コラム
仏教における2段階の思考
知識の正体
循環器系器官と消化器系器官の働き 内胚葉と中胚葉
サングラスの男
誤訳が必要な理由
誤訳がない世界
誤訳が起こる理由
意識が高い 表層意識を使う頻度が高い
コラム
仏教における2段階の思考
仏教では思考には2つの段階があります。
vitakka尋という粗い波動の揺れを認識するレベルと
vicāra伺という細かい波動の幅と頻度を認識するレベルがあります。
vitakka尋 思考。心に対象を乗せること。
知覚する対象を、全体の中のでどこにマッピングするかを決めるはたらきのこと。
理解しようとする時に、そこに論理構造logical systemがある。
たとえば洗濯物をしまう時に、どの部屋のどのタンスのどの引き出しのどの辺りにしまうというように、何かを理解する時には自分の頭の中にある部屋の特定の場所にそれを区分して整理している。
これをしないと認識することもできないし、この区分を覚えていないと、「その理解」をすぐに忘れてしまう。
この片付けや整理を大体的にしたものが、論理である。
想saññāに依存して判断するのではなく、この論理構造を基準にして思考すると理性の持ち主になる。
このように認識する時に心におきる論理性がvitakkaである。
vicāra伺 思惟。知覚する対象を明確に細かに考える働き。
瞑想する場合は、対象(呼吸など)に何度も繰返して強引に意識を乗せる(念じる)のがvitakka
やがて無理をしなくても瞑想対象を認識をし続けるようになると明確な認識が起こるようになるとvicāraが発達したということが自覚できる。
瞑想以外では、この二つの差異を理解することはできない。
あえて区別すると、言葉で考えるのがvitakka、言葉に頼らず判断するのをvicāra。
鐘の音がvitakka、音の拡がり方がvicāra
鳥が翼を羽ばたかせて空に昇るのがvitakka、そのまま翼をひろげて飛ぶのがvicāra
雑念を箒で払うのがvitakka、対象をキープしてそれに寄り添うのがvicāra。
対象を乗せるのがvitakka、乗せ方がvicāra
ここまで分析する理由は、瞑想実践とは言語を使って激しく行うことで成り立つもので、それによって、微細エネルギーを含めた世界における心理状態(境地)を説明することが覚りの1つの目的であるため。
瞑想実践では、言語の使い方が日常生活とは違い、言語を使っているが、考えてはいない。
すなわち思考パターンによって影響を受けていない。
言葉で考えて理解する思考、推測、妄想の次元から離脱して、対象をより微細なレベルで直接に認識するのが、瞑想の一つの目的なので、単純な言語を使用して、対象を認識し続けることを利用する。
これができるようになると、サマーディをつくることが可能になる。
またサマーディには第1禅定の尋伺(じんし)を使うものや第3禅定の尋伺に頼らないものや、第5禅定以後のように対象がgatiやdhammāやnāma gottaになるものがある。
ちなみに、仏教の解脱とは対象の微細さには関係せず、尋伺があったままでも、ヴィパッサナー瞑想で涅槃nibbānaに至るとされている。
知識の正体
6感覚器官による認識プロセスでは、基盤となる「一般化の元型」がある。
この元型ことを、世間では、いわゆる知識と呼ぶ。
この元型を、仏教では「想saññā」と呼び、これを基準にすることで、苦しみが生まれてくる、と説く。
その複数の想saññāの塊が「定義」なのだから、定義すればするほど苦しみが増えてしまうので、これらを減らしていくことで、最後には脳による「決めつけ」がなるなることで、苦しみがなくなり、阿羅漢に至ると考えている。
この想saññāが解体していく過程をpaññāといい、理性の限界を知り、エネルギーの有るものと無いものを分別し、次に、エネルギーのないものから変化しないものを分別する機能、すなわち「智慧」と呼ばれる。
「比較」は仏教ではマーナmâna (慢)と呼ばれるマインド機能の一つで、特徴は、「私」という概念を基準に、他と比べたり計ったりする機能のことで、この比べることで欲が生まれると考えられている。
比較する時に「私」という概念がつくり出されるので、逆に言うと、「私」という思いが生じると同時に、すぐ他人と比較したり計ったりすることになる。
渇望(lobha、貪)と共に生じるので、上座部仏教のでは心所(メンタル要素)の不善の貪のグループに分類されている。
マーナmâna(慢)は、自分のことが好きで、自分の立場を守りたい無意識の行為なので、他と比べなくても自分にできることをすればいいし、できなければやめればいい、というのが仏教の比べることについての考え方である。
マーナmâna(慢)には、自分が他人より上だと考える、自分が他人と同等と考える、自分が他人より劣っていると考える、と三つのタイプがある。
あまり気が付かないのは「自分はダメだ」と思うことも慢の一つのタイプであるということ。
これも結局は「私」という概念から発生するので、あらゆる苦しみはすべて慢(マーナ)から出てくると言うこともできる。
参考エッセイ 「五蘊の「想」サンニャ」 からの引用
saññâ(サンニャー):想 ⇒六処(眼耳鼻舌身意)で触れた情報を区別する働き
対象を認識する場合、その対象を他のものと区別するために、心の中にはちょっとしたはたらきが生まれます。それがサンニャー(想)です。たとえば色形が目に触れると、目がそれを感じた瞬間に、言葉であれこれと考える以前に、心はサッと区別しています。
区別するはたらきがないと認識はできません。認識するということは区別をするということです。生きているということは認識するということだから、生命にとってサンニャーはとても大事なはたらきです。
とてもよく似たもの、たとえば同じ種類の鉛筆を二本見せられると、私たちはなかなか区別することができません。
それでも「後で区別できるように、よく覚えておいてください」と言われたならば、どこかに違いはないか、なんとか区別できるところを探そうとします。それはサンニャーをはたらかせているのです。自分の頭に入れたサンニャーを使って区別するのです。
私たちは、興味のある対象にサンニャーをつくります。たとえば誰かと話をしている時でも、耳には相手の話し声以外のたくさんの音も入ってきていますが、そういう関係ない音は無視しています。つまりサンニャーが生まれていないのですね。サンニャーが生まれない音は聞こえません。
サンニャーは訓練によって鋭く強くすることもできます。勉強ができる人は、色々工夫してサンニャーのはたらきを力強くしているのです。学校で授業を受けるだけでなく、自分でもそれについて考えて疑問や反論をつくったりすると、サンニャーがたくさん生まれてしっかり理解できます。
私たちの心はいつでも新しいサンニャーををつくり続けています。誰かを見るときでも、見るたびに新しい人を見ているはずなのです。感覚器官には、全く同一のものが触れることは決してありません。
対象も感覚器官もどんどん変化して流れ続けているのです。同じ人を二度見るということはないし、同じ音を二回聞くこともないのです。すべて一回きりです。たとえば昨日誰かに言われたことを、百回以上も繰り返して思い出しているとしても、思い出す度に心に触れることは違っているのです。けれども似ているものを二度、三度と認識すると、「同じものだ」と錯覚するのです。「妄想概念」といわれる認識概念がはたらいて、勝手に概念をつくってしまうのです。
概念、知識、記憶などはすべてサンニャーの塊です。私たちが「私がいる」「魂がある」などと錯覚する原因となっているいちばんの元凶はヴェーダナー(受)という感受作用ですが、このサンニャーもかなり錯覚の原因になっています。私たちは概念や知識、記憶などによって「私がいる」と思うのです。
たとえば『名前』という知識があります。自分が生まれてから今までずっと同じ名前だから、同じ人間だと思ってしまうのです。それも完全な妄想で、ただのサンニャーの塊に「自分」だとアイデンティティーをつくっているのです。サンニャーによって、無常が見えなくなってしまうのですね。赤ちゃんの時の自分と現在の自分を冷静に見ると、同じなのは名前だけで、身体も、考え方も、好き嫌いも、全く違うのです。漠然と「変わらない何か」があるように錯覚しているだけです。
瞬間瞬間、色々なサンニャーが生まれては消え生まれては消え、流れ続けていきます。そこには「何か変わらぬもの」「私」「魂」などはありません。
ただ止まることなく生滅をくり返し、流れていくサンニャーという心のはたらきがあるだけです。
循環器系器官と消化器系器官の働き 内胚葉と中胚葉
神経管以外の器官 内胚葉と中胚葉と外胚葉の変化
受精卵が成長する時に
内胚葉は消化系器官に、外胚葉は神経管に発達していく。
外胚葉が分化して成長を続け、ある時点で、表面が内に落ち込んで凹みができ、神経管は同系器官(脊髄・脳幹・脳)のカタチを顕していく。
この凹みがだんだんと神経管に進化し、ヒトの場合は脳となり、ここから意識が発生する。
これはちょうど、眼球のようなもので、凹みから外を覗くことで「内と外との繋がり」が「わたし」と「現象(外の世界)」に分化(意識化)されることで、脳と五感器官によってはじめて認識されることが可能になるのだが、
実際のありのままの状態を観ることができるとすると、「つながり」は初めから最後まであり続け、気がついてみると「つながり」は分断されていない。
凹みである自己意識から外側は見えても内側は見ることはできない。
五感器官と脳とは違う、他の方法を使わなければ内側を観ることができない。
ありのままの姿とは「つながっている」状態なので、ここを基準点にして自分の感覚や行いを始めるのが仏教である。
しかし外胚葉の神経管を使っている限りはその構造の限界から、ありのままの状態を認識できないので、
中胚葉の循環器系器官や内胚葉のは消化系器官を使って、認識しようとするのが仏教の提案である。
サングラスの男
海岸の絶壁の崖に沿ってサングラスをかけて歩いている年老いた男がいるとする。
足元はゴロゴロしたや深い窪みがあちこちにあって、男の足元はぎこちない。
この男に、今いる状態が「aniccā」であると伝えたとしよう。
このAniccāという分けのわからない言葉をどう解釈して、翻訳するのかは、その人のアプローチによって決まる。
人工衛星の視点は、周囲の環境を大局から見て、まとめて表現する。
精度の高い望遠鏡を使ってこの男の周囲を拡大して、崖の下から吹き上がる風と波が絶えず変化し続けているのを観察している。
男は空を見上げながらサングラスを一瞬だけ外して、雲の動きに「無常」を感じ、この深淵なる宇宙に感動し、またサングラスをかける。
自分の足元がどのような状態になっているのかを見ることもなく。
波しぶきと押し上げる風に羽先をのせる鷹の境地のようになって、この自然の無常をaniccāと理解しているのであろうか?
それに対して、導師の視点は、男が見たいように見るにも老いた生命には時間もパワーも限度があるぞ、まずはサングラスを外して、足元をみろ、と男が自らが行動を直ちに始められるように促すことだけがメッセージの目的である。
男の命を救うには本人が気がついて行動を始める他には何一つできないからである。
導師の象徴である釈尊でさえ、男を救うことはできず、できることは男に「道」を示し、その後は本人が「道」を自分の足で歩いていくしかないからである。
サングラスをかけているから自分の見たくないものは見ないようにして、脳のなかでは見たいもののイメージで作成されたアスファルト舗装道路を歩いているので、自分の見たいようにこの世を見て満足しているが、石や窪みで転び続け、サングラスの外し方もわからず、前にも後ろにも進めない自分の置かれている実情の恐ろしさをこの男はaniccāと理解するのか?
同じ単語であっても、同じ状況であっても、視点によって解釈は変わってくる。
大局をわりやすくまとめて語っているのか、それとも、本人の行動を直ちに促すものなのかは、翻訳者の立っているポジション、現状の恐ろしさを理解する逼迫感、サングラスの男との親密度合いの関係性、そして自分の身につまされる心境と本人の慈愛の深さにかかっている。
誤訳が必要な理由
誤訳の必然 オリジナルは誤訳されるために存在している? わかりやすさ(分かり易さ)の弊害
暗闇に光を当てて、「かりやすくする」ことが大義だった20世紀。
ヨーロッパ近世からの流れである。
この「わかりやすい」というパンドラの匣を開けて恩恵を得るのは大衆よりも一部のエリートの特権だった。
当時のエリートは「全体性」の中にいた(時もあったという意味)ので、その役割、そのための犠牲、そして誇りを持って社会の中で暮らしていた。
しかしそのようなエリートである学者、医者、官僚、利権者たちが全体性と乖離して自意識が過剰になり、他者に認められたくて大声を出し、この世を荒らし始めて久しい。
昔はエネルギーの集中する事柄については内容はわからなくてもよかった。
内容がわかると悪用される恐れもあるからだ。
解釈から逃れるために表面的なカタチだけをあえて訳することもあった。
だれもが正しい作り方や使い方を知る必要はなかった。
原子力爆弾のように、ヒトの集中力のように。
これが誤訳を必要とした理由の一つである。
だがパンドラの匣が開けられてから久しい。
モバイルがあればだれでも原子力爆弾や水素爆弾の作り方を検索できる時代である。
そしてその影響は一部のエリートだけではなく一般の我々にも広まった。
パンドラの匣が開けられたのならば、その奥底にあるもの、そして「わかりやすさ」の限界とデメリット。
そして、TPOに応じて蓋を閉じる方法をも学ぶのも今世紀の仕事ではなかろうか。
科学するのは物質だけではない。カタチのないマインドも科学の対象である。
そしてこのマインドこそが原子力爆弾を作り出したように、厄介なものであり、尊いものであり、実際にはエネルギーの塊であるので、扱い方については慎重でなければならない。
たとえば仏教では「全てが繋がっていること」を説いているのだが、その先の「自立」の事実を教えないと、いろいろと悪用できてしまうのだ。
このような状態の時にどのように振る舞えばよいのか?
いくつかの可能性がある。
1間違ったマニュアルを権威として維持するアプローチ。
一時は安定する体制だが、反発も起こる。
2間違ったマニュアルをそのまま各自が試すアプローチ。
権威に依存することも、危ないエネルギーの集中を扱う必要もないが、そのうちに正誤は明らかにされる。
3間違いを訂正し、だれでも事実にアクセスできてしまうので、扱い方に慎重なメソッドを添えるアプローチ。
各自の自由ではあるが、危険なエネルギーを管理するには不十分。
4間違いを訂正し、師によって許可を得た一部の資格者だけが実践するアプローチ。
それぞれにメリットとデメリットが有る。
どちらの立場にも立てるのが21世紀の時空である。
他にもアプローチはいろいろとあるだろうが、私は4番めが良いかと今のところは思う。
例えば自転車から自動車へと乗り物が変わると、エネルギーの量が急激に多くなるので、便利になる分だけ事故を起こした時には被害が大きくなるようになった。そこで扱う能力がある者だけに免許を配布するという制度である。
確かに現状の制度では無免許でも運転は可能で、免許を持たない者が運転をしている例もあるが、パーセンテージで全体を見ると多分95%以上の人が免許を得て運転をしている実情がある。
この4番目でいいと賛同いただけるのならば、これまでの誤訳を指摘し、訂正し、実践するという大きな仕事が眼の前にある。
後に詳細を述べるが、「道」の世界に学者が関わることで誤訳が増え続ける。それはどんな徳のある仏教研究者であってもこのようなことが起こっている。
鈴木大拙氏や中村元氏のような方々もこれまでの仏教用語を使って、仏教を解釈してきた。
たとえば、如来と「タターガタ」(tathāgata)を同一視する間違いでは、私自身の救済には大きな影響はないが、
「貪瞋痴」を除去する方法が違っていたり、「三相」を誤解して解釈しているのならば、これは大きな問題である。
なぜならば、仏教では貪瞋痴を滅し、三相を体感して理解できると、ニバーナ(涅槃)に至り、阿羅漢になると説かれ、それを目指して教えの実践を毎日しているからである。
このような誤謬が1500年前に伝来してきた始めの時点からあるとすれば、救済という真剣な問題にとって一大事である。
しかしである、阿羅漢になった者だけがこの「三相」を本当に理解できるのだと言われている。出典?
ということは誤訳はあって当たり前、というか誤訳されているのが標準ではないか。
それに、もしかすればその誤訳は正訳の一部である表層なのかも知れない。
そこで、青筋を立てないで誤訳も同時に楽しむのはどうだろう。
阿羅漢にならなければ翻訳の作業はしてはいけないというのも難しい話なので「道」についての誤訳は必然だし、もしかすれば数多い経のなかには釈尊の教えを上手に伝えていないものがあるかも知れない。
誤訳があっても偽経があっても大丈夫なように、こちら側の体験を深くして、この自分の体験を軸にしていれば、教典であっても盲信することも、言語に振り回されることも少なくなるだろう。
誤訳がない世界
生まれたての赤ちゃんから老人になる過程で、同じリンゴを見ても、意味も解釈も変わり続けていく。
同じものに同じ名前でも、それぞれのステージでTPOに合わせた体験があり、解釈があり、意味や役割は変わっている。
体験、そして修行などの訓練により、同じもので同じ名前であっても、その人によって使い方も価値も変わっている。
誤訳を糺す前にすることがある。
それは、そこの唯一のTPOにしかないちゃんと適した誤訳がある、ということを常に認識していることだ。
訳の間違いを指摘するのではなく、それが生まれてきた特有のTPOや意味や理由や背景や時代や地域や宿命をみつける。
だから誤訳は楽しい。
解釈の層の違いも発見できる。
そう、実はオリジナルが誤訳を生み続けている。
オリジナルが真髄であればあるほど、奥の深いものであればあるほど、誤訳の量は増えていくので、オリジナルの評価は誤訳の量と比例する。
そして気がつくと、誤訳しかない世界に埋まってしまって、オリジナルさえも消えてしまっている。
こんな現実を知っている者はオリジナルを自らの手で残そうとしたものは誰ひとりいない。
釈尊しかり、ソクラテスしかり、イエスしかり。
オリジナルと出会えるのは、「各自」の深い体験の中だけで、それも一瞬の「風」との接点でしかないことをはじめから知っているからだ。
誤訳がない世界を想像してみよう。
AIによって間違いは常に修正され、普遍的な訳語が用意された世界を。
TPOは無視され、変化し続けるリアリティは無視され、全てを均一で表すことができると信じ込んでしまっている閉じられた世界を。
全ての意識体は考えることができないようにロボトミー手術を施されるか、宇宙の法則の事実を無視して多層を認めない仮想空間の中でしか存在しないのが、「誤訳がない世界」である。
宇宙の法則と体と物質と生命をないものにして、大脳皮質とAIだけが満足している幻の苦しみの世界だ。
私たちの生きているこの現実のように。
誤訳が起こる理由
常に変化し続けるのでまとめることができない世界の話を、まとめてわかりやすい世界の話にしようとするから誤訳が常に起きるのである。
できないことをしようと無理をしているのだから、当然の結果である。
このような言語化できない深層の世界を言語化している時点で、すなわち、全てがスタートする前に最大の誤訳はすでに終えている。
常に流動し変化している内容(いのち、宇宙、量子、)がカタチ(形式)を持つ「時空の点」こそが誤訳の根源である。
それにヒトの意識(意図、一般化、パターン、思考、分類、認識)が加わると累乗的に誤訳は増え続ける。
変化し続けることを認める世界は変化するがままに対応するしか手段がない。
それに対して「分かりやすい」世界は、変化するものに対応するのを面倒がって、過去に確立したパターンや未来に製作するパターンで認識して対応する。
合理的で利便性が高いとも言えるが、手抜きで愛がなく、ありのままではないとも言える。
この2つはどんな視点の特徴と違いがあるのであろうか?
変化に忠実なアプローチとは眼の前の事実に則することなので、この事実とは物理の、自然の、宇宙のルールに従っているので、必然的に宇宙の法則に寄り添うものになる。
それに対して、「わかりやすくまとめる」アプローチとは事実を「分析して統合」することなので、必然的に大脳のルールに寄り添うことになっていく。
このあたりのことを次章から検証してみる。