坐禅をやって、色々な難問や煩いから抜け出した状態の時には、説明を離脱した境地にいる。
釈尊は、この私たちの住んでいる世界そのもの、我々が住んでいる宇宙そのもの、それを学べと説かれた。
「法」とはこの私たちの住んでいる世界、私たちの住んでいる宇宙そのもののこと。
「法」とは、日常生活を送る実際の舞台のこと。
「法」とは、現実の世界を支配している宇宙秩序の教え。
「法」とは、大自然の法則、宇宙の意識。
「法」とは、現実の世界。
この現実の世界に内在している「法」をしっかりと身につけて、それにしたがって生きていくことが自分の人生の価値を最高に発揮する道だと説かれている。
身を脱落する、心を脱落する
ヒトの肉体とか精神とかという区別のある考え方から抜け出すこと。
ヒトの体は、肉があり、骨があり、血液が流れているという物質的なものだけではない。
それらが波動になって共鳴したり、うねりとなって溶け合ったりして、感じ、働いて、人として動いている。
体と心とを別々に分ける考え方は、学問としては意味はあるけれど、人が日常生活を生きていく上においては、その両方を統一したところで生きていくのがいい。
だから、体がどうで、心がどうでというような区別する考え方から脱け出さないと、本当の現実的な行動と言うものがとれない。
坐禅とは、普通の常識的なあれこれと分別する境地から離れて、「一つにつながっている世界」に自分を置くためにする。
だから坐禅をするというのは、体は動かしていないけれども、行動を実際に起こしている。
ゼロの行い。
日常生活では「やろう」という意思によって流れていく。
この日常の世界がうまく流れるためには、日常とは相反の極にあるゼロの行動を体験するのが有効だ。
だから足を組み、手を組み、背骨を伸ばして、ジ−ッとしている姿は、自分自身の一番はじめのの姿。
何にでもなるはじめの姿とは、何にでも変化できるゼロの状態。
ゼロの姿を経験すると、本来の自分も出てくる。
この本来の自分が出てくることを「身心脱落」と言う。
体とか心とかと言うものは全部棚上げしてしまって、本当の自分が何かということを、坐禅を通して体全体で実感するのがいい。
坐禅の境地
坐禅を始めた瞬間から体も心も明瞭清浄となる。
そして様々の煩いから抜け出たところの境地を体験し、自分の思いの移り変わりや、自分の感情や、自分の奥底にある意識(本来の面目、魂)が現れる時、周りのあらゆる実在がみな真実(ありのままの状態)を現していることに気づき、宇宙全体が釈尊と同じ様な状態になる、という。
そういう状態になると、真実だとか悟りだとかを一気に離脱して、菩提樹の下で悟りを開かれた釈尊と同じようにきちんと坐って、最高の均衡した状態で、自分の体が釈尊と同じ説法をしている、という。
例えば、坐禅をしている姿は自分では見ることが出来ないけれども、人が坐禅をしている姿を見るとはっと打たれるものがある。
それは坐禅の姿が、釈尊と同じ性格を具えているからである。
そして、坐禅をした時に初めてきわめて常識的な、きわめて平凡な、しかも一番現実的な智慧と言うものが生まれて来る。
また坐禅においては、主観も客観も共に静寂な状態にありながら、真実の世界に入ったり出たりするのであるけれども、結局のところそれらは自分自身を受け取り自分自身を使いこなす境地であるから、ほんの僅かなものでさえ変化させることもないし、どんな些細な姿でさえそれを破壊することもなしに、意味の深い素晴らしい感化を与え、与えられることになる。
この様な周囲の草や木などと交感することで、周りのモノたちが光を放ち、宇宙の秩序を感じることがある。
周囲の草や木は、一切の人間や一切の生物のためにそこにあり、
また一切の人間や一切の生物は、周囲の草や木のためにそこにある。
自分自身が何であるかを自分自身でつかみ、客観世界が何であるかということをつかむという、その二種類の境地は、坐禅をすることで現われる。
二つが一体になった姿がこの世に具わっていて何も欠けるところがなく、それが中断することがない。
この様な理由から、たった一人で僅かな時間にやる坐禅であろうとも、宇宙の一切の一部となり、この限りのない宇宙の中で、過去、現在、未来にわたり、常に絶えることのない、釈尊の体験を実際に自分の行動として行うのである。
ただ坐禅をしている時だけがそういう状態になるのではない。
坐禅が終わった後でも、坐禅をした時の影響が、鐘の音がゴーンと響きつづけるのと同じ様に共鳴は長く続く。
そしてさらに、坐禅した場所だけの問題に尽きるものではない。
この世の中にあるあらゆる事物が、いずれも本来の姿を現し、机は机らしく、柱は柱らしく、畳は畳らしく本来の作用を発揮しているのを実感することがある。
坐禅の修行と悟りは全く一つのもの
坐禅の本質を考えていくと、修行と悟りが全く一つのものだという思想が、道元禅師の坐禅に対する考え方の大きな特徴です。
道元禅師の考えでは、坐禅をすること以外に「道」はないという見方をします。
「道」とは何かといえば、坐禅をした心境から生まれてきた哲学・実感・教えということです。
坐禅をする事とさとると言うことが別々にあって、一所懸命坐禅をして「さとり」に到達しようとするのは釈尊の教えではない。
釈尊の説かれた宇宙秩序とは、修証一等(坐禅をする事とさとりを開く事は全く同じ)である。
坐禅は坐禅を始めた時からさとっている。
そういうすでにさとった状態における修行であるから、ほんの初心者が始めた坐禅と言えども、まさにそれが本来のさとりのすべてである。
この様な理由から、師匠が弟子に修行の心得を授ける場合にも、「修行の他にさとりがあると考えてはならない」と教えている。
それは、坐禅をすることは、直接の指摘そのもの、直接のさとりであるがためであろう。
坐禅をして長い年月が経ったらさとるのではなくて、坐禅をする事に意味がある。
坐禅というものは、修行とさとりが全く一つのものになっているのであるから、さとりが限定されたものではなく、無限の内容を持ったさとりというものが誰の坐禅そのものの中に含まれている。
先達の大鑑慧能禅師は言われている。
「修行と悟りというものとがないわけではない、ただそれを二つのものに分けて、別々に考えるという事があってはならない」と。
また別の先達が言われている。
「坐禅をやってみて、坐禅のよさがわかって来ると、坐禅をやらずにいられないという境地になる」と。
銘記せよ。
坐禅をして真実を把握した人と言えども、さらに修行(坐禅)をしなければならないという事を。
一人の自分 真面目
坐禅は、直下に第二人なし。
もう一人の自分と言うものが、現在の瞬間においていない、という意味である。
このような状態に自分を保っているのが修行である。
だから、「道」の真実を窮めた人々の共通点は、もう一人の自分と言うものが現在の瞬間においていない、ということである。
素直に自分自身の本音が出てくるというのが仏。
別の言葉でいえば「まじめ」であるということも仏と同じ意味。
自分自身の本質と言うものが素直に出ていて、滞りなく、ちゃんと日常生活がやれるということが、まじめということ。
真の面目、本来の面目ということが、真面目ということの意味です。
だから、修行をやる人は、何とかしてまじめになりたいと思って、一所懸命やっているわけだ。
ところが、まじめになるという事は中々難しい事で、人に「あいつはまじめ人間だ」と言って笑われるのが嫌だから、少し不真面目になっていよう、自分を偽って、少し程度を落として生きていこうという事も、人間の配慮としてはありがちな事。
そういうつまらん配慮をしているうちは修行とはいえない。
もっと真実に目覚めて、一所懸命くそまじめに、がつがつと一所懸命日常生活を送っていくということが大事。
だから自己意識で、自分の反省をすることは本当の状態ではないという主張がある。
そういうものを振り捨てて、無我夢中で一所懸命にやっている状態が本当の人のあり方だ、という。
坐禅をやるねらいの一つは、グズグズと反省する形の日常生活を振り捨てるということ。
もっと行動に意識も体も投入して、一所懸命、疑いなく、迷いなく、ちゃんと日常生活をやっていく状態に入った事を、第二人がないという。
行動によって、内容が変わる
同じ文章でも読む人間の行動によって意味が変わる。
単に理屈の上で、AがB,BがCという捉え方をするのと、
自分自身が行動の世界に入って、丸裸になって「道」を求めるというのでは違いがある。
これが釈尊の教えの根本的な問題。
だから、例えば、同じ「丙丁童子来求火(弁道話の中の話)」という言葉であっても、中身は複数ある。
日常でも、自分自身で手を動かし、足を動かして、汗みどろになって働いて、初めて仕事があり得る。
そういう仕事の世界が現実の世界であり、私たちの人生そのもの。
私たちの人生そのものは、理屈の中で、頭の中で考えているというだけが人生ではない。
人生と言うのは、常に体を動かして何かをしているということ。
何かをしているというのが人生。
霊魂不滅
の考え方は、誤った考え方であるので、耳に触れさせる必要はない。
しかし、すでに誤った考え方に陥っているのならば、その理由を知るのがいい。
釈尊が説かれた「法」(ダンマ、宇宙の秩序)では、肉体と魂とは本来まったく一つのもの(身心一如)であり、中身と外側も一つのもの(性相不二)である。
体は滅びるけれども魂は永遠だという考え方は正しい理解ではない。
単にそういう考え方が理論的に妥当でないというばかりでなく、釈尊の教えでは、私たちの生き死にの人生そのものが涅槃(非常に落ち着いた最高の境涯)だと理解すべきである。
涅槃はどこにできるかというと、私たちの生活そのものの中にできるのである。
もし体が死んだ後、魂がそのまま残るという考え方をするならば、体と心とが一致している時もあり、体と心が一致していない時もあるという主張であり、心身一如(体と心は全く同じもの)と主張された釈尊の教えは嘘になってしまうであろう。
釈尊の教えは、我々の日常の生き死にを大切にして、それをどう生きるかということが最大の要点。
だからこの僅か百年足らずの人生をどう生きるかという事を棚上げしてしまって、この人生はどうせ仮の人生なんだから、死んだ後で浄土へ行けばいいという考え方をするのならば、それは釈尊の教えを嫌うこととなる。
一切諸法(この世の中にある一切のもの)、森羅万象(この世の中にある一切の姿)がいずれも、たった一つのものから生まれたものであって、その一つのものの中に含まれていないものは何もない。
さまざまなモノが、安らかな均衡のとれたたった一つのものから生まれてきたものであり、個々のモノもたった一つのモノと違うところがない。
これが釈迦の実感した、心そして奥底にある魂に対する考え方である。
このように心(魂)を中心にすれば、この世の中の一切が魂ということになり、心(マインド)を中心にすれば、物質的なものだという考え方をすれば、全部が物質的なものとして理解できる。
魂だと考えることも、物質だと考えることも、見方としては決して間違ってはいないのだけれども、一つの考え方の中で心と体とを別々にして、魂は永遠だけれども体は滅びるという考え方をすることは「道」ではない。
物質と宇宙意識
周囲のあらゆる方角に存在する大地、草木、垣根、壁、瓦、小石等はどれも釈尊と同じような状態にある。
だから、そういう物質的な要素を通して影響が周囲に伝わり、その周囲が持っている釈尊と同じ性質に共鳴して、直接の真実(一つにつながっている世界、かつ、分断されている世界という層のある世界)をそれぞれが身につける。
そしてこの物質的な影響を受けて周囲のあらゆる事物は、本来の体験と言う釈尊の体感したことと同じものをお互いに影響させて交感しあうので、釈尊の体感した「限りの無い」性質が具わるようになる。
それが大きく広がって、尽きることなく、断絶することもない。
しかしこれは分断することで成り立つ脳の思考法では捉えることのできない。
枠が無くなり、評価の対象がない仏教的宇宙秩序が、この私たちの住んでいる世界の一切に行き渡たる。
この状態は、一人がほんのわずかな時間であっても坐禅することによって生まれてくる。
光とは粒子?それとも波動?
17世紀の科学者ホイヘンスは光は波動である、といい、ニュートンは光は粒子である、と主張した。
1807年にはトマス・ヤングが光の干渉実験を行ない、光が波動でもあることを証明した。
しかし、二重スリットに光を通して行き先を調べると、観察者がいる時には光は粒子のように振る舞い、いない時には波のように振る舞うという。
その後、ジョン・ホイーラーは光を弱めることによって光子がひとつずつ出るようにして、2本の光を重ね合わせると、重ね方によって光が消えてしまうことも実験で証明した。
これは、光の波動の山と谷が打ち消しあったと考えなければ説明ができない。
光はある時は波、ある時は粒子になる、としか言いようがない。
そしてなんと、それは観察者が見るていれば粒、見ていなければ波になるというのだ。
まるでマジックのように。
続きは、正法眼蔵の「有時」で・・・。