第三の天

 

 

「第三の天」という言葉の由来

聖書​に​出​て​くる「天」には多層の意味があります。

たとえば、

地球の空​を​指す​こと​が​あり​ます。(創 11:4; 27:28。マタ 6:26

人間​の​支配​権​を​指し​て​使わ​れる​こと​も​あり​ます。(ダニ 4:2022

神​の​支配​権​を​指す​こと​も​あり​ます。(啓 21:1

 

「多層なる天」の概念は、ユダヤ教の教典と預言者エゼキエルのメルカバー (戦車) のビジョンに由来しています。

メルカバー מֶרְכָּבָהMerkabah)とは、子音根 רכב r-k-b に由来しており、「乗る」という意味で、『天の車』、あるいは『聖なる神の玉座』ともいわれるものです。

エゼキエルの『エゼキエル書』1:4-2610:9-14にメルカバーは4つの翼と4つの顔(人、ライオン、雄牛、ワシ)がある戦車として記述されています。

ユダヤ教では神と直接接しようとする時に瞑想を介して、この戦車に乗り込みます。

そして、護符と呪文を用い、悪魔を防ぐ天使と共に、神の玉座を囲むベールを突き抜けて、第三の天に至ります。

 

第三の天はヘカロット文献などのユダヤ教の正典外の文書でも詳しく説明されており、それは神が住む場所であり、大気の天や宇宙の天とは区別されます。

ゾハールの宇宙観

 

 

新約聖書における第三の天への言及

「第三の天」という用語は使徒パウロによって、新約聖書のコリント第二 2:12-2 でも言及されています。

 

2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。

3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――

4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。

 

 

 

三つの層がある天

聖書は、天に大気天、宇宙天、そして第三天の3つの層があることを示唆しています。

 

第一の天   大気圏の天

第一の天は「空」です。

ここでの天とは、鳥が飛び、雲が存在する空を指します。

神は仰せられた。「水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」(創世記1:20

大気の天 הַשָּׁמָֽיִם׃ haš-šā-mā-yim. とは、私たちが毎日見あげる空であり、雲で満たされ、私たちが呼吸する空気です。

 

 

第二の天 宇宙の天

第二の天は「宇宙」です。

宇宙の天とは、星、惑星、銀河が存在する天上の領域を指します。

神は仰せられた、「光る物が天  הַשָּׁמַ֔יִם haš-šā-ma-yim の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。」(創世記1:14

聖書の一番最初に「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)とありますが、

「天」הַשָּׁמַ֖יִם   haš-šā-ma-yim  は複数形なので、多層の天を示唆していると推察できます。

 

 

 

第三の天

第三の天は、私たちの物理的な領域よりも微細な領域であり、神や天使の居住地と考えられています。

この領域の神聖な性質は信者にこの霊的世界への理解を深める動機を与えます。

それは黙示録 4 章に描かれている神の御座の場所のことです。

 

 

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上座部仏教の31領域の宇宙観にある、欲界が第一の天、色界が第二の天、無色界が第三の天に対応しているのかどうかは興味深いテーマです。

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1.第一の天  測れる物質の世界

 

創造主なる神は宇宙と地球を創られました。

「天は神の栄光を語り告げ大空は御手のわざを告げ知らせる。昼は昼へ話を伝え夜は夜へ知識を示す。話しもせず語りもせずその声も聞こえない。」詩篇191-3

 

目に見える天は「神の御手のわざのすばらしさを語っている」

ある日、ニュートンの友達で無神論者の科学者がニュートンの家に訪ねてきました。そこには、太陽と惑星と地球と月の精巧なモデルがあったそうです。それは月を回すと地球が自転し、さらに太陽の周りを公転するといった精巧なモデルだったようです。それを見た友人がニュートンに言いました。「おいニュートン、これは立派な宇宙のモデルだな、一体誰がこんなすごいものを作ったのだい?」。ニュートンは言いました。「誰でもないさ」。その友人はむきになって反論しました。「おいおい、誰でもないって冗談はよしてくれ、こんな立派なものが勝手にできたとでもいうのかい? そんなことは有り得ない、誰かが作ったに決まっている」。

ニュートンは答えました。「おやおや、おかしなことをいう。君は常日頃から、こんなモデルなど及びもつかないほど精巧で複雑な宇宙が、何人にもよらず偶然の産物によってできたのだと主張しているではないか? それなのに本当の宇宙に比べれば、はるかに単純で、はるかに小さなこのモデルが偶然にできることはあり得ないというのかい? この矛盾をどう説明するつもりかね」「・・・」かくしてニュートンは、無神論者の友人に神の存在を承服させたということです。

 

つまり宇宙のモデルに作り手がいるように、宇宙にも当然それを作った神が存在することを論理的に帰結させたのです。ある人はこれに関してこう反論します。「いやいや、人が作ったモデルは小さくて見ればすぐに人間の作だとわかるけれど、宇宙はもっと大きなものだから何かが作用して偶然にできたのではないか」と。 

 

しかし、ニュートンにも限界があって、当時の理神論の影響を受けて、宇宙は神の手を離れ、自動的に動いていると考えていたようです。

デカルトとニュートンは「世界は機械である」と言いましたが、現在、量子物理学の発展によって、神的なものが存在するに推察されています。

 

第一の天、つまりこの地上の世界は目に見えて、物が量れる世界です。この世界を研究するのが、自然科学です。現在は物理学や化学だけではなく、生物、遺伝子、地球物理学…多岐にわたっています。自然界にはいろんな法則があり、それを学者たちが実験を重ねながら証明しています。

よく、科学的と言われていますが、どういう意味でしょうか?

「科学的とは考え方や行動のしかたが、論理的、実証的で、系統立っているさま」と辞書にはあります。

つまり、論理的仮説が実験で立証される必要があるということです。

多くのものが立証されてきていますが、まだまだ、未知の世界がたくさん広がっています。

ニュートンが「目の前には手も触れられていない真理の大海原が横たわっているが 、私はその浜辺で貝がらを拾い集めているにすぎない」と言いました。

自然科学は測量できるものしか対象にできません。

したがって、心や魂や霊やカミは自然科学の対象外になります。

ただし、科学的にそれらにアプローチすることは可能です。「自然科学」と「科学的」は異なるものなので混同できません。

自然科学では、霊や魂の世界を排除して測量できる世界だけで合理的に説明するのがルールです。

対して、「科学」は素粒子よりも微細な領域を仮説して、因果関係を調べ、それが物理世界にも関係があることを探求しています。

論理的に考察すると、目に見えず測量できない霊の世界も存在する仮説が成り立ちます。

 

パウロは「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです。彼らは、自分たちは知者であると主張しながら愚かになり、…」ローマ120-22とパウロが述べるように、2千年前の都市生活者はカミとの交感の機会を失い、自分の知

性を基準にして生きることで、高慢になりました。

 

 

2. 第二の天   善悪の精霊の世界

 

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」エペソ21-2

 

この「空中の権威を持つ支配者」をパウロは「不従順の子らの中に働いている霊」と言い直しています。この霊とは悪霊のことであり、神を信じていない人たちを支配しているということです。

 

「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」Uコリント44

Uコリントでは空中の権威を持つ支配者は「この世の神」と言われています。この世の神とは、サタンであり、悪霊の親玉です。サタンは人々が福音を聞いて救われないように、人々の思いをくらませて、邪魔をしているということです。

 

イエスは悪魔から誘惑を受けました。その時、悪魔は「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。」と言いました。イエスはただ「『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある」と言いました。(ルカ46-8)。

 

もし、悪魔が言っていることが嘘であれば、イエスは「この宇宙は神のものである」と言えますが、イエスはこの宇宙のカミの中にはサタンも含まれており、この世の神として君臨していることを理解していました。

 

 

福音書には、イエスが人々から悪霊を追い出しているシーンをたくさん見ることができます。病の霊、汚れた霊、口がきけず耳をきこえなくする霊などが出てきます

 

現代都市文明の世界観は、第二の天、つまり霊的な世界を考慮しない傾向があります。

それは物質界では都市化、植民地化、自然科学化が起こり、思想界では、15世紀からのルネサンス、そして17世紀から興った啓蒙主義思想の影響です。

 

この世界観と特徴づけるものは第一に「唯物論」です。唯物論者にとっては、見ることのできるもの、調べることのできるもの、証明することのできるものを基準にして思考をすすめるアプローチをします。

 

第二は「合理主義」です。この合理というのは理性を基準にしているという意味になります。

理性の英語訳はrationalityであり、ratio割合、すなわち全体を測量することが可能であり、それを分割して数値化できる世界観のことを意味しています。

合理主義者は「聖書の目に見えない霊の世界は作り話である。人間の理性に合わないものは非現実的である」と判断の対象にはしませんでした。

 

しかし、都市文明生活者も宗教組織を心の支えにしていたので、神を捨てることはしませんでした。

つまり、神がおられる第三の天は認めましたが、都市生活者が多いプロテスタントは、悪霊や天使、奇蹟や癒しという第二の天を考慮に入れない傾向があります。

 

そして、第一の天である、この地上の目に見える物質的な世界だけを基準にして生きることにしました。

そして、人間には優れた科学技術や医療があるので、神は不要だと思うようになったのです。

だから、病気の癒しのために、神に祈るなら、それは時代遅れの非科学的なことであると敬遠されるようになったのです。

 

 

第二の天の世界観は精霊の領域も対象にしているアニミズムですから、魔術師、祈祷師、霊媒者が霊とコンタクトをとります。

しかし、第三の天とコンタクトをとらないので、第一のこの地上の物質的な世界と、第二の霊的な世界が混沌とした世界観で暮らすことになります。

彼らは科学も信じていますが、同時に背後で働いている悪霊の存在も信じています。

家を建てるときも、この方角が悪いとかいいます。受験勉強やお産の時も神社にお参りに行き、スーパー・コンピューターが設置されるとき、神主さんを呼んでお祓いをしてもらいます。

頭では科学や医学を信じているのに、心はアニミズムなのです。

 

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。」エペソ120,21

とパウロは、キリストは悪霊たちよりもはるかに権威あるお方であると言っています。

 

 

3. 第三の天 

使徒パウロは自分の名こそあげていませんが、第三の天に引き上げられて、直接神から啓示を受け、(Uコリント12)福音書にはない、キリストの神性や教会などについて書きました。

 

また、「しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。」(ペテロ2の手紙 3:13)で使徒​ペテロ​が​述べ​ている「新しい​天」と​は、第三の天のことです。

 

ヨハネも預言書を書くために、天に引き上げられ、

「その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。』他ちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。」ヨハネ黙示録41-3

とあります。

 

パラダイス

「パラダイス」にはも​様々​な​意味​が​あり​ます。

1)将来,地上​に​実現​する​文字通り​の​パラダイス​を​指す​場合​が​あり​ます。最初​の​人間​アダムも​その​よう​な​所​に​住ん​で​い​まし​た。

2)新しい​世​で​神​の​民​が​楽しむ​平和​な​状態​を​指す​場合​も​あり​ます。神​の​民​の​間​に​今​も​存在​し​て​い​て,将来​もっと​大​規模​に​実現​する​平和​な​状態

3)啓示 2章​7節​に​述べ​られ​て​いる「神​の​パラダイス」,つまり​天​で​の​祝福​さ​れ​た​状態​を​指す​場合​も​あり​ます。

 

パウロは、イエス・キリストを信じる信仰によって、天国に行けると約束しています。

イエスは横の十字に架けられた男に「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と言っていますが、このパラダイスとは、パウロ​がいう第三の天、すなわち天国のことです。

 

 

 

第三の天を体験した人たち

使徒パウロは伝道の日々のなかで、少なくとも十四年もの間でただ一度しか経験しなかった特別な体験をコリント第二 2:12に「口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた」啓示について記しています。

これは、一見すると他の人のことを述べているような書き出しですが、その後にこれがパウロ自身のことであったことがわかります。

 

旧約聖書のモーセは、十の最も根底となる神の言葉(十戒)を受けたときには、四十日四十夜、主とともにシナイ山頂にてとどまった。そのとき、モーセは神と語り、モーセの顔が光を放っていました。(出エジプト記三十四・2830

このような状態もモーセが霊的に高いところに引き上げられて、神の言葉となる十戒が与えられました。

 

また、旧約聖書のエノクは、神とともに歩んだのち、「神が取られたのでいなくなった」という不思議な表現がなされています。エノクと並べて書いてある多くの当時の人たちは、みな「○○年生きた。そして死んだ」とあることから、エノクも第三の天を体験したと推察できます。

 

旧約聖書ではイザヤが預言者として呼びだされたとき、「わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。

彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」

(イザヤ書六章13より)という経験をしています。

 

ダンテの神曲にも天の体験の表現がみられます。

「…人間の世界から神の世界へ、

有限な時間から永遠の時間へ、

フィレンツェから、正しく健全な人々のなかに出た私は、

ただもう茫然自失の状態であった。…

驚きと喜びのあいだにあって、

私は何も聞かず、何も言わずに心満たされた。」

(ダンテ著神曲・天国編三一歌3745より)

 

ヨハネ福音書の第一章の最後にある言葉は

「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」(ヨハネ福音書一・51

この「天が開けて、神の天使たちが昇り下りする」ということは、イエスよりはるか昔の時代には、アブラハムの孫にあたるヤコブが、地上の人間の想いが天に通じることで神からの霊的な賜物が人に流れてくる、という体験が聖書で示されています。

 

 

 

第三の天の体験

神とイエスとの交わり(コイノーニア)κοινωνία    ラテン語のcommunio

キリスト教を受容する前のギリシャでゼウスなどの神との交感をコイノーニアと呼びました。

目には見えないけれども神が存在する、そして、私たちを励まし、慰めて下さる存在を少しでも感じるとき、そこには神との交わりがあります。

キリスト教では、イエスをキリストとして信じるようになったすべての人たちがこの交わりは入ることができる、とカトリック教会では説かれました。

 

神に祈ることができるということは、すなわち、神との交わりです。

キリストのことを思い浮かべることで力を与えられ、十字架のキリストを仰いで罪の赦しを実感することができるならば、それもキリストとの交わりの体験です。

そのような交わりはすべての人に開かれていて、イエスを信じるだけでその経験が与えられる、とある教会は説いています。

 

そこを入り口として交わりは深くなっていきます。

使徒パウロの第三の天にまで引き上げられたという経験は、この神とキリストとの交わりの深い体験です。

 

英語の in the Lord「主にある」やin Christ「キリストにある」 といった表現はギリシャ語の原語の表現(en kuriw σν Κύριο)の直字訳です。

パウロはこの表現を非常に多く用いている。この二つの表現は新約聖書には164回も用いられています。

これに対して、この表現は福音書や使徒言行録、ヨハネやヤコブの手紙、あるいはヘブル書などには全く用いられておらず、ペテロの手紙と黙示録には一度ずつ使われているだけです。

 

新共同訳聖書では、それらの表現の多くが「キリスト(主)に結ばれて」という訳語を用いているので、原語の「〜の内に」というニュアンスがわかりにくいです。

キリストは霊的存在であり、聖霊でもあるので、その聖なる霊の内に信者が置かれるということが、キリスト者の最大の恵みです。

このパウロの「主の内にある」という特別な表現とその強調は、ヨハネ福音書では、「キリストの内に留まる」という表現となって強調されています。

ヨハネ福音書では、この「留まる」という原語μένωは、三八回、その手紙を合わせると合計で六四回も使われています。

 

イエス自身も第三の天を体験していることが聖書に記述されています。

イエスが三人の弟子を連れて高い山に登り、「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ一七・2

イエスは、「私の内に留まれ。そうすれば私もあなた方の内に留まる」と繰り返し言われ、さらにそれを言い換えて「わが愛の内に留まれ」と言われた。(ヨハネ福音書十五章49

そしてこのことをさらに別の表現として、「私たちの交わりとは、父なる神と、神の子キリストとの交わりである」(ヨハネの手紙T一・3)と書かれています。

 

「主の内にいる」ことで、人の魂は清められます。そこから新たな力を与えられ、思いがけない出来事が生じても主が導いて下さると自信を持つことができます。

また、過去の罪深い生活が赦され、毎日の生活の罪を赦されて、生きていくことができます。

 

信仰ではなく、神との直接的交わりが最高の恵みとなり、神が内面的に現れます。

神に心を傾けることによって、人は神を得るのであって、神に関する知識や研究によってではありません。

そして神と交わることは地上における完全に純粋な喜びでありますが、人と交わる場合と同じことが基準になります。

愛と誠実がなければいかなる信仰も行ないも役には立ちません。

 

 

このような神との深い霊的交流は、キリスト教の長い歴史のなかでもいろいろな人たちによって証されてきました。

1224年の8月、アシジのフランシスコ(11811226年)が43歳の時、自分の生涯が終わりに近づいていることを知って、アルヴェルナ山に出かけて深い祈りに徹した。 ある夜、弟子がフランシスコの祈りの場に近づくと彼は、声をあげて祈っていた。

「最愛の主なる神よ、あなたは一体どういうお方でしょうか。また、あなたの役に立たない虫けらのような私は何でしょうか。」と繰り返して祈ったのである。それは、次のような意味だとあとで、フランシスコは、その弟子に話した。

「その祈りによって、二つの光が啓示された。一方の光には、創造主を認め、もう一つの光には、自分自身を認めた。

神の善の無限の深さと、自分自身の悲惨の悲しい深淵を見た。だから私は、『主よ、いと高く、賢く、いと憐れみ深いあなたは、何なのでしょう。いとも、あわれな虫けらのような小さな被造物である私のところに来てくださるとは』と言ったのだ。」

このように、フランシスコは、死が近づいているときに深く感じていたのは自分自身の卑小さと神の無限の愛の深さであった。そしてそのような深い認識の後で、神はフランシスコに特別なしるしを与えられた。

ある夜、彼の深い祈りのなかで、次の二つの願いをかなえて下さるようにと主イエスに祈った。

一つは、主イエスが十字架の苦難で耐え抜かれた苦痛を、自分の心と体でできるだけ感じること。

二つ目は神の子である主イエスの燃え立つような愛、イエスを動かして罪人のために苦しむように仕向けた大いなる愛を、自分の胸の中でできるだけ感じることであった。

そうした祈りをもって長く祈っているとき、天から御使いが現れ、フランシスコは激しい苦しみとともに彼の胸には炎のようなものと、神への生き生きとした愛が残り、彼の体には、手足と胸にキリストが十字架で処刑されたときの傷跡が残された。

アシジのフランシスコにおいては、パウロの第三の天にまで引き上げられるということに相当する経験は、このように、徹底して自分の卑小さを知り、キリストの受難という深淵な意味をみずからの体に同じような傷を受けるという苦しみを知るほどに、キリストと一つにされた経験となったのであった。

 

パウロもまた、霊的な高いところに引き上げられたが、そのことを誇ることのないようにと、その肉体にいやしがたいとげを持つことになった。パウロがそのために必死にいやしを求めて祈ったが、それはいやされず、かえって主から、「私の恵みは十分である。神の力は弱いところに完全に現れる」という言葉が示されたのである。

このように、人間は、神によって高められるときには、私たちが通常では考えることもしないような高みへと引き上げられ、神を単に信じるだけでなく、確かに生きて働いておられること、その愛を深く実感させるのがわかる。

そしてそれは決してそのような高められた状態を誇るとか楽しむためには与えられない。自分の罪や弱さを深く知らされ、神の無限の大きさと愛を知って力を与えられ、第三の天で働くために与えられるのである。

 

 

第三の天に至る方法

では、どうやったら、第三の天、行くことができるのでしょうか?

行き方は聖書に明記されています。

 

祈りと礼拝を通して第三の天に近づく

私たちの地上の体は第三の天に入ることができないため、体験する唯一の方法は、 祈り, 礼拝、そして霊的体験です。

入り口は祈り

祈りは、神への直接の祈りであるとよく言われます。つまり、私たちが深く、心からの祈りを捧げるとき、 コミュニケーション 主とともにあれば、私たちは第三の天の力と神秘に触れることができる可能性があります。 神の領域への入り口としての祈りという概念は、「絶えず祈りなさい(1テサロニケ5:17)」というパウロの励ましを含むいくつかの聖書の一節によって記述されています。

 

エペソ2:6にもある「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。」の天上の御座とはどのような意味があるのでしょうか?

 

1つの解釈は、私たちは、第一の天の下にある地上に物理的な肉体はあり、より微細な第二の天には、悪霊たちが私たちを誘惑し、妨害しようとしていますが、私たちは霊的には、天の所、つまり第三の天にいる、ということです。

 

既に、御座の隣にいるというのは、霊的な立場や権威が悪霊どもよりも上だということです。

私たちが祈るとき、地上から天に向かって「神よ」と物理的イメージがあるかもしれませんが、霊的レベルでは神はすでに隣におられるのです。

これは、自分の霊的存在を自覚することで、神の横に共に座っていることを理解し、神の力をもって、その人を支配している悪魔に立ち向かうことを意味しています。

 

たとえば、私たちはテレビや新聞をとおして、暗いニュースを知ります。

これは、第一番目の領域(天)に触れたことになります。すると私たちはイメージを感覚し、感情が反応し、論理的に思考します。

次に、第二番目の天は善悪の精霊がいる領域なので、第一の天の結果、絶望や破壊、恐れが生まれる可能性があり、悪霊の世界を垣間見ることもあります。

それが精神的な圧迫をもたらし、祈らざるを得ない気持ちにさせられます。

この一番目と二番目の領域にスポットライトが当てていると、生活の中の物理的と心情的な煩わしさばかりに注目してしまい、多くの場合は、恐れを動機として思考してしまいます。

恐れに基づいた思考は、第三の天の答えを生み出す祈りになりません。

 

大切なのは、『天の父よ、あなたが今行っていることは何ですか』と尋ね、神とのコンタクトをとることです。

私たちが第三の天にいることを再確認できれば、テレビや新聞のニュースを知っても恐れ過ぎることはなくなります。

 

集団礼拝

個人の祈りに加えて、集団での礼拝も、第三の天を示す神の明白な臨在を体験する手段です。 信者が礼拝のために集まると、ユニークな霊的体験の可能性が高まり、神の臨在にさらに近づくことができます。

そのような経験の証拠は、新約聖書のペンテコステの日の記述に見られます。 聖霊が 集まった信者たちの上に降臨しました

「ペンテコステの日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」(使徒行伝 2:1-4)。

 

 

第三の天と信者の視点

第三の天の存在を理解し、その重要性を探求することは、神の臨在、力、計画についての見方を豊かにするため、信者にとって極めて重要です。 天上の領域の神秘は、私たちの信仰を成長させ、宇宙の驚異に対するより深い認識を育むよう促してくれます。

 

神が臨在し、祈りや集団礼拝を通して私たちがアクセスできることを認識すると、快適さ そして、私たちが闘いにおいて決して一人ではないことを知って、信者たちに安堵を与えます。

私たちの祈りが創造主の御座に届くということを理解すると、創造主の揺るぎない臨在に対する感謝の気持ちが湧き上がります。

 

最後に、第三の天が亡くなった義人の住まいであることを認識することは、死後の家を約束されて安心します。 イエスはでこう言われています。「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」(ヨハネ 14:2)

 

第三の天に至る過程で、はるか彼方にいる神の広大で愛に満ちた腕の中に自分が包まれていることに気づくことを知り、霊的な成長と創造主とのより豊かなつながりの探求になります。

 

 

 

 

 

 

ヘカロット文献

ヘカロットとはヘブライ語の「宮殿」を表し、天国の宮殿への上昇のビジョンに関連する文献のこと。

このジャンルは、エゼキエルの戦車(メルカバ)と関連しているため、この2つは「宮殿と戦車の本」(ספרותההיההותוהמרכבה)と呼ばれることもあります。

ヘカロット文学はユダヤ人の秘教的かつ啓示的なテキストのジャンルであり、タルムディック時代以前から信じられていた古代後期から中世初期までに制作されました。

 

後のカバラの多くのモチーフはヘカロットのテキストに基づいており、ヘカロットの文学自体は、死海の巻物やヘブライ語の聖書の偽聖書に見られるエノクの天の上昇に関する伝統を含む以前の資料に基づいています。

 

 

テキスト    ヘカロットのテキストの一部は次のとおりです。

 Hekhalot Zutartey (小宮殿)、 ラビアキバの上昇を詳述します。

 ヘカロト・ラバティ (大宮殿)、ラビ・イシュマエルの登頂を詳述するピルケイ・ヘカロト。

 Maaseh Merkabah "Chariotのアカウント")上昇中に聞かれるdescendersの賛美歌のコレクション。

 メルカバラバ (「偉大な戦車」):

 Sepher Hekhalot (「宮殿の書」、 3 Enochとも呼ばれる)

 Re'uyyot Yehezqel (「エゼキエルの幻想」)

 Massekhet Hekhalot (「宮殿のPalace 」)

 シーア・コーマ (「神の次元」)

 Sepher Ha-Razim (「謎の本」)

 Harba de Moshe (「モーゼの剣」)

アキバベンジョセフのアルファベット

 

 

エゼキエルが見た戦車

エゼキエル書とそれに付随する解説によれば、彼の幻視は、「人間に似たもの」によって駆動される多くの天上の存在で作られた戦車で構成されています。

タンクの基本構造は 4 つのエンティティで構成されます。これらの存在は「生き物」(ヘブライ語: חיות hayyot または khayyot)と呼ばれます。この生き物の体は「人間に似ています」が、戦車が走行できる 4 つの方向 (東、南、北、西) に対応する 4 つの顔があります。顔は人間、ライオン、牛(後にエゼキエル書 10:14 でケルビムに変更される)、鷲の顔です。天使は 4 人いて、それぞれ 4 つの顔があり、合計 16 の顔があります。

ハヨットの天使にもそれぞれ4枚の翼があります。これらの翼のうち 2 つは戦車の長さに広がり、反対側の天使の翼とつながっています。これにより、タンクの周囲を形成する翼の一種の「箱」が作成されます。残りの 2 枚の翼で、天使はそれぞれ自分の体を覆います。ハヨット天使の足の下には、車輪のような形をした他の天使たちがいますが、車輪には取り付けられていません。 「車輪の中の車輪」と表現されるこれらの車輪の天使は、「オファニム」אופנים(車輪、自転車、または道路)と呼ばれます。これらの車輪はタンクの直下ではなく、タンクの近くの周囲に沿って設置されています。人面天使は常に東側にいて、戦車を駆る「人間の姿」を見上げている。 「男の姿」はサファイアでできた玉座に座っています。

聖書は後に、「セラフィム」(文字通り「燃える」)天使=熾天使と呼ばれる、マカバに見られる3番目のタイプの天使について言及しています。これらの天使は、絶え間なく上がったり下がったりする火の閃光のように見えます。

これらの熾天使は戦車の動きに動力を与えます。これらの天使の階層では、ハイユースが最も高く、つまり神に最も近く、次にオファニムOfanim座天使、そしてセラフィムsarapim熾天使(『イザヤ書』61-4節)が続きます。

 

戦車は常に動いており、この動きの背後にあるエネルギーはこの階層に従って動作します。オファニムの動きは「生き物」、つまりハヨットによって制御され、ハヨットの動きはセラフィムによって制御されます。戦車上の天使の動きはすべて、玉座上の「人間の姿」によって制御されます。

 

 

 

Rank

Angelic Class

Notes

 

1

Chayot Ha Kodesh

See Ezekiel 1 and Ezekiel 10

智天使

2

Ophanim

See Ezekiel 1 and Ezekiel 10

座天使

3

Erelim

See Isaiah 33:7

 

4

Hashmallim

See Ezekiel 1:4

 

5

Seraphim

See Isaiah 6

熾天使

6

Malakim

Messengers, angels

 

7

Elohim

"Godly beings"

 

8

Bene Elohim

"Sons of God"

 

9

Cherubim

See Hagigah

 13b

 

10

Ishim

"manlike beings", see Genesis 18:2 Daniel 10:5

 

 

 

他のデータ

『天上位階論』による9つの位階

第一位    熾天使(してんし,セラフィム)

第二位    智天使(ちてんし,ケルビム)

第三位    座天使(ざてんし,トロノイ,スローンズ)

第四位    主天使(しゅてんし,ドミニオンズ)

第五位    力天使(りきてんし,デュナメス,ヴァーチュズ)

第六位    能天使(のうてんし,エクスシーアイ,パワーズ)

第七位    権天使(けんてんし,アルカイ,プリンシパリティーズ)

第八位    大天使(アルカンゲロイ,アークエンジェルズ)

第九位    天使(アンゲロイ,エンジェルズ)

 

 

 

初期のユダヤ人のマカバ神秘主義

マーク・ヴァルマンは、イザヤとエゼキエルの王座/戦車のビジョンから、後に現存するマカバ神秘主義の著作に至るまで、初期のユダヤ神秘主義の4つの時期を区別しました。

西暦前 800 500 年、エゼキエルの戦車などの預言的ユダヤ教の神秘的な要素 始まり c.終末文学における神秘主義、

紀元前530年代、特に紀元前300100 始まり c.紀元前 100 年、特に紀元後 1 130 年の初期のラビのマカバ神秘主義。 『パルデスの登頂』などのラビの顕教文書で簡単に言及されています。

初期キリスト教の神秘主義と関連している c.西暦 1 年から西暦 200 年まで、c に続きます。

西暦 1000 年、難解なマカバ ヘカロット文献におけるマカバの神秘的な昇天の説明

 

 

= ラビの解説 =

初期のラビのマカバ注釈は、天における神の預言的なビジョンと、神を取り囲む天使、軍隊、天上の生き物の神聖な従者についての釈義的な説明でした。あるラビの賢者が次のように述べているように、最も初期の証拠は、マカバのホメレティズムが上昇体験を生み出さなかったことを示唆しています。

「多くの人は、マカバを見ずに詳細に説明します。タルムードにおけるマカバに関する言及の 1 つは、次の一節の重要性を示しています」 。」とラヴァス(有名なタルムードの賢者)は主張する。

聖人ラビ・ヨチャナン・ベン・ザッカイ(西暦80年没)とその後のラビ・アキヴァ(西暦135年没)は、マカバ釈義に深く関与しました。ラビ・アキバと彼の同時代のラビ・イシュマエル・ベン・エリシャは、後のマカバ登頂文学の主人公となることが多い。

 

 

=勉強の禁止=

マカバ投機に対するタルムードの禁止事項は数多く、広範囲に及んでいる。マカバに​​ついての議論は、最も賢明な賢人のみに限定されており、マカバに関する過度の憶測の危険性についての警告的な言い伝えが残っています。 たとえば、「自分にとって難しすぎることや、自分の力の及ばないことを求めてはなりません。それは定められているので、敬意を持って考えてください。」という秘密の教義は公の場で議論されることはありません。

何が秘密にされているかを自分の目で見る必要はありません。 「それは模範的な学者によってのみ研究されなければなりません。 「自分で理解できるほど賢くない限り、2人前にマーセ・ベレシットを説明したり、1人前にマーセ・メルカバを説明したりしないでください。」

これまで行われてきたように、マーセ・メルカバーの章の見出しを教えることができると述べられています。

ヤーさん曰く、ハギガU。 1. 教師は章の見出しを読み、教師の承認を得て、生徒は章の最後まで読みました。しかし、ラビ・ゼラは、章の見出しさえも、理解できる人にしか理解できないかもしれない、と語った。

ラビ・アンミによれば、秘密の教義はイザヤ書 3 3 節に挙げられている 5 つの特質を備えています (適切な判断力を必要とする 5 つの異なる職業のいずれかを経験している)。もちろん一定の年齢が必要です。

R・ヨハナンがマーセ・マカバへの入門を要求したとき、R・エリーザーは「私はまだ十分な年齢ではない」と答えた。 חשמל (エゼキエル 1:4) の意味を認識した少年は火で焼かれました (ハギガ 13b)。また、これらの主題に関する無許可の議論に伴う危険性もしばしば説明されています (Hagiga ii. 1; Shab 80b)

 

 

= ユダヤ人の発展 =

ラビのコミュニティを超えて、ユダヤ人の黙示録学者もまた、ラビの内容と非常によく似た、神の領域と神の創造物についての素晴らしい釈義に従事しました。クムランで発掘されたいくつかの文書は、死海のコミュニティもマカバ釈義に参加していたことを示しています。

最近発見されたユダヤ教の神秘的な文書も、ラビのマカバの説教との深い親和性を証明しています。 マカバの説教は最終的に、しばしば天使によって守られ、火と稲妻に囲まれた複数の天国 (通常は 7 つの天国) の詳細な説明で構成されていました。最高の天には7つの宮殿(ヘクハロート)があり、最も奥の宮殿には玉座に座る最高位の神の像(神の栄光または天使の像)があり、神を賛美する素晴らしい群衆に囲まれています。

これらのイメージは、個人の上昇(ほとんどのテキストでは逆説的に「降下」と呼ばれていますが、ジョーディ・メルカバの「戦車の子孫」で、おそらく内向きの瞑想を描いている)を説明するために使用されますが、実際の神秘的な経験のモチーフと組み合わせた場合、正確には知られていません。

現代のユダヤ神秘主義の歴史家は、通常、この発展を紀元 3 世紀に遡ると推論します。繰り返しになりますが、歴史家は、これらの台頭と統一のテーマが外国の、通常はグノーシス主義の影響によるものなのか、それともラビ的ユダヤ教内の宗教力学の自然な発展によるものなのかについて懐疑的です。

 

 

= マアセ・メルカバー =

メルス・メルカバー(戦車作品)は、学者ゲルショム・ショーレムによって発見されたヘカロット文書に与えられた現代の名前です。マーセ・メルカバーは、物理的なカルトが機能しなくなった西暦 70 年の第 2 神殿の破壊に続く、第 2 神殿時代の終わり後のヘレニズム時代後期に遡ります。

天上のヘハルへの旅をするというアイデアは、今では不可能になった地上のヘハルへの巡礼を一種の精神化したものであるように思われる。これは、カバラ以前のユダヤ神秘主義の一形態であり、神への崇高な旅の可能性と、神の力を地上にもたらす人間の能力の両方を教えています。それは、死海文書やいくつかの終末論的な著作にすでに明らかな教会の神秘主義から生まれた難解な運動だったようです(レイチェル・エリオルによる研究を参照)。それはユダヤ神秘主義のいくつかの運動の焦点となり、その後はカバラの学生たちによって注目されました。

彼らは、エゼキエル書の一節の隠喩的言語であると彼らが主張したもので、これらのエゼキエル書の一節の創造の根底にある意味と秘密を探りました。 律法学者の中には、これらの文書を文字通りの神の姿の説明として誤解すると冒涜と偶像崇拝につながるのではないかという懸念から、適切な導入なしにこの主題を研究することを大きな反対に遭って、思いとどまった人もいました。

ユダヤ人の聖書注釈は、マカバのイメージは文字通りに解釈されるべきものではないと強調しています。むしろ、戦車とそれに随伴する天使は、神が世界に現されるさまざまな方法のアナロジーです。

ハシディズム哲学とカバラは、このビジョンのそれぞれの側面がこの世界で何を表しているのか、そしてそのビジョンが神がこれらの形で構成されていることをどのように示唆していないのかについて議論します。

ユダヤ人は毎年シャブオットの祝日にシナゴーグでマカバに関する聖句を読むのが通例であり、伝統的なユダヤ教の典礼のいくつかの場所でもマカバについて言及されています。

 

 

= ヘクハロット文学 =

ヘカロット文学の主な関心事は、神の幻視、神秘的な昇天と神会議の遵守、大天使の召喚と制御であり、通常は法についての洞察を得ることが目的です。

これらの実践の古典的な記録は、エゼキエルの戦車の幻とイザヤの神殿の幻に関する聖書の記述です(第6章)。ヘチャロット文学はこれらから、そして天国の訪問に関する多くの非正典的な黙示録的な著作から生まれています。それでも、それはいくつかの理由でクムラン文学や終末論的著作の両方とは異なります。

主な理由は、ヘクハロット文学が終末論に関心を持たず、神権の独特の地位をほとんど無視しているためです。そして堕天使や悪魔学にはほとんど興味がありません。それは神聖なアセンションの可能性を「民主化」します。

彼らのビジョンの中で、これらの神秘家たちは天上の領域に入り、神秘的なアセンションの 7 つの段階、つまり 7 つの天と 7 つの玉座を旅します。そのような旅には大きな危険が伴います。熟達者は慎重な浄化の準備をしているだけでなく、激しい天使の警備を乗り越えるために必要な適切な呪文、印章、天使の名前を知っていなければなりません。

宮殿の内外でさまざまな勢力が働いている。 この昇天は、賛美歌の朗読と、ヘカロットの文献に豊富にある神の秘密の名前の神学的使用によって達成されます。

ヘカロット・ズタルティは、神の秘密の名前とその力に特に関心を持っています。.בשובר ירברב סגי בדסיקין מרא סחטי בר סאיי לביםこれはモーセが海を分けた時に、水を高い壁に変えた神の偉大な御名です。

時々、天の対話者が神の秘密を明らかにすることがあります。一部の文書では、神秘家の関心は天上の音楽や典礼にまで及び、通常はイザヤ書 6:3 で言及されている天使の崇拝に関連しています。

これらの作品の多くに記録されている典礼マントラの繰り返しの性質は、さらなる昇天を促すことを意図しているようです。登山の最終目標はテキストによって異なります。場合によっては、それは「見よ、美の王」という神の幻想的な垣間見えるようです。他の人は、熟練者が神の天使の従者の中に受け入れられ、名誉の座を与えられる「即位」についてほのめかしています。実際、ある文書では、成功した巡礼者が神の「膝」の上に座っている様子が描かれています。

ピーター・シェイファーやエリオット・ウルフソンなどの学者は、この種の画像にエロティックな神学が暗示されていると見てきましたが、性的モチーフは、非常に弱められた形ではあるものの、文献全体に見られますが、ほぼ無いと言わざるを得ません。

全部または一部が生き残っているヘカロットの伝統に関連する文学作品には、ヘカロット・ラバティ(またはピルケイ・ヘカロット)、ヘカロット・ズタルティ、第三のエノク(「ヘブライ・エノク」としても知られる)、およびマルセ・メルカバが含まれます。さらに、このジャンルに属すると思われる小さな断片的な写本が多数存在しますが、それらの正確な関係や相互の関係は不明瞭なことが多いです (Dennis, 2007, 199120)

 

= キーテキスト =

アセンションの文書は 4 つの主要な著作で現存しており、すべて編集されたのは 3 番目の著作よりかなり後ですが、間違いなく 9 世紀以前に編集されました。

ヘクハロット・ズタルテイ (The Lesser Palaces)はラビ・アキヴァの昇天について語っています。

ヘカロット・ラバティ(「大宮殿」)はラビ・イシュマエルの登頂を詳述しています。

Maaseh Merkabah (「戦車の仕事」)は登山中に聞かれた賛美歌のコレクションです。

セフェル・ヘチャロット(「宮殿の書」は第3 エノクとしても知られる)は、聖書の登場人物エノクがラビ・イシュマエルによって聖なる大天使メタトロンに昇天し神聖に変容することについて語っています。

5 番目の著作では、創造主についての詳細な説明が提供されます。上昇の頂点で「下降者」によって見られます。この著作はさまざまな形で保存されており、Shi'ur Qomah(「身体の測定」)と呼ばれ、ラビ・アキヴァが崇拝したとされる書物である雅歌の神秘的な釈義である。この作品の文字通りのメッセージは、神の非実体性を主張する人々にとって不快なものでした。

イモニデス(1204年没)は、これらの本の存在に関する言及はすべて削除されるべきだと書きました。

創造の問題はマカバ神秘主義全体を通じて最重要ではありませんでしたが、論文「Sefer Yetzirah」(「創造の書」)は、マカバ環境内から試みられた宇宙論を提示しています。

この文書はおそらく 7 世紀に書かれたもので、証拠は新プラトン主義、ピタゴラス主義、ストア派の影響を示唆しています。それは、神がヘブライ語のアルファベットの22文字と10の数字、またはセフィロトで表される輝きを組み合わせて宇宙を創造したという言語創造理論を特徴としています。

6 つの方向」など、セフェル イェツィラーに見られる特定の重要な概念はタルムードで言及されており、本のタイトルにも言及されていますが、学者は現在伝わるバージョンのセフェル イェツィラーが次のように結論付けているわけではないと考えています。

今日紹介するのは、タルムードが参照しているのと同じ本です。

 

= ヘクハロット文学と『四人の入力されたパルデス =

=マイモニデス氏の説明=

マイモニデスの 12 世紀の哲学的著作『困惑した人のためのガイド』は、マーセ ベレシットとマーセ メルカバーの一節を説明することを部分的に目的としています。

3 巻では、マイモニデスはメルカバーの聖句に見られる神秘的な教義の説明を開始し、暗示から直接的な導きに至るこの「一線を越える」ことを正当化します。マイモニデスは、球体、要素、知性を指す聖書の用語を通して、基本的な神秘概念を説明します。ただし、これらの章には直接的な説明がまだほとんどありません。

「一人の生徒の前でもメルス・メルカバについて話してはなりません。その生徒が賢明で知的な人でない限り、彼には章の見出しだけが与えられます。」とあります。

生徒の能力に応じてこれらの科目を教えることから始めなければなりません。

条件は2つあります。第一に、彼は賢い、つまり予備学習を無事に完了しており、第二に、彼は知性があるということです。彼らは才能が​​あり、聡明で、機転が利き、賢者の言葉を借りれば「自分の考えを持っている」のです。

 

 

= カバラの4つの世界 =

= ハシディズムの説明 =

ハシディズムの思想は、人間の心理学の観点からカバラを説明します。これを通じて、マカバは人間、生態系、世界の性質についての洞察を提供し、自己洗練を教える多層的なアナロジーになります。

4 人のハヨット天使は、神が世界の現在の性質を創造するために使用した基本的な原型を表しています。

「方法」を意味するオファニムは、これらの原型を組み合わせて、世界に存在する実際の実体を作成する方法です。たとえば、世界の基本要素では、ライオンは火、牛は土、人は水、鷲は空気を表します。しかし実際には、世界のあらゆるものは 4 つすべての組み合わせであり、それぞれの物に存在する各要素の特定の組み合わせが、その特定のオファニムすなわち方法です。

エゼキエルの幻視における「玉座の男」は、世界で起こるすべてを制御する神が、神が設定したすべての原型とどのように相互作用するかを説明的に表現したものです。しかし、4人の天使が翼を合わせたとき、「玉座の男」は動き始めます。これは、4つの要素すべてを別個の独立した実体として見ることによって神が私たちに明らかにされるわけではないことを意味します。しかし、地、風、火、水と互いに対立するものがこの世界でどのようにして互いに協力し、完全に調和して共存できる高次のものです。それは力(神)が存在することを示しています。

これらの要素にどのように動作するかを神は指示します。 このレッスンは、動物の 4 つの基本的なグループと 4 つの基本的な哲学と性格が行間から読み取れること、そしてこれらの対立する力がどのように調和して相互作用することができるのか、また実際にどのように相互作用するのかを教えてくれます。

それは、私たちがどのようにして他者と対話できるかを理解できるようになったときに、より高次の神聖な情報源を明らかにする方法を説明するために引き継がれます。

人はマカバのようになるように努めるべきです。つまり、自分(天使)が持っているさまざまな資質、才能、傾向をすべて認識している必要があります。

これらは矛盾しているように思えるかもしれませんが、神の意志を行うなどと自分の人生をより高い目標に向けているとき、その人(椅子に座って戦車を運転している人)には自分の魂の回路が見えます。

すべてがどのように連携し、さらには相互に補完し合うかがわかります。

結局のところ、世界中のすべての力は、たとえ対立しているように見えても、より高い目的を達成するためにすべてを使用する方法を知っていれば、どのようにして団結することができるのか、自分たちに何ができるかを理解するようになります。それは換言すると、神に仕えることを意味します。

キリスト教

ティモ・エスコーラによれば、初期のキリスト教の神学と言説はユダヤ人のマカバの伝統の影響を受けていました。同様に、アラン・シーガルとダニエル・ボヤーリンは、使徒パウロの回心体験と昇天の記述を使用しています(コリント第二章)。

これは、私たちが知る限り最も初期の一人称の記述であると考えられています。ティモシー・チャーチルは、ダマスカスでのパウロの路上での出会い(例:使徒行伝 9:1-9) マカバのパターンには当てはまりませんが、この経験はパウロの手紙には記述されておらず、使徒言行録は一人称で書かれているとは主張していません。

キリスト教では、人間、ライオン、牛、ワシは 4 人の伝道者 のシンボルとして使用され、教会の装飾にもよく登場します。これらの生き物はゾー (またはテトラモルフ) と呼ばれ、24 人の長老と 7 人の神の霊で天の神の玉座を囲んでいます (黙示録4:1-11)。

翻訳によっては、エゼキエル書を子供たちに読み聞かさるにあたって、「興奮するもの」にしないように警告しているものもあります。

 

 

大衆文化において

マテウス・メリアンMatthäus Merian der Ältereの「Icones Biblicae」にあるケルビムとオファニムOfanim座天使(燃え盛る車輪の姿) を描いたイラストは、2009 年の映画「ノウイング」で使用されました。

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リチャード・ジムラーによる2019年の小説『ラザロの福音』では、イエス(イェシュア・ベン・ジョセフ)はマカバの神秘家でありヒーラーとして特徴付けられています。

『真・女神転生IV』ではジョナサンが四大天使と合体し、神の戦車としてマカバーを召喚します。

ビデオゲームのゼノサーガ シリーズでは、プロト メルカバーはヨアヒム ミズラヒによって開発された大型宇宙ステーションの名前です。

 

 

= 宗教、哲学、神秘主義 =

マーセ・ブレイシットとマーセ・メルカバー 王位継承者 ケルビム エリヤの火の戦車 ユダヤ人の天使階層 村樺 実践的なカバラ クアドリガ ヴィマナ マンダ教 グノーシス主

 

 

= 古代宇宙飛行士の理論 =

神々の戦車? エゼキエルの宇宙船

 

 

= サイエンスフィクション =

コンタクト(映画) Knowing (映画) (マテウス・メリアンの「Chariot Vision) プロジェクトUFO (テレビ)

 

 

=その他=

エゼキエル飛行船 「エゼキエルは車輪を見た」(幻に基づく民謡) メルカバはイスラエル国防軍の主力戦車であり、「戦車」を意味するヘブライ語のより文字通りの解釈にちなんで名付けられました。

 

 

情報源

ユダヤ百科事典。ニューヨーク:ファンク&ワグナルズ。

「マカバ」 (JewishEncyclopedia.com) ケーラー、カウフマン。

ショーレム、ガーショム G. ユダヤ人のグノーシス主義、マカバー神秘主義、およびタルムードの伝統

デニス、ジェフリー。ユダヤ神話、魔術、神秘主義百科事典 (ウェリン ワールドワイド、2007)

デニス、ジェフリー、「初期ユダヤ神秘主義における意識変化の媒体としての水」、意識の人類学 Vol. 19No.1(2008)

ジェイコブス、ジョセフ、A. ヴィラム・マーセ・ベレシット。マアセ・メルカバー (JewishEncyclopedia.com) カー、ドン。英語でのマッカーバー神秘主義とヘカロット文学の研究に関するメモ

ショーレム、ガーショム。カバラの起源、ISBN 0-691-02047-7

エリオル、レイチェル、『The Three Temples』、ISBN 978-1-904113-33-1