メッタ瞑想  Mettā Bhāvanā

 

 

メッタの意味は慈愛    ネガティブにチャレンジする瞑想

特徴の1つは、イメージを拡げることで心の自動反応回路を解体する  

自分が嫌いな人や自分を嫌っている人の中に自分を見つける瞑想

suttaの内容  リンク

実践法

 

 

 

コラム

ゴエンカジのエッセイ      ネガティブな時にはメッタ瞑想をしない理由

Pure Dhammaのエッセイ    聖なるメッタ瞑想、  功徳の転化

 

 

 

語源

メッタMettāとは、古代パーリ語で「慈愛」という意味があり、自分自身と他者に対する愛情、寛容、幸福、善意といった感情を意味します。

この慈愛を抱く能力を養う瞑想法がMettā Bhāvanā、すなわちメッタ瞑想です。 

 

メッタは慈悲と翻訳されることもあります。

「慈」は梵語のmaitrī、パーリ語のmetta

「悲」は梵語のkaruā、パーリ語の karunāの中国語訳です。

衆生をいつくしみ、楽を与える慈と、衆生をあわれんで、苦を除く悲です。

しかし、正確にはメッタは慈悲の「慈」、すなわち、他者に楽を与えることを意味します。

 

 

厳しい瞑想

メッタ瞑想はある意味では一番チャレンジが必要で厳しくて難しい瞑想です。

ですからネガティブの感情や思考がある時には、それを一度解除してからチャレンジするのが良いでしょう。

 

 

「みんなが幸福でありますように」と願う瞑想がなぜ難しいものとなるのでしょうか?

初期のレベルのメッタ瞑想は厳しさも難しさもなくチャレンジするものではないように思われます。

自分の感情や思考がネガティブな状態であってもメッタ瞑想することによって、気分がポジティブになったり、心が温かくなる経験をする人もいるでしょう。

それはそれでいいのでしょうが、これについては研究中です。

 

それから先の段階のメッタ瞑想になると注意が必要となります。

 

次に思考だけではなく、実際の言動が伴う状況を仮定してみます。

「みんなが幸福でありますように」という文句は一見とても素晴らしいものですが、これを実際に実行するときには大変なことが次々と起こります。

すなわち、はじめは自分自身の気分がよくなることから始まり、次の段階では自分の愛している人たちを対象にするので、そのポジティブな感情や思考は増加します。

ところが次の段階では「自分が嫌いな人たちの幸福」をも願うことになりますし、

最後の段階では、「自分に敵意をもって害を与えてくる人たちの幸福」をも願うことにチャレンジしなければなりません。

 

ですから、メッタ瞑想を続けていると、ネガティブな感情や思考が必ず出てくるので、そのようなときにも自分のマインドの静穏を保持する練習にチャレンジすることになります。

それがうまくいく時には瞑想を続けるのがいいですが、ネガティブな感情や思考の連鎖が始まるのであれば、メッタ瞑想は中断するのが良いでしょう。

 

 

特徴

ポジティブな感情を自分の中に育むのが「メッタ瞑想」

つまり、瞑想しながら苦手だと感じている人に対して愛情や慈しむ気持ちを育てるトレーニングです。

 

 

嫌いな人

苦手な人へのマイナス感情を減らす「メッタ瞑想」

誰にでも、どうしても「好きになれない人」はいるものです。そんな他人に対するマイナスの感情がマインドフルネス瞑想の役に立ちます。

 

なぜ、嫌いな人のことを考え続けてしまうのか?

「あの人の話し方が嫌い」「自慢する様子が気に障る」「持っているものが妬ましい」など、他人に対してマイナスの感情や思考を抱いてしまうことは誰にでもあり、こうした人間関係の問題は、大きなストレスにつながります。

私たちは過去に起きた出来事と、未来に起こりそうな出来事について考えるのが癖になっているので、そこに強い回路があると、その連鎖に巻き込まれて考え続けてしまう、ということがあります。

 

そして、嫌いな人のことなど別に考えたくもないのに、つい「なぜあんなことを言われたのか」とか「今度会ったとき、どうしよう」などと余計なことばかりを考え続けてしまいます。

そしてやがて「嫌いな人に気を取られている自分」が嫌になり、さらにストレスも増してしまうのです。

 

 

私たちは、過去のさまざまな記憶や経験の蓄積と似た状況になったときに、「好き」や「嫌い」という感情が反射的に生まれます。

これは一般的には「心のクセ」と呼ばれますが、

そのメカニズムは6感覚器官を介した信号を受信する時に3種類のタグが付加されるもので、これを上座部仏教では受蘊 (受=vedanā 感覚)と呼びます。

虫などを含む意識体の認識プロセスにおいて、入力される信号には、近寄りたい、遠ざかりたい、どちらでもない、という3種類のタグがつき、それに「一般化という概念」と自動反応という即時性の機能を取り付けたのが、感情という自動反応回路だからです。

心身が緊張した状態でこのタグの付いた信号の言動を繰り返していると、その回路は強化され、ますます好き・嫌いという気持ちが大きくなっていきます。

たとえば、一度苦手なイメージがついてしまった人に対して、すぐに気持ちを切り替えるのは難しくなります。

 

これは意識体の持つ本能ですが、だからといって解体することができないものではありません。

入力信号には必ずこのタグが付加されるので、それに気付くことで回路の自動反応性を弱体化することができます。気づくことで、もう自動反応でなくなっているので、その回路は急に力が低下します。

 

また、心の静穏を保つことで、回路は弱体化される性質を持っています。

これは意識体が発展する過程で、即時性と効率化を磨くことでサバイバル率が高まる環境が多かったために、自動反応回路を作ることを積極的に選択したからなのかもしれません。

このように自動反応回路のメリットは即時性の反射力ですが、デメリットは自分の意志にかかわらず自動反応回路によって意識体は操作されてしまうことです。

またこの自動反応回路によって時々のTPOに相応しくない言動のアウトプットが出力されるので、これが苦しみの原因となります。

したがって、過剰な自動反応回路を作ってしまっている場合はこれを弱体化したり、消去することが苦しみを減らすこと、すなわち幸福に繋がります。

 

このように作成された信号のタグを変えたいときに、有効なのがメッタ瞑想です。

 

 

 

 

経蔵にあるメッタ瞑想のsutta

 

慈悲の心 メッタの祈り

Mettā saha gataSuttaSN 46.54

Karaniya Metta Sutta

その他の経典も紹介

Mettā Sutta (AN 11.15)

 

 

ポジティブな感情を自分の中に育てる「メッタ」瞑想法

【メッタ瞑想の行い方】

1.姿勢を正して目を閉じ、自分のカラダと自然な呼吸に意識を向けながら瞑想をします。

2.自分が慈しみたい人(ネガティブな感情を抱いている相手)のことをイメージし、それによって起こる自分の体の感覚や感情の変化に注意を向けます。

3.心の静穏が保持できるように、はじめは対象を自分自身、次に愛する人たちと輪を広げていきます。

 

対象に向けて次のフレーズを心の中で唱えます。

・〇〇が幸せでありますように。

・〇〇が健康でありますように。

・〇〇が無事でありますように。

・〇〇が心安らかでありますように。

 

ここまではポジティブな感情や思考なので順調です。

 

そして、次の段階で対象が問題の「嫌いな人たち」へ広げていきます。

 

この時にネガティブな感情や思考が出てきた時には、自分の体の感覚と呼吸に意識のスポットライトを向けることで、心のクセ(ネガティブな想い)ではなく「いま・ここ」に気づき続けることができ、穏やかな心を取り戻すことができます。

 

そのあと、ストレスの原因となっている人の表情や声を思い出すと、胃がきゅっと締めつけられたり、鼓動が速くなったり、汗ばんだり、不安になったり、イライラしたり……さまざまな反応があります。

 

そのうえで、あえてその人に対して優しい言葉をかけてみます。最初は「なんであんな人に!」と腹立たしく感じるかもしれませんが、これはトレーニングなので焦らないのがポイントです。

 

徐々に練習を積み重ねるうち、少しずつ心のありようが変わってくるのが自覚できるでしょう。

相手への感情が穏やかなものへ変わるのを感じられたら、その人に優しくできた自分自身も慈しんであげましょう。

人に優しくする練習を重ねることで、自分に優しくなるのも目的の1つです。

 

もしネガティブな感情や思考が増えるのであれば一度中止するのが良いでしょう。

しかしまだ心の静穏が続くのであれば、

自分が嫌いな人やモノや事柄たちの数を増やしていきます。

 

 

最終段階では対象を自分を嫌っている人たちへも広げていきます。

ポイントはこれまで通り、心の静穏です。

もしネガティブな感情や思考が増えるのであれば一度中止するのが良いでしょう。

 

これは難しく厳しくチャレンジな瞑想法です。

徐々に実践することで、この瞑想法は言葉の概念という儀式ではなく、自分の体の感覚が反応する真のヴィパッサナー瞑想になっていきます。

 

 

 

 

 

コラム

 

「メッタ・バーヴァナーの実践」  ゴエンカジ

 

198612月、インドのダンマ・ギリで開催されたヴィパッサナー瞑想セミナーで発表された論文。

 

メッタ・バーヴァナー(慈愛の瞑想)の実践は、ヴィパッサナー瞑想法の重要な補完であり、実際にはその論理的な結果です。メッタ・バーヴァナーでは、全ての存在に対して慈愛と善意を放ち、穏やかで積極的な愛の波動で周囲の雰囲気を意図的に満たします。ブッダは彼の弟子たちにメッタを育むように指導し、より平和で調和のとれた生活を送り、他者も同様にするように促しました。ヴィパッサナーの学生たちは、私たちが育くんでいる平和と調和を他者と共有する方法として、この指示に従うよう奨励されています。

 

三蔵の注釈によれば、「友好的な態度に傾くものがメッタである」と述べています。これは全ての者の幸福と福祉に対する悪意の痕跡が一切ない誠実な願いです。また、「非敵対心がメッタである」とも述べています。メッタの主要な特徴は慈悲深い態度であり、これは全ての生命との交流を認識することで結実します。

 

この概念を少なくとも知性的に理解することは簡単ですが、この態度を自分自身で育成させることは非常に難しいことです。そのためには実践が必要であり、そのためにメッタ・バーヴァナー、つまり他者に対する善意を体系的に育む方法があります。実際に効果的にするためには、メッタ瞑想はヴィパッサナー瞑想とともに実践されるべきです。

憎しみなどの否定的な感情が心を支配している限り、善意の意識的な思考を形成することは無駄であり、実際には内面の意味を持たない儀式に過ぎません。ただし、ヴィパッサナーの実践によって否定的な感情が取り除かれれ、静穏が育まれると、幸福感が自然に心に湧き上がります。

「自己を軸にした強迫観念(自己優位性)」の牢獄から出ることで、私たちは他者の福利に関心を寄せ始めます。

 

このため、メッタ・バーヴァナーは、ヴィパッサナー・コースの最後にのみ導入され、参加者が浄化のプロセスを経た後に行われます。そのような時に瞑想者たちは他者の幸福を深く望み、メッタの実践が本当に効果的になります。コースでそれに割り当てられる時間は限られていますが、メッタはヴィパッサナーの実践の頂点と見なすことができます。

Nibbānaは、慈悲深さと全ての生命の痛みに共感する心で満たされた者にのみ経験されることができます。

その状態を願うだけでは十分ではなく、自分の心を浄化しなければなりません。そのためにはヴィパッサナー瞑想が必要であり、それがコースの中で重点に置かれる理由です。

 

実践する中で、世界、そして自分自身が瞬間から瞬間へと生じ、過ぎ去っていくという基本的な現実に気づきます。

変化のプロセスは、私たちのコントロールを超えて続いていること、そして私たちの希望に関係なく続いていることを理解します。

徐々に、儚いものや実体のないものへの執着が苦しみを生むことを理解します。

超越的な現象に対して執着せず、一時的な現象に対しても心のバランスを保つことを学びます。

そうすることで本当の幸福が何であるかを経験し始めます。

 

本当の幸福とは欲望の満足や恐れの回避ではなく、欲望と恐れのサイクルからの解放です。

内なる静けさが育まれるにつれて、私たちは他者が苦しみに囚われているのを明確に認識し、「彼らが私たちが見つけたもの、苦しみからの脱出、平和の道を見つけることができるように」と自然に願うようになります。

これがメッタ・バーヴァナーを実践する適切な意志です。

 

メッタは祈りではありませんし、外部の力が助けてくれることを望むものでもありません。それはむしろ、自分自身を助けるために協力的な雰囲気を生み出す動的プロセスです。

メッタは特定の個人に向けられることもあり、全方向に向けられることもあります。

メッタは私たちによって生み出されるものではないということを理解することで、その伝達が真に無私(no-self)のものとなります。 

メッタを行うためには、マインドは静かでバランスが取れ、否定的な感情から解放されていなければなりません。これがヴィパッサナーの実践で育まれるタイプのマインドです。

怒りや反感や悪意が平和を破壊して、他者を助けるための努力を妨害することを瞑想者は経験によって知っています。

 

 

実践する中で、私たちは世界、そして自分たち自身が瞬間から瞬間へと生じ、過ぎ去っていくという基本的な現実に気づきます。変化のプロセスが私たちのコントロールを超えて続いていること、そして私たちの希望に関係なく続いていることを理解します。徐々に、私たちは儚いものや実体のないものへの執着が私たちにとって苦しみを生むことを理解します。私たちは超越的な現象に対して心を離れ、一時的な現象に対しても心のバランスを保つことを学びます。そうすることで本当の幸福が何であるかを経験し始めます。欲望の満足や恐れの回避ではなく、欲望と恐れのサイクルからの解放です。内なる静けさが発展するにつれて、私たちは他者が苦しみに囚われているのを明確に認識し、自然に「彼らが私たちが見つけたもの、苦しみからの脱出、平和の道を見つけることができるように」と願うようになります。これがメッタ・バーヴァナーの実践の適切な意志です。

 

メッタは祈りではなく、外部の力が助けてくれることを望むわけでもありません。それはむしろ、他者が自己を助けるためのサポーティブな雰囲気を生み出す動的なプロセスです。メッタは特定の個人に向けられることもありますし、全方向に向けられることもあります。メッタが私たちによって生み出されていないという認識が、メッタの伝達を本当に無償のものにしています。メッタを行うためには、心は平穏でバランスが取れ、否定的な感情から解放されている必要があります。これはヴィパッサナーの実践で発展する心のタイプです。瞑想者は経験によって知っていますが、怒りや反感、悪意が平和を破壊し、他者を助ける努力を挫折させることを。憎しみが取り除かれ、静穏が育まれると、私たちは幸福になり、他者にも幸福を願うようになります。

「すべての存在が幸福でありますように」という言葉は、純粋な心から発せられる時にのみ大きな力を持ちます。この純粋さが裏打ちされていると、それは確実に他者の幸福を促進するのに役立ちます。

 

したがって、メッタ・バーヴァナーを実践する前には、私たち自身がメッタを伝えるのに本当に適しているかどうかを確認する必要があります。心に少しでも憎しみや反感がある場合は、その時は控えるべきです。そうでなければ、その否定的なエネルギーを他者に伝え、その他者に害を与えることになります。ただし、心と体が平穏で幸福に満ちている場合は、この幸福を他者と共有することが自然で適切です。

「あなたが幸福でありますように。煩悩の原因から解放されますように。すべての存在が平和でありますように」という言葉は、これらの幸福を他者と共有するためには大変な力を持っています。

 

 

 

 

"The Practice of Mettā Bhāvanā in Vipassana Meditation"   by Goenkaji

 

A paper presented at the Seminar on Vipassana Meditation convened at Dhamma Giri, India, in December 1986.

 

The practice of mettā-bhāvanā (meditation of loving-kindness) is an important adjunct to the technique of Vipassana meditation—indeed, its logical outcome. In mettā-bhāvanā, one radiates loving-kindness and good will toward all beings, deliberately charging the atmosphere around with calming, positive vibrations of pure and compassionate love. The Buddha instructed his followers to develop mettā in order to lead more peaceful and harmonious lives, and to help others do so as well. Students of Vipassana are encouraged to follow that instruction because mettā is the way to share with all others the peace and harmony we are developing.

 

The Tipiaka commentaries state: Mijjati siniyhatiti mettā—“That which inclines one to a friendly disposition is mettā.” It is a sincere wish, without a trace of ill will, for the good and welfare of all. Adosoti mettā—“Non-aversion is mettā.” The chief characteristic of mettā is a benevolent attitude. It culminates in the identification of oneself with all beings—recognition of the fellowship of all life.

 

To grasp this concept at least intellectually is easy enough, but it is far harder to develop this attitude in oneself. To do so, some practice is needed, and so we have the technique of mettā-bhāvanā, the systematic cultivation of goodwill toward others. To be really effective, mettā meditation must be practiced along with Vipassana meditation. So long as negativities such as aversion dominate the mind, it is futile to formulate conscious thoughts of goodwill, and doing so would be merely a ritual devoid of inner meaning. However, when negativities are removed by the practice of Vipassana, goodwill naturally wells up in the mind. Emerging from the prison of self-obsession, we begin to concern ourselves with the welfare of others.

 

For this reason, the technique of mettā-bhāvanā is introduced only at the end of a Vipassana course, after the participants have passed through the process of purification. At such a time, meditators often feel a deep wish for the well-being of others, making their practice of mettā truly effective. Though limited time is devoted to it in a course, mettā may be regarded as the culmination of the practice of Vipassana. Nibbāna can be experienced only by those whose minds are filled with loving-kindness and compassion for all beings. Simply wishing for that state is not enough; we must purify our minds to attain it. We do so by Vipassana meditation; hence the emphasis on this technique during a course.

 

As we practice, we become aware that the underlying reality of the world, ourselves included, is a moment-to-moment arising and passing away. We realize that the process of change continues beyond our control and regardless of our wishes. Gradually, we understand that any attachment to what is ephemeral and insubstantial produces suffering for us. We learn to be detached and to keep the balance of our minds in the face of any transient phenomena. Then we begin to experience what real happiness is: not the satisfaction of desire or the forestalling of fear, but rather liberation from the cycle of desire and fear. As inner serenity develops, we clearly see how others are enmeshed in suffering, and naturally, the wish arises, “May they find what we have found: the way out of misery, the path of peace.” This is the proper volition for the practice of mettā-bhāvanā.

 

Mettā is not prayer, nor is it the hope that an outside agency will help. On the contrary, it is a dynamic process producing a supportive atmosphere in which others can act to help themselves. Mettā can be directed toward a particular person or it may be omnidirectional. The realization that mettā is not produced by us makes its transmission truly selfless. In order to conduct mettā, the mind must be calm, balanced, and free from negativity. This is the type of mind developed in the practice of Vipassana. A meditator knows by experience how anger, antipathy, or ill will destroy peace and frustrate any effort to help others. Only as hatred is removed and equanimity developed can we be happy and wish happiness for others. The words “May all beings be happy” have great force only when uttered from a pure mind. Backed by this purity, they will certainly be effective in fostering the happiness of others.

 

We must, therefore, examine ourselves before practicing mettā-bhāvanā to check whether we are really capable of transmitting mettā. If we find even a tinge of hatred or aversion in our minds, we should refrain at that time; otherwise, we would transmit that negativity, causing harm to others. However, if the mind and body are filled with serenity and well-being, it is natural and appropriate to share this happiness with others: “May you be happy; may you be liberated from the defilements that are the causes of suffering. May all beings be peaceful.” This loving attitude enables us to deal far more skillfully with the vicissitudes of life. Suppose, for example, one encounters a person who is acting out of deliberate ill will to harm others. The common response—to react with fear and hatred—is self-centered, does nothing to improve the situation and, in fact, magnifies the negativity. It would be far more helpful to remain calm and balanced, with a feeling of goodwill, especially for the person who is acting wrongly. This must not be merely an intellectual stance, a veneer over unresolved negativity. Mettā works only when it is the spontaneous outflow of a purified mind. The serenity gained in Vipassana meditation naturally gives rise to feelings of mettā, and throughout the day, this will continue to affect us and our environment in a positive way.

 

Thus, Vipassana ultimately has a dual function: to bring us happiness by purifying our minds, and to help us foster the happiness of others by preparing us to practice mettā. What, after all, is the purpose of freeing ourselves from negativity and egotism unless we share these benefits with others? In a retreat, we temporarily cut ourselves off from the world in order to return and share with others what we have gained in solitude. These two aspects of the practice of Vipassana are inseparable.

 

In these times of widespread malaise, economic disparity, and violent unrest, the need for mettā-bhāvanā is greater than ever. If peace and harmony are to reign throughout the world, they must first be established in the minds of all its inhabitants.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ariya Metta Bhāvana (Loving Kindness Meditation)の要約

 

.私たちは皆、始まりのないこの輪廻のサイクル(サムサーラ)で無数の「悪いkammavipāka」を獲得しました。そのような「悪いkammavipāka」の多くを「消耗」させ、最終的にそれらの「カンマの種kamma seed」を取り除いて、種がが結実するのを阻止する非常に簡単なレシピがあります。

 

生き物に何か悪いことをすると、悪い「カンマの種」を手に入れます。

借金を返済することで「無借金」になることができるように、その借金を返済することでなくまります。

問題は、私たちが以前の転生で無数の存在に恩恵を受けていたということです。

 

Mettā saha gataSuttaSN 46.54)および他のsuttasで、ブッダはAriya MettaBhāvanāをすることによって、また私たちがよいことをするとき「すべての存在」に価値を転移することによって、この負債がどのように返済できるか説明しています。

 

ここでは、Ariya MettaBhāvanāに注目します。まず、これが何を意味するのかを明確にするための背景資料。Karaniya Metta Sutta – Metta Bhāvanāも参照してください。

 

標準のMettaBhāvanā(慈愛の瞑想)は、「私とすべての存在が苦しみから解放され、健康で、幸せであり、すべての苦しみから解放されるように」、または同様の(より長い)パッセージになります。

そのようなタイプの瞑想はもちろん良いもので、自身の心を落ち着かせ、他の存在の一般的福利について考えさせます。

 

しかし、Ariya MettaBhāvanāにはもっと深い意味があります。

それは、31の領域を持つ「この世界」の複雑性と、それらの領域内の存在の状態に関する少なくともいくつかの考えで行われます。真の思いやりと愛ある親切を培うために、これらすべての領域で起こりうる苦しみを感じる必要があります。

 

 

最下位の4つの領域(apāyā)の存在は、肉体的にもメンタル的にも想像を絶する苦痛を受けます。

最下位の5つの領域(apāyāと人間の領域)では、生物は病気、身体の痛み、死ぬ前に老化する物理的身体を持っています。

6番目から11番目の領域は、ディーバのものです。彼らは、病気、痛み、痛み、死に近づくまで目に見える老齢の徴候にさらされていない完全に形成された(しかし密度の低い)体で自然に生まれます。しかし、それらはまた、下位5つの領域と同様に5つの物理的感覚すべてを備えており、反発的な触覚、不快/不快な味、匂い、音、視覚にさらされる可能性があります。

ルパロカ(色界)とアルパロカ(無色界)の上位20の領域は、ディーヴァよりも密度が低く、味、匂い、身体の触感に関する身体的感覚の能力がありません。したがって、彼らが抱える苦しみはすべてメンタル的なものであり、下の領域ほど激しいものではありません。

 

しかし、NibbānaSōtapannaの段階に到達しない限り、未来の転生で31の領域のいずれかで苦しんでいない生命はいません。

そして、NibbānaSōtapannaステージを達成するための唯一の方法は、31の領域のこの世界の3つの特性を理解することです:つまりaniccadukkhaanattaの深い実感です

aniccadukkhaanattaの第1レベルの理解は、Sōtapannaステージにつながります。

Sōtapannaの段階に到達すると、最下位の4つの領域から解放されます。これは、Sōtapannaの心が「apāyā」のカミック力を持つ特定のcittaを生成できないことによって起こります。

Nibbānaの次の段階(Sakadāgāmiの段階)に達すると、身体の病気や病気による苦しみが起こりうる下位5つの領域で出生がなくなります。したがって、Sakadāgāmiステージを達成することにより、永続的に「健康」になります。

Anāgāmiの段階では、より多くのakusala cittaを削除します。(Conditions for the Four Stages of Nibbānaを参照)。したがって、人は身体的な苦しみから永久に自由になります。

その後、 Arahantの段階で、すべての汚れが心から取り除かれ、31の領域のいずれかで生まれ変わることはありません。心は本当に自由になり、永久的なniramisa sukhaに到達します。The Three Kinds of Happiness – What is niramisa sukha? 「三種類の幸福-niramisa sukhaとは」を参照。

 

ご覧のとおり、Ariya MettaBhāvanāの構造は従来のものと似ていますが、語句にはより深い意味があります。例えば、今「健康である」と言うことは、永遠に健康であることを意味します。すなわち、病気や老齢になりやすい体で生まれることはありません。

 

これで、Ariya MettaBhāvanāがどのように定式化されるかを見ることができます。

「自分自身とすべての生き物がSōtapannaの段階に到達し、apāyāで永遠に苦しむことのないように」

「自分自身とすべての生き物がSakadāgāmi段階に達し、永遠に健康でありますように」。

「自分自身とすべての生き物がAnāgāmiの段階に到達し、永遠に満足(平和な幸福を達成)できるように。」

「自分自身とすべての生き物が Arahantの段階に到達し、すべての苦しみから解放され、完全なNibbānaの至福を達成できるように」。

 

4つすべてのBrahma vihara (metta, karunā, muditā, upekkhā)は、このAriya MettaBhāvanā で育成されています。

 

重要なのは、使用される特定の語句ではなく、心の中で実感することです。それを行うためには、人間や動物の領域だけでなく、他の多くの領域でも、この世界に本当の苦しみがあることを真に理解する必要があります。

 

 

MettaBhāvanāの影響は、aniccadukkhaanattaの理解が深まるにつれて徐々に増加します。これは、すべての生命体が将来の生活で直面する危険と苦痛を認識するためです。

MettaBhāvanāの可能性は膨大です。釈尊は、MettaBhāvanāを正しく行うことによって、Anāgāmiのステージを達成できると述べました。しかし、それは、aniccadukkhaanattaを理解すること、すなわち、Sōtapannaのステージに到達するか、少なくともSōtapannaのステージへの道を歩むことが前提です。

 

しかし、Sōtapannaの段階に到達する前であっても、この正しいAriya mettabhāvanāを行うことで多くの利益を得ることができます。

毎日座っている瞑想セッションで、Ariya mettabhāvanāとヴィパッサナーbhāvanāaniccadukkhaanatta、その他のダンマdhammaの概念に関する瞑想)を行うのが最善です。

 

最初は、1015分が正式な瞑想に適していますが、niramisa sukhaの恩恵に気づき始めると時間は増え、何時間も瞑想することができます。

もちろん、Ānāpānasati1日中練習する必要があります。つまり、「取り入れられる」もの(āna)と「捨てられる」もの(pāna)を認識することです。

談話を聞いたり、Dhammaを読んだりすることも瞑想の一形態であり、重要な概念を吸収できるようにかなりの時間を行う必要があります。

 

Ariya MettaBhāvanāは、私たちが持っている最も強力なツールの1つです。これは単純な概念ですが、主な難点は「Ariya」の部分にあります。 Bhāvanāが完全に効果を発揮するには、aniccadukkhaanattaを理解する必要があります。

 

それでも、上記の#2で述べたありふれた一般的なバージョンは良いスタートです。道をたどり、概念をよりよく理解する(本の知識ではなく)と、思考のjavanaの力が強くなり、bhāvanāがより強く、より効果的になります。

 

Abhidhammaの用語では、最も強力なkusala cittaは「sōmanassa sahagata ñāna sampayutta asankhārika citta」、つまり「喜びと智慧で自動的に生じるマインド」です。この考えは、智慧が増すにつれて強くなり、Sōtapanna magga Sōtapanna phala に到達するにつれて強くなり、 Arahant段階でのみ最適になります。

 

したがって、平凡な一般的な八正道を修行していても、このcittaの強度は低いので、育成する必要があります。

 

 

 

 

Ariya Metta Bhāvana (Loving Kindness Meditation)

The top 10 posts in this section describe the fundamentals of Buddhist meditation. The rest of the posts in this section are on possible meditation subjects and can be used to clarify unresolved questions, and to gain samādhi. The first 11 posts should be followed in that order, at least initially.

1. We all have acquired innumerable “bad kamma vipāka” in this cycle of rebirths (samsāra) that has no beginning. There is a very simple recipe for stopping many of such “bad kamma vipāka” from coming to fruition by “wearing out”  and ultimately removing the “kamma seeds” associated with them.

2. The standard Metta Bhāvanā (loving-kindness meditation) goes something like, “May myself and all beings are free of suffering, healthy, happy, and be free of all suffering”, or some similar (longer) passages.

3. However, the Ariya Metta Bhāvanā has a much deeper meaning. It is done with at least some idea of the complexity of “this world” with 31 realms and the status of the beings in those realms. In order to cultivate true compassion and loving-kindness one NEEDS TO FEEL the possible suffering in all those realms; see, “The Grand Unified Theory of Dhamma“:

 

 

 

 

4. However, no living being is free of FUTURE suffering in any of the 31 realms, because unless the Sōtapanna stage of Nibbāna has been attained, even the beings in the highest realm can end up even in the apāyā (lowest four realms) in future rebirths.

5. Now we can see how the Ariya Metta Bhāvanā is formulated:

6. What matters is not the particular set of words used, but what is felt in one’s heart. In order to do that one needs to truly comprehend that there is REAL SUFFERING in this world, not only at the human or animal realms but in many other realms.

7. The Ariya Metta Bhāvanā is one of the most POTENT tools that we have. It is a simple concept, but the main difficulty is with the “Ariya” part; one needs to comprehend anicca, dukkha, anatta  for the Bhāvanā to be fully effective.

Next, “Ānāpānasati Bhāvanā  (Introduction)“, ……..

 

 

 

 

【功徳の移転(Pattidāna - それはどのように起こるのか?】

 

【序論 - 見えないメンタルエネルギー】

一部の仏教徒でさえ、「功徳」が他の存在に「移転」できるかどうかには懐疑的な人もいます。それは「科学的」には見えないようです。しかし、ブッダ・ダンマは科学よりも遙かに進んでおり、これはその別の例です。

語彙が異なるとしても、「エネルギーの移転」(メンタルエネルギー)のメカニズムもダンマで説明されています。

善行の功徳や他のバージョンの「メンタルエネルギー」を移転することは可能です。

 

基本的なアイディアは以下の通りです。

ある人が灯された油ランプを持っていて、他にも多くの人が油ランプを持っていますが、それを灯すための炎にアクセスできません。他の人が自分のランプの炎を使って彼らのランプを灯すのは良いことではないでしょうか?

もちろん、1つから始めて多くの灯された油ランプを「作成」することはできません。しかし、1つの油ランプの炎を共有することで、多くの他のランプを灯すことができます。同様に、受信者は以下で説明するように利益を得るために必要な要素を持っている必要があります。しかし、それらのランプは灯す手段がないと無駄になりますので、光を提供する人は優れた奉仕をしています。 

「功徳を授ける」ことはPattidānaすなわち「良い業の種」が発芽するための条件を作ることです。受信者は良い業の種または「根本的な原因」を持っていて、そのPattidānaを喜んで受け入れる必要があります。これは「puñña anumōdanā」と呼ばれ、「puññānumōdanā」と韻を踏むことがあります。

 

 

anumōdanāとは何か?】

2. anumōdanāは受け取る心が受け取った功徳に喜びを感じていることを意味します(anu+ōdanā、韻を踏むとanumōdanāになります。授与者は「danā布施」を行い、「paccayā」すなわち補助的な原因を提供しています(一般的にはpratyayaが使われますが、これは正しくないサンスクリット語の言葉です。正しいパーリ語の言葉は「paccayā」です)。これは「Pattidāna」のpatti(発音はpaththidāna)を表しています。

 

物質的なものを直接与えることで、授与者は受信者が与えられたものを受け取ることを確認できます。

功徳を授ける(Pattidāna)は異なります。授与者は、受信者が「意図されたものを受け取ったかどうか」を確認できません。それが受信者が受信にアクセスできるように調整されている場合にのみ、受信者が「受け取る」ことができるからです。

「功徳を授ける」ことはdānaであり、「Pattidāna」とは異なります。これらは十善行(プンニャ・カンマ)の二つです。詳細は「功徳カンマ - ダーナ、シーラ、バーワナー」を参照してください。

 

 

【功徳を授ける - Pattidāna

5. このようなメカニズムの一つが「アナンタラ・サマナンタラ・パッチャヤ」です。詳細は「アナンタラとサマナンタラ・パッチャヤ」を参照してください。これはカンマとカンマ・ヴィパーカがどのように機能するかを支配する普遍的な法則の一つです(カンマ・ニヤマ)。多くの人は「ニヤマ」を「ニヤーマ」と発音しますが、「ニヤマ」はパーリ語またはシンハラ語での「原則」の言葉です。

 

したがって、カンマ・ニヤマはカンマの普遍的な法則です(重力の法則のようなものです)。

6. 例えば、「功徳を移転」しているとき、「私が行ったこの善行から〇〇が功徳を受け取るように」と心から言う場合があります。また、「メッタ・バーワナー」を通じて、「地獄の苦しみからすべての生命体が解放されますように」といった形でも構いません。どちらの場合も、自分の意図を「放送」しています。

 

ただし、一方が「与えている」ため、意図された受信者が「意図されたものを受け取ったかどうか」を確認できない場合、受信者は受信に調和している場合に限り、「プンニャ・anumōdanā」、つまり授与者のPattidānaを喜んで受け取り、受け取った功徳に喜びます。これは「パッターヌモーダナー」とも呼ばれます。

 

 

【ダーナとPattidāna - メンタルも可能】

3. ダーナと受け取りはさまざまな方法で行えます:

直接的なダーナ/受け取りの方法は、お金や物質的なものを与えるときです。これは授与者の元帳から差し引かれ、受信者の元帳に追加されます。転送は完了です。

教師がクラスいっぱいの子供たちに教えるとき、彼/彼女はすべての子供たちに同じように指示します。しかし、特定の子供が「受け取る」または理解する量は、その特定の子供の受け入れ能力に依存します。これはPattidānaに似ています。

ラジオ/テレビ局が番組を放送しています。しかし、ラジオ/テレビのプログラムの受信はその受信デバイスの品質に依存します。さらに、正しいステーションに「チューニング」する必要があります。

この転送は即座にまたは時間差で発生する可能性があります。なぜなら、そのメンタルエネルギーは「ナーマ・ローカ」にあり、いつでもアクセスできるからです。「メモリ、脳、心、ナーマ・ローカ、カンマ・バーワ」、「ダンマとは何か? - より深い分析」、および「私たちの二つの世界:物質的な世界とメンタル的な世界」を参照してください。

 

したがって、「直接的な与える」場合だけが受け取る量が同じです。「間接的な与える」方法で受け取る量は受信者に依存します。この後者のメカニズムは、他の人が遠く離れた別の人に「功徳を移転」する場合に機能します。

すべての意図にはカンマのエネルギーがあります。ブッダは「ケタナー・アハン・ビッカヴェ・カンマン・ヴァダーミ」と言ったことを覚えているかもしれません。「僧侶たちよ、私は意図がカンマであると言う」と。そしてカンマはこの世界のすべてのものの重要なポテンシャルエネルギーです。

人々は人間の心の力を非常に過小評価しています。少なくとも阿那漚禅に経験がある人々は、心の力について少しは感じ取ることができます。「人間の心の力 - 導入」とその後の2つのポストを参照してください。

直接的な与えるは「ダーナ」であり、間接的な与えるは「Pattidāna」です。これらは十功徳の一部です。

Punna Kamma – Dāna, Sīla, Bhāvanā. を参照してください。

 

 

【功徳を与える - Pattidāna

5. このようなメカニズムの一つが「anantara-samanantara paccayā」です。Annantara and Samanantara Paccaya.を参照してください。これはkammakamma vipāka がどのように機能して支配するかという普遍的な法則(kamma niyama)の一つです。多くの人は「niyama」を「niyāma」と発音しますが、「niyama」はパーリ語またはシンハラ語での「原則」という意味です。

したがって、kamma niyamaは重力の法則のようなカンマの普遍的な法則です。

 

 

6.

例えば、ある人が「私が行ったこの善行により、〇〇が功徳を受けるように」と誠実に言うことで「功徳を譲渡する」としましょう。

また、メッタ・バーヴァナーを通じて、「apāyāにいるすべての生き物が苦しみから解放されますように」と言うことでも功徳を譲渡することができます。どちらの場合も自分の意図を「放送」しています。

ただし、そのような「授与」を行っても、意図された受取人がその利益を受け取るには、受取人自体が適合する心の状態でなければなりません。これはラジオやテレビの場合と同様であり、受信装置は信号を受信するために「正しい周波数」に設定されている必要があります。

これはAnnantara and Samanantara Paccayaの記事で説明されています。これらのパーリ語の語句に嫌気を持たないでください。Paicca Samuppādaは、パーリ語の言葉を使用してその意味を理解するのが最善です。

 

功徳の譲渡は、与え手と受け手が一緒にいて、お互いの意図を認識している場合に効果的です。例えば、アジアの国々では、故人に功徳を譲渡する慣習があります。僧団Saghaへの施しpattidānaや故人への供養がこれに該当します。

 

故人が功徳を受け取るには、それが功徳を受け取ることができる状態にある必要があります。例えば、gandhabbaの状態にある場合です。

ただし、故人が動物や人間として生まれ変わった場合、その全ての利益を受け取ることはできませんが、ある程度の利益を得ることはあるかもしれません。

 

 

Dhamma Dānaは究極の授与

8. 「ダンマを授与する」すなわち「功徳を授与する」ことも可能です。釈尊は「sabba dāna Dhamma dāna jināti」、すなわち「あらゆる授与の中で、ダンマの授与が最も功徳がある」と言いました。

釈尊が説法をした際、聴衆はさまざまな程度でダンマを「受け取りました」。中には阿羅漢になった者もいれば、講義中にSōtapannaになった者もいます。しかし、他の者はどの段階にも達せず、それでも功徳や善行すなわちkusalaを積むことがあるかもしれません。功徳はやという意味のkukunuは「不潔」、salaは「取り除く」に由来し、kusalaはマインドからの欲望や憎しみを取り除くことを指します。

 そのような説法の際、主に智慧を培います。それによって、欲望と憎しみを捨てる結果となります。

 

 

心の状態の重要性

9. 特定の人物がどれだけ功徳を得るかは、その人物の心の状態に依拠します。また、その人物の知的レベルにも依拠しますが、「書物の知識」の現代的な基準を用いて知的レベルを定量化することは不可能です。これは直接的には正規の教育とは関係ありません。いくつかの例を挙げることができます。

アーナンダ尊者は非常に学識があり、元王子であり、素晴らしい記憶力を持っていました。全パーリ経典を暗記していました。そして、多くの年月、釈尊と共にいましたが、釈尊の入滅(Parinibbāna)の後で初めて阿羅漢になりました。

Sunītaスニータは下位カーストの出身で、釈尊に会ったときには糞の入ったバケツを持っていました。釈尊は彼がダンマを理解できると超常の力で見抜き、スニータに出家するように頼みました。スニータ尊者はわずか七日で阿羅漢になりました。

 

10

ある特定の人はその心が穏やかな状態にあるならば「ダンマを受け取る」ことができるかもしれません。しかし、同じ人物が心が興奮したり散漫な状態の場合、何も理解できないかもしれません。これは五欲の妨げが活発な場合と同じです。Key to Calming the Mind – Five Hindrances. を参照。

したがって、ダンマを学ぶ際には、聴くか読むかにかかわらず、正しい心の状態を持っていることが重要です。

アジアの国々では、これが寺院に行く重要な理由の1つです。寺院では人々が釈尊や菩提の木に花を捧げるなど、その後のダンマの説法を聞くために心を静める穏やかで平和な状態にする活動が行われます。「仏教の唱え」とTisarana Vandana and Its Effects on One’s Gatiを参照。

 

 

 

Anantara(原因) Samanantara(条件)の両方を最適化する必要性

11. したがって、Anantara Samanantaraの両方を最適化して、これらすべての活動を効率化する必要があります。

もちろん、真のダンマを学んでいなければ、アナンタラには本質的なものは何もありません。 したがって、時間を無駄にすることになります。

一方、たとえ優れたダンマを説いたとしても、その恩恵を最大限に得るためには、受け手の心が受容的である必要があります。 つまり、サマナンタラもよくなけばなりません。

 

12. 次の例は、この概念を明確にするのに役立ちます。「良いカルマの種kamma bīja」を持つことは、「良い種」を持つようなものです。 X という人は強力な種子を持っていますが、その種子が発芽して成長するための水と栄養素がないとします。 Y という人が X に水と栄養素を提供できれば、X はそれらの種を植えて発芽させて成長させることができます。

「良いカンマの種」を持っていても、対応する良いkamma vipākaをもたらすために必要な条件を備えていない人もいます。 他の人がpattidānaをすることは、その人に水と栄養素を寄与するようなものです。

 

13. 種子はanantaraすなわち原因 (kamma bīja) であり、受け取る側はそれを持っていなければなりません。 しかし、種子は湿った土壌と栄養素と日光がなければ成長できないのと同じように、カルマの種kamma bījaも適切な条件がなければ実を結ぶことができません。 つまり、samanantara(または適切な条件)もそこになければなりません。

したがって、受け取る側は与える側からの条件を受け入れ、既存の善いカルマの種kamma bījaに善いvipākaをもたらしてもらうことができます。

アナンタラとサマナンタラの両方が最適化され、一致している場合にのみ、最大限のメリットが得られます。 つまり、最適な転送が行われます。 この現象は物理学における「共鳴効果」によく似ています。

光子のエネルギーが原子のエネルギーギャップと一致する場合にのみ、原子によるその光子の吸収が最適になります。

 

 

さまざまな種類のanumōdanā

14. 一種の「anumōdanā」は日常生活でも起こります。 X が飢えた人々に食事を与えるプロジェクトを開始したとします。 多くの貧しい人々がその恩恵を受けています。 別の人(Y)はそれを見て、お腹を空かせた人が食事を与えられるのを見て喜び、そうしてくれたことをXに感謝するかもしれません。 この心の喜びは、たとえ Y が貢献しなかったとしても、「功績」としてカウントされます。 それは Y にとって良い kamma vipāka になります。それは X から何のメリットも奪うものではありません。

何もないところから何かが生まれることもあります。 では、そのようなメリットはどこから来るのでしょうか? それは、その親切な行為を見て嬉しくなったYのメンタルエネルギーから来ています。 それは人間のメンタルエネルギー(javana)の一部です。Power of the Human Mind – introduction.を参照。

 

それは不道徳な行為にも当てはまります。 X Y を殴っているとします。Z はそれを見て喜んで、X Y を殴るよう勧めるかもしれません。次に、Y が殴打により死亡したとします。 その場合、X だけでなく Z もその不道徳な行為により悪い kamma vipāka を受けます。

私たちの社会にも同じ原則が当てはまります。 警察が Y の死を捜査しているとします。彼らは Z が殺害を奨励したという証拠を持っています。 警察はZXの両方を起訴することができます。

したがって、私たちの感情(良いか悪いか)は、善悪のkamma vipākaを蓄積する上で重要な役割を果たします。

 

 

Transfer of Merits (Pattidāna) – How Does it Happen?

Revised July 7, 2018; August 16, 2019; February 12, 2020; August 9, 2022

Introduction – Unseen Mental Energy

1. Even some Buddhists are skeptical that merits can be “transferred” to other beings: It does not appear “scientific.” However, Buddha Dhamma is far ahead of science, and this is another example. Even though the vocabulary is different, mechanisms of “energy transfer” (mental energy) are also explained in Dhamma.

What Is Anumōdanā?

2. Anumōdanā means the receiving mind is becoming joyful with the merits it received (“anu” + “ōdanā,” which rhymes as “anumōdanā”). The giver is giving (“dāna”) the “paccayā” or the auxiliary causes. (The commonly-used word is “pratyaya” but that is the incorrect Sanskrit word; the correct Pāli word is paccayā). It is paccayā that represents “patti” in “pattidāna” (pronounced, “paththidāna“).

Giving Can Be Mental Too – Dāna and Pattidāna

3. Giving and receiving can be done in many ways:

4. Therefore, only in “direct giving” is the amount received the same. The amount received in “indirect giving” methods depends on the receiver. That latter mechanism works when “transferring merits” to another person who may be far away.

Giving Merits – Pattidāna

5. One such mechanism is the anantara-samanantara paccayā; see “Annantara and Samanantara Paccaya.” It is one of the universal laws governing how kamma and kamma vipāka operate (kamma niyama). Many people pronounce “niyama” as “niyāma,” but “niyama” is the Pāli or Sinhala word for “principle.”

6. Suppose one is “transferring merits” by sincerely saying, “May so and so receive merits from this good deed that I have done.” One could do Metta bhāvanā by saying, “May all beings be free from the suffering in the apāyā” or some version of it. In both cases, one is BROADCASTING one’s intention.

7. Transfer of merits is efficient when the giver and the receiver are together, and each is aware of the other’s intention. For example, in Asian countries, it is customary to transfer merits to deceased relatives. Alms-giving to the Saṅgha and pattidāna offered to the deceased relative belong to this category.

Dhamma Dāna Is The Ultimate Giving

8. It is possible to “give Dhamma” or to “give kusala” too. The Buddha said, “sabba dānaṃ Dhamma dānaṃ jināti” or, “from all kinds of giving, Dhamma giving is the most meritorious.”

Importance of State of Mind

9. How much merit a given person receives depends on the state of mind of that person. It also depends on the intellectual level of that person. But it is impossible to quantify the intellectual level using modern standards of “book knowledge.” It is not directly related to one’s formal education. It is easier to give some examples.

10. A given person may be receptive to “receiving Dhamma” when his mind is calm. But the same person may not comprehend anything when his mind is excited or distracted. That is the same as saying that the five hindrances are active; see “Key to Calming the Mind – Five Hindrances.” Therefore, it is IMPORTANT to have a correct mindset when learning Dhamma, whether by listening or reading.

Both Anantara and Samanantara Must be Optimized

11. Therefore, both anantara and samanantara must be optimized to make all these activities efficient.

12. The following example may help clarify this concept: Having “good kamma bīja” is like having “good seeds.” Suppose person X has potent seeds but does not have water and nutrients for those seeds to germinate and grow. If person Y can provide X with water and nutrients, X can plant those seeds and get them to germinate and grow.

13. A seed is the anantara or the cause (kamma bīja), and the receiving party must have that. However, like a seed cannot grow unless it is exposed to moist soil, has nutrients, and sunlight, that kamma bīja cannot bear fruit without suitable conditions. i.e., the samanantara (or suitable conditions) must be there too.

 Different Types of Anumōdanā

14. A type of “anumōdanā” also happens in day-to-day life. Suppose X starts a project to feed the hungry. Many poor people benefit from it. Another person (Y) sees that and may become joyful seeing the hungry getting fed and may thank X for doing it. This joy of heart, even if Y did not contribute, counts as “merits”; it becomes a good kamma vipāka for Y. That does not take any merits away from X.