Anāpānasati の実践の仕方

http://pacha21.com/meditation/ anapanasati.htm

 

瞑想とは、心を清めることです。

私たちは皆、人生で身に付けた渇望と習慣があるので、それを変えたり止めたりしない限り、この人生の間続きます。

良い習慣を身につけ、悪い習慣をやめる必要がありますが、これを行う唯一の方法は、私たちの行動に注意を払い、心の中で悪い行動の考えが始まるときに止めることです。

ほとんどの悪い考えは悪い習慣が原因で発生します。

 

瞑想のメリットを最大限に活用するには、BIG EIGHTに従事せずに道徳的な生活を送ることが重要です。

BIG EIGHTとは殺害、盗み、不適切な性的行為、嘘、うわさ話、中傷、過激な発言、麻薬やアルコールだけでなく、富、名声、権力などの「酔い」のことです。

 

 

 

個々で紹介するのは、釈尊によって教えられたānāpānasati瞑想を行う方法です。

 

最初に、他の用事を気にすることのない静かな時間帯を選びます。

最初は、11015分で十分です。適切な瞑想の利点が明らかになり、nirāmisa sukhaを感じるようになると、時間を数時間に延長できます。

 

nirāmisa sukhaとは心がクールダウンした心地よさのことで、日本文化の「わび」や「さび」で感じる冷涼とした寂静や寂寞のことです。

 

 

外の騒がしさからできるだけ離れて部屋を選びます。暗くすることができ、ドアを閉じることができる部屋が理想的です。

アームレスト付きの快適な椅子に座ります。これは、samādhi(意識集中)に入るときに重要になります。

身体のこわばりがなくなり、滑る傾向があるためです。

とにかく、眠りに落ちる可能性があるので、椅子をあまり快適にしないでください。

練習をすれば、この眠気は自動的になくなります。

自分の心が瞑想セッションを好きになると、pancanivarana(瞑想の5つの障碍)の1つであるthina middha(怠惰、眠気)が自動的に削除されて、エネルギーのあるサマディ(集中)から現れ出ます。

 

 

膝に手を添えて目を閉じ、椅子に座ります。

ここでしようとしているのは、欲望や渇望などの考え(kāmacchanda)、特に憎しみの考え(vyāpāda)、そして子供のことや他の保留中の用事などに「さまよう考え」を追い払うことです。

渇望と憎悪がなくなることによる「クールダウン」を体験し、Dhammaの概念にマインドを集中させます。

 

ダンマdhamma

とは普遍的な自然の法の真理という意味ですが、他にも多層の意味があるパーリ語(経典が書かれた言語)の語句です。

法とは法則、原因があって結果がきまっているもの、因果関係のこと。

ダンマにはブッダの教え、苦しみを除去する方法、というような自然の摂理を意味するレベルから

物質エネルギーの根源や心に起きている現象にいう多岐にいたる意味があるので文脈で判断します。

ブッダのダンマとは仏法のことで、苦しみとそれからの解放についてだけを釈尊は語ってきました。

 

 

 

人によっては、最初に次のことをするのが良いかもしれません。

マインドが集中から逃げるのを防ぐために、「すべての生き物が幸せで健やかでありますように」とマインドに留め続けてください。

このおまじないで、憎しみの考えが浮かんでくることが減少するからです。

 

または、最近行った自分の寛大な行為について考えることも有効です。しかし、突然、ある種の感覚的な喜び(いずれかの感覚による)の考えに移行する場合があります。意図的にその考えを取り除き、元の用事にマインドを集中させます。

 

(誰かまたは何かに向けた)憎悪の考えが思い浮かんだ場合は、その考えも強制的に停止します。ここでは、その人について良い考えを故意に考えるべきです。最も卑劣な人でさえ、その人を愛する友人/家族がいることを覚えておくことは重要です。誠実に「Xが幸せで健やかになりますように」と言います。その人を軽蔑する正当な理由があるとしても、私たちの仕事は自分が持っている憎しみの感情を取り除くことだと認識することが重要です。そうすれば、将来、誰かが自分に反するように見えることをしても、強い憎悪の感情を抱くことはありません。

 

仏像やキリストや聖人のイコンなどの静穏さについて考えることは、渇望や憎悪やさまよう考えがある場合に役立ちます。

 

すこしの間でいいので1つのことに集中して座る練習をしたら、Dhammaについて瞑想または熟慮を始めます。

ここではウェブ・サヤドーの法話が良いと想います。

リンク

 

自分にあったトピックを法話から選んでサマーディーに至ります。

大切なテーマは、aniccadukkhaanattaのトピックです。

 

たとえば、「anicca」について考えることができます。私たちは長期にわたって何も満足できるように維持できません。あなたが十分に年を取っているなら、あなたはあなた自身で多くの例があるでしょう。若い場合でも、体、髪、歯などを好きなように維持することができますが、中年になると、それは不可能な事であることがわかります。最も簡単なのは、あなたの両親/祖父母について考え、彼らの体がどのように変化したか、彼らが彼らの望むように彼らの体を保つことができていないのを見ることです。

 

 

瞑想をするとセッション中に、あなたのマインドは必然的にふらふらしようとします。

この瞑想の主な用事は、貪欲で憎悪の考えをやめることです。気が散るような考えが頭に浮かんだ場合は、それが「駆け回る」ことをさせないでください。

これがいわゆる「マインドフルネス」です。そのような「さまよう考え」に鋭い目を向け、それが浮上してきたらすぐにそれを止めてください。

 

他の3つの障害(thina midha、怠惰uddhacca kukkucca落ち着かなさ、vicikiccaaniccaの性質を知らないために賢明でないことをする傾向))は自動的に低下します。

「良い瞑想セッション」の後は、爽快に感じることに驚くでしょう。

最初は難しいかもしれませんが、BIG EIGHTの状況によりますが、1週間から1か月以内に結果を確認できるはずです。

3つの障害も徐々に減少します。

心を落ち着かせる心をつかんだら、ダンマの考えを日常生活に「取り入れる」ことに加えて、自分が持っている善悪の習慣に焦点を当てていきます。

 

 

経典に「長い息を吸い込んで、長い息を吐き出す」とありますが、これは「古い悪い習慣を取り除き、古い良い習慣を育てる」ことを意味します。

同様に、次の文「..rassamvāassasantō」は短い息についてではなく、最近取り組み始めた良い習慣、および最近心に忍び込み始めた悪い習慣についてです。

 

このため、習慣がどのように形成され、「āsavā煩悩」になるかを理解することが重要です

 

心を落ち着かせること(samatha)はできますが、呼吸で心を清めることはありません。

それを正しく行うには、samathavipassanaの両方を一緒に実行します。

ここでいうsamathaとは鼻の下の一点に意識を集中し続けることです。

ここでいうvipassanaとは鼻の下の感覚が生まれては消えていくので、その感覚に寄り添い続けることです。

そしてその常に変化する性質の虚しさと苦しさの前では私は無用の存在であることを実感し、長い期間で見るとこの宇宙では結局は何もできないことを思い知ることになります。

 

 

satiとは単なる集中や「気づき」ではなく、anicca, dukkha, anattaを理解した熟慮です

(実際、anicca, dukkha, anattaを少なくともある程度理解しないと、いかなる形の瞑想も効果的に行うことはできません)

釈尊の風 三相篇    苦しみから離脱する指標を参照してください。

 

 

成功の鍵は、できるだけ頻繁に行うことです。特に最初は静かな場所にいることは役立ちますが、進歩するにつれて、(運転中ではなく)バスに乗っているとき、診療所で待機しているとき、昼休み中などにも試してください。

 

ダンマの主要な概念を理解することは、あらゆるタイプの瞑想の鍵となります。時間があるときはいつでも、さまざまなトピックについて読んでみてください。ある時点で物事が「腑に落ちる」ようになります。

その時から、ダンマの喜びを感じ始め、熱意を持ってこの世の物事を解明しようとするでしょう。

 

 

 

 

ānāpānassati 安那般那念 

majjhima nikāya 118中部 出入息念経Ānāpānassatisutta   https://suttacentral.net/mn118/pli/ms

ānāpāna-sati ānaは入息、apānaは出息、satismtiは念(意識していること)を意味する。

 

広義には、そこから身体の観察へと移行していき、四念処に相当する観行(ヴィパッサナー)の領域も含む。

パーリ語経典経蔵中部の『入出息念経』(安般念経、Anapanassati-sutta)、相応部の『入出息相応』(安般相応、Anapana-samyutta)等で説かれている。

 

Kāyesu kāyaññatarāhaṃ, bhikkhave, evaṃ vadāmi yadidaṃassāsapassāsā.

「比丘たちよ、呼吸とは体の中の1つのはたらきであると、私は説きます。」

 

概略

静かなところを探して、背筋を伸ばして坐る。

気づきの実践なので、気づいて息を吐き、気づいて息を吸う。

呼吸が長くなったり、短くなったりするので、それに気づいている。

呼吸を単純な体の機能の1つとして観つつ、呼吸にスポットライトを当てる

呼吸の動きとともに、体全体の動きも感じてくる。

呼吸に対する集中が強くなると、体の機能が落ち着き、体の衝動が落ち着いてくること観る。

体の落ち着き様子、呼吸の様子に気づいている。

雑念思考が邪魔をしてサマーディが起きない場合は、言葉を念じる。

第2禅定に達してからは、言葉を使わず、呼吸を感じるだけで第3、4、5の禅定に達する。

次に喜びが起きてくることを体感する。

それを感じながら呼吸に集中していると、喜びの次に楽が生じる。

心に気づきながら、呼吸を続ける。

心にあえて喜びを与えながら、実践を続ける。

心がさらに統一状態になっていくので、それに気づいている。

十分な喜びを感じているから、煩悩の刺激が要らなくなる。

 

それから無常に気づく。

執着から離れるべき、という気持ちになり、それに気づいている。

すべて滅するものである、ということに気づく。

捨離の気持ちが起きるので、それに気づきながら吐いて、吸う。

このような順番で実践すると、四念処や七覚支が完成し、解脱に至る。

 

 

 

 

 

 

アーナパーナサティ  ディーパンカーラ・サヤレー    

 

瞑想の目的

 私たちが、瞑想をする目的は苦から自由になることです。私たちは何度も何度も転生してきました。この転生が苦です。ですから、瞑想の目的は、苦からの脱出・解放にあるということを基本的に理解することが必要です。そして、四聖諦について理解する必要があります。第一は苦についての真理です。苦についての真理を理解するためには五つの集合体(五蘊)について理解する必要があります。心と体(ナーマとルーパ)における、生滅、無常、生、非我について理解する必要があります。

 肉体の生滅そして眼耳鼻舌身という肉体(ルーパ)と意(ナーマ)において生滅および苦の真理を見ていきます。

実践を通して、何が肉体(ルーパ)であり何が心(ナーマ)の現象であるかをゆっくりゆっくり見ていきます。

 

 第二の真理は苦の原因についての真理です。私たちの身体と心における生滅、無常、苦、非我を見ていきますと、過去における行いがカルマ(業)を作っている関係性があることがわかり、その過去の行いが結果をもたらします。つまり、原因があって結果があるわけです。

 

過去世を見てみますと、そこに執着があり、―それは、人間の存在、デーヴァ、見解(ディッティ)に対してですが―この執着が原因となって、その結果現在に人間として生まれています。

 

 ヴィパッサナー瞑想はこの二つの対象について瞑想します。すなわち過去における身体と心の生滅、無常、苦、非我が現在に結果し、現在の執着が未来に結果をもたらすのを見ていきます。

ゆっくりゆっくり実践し、洞察の智慧をつけると、第三の真理、苦の消滅の真理を理解し、第四の真理、八正道を実践すれば悟りに至ります。

 

 ですから私たちは今悟りを求めて瞑想しているわけです。第四の真理に至る道は八つに分かれていてこれを実践して行きます。四聖諦はこの八正道をただ実践することによって達成されます。

 

この八正道は三つのグループに分けることができます。

シーラ戒律  いつわりのない言葉 Sammā-vācā 正しい行為Sammā-kammanta 正しい職業 Sammā-ājīva

サマーディ禅定  精進 Sammā-vāyāma   正しい気づきSammā-sati 正しい集中力 Sammā-samādhi  

パンニャ 智慧  正しい思考  Sammā-sakappa  正しい見解 samma- diṭṭhi 

 

 

第一は戒のグループです。    戒においては五戒あるいは八戒を守ります。

第二は定のグループです。    集中力を養います。

第三は智慧のグループです。   洞察力を養います。

 

ですから瞑想を始める前から五戒、八戒を守ることから始めます。

次に集中力を育てるために40の瞑想法があります。過去世において求めるものや趣味などに違いがあります。

ある人々にはアーナパーナサティ(呼吸の気づき)による瞑想法で容易に実践できますが、他の人々にはそれは難しいものです。

アーナパーナ・サティが苦手な人には慈悲の瞑想や四界分別観という瞑想法もあります。

 

 

アーナパーナ・サティの方法

アーナパーナ・サティは、意識を鼻先に集中します。そこに息が入ってきて出て行くのを観察します。しかし、息がが身体の中に入ったり出たりするのを追いません。ただ、鼻孔周辺の接触に集中します。これは皮膚感覚を見るのではありません。皮膚感覚に焦点を当ててしまうと振動や温度などの他の感覚にも意識が向いてしまいます。

そうではなく接触だけに焦点を当てます。そして、震えや、温かさや、ヒリヒリ具合や、モソモソ具合など、呼吸とは別のところへ意識が行かないようにします。ゆっくりゆっくりと集中していきます。

早いと意識が途中で行き場をなくすことがよく起こります。

 

 ここではあくまでも呼吸に集中します。入ったり出たりする息の勢いを見ます。初めは5分くらい集中できるかもしれません。そして心はどこかへさまよい出すでしょう。それに気づいたら意識をまた呼吸に引きもどします。いつでも呼吸だけに気づき続けているようにします。

 

 初めのうち心は、必ず外へ飛んでいってしまうものです。ですから、心を制御しなくてはなりません。眠くなったり、痛みが気になったりもします。しかしそこから意識を外して、必ず呼吸に戻るようにします。呼吸だけを瞑想の対象にします。

私たちは今、集中力の訓練をしているところです。呼吸が瞑想の対象です。呼吸以外に注意を向けると、集中力が失われてしまいます。

 

 とても深い集中力の訓練のためには対象を一つにする必要があります。510分と集中していきます。

10分、20分と呼吸に集中します。たまに心はさまようかもしれません。そんなときでも、たえず呼吸に戻ってくるようにします。心が外へさまようことが制御できないならば、数を数えることもよいでしょう。吸って吐いて、一つ。吸って、吐いて、二つ。と八つまで数え、また一から始めます。

 

 そしてゆっくりゆっくりと心が静まり穏やかになり集中していきます。2030分も続けられると心と呼吸とが一緒になり呼吸に対して親しくなっていきます。

喜び、幸福感が出てきます。すると対象が一層はっきりしていきます。

そして呼吸はより穏やかになってきます。体が軽やかになり体の痛みも感じなくなっていきます。

そし集中力が高まってきます。

 

ニミッタの出現

 集中力が出てくると、黄色やその他の色が目頭からおでこにかけて見えてきます。継続的に30分ほど呼吸に集中していると、顔の前に、明るい光が見えてきます。

それはさまざまで、異なった色が見えたりしますが、目を開けて、「これは何だ」と見てはいけません。

あくまでも呼吸に集中し続けます。この時点で光の方に注意を向けると、集中力は途切れてしまいます。

 

質問:好奇心が湧いて、これは何だろうと思って見たくなってしまうのですが。

 

答:見てもいいですが、初めのうち光の方を見るとすぐになくなってしまいます。そして集中力が途切れます。

訓練を続けたい時には、光の方を見ないで、呼吸に集中します。

 

 呼吸に集中し続けると黄色やオレンジ色が見えてきます。そして、さらに呼吸に集中し続けるとその色は、だんだんと白く変わっていきます。色が白くなっても呼吸に集中し続けて下さい。そうすると白い色がさらに明るさを増し、クリスタルのように透明になってきます。

 

 そしてこのニミッタ、(相、イメージ)が10分間も安定しているようなら、今度はその光のニミッタの方に集中します。つまり、ニミッタには3段階あります。

1、黄色、オレンジ、その他の色として現れる。

2、色が白くなってくる。

3、さらに輝きを増し、透明になる。

ゆっくりゆっくりとこのニミッタが安定してきたら、集中力を呼吸からニミッタの方に移します。

 

質問:「見たい見たい」と思って見てしまって、そこでニミッタがなくなってしまいます。どうやって引き伸ばしたらよいでしょうか。

 

答:それは心が興奮しているからです。静かでなくなっているからです。リラックスして心を静めましょう。

 

 そしてニミッタに集中して、1時間、2時間、心が外へ飛んでしまうことなく集中していると、身体の感覚がなくなります。ただ、心とニミッタだけになります。それが禅定です。禅定には初禅から四禅までありますが、そこまで到達するには、先生の案内が必要です。急がず、ゆっくりゆっくりとやっていきましょう。

 

 

三十二身分

 そして深い禅定を得た後に、戒・定・慧のうちの第三の智慧のセッションがあります。洞察の智慧です。

私たちの身体の内側で何が起こっているかについての洞察です。禅定によって得た光のニミッタで体の32の部分を見ていきます。ニミッタを懐中電灯のようにして見ていきます。

バクテリア、菌などは普通の目では見えません。顕微鏡を使わないと見えません。しかし私たちは、禅定の力を使って体のいろいろな部分を見ていきます。

 

 ニミッタを使って身体の32の部分を一つ一つ見ていきます。するとそれが、単なる器官にすぎないことが分かります。皆さんはそれらの器官について、自分の体を好ましいと思っているでしょうか。体の32の部分を見ていくと、それが大変汚れたものであることが見えてきます。

 

私たちが自らの体をはっきり見ることができないでいると、体への執着を作り出します。自分だけでなく他の人々の身体についてもです。家族、妻子への執着のもとになります。

 体の32の部分の真実を見るのが第一の洞察です。骨をもその32の部分の中にあります。ニミッタを持って見ると、他の器官は消えて、身体の中に骨だけを見ることができます。

 

 私たちも、いつの日か、確実に骨になってしまうでしょう。私だけでなく、皆が骸骨になります。それでブッダは自らの骨を集中して観ることによって、また他人の骨を見ることによって、執着をなくすことができると説きました。ですからブッダの時代には多くの比丘がこの骸骨を見ていました。美しい婦人がきても、「おや骸骨が来た」と見ていました。そのようにして私たちも家族に対する執着をなくすことができます。このように身体の部分に集中することによって初禅に至ることができます。

 

質問:身体を見ることによって初禅に至るのですか。それとも、初禅に至ってから、身体を見るのですか。

 

答:二つの道があります。禅定を得てから、その光を使って体の部分を見ていく、これが一つ。

もう一つは、禅定に至ってなくても、四界分別観で身体を見ていく。その瞑想で、初禅まで到達することができます。

 

 白骨観の後には白いカシナの瞑想(白遍)があります。その後に四界分別観の瞑想をします。ヴィパッサナーに入って行くときには四界分別観の瞑想から始めます。それは眼耳鼻舌身を使うのですが、ここでは眼からはじめましょう。眼をつぶったときに、ルーパが生滅しているのが見えますか。カラーパと呼ばれる、アトムみたいなとても小さな微粒子が生滅しています。

 

 今、四界分別観を道具として使います。例えば、レンガを粉々にしてその細かい粒において生滅を観ます。微粒子の中に無常・苦・非我を観ます。私たちが集中して、カラーパ(物質の微粒子)を詳しく観察すると、八つの性質を見ることができます。すなわち、地・水・火・風と色・香り・味・栄養素です。

 

 眼だけでなく、耳・鼻・舌・身においてルーパ(物質現象)の八つの性質と無常・苦・非我を観て行きます。四聖諦の初めの苦諦です。ナーマ(精神現象)は生滅がはやく、観察するのがとても難しいのですが、ナーマを観察することによって第二の集諦が理解できます。これには時間がかかります。

 

 少し前のことを思い出すことから始まって、どんどん前へさかのぼり、お母さんのおなかの中にいたときを思い出し、さらに過去の生を思い出します。過去生において女性であった人は女性の身体で、デーヴァであった人はデーヴァの身体であったことを知ります。その体の中に四つの要素、地水火風を見ます。そして心において、いかなる意志をもって生きているかを見ます。これには第四禅定の力が必要です。過去生と今生とのつながりが分かると、因果関係が理解でき、四聖諦の第二の真理、集諦が分かります。

 

質問:眼を閉じた時に、粒子の模様みたいなものが見えるのですが、それがカラーパでしょうか。

 

答:それはよく調べないと何とも言えません。過去で波羅蜜を積んでいた人なら、禅定まで行かなくても、カラーパの生滅が見えることがあります。ですからよく調べる必要があります。

 

まとめますと、最初にアーナパーナ・サティをやって、ニミッタが見えるようになり、さらに集中力が増す方向に修行を進めて行きます。

 

 

 

Ānāpānassati Sutta (MN 118)によれば  “..Ānāpānassati, bhikkhave, bhāvitā bahulīkatā cattāro satipaṭṭhāne paripūreti. Cattāro satipaṭṭhānā bhāvitā bahulīkatā satta bojjhaṅge paripūrenti. Satta bojjhaṅgā bhāvitā bahulīkatā vijjāvimuttiṃ paripūrenti.

翻訳すると

..Ānāpānassati」を使用(bhāvitā)すると、そして頻繁に(bahulīkatāを使用)すると、4種類のSatipatthānaが完成(paripūreti)します。 Cattāro satipaṭṭhānaを使用、および頻繁に使用すると、Sapta Bojjangaが完成させます。 Sapta Bojjangaは、使用および頻繁に使用すると、完全な離脱(Nibbānaすなわちアラハンの境地)を完了します。 

Ananda Sutta (SN 54.13)でもまったく同じ声明がされています。実際、Ānāpāna Saṃyutta (SN 54)suttāのほとんどには、Ānāpānassati, bhikkhave, bhāvitā bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsāというフレーズがあります。

ここで、「mahappalā」(「mahā+pala」)は、Sotapanna, Sakadagami, Anagami, Arahant4つの高貴な段階を意味します。

したがって、ānāpānassatiが単独でアラハンの境地に至ることは明らかです。したがって、一部の人が示唆するように、「ānāpānassatiでサマタを得た時には、別個であるヴィパッサナー(洞察)瞑想」をしなくても涅槃nibbānaを経験することは可能です。

 

釈尊が上記で「..Ānāpānasnasatibhikkhavebhāvitābahulīkatā..」と言ったとき、彼は可能な限りどこでもそれをすることを意味しました。つまり、基本的には常にです。自分の行動、言論、思考に留意し、悪いものを止め、良いものを養います。

anāpāna satiまたはSatipatthāna bhāvanāを孤立した場所で座って行われる正式なセッションに制限すべきではありません。