学問が効果的なTPO、効果の少ないTPO

因果関係を基準にして現象を認識することのメリットとデメリット

 

 

学問が効果的なTPO

A物理学では

たとえば、手にあるボールを放すと、ボールは地面に向けて落下する。

 

1この現象を学問(ニュートン力学)を知らない者は、ボールがエネルギーを持つと考える。  古典物理学

 

2ニュートン力学を学んだ者は、重力によって生じる現象だと理解し、

 古典科学を迷信だと否定し、ニュートン力学を基準にして物事を考える。

 

相対性理論を学んだ者は、スピードと重力と時空の関連性も考慮に入れ、

 古典科学を迷信だと否定し、ニュートン力学を近似値とし、相対性理論を基準にして物事を考える。

 

3素粒子よりも微細なエネルギーまでをも範疇に入れる場合は、意識がエネルギーを生み、熱が微細な質量(ダークマター)を生むことを考慮して、ボールやその環境の持つエネルギーを計算する。

(宇宙論・多次元論・超弦理論)

 

 

B日常生活では、

たとえば、

精神に異常をきたし、ときに暴れたり、不規則な想定外の行動をしてしまう人がいる場合に、

 

1畑や森や海の共同作業で、本人が何かできることを考えて、共同体の1員として生活をし、

 

2ルール外の反応をしないように、薬物で行動を抑制し、それでも無理な場合は、精神病院に入れて監禁する。

 

3縁起説を適用する場合は、ヒトが作り出す認識の自動反応回路を理解し、アーナパーナ瞑想やヴィパッサナー瞑想などを使って、思考パターンを上書きを試してみる。

 

 

以上のことから、

1から2に移行する場合には、一面の正しさがあるので、学問の正当性が一見するとあるように見えるが、

2すなわち学問の世界を基準にしてしまうと、Aのケースのように、他にも多くの法則があるので、それらの関連性を排除したり、まだ未知の法則を含めないものでしかない。

そしてBのケースのように、変化する「場」に適応した対処策があるにも関わらず、「場」を固定化することで強制的・暴力的・機械的・事務的に抑制する手段をとる、というデメリットや限界も現れる。

 

 

因果関係から事実を決める       思考パターンを軸にすると現れる学問の世界     

学問の基本的な考え方は、対象にスポットライトを当てて、明るい所を次々と分割して、そこに名前をつけて、その後に曖昧なものは除去して、残りの中で関係性を見つけて、それを法則にすることを目指しています。

つまり、シンボル化、分析、定義、法則、未来予測です。

 

しかし、事物を概念で把えるレベルでは、概念と概念を結びつけて因果関係があると思いこんでしまう思考パターンが生じます。   

その因果関係に原因と結果を当てはめて、未来を予測します。

変化し続ける現象に寄り添うのではなく、現象を固定化させて、「因果関係の原因と結果がある」ことからはじめる思考パターンです。

 

したがって、勉強をよくする人は原因と結果を想定するという思考パターンを何度も使うことで、原因と結果という思考パターンが潜在意識に植え付けられます。

 

筋肉と同じで何度も使う箇所は発達し、使わない箇所は退化します。

つまり、この世は「根源と結果」によって成り立っているという、安易な因果関係でこの世界を見るクセがついてしまうのです。

 

たとえば、ドップラー効果で星々が離れていくのを観察して、宇宙の膨張を推定し、次に、それには根源があると推察して、インフレーションとビッグバンを想定して計算をし、それを大学で教えるようになります。

 

この「根源と結果」という思考パターンは潜在意識にセットアップされるので、これを多くの問題にも適用させてしまいます。

 

たとえば、新型コロナに対する対策でも、新型コロナの原因がウイルスだと特定されると、

まずは根源との接触をなくそうと試行します。

それが無理な場合は根源に対する対応策(免疫作用システム、抗体をえるためのワクチン)をとります。

1つの根源が見つかると、条件の重要度に考慮しなくなります。

たとえば、ワクチンを接種をした人が睡眠や運動不足の場合の罹患率と

ワクチン接種をしていない人が充分な睡眠と運動をしている場合の罹患率を比較しようとはしません。

 

これらの対処策は「根源と結果」のパターンによって、生み出されます。

 

また、日本では1年間に120万人の死者がいます。変死体14%、すなわち残りの86%は原因がわかっていると判断していますが、実際には死因の可能性が多すぎてわからなくても、死という結果と矛盾しない1つの因果関係を限定する、という作業を行います。

これも原因(死因)を限定するという思考回路が生み出したものです。

問するとダメになるわけ  因果関係を逆にする考え方    

 

こうしてみると、学問とは、因果関係を使って根源を限定したり、差異を比べて対象を具体化してシステム体系を構築したものであることがわかります。

 

その根源と比較も常に変化されるものですが、それが固定化されるのは頭の中にしかない「思考パターン」です。

それに対して、ありのままの状況に対応するのが「意思」や「体感」です。

もっといい名前があるのでしょうが、今日は思いつかないので、ひとまず「ありのままを見る」「体感」「いま・ここ」「常に変化し続けるもの」と呼ばせてもらいます。

 

体感といっても何も特別なものでも大したものでもなく、何か食べたらそれが自分のエネルギーになって「元」「気」になるのを感じたりして、個別ではなく全体性につながることで、より微細なものによってこの世が成り立っていると体感することです。

 

学問の欠落しているデータ

学問にできないことは、微細領域の体感と数値化、それに関わる情感、本能、言動の判断です。

また、理性で未来を推測ができても、本人と対象の持つ潜在意識にある思考と感情の自動反応回路や、本能の欲求や、や微細領域(計測できていない意識エネルギーやダークマターの領域)を予測計算のデータとして利用していないことで、その未来予測は外れることが多くなります。 

ですから全体性に関わる微細な情動や本能をまだ感知できていない時には、学問のアプローチでは限界があることを自覚して、微細な全体性の理解に近づこうとする知性の力を借りて推論しないと、未来予測と未来結果との差は広がるばかりです。

 

このように法則をベースにして判断すると、自分自身の体や情動、そして魂や精神までもが被害を受けることになります。

具体例?