論蔵Abhidhammaで見られるように、suddhāshtakaの8つの「物質の基本単位」のうち4つはavijjāによって生じ、
残りの4つはtaṇhā(āsāvāsによって生じる)によって生じます。
このため、avijjāとtaṇhāは「bhava-mūla根元、原因 」と呼ばれています。
rūpa-samuṭṭhāna 「色」の起因
Kammaṃ citta utu āharo ceti cattāri rūpa-samuṭṭhānāni nāma.
業・心・時節・食の4つは色の起因と呼ばれる
物質エネルギーが生まれる4種の原因
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エネルギー |
コントロール |
特徴 |
理解・分析 |
時空 |
植物の喩え |
kamma 業 |
心の 設計図 sankhāra |
できない 修行で改善 |
前世・現世で実行した行為の結果 試行錯誤の経験 努力・希望 |
ほどほど |
なし |
種子 |
citta 心
|
認識の働き メンタル |
できる 瞑想 |
現世の心とメンタル付随物(心所) 外部に対するメンタル的対応 意思、きっかけ javana cittaで生成 |
だいぶ |
なし |
太陽光、虫などに対する反射 |
utu 時節 火の元素 |
物質エネルギー 環境エネルギー |
できない 遅延は可能 |
温熱 火元素であるTejo dhatu 適温 太陽との距離 熱 (uṇha) と冷たさ (sīta) 刹那なる再生と崩壊 法則・組み合わせ変化 |
できる |
あり |
外側の環境 地球 基本温度・湿度・自転 |
物質エネルギー 摂取エネルギー |
できる 補給・供給
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エネルギー補給される滋養素 食料などの外部栄養素 受胎時から得られる内部栄養 移転、変換 |
できる |
あり |
外側のエネルギー 雨水 土壌 大気CO2 |
4つの原因が関わって物質エネルギーが生み出される。
kamma -samuṭṭhāna-rūpa 業生色
ヒトは必ずはじめに心に思い、何かを行為する。
業とは、その行為によって必ず残るポテンシャル(潜在力)のこと。
業とは連鎖反応のこと。行為と結果は途中で止まることなく限りなく繋がっている。
業とは、自分の意思で何かをしたことによって、それが蓄積されて物質を生み出すポテンシャル(潜在力・可能性)エネルギーのこと。(アビダンマ)
業とは、自分の人生を振り返るときに見つかる、あるパターンのこと。
業とはメンタルの行sankhāraにあるが物質にはなっていないエネルギーの原因であり、業自体は何かを認識することはできない。
エネルギーでできている「種」のようなもので、これによって時空、すなわち物質が生まれてくるので、私たちは、間接的に周囲の環境を整えることはできるが、この「種」を直接に操作することはできない。
自分のこころ次第で周囲が変わる
こころの持ち方によって、こころの業(連鎖反応)は変わる。
同じ人に出会っても、善いところだけを見れば、その人は優しく、悪いところだけを見れば、その人は騙す可能性がある。
業と心の違い kammaと citta
どちらもメンタルに属するが、心はいくらかコントロールすることができるが、業は直接的にコントロールできない。
性格gatiは業kammaがつくる
性格を構成しているのは、ほとんどが業である。
だから性格を変えることもできず、何故そのような性格なのか本人はわからない。
認識できる性格ならば変化させることができる。
しかし生まれつきの性格は業によって既に設定されているので、変えるには修業が必要。
「業を作らないために行為をしない」というのは不可能
何かをしたい、しなくてはならない、というウズウズした状態が消えない限り、心は揺れ動きつづけて、業が作られ続ける。
このウズウズが消えるのは、完全に煩悩をなくして悟った時だけである。
悟りとは、何かしたいという気持ちが完全に消えること。
凡夫の「何もしたくない」とは活発さがなくなってうつ状態になっているだけで、徹底的な煩悩で、「動きたくない、怠けていたい、逃げたい」という煩悩に支配されている状態である。
善心が消えて、怒りや不満などの暗い心が大きくなって溜まって動けない状態になり、軽快で元気な心でいる時よりも、厳しい業を激しく作っている。
「何もしないで怠けていたい」と「何かをしたい」と「何かをしなければ」はどれも同じレベルのこころの状態であり、ちょうどコインの裏表なので、anicha, anattaを正しく理解することで、そこから離脱することができ、こころの不満な状態が消えて、こころが静止状態のまま流れ続ける。
すると「何かをしたい、しなければ、もしたくない」という不善な状態から離れて、こころに善心が生まれ、活発に、行動的に、気が張って、明るく軽やかに、ただ「何かをする」ことになる。
業は理解できない
ほどほど理解するだけで十分で釈尊は「カンマについて考えないほうがいい、人間が考えられるレベルではない、もし勝手に本気で考えるなら、自分の頭が狂うだけです、どうせ把握できないのですから」
「これから頑張りなさい、カンマがどうであっても関係なく、努力したらその分の結果が得られますから、カンマは無視できます」と説いている。 出典?
業とはポテンシャル(可能性・潜在力)のこと
自我の概念、各自の区別、各自の才能はkammaから生まれる。
アイデンティティという個人差はkammaから生じた物質エネルギーのこと。
kammaが変わると、身体も才能もやりたいこともクセも変わる。
変わらないと思っていた嗜好や信念さえも変わる。
kammaを分かる(分析する)ことで、永遠の自我などは存在しないことがわかる。
意思の結果がカンマを生む カンマが意思を生む
kammaは意思cetanaのことである。
kammaという「種」から意思という芽(結果)が出たのだ。
何かをしたがるという意思のエネルギーをkammaと呼ぶ。
ではkammaはどのようにしてできるのか?
強い意思で行動することで、kammaができる。
したがって、弱体化しない限り、循環し続ける。
業から生まれる物質は9つ
kammaja –rūpādi-sarūpa 業生色などの自性 sarūpa 本来の独自の性質
kammaja –rūpa tattha hadaya-indriya-rūpāni kammajān’ eva,
その中、心色と根色(の9)は業生(色)のみである。
カンマだけから生まれ、何をしても変えられない物質はhadaya rūpaと五浄色と2種類の性色と命色の9つである。生まれたら変化させることができない。
kamma(行為)とは、人間が善か悪か、功績があるかその反対かの行為を実行することです。
仮説 kammaは単なるエネルギーだけではなく、そのエネルギーがこの世からの離脱に順ずる(dhamma)か反するかという基準を持つ。
kamma(行為)は意志(cetanā)であり、道徳的か非道徳的なものです。 パーリ語の経典にはこう書かれています。
「比丘たちよ、行為とは、意志を意味します。 人間が行為、発言、思考という形で何かをするのは、意志によるものです。」
Aṅguttara Nikāya 6.63 6. Mahāvagga Nibbedhikasutta(Penetrative ) 6.63. 洞察の経 .)
ここでの意志 (すなわち意欲)とは、意欲のある行為 (自発的すなわち積極的な行為)のことです。
何かを実行する中で、物事が良いか悪いか、功績があるかないかにかかわらず、事実上、そうすることに関与するすべてのメンタル機能のリーダーとして、取るべきステップを思慮し、決定します。
それは、目的の対象に対して機能を働かせます。
「すべてのリーダーとして」という表現は、意志が自らの作業だけでなく、関与する他のすべてのメンタル的プロセスの作業を行う際に、残りのすべてに情報を与え、主導的かつ最高の司令塔になることを意味しています。 このように、意志は他のメンタル的な活動を一方向に向けさせます。
これが「kammaとは、人が行為を実行することである。」という理由であり説明です。
しかしながら、共生的プロセスが他のメンタル的プロセスに情報を与えるのは、その人自身の作業の場合のみであり、他人の作業の場合はそうではないことに留意すべきです。したがって、後者は「意欲のある行為としての意志」の定義に含めることはできません。 したがって、B の行為を A のkammaと呼ぶことはできません。
自発的な行動と非自発的な行動の間は、ヤギと羊の間と同じくらいの違いがあるからです。
自発的な行動だけがkammaとよばれるので、「比丘たち、kammaとは、意志を意味します。」と言われたのです。
すべての行為において、kammaという語句は、(a) すべての行為に共通し、また (b) 努力する性質a disposition to exertionを意味します。 そして現世において、善行、あるいは悪行を通じて、そのような気質が一度しっかりと形成されると、後にその行為が繰り返されたときに、そのような性質が共存する集合体(メンタルと物理的状態)を呼び出すのに役立ちます。
たとえば人は自由である、あるいは暴力的な行為を許される、などと言われるのは、こうした集合体の再覚醒によるものです。この性質は来世で転生する世(存在bhava)に連結する要素を生み出すのに持続的に役立ちます。布施を施したり、生物を殺したりした人が、至福の状態や悲惨な状態に生まれ変わるのは、そのような要因の発生によるものです。したがって、この種の性質は「Mahāpaṭṭhāna」では、共存するkammaの関係として、また、異なる時点でのkammaの関係、として説明されています。
さまざまな行動方針12における独特の基盤は、大きな結果を伴います。
(注釈12 Dhātuvikatinaṇ dhātuvikāro nāma. On vikāro; cf. Compendium; Pāli
Index.)
Dhātuvikatinaṇ vikati:f.[<vi-kṛ] 種類; 製品; 分類; 形像
dhātuvikāro vikāro:Change,alteration修正; perturbation不安; wrong state of mind
一度、ある場所、ある時間に作られ、確立されると、それは身体やマインド、あるいはその両方で、特異性の原因であり続けます。このため、物事の法則について熟考し続けることや世俗的な事柄の基礎について熟考し続けることには、大きな成果と報酬がもたらされます。
このような基盤の様々な形態の調整は、自然の法則よりも大きな影響を及ぼします。 1つは主観的経験の積極的基礎であり、もう1つは外部の物事のカロリー基盤 (utu) です。 主観的経験に関しては、積極的傾向の多様性が意識の多様性の原因になります。外部生命に関しては、utuの種の違いが可動性の違いの原因となります。
さらに、パーリ語の経典には次のように書かれています。
「殺生は短命に終わり、殺生を禁じることは長寿につながります。嫉妬はさまざまな争いを生みますが、慈悲は平和を生みます。怒りは人の美を奪いますが、寛容は美を高めます。敵意は弱さを生みますが、友好は強さをもたらします。盗みは貧困を生みますが、誠実な労働は富をもたらします。傲慢は名誉の喪失に終わり、謙虚さは尊敬につながります。愚か者と付き合うと智慧を失いますが、賢者と付き合うと知識が得られます。」13
(注釈13 Cf. Majjhima-Nikāya, Cula-Kamma-Vibhaṅga-Sutta-iii. 202f.)
MN135 Cūḷakammavibhaṅgasutta (The Shorter Analysis of Deeds) 135. 小なる行為の区分の経
これが道徳法則の重要性です。
ここでの「生命を殺すという行為は生物を短命にする」という表現は、人が一度人間または下位の存在を殺したとき、その殺人という行為が様々な方法で苦しみの状態に陥る転生の原因を与えることを意味しています。人間の状態に戻るまで、「殺生の因子」の同じ行為により、何千回も転生するうちに短命になります。
これが「生命を殺すという行為は人間を短命にする」という説明です。
パーリ語の経典に次のように書かれています。「比丘たちよ、(物事の道徳的法則の概念には)悪い行為が、望ましく心地よく楽しい結果などを生み出す余地などありません。」14
(注釈14 Anguttara-Nikāyai, 28 “Aṭṭhāka-vagga.”)
「行為」は2種類の結果を生み出します。それは(必然的な)一様な結果と(例外的な)多様な結果です。ここで道徳の法則とは、一様な結果のことです。「多様な結果」とは、ある人は不正に得た富で幸せに日々を過ごすかもしれないようなケースです。しかし、死後には、一様な結果に従うので、不正な行為をした者は苦しみの運命をたどります。
敬虔な考えと宗教的理想に触発された人々は、すべての世俗的な成功を捨て、功徳を積んで規範に従って歩み、さまざまな窮乏を経験します。しかし、死後には、一様な結果に従って、天の至福を喜ぶかもしれません。
これが固定された道徳法則です。
生物の思考の多様性のために、知覚は多様です。知覚の多様性のために、kammaは多様です。kammaの多様性のために、動物界の属は多様です。
したがって、生物の思考、知覚、kammaの多様性のために、動物界の属は多様であるように、苗木の種の多様性のために、すべての植物と樹木の種は多様であると主張することもできます。
動物の場合、実際の結果 (mukhya主要な -phala) が優勢ですが、ここでは苗木や植物の場合、補完的な結果 (nisanda-phala) が優勢です。
種子すなわち胚芽 (bīja) という用語は、一般的には種子を意味します。しかし、より高次の意味では、種子は熱、つまりカロリー・エネルギー (utu) の一形態と見なされます。
citta -samuṭṭhāna-rūpa 心生色
心のことは認識ができないが、感情という現象は認識できる。
たとえば、怒っている人は、心に生まれた怒りという心所(感情)を持つ人のことなので、第三者はそれを見て、心を推測するしかない。
心そのものは認識不可能なので、そこから生じる現象しか理解することができない。
認識とは変化である。 心が認識できない理由
変化しないと認識することができない。
たとえば同じ音をずーと聞いていると、その音が聞こえなくなる。
同じ匂いをずーと嗅いでいると、その匂いが感じられなくなる。
心そのものでは、ほとんど同じ現象が絶えず連続しているので、認識することは非情に難しい。
物質の半分はこころから作られる 業と心
1宇宙の全てを生命体として理解すること ブラックホール
2宇宙の一部である生命体だけを理解すること 生命とともにある物質だけをみること。
物質よりも「こころ」の量が多い
いつでもこころが先行して、それから物質である。
物質世界の宇宙が既にあるならば、それ以前にこころはあり、量的には全宇宙よりもこころのほうが多い。
こころが物質を生み出す理由
なぜ物質が現れるのか?
生命(認識するもの)が現象・物質(認識できるもの)を恋しがって、それらを欲しがってしまうから。
こころと製作物
穏やかであると良いものができ、怒りのこころで科学が発展すると人間が不幸になるものができる。
無から有を生み出すのはこころ
未だ嘗て無かったものを初めて生み出すのはこころしかない。
このときの無とは、物質がエネルギーに転化し、宇宙(物質)の構造が消えている状態を指している。
輪廻の中身は恐怖と不安
輪廻の中ではヒトをはじめあらゆる生命体は自然に消されてしまう。何をしても最期は自然の法則によって消される。
言葉を変えれば、死んでしまう。これは「生命」すなわち認識するもの、から見れば嫌なことである。
また輪廻によってどの次元に生まれ変わっても、また競争ばかりでサバイバルをして必死に戦って、生き延びなければならない。
それでも結局は病原菌や微生物や機械や人間にやられて、負けて、死んでしまうしかない。
輪廻の中にいる限り、このような恐怖感や不安感がある。これがこころに染み付いている怒りと恐怖である。
どちらもこころにエネルギーを生じさせるので、落ち着くことなくいつまでも彷徨っている。
落ち着かないから「何かしなければ」と考えて、何かを作ろうとする。
作るものは2つのカテゴリーに集約される。
自分を守るためのもの(家、結婚、食料)、もしくは他者を殺すためのもの(鎌、虫除け、殺菌、武器)。
メンタル的法則
cittaとは「知る機能」のことで、対象を認識、または精査することを意味します。 さらに「知る機能」は、さまざまな形態が対象のために、比喩的に「多様」であると言われています。15
(注釈15 cittaという語句は、意識、認識、また多彩な多様性を意味します。 したがって、著者はここでの「citta」は、「気づいて認識していること」、「意識していること」として最も広い意味で使っています。)
したがって、パーリ語の経典では次のように述べられています。
「比丘たちよ、cittaほど多様なものは他にありません。比丘たちよ、下位の生命体(獣、鳥など)ほど多様なグループ(nikāya)は他にありません。下位の生命体の法則はマインドによってのみ変化します。16 しかし、比丘たちよ、cittaは生命体よりもさらに多様です。」
(注釈16 Citteneva cittikata. Saṃyutta-Nikāya, iii.
152.)Saṁyutta Nikāya 22.100 10.
Pupphavagga Dutiyagaddulabaddhasutta A Leash (2nd)?
道徳的なことよりも、不道徳な考えの方が多様になります。「マインドは悪を喜ぶ」と言われています。したがって、マインドによって作られ創造された低次の生命体は、他のすべての生命体よりも多様です。
それはなぜでしょうか。パーリ語の経典には、「比丘たちよ、世界がどのように始まり、どのように終わるかを宣言します。比丘たちよ、世界の起源とは何でしょうか?」とあります。
目と対象による条件付けで視覚認識が生じます。この3つは「接触」と呼ばれます。接触のために、感覚が生じ、感覚のために渇望が生じます。これがすべての悪の起源です。耳と対象によって条件付けられ…鼻によって…舌によって…身体によって条件付けられ、感覚器官と物によって条件付けられて、マインドの認識が生じます。この3つが接触です。接触のために感覚が生じ、感覚のために渇望が生じます。このようなことが、悪全体の起源なのです。これが、比丘たちよ、世界の始まりと呼ばれるものです。
「比丘たちよ、世界の停止とは何でしょうか?眼と対象によって条件づけられ、視覚的認知が生じます。この3つ組は「接触」と呼ばれます。接触のために感覚があり、感覚のために渇望があります。その渇望の完全な停止のために執着は止まり、執着の停止のために、bhāva(エネルギー体)になることは止まります。このようなことが、悪全体の停止です。耳や他の感覚についても同様です。比丘たちよ、これが世界の停止と呼ばれるものです」17。
(注釈17 Saṃyutta-Nikāya, iv 87.)
ここで、「眼と対象によって条件付けられ、視覚的認識などが生じる」という表現は、平凡な一般民衆の意識と思考の行為が刻々と変化し、来世のさまざまな形態に生まれ変わる原因となることを示しています。
このことを認めれば、彼らの来世のさまざまな形態は、現世のマインドによって作られ、創造されていることがわかるでしょう。意識が変化することで、知覚も変化します。知覚が変化するから、自然な欲望も変化し、欲望が変化するから、行為(kamma)も変化します。kammaが変化することで動物界への転生も変化すると主張する人もいます。
さて、哲学的真実においてkammaとマインドと呼ばれる現象は、慣習的な真実の基準18(注釈18 Cf. Exposition II.)では「魂」(すなわち「生命体being」)と「「主体」person」になります。
慣習的真実によれば、神々19が多様な思考によって多種多様なものを創造するのと同じように、人間が多様な思考によってこの世に多種多様なものを作り、思考によって多様化された行為(kammāni)とその行為の結果には、あたかも「生命体」と「「主体」」があるかのように、さまざまな思考形式が備わっています。
(注釈19 Devaとは天使や神などとして天に住むか、妖精などとしてこの地球に住むすべての(非永続的)「精霊spirits」のこと)
したがって、行為もマインドもアートマンĀtman20(注釈20 Attā、すなわち自己とは、超現象的な性質を意味します。)の性質を持ちませんが、誰がどのようにして作ることができるのでしょうか?
「生命体」と「主体」は、すべてのものを作れることを自身は知っています。しかし、無限に変化する世界観を作る特別な生命体や「主体」がいるかどうかは、彼らには分かりません。
パーリ語 |
哲学的 |
慣習的用語 |
英語 |
エネルギー |
特徴 |
kamma |
行為 |
生命体、魂 |
being |
メンタルからエネルギーが生じる回路 |
エネルギーを生じ、結果にいたる |
citta |
マインド |
主体 |
person |
メンタル |
知る機能そのもの |
メンタル(citta)の法則とは、機能や状況に応じて変化する意識の結果に法則性があることを意味します。
これについてPaṭṭhānaの「継承性すなわち連続性の関係“The Relation
of Succession or Sequence”」の章で扱われています。21(注釈21 これは Tika(3つの)Paṭṭhāna に含まれています。)
自分のマインドを洞察すれば、メンタル現象の連続の数が非常に多いことが確認できます。
多種の貪欲、多種の憎しみ、多種の鈍感、多種の信念、多種の愛が連続しています。 たとえば座るというひとつの行為の中にも、様々な無数の想いが生まれています。そしてそれらの想いのそれぞれの過程には誕生、衰退、死があります。
「今、私の中で貪欲が高まっている」、または「今、私の中で憎しみが高まっている」、または「私の中で貪欲はなくなった」、または「私の中で憎しみは消えた」と、自分自身のメンタル現象を確認できます。
しかし、それは想いの過程が一時的に停止するだけで、最終的な終わりに達したのではありません。
条件が揃えば、再びすぐに浮かび上がってきます。
Ñāta-pariñā (知られている知識)は Tīraṇa-pariññā(分析知識) に関連しており、Tīraṇa-pariññā は唯一必要なものである Pahāna-pariññā (知識の払拭)に関連しています。
Pariññā 深い知識
Ñāta ñāta:a.[Sk.jñāta.jānāti の pp.] 知られた,有名な,理解する -pariññā 知遍知
Tīraṇa 測定して割合を知る measurement,judgment,recognition
Pahāna [cf.pajahati<hā] 捨,断,捨断,捨離.removal; giving up; abandoning; avoidance.
utu -samuṭṭhāna-rūpa 時節生色
utu(温度)とはtejo火の元素のこと。
火はエネルギーのことであり、エネルギーの特性は生じては消え去ること。
したがって、utuとは「変化」も意味する。
古い物質は壊れてなくなり、新しい物質が生まれる、時間による周期のサイクル。
アビダンマでは、「物質は火の元素によって新しく生まれる」とある。
utuは季節、四季という意味。変化していることを表現したいのか?
変化とは時空のある世界の特徴なので、漢訳する時に、時を強調するために「時節」としたのかもしれない。
situṇhotu-samaññatā tejo-dhtu ṭhitippattā ‘va utu -samuṭṭhāna-rūpa ajjhattañ ca bhiddhā ca yatharahaṃ samuṭṭhāpenti
寒冷とか暑熱の時季と呼ばれる火界は、住(位)に達した(時)のみ、時節生色を(身体の)内・外に便宜起こさせる。
ṭhitippattā
ṭhiti:f. 住,止住,定立 住定
火のエネルギーが新しい物質を作る。エネルギーは一瞬で生まれ消えてしまう。
エネルギーの有る瞬間(住位)に、物質を作ってしまう、すなわち変化させる。
この火の力は物質の内側にも、外側にもある。
土、水、山、木、草などは温もりの要素であるUtuからすべて生まれ、それらはまさにUtuの子供たちと呼ぶのがふさわしい。
したがって、すべての生物は、utuの子供たち、あるいは意志の結果、あるいはkammaを通してすべてが生まれるのでkamma dhātuと呼ばれることもある。
Ledi Sayadaw The Manuals of Dhamma日本語訳
utuは物質エネルギーのことであるので、熱があり、変化があり、生滅があるので、あるので始まり、中間、終わりを識別できる。
したがって安定した継続状態であっても、そこに老朽化がすぐに続く。
肉体では炎症性の刺激物によって生成され、それによって耐え難い痛みを伴う感情が生じます。
それから、この辛い気持ちを介して本人は自分が疲労していることに気づきます。
しかし、連続体 (santati) の永遠の成長と衰退を理解していません。
生物の感じる「倦怠感」は、最初は力強く元気よく湧き出るエネルギーの衰退を指したものです。
呼吸、笑い、満足、喜び、嘆き、悲しみ、悲嘆、うめき声、すすり泣き、強欲、憎しみ、信念、愛などによって生み出されるあらゆるものには、始まり、中間、終わりがあります。
また話す場合にも、すべての言葉には始まり、中間、終わりがあり、それぞれ言葉の瞬間的な誕生、成長と衰退、そして死があります。
一般的に言えば、疲れ、困憊、病んでいる状態とは、温度によって生成される連続体の変化の一過程です。
Utu-niyāma カロリーの法則
Utu 5(注釈5 哲学大全 161n4参照)とは、生成されないものが顕現し、生み出され、生成し、生成されているものを発展させることです。
それは私たちが「熱」として知っている特定の性質のことです。 火のありのままの主要な性質です。これに関連して、物質の「偉大な本質」の4つについて考えてみます。
それぞれは3つの形態を示し、最初の本質的な性質「Pathavī」によって、次のことを理解します。
1つ目は、Pathavīが
(i) 他の液体、火、気体の3つの基礎として機能する、適応性と柔軟性のある「拡張要素」です。
(ii) 土壌、または (iii) 岩です。
2つ目の必須要素は互いに結合するという顕著な特徴を持っていますが、結合するための手段がなければ結合はあり得ません。
3つ目の本質においても、食物や燃料がなければ熱は存在しません。
4つ目の必須要素に関しても、移動基盤がなければ機動性はあり得ません。
したがって、pathavīと呼ばれる土元素は、水(結合)、火(エネルギー)、風(機動性)にも、すべての物質の「基礎」として機能することで、すべての物質現象を支えています。
カロリのー法則 Utu-niyāmaとは宇宙の進化、継続、周期的回帰(つまり、消滅)、空虚の4つの連続性を決定するプロセスのことです。
また、それは冬、夏、雨という3つの季節の順番を決定するプロセスのことです。 また、木、つる、草が花を咲かせて実を結ぶように特定の季節を決定するのと同じプロセスです。
そして、この法則は、人間であれ、天体であれ、神であれ、いかなる「作成者」によって創造されたものではありません。
それは私たちが「utu」として知っている、自然の法則によって完全に達成されるため、それはUtu-niyāma、すなわちカロリーの法則と呼ばれます6。
(注釈6 それは変化ではなく変化すること(静ではなく動、名詞ではなく動詞)であり、変化するものは火である...すべてのものにおいて同じであるこの秩序(コスモス)は、神も人間も誰も作ったものではありませんが、それはそうであり、今もあり、そして永遠に生じ続ける火が燃え上がり、しかるべき時に消えます。―ヘラクレイトス。(万物の根源を「永遠に生きる火」とし、すべては永遠に生滅・変化し(万物流転)、あらゆる動と生は対立者の相克から生まれる(戦いは万物の父)と説いた。))
自仮説、万物の根源の1つはdhammaであり、永遠に生きる火とはdhammaの絶えない放射力であり、このエネルギーが、凝縮することで重力を生むが、これがランダムであるために無常が継続し、この動きは放射力と重力の相克から生じる。
Pāḷi語の経典にはこうあります。
「Vāseṭṭhaよ、遅かれ早かれ、長い長い期間が経過した後、世界システムが消滅する時が来ます。
Vāseṭṭhaよ、その時には、天上の生命体たちの輝きは消えてしまいます。 「自らの輝き」は消えると、月、太陽、惑星、星々が顕現して、夜、昼、月、半月、季節のある一年などが現れます。7」(注釈7 Dīgha-Nikāya iii. 84,86.)
胚芽(種子、bīja)から芽が湧き出て、木などの様々な形に成長します。
しかし、それは何なのでしょうか?
哲学的な観点から見ると、それは単なる「カロリー・エネルギー」(utu) の一種です。
このように、樹木などを含む植物界の生成と成長の主体である「種苗と植物」8(注釈8 古代のPiṭakaの語句)は植物の生命に現れる傾向のある「カロリー・エネルギー」の1つの形態です。これが、種子または胚芽と呼ばれます。
胚芽の法則とは、そこから生まれる発芽、芽の成長、幹、枝、小枝、葉、花、果実を意味します。「バラ・リンゴの種」(jambu-bīja)はバラ・リンゴの種や種類や科目であることをやめない、と言われているように。
この説明は、すべての木、つる、草に当てはまります。 これもまた、いかなる作成者によって創造されたものでも、作られたものでもありません。 それは完全に胚芽という自然の法則によって完成されるため、それはBīja-niyāma、すなわち胚芽の法則と呼ばれます。
パーリ語の経典には次のように書かれています。
「比丘たちよ、種子には5種類があります。すなわち、根から、茎から、節から、新芽から9(注釈9 文字通りでは「てっぺん (agga第一) から、そして本来の種子から繁殖します。」10(注釈10 Saṃyutta-Nikāya,
iii. p.54)このテーマは、Vinayaの解説にある、植物の生命に関する行動に特化したセクションで詳細に扱われます。
utuの法則を雲の喩えで理解してみます。
熱エネルギーが成熟し、効率的で適応性のある反応する状態に達すると、冷たい大気の中を上昇し、大きな塊となって渦巻く雲に変わり、そのままの状態に留まります。
その後、再び「大いなる時代」では、雨へと変化し、「包む時代」では、火が燃え尽きた場所に降り注ぎます。
すべての雨水は、新しい時代epochの確立に役立てられます。つまり、それらは岩、塵、水などの宇宙の構成要素を形成します。
これらすべてのものは熱過程(utu-niyāma)の法則に従って発生したものです。
すなわち、いかなる主によって創造されたものではありません。
宇宙の構成要素の確立の間、自然の現象過程(dhamma-niyāma)が重要な役割を果たします。
自然現象のプロセスとは、拡張の要素などの均衡な過程(sama-dhāraṇa) と不均衡な過程(visamadhāraṇa)を意味します。
また、均衡な過程は自然の過程として、不均衡な過程は不自然な過程として理解できます。
したがって、自然の過程が進むと、均衡的過程が起こり、不自然な原因が発生すると、過程は不均衡になります。
形態の中でも、丸みは自然な形態です。したがって、要素の均衡的過程を通じて、宇宙のすべての構成要素は、まるで機械で製造されたかのように、円形に形成されています。
大地、大海、周囲の山々、中央のSineru山、氷河海(sita-samuddā)、sītantarika(山の谷間の氷河)、円環の山脈(paribhaṇḍa-pabbata)はすべて円形を成しています。これは自然現象の過程によるものです。
ここで、要素の均衡と不均衡のプロセスについて、言わなければならないことがあります。形態については、人の身長が自分の両手を広げた長さと等しいとき、均衡していると言われます。これは、均衡しているバンヤンの木がその高さとその外周の直径が等しい時にと同じです。そうでなければ、不均衡であると言われます。つまり、「偉人(仏陀)」の32の特徴 (mahā-purisa-lakkhaṇa)(三十二相八十種好)が完備していれば均衡であり、その不足は不均衡です。善意は均衡していますが、悪意は不均衡です。樹木などの生物以外の形態では、バンヤンの木の一部の対称性は均衡しており、そうでなければ不均衡です。また、樹木、幹、枝、小枝、新芽、葉、果実についても同様です。
実際、この世に現れる無限の形態などの原因は完全に要素の変化によります。これらの過程を完全に理解することは、全知なる者の無限で多様な元素に関する知識です。元素のさまざまな機能を知らない者は、世界の主を求めます。実際、世界の主は存在せず、元素だけが存在し、「世界の主」という語句は彼らの空想の結果にすぎません。
「すべての生物のkammaの影響によって」という一節の「kamma」には、世界の破滅に怯えるすべての生物が高次の世界に到達するために「包む時代」に行ったすべての善行、およびBrahmā界に生まれ変わる人々が2つの「計り知れないkappa」の間に行ったすべての善行が含まれます。したがって、それらの住居や館の形成と確立がどのようにもたらされるかについて考えるべきではありません。69
(注釈69 Ledi Sayadawはここで、発展途上の時代の回復、あるいは人間の住居とDevaのための素晴らしい館を備えた新世界の再編成を、二つの原因、すなわち物質的な原因と効率的な原因によって示すことを意図しています。 物質的原因とは、世界を構成する材料または物質を意味します。 それはカロリーの初期状態(胚芽)すなわちutuとして知られる原始的な物質です。 そして効率的原因とは、物質的な現象が様々な驚くべき形状、形態、大きさにまとめられる力や作用を意味します。
それは行動や意志やkammaとして知られるメンタル的な力です。 たとえば、家の場合、それを構成する木、鉄、レンガが物質的な原因です。 そして、それを設計し構築する大工が効率的な原因です。 木材などは、世界を構成する物質的原因であるutuに、そして大工は、家をそれを設計する効率的な原因であるメンタル力に匹敵します。 翻訳者)
āharā -samuṭṭhāna-rūpa 食生色
āharāは食べ物、すなわち滋養素のことで、これを摂取して別の形のエネルギーに変換する。
ojā-saṅkhato āharo āharā-samuṭṭhāna-rūpaṃ ajjhoharaṇa-kāle thānappatto va samuṭṭhāpenti
滋養素と称される食は、内(身体)に取り込む時に、住(位)に達した(時)のみ、食生色を起こさせる
kāle
va のみ only
外部に有る食事(栄養)のエネルギー、もっと正確に言うと太陽エネルギーから変換された鉱物、植物、動物を摂取して、そのエネルギーで動く。
空腹は病気
欠けているものを補給することで、身体は普通の状態に戻る。
建康が欠けている状態(病気)になったら欠けている成分(薬)を摂取する。
このように考えると、エネルギーが欠けている(空腹)とは、建康が欠けている状態(病気)だと、仏教ではカテゴライズする。
エネルギーが足りなくなっているのに補給しないために、調子が悪くなり、体が壊れてしまう、と見るからである。
明るいこころにスポットライトを
健康問題は全体性からみればつまらない問題なのに、それにしか興味がないとすれば、一生がそれだけで終わってしまう。常に不健康なことが毎日あるからである。
人生がそんな貪瞋痴しかないのに健康でいられるのは前世の業のおかげ、と仏教ではみる。
常に物質エネルギーが身体に生まれているので、こころが明るければ、生まれるエネルギーがどんどん良い調子のものになる。
こころエネルギーの1/4
業エネルギーは1/4でその半分である 1/8がよいもの、と仮定
滋養素エネルギーの1/4
足すと半分を超えるので、明るいこころを持続すると、悪業の影響も食べ物の悪影響も徐々に減少する。
しかし、どんない健康な身体でも老化するし、それを手術や薬などで停止させていても、いきなり老化した時に精神ショックをうけて呆けることがある。
そこで、身体はどうせ崩れていくものだから、完全に建康にするということは放っておいて、明るいこころで生きていく。
すると明るいこころが健やかな身体を作る。
栄養エッセンスによって生成される肉体は、肉体の貧弱さ、生命力の活発さや欠如を考慮する必要があります。
生命力の旺盛とは、摂取した食物が胃に入った瞬間に、全身に行き渡る生命力が活発になって強化されることを意味します。 したがって、すべての生物にとって最も必要なことは、生命力の衰えを防ぎ、生命力を促進することです。
この世で生命力を維持するための食料を定期的に入手することです。
胃への食物の供給が減少すると、体内のすべての血液と肉が徐々に減少します。
目や耳などの物質的性質の命は、Jīvita rūpa、つまり食物の供給に依拠する生命力です。 食物の供給が失われると、体全体が生命力とともに失われます。 生鮮食品の供給が6、7日間停止すると、生命力とkammaが生成するすべての物質が終わりを迎えます。
Utu,(m.& nt.)[Vedic ṛtu 特別なあるいは適切な時間、adj.ṛta まっすぐな、正しい、儀式、ṛti 方法
熱、周期サイクル、エネルギー
Lat.ars “芸術”、Gr.damar(t)に相当、さらに Lat.rītus (儀式)、Ags.rīm 数; *ar の、適合する、調整するなど。q.v.appeti の下] -- 1.(lit.)
(a) (良いあるいは適切な)時間、季節:aruṇa-utu 機会または太陽(-昇)の時刻 DhA.I,165;
utuṁ gaṇhāti 適切な時を待つ(星占いの実践において)、予言する ibid.
sarīraṁ utuṁ gaṇhāpeti “身体に季節をもたらす”、すなわち、身体をリフレッシュさせる涼しさ、眠り、洗濯など.J.III,527; DA.I,252.--
(b) 年ごとの変化、一年の時期、季節 Vism.128.通常、言及される季節は三つあり、暑い季節、雨季、冬の季節、または gimha、vassa、hemanta である。 A.IV,138; SnA 317.6 つの季節(nakkhatta に関連して) J.V,330 と VI,524.utu は、冬の季節の hemantikena (scil.utunā)のように、しばしば理解される。 S.V,51.--
(c) 月経 SnA 317; J.V,330 (utusinātāya は utusi nhātāya と読む; utusi Loc.は展開する. (哲学的な意味での応用:五つの宇宙秩序の一つ、物理的変化、物理的因果律(反カルマ)、物理的秩序:Asl.272 f.; Dialogues,II,8,n.; Kvu trsln. 207; cp.Mrs.Rh.D.Buddhism,p.119 f.Cpd.161,Dhs.trsln を参照。) introd.XVII; & cp.cpds.Vism での kamma に関連して。451,614; J.VI,105 (kamma-paccayena utunā samuṭṭhitā Veraraṇī); おそらく Miln でも。410 (megha ututo samuṭṭhahitvā)。
--アーハラ身体的栄養(cp.Dhs.trsln. 249 (= gimhe ātapa-ṭṭhāna-sevanā vasse rukkha-mūla-sevanā hemante jalappavesa-sevanā SnA 291).--kāla 季節に合った、(一年のうちの)好ましい時期 Vin.I,299; II,173.--ja 季節によって、あるいは物理的変化によって生じる Miln.268 (kamma°、hetu°、utu°); Vism.451.--nibbatta 物理的原因によって生じる Miln.268.--pamāṇa 季節の尺度、すなわち、正確な季節 Vin.I,95.--pariṇāma 変化(逆境) 季節の (病気の原因として) S.IV,230; A.II,87; III,131; V,110; Miln.112,304; Vism.31.--parissaya 季節の危険またはリスク A.III,388.--pubba (6つの)季節の前夜に行われる祭り J.VI,524.--vāra 季節の時,°vārena °vārena 季節の変わり目に従って J.I,58.--vikāra 季節の変わり目 Vism.262.--veramanī 月経期間中の禁欲 Sn.291 (cp.SnA 317).--saṁvacchara 季節の年または周期,pl.°ā 季節 D.III,85 = A.II,75; S.V,442.
Pv.II、955 の utusaṁvaccharāni というフレーズは、ダンマパーラによってバフヴリーヒ cpd として取り上げられています。つまり、季節と年のサイクル、つまり vasanta-gimh ādike bahō utō ca citta-saṁvacchar’adi bahōni saṁvaccharāni ca PvA.135。 at J.V,330 (with Cy). -- 季節に応じたサッパヤ,季節に応じた DhA 327. -- 生理のサマヤ SnA 317.(Page 130)
Utu,(m.& nt.) [Vedic ṛtu special or proper time,with adj.ṛta straight,right,rite,ṛti manner to Lat.ars “art”,Gr.damar(t),further Lat.rītus (rite),Ags.rīm number; of *ar to
fit in,adjust etc.q.v.under appeti] -- 1.(lit.) (a) (good or proper) time,season:aruṇa-utu occasion or time of the sun(-rise) DhA.I,165; utuṁ gaṇhāti to watch for the
right time (in horoscopic
practice),to
prognosticate ibid.sarīraṁ utuṁ
gaṇhāpeti “to cause the body to take season”,i.e.to refresh the body by cool,sleep,washing etc.J.III,527; DA.I,252.-- (b) yearly change,time of the year,season Vism.128.There are
usually three seasons men‹-› tioned,viz.the hot,rainy and
wintry season or gimha, vassa & hemanta A.IV,138; SnA 317.Six seasons (in connection with nakkhatta) at J.V,330 & VI,524.Often utu is to be understood,as in hemantikena (scil.utunā) in the wintry season S.V,51.-- (c) the menses SnA 317; J.V,330 (utusinātāya read utusi nhātāya; utusi Loc.as expld. by C.pupphe uppanne utumhi nahātāya).-- 2.(applied in a
philosophical sense:one of the five fold cosmic order,physical change,physical law of causation (opp.kamma),physical order:see Asl.272 f.; Dialogues,II,8,n.; Kvu trsln. 207; cp.Mrs.Rh.D.Buddhism,p.119 f.Cpd.161,Dhs.trsln. introd.XVII; & cp.cpds.So in connection with kamma
at Vism.451,614; J.VI,105 (kamma-paccayena utunā samuṭṭhitā Veraraṇī); perhaps also at Miln.410 (megha ututo samuṭṭhahitvā).
--āhāra physical nutriment (cp.Dhs.trsln. 174) PvA.148.--ûpasevanā seasonable
activity,pursuit (of activities) according to the seasons,observance of the seasons Sn.249 (= gimhe ātapa-ṭṭhāna-sevanā vasse
rukkha-mūla-sevanā hemante jalappavesa-sevanā SnA 291).--kāla seasonable,favourable time (of the year) Vin.I,299; II,173.--ja produced
by the seasons or by physical change Miln.268 (kamma°,hetu°,utu°); Vism.451.--nibbatta coming
to existence through physical causes Miln.268.--pamāṇa measure of the season,i.e.the exact
season Vin.I,95.--pariṇāma change (adversity) of the season (as cause of disease) S.IV,230; A.II,87; III,131; V,110; Miln.112,304; Vism.31.--parissaya danger
or risk of the seasons A.III,388.--pubba festival on the eve of each of the (6) seasons J.VI,524.--vāra time
of the season,°vārena °vārena according to the
turn of the season J.I,58.--vikāra change
of season Vism.262.--veramanī abstinence during
the time of menstruaīion Sn.291 (cp.SnA 317).--saṁvacchara the year or cycle of the seasons,pl.°ā the seasons
D.III,85 = A.II,75; S.V,442.The phrase utusaṁvaccharāni at Pv.II,955 is by Dhammapāla
taken as a bahuvrīhi cpd.viz.cycles of seasons & of years,i.e.vasanta-gimh ādike
bahū utū ca citta-saṁvacchar’adi
bahūni saṁvaccharāni ca PvA.135.Similarly at J.V,330 (with Cy).--sappāya suitable
to the season,seasonable DhA 327.--samaya time of the menses SnA 317.(Page 130)
Āharati,[ā + hṛ] 栄養素
1. 取る、取り上げる、掴む、取り出す、奪う M.I,429 (sallaṁ); S I 121; III,123; J.I,40 (ger. āharitvā “with”),293 (te hattaṁ); Nd2 540c; Pv.II,310; DA.I,186,188 ‹-›
2. もたらす,降ろす,取る D.II,245; J IV 159 (nāvaṁ; v. l.アーハーヒットヴァー); V,466; VvA.63 (bhattaṁ); PvA.75. ‹-›
3. 得る、獲得する、もたらす J.V,433 (padosaṁ); DhA.II,89.
4. もたらす、入れる (w. Loc.); 図および挿入 しがみつく、置く、触れる、頼る M.I,395 (kaṭhalaṁ mukhe ā.; また inf. āhattuṁ); Th.1,1156 (pāpacitte ā.; Mrs. Rh. D. Brethren ver. 1156、「accost」としてではなく、p. 419、n.)。
5. 襲撃する、打つ、怒らせる (pāhari にとって?) Th.1,1173.
6. (図)取り上げる、倒れる、または後退する (w. (Acc.),暗唱する,引用する,繰り返す(通常,教訓的な物語や説教や説教の desanaṁ と dasseti を伴って) J.III,383 (desanaṁ),401; V,462 (vatthuṁ āharitvā dassesi 例えば,物語を語った); SnA 376; PvA.38,39 (atītaṁ),42,66,99 (dhamma-desanaṁ)。payirudāharati も参照。‹-› pp. āhaṭa (q. v.)。-- Caus. II. āhārapeti もたらしたり,取ってこさせたりすること; 取りたいと思う,呼びかけたり,求めたりすること J.III,88,342; V,466; PvA.215. (116ページ)
Āharati,[ā + hṛ]
-- 1. to take,take up,take hold of,take out,take away M.I,429 (sallaṁ); S I 121; III,123; J.I,40 (ger. āharitvā “with”),293 (te hattaṁ); Nd2 540c (puttamaṁsaṁ,read āhāreyya?); Pv.II,310; DA.I,186,188 ‹-› 2. to bring,bring down,fetch D.II,245; J IV 159 (nāvaṁ; v. l. āhāhitvā); V,466; VvA.63 (bhattaṁ); PvA.75. ‹-› 3. to get,acquire,bring upon oneself J.V,433 (padosaṁ); DhA.II,89. -- 4. to bring on to,put into (w. Loc.); fig. & intrs. to hold on to,put oneself to,touch,resort to M.I,395 (kaṭhalaṁ mukhe ā.; also inf. āhattuṁ); Th.1,1156 (pāpacitte ā.; Mrs. Rh. D. Brethren ver. 1156,not as “accost” p. 419,n.). -- 5. to assault,strike,offend (for pāhari?) Th.1,1173. -- 6. (fig.) to take up,fall or go back on (w. Acc.),recite,quote,repeat (usually with desanaṁ & dasseti of an instructive story or sermon or homily) J.III,383 (desanaṁ),401; V,462 (vatthuṁ āharitvā dassesi told a story for example); SnA 376; PvA.38,39 (atītaṁ),42,66,99 (dhamma-desanaṁ). See also payirudāharati. ‹-› pp. āhaṭa (q. v.). -- Caus. II. āhārapeti to cause to be brought or fetched; to wish to take,to call or ask for J.III,88,342; V,466; PvA.215. (Page 116)