死と再生
この瞬間に体の細胞が死んでいる。一秒間で500万個。
そして同じ瞬間に500万個が生まれる。
ここに「いる」というのは死ぬことと生まれるのが同時にいること。
そう、呼吸のように、吐いて吸う。
そう、心拍のように、出して入れる。
そう、尾てい骨から頭蓋骨のように、伸びて、縮む。
死に対して生があるのではない。
死は悪いものでも怖いものでも苦痛でもない。
この世の目的は、ここに「ある」こと。
生きることと死ぬことが同時にある。
生きるとは分裂すること、成長すること、進化すること
死ぬとは消滅すること、省略すること、進化をシンプルにすること
二つが同時にないと「ここ」にいれない。
生きることだけに意識をおけば、そこには流れ下る時間しか流れない。直線だけの世界だ。
死ぬことにも意識をおけば、そこには駆け上がる時間も流れる。すると直線が螺旋になる。
自らの死
自殺はつまらない。
閉じた自我が逃げるために選んだ結果だから。
他とは繋がっていない個だから。
他を含んだ自分のためにできることは一杯ある。
個だけではなく種も個を必要としている。
時には迷惑をかけることも自分とみんなのためになる。
ちゃんと死ぬために生きるのがいい。
ちゃんと生きて死ぬのがいい。
そこには愛だの憎しみだのいろいろなことがある。
そこからはじまる、生きるということ。
これを意志という。
細胞の、ウイルスの、宇宙の、ヒトの。
再生の儀式
死んだら今が生まれるを前提にして出来上がったこの世
それが死んじゃいかんということで今がなくなっちゃうんだ、
そうなったらシステムが死んでしまうのは当然の摂理。
さあみんな儀式を取り戻しましょう。
死んだ人がいたら一晩一緒にいて、飯を食べたり酒を呑みましょう。
同じ部屋で目を瞑り、彼の意思や意志や遺志を継ぎましょう。
もしそんな趣味がある方ならば、骨を焼いたら灰をもらって飲んじゃいましょう。
怖いようだけど、これが優しくなるヒトの王道です。
儀式を終えると死者の視線をもってこの世に戻ってくることができます。
死して生きることができる。
闇をもいとわない、モノが判る事で死をも親しくなれる。
死者への弔い方、死者へのつくし方に本質があらわれる。
死者の言葉を聴け
言葉が言霊となり聖霊となる
みんなの「生きる」
死のない世界は生きる屍でしかいない
自分の生存を基準にして、社会をよくしようとするのはこの世を生き辛く、己の首を真綿で絞めることにすぎない。
善の生命原理だけで環境社会を保護しようとしている今日の環境倫理は薄ら寒く、哀しい。
社会の心の繋がりを遮断して、見かけだけの正義へ導く、怨念が底に流れている。
全体の健康や全体の保護を考えることは、自意識の強い奴が、自分を守る時に使う手段の中でも卑しいものだ。
「全体の病気を持ち出そうとする者ほど、病気にかかっている奴はいない」稲垣足穂
新陳代謝による細胞の入れ替わり
私たちの体を形づくっている60兆の細胞は、栄養を基に一定のスピードで新しい細胞と入れ替わっています。つまり、今がどのような食生活をしていても、健康は食事によっていくらでも作り替えることができます。
入れ替わりの早い細胞 遅い細胞
脳 1ヶ月で約40% 約1年
胃の粘膜 3日
腸の微絨毛 1日
肝臓 1ヶ月で約96% 約1年
腎臓 1ヶ月で約90% 約1年
筋肉 1ヶ月で約60% 約200日
皮膚 1ヶ月
血液 4,5〜5ℓの血液は100〜120日間で全て入れ替わる
骨 幼児期では1年半、成長期2年未満、成人2年半、70歳以上は約3年
(「健康を支える栄養学」佐藤和子)
皮膚は28日
胃腸は40日
血液は127日
肝臓・腎臓は200日
骨は200日
変わらないのは、心臓と脳。
ウィキペディアでは
胃腸の細胞は約5日周期
心臓は約22日周期
肌の細胞は約28日周期
筋肉や肝臓などは約2ヶ月間の周期
骨の細胞は約3ヶ月周期
細胞の新陳代謝が正常であれば身体は3ヶ月で新しく生まれ変わる。
もっと調べる必要があります。
ではなぜ顔のシミがなくならのか?
それは死んで消えていく細胞の後にできる新しく生まれ出る細胞が、周囲の環境に適応しようとして、元の状態にふさわしいように自分自身を変化させているからです。
新しい細胞が生まれたての状態のようになるには、周囲の環境や空気に合わせる必要がないことを伝えなければなりません。それには幼児期や少女期のように、新しいことや好きなことに胸を躍らせながら体を動かすのが有効のようです。
テレビや映画や本は脳は喜びますが、体は喜びません。しかし見ないことによってストレスに感じるのならば、見ないよりも見たほうが体には有効です。何故ならば、心が嫌なことをすると、交感神経が働いて、内分泌や運動神経や酵素を通して体に影響を与えてしまうからです。
体が喜ぶ環境をつくるのが私たちの意識ができることです。
体は温まり、血流は体内を巡り、呼吸は深く、体は緩み、心は暖かく、脳はリラックスしている状態をいかに作るのが意識の見せ所です。
恐怖の学習法と死の体験
動物の「回避行動」や「威嚇行動」は、ほとんどが「恐怖」や「怒り」といった「情動」の伴ったものです。
ですが、「死」に対して恐れを抱くためには、「死の概念」というものが理解できなくてはなりません。
全生物の本能の欲求は生きることと死ぬことを定めとしています。そのように遺伝子は組み合わされ、誕生、成長、老化、死のサイクルを繰り返します。
もし、そうなっていないとしても、このようなことを語るこちらの世界では、「ある」ことを都合よく理解するために生きることを前提にしてしまっているので、意識もそこを基準にすることでしか、この世を理解することができません。
動物が死の危険から身を守る手段は「本能行動」と「学習行動」の2つに分けられます。
a priori 先天的の「生得的に定められた基準」による無条件反射の「本能行動」と
a posteriori経験則の「生後の体験・学習によって獲得された基準」による「学習行動」です。
ヒトが本能行動以外の行動を選択することができるのは、「情動」を発生させる機能を持っているからです。
情動の全てについてわかっていないことは多いのですが、脳内での情動に関しては、大脳辺縁系には身体内外のあらゆる感覚情報が集められて「価値判断」が行なわれます。有益か、有害かということです。好きか嫌いか、快感か不快感か。快情動であれば「接近行動」が選択され、「不快情動」であるならば「回避行動」が選択されます。それが危険に対する不快情動である場合で、それに対して解決策が難しい場合は、この情動はやがて「恐怖」という「感情」に分岐してカテゴライズされ体内ホルモンとも結びつくプログラムが完成します。
回避行動や喜怒哀楽といった感情のパターンは生得的に定められたものです。ですが、何に対してどのような情動を発生させるかといった「判断の基準」は「生後の体験によって学習されたもの」です。ですから、それによって選択される情動行動は、全てが「学習行動」ということになります。このためには、本能的な反応以外の判断基準が生後の体験によって獲得されなければなりません。つまり、それが自分にとって危険であるということが学習されなければ、恐怖という情動は発生しないということです。
これが「本能行動」と「学習行動」の違いです。
恐怖のアプリケーションプログラムという情動は、大脳辺縁系で無意識に作動します。
「自分は今恐ろしいと思った」思えるのは、あとから大脳皮質の判断が付け加わったからです。
ところで大脳辺縁系には考えるという機能がありませんので、自分が体験したこと以外は学習することができません。つまり、大脳辺縁系で「死に対する恐怖」を発生させるためには、実際に死を体験しなければならないというわけです。死は体験できないので、未体験の事柄を概念として獲得するためには、何らかの「擬似体験」によって判断を下す以外に手段はありません。大脳辺縁系にはできませんが、大脳皮質には考えるという機能があるので、これが可能になります。
ですが、今度は逆に、大脳皮質には情動を発生させる機能がありません。では、「死の恐怖」という情動はいったい何処から生み出されるのでしょうか。
恐怖という情動は危険と学習されたものに対して発生するので、まずは大脳皮質に死の概念が獲得する必要があります。このような行動や反応を知覚し、自分は今、何に対してどのような情動を発生させたのか、といった、結果に対する「理由付け」を行なうのが大脳皮質の役割です。これにより、情動は初めて「恐怖」といった具体的な「感情」として認知・分類されます。
大脳辺縁系は危険と判断したものに対して不快情動を発生させ、回避行動だけではなく、心拍の上昇や発汗などといった生理反応など、様々な身体反応を引き起こします。
このとき、それが生死に関わるような重大な危機であったとするならば、当然、大脳皮質内に記憶として保持されている「死の概念」や、それに関連する過去の体験が引っ張り出され、そこに結び付けられることになります。そして、大脳皮質が「自分は今死ぬかと思った」などと考えますと、大脳辺縁系は、今度はそれに対して不快情動を発生させます。
つまり「死の恐怖」というのは、大脳皮質に記憶として保持されている「死の概念」が意識の上に想起されたことに対して発生する大脳辺縁系の反応です。そして、このような学習がくり返されることによって、やがて「死.」などといった言葉に対しても不快情動が発生するようになります。
動物の死の概念
他の動物の大脳皮質には、擬似体験によって「死の概念」を獲得することができるのでしょか?
「擬死体験」とは、仮死状態になったり臨死体験をしなくても、擬似体験することができます。
「既に導き出されている結果を知識として学ぶ」
「既存の体験に基づいて未来の結果を予測する」の二つです。
知識としてそれを学ぶためには、人間には言語がありますが、動物にはこれができません。
言語による擬似体験がたいへん大きなウェイトを占めますが、死の概念というものを獲得する上で、言語を持たなくても他の死を体験することで予測することはできます。
子供のころ、そんなことをすれば死んでしまうなどと良く脅かされます。また、死が忌まわしいものとして本などに書かれているならば、我々はそれに対して恐怖を感じることもできます。
ですが、他人はそう言いますが、死というのはどうして恐ろしいものなのでしょうか。これが分からなければ死の概念を理解したことにはなりませんよね。このためには、既存の体験を元に自分の未来を予測し、そこに「死」というものを置いてみる必要があります。
死というのは実際に体験することができないので、自分の身の回りにある死というのは全てが他人にとっての不利益でしかありません。ですが、我々はそれが自分の未来にも発生し得ることであり、自分にとっても間違いなく不利益であるということを知っています。これは、我々人間には「自己と他者」というものの区別を理解することができるからです。つまり、人間には他人の苦しみを自分の苦しみとして受け取ることができるわけです。従って、これができなければ、動物には死の概念を獲得することはできないということになります。
哺乳類のような高等動物には、人間と同じように「自己・他者」の区別を付けることができるのでしょうか。
人と他の動物の脳との解剖学的違いは特定できません。つまり、ヒトも他の脊椎動物も、「情動を発生させる機能」と「考える機能」は全く同じものだということです。これは大脳皮質の発達の違い、つまり「死の概念」というものの複雑さの問題でしかありません。
ということは、人間以外の他の高等動物にも「死を恐れるための機能は備わっている」と推定されます。
死について
よく生死という言い方をします。
生と死を並べて表現する方法です。このやり方がみんなに誤解を与え、この言葉を使った瞬間に、このマジックに引っかかって、そこからある決まった考え方を始めてしまいます。
では早々と、このマジックの種明かしを。
浅いのと深いのと両方を書いておきます。浅さと深さに上下はありません。単なる抽象度の違いだけです。
では浅い方から。
この世にいる生命体は総て同じ共通点があります。
それは体内に新たなものが生まれ続け、同時に古いものが死滅し続けているということです。
この機能がうまくいかなくなると、生命体はこの世からいなくなります。
ですからこの世にいるヒトは、新しい細胞が生まれ続け、同時に同数の古い細胞が死滅するように、暮らしています。新陳代謝やホメオスタシスと呼んでいるものです。ですから細胞分裂と細胞死滅が滞りなく流れ続けることを邪魔しないことが大切です。体内の産まれることと殺すことを同時に大切にすることです。
ところがここに問題が発生しました。
原因はこれまたいつもの自意識です。
一般的にはこの世にいることを「生」、いなくなることを「死」と呼びます。ところでこの生死を語る時に、私たちはどの視点に立ってこの問題について語ろうとしているのか考えたことはありますか?
今までは、この世にいるには産まれることと殺すことが同時にあることを大切にしていました。この視点はこの世に居続けるための、「体」の視点です。本能や自然や脳幹や走性や無条件反射と言い換えてもいいです。
ところが生死といった場合に、この両方を見ることができるのはどんな視点でしょうか?生と死を同時扱う立場です。これはもう生死を両方一度に見なくてはなりませんから、この生死の二つから一つ抽象度を上にあげたものでなければなりません。そうなるとカミさまぐらいのものです、この立場に立って話が出来そうなのは。ところが、神様のことはよくわからないという人もいるので、代りに意識がこのことを考える視点を作ろうとしました。
一つの生命体の生死を生命体の外から観察できる視点です。私はこれを人工衛星の視点と呼びました。日常生活ではグーグル・アースの視点です。この視点はもうヒトの体を離れて、機械とそれを動かしている意識とそれらを支配している自意識に視点が移行したことを意味しています。生死といった途端に体の視点ではなく、自意識の視点でこの問題に取り組むことになります。知らないうちに考えもせずに自動的にです。判断を自分の体から、機械と自意識に委ねてしまったことに気がつかないまま。
これでなんでも客観という物差しでものを判断する時代到来するかに見えました。ところが、物事はそうは簡単に進みません。新たな視点の主である、意識は感情の影響を受け、その意識を生み出している大脳皮質は、あきらかに自然の一部であるからです。
機械では生も死も同列に並べることができますが、この世にいるものは生は既知のものですが、死は未知のものであり、体験することはできません。できることは他人の死を見たり、メタファーで理解することぐらいです。
そして機械的な分断された視点に感情から影響を受けた意識が加わると、どの死も生にとっては好ましいものではなく、未知という恐怖心も手伝って忌み嫌うものになってしまいます。ですからいくら機械と自意識で判断しようとしても、情感からの恐怖が混入してしまい、死を除外しようとします。自意識とは分けるものなので、生死とセットになった場合は、生を好んで死を嫌い、そこに嫌なことから逃げる癖をつけた人達は死を遠ざけようとしてしまいます。体のレベルでは死を体内に取り入れることが新たな細胞を生み出す鍵であるとわかっていたのに、意識のレベルでは、死を遠ざけることが、生きることだと勘違いしてしまっているのです。死と生が相反するものだと理解することによって、体の判断を機械と自意識に明け渡し、ついでにますます体にとってはよくない死を内に持つことを否定することにより、生きたいと言いながら自分で自分の首を絞めようとするのです。残念な皮肉です。この生死がセットになっている人工衛星の視点は体内だけではなく、体外である社会でも活発に働きます。死に蓋をして、遠ざけ、忌み嫌い、死から逃げ続けようとすることです。自意識が形になった人工の世界では死には居場所がありません。都会人が死に振り回されるのは以上のことから必然の結果です。
死は生まれることと死滅することが同時に起ることができなくなると訪れます。死を人工衛星の視点からだけで理解するのではなく、体を理解しようとする知性の視点からも見つめてみましょう。生命的なつながった視点で見ると、死にも肯定的な見方が加わり、好ましいものだと思うことができることもあります。例えば倒れた老木の下のドングリから息吹いた新芽が森の活性化の象徴であるかのように。
体はそのまま自然につながっており、死を自然の中で感じると、また違う喜びが湧いてくるかと思います。お試しあれ。
次に深い方です。 浅いほうが長くなってしまったので、深い方は短くいきます。
マジックのタネの秘密は「言葉」でした。
言葉には呪縛力があります。一つのものを分けて並べることによって、そこに意識を向けさせ、自意識がそこに共鳴して、二つの対立に囚われてしまうからです。分ける本人が自意識なので、すぐに影響を受けてしまいます。例えば音叉を叩くと音が出ますよね、また音叉をたたいていなくても、同じ周波数の音が音叉に当たると音叉が震えるように。周波数の音が言葉で、音叉が自意識です。言葉の周波数が自意識の塊を震わせます。
この呪縛力のほどき方を知らないと、いつまでも言葉に囚われる世界の住人になってしまいます。
解くためのヒントは言葉の成り立ちと言葉の特徴と言葉の限界です。
成り立ちはこうです。
言葉の世界はモノの世界と同じで、次々とモノを分類することによって成り立っています。分類に科学的な絶対はありません。分類する人が決めた興味にスポットライトを当てて、そこから共通性という科学を使って厳密に分けていったものです。ですから科学的ではあるのですが、スポットライトを当てるのは分ける人の意思から始まっています。
ポイントは分けることによってしか成り立つことができないというのが言葉の世界だということです。
ではこの言葉にはどんな特徴があるのでしょうか?
分けたものなので、二つのものを並べると、そこには上下、左右、優劣、光と闇、善悪、好き嫌い、快不快という比較が生まれてきてしまいます。ですからいくら自意識が理念を持ち出して、平等、自由、博愛といっても、優劣をつける視点が消えることはありません。いくら綺麗事言っても、この分ける世界では優生学が無意識のうちについてまわります。はっきり言うと劣生を嫌う考え方です。ここから生まれてくるのが、弱肉強食という概念だったり、それを理念で否定して抑えた平等と博愛だったりします。
分けることにより、分断し、対立し、時には戦わざるを得ない世界です。
最後に言葉の限界です。
さきほど弱肉強食と博愛の世界が言葉の世界だと言いましたが、現実はどうなんでしょうか?アマゾンの源流のジャングルや里山の林にはたくさんの生物がひしめき合って暮らしています。確かに弱肉強食があります、また博愛らしきものも垣間見ることもできないことはありません。ただ圧倒的な場面はお互いの無関心です。よく言うと共存や共生です。それぞれがそれぞれの生態系の中で利害関係なく暮らしています。正確に言うと関係は微生物を介して行われています。お互いの生態系を結ぶ役割を担っているのが微生物とそれによって発する分子の交換です。ここでは言葉が必要ではありません。すべてがつながっている世界です。
言葉が通用するのは分けている世界だけなので、それ以前の未分化の世界や、言葉以後に現れる分けたものが実はコインの裏表だとわかる世界や、分けなくてもいいやという世界では力が発揮できません。
ヒトの一生で言うと、言葉の世界とは青年期に当たり、幼児期、壮年期、老年期では力が及ばなくなります。
ですから都会の大人たちは、早く子供に言葉を覚えさせ、壮年期や老年期に至る成熟した生き方を拒否して若作りに励みます。
ですから青年期を脱した場所で、分けられないのに便宜上に勝手な都合で分けているにすぎないと、ということがわかると、いきなり言葉の呪縛の力は散逸します。
言葉が成立できるのはこの分断し続ける世界だけです。この分断の世界から離れ、生命体が時空の彼方からつながっている世界に入ると言葉の呪縛の力が効かなくなり、死が生とともに大切なことを実感します。
「死」によって起こる現実を見つめ、そのはかなさを噛み締めながら、同時に恐れずに受け入れることが「死と再生の時間」にいることです。