瞑想と登山
登山を、一種の瞑想的なものとして利用するという人は、意外と多いと思われます。
本人が、そう明確に自覚していなくとも、安定しない足場に一歩一歩を集中することで、思考の連続から解放されるので、登山体験を求める人は、多いものです。
瞑想は、思考が続かない状態を意図的に創り出していきますが、登山の場合にも、同じようなプロセスがあることが共通点です。
瞑想というと、興味がない人には、無念無想とか、神秘的な没入とか、何か超越的な状態に関するものとしてイメージするようですが、ただ座っていてもこのようなことはなく、実際に体験されるのは「現実的」なものでしかありません。
瞑想をして私たちが直面するのは、いわゆる「雑念」というものです。
雑念は、通俗的には、悪いもののように、語られることも多いですが、これは自分の想いが創出される自然なプロセスであるので、それは私たち自身であると、言うこともできます。
また、瞑想も、雑念をなくすこと自体を、目的とするわけではありません。
目的は、それらの雑念という想いにとらわれないで、感覚や想いの変化に、気づき続ける力を育成することです。
気づきの透徹によって、雑念は各自の潜在意識や深層意識にある回路を知る手立てになります。
回路とは感覚や感情や思考の条件反射のことで、自動反応回路とも呼ぶことができます。スマホのアプリのようなもので、一度ダウンロードすると、そのアイコンをクリックするたびに自動的に立ち上がります。
さて、瞑想には、各種の方法がありますが、一番、基本的なものの一つは、「ただ見ている」というものです。
私たちは、私たち自身に起こる(感じる)事柄を、私たち自身を、「ただ見つめている」のが基本です。
ところがこれが私たちには、なかなかできないことなのです。
自分自身の感覚に直面し、それを体感し続けることを私たちはすることができず、気が付かないうちにあらゆる手をつくして、回避しています。
私たちには、自分自身の感覚を体験することを避けたい、という欲求と習慣があります。
普段ではできない感覚との直面を、瞑想では意図的にしていきます。
ところが、この難しいことを登山では、図らずも実践しています。
さて、「ただ見つめている」ことですが、感覚とそれに反応した心を見つめていると、雑念の湧出するパターンには、似たような形が、あることに気づいてきます。
私たちにまつわる、過去、現在、未来の事柄が、順不同に次々と湧いて来ます。
現在、日常で起きている、気になることの数々。
日々の怒り、不安、願望、思惑。
過去にあった、諸々の事柄。
前に気にしていた事柄。
または、忘れていたような、些細な出来事。
これから将来、やって来る事柄。
起こるかもしれないこと。
起こってほしいこと。
ほしくないこと。
希望。
不安。
願望。
このような、過去・現在・未来についての気になる未完了の体験が事柄が、滾々と湧いて来ては、消えていきます。
このような場合に、これらをただ見つめていて、認めて、受け入れ、流していけば、瞑想をしている、ということになります。とらわれず、惑わされず、大きく反応せず、それらについて考えたりせずに、何かよその出来事を眺めるかのように、ただ眺めていればいいのです。
それらを見つめていると、受け止められては、去っていきます。
それらの対象や心の反応を無いものにしようとしたり、否定したりするような意図の力が加わると、エネルギーが加わることでその反応が力を持ち、逆にそれが次の思考を生み出す原因となります。
ひと通り、過去・現在・未来のことを静かな心で見守ることで、想いが出尽くした後には湧いてくるものがなくなり、やがて、「澄んだ静けさ」がやってきます。
さて、登山においても、同じような事柄が、起こります。
険しい山道を、息を切らしながら、歩いていると、肉体の苦難や、苦しさが、過熱することにより、下界の日常であった気になる事柄が、心身の底から、滾々と、湧いてきます。
大自然の中にあっては、コレかというがっかりするような事柄や日常の些末な心配事や欲求が、滾々と湧いてきます。
肉体の苦痛と、大自然の生命の中であるがゆえに、そのような都会の澱が、あぶりだされてくるとも言えます。
これまでの都会環境での刺激信号がなく、感覚への集中によって、心の中の想い(記憶や空想の回路)が活性化するためです。
しかし、汗が流れ尽きるように、そのような想い、過去や未来や、現在にまつわる想いも、やがて、出尽くします。
そのうちに、ただ自然の中を歩む、動物や昆虫のような歩みを、見出していきます。
自分が、ただ黙々と、歩むだけの存在であることを、見出していくのです。
ここで、登山における瞑想状態を、単なる忘却の技法や、逃避にしないために、また、気づきの身体技法に変えていくためには、湧いて来る雑念を、意識して、ただ見つめて気づいていることです。
そうすると、安定した視界、音、香り、筋肉の反復によって、ただ見つめ、気づいていく力を育成することができます。
粗雑な刺激ではなく、より微細な感覚の領域に気づいていくことで、心の中の回路にも気づいていくことができるように自然になっていきます。
古来の修験道や山岳宗教では、そのようなリズムのある感覚信号の自然環境の中で、自分の心のあり様に気づいていくプロセスのことです。
そのため、自然との交感を瞑想対象とするような技法を編み上げていきました。
その覚醒体験や至高体験の側面について、考えてみたいと思います。
イタリアの登山家、ラインホルト・メスナーは人類史上初めて、八千メートル峰14座すべてに、単独無酸素で登頂した登山家として、知られています。
彼の著書『死の地帯』(尾崎ル治訳、山と渓谷社)から、その興味深い言葉をいくつか見てみます。
メスナーは、優れた登山家であるばかりでなく、体験を通した、生の哲学者であり、その体験や洞察を言葉にする、卓越した才能を、持っています。
メスナーは、この本の前半で、登山家が遭遇する、極限的体験(滑落、臨死、瀕死等)の中で経験した、さまざまな意識拡張的な体験報告を、取り上げています。
そのような体験領域の中では、私たちは日常意識から離れ、フロー体験や、臨死体験で報告されるような、不思議な意識拡張的体験を、経験することがあります。
それらは、私たちが元来持っている、潜在能力が、危機的状況の中で、不意に現れたものとも、いえるものです。
メスナーは、そのような広大な潜在能力が、私たちのうちに在ることに、注意を促していきます。
そして、困難で苛烈な登山体験が、人を惹きつけていく、その核心部分に、私たちの存在や意識を、深いレベルで覚醒させ、解放していく秘密があることを、示唆してします。
「私は今でも八千メートル峰登頂への究極の動機が何であるのか、自分でもわからない。ただ、一度頂上へ登ってしまうと、また降りるのがとてもいやになるのだ。面倒だからというだけではない。私にとっては、下降によって私の中に虚しさがひろがるからである―失楽園―それは成功の意識によって満たされることはない。
頂上に到達したときにすでにまったく別種の虚しさ、私の全存在をとらえる解放的な虚しさを私は何度も経験した。」(前掲書)
メスナーは、山頂において、ある種の意識拡張を、経験していたのです。
「私はエベレストの頂上から下山しようとしたとき、なかなか降りる気になれなかった。(中略)どうしてかはわからないが、もっと長くいられるものならいたい、永久にだってそこにいたいと思った。」
「八千メートル峰の上にそのまま座りつづけたらどうなんだろうなと、私はときどき考えた。登頂の隠された意味は頂上にとどまることではないだろうか。」
「無限の、なにもない空間の中心である頂に私は座っていた。はるか他の谷々に乳色の靄が沈んでいた。
私のまわりの地平線が、私の中にある空虚さと同じように膨らんできた。すると私の深い呼吸が自然に凝縮して、純粋の幻視的な輪となった。
なんともいいようのないほがらかな放下感とともに私のこの調和状態、一種のニルワナ―涅槃から目覚めた。」
(前掲書)
そして、彼は、山頂体験そのものが、至高体験peak-experienceのように、ある種の変容を、人にもたらすことに、思いをめぐらせます。
「ヘルマン・ブールがナンガ・パルバードの山頂から生還したのは、登頂したからである。もしも最高点を目前に失敗していたなら、あのように超人的な下山はできなかったろう。
だから私にいわせれば、彼が生還したことこそが、彼が登頂した証拠なのである。
彼はあの夢の点に触れたからこそ、時期を失せず、その点から離れることができたのである。」
「人に踏まれることのなかったこの世界で、私を支配するものは、一方では雲や谷、深さや広がりの現実的知覚であるが、他方では、自然が演出するその劇とは一見ほとんど関係がないような、精神的感銘と内的照明(悟り)
英語ではenlightment?である。私は八千メートル峰から再び低地にもどったとき、精神的に生まれ変わったように思ったことが何度もあった。だから私が高所での体験から得た認識を、私は錯乱や幻覚ではなく、深い真実だと思っている。」
(前掲書)
「高く登れば登るほど、ますます自分が透明に、くっきりと見えてくる。感覚が研ぎ澄まされる。彼があれほど情熱を寄せた頂が、具体的な形で彼のものとなる。彼は一種の光明点の中へ入り、涅槃の中に消え去ることができる。」
「初めてのいくつかの大きな遠征の後で、私は自分の人生がひろがったのを感じたが、同時により思慮深くもなった。三つ目の八千メートル峰であるヒドゥン・ピークが私に鎮静作用を与えた後、涅槃とは何であるかがようやくわかりかけてきたと思った。つまり私は生を超えるものの息吹を吸ったのである。
エベレストの頂上では一種の精神的オルガスムを体験した。それは時間と空間のない全有意識における感情的振動である。そのとき私の理性は完全にシャットアウトされていた。」
(前掲書)
さて、ところで、メスナーは、彼自身のさまざまな極限状態における、実体験から、このようなことを引き起こす、私たちの存在の、秘められた組成について、仮説を考えていきます。
「まもなく三十年になる私の登山家生活で体験した数々の幻視は、私の自己理解に本質的に寄与した。あるときは、私は意識点としてだけ存在したり、またあるときは強い充実感にあふれたりした。そういうときには、悟性英語ではmind、独語ではVerstandesのこと?が特にそんなふうに働きかけなくても、知intellect?が認識になるのである。悟性はその認識を記録する。すると一瞬その認識は合理的rational?に把握できるように見えるが、それは一瞬だけのことであって、二度と呼び戻すことはできない。」
「私の経験によれば、人間は、外的人間と内的人間とからなっている。外的人間―身体的・知的領域―は誰にでもかなりよくわかる部分である。しかし内的人間―精神的領域、それは意識下であり、まだよく解明されていない次元である(私はこれを精密素材領域と呼んでいる)―は、そこへ通じる方法を知らない限り、誰にもわからない。
(中略)
どの肉体も、すべてがそれからできている元の素材を自分の中に持っている。だからどの人間も万有を分け持っている。万有は無限だから、人間は無限を分け持っている。道具としての感覚器官と、記録装置としての意識の助けを借りて、人間は意識的に明確に自分自身を経験する(知る)ことができる。(中略)精神的な、私のいう精密素材的な人間には限界がないから、精神的人間の経験能力には限界がない。」
「死の地帯の体験は―いろいろと議論された死の経験と同じく―新しい意識領域へいたる階梯の重要なステップのひとつであろう。」
(前掲書)
さて、以上、登山にまつわる、ラインホルト・メスナーの言葉を見て来ましたが、これらの言葉は、登山に限定されない、さまざまな生の場面に、適用可能な洞察となっていることが、類推できると思われます。
このような至高体験や、体験領域を持つものは、私たちの人生の中で、多様に存在するからです。
そのような意味において、メスナーの洞察や示唆は、私たちの人生で、さまざまに役立っていく、刺激的(覚醒的)なものと、なっているのです。
最後に、彼が本の冒頭に記した言葉を掲示します。
登山―それはひとつの可能性
登山―それは冒険
登山―それは積極的な自然体験
登山―それは創造的にして遊技的なスポーツ
登山―それは行為において存在を意識化する
登山―それは死の挑戦に抵抗するなかでの悟り
登山―それは天から地上への移行
登山―それは此岸と彼岸との架け橋
登山―それはより高い意識段階を求めること
登山―それはひとつの可能性
(前掲書)
登山と呼吸と幻聴の体験
※瞑想、野生、変性意識状態(ASC)へのより総合的な方法論については、拙著↓
入門ガイド
『気づきと変性意識の技法:流れる虹のマインドフルネス』
および、
『砂絵T 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容』