ヴィパッサナー・センターでのサマーディ

 

Sayagyi U Ba Khin Journalサヤジ・ウバキン・ジャーナル

A Collection Commemorating The Teaching of Sayagyi U Ba Khin

 

 

P.53本来の仏教瞑想の真価

からの抜粋

 

サマーディ

 この(第一ステップのシーラの後の)第二ステップは、集中力を培って心を一点集中の状態にまで高めるためのものです。これは、心をトレーニングして、静穏で清らかで強靭なものにする修行法のひとつです。ですからこのトレーニング法は、宗教的人生の根幹をなします。それは、仏教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、シーク教徒といった区別なく言えることです。もっとはっきり言えば、サマーディは、あらゆる宗教に通じる最大の共通項なのです。みずからの心をニーヴァラナ(不純物)から解き放って清らかな状態へと育んでゆかないかぎり、ブラフマー(あるいは一神教における「神」)と自己同一化することなど、ほぼ不可能でしょう。さまざまな宗教がさまざまな修行法を有していますが、心を育んでいった先にあるゴールは同じです。そのゴールとはすなわち、「体も心も静穏である」という完璧な境地です。センターでコースに参加する生徒は、集中力を開発して一点集中の状態にまで高め上げるための手助けを受けます。具体的には、鼻と上くちびるのあいだの一点に注意を集中させて、入ってくる息と出てゆく息に対する静かな気づきを保ちながら、呼吸の出入りする動きにシンクロするよう指導されるのです。

 仏教によれば、生命を誕生させるのは、その者自身のなす行為によって発生するサンカーラ(メンタルエネルギー)です。キリスト教によれば、生命を誕生させるのは神です。しかしいずれにせよ、その生命の物質的現れはまったく同じです。すなわち、人間が持つ、内なる拍動、リズム、バイブレーション(振動)です。さらに言えば「呼吸」は、生命の物質的現れを反映するもののひとつです。

 

 

 この瞑想法において正しい方向へ前進しているときには、そのことを知らせてくれる目印がいつでもあるものです。その目印は、「黒い」物とは対照的な、「白い」シンボルとして現れます。より詳細に言えば、それは雲状であったり脱脂綿状であったりします。また時には、煙やクモの巣や花や円盤の形をした白いものとして現れることもあります。しかし、心がさらに集中されてくると、現れ出るシンボルは、閃光、光の点、小さな星や月や太陽といったものになります。瞑想中に(もちろん目は閉じた状態で)こうした目印が現れたときには、サマーディが確立されている状態にあるのだと受け取って然るべきです。

 この段階で、生徒にとって絶対不可欠となるのは、「小休憩を取ったあとには毎度必ず、できるかぎり早くこの「光」の目印をともなったサマーディへと戻る努力をすること」です。これができる生徒は、ヴィパッサナー瞑想へと移行する準備がすっかり整っています(そうしていずれは、究極的真理への洞察を獲得して、ニッバーナという大いなる安らぎを楽しむことになります)。 もし、ひとつの極小の光点が不動を保った状態のまま、しばらくのあいだ心を鼻の付け根部分に一点集中させておくことができるならば、なおさら結構です。なぜなら、そのような時にはウパチャーラ・サマーディ(“近境”のメンタル集中)へと到達しているからです。「心はもともとは清らかなものである。けれども、アクサラなエネルギー(心の汚濁)に夢中になってしまうことによって、心は汚れるのである」とブッダは言います。塩水を精製して純水に変えることができるのと同じように、アーナーパーナ瞑想に取り組む生徒は、汚濁を取り去って、ゆくゆくは心を完全に清らかな状態へと至らしめることができます。

 

 

 

 

 

ロングコースの8日目の講話

 

サマーディには3段階ある。

khanika samadhi, momentary concentration, concentration sustained from moment to moment; 1分

upacara samadhi, "neighbourhood" concentration of a level approaching a state of absorption; 5分 30分

appana samadhi, attainment concentration, a state of mental absorption (jhana). 完全没入の禅定

 

ロングコースではの5分間から30分のupacara段階でいい。

完全没入のappana段階ではなく、マインドが対象から逃げる瞬間を捕まえればいい

 

5つのカーテン pañca nīvaraāni

kāmacchanda渇望 vyāpāda嫌悪 uddhacca-kukkucca移り気thīna-middha怠け癖(眠気)vicikicchā疑い  

 

 

Upacara Samadhiに突入

感覚が粗さから繊細に、呼吸が柔らかく細く短く、意識が鋭くなるのが条件でこの3つは相互作用がある。

santati   持続、相続、連続性

瞑想対象をkammaṭṭhāna業処と呼び、このkammaは働き、hānaは場所を指すので、「事務所」の意味になる。

 

微細な息にとどまれ。

そしてその時の感覚を意識せよ。

感覚が鮮明にはっきりすればするほど、それが意識を集中に留めさせる。

その意識がbhava sankhāraであるanusaya潜在力とkilesa煩悩を解体する

 

 

 

ヴィパッサナー瞑想における集中の順番

khanika集中  思考の連鎖になるたびに確実に鼻下の息の感覚に戻って来る

upacara集中  ニミッタを対象にして集中して、いかなる想いや感覚器官からの信号に阻害されない状態が続く

 

第1appana集中

皮膚に触れる感触phoṭṭhabbaを対象にし、それとの一体性を感じる

 

第2appana集中 dutiya-jhāna                 

鼻下の感覚を瞑想対象にし、それとの一体性を感じることで対象がなくなり、尋が止むが、うねるような喜びpītiがある

より段階が高いjhānāは、粗大なjhāna因子を連続的に排除し、持続的な集中によってより微細なjhāna因子を精製することによって達成される。

 

第3appana集中  サンパジャンニャ sampajāña   sampajāna [sa-pa-jñā] 付加されたもの(エネルギー)を知る  

pa-pref[Skpra-] 前に,先に,強意  繰り返し?

jñā,(ñā),know、了解

マインドは体やカラーパと接触するので(エネルギーと接触する)感覚がある。

 

第4appana集中

パラ サマパティPhala果実、結果 samāpatti[samāpajjatisa同じ?まで+pad去る、行く) 達成  attainment

預流果sotāpatti    sota流れ           āpatti 入った 

一来果sakadāgāmi   saki一回      āgāmin来る

不還果anāgāmi    an否定(母音の前) āgāmin来る

 

Phalasamapatti is a meditative state in which a person is absorbed in Nibbana itself.

In this attainment there is a special kind of consciousness present called Lokuttara-citta. 出世間の心

Phalasamapatti is attained by each of the four kinds of noble beings just after attaining the knowledge of the path, and it can be cultivated and extended by them as well.

 

nirodha-samāpatti  nirodha'extinction'滅 不還と阿羅漢のみが意識がない境地に至る

 

 

五禅支

vitakka⇒瞑想の対象に心を向ける。外に出ても何度も何度も入ることのできる心。尋(じん):

怠惰と無気力(thīna middha)の障害を抑制します。これは、思考対象、たとえば呼吸にマインドを向けるように訓練する方法です。tharkaは多くのarammana(思考対象)の間を行き来することに由来します。これが停止すると、「vitharka」すなわちvitakkaが発生します。つまり1つの思考対象(たとえば、呼吸やカシーナの対象)に留まります。

 

vicaara(ヴィカラ)⇒瞑想に向けた心を保つ心、支える心伺(し):

その対象に対するマインドの継続的に留まります。つまり、その対象への集中を維持します。

vicāraは、viは停止、「cāra」は動き回わることに由来します。

Vitakkavicāraは、花に向かって飛んでいるミツバチと喩えられ、花の周囲をブラブラと飛びながら、花から蜜を吸う様子です。Vicāraは一時的にvicikicca(疑惑,猶予)の妨害を抑制する働きをします。

pīti(ピティ)⇒喜びの心。 喜(き)

sukha(スカ)⇒身体的な楽。楽(らく)

ekaggata(エカーガッター)⇒一体感。 一境性(いっきょうせい):

 

マインドが対象に吸収されると、悪意の思考は抑制され、熱意またはメンタル的幸福(pīti もしくは preethi)がマインドに生じます。これはpītijhānic要因であり、悪意(vyāpada)の妨げになります。この幸せは主に表面的に感じられます。

 

肉体的な幸福(sukha)によって身体が軽くなります。このjhānicの要因は、落ち着きのなさと不安(uddhacca kukkucca)の障害に対抗します。

このようにマインドは完全に思考対象に吸収され、一点集中(ekgaggata)になります。これは、すべてのrūpalōka jhānic状態の主要なjhānic要素であり、集中(samādhi)の本質です。 

この一点集中は、感覚的な欲望(kāmachanda)を一時的に阻害します。

 

kāmacchanda渇望        に対しては、   ekgaggata(一点集中)

vyāpāda嫌悪           に対しては、   pīti

uddhacca-kukkucca移り気    に対しては、   sukha

thīna-middha怠け癖(眠気)   に対しては、   vitakka

vicikicchā疑い          に対しては、   Vicāra

 

5つのjhānic要素がすべて存在する場合、5つの障害は一時的に抑制され、最初のjhānic状態になります。 

 

 

 

間違った解釈

パラサマーサティ parasamāsati    

para          @ advprep.向うに,越えて,彼方に.  A a.他の,彼方の,上の

Samāsati[sa+āsati]  associate to sit together

 

 

 

通常の上座部では

第三禅 tatiya-jhāna   喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。

第四禅 catuttha-jhāna   楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。  

没入、呼吸もしていないように見える

第五から八禅は、対象は物質を離れて、メンタル性だけになり、心だけが体の枠を離れて拡がる  無色界

快感の中に入るので、ヴィパッサナー瞑想をやりたくないものが現れるので、最低でもサカダガミに達したものだけが、通常の第三禅に入ることが許可される。

通常の禅定はロキア瞑想と言われ、心は浄化され永劫の無色界に入るが、残されたバーバ・サンカーラによって生命が生まれ輪廻が再び始まり、解脱はできない。

 

 

一般的上座部仏教での「定」の4段階(四禅定)

四禅(しぜん, Rupajhana)とは、初期仏教で説かれる禅定(ジャーナ)のはじめの4段階のこと。

三界(欲・色・無色)の内の色界に相当し、禅定の段階に応じてこの色界を4分割した四禅天の略称としても用いられる。

禅天の意味で用いる場合は、初禅天から3禅天まではそれぞれ3種の天をとり、4禅天は7種の天をとって合計で16禅天あるとする。 (四禅天には諸説あり、9種とする解釈もある。)

欲界11、色界16、無色界4の合計で31領域になる。

31領域での宇宙エネギーの流転  

 

初禅 pahama-jhāna ( prathamadhyāna)

諸欲・諸不善(すなわち欲界)を離れ、尋・伺(すなわち覚・観)を伴いながらも、離による喜・楽と共にある状態。

第二禅dutiya-jhāna ( dvitīyadhyāna)

尋・伺(すなわち覚・観)が止み、内清浄による喜・楽と共にある状態。

第三禅 tatiya-jhāna ( ttīyadhyāna)

喜を捨し、正念・正見(すなわち念・慧)を得ながら、楽と共にある状態。

第四禅 catuttha-jhāna ( caturthadhyāna)

楽が止み、一切の受が捨てられた不苦不楽の状態。

 

 

段階

色界の (Rupajhana

四禅

初禅

第二禅

第三禅

第四禅

諸欲(Kāma) / 不善(Akusala)

(性欲・拙劣な資質)

隔れ、離脱する

離れている

離れている

離れている

(Vitakka)(認識対象把握)

ジャーナに従う

静止する

離れている

離れている

(Vicāra)(認識対象維持)

(Pīti)

(喜悦)

静まり、体に浸透する

サマーディが発生し
体に浸透する

消え去っている
(
苦とともに)

離れている

(Sukha)

(安楽)

物理的に体へと
浸透する

放棄されている
(
痛みと同様に)

Upekkhāsatipārisuddhi

(純粋、マインドフルな平静)

離れている

内面の安息を経て
メンタルが統一される

平静でマインドフル

マインドフル
喜びも痛みもない

 

 

 

 

 

 

Sayagyi U Ba Khin Journalサヤジ・ウバキン・ジャーナル

A Collection Commemorating The Teaching of Sayagyi U Ba Khin

 

P168 サヤジ・ウバキンの伝統において

 19913月、S.N.ゴエンカ氏は、師サヤジ・ウバキンに関するインタビューを受けた。次の文章は、その際のゴエンカ氏の発言を簡約したものである。

 

なぜウバキンは、メンタル集中の対象として、鼻孔の下のこれほどまでに小さな部分を選んだのでしょうか? そしてなぜ、呼吸への気づきと同時に、この部位に起こる肉体感覚を感じ取ることを勧めたのでしょう? アーナーパーナには、「呼吸に心を集中すること」という意味しかありませんよね?

 

 もしも瞑想の最終目的が、4つのジャーナ(心が没入した状態)や8つのジャーナを用いて心を集中させることであるならば、感覚という対象物を使う必要はありません。瞑想者は呼吸とともにあり続ければよいでしょう。それを続けていると、両眼を閉じている状態でありながらも、眼前になんらかの象徴物が現れてきます。そうしたら次は、その象徴物のほうにメンタル集中します。そうしてジャーナのサマーディを獲得します。

 しかしながら、ブッダはヴィパッサナーへ移行するようにと説きました。そしてヴィパッサナーにとっては、肉体感覚への気づきが絶対不可欠です。鼻孔のあたりを通過する呼吸を用いて瞑想する際、気づきの対象範囲が狭ければ狭いほど、心はするどくなってゆきます。心が繊細になってくると、感覚を感じ取れるようになります。心を広範囲に分散させたままにしていると、感覚を感じ取るのが難しくなります。微細な感覚についてはなおさらです。ですから、23日のあいだ呼吸だけを観察したら(すなわちアーナーパーナをしたら)、その次は感覚を感じるようにと指導されるわけです。

 

なぜウバキン氏は、肉体感覚の観察に「スウィーピング」という言葉を用いたのでしょうか? これは、ブッダの教えとは異なる、新たな瞑想法なのでしょうか?

 これは説明の仕方の問題です。心と体の全体が溶けた状態にある時には、頭から足先までどこにもつっかえることなく、注意を動かしてゆくことができます。パーリ語という古代言語において、この段階は「バンガ(溶解)」と呼ばれます。頭から足先へ、足先から頭へと、流れるように速やかに注意を移動させることができます。ブッダは次のような表現を用いました。サッバ・カーヤ…――「吸う時であれ吐く時であれ、一息ごとに瞑想者は全身を感じ取る」

 私たちは、これを英語で表現する時には「free flow(自由な流れ)」あるいは「sweeping(掃くように感じ取ってゆくこと)」と言っています。ヒンディー語では、ダーラー・プラヴァーハという語を使っています。「溶解」の段階にある時には、息を吸い込む際に全身を感じ取り、息を吐く際に全身を感じ取ります。

 これを表現するにあたっては、バンガ、スウィーピング、自由な流れといった言葉がふさわしいでしょう。これは単に、ある体験をどう言い表すか、というだけのことにすぎません。瞑想法に何かしらの変更を加えた、というわけではありません。このバンガ・ニャーナという体験をどんな名称で呼ぶにせよ、この体験は、完全なる解放への道における非常に重要な一里塚であることに変わりはありません。

 

ウバキン氏の瞑想上の師は誰ですか?

 サヤジは、あるひとつの伝統の中で任命を受けた教師でした。彼の師はサヤテッジです。サヤテッジは、 ラングーン川の対岸に住む農夫でした。サヤテッジの師はレディ・サヤドーです。レディ・サヤドーは非常に学識ある僧侶であり、また、たいへん高名なヴィパッサナー指導者でした。これが100年前のことです。この伝統にはさらに古い歴史があるのですが、歴代の指導者たちの名前は、今ではもう分かりません。

 

なぜあなたの瞑想法は、「サヤジ・ウバキンの伝統において」と銘打ってあるのですか? あなたの師であるウバキン氏は、新たな仏教流派を創始したのですか? もしそうでないのなら、サヤジはどんな伝統を引き継いだのでしょうか?

ブッダの伝統です! ブッダの教えは、インドからミャンマーへと伝わりました。先ほど述べたとおり、歴代の全指導者たちの名前までは分かりません。しかしながら、直近の3代の名前は分かっています。レディ・サヤドー、その弟子のサヤテッジ、さらにその弟子のウバキンです。

 私たちがウバキンの名前を使用しているのは、彼がこの伝統におけるもっとも直近の指導者であり、なおかつ有名な人物であったからです。もしもサヤテッジやレディ・サヤドーの名前を使っていたなら、それが誰なのか分からない人が大勢いたことでしょう。そういった理由で私たちはウバキンの名前を使用しているのですが、これは、彼が修行法を発明したという意味ではありません。

 

あなたの指導法は、ウバキン氏の指導法を踏襲したものですか? あるいは、あなたは何か変更を加えましたか? もし変更を加えたのであれば、どうしてその変更が「改良」だと言い切れるのでしょうか? 単に混乱と誤解を生み出しただけではないと、どうして言い切れるのでしょうか?

 

 ブッダの教えに修正を加えることができるのは、ブッダ以上のブッダになった者だけです。しかし、誰もがブッダよりも低い境地にいます。ですからいかなる指導者も、ブッダの教えに手を加えようとすべきではありません。「改良」の名のもとに教えを損なうべきではありません。

 当然ながら、説明の仕方は異なってゆくでしょう。サヤジは西洋人生徒を相手にせねばなりませんでした。ですから、西洋人にも理解できる語り口、現代的で科学的な語り口で、ものごとを説明する必要がありました。それと同じように、インドにやって来た私は、さまざまな集団、宗教、伝統の出身者と大勢向き合わねばなりませんでした。私自身もインド系ですので、メンタル性の高いインド思想の全領域を背景に持っています。ブッダ以前の時代、ブッダの時代、ブッダ以後の時代のインド思想のすべてです。ですから、なんらかの宗教/宗派に属する生徒を相手にダンマを語り合う際、私は、その人の背景を考慮に入れなければなりません。そうやって、相手が容易に理解できる説明の仕方で話すわけです。説明が生徒に伝わらないことには、教える意味がまったく無くなってしまいます。

 西洋人に向けて講話をする時にも、ダンマの真髄は変わらぬままです。しかしながら私は、ヒンディー語でダンマを説明する際には、英語での講話とは異なる説明をしています。異なる喩え話や物語等々を使っています。相手が正しく理解して修行できるようにするには、聴き手が誰なのか、どうすれば瞑想法を説明できるのかを考慮する必要があるのです。

 スッタ(説法)を勉強してみれば、ブッダその人も、聴き手に応じた話し方をしていたことが分かるでしょう。たとえばバラモン(祭司)の一団との対話では、それに応じた話し方をしました。シュラマナ(遊行者、サマナ/沙門)との対話においては、シュラマナが理解できる語り口で話しました。パーリ語には、ブッダのこの資質を言い表す言葉があります。ウパーヤ・コサッラです。これは、「さまざまな手段の用い方に習熟している」という意味です。彼は、覚者(ブッダ)となる以前でさえも――つまり、まだボーディサッタ(ブッダとなるために励んでいる者)であった頃でも――この資質を育んでいたことが(うかが)われます。さまざまな状況下において、シーラ(道徳)の面で道を踏み外してしまうことを、彼はいかに巧みに回避したことか! そして、いかに巧みに他者を助けたことか! ブッダとなった彼は、さらにいっそう巧みになりました。

 ブッダとなるための道を歩んでいる者や、ブッダの教えを広めようとしている者はみな、巧みでなければなりません。ダンマを説明する方法は、時と場合によって異なります。また、相手によっても異なります。それでも教えの本質は変わりません。瞑想法は変わりません。あるブッダと、別のブッダを比較した場合でさえ、教えの本質と瞑想法は変わりません。ブッダですら、過去のブッダの瞑想法に手を加えないというのに、その瞑想法に手を加えようとするウバキンとは何者でしょう? その瞑想法に手を加えようとするゴエンカとは何者でしょう? この瞑想法には、決して変更を加えてはならないのです。

 

あなたはどのようにして、ウバキン氏こそが自分の先生だと実感なさったのですか?

 私は、非常に厳格なヒンドゥー教の出身です。また、私はあまり高等な教育を受けていませんが――大学の学位を持っていませんが――知識欲は甚だ激しいものでした。幼い頃から、数々の本を読み始めました。特にヒンドゥー教関連の書物です。ギーター、ヴェーダンタ、ウパニシャダ等々です。

 私は、これらの書物が説く教えに深く魅了されました。「心をあらゆる汚濁から解き放つことは、人間の生において成しうることの中で最高のものだ」と感じました。けれども私は、単に心の清らかさについて思索したり、ただダルマの理論を理解するだけでは、まったく自分の助けにはならないことに気がつきました。そこで、友人の勧めと我が家の伝統に従って、宗教的信仰心を強める修行、祈りの修行を始めました。こうした勤行が心を浄化してくれるのかもしれない、と思っていました。しかし、実のところそれは、汚濁に満ち満ちていました。エゴに満ち満ちていました。知的戯れに興じても、汚濁から抜け出せることはありませんでした。そこで今度は、感情的高揚という戯れ、信仰心を高揚させる戯れを試してみました。しかしこれもまた、一時的な気晴らしを与えてくれる以外の効果はありませんでした。

 初めてコースを受けた時、まず真っ先に衝撃を受けたのは、「ギーターやウパニシャダ等々の教えは、どれもこれも単なる教えにすぎないのだ」ということでした。それらは、心を浄化するための技法を与えてはくれませんでした。これらの経典は、繰り返しこう言います。「心を浄化せよ。渇望から心を解き放て。嫌悪から心を解き放て」と。でも、いったいどうすれば渇望と嫌悪から心を解放することができるのでしょう? 自分の心に向かってただ言い聞かせるだけでは、効果はないのです。

 初めてコースを受けた時、ついに私は、実効性のある技法を見つけたのでした。ですから、コース中にその場でこう思い定めました。これこそが私の歩む道だ、と。他の道を求めてあちこちを探し回ることなど、私には無意味でした。私の先生サヤジ・ウバキンから授かったこの実践的な教えは、それほどまでに魅力的であり、興味深いものであり、満足のいくものだったのです。

 

 

 

 

 

『ヴィパッサナーの鐘は鳴った』The Clock of Vipassana Has Struck

原著はイタリア語『Il Tempo della Meditazione Vipassana e Arrivato』ウバルディニ・エディトール社 1993年に出版

 

Q:サヤジの指導法には、主にどんな特徴がありますか?

SNG:瞑想者はまず、シーラから始めなければなりません。つまり、まずは日々の生活の中で、いくつかの基本的な道徳的指針に従うことから始めねばなりません。そしてその次は、サマーディ(メンタル集中)の開発を始めなければなりません。そのためには自然な呼吸、純粋な呼吸だけに心を集中し、気づきを培います。(純粋な呼吸とは、「ただの呼吸以外に、集中の対象とするものを一切付け加えない」ということです。)そうしてサマーディを培った後は、パンニャー(智慧)を育まなければなりません。そのためには肉体感覚を観察します。平静に、反応することなく、感覚がもつaniccā常に変化し続けていること)という性質を理解しながら観察を続けます。それを通して、心に新たな不純物を生むのをやめる技術を身につけます。そうすることで初めて、心の奥に蓄積された古い不純物が表面に浮かび上がり、消えていくようになります。これがサヤジの教えたことです。これがブッダの教えたことです。これが私自身も教えていることです。

 

Q:サヤジの説いたヴィパッサナー瞑想法は、どこがユニークだったのでしょうか?

SNGbhāvanā-mayā paññā(自らの直接的体験によって育まれる智慧)だけを重視します。スタマヤー・パンニャー(誰かの話を聞いただけの知恵)や、チンターマヤー・パンニャー(合理づけや知的分析から得た知恵)でも、ある程度は心を浄化することができますが、あくまで「ある程度」です。bhāvanā-mayā paññāだけが、心の最深部まで浄化できるのです。心のもっとも奥底にある条件づけのことを、ブッダは「サンカーラ・アヌサヤキレーサ」と呼びました。つまり、潜在意識にひそんだ条件づけのことです。「これが消え去って初めて、完全な解放は得られるのだ」とブッダは説きました。サンカーラ・アヌサヤキレーサを滅ぼす唯一の方法は、bhāvanā-mayā paññā(つまり直接的体験を通して得られる智慧)を育むことであり、直接的体験を得る唯一の方法は、感覚を平静に観察することなのです。この発見こそ、ブッダが人類にもたらした最大の貢献であり、その教えを引き継いだサヤジが説き続けたことです。

 

Q:ミャンマーのサンガ(仏僧集団)とサヤジは、どのような間柄だったのでしょうか?

SNG:サヤジと彼らは非常によい関係でした。サヤジは仏僧たちに深い敬意をもっていましたし、彼らもまた、サヤジに対して強い信頼と親しみを感じていました。サヤジを深く慈しみ、彼の指導ぶりを誇らしく思っていました。「サヤジの指導法は、ヴィパッサナー瞑想の正しい教え方だ」と考えていたのです。僧たちはサヤジの成功を祝福していましたし、当然ながら彼らの中には、サヤジが出家してくれればなおさらよいと思う人もいました。そうすれば、大勢の僧侶が彼のコースに参加できるからです。しかし、サヤジにその気はありませんでした。その理由は単純で、仏教徒を名乗らない人びとにもダンマを広めたかったからです。僧衣をまとって指導をすれば、「改宗させようと企んでいるのではないか」と勘違いされてしまうかもしれません。サヤジは、自分が出家することがダンマを広める上での障害となりうることに気づいていました。彼は、この普遍的な瞑想法(心の中の否定的感情や条件づけを取り除く方法)を、在家者・家庭人に学んでほしかったのです。彼らがよりよい在家者、よりよい家庭人となれることを望んでいたのです。こうした理由により、サヤジは在俗指導者にとどまり、彼らのよき模範となって、励みを与えられるような存在であろうとしたのです。

 

Q:サヤジが最初に習ったヴィパッサナーは、どんな瞑想法だったのでしょう? その瞑想法にどんな変更を加えて指導したのでしょうか?(もし変更点があればですが。)

SNG:変更点などありません。サヤジはこの瞑想法を学び、そのまま次世代に受け渡しました。この伝統的修行法においては、誰も手を加えたことはありません。

 

Q:サヤジの教えは、ブッダの教えと寸分違わないものだとお考えですか? サヤジは、ブッダの教えを現代に適合させたのでしょうか? もしそうなら、彼はもともとの教えのどこをどのように変更したのでしょう?

SNG:教えに変更は加えられていませんが、たしかにサヤジは、生徒がより理解しやすいように、ブッダの教えの表現を変えました。非仏教徒や西洋の英語話者は科学的なメンタルをもっていたので、サヤジは、ブッダの教えを伝える上で、より科学的な表現を用いました。そのおかげで彼の説明は、瞑想を学びに来た生徒たちに適したものとなりましたが、教えの実質は何も変わっていません。

 

Q:あなたの指導法は、なぜ「サヤジ・ウバキンの伝統的方法論において」と銘打たれているのですか? サヤジは仏教の一流派を創始した、ということでしょうか?

SNG:サヤジは「ブッダ以来の伝統」ということについて、いつも話していました。その伝統はミャンマーへ移り、代々受け継がれ、先ほどお話しした3世代の指導者を経て、今に至ります。3世代の指導者とはつまり、レディ・サヤドー、サヤテッジ、そしてウバキンです。私たちが「ウバキンの伝統において」という表現を使うのは、彼が直近の指導者であり、なおかつ母国ミャンマーで非常に知名度が高いからです。しかし、だからといってこの瞑想法がサヤジの考案したものだ、というわけではありません。これは古来の瞑想法であり、サヤジはそれを現代に即したやり方で教えたというわけです。

 

 

 

 

P.91 第四章 ウバキンの指導法の特徴

ヴィパッサナー瞑想において前進していくためには、瞑想者はaniccāへの気づきを、可能なかぎり途切れることなく持続させねばなりません。ブッダが僧侶らに向けてアドバイスしたのは、「いかなる姿勢でいる時でも、aniccā,dukkhā,anattāへの気づきを保ち続けるように心がけなさい」ということでした。aniccāに対する間断のない気づき、そして同様に、dukkhāanattāに対する間断のない気づき――これが成功の秘訣なのです。

 ブッダが息を引き取ってmahāparinibbānaへと入る間際に残した最期の言葉は、次のようなものです。「崩壊/老い(あるいはaniccā)は、あらゆる構成体にそなわる性質である。みずからの解放のために、懸命に励みなさい」実に、これこそが45年間にわたって人びとを指導し続けたブッダの、すべての教えの真髄です。あらゆる構成体にそなわる、aniccāという性質に気づき続ける人は、やがては必ず最終ゴールへと至ることでしょう。

 ――サヤジ・ウバキン

 

 ウバキンは、ヴィパッサナー瞑想への最短のアプローチの仕方を練り上げました。短期間の集中的な修行によって瞑想法を理解し、在家者としてのその後の生活の一部として、修行を継続していくことができるようにしたのです。ウバキンの方法論は、ダンマが西洋に波及していくうえで、非常に大きな重要性を持っていました。というのは、彼が瞑想センターで20年にわたって指導していく中で、何千何万もの外国人生徒が、仏教に関する予備知識をまったく必要とすることなく、この深遠な修行法をすぐさま理解することができたからです。1971年にウバキンが亡くなってからは、彼にもっとも深く関わっていた生徒たちの幾人かが仕事を引き継いで、ミャンマーのみならず、諸外国においてこの瞑想法を普及させています。

 ヴィパッサナー、深い洞察力を培うこの瞑想法。その目的とはいったい何なのでしょうか?この修行に人生のすべてを捧げている人と、養うべき家族や仕事を抱えている人とでは、ヴィパッサナーを修行する目的に何かしらの違いがあるのでしょうか?極めて概して言えば、そこに違いはありません。最終目標は、苦しみの終焉です。ウバキンの表現を借りるならば、「みずからの内側にニッバーナの安らぎを体験する」ことが、この修行の目的なのです。しかし同時に、修行がもたらす恩恵は、日常生活にも及ぶものでなければなりません。内面の緊張から生まれる苦しみにも効果を発揮し、現代の生活から受けるストレスによって生じる不安や恐怖にも効果を与えるものでなければなりません。今この瞬間に、調和の取れた生き方ができること。愛と慈しみを他者に向けて表現できること。怒り、欲望、不安を持つことなく日々の務めを果たしていけること。このような力が、僧侶のみならず在家者にも手に入れられるのです。

 ウバキンは、自分の生徒たちには多くの現実的制約があり、修行にあてられる時間もあまりなく、僧侶のようにはいかないことを実感していました。しかも、彼らは僧院という避難所にとどまっているわけにいかず、一般社会の中で生活し、互いに関わり合っていかねばなりません。生活環境は、コントロールの及ばぬ部分がはるかに多いのです。そうした状況は概して、みずからの行為を道徳的なものに改め、心の集中力を高めていくのに適してはいません。道徳律とメンタル集中とを身につけることは、深い理解を育むうえでは欠かせないにも関わらず、です。こういった理由から、ウバキンは、生徒たちがそのような日常生活の圧力に負けないでいられるような方法を考え出し、彼らに教えました。10日間という短い期間のうちに、ウバキンの生徒の多くが、内なる現実というものをわずかなりとも体験できるようになり、センターを離れてからも日々の2時間の瞑想をとおして、自身の顕在意識の領域を拡大していけるようになったのです。

 ウバキンは、シーラ(道徳律)の修行こそが必須の土台となることを理解していました。そのため、ブッダが在家者のために定めた五戒を順守することの大切さを、常に強調していました。五戒とはすなわち、殺さないこと、盗まないこと、性的あやまちを犯さないこと、嘘をつかないこと、いかなる麻薬類も摂らないことです。

シーラの修行を土台としたうえで、ウバキンの手法はさらに3つの特徴を持っています。まず第一に、集中力を一定レベルまで高めること。この点について、ウバキンは次のように書いています。

 

  サマーディ(心の集中)は、心を静穏で純粋で強固なものにするための訓練法であり、宗教的人生の中核をなすものです。それは仏教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、シーク教徒、何教徒であろうと同じことです。実際それは、あらゆる宗教がもつ最大の共通項なのです。何教徒であろうと、心を不純物(ニーヴァラナ)から解き放ち、清らかな状態へと育んでいかなければ、ブラフマーや神との一体感を得ることは、まず不可能でしょう。さまざまな宗教において、さまざまな方法論が用いられていますが、「心を成長させていき、最終的には体と心の安らぎを完璧なものにする」という目標は同じです。(ヴィパッサナーの)センターでは、生徒は集中力を育み、心を一点にとどめ続ける能力を育んでいきます。そのための修行法として、上くちびるの上から鼻腔の入り口の部分に意識を集中し、それと同時に、呼吸運動に対して「今、呼吸が入ってきているのか、出て行っているのか」という気づきを、静かに保ち続けるよう指導されます。センターで教えられているこのアーナーパーナ瞑想(つまり、呼吸への気づきの瞑想法)の大きな利点は、呼吸というものが自然物である、ということのみではありません。呼吸は、いついかなる時でも利用可能であり、いつでも船のアンカーのように、意識を呼吸へとつなぎ止めておき、それ以外のいかなる思考も排除することができるのです。さまざまな思考の波がやってきますが、まずは関心の範囲を鼻下の部分へと狭めていきます。同時に、呼吸への気づきも保ちます。そうすると次第に、寄せては返す呼吸の波が、浅くなっていきますが、それにともなって、意識する範囲を上くちびるの上部へとさらに狭めていき、呼吸の温かさだけを感じ取り続けます。確固たる決意をもって、そのように努め続けるならば、勤勉な生徒は23日の訓練で、必ずや心の一点集中を身につけることができるでしょう。

 

 内なる真実というものを単に知的に理解するのではなく完全に体験するための、貫きとおすような力をある程度身につけるために、ウバキンの生徒は、短期間のうちに心の集中力を高める必要がありました。僧侶の伝統的な修行との違いはここにありました。出家者の伝統的な修行法においては、微細な集中力を極限レベルまで高めねばならないのですが、在家修行者には、そのような高いレベルのサマーディを身につけるために必要とされる時間や完全な隔離環境は、めったに整わないでしょう。けれども同時に、ウバキンは、最小限の集中力訓練だけでは満足しませんでした。彼が関心を持っていたのは、深い智慧の領域においてヴィパッサナー修行に取り組むための、十分なレベルのメンタル集中を身につけることだったのです。

 

 ウバキンの指導法の第二の特徴は、aniccā(無常性)を強調している点です。ブッダは次のように語っています。「あらゆる経験、この俗世におけるあらゆる現象は、3つの性質を有する。すなわち、無常性、満たされぬこと(あるいは苦悩)、そして無我である。」気づきの修行をおこない、自然に現れ出てくるものだけを観察していくうちに、現実というものが持つこれら3つの性質へと、注意がしぼられていくようになります。この修行により、誤った思いこみは無くなっていき、執着が弱まっていきます。ウバキンは、「これら3つの基本的性質を理解するうえでの最短の方法は、aniccā(無常性)への気づきを培うことである」と教えました。aniccāは、3つのうちでもっとも明白かつ理解しやすいものであり、また、aniccāを感じ取ることで、残る2つもおのずと理解されていくのだと、彼は主張したのです。

 ウバキンのヴィパッサナー指導法の真の目標は、変化し続ける刹那的な肉体現象を、肉体の枠組みの中において、間断なく観察し続けること――肉体感覚のシステマティックな観察――です。mahā satipaṭṭhāna suttaの中でブッダが繰り返し強調したように、「生成と消滅(samudayavaya)」の微細な現実は、「メンタルと肉体」の現象の、あらゆる面にそなわっています。この生成と消滅のプロセスは強力なので、肉体感覚の中に容易に見出すことができる、とウバキンは知っていました。ウバキンの生徒は、この肉体感覚というものに意識を集中するように指導されましたが、samudayavayaの変化プロセス、すなわち触覚において、熱や冷たさ、痛み、しびれ、圧迫感などを体験していくことで観察できる、変化のプロセス、に対する鋭敏さを培うためです。もろもろの現象が持つ、「容易に変化しうる」という性質を、肉体の枠組みの内においてただただ観察することを、彼は教えたのです。

ウバキンは常々こう主張していました。「継続的な修行によって、実用的成果だけでなく、メンタル的成果ももたらされる」と。在家者であっても、まさにこの生涯においてニッバーナの果実を実際に味わうことができるのだと確信していたのです。そして、儀式をおこなったり、教えに関する書物を読むだけで満足してしまうことのないようにとアドバイスしていました。

 彼の生徒S.N.ゴエンカがいい表したように、この修行は「生きる技」でもあります。この修行法が持つ、心の浄化力について、ウバキンは非常に強い確信を持っていました。そのため、会計局の彼のオフィスに勤める従業員全員に対して、みずからの指導するコースを取るようにと強く勧めました。そして、瞑想修行用にオフィスの一画を確保していました。政府の会合がひどく紛糾し混乱しているような場面では、(そういう時はたいてい、論争を呼ぶような過激な意見をどっさり抱えた人びとがいたのですが、)議論がもっとも白熱している最中に、ウバキンは中座して、数分間、窓の外を見つめながらたたずんだものでした。そうしてからまた会議のテーブルに戻るのです。同僚たちは、ウバキンは外の世界を眺めているのだと思っていましたが、彼は親しい者にこう説明していました。「実際のところは、しばし小休止をして、自身の内面を見つめ、再度気づきを確立し直すことによって、よりよい状態で目の前の諸問題と向き合えるようにしているのです」と。

 

 ウバキンの手法の3つ目の特徴は、10日間という短い修業期間の、その濃密さです。生徒たちはわずかな時間しか持っておらず、すぐにまた日常生活のさまざまな活動や務めへと身を戻さねばなりません。そのことを考慮して、ウバキンは彼らに完全に修行に没頭できる機会を与えようとしたのです。そのため、彼は生徒たちに対して常に、瞑想修行の実践的側面・具体的側面を強調し、理論的・教義的説明を最小限にとどめていました。直接的かつ濃密な修行を各人がみずから体験することによって、ダンマを生きること、すなわちこの世界全体を秩序立てている自然の摂理を生きること、こそがウバキンにとって重要だったのであり、実際それこそが重要なのです。

 この修行法の概要をかいつまんで述べるならば、それは次の3つより成ります。すなわち、まずは道徳律の修行。次いで、メンタル集中(これは呼吸への気づきから始めます)。そして次に、研ぎ澄まされた意識を肉体の各部位に向けていき、肉体構造の全体をシステマティックに、すみずみまで観察していき、そうすることで、肉体に生じるあらゆる感覚への、完全かつ微細な気づきを徐々に培っていくことです。目標は、どんな感覚であれ、あらゆる感覚を、よりはっきりと、あるがままに知覚することです。そして、この「知覚する」という手段によって、肉体とメンタルに起こる現象が間断なく生成と消滅とを繰り返していることに対する気づきを、さらに完璧なものへ、さらにするどく貫きとおすようなものへと培っていくことが目標です。肉体感覚とは、「肉体とメンタル」の現象が具象化したものなのです。そして、今述べているのは、「肉体の観察」と、「肉体感覚の観察」についてであり、気づきを確立すべき四領域のうちの、第一と第二の領域です。(ブッダの最重要講話のひとつ、mahāsatipaṭṭhānasuttaの中で、そのように語られています。)

 残る2つの領域(「心の観察」と、「心に生じる現象の観察」)は、ウバキンの方法論においては、ただ気づきの連続性を保つのに必要な程度にのみとどめて修行します。すなわち、主軸となる修行法(体に生じる肉体感覚の観察)をおこなっている最中に生じる、あらゆる思考や感情等は、それが生じているときには知覚していますが、意識は常に肉体感覚に集中し続けておく、ということです。なぜなら、この肉体感覚へのはっきりとした知覚と、その肉体感覚の無常性への明確な知覚によってこそ、心の浄化は起こるからです

ブッダは次のように言っています。「『心』と『心が知覚する対象物』を内包しているこの1ファゾム(約1.8メートル)ほどの肉体――。まさにこの肉体の内において、私は宇宙を知り、宇宙の起源を知り、宇宙の停止を知り、宇宙の停止へと至る術を知るのだ」(アングッタラ・ニカーヤ、チャトゥッカニパータ5.5、ロヒタッサ・スッタ)

肉体における生成と消滅のプロセス――それに対する知覚が、徐々に微細かつ詳細になっていくにつれて、それが一定不変のものでなく、移ろいゆく性質のものであることへの気づきが増していきます。実質的には、これこそがaniccāの体験であり、あらゆる存在物の徹底した無常性を体験することです。ウバキンの表現を借りるならば、この体験は「aniccāを活性化させる(the activation of anicca)ということです。この活性化、すなわち直接的体験のレベルにおいて、無常性に気づいていることは、次第に育まれ、肉体の内側にも表面にもなく広がっていきます。そして、心の中の欲望、執着、嫌悪、不安、恐怖、緊張といったものを取り除いていき、古くからの心の習性を再編していくのです。その恩恵は物質としての身体にも及び、しばしば不調を緩和し、心身症を軽減します。

 実際に何が起こるのかについては、大まかなことしか言えません。aniccāに対する明確な気づきをとおして、すなわち、無常性の直接的体感を通して、瞑想者が諸現象の真の性質を少しずつ深く見抜いていくようになります。やがて、それまでとは異なる、体験に基づいた平静な心構えができてきます。この平静さは、欲望や不安や恐怖といったものを滅ぼす効果を持っています。そしてその結果、苦悩を生み出す原因となっていたみずからが作った自動反応回路の影響力は弱体化します。そして、「この性格こそが、『私』を『私』たらしめる不変の個性だ」という勘違いと執着が消えていきます。ウバキンは次のように述べています。

 

  燃料が、着火されれば燃え去るのと同様に、内なる否定的エネルギー(心の不純物や毒)は、Nibbāna dhātuによって滅却されていきます。Nibbāna dhātuとは、瞑想中、自身がaniccāに対する真の気づきとともにあるときに、みずから育むものです省略

 aniccāの体験を適切に積み重ねていくと、それは肉体的・メンタル的な病の根元に作用します。自分の内にひそむ悪いものを徐々に根絶やしにしていきます。つまり、肉体的・メンタル的な病の根本原因を取り去るのです。

この体験は、世俗を捨てて家を持たぬ生活に入った人だけのものではありません。在家者のためのものでもあります。現代の家庭人は多くの自動反応回路に動かされて、心休まるひまもありません。しかし、優秀な教師や指導者は、こうした生徒たちが比較的短時間のうちにaniccāの体験を活性化できるよう、手助けすることができます。生徒は、ひとたびそれを活性化させたならば、あとはただ、それを保ち続けるよう努めさえすればよいのです(省略

 

 コースを一度終えた後も、引き続きaniccāの体験を積み重ねていくためには、自立的な修行の継続が欠かせません。しかしながら、サヤジは非常に実際的な人だったので、いそがしい一般人に対して過度な要求をしたりはしませんでした。

  

  aniccāの体験を、四六時中活性化させておく必要はありません。活性化させるための時間を、11度以上、日中や夜の時間帯に日課として設けることができれば、それで十分でしょう。少なくともこの時間だけは、意識を体の内側へ集中し続け、気づきをaniccāだけに向けて注ぐよう努めねばなりません。つまり(省略aniccāへの気づきを一瞬の間断もなく維持せねばならず、とりとめのない雑念が入りこむのを許してはならないのです。間違いなくそれは、進歩を妨げるものだからです。

 

 経験に裏打ちされたサヤジの言葉には、非常に重みがあります。次の言葉も、しばしば引用されるものです。

  瞑想者が、有能な指導者のもとで、偏見のない心をもってに瞑想コースに取り組むなら、その人にはたしかな成果がもたらされるでしょう。そのことに疑いの余地はまったくありません。その成果は、すばらしく、具体的で、生き生きとして、自分自身で実際に味わえるものです。それが、瞑想しているまさにその瞬間に、その場で得られるのです。その成果は、その人の心をよい状態に保ち、その後の人生をずっと、満ち足りた幸福な心持ちであり続けさせてくれます。

 

P.98 QA

Q:サヤジが「aniccāを理解すること」をこれほどまでに強調したのはなぜですか?

S.N.ゴエンカ:なぜなら、それこそがブッダの教えだからです。ブッダは言いました。「この教えは、aniccāへの理解を保ちながら感覚を観察すること(つまり、その感覚の無常性を理解しながら観察すること)によって、bhāvanā-mayā paññā(自身で体験する智慧)を育むことである」と。無常性を理解するという体験を通して初めて、苦悩の真理を本当の意味で知ることができます。そうすることで、今度は無我(「私」や「自己」など存在しないということ)を理解できるようになります。

 

Q:サヤジがこれほどまでに修行の連続性を強調し、十日間コースをこれほど濃密なプログラムにしたのはなぜですか?

SNG:なぜなら、それこそがブッダの教えだからです。昼夜を分かつことなく、常に、途切れることなく、aniccāの理解をもって感覚に気づき続けることが求められます。コースはたったの10日間しかありません、ですからサヤジは、生徒たちのためを思って、「間断のない気づきを、できるかぎり長時間持続させるように」とアドバイスしたのです。

 

Q:サヤジが「肉体感覚の観察」をいちばん重視したのはなぜですか? つまり「心に起こる現象」よりも「体に起こる現象」の観察を優先し、さらに言えば「肉体感覚を土台として体を観察すること」を重視したのはなぜでしょうか?

SNG:なぜなら、世間一般で「心の観察」が語られるとき、多くの場合、それは「心をただ客観的に感じ取ること」ではなく「心について熟考すること」を指しているからです。心についてじっと考えるというのは、心の中に浸りこんで心に翻弄され、反応し続けることを意味します。ブッダはそのようことは教えませんでした。

 さて、これとは逆に、瞑想者が肉体感覚を用いて修行するとき、そこには、触覚によって知覚できる、直接的でたしかな体験があります。この体験には、空想の入り込む余地が一切ないので、幻想も一切ありません。「肉体感覚を用いて修行せよ」とブッダは言いましたが、それは「心を完全に無視せよ」ということではありません。なぜなら、肉体感覚を知覚するのは、肉体ではなく心だからです。感覚は肉体に生じますが、心が感じ取っているのです。感覚の観察には、メンタルと肉体(物質)の両方が関わっているわけです。

 心に生じたものはすべて、感覚となって肉体に現れます。この教えは、どんなに強調しても足りません。心の状態だけを観察するのも、観察能力を高める役には立つでしょうが、それは真理の全体ではありません。ただ思考だけを観察しているにすぎません。

その瞬間、肉体のほうには何が起きているでしょうか? 心と体の両方を観察しなければならないのです。心に思考が生じるとき、それと並行して肉体に感覚が生じます。そして実のところ、感覚こそが問題の根源なのです。私たちは、思考そのものには反応しません。一般的には、心地よくなるような思考が生じるときに渇望が始まり、不快な思考が生じるときに嫌悪が始まるのだと考えられているかもしれません。しかし自然の摂理に沿って言えば、私たちが「心地よい思考」と呼ぶものは、体に起こる心地よい感覚にほかなりません。肉体感覚の観察を怠るなら、表面的なレベルでの修行しかできません。それでもある程度の恩恵は得られますが、自身の不純物を滅ぼし尽くすことはできません。不純物の根が残るからです。

 

Q:「まさにこの肉体の内に、全宇宙が内包されている」というブッダの考えについて説明していただけますか?

SNG:この肉体の内で、生成の車輪は回っています。この肉体の内に、生成の車輪を回す原因となるものが存在しています。だからこそ、この肉体の内で、苦悩の車輪から自由になる方法も見つかります。こうした理由により、瞑想者があらゆる条件づけからの解放を目指すときには、肉体を調べることがもっとも重要となるのです。自身の内にある直接的かつ物質的な現実、自身の存在の基盤となっている現実についての正しい理解を獲得しないかぎり、内なる生成の車輪は回り続けます。正しい理解が培われるにつれて、徐々にこの車輪の回転速度は弱まり、やがて「生成」の支配から解放される時が訪れるのです。

 

Q:肉体上で感覚器官がどのように働いているのか、くわしく説明していただけますか?

SNG5つの身体的な感覚器官と、心という感覚器官は、すべて肉体にそなわっています。外界との接触はすべて、これら6つの感覚器官を通して発生します。私たちにとってこの宇宙は、感覚器官に接触したときにのみ存在していると言えます。たとえば「形」というものは、当人にとっては、目に接触したときに初めて存在していると言えます。目に接触することがなければ、その人にとっては、それは存在しません。同様に、「音」がその人にとって本当に存在していると言えるためには、耳という聴覚器官に接触しなければなりません。「におい」は鼻と、「触れて感知することのできる物体」は触覚器官と、「思考」や「空想」は心と、それぞれ接触しないことには、当人にとっては存在しないのです。この肉体構造にそなわる六つの感覚器官を通すことで、この宇宙の全体が姿を現すわけです。ですから「全宇宙はこの肉体の内に存在している」と言うのももっともなことです。自らの内なる現実を科学的な方法で調べるためには、いかなる信条も哲学も空想も教義も、わきに置いておかねばなりません。自身の内側にある究極的現実を知るためには、真実だけを対象に修行し、自分が直接体験したものだけを真実として受け入れることが必要です。このような方法で真理を探究するなら、この世界の謎はすべて解き明かされるでしょう。

 

Q:肉体の観察には、どう取り組んでいくべきでしょうか?

SNG:瞑想を始めたての段階では、粗雑な、凝固した、表面的な真実に出会います。つまり、粗雑な肉体感覚です。まずはそのような段階から始めて、こうした肉体感覚を貫き、どんどん微細な真実へと移行していきます。ついにはもっとも微細な真実へ到達します。サヤジが言うところの「カラーパ」(物質の最小単位)(重力を持つ物質の最小単位はs、機能の最小単位がカラーパ)です。

実体験を通して、瞑想者は次のことをはっきりと理解します。形(=視覚対象)と目が接触することで、目のヴィンニャーナ("意識")が生じるということを。言い換えれば、「接触が発生した」という事実に対する心の「感知機能」が生じるということです。瞑想者はさらに「その接触が振動(=肉体感覚)を生むのだ」ということも理解します。接触箇所に発生した振動は、そこから全身へ広がります。たとえるなら、銅の器のどこか一点をたたくと、その接触によって器全体が振動するのと同じことです。接触が感知されると、知覚のプロセスが立ち現れます。視覚対象が認識されます。たとえば「男である」「女である」「白人」「黒人」「醜い」「美しい」というように。接触したものは、特定されるだけでなく、続いて価値判断を与えられます。「よい」「悪い」「肯定すべきもの」「否定すべきもの」「好ましい」「不快」というように。そして最終的に、接触によって生じた感覚が心地よく感じられると、心は渇望で反応します。不快な感覚であれば、嫌悪で反応します。

 このようにして瞑想者は、心の4つの機能がどう働いているのかをはっきりと理解し始めます。感知、認識、感覚、反応の4つです。渇望は心地よい感覚をさらに増大させ、心地よい感覚は渇望をさらに増大させます。嫌悪は不快な感覚をさらに増大させ、不快な感覚は嫌悪をさらに増大させます。この悪循環が、肉体感覚に起点にして始まり、刻一刻と生じ続けるさまを、瞑想者は正しく理解するでしょう。「これが生成の車輪、苦悩の車輪なのだ」と。

 これと同じプロセスが、耳と音の接触、鼻とにおいの接触、舌と味の接触、体と「触れて知覚できるもの」の接触、心と思考の接触によって生じます。このようにして生成の車輪は、渇望と嫌悪の後押しを受けて回転し続けます。生成の車輪から自由になり、真の幸福を得るためには、肉体感覚に起点にして生じるこのプロセスを客観的に観察することが必要なのです。

 

Q:アーナーパーナ瞑想について分析させてください。メンタル集中を高める上で、サヤジはなぜ鼻孔の下のこんなにも小さな部分を選んだのですか? しかも、この観察部分をさらに狭めていかなければならないのはなぜですか?

 それからもう一つ。なぜ、呼吸への気づきとともに感覚も感じ取るのですか? アーナーパーナは、呼吸への集中だけを行うものではないのですか?

SNG:ヴィパッサナーを実践するには(つまりブッダの教えを実践するには)、肉体感覚への気づきが必須となります。ですから「呼吸の出入りをあるがままに観察する」という修行と同時平行で、鼻孔の下の狭い範囲の感覚を感じ取ることが必要なのです。観察する部分が狭ければ狭いほど、心は集中され、鋭くなっていきます。心は集中すればするほど繊細になっていき、感覚を感じ取ることができるようになります。もし広い部位にばかり取り組み、心が散漫なままでは、なかなか感覚を感じ取れるようになりません。微細な感覚については、なおさらです。こうした理由から、生徒たちはまず23日のアーナーパーナで呼吸へ集中する訓練をし、それから肉体感覚の観察を教わるのです。

 

Q:サヤジが「自由な流れ」という言葉を用いたのはなぜでしょうか? この言葉が意味するのは、頭頂部からつま先までを一気に観察し、その瞬間に現れている肉体感覚をすべて観察することですが、この観察方法は「掃くように観察する」とも表現されますね。これはブッダの教えとは異なる、新たな方法なのでしょうか?

SNG:同じ概念を異なる言葉で表現したにすぎません。体と心の凝固がすべて溶けて初めて、頭からつま先まで、何の障害物もなく意識を動かせるようになります。この段階をパーリ語で「バンガ」といいます。「溶解」を意味します。体のどこにも固い障害物がないからです。この状態を「自由な流れ」と呼ぶこともできます。本当に何の障害物もなく、頭からつま先まで、そしてつま先から頭まで、一つの流れのように意識を動かすことができるので「自由」と表現するのです。この状態にあるときに瞑想者が行う修行の様子を、ブッダは次のように言っています。

Sabbakāyapaisavedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘sabbakāyapaisavedī passasissāmī’ti sikkhati.

「私は全身を感じ取りながら息を吸う」。瞑想者はこのように訓練する。「私は全身を感じ取りながら息を吐く」。瞑想者はこのように訓練する。(DN22 Mahāsatipaṭṭhāna-sutta

 バンガ(溶解)の状態にあるときは、息を吸いこむたびに、吐くたびに、全身を感じ取ることができます。この状態を説明するには、さまざまな表現が可能です。説明をする人は、別の表現のほうが相手にとって理解しやすいのであれば、そうしてかまわないでしょう。しかしこれは、何か新たな瞑想法が考案されたわけではありません。どんな名称で呼ぼうと関係ありません。完全なる解放へ至る道において、バンガは一つの重要な段階である、という事実に変わりはないのです。

「自由な流れFree flow」という用語を説明するには、「修行がある一定の段階に達すると、体のすべての凝固が溶解するのだ」ということを理解する必要があります。物質的肉体が持つうわべの真実は、凝固性です。私たちはこの肉体を固体として経験しています。けれども、体を客観的に観察し続けるにつれて、凝固が溶け始め、この物質構造の全体が、間断なく生成と消滅を繰り返す粒子の集まりにすぎないことを体感し始めます。全身が、単なる振動の集まりにすぎないのです。しかしながら、瞑想を始めたばかりで、まだ凝固性に取り組んで修行しているうちは、振動の自由な流れを全身に感じることはありません。するどい痛みや圧迫感や重さといったような、流れを阻害する固まりがあるからです。そういうときは体を部分ごとに観察しながら、修行を続けねばなりません。「瞑想者はこのように訓練する」のです。そうして少しずつ、少しずつこの凝固が溶けていき、完全なる溶解の状態が訪れます。そのとき知覚されるのは、振動以外には何もありません。そういうときには、頭からつま先へ、つま先から頭へと、何の障害物もなく容易に意識を動かすことができるのです。

 

Q:それでは、自由な流れが生じるのは、流れを阻む固まりがどこにもなく、全身のどこにも阻害物がないときだということでしょうか?

SNG:その通りです。いかなるタイプの固まりも存在しない時――心にさえも何の凝固もない時のみなのです。心に強い感情が生じているときには、この自由な流れを感じることはありません。なぜなら、強い感情は必ず、凝固や重さといった肉体感覚と対応しているからです。心のレベルにおいて感情が溶解し、物質レベルにおいて肉体の凝固が溶解したときにのみ、振動の集まりだけが残ることになります。肉体の内を動く、エネルギーの集まりのみとなるのです。

 

Q:これらの用語は時々、誤って解釈されることがありました。そのような混乱は、いつもどのようにして起こるのでしょう?

SNG:おそらく、サヤジがある講話の中で所信表明をしたときには、誤解が起こったかもしれません。「私はこれまで、英語話者の非仏教徒にうってつけの瞑想法を開発してきました。誰もがこの修行法を用いることができ、成果を得られるのです。さあ、ご自身でこの修行法を試し、同じ成果を手にしてください」 サヤジ以前の指導者たちは、ビルマ人仏教徒に教えていました。ビルマ人生徒は、教えを理解する自分なりの術(すべ)を持っていました。しかしサヤジが相手にしなければならなかったのは、西洋からやって来た非仏教徒や外国人です。サヤジは、彼らが理解できるように、うまい説明の仕方を考えなければなりませんでした。たしかに、サヤジの言語表現はそれまでにないものでしたが、瞑想法自体はブッダが教えた通りのものです。

 

Q:体の各部位を、決まった順番で観察していくことを、なぜそれほどまでに強調するのですか? 生じてきた感覚を、心がおもむくままに観察するのではいけないのでしょうか?

SNG:なぜなら、短いコースの中で大きな成果を挙げることが求められるからです。私を含め、教師たちのこれまでの指導経験から証明されたことですが、きちんとした順序に従って観察する瞑想者は、肉体が開く体験に最速で到達しやすいのです。体のどこかに感覚が生じるたびに、その感覚ばかり観察する瞑想者は、概して粗雑な感覚ばかりを観察してしまうものです。そうした感覚は際立っていて顕著だからです。心というのは粗雑な感覚ばかりを観察しがちなのですが、そのやり方だと、バンガ(肉体の凝固のすべてが溶解する段階)に至るまでに、長い時間がかかります。時には何年もかかってしまうのです。

 

Q:この修行法は、ほかのヴィパッサナー瞑想法とどのように異なるのでしょうか?

SNG:私はほかの修行法について意見を述べたくはありません。けれども、サティパッターナ・スッタやその他の経典をとおして、ブッダの教えを私なりに理解するかぎりでは、次のことが言えます。すなわち、さまざまな人がさまざまな出発点から瞑想に取り組み始めてよいのだけれども、ある段階を越えてからは、ニッバーナへと至る道はひとつとなり、みなが同じ道を通らねばならない、ということです。

修行の開始段階にあっては、ブッダはそれぞれの修行者にそれぞれの瞑想の対象物を与えました。それは、各人の心の条件づけや、気質や、理解や、能力に応じてのことでした。たとえば、肉体や肉欲にたいして非常に大きな執着を持つ人には、ブッダはきまって「屍をじっと考察するように」と指導したものです。そうすることで、「みずからの肉体もまた同様なのだ。屍と同じように、肉や骨や血液やや粘液などで形成されているのだ」と理解することができたのです。肉体に対して強い執着を抱いている人は、結局のところ、「肉体とは、かくも不快なものに満ちているのだ」という事実を受け入れたくないのです。けれども、執着すべきものなど何があるというのでしょう?

こうしたやり方で修行を始めてもかまいません。しかし、いずれはaniccā(無常性)を体験する段階へと至らねばなりません。事物がいかにして生じては滅していくのかを体験するのです。この生成と消滅を、単に知的レベルや信心のレベルでのみ受け入れていてはなりません。それをみずから体験することを、ブッダは私たちに求めたのです。そしてこの生成と消滅は、肉体の感覚をとおしてのみ体験することができます。感覚のレベルにおいて「あっ、感覚が生じた。そして、いま、それが消え去った」と観察するのです。生じては滅し、また生じては滅してゆく。生じた感覚が、凝固した激しいものであるときには、しばらくのあいだそこに存在し続けるでしょうが、遅かれ早かれ消えていくのです。

すべての凝固が溶解したとき、それは微細な振動へと変わります。そして、その振動のひとつひとつが、生まれては消えていくさざ波となります。そのように瞑想者は、凝固した感覚と微細な感覚のいずれもが、生じては滅していくのを体験するのです。みずからの実体験としてこれを経験しないかぎり、ブッダの教えを正しく理解したとは言えません。ブッダ以前にも、「全宇宙は無常であり、生じては滅している」と説く指導者はいました。しかしブッダは、そのことを実際に体験するための方法を発見したのです。そして、この無常性を直接的に体験するとき、執着、渇望、嫌悪は消え去り、心が浄化されるのです。さらに先の段階に至ると、生成と消滅の速度はあまりにも速くなり、ひとつひとつを区別することができないほどになります。そこからさらに心の浄化を続けていくと、ニッバーナの段階へと到達します。瞑想の導入段階が、屍の考察であろうと、物質的肉体の各部位であろうと、呼吸であろうと、あるいはそのほかの対象物であろうと、この道の残りの道程は同じものとなるのです。