心所  cetasika  メンタルファクター

 

 

三蔵の論蔵では、心のメカニズムについての解説があります。

論蔵では、心とは「知る機能」のことで、その構成要素となる心の内容の種類を心所と呼んでいます。

原典のパーリ語ではcetasika [ceta+ika] で、心の中身のグループを意味します。

 

 

cetasika(チェータシカ:心所)

は「心にあるもの」「心によるもの」で、言い換えれば、心の成分のようなものです。心は必ず心所と共に生じます。この場合の『心』とはパーリ語の citta(チッタ)のことで、「知る機能」という意味です。仏教では、「心がある物体」を生命、「心のない物体」を物質と名付け(定義)ています。

 

心と心所を、水と水の成分に譬えてみます。

世の中に100%純粋な水は存在しません。水(H2O)には、たとえ微量であっても、必ず何かの成分が含まれています。水道水、下水、コーヒー、血液、雨水…など、様々な液体の差は水に含まれる成分の違いです。

心も、心に溶けている心所によっていろいろな心があります。優しい心、明るい心、落ち着きがない心、怒りっぽい心、嫉妬深い心、欲深い心、鈍感な心、敏感な心などの心の状態があり、各自の性格はどの心所がその人の心に溶けやすい回路を持っているか、という解釈です。

透明なグラスの水を意識だとすると、そこに溶け込む成分が心所で、この心所の成分や色によって、水の色が変わり、これが心の状態となる、ということです。

 

日常生活でヒトがある音が美しいと感じたり、虫の声だと認識するのは、6感覚器官からの信号とphassaという表層意識では気付けていない心所とが結びつくことでヒトははじめて対象を意識化し、その後にその音に対する快・不快などの多種の心所と結びつくことで、心情が決まるというのが論蔵の解釈です。

 

性格は固定されたものではありません。人格は条件によってコロコロ変わります。心は純粋な水のごとく善でも悪でもありません。心に怒りが溶けたら怒りの状態になる。心に慈しみが溶けたら優しい状態になる。次の瞬間にどの心所が生じるか、自分にもわからないのです。孫を見てニコニコしていた好々爺も嫌いな人を見たとたんに怖い顔になってしまいます。すごく優しいと思っていた人の意外な一面を見ることはよくあることです。人の性格には決して固定化したものではありません。

 

 私たちが自分で「心」と感じているのは心(citta)ではなく心所(cetasika)です。

「私は悲しい」と言うときは、心を悲しませる心所が心にあるということです。「私は悲しい」ということは事実ではありません。『私』という存在があるわけではなく、実際にあるのは心と心所です。悲しんでいたのは私だし、勉強をしていたのも私だし、今ふざけているのも私だし…やはり『私』がいる、と思うのですが、それはただ心の作用に悲しい波動や楽しい波動などいろいろな波があっただけのことです。遊んでいる、勉強している、悩んでいる、考えている、怠けているなど私たちの状態や動作を表す語句はすべて心所に基づいて言っている表現です。

 

 不善心所は心を暗く狭く弱くし、浄心所は心を明るく大きく強くします。不善心所の溶けた心は毒水のようなもので、浄心所の溶けた心は栄養のあるスープのようなものだといえるでしょう。たとえ毒の弱い毒水でも、毎日飲んでいればその毒にやられて死んでしまいます。逆に栄養のあるスープを毎日飲むと、どんどん健康になって成長していきます。「生きている」ということよりも、「どのように生きているか」ということこそが、大事なポイントです。私たちにとって、不善の心所を抑えて善の心所を育てることが何よりも大切なことなのです。

 

 戒律は、不善心所を抑えるはたらきをします。身口意(行動、表層意識、潜在意識)の行為は、必ず行為に応じた心所を生じさせます。悪い行いをするときには悪い心所が生じています。他の生命を殺したり、不倫をしたり、酒を飲んだりすることは、すればするほど心を弱く狭くするのです。釈尊は、智慧の目(潜在意識の自動反応回路のあり様を分析する力)で心を観て戒律を定められたのです。ですから無理をしてでも戒律を守るならば、自分を守ることができます。

 

 ヴィパッサナー冥想も善い心所を育てるための修行です。愚者か智者かの違いは、心所で決まるのです。心を暗く狭くする心所が生まれないようにして心を広く深く強くする心所を育てあげていく…それが仏教の実践です。

 

このようにヒトが何をするにしても、そこには必ず心所(メンタルファクター)が生まれています。瞬間、瞬間、私たちの心には、52種類の心所(不善心所14、浄心所25、同他心所13)のどれかが生じています。

 

参照

アヌルッダによる『アビダンマッタ・サンガハ』 - 上座部仏教による52心所

世親による『阿毘達磨倶舎論』 - 説一切有部による46心所

無著による『大乗阿毘達磨集論』 - 大乗仏教による51心所

トンパ・シェンラプ(ston pa gshen rab)による 『蔵窟』(mdzod phug) - チベット・ボン教による51心所

 

 

 

 

AÑÑASAMÂNA-CETASIKA:同他心所    

善か悪かという立場からみると、善でも悪でもない心所があります。

それが、同他心所(同時にはたらく他の心所の性質を受けて善にも悪にもなる心所)で、13種類あります。

同他心所は基本的な心のはたらきだといえるでしょう。

 

同他心所は、共一切心心所と雑心所の二種類に大きく分類されています。

 

共一切心心所とは、すべての心に必ずある最低限必要な心のはたらきで、 七種類あります(雑心所はすべての心に必ずあるわけではありません)。共一切心心所は最も基本的な心のはたらきなのです。

この共一切心心所の1番目、phassa(触)から説明します。

 

 

共通の7つメンタルファクター  共一切心心所

1. phassa (パッサ):触

2. vedanâ(ヴェーダナー):受     ⇒六処(眼耳鼻舌身意)で触れた情報を感じるはたらき

3. saññâ(サンニャー):想     ⇒六処(眼耳鼻舌身意)で触れた情報を区別してカテゴライズする

4. cetanâ(チェータナー):思      ⇒行為の動機づけをするはたらき。意志。

5. ekaggatâ(エーカッガター):一境性     ⇒認識対象に集中するはたらき

6. jîvitindriya(ジーヴィティンドリヤ):命根   ⇒「生きる」機能

7. manasikâra(マナシカーラ):作意        ⇒心(認識)を作動させるエネルギー

 

上座部仏教では、認識するプロセスでは、心は10段階にわたってフィルターがかかってくると解釈されています。

心の9段階  自動反応回路化にいたる9段階

 

上記の喩えでいうと、7つの普遍的なcetasikaだけを含む純粋なcitta(知る機能)はコップ一杯の純水だとたとえられます。そこに砂糖(2段階目のmano) と塩(3段階目のmanasan)を少し加えると汚れますが、汚れは見えません。 ここでブラウンシュガーを少し加えると、水が茶色に変わるのがわかります。 これは4段階目のHadayaのステージのようなものです。 その後、チョコレートや牛乳などを加え続けると、水はもっと汚染されますが、まだほとんどが水です。 完全に汚染されるのはviññāa段階です。 これが常人の認識はそのままですでに汚染されていると論蔵が解釈する理由です。

 

アラハンのcittaは(3番目の)masanan段階を超えて汚染されません(Arahant phala samapattinibbānaの至福を楽しんでいる間、アラハンはpabhassara citta、すなわち純粋なcittaです。) 他の人は全員、viññāa段階に到達しますが、もちろん、apāyāに関連するgatiをすべて取り除いているので、Sotāpanna段階に到達するまでに「汚染のレベル」ははるかに低くなります。

ご覧のとおり、これほど速いプロセスを完全な意志の力で制御することは不可能です。汚染物質である貪欲、憎しみ、無知のある「マインドの浄化」を徐々にするしかありません。

これで、manoがマインドになり得ない理由がわかります。 Manoはちょっと「汚染された」citta です。 それが徐々に汚染され、「viññāa」ステップに至るまでに、arammanaすなわち「思考対象」に関連するすべてのcetasikaを捕捉していきます。

 

 

1. phassa (パッサ):触

⇒六処(眼耳鼻舌身意)にそれぞれの対象(色声香味触法)が触れること。

 

パッサ(触)は、触れること、コンタクトをとることです。

それぞれの感覚器官に触れる対象は、それぞれ決まっています。たとえば、目は色形に触れます。外界全体にではなく、そのほんの一部である色形だけに触れるのです。見えるためには色々な条件も必要です。対象に近づきすぎても、対象から遠すぎても見えません。一定量の光も必要ですし、光の種類や本人の視力によっても見え方は全く違ってきます。人間の目は、紫外線や赤外線には触れることができません。

同様に、耳は音、鼻は香り、舌は味、身体は熱や堅さ、意() は法(概念) に、限られた条件の下で触れるのです。

 

目で何かを見るときには、必ず心(viññana:ヴィンニャーナ:認識作用)がはたらいています。目と色形とviññana との三つが揃ったところに phassa という心所が生じるのです。「認識作用」は「生きていること」と言い換えることができます。これは単純なことで、生きている目を開けると何かが見える、ということです。心は瞬間瞬間、生滅変化しています。生命は心が生じているすべての瞬間に、必ず何かの対象とコンタクトをとっているのです。

 

六つの器官が認識する情報は、それぞれ全く別々です。

たとえば色形と音は全く違うものであって、お互いになんの関係もありません。また、それらの情報は固定していません。固定している固いものではなく、ずーっと流れつづけています。色形も光として流れてきて目にぶつかるのです。音も、波として流れてこないと聞こえません。味も、身体に触れるものも、同様です。「固定された固体が身体に触れるではないか」と思うのは錯覚で、触れるものはずーっと流れていなければ認識できないのです。私たちが「永遠不滅の魂」などを認識することは不可能です。

 

六つのチャンネルに六種のデータが絶え間なく流れてくるのですが、五官(眼耳鼻舌身)は今ここにあるものを認識するだけなので、それほど問題はつくりません。さまざまな悩み苦しみをつくり出すのは六番目の意(心)なのです。心は、「あるもの」にも「ないもの」にも触れます。

 

仏教では、私たちが 「ある」と思っている殆どすべてのものは、実際にあるのではないと説いています。

たとえば。『人』というものは実在しません。『私』『あなた』『動物』『家』『今日』『昨日』『明日』などなど、それらはすべて実在しないのです。『今日』はどこに実在するのでしょうか。どこにもないのです。ですから心は「ないもの」のことを考えていることが殆どです。私たちが、泣いたり、喧嘩したり、喜んだり、好きになったり嫌いになったりしているのは、心の中でつくっている幻想の世界です。

 

 私たちは多くのものを「ある」と勘違いして、怒りや欲でたくさんの感情をつくり出します。頭の中でつくった幻想を、「好きだ」「嫌いだ」とどんどん膨らませて、たいへん苦しんでいます。心はしょっちゅう「感情のやまびこ」に触れていると理解するとわかりやすいかもしれません。

 

 ヴィパッサナーの実践をすると、パッサがよく理解できるようになります。たとえば音が耳に入る。「音」を感じたらそこにパッサがあったのです。よく精神集中ができたならば、巨大なパッサが出てきて、コンタクトというのはいかにすごいかということがわかります。「触れる」ということから 認識が始まります。ですからヴィパッサナー では、パッサをとても大切な心のはたらきと しているのです。

 

2. vedanâ(ヴェーダナー):受   ⇒六処(眼耳鼻舌身意)で触れた情報を感じるはたらき

 仏教では「感じること」を心の機能として、心所のひとつに数えています。ヴェーダナー()は「感じた」と意識化される以前の根本的で基本的なはたらきです。

 

 何かを知る前にそれを感じないと知ることはできません。光が目に入って、それを感じたら見える。感じなければ見えません。私たちの耳には様々な音が入ってきますが、それらの音に対してヴェーダナーという感じる機能がはたらいた音だけを認識するのです。何も感じなければ存在しないのと同じことで、我々には関係ありません。誰かにひどいことを言われたとしても、その声()を耳が感じなければ心に怒りは生まれません。その声()を感じて心が強烈に受け取ると、強烈な怒りが生じるのです。

 

 ですからこの受(ヴェーダナー)という心所は、人間の煩悩の大本となる非常に大事な心所なのです。人間のすべての迷いはこの受からはじまります。誰に何を言われても、心がそれを放っておくことができれば、悩みは消えてしまいます。楽しいときでも、客観的に観察すると、ある概念によって楽しみを感じていることがわかります。もしもそのことに執着がない場合は、別に楽しくもないのです。それがわかると「なるほど、受に基づいて渇愛があって、渇愛から苦が生まれるんだ」という智恵が生じます。

 

 受はたいへん重要な心所で、仏教哲学の心臓だとさえ言うことができるのです。なぜそれほどまでに重要かというと、「私」「魂」「真我」などという強烈な誤解が、このヴェーダナーから生まれてくるからです。

 

 何かに触れてそれを感じることは自然法則で、どうにもならないことです。ところがここで、生命は大きな間違いを犯してしまうのです。どういうことかというと、「私」という化け物が認識の中にサッと入り込んでしまうのです。たとえば目に情報が触れると、「光の波が目にぶつかって、目という感覚器官がそれを感じた」と正しく認識せずに、「私は見た」と思ってしまいます。それは瞬間のできごとなので、「私は見た」「私は聞いた」とはっきりと意識化されるわけではないのですが、「見た」「聞いた」と感じた瞬間に「私」という主語が入り込んでいるのです。

 

 yam vedeti tam sañjânâti(ヤン ヴェーデーティ タン サンジャーナーティ)「彼が感じたもの、それを彼は知る」というお釈迦様の言葉があります。ここで大切なことは、「彼」という主語が入っていることです。「彼」が知るのは「彼が感じたもの」のみであって、実際の外の世界を知っているわけではないのです。「彼が感じたもの」はそれぞれの主観ですから、一人一人みんな違います。ですから「みんなで一緒にこの絵を鑑賞しましょう」などということはあり得ないことです。

 

 自分の目で感じたものを知るのですから、「私が時計を見た」ということも成り立ちません。「私が目を開けていると、何かが目に触れて、ある感覚が生まれた。私はその感覚を認識した」と言った方がより正確です。実際は「私」というものもないのであり、「ある感覚からある認識が生じた」というのが、よりぴったりの言葉なのです。

 

 私たちは感じることによって、「苦」「楽」「不苦不楽」という三種の感じを受け取るとされています。しかし実際には、「苦」といってもさまざまな苦がありますし、感じる度に違う苦を感じます。それは「楽」も「不苦不楽」も同じことなので、結局は数え切れない無数の感覚があることになります。

 

 「私」、「私」と思っていたのは、ただ瞬間瞬間生滅していく無数のヴェーダナーであって、その無数のヴェーダナーから生じる束縛をなくすことができると、そこに心の安らぎがあります。それを体験することが悟りなのです。

 

3. saññâ(サンニャー):想     ⇒六処(眼耳鼻舌身意)で触れた情報を区別する

 対象を認識する場合、その対象を他のものと区別するために、心の中にはちょっとしたはたらきが生まれます。それがサンニャー(想)です。たとえば色形が目に触れると、目がそれを感じた瞬間に、言葉であれこれと考える以前に、心はサッと区別しています。

 

 区別するはたらきがないと認識はできません。認識するということは区別をするということです。生きているということは認識するということだから、生命にとってサンニャーはとても大事なはたらきです。

 

 とてもよく似たもの、たとえば同じ種類の鉛筆を二本見せられると、私たちはなかなか区別することができません。それでも「後で区別できるように、よく覚えておいてください」と言われたならば、どこかに違いはないか、なんとか区別できるところを探そうとします。それはサンニャーをはたらかせているのです。自分の頭に入れたサンニャーを使って区別するのです。

 

 私たちは、興味のある対象にサンニャーをつくります。たとえば誰かと話をしている時でも、耳には相手の話し声以外のたくさんの音も入ってきていますが、そういう関係ない音は無視しています。つまりサンニャーが生まれていないのですね。サンニャーが生まれない音は聞こえません。

 

 サンニャーは訓練によって鋭く強くすることもできます。勉強ができる人は、色々工夫してサンニャーのはたらきを力強くしているのです。学校で授業を受けるだけでなく、自分でもそれについて考えて疑問や反論をつくったりすると、サンニャーがたくさん生まれてしっかり理解できます。

 

 私たちの心はいつでも新しいサンニャーををつくり続けています。誰かを見るときでも、見るたびに新しい人を見ているはずなのです。感覚器官には、全く同一のものが触れることは決してありません。

対象も感覚器官もどんどん変化して流れ続けているのです。同じ人を二度見るということはないし、同じ音を二回聞くこともないのです。すべて一回きりです。たとえば昨日誰かに言われたことを、百回以上も繰り返して思い出しているとしても、思い出す度に心に触れることは違っているのです。けれども似ているものを二度、三度と認識すると、「同じものだ」と錯覚するのです。「妄想概念」といわれる認識概念がはたらいて、勝手に概念をつくってしまうのです。

 

 概念、知識、記憶などはすべてサンニャーの塊です。私たちが「私がいる」「魂がある」などと錯覚する原因となっているいちばんの元凶はヴェーダナー(受)という感受作用ですが、このサンニャーもかなり錯覚の原因になっています。私たちは概念や知識、記憶などによって「私がいる」と思うのです。

たとえば『名前』という知識があります。自分が生まれてから今までずっと同じ名前だから、同じ人間だと思ってしまうのです。それも完全な妄想で、ただのサンニャーの塊に「自分」だとアイデンティティーをつくっているのです。サンニャーによって、無常が見えなくなってしまうのですね。赤ちゃんの時の自分と現在の自分を冷静に見ると、同じなのは名前だけで、身体も、考え方も、好き嫌いも、全く違うのです。漠然と「変わらない何か」があるように錯覚しているだけです。

瞬間瞬間、色々なサンニャーが生まれては消え生まれては消え、流れ続けていきます。そこには「何か変わらぬもの」「私」「魂」などはありません。

ただ止まることなく生滅をくり返し、流れていくサンニャーという心のはたらきがあるだけです。

 

 

4. cetanâ(チェータナー):思      ⇒行為の動機づけをするはたらき。意志。

 心には常に「心がひとつ回転したら、次の回転をせざるを得ない」というポテンシャルエネルギーのようなものが生まれています。たとえば手を上げると、そのまま上げ続けるか、止めるか、下げるか、何かをするのです。どれをするにしても、そこには「〜しよう」という意志がはたらいています。

人はいつでも何かをしたい。

「きれいに止まりたい」という気持ちはありません。

 

 心所としてのチェータナーは基本的で根本的なわずかなエネルギーです。けれどもチェータナーはすべての心にはたらくのですから、巨大なエネルギーだと見た方がいいのです。ヴェーダナーやサンニャーも同じことで、私たちはずっと共一切心所のはたらきの中で生きているのだから、これらはかなり大きなエネルギーなのです。

 

 目を開けると自動的に何かが見えるのですが、その時でもやはり心が見たいから見ているのであってそこには何となく、チェータナー(意志)のはたらきがあります。意識して見ようとするときには、かなりのチェータナーがはたらいています。「立ちたい」と思うだけで立たないことがありますが、それは心にチェータナーが生まれたのだけれども、体を動かす程チェータナーが強くないのです。「立ちたい」と思ってすぐに立つ場合は、チェータナーのエネルギーが強いのです。

そのように、行動を起こすか起こさないかということは、チェータナーが決めるのです。何かを考えているときは、それを考えたいから考えているのです。考えたくないことは考えません。考えるのをやめるときは、やめたいからやめるのです。どんな場合にも、チェータナーという心所がはたらいています。

 

「カルマ(業)」というよく知られている言葉がありますが、そのカルマというのはチェータナーのことなのです。心は常に認識していますが、それも認識したいから認識しているのであって、そこに意志がはたらいています。カルマから逃げることはできないのです。大胆な行為だけがカルマで、普通の日常の行動はカルマではないということではありません。何かを見る度に、何かを考える度に、何かを思う度に、手を上げる度に、手を下げる度に、私たちはカルマを蓄積しているのであって、行動する意志がカルマなのです。たとえば本を読んでいるなら、「本を読みたい」という意志がずっとはたらいているから読んでいるのです。そこにカルマのはたらきがあります。

 

チェータナ一には、カルマになるチェータナーとカルマにならないチェータナーがあります。いちばん基本的なチェータナーはカルマになりません。目を開けてたまたま何かが見えた場合は、別にカルマにはならないのです。何かを見ようとして見ると、そこにカルマが生まれています。生命が何かを認識した瞬間に、意志も生まれています。この意志がわずかでも強くなったらカルマになるのです。弱いチェータナーは行為を起こすだけで消えてしまいます。強いチェータナーは心にエネルギーとして蓄積されていくのです。その蓄積されたエネルギーがカルマになります。

 

誰かにぶつかって転んだとします。「痛い」と思った瞬間にもチェータナーがはたらいて痛みを感じているのですが、それはカルマにはなりません。そこに欲や怒りの感情が入ったとたんにカルマになります。同じことでも、悪いカルマになる場合もあるし、善いカルマになる場合もあります。ぶつかった人に腹を立てて怒ったら、悪いカルマになります。

「ケガをしたではないか、弁償しろ」と怒鳴ったりすると、かなりの欲や怒りで、悪いカルマとなります。逆に相手のことを気遣って心配したならば、善いカルマになるのです。

 

自分の感情がコントロールできない場合は、「私はこうしたいと思っている(こういうチェータナーが今はたらいている)。これは、善いカルマをつくるだろうか、悪いカルマをつくるだろうか」と客観的に分析します。そうすれば、心を善い方向に向けることができます。善いチェータナーのエネルギーはどんどん育てて強くすることができます。

そのように、心所を理解するのは、心を育てるためなのです。心のはたらきを論理的に理解することによって自信が出て、やる気も出るのです。

 

5. ekaggatâ(エーカッガター):一境性     ⇒認識対象に集中するはたらき

 生命は瞬間、瞬間、常に何かを認識して生きていますが、認識するためにはその瞬間に認識対象につかまっている必要があります。一境性というのは、瞬間、瞬間、認識対象に集中するはたらきです。私たちは、見たり、聞いたり、味わったり、考えたりする対象に、認識する瞬間に集中しています。その瞬間の集中が一境性です。

 

一境性は、集中力という以前の基本的なかすかなはたらきですが、この集中がなければ認識は生まれません。ですから一境性も、他の共一切心心所と同様とても大切な役割を果たしているといえます。心が色々なところに走り回っている状態を「集中力がない」と言いますが、それは、集中が一カ所に留まらないということで、一境性は常にはたらいています。一境性が一カ所に止まることを「集中力」と呼ぶのです。

 

 ものごとには色々な無数の側面があります。一境性は、認識する瞬間に自分が認識したい側面に心所(心のはたらき)を統一させるのです。たとえばある人が「この絵の青い色の使い方が神秘的ですね」と言うと、皆が青色に気をつけて、絵をその側面で見ます。そうすると同じ絵を見ても、違うものが見えてくるのです。その瞬間に心が何に集中したかによって、違うものが見えるのです。子供が遊んでいても、その子が自分にとって良い存在だと思うとかわいいと思うし、自分にとって良い存在ではないと思うとうるさいと感じます。自分のダンナさんにしても、時々は面白い人になるし、時々はいない方がいい人になるし、時々は早く帰ってきてほしい人になるし、その時その時、自分が何かにしぼって相手を見ているのです。本当に相手を正しく見ている人はいません。

 

 ですから人の批評や批判などは、決してそのとおりの事実ではありません。私たちが見ている対象は無数の側面を持っているのに、その瞬間その瞬間に一つの面を認識しているだけなのです。その時にはその側面の特色しか見えていません。だからいくらか正しくしゃべりたければ、「私の子供はかわいくて、憎たらしくて、うるさくて、楽しくて、離れたくない人で、見たくもない人です」と言った方がいいのですが、そうすると何を言っているのかさっぱりわからなくなります。一境性はグルグル廻るので私たちの知識もそのようなものになるのです。しっかりした知識は、一境性を集中力として育てた時にのみ成り立つものです。

 

 一境性にも強弱があります。一境性が強くなればなるほど、その時のその側面を徹底的に把握するのです。それが非常に強くなった状態が、サマーディーです。そこまで強くなれば、その認識はなかなかのものです。サマタ冥想は、一境性を育てて強くする冥想法です。

 

6. jîvitindriya(ジーヴィティンドリヤ):命根   ⇒生きているという機能

 ((jīvita + indriya), nt.) the faculty of life; vitality.  (Source): BuddhaSasana: Concise Pali-English Dictionary

 

 心にも「生きている」というはたらきがあって、命というものを持って活動しています。そのはたらきを命根(ジーヴィティンドリヤ)といいます。心の瞬間的な生のはたらきが命根です。

 

心は常に生滅変化して、生じては滅し、生じては滅し、どんどん新しい心が生まれては死んでいきます。どの瞬間の心の中にも『命根』という、命の機能の心所があって、この命根があるから心は滅してもまたすぐに生じるのです。生は滅の因になるし、滅は生の因になります。

 

 花を見ると、花を見た瞬間だけその心が生きていて、それはすぐに死んで次の新しい心が生じます。たとえば花を見た次の瞬間に、昨日のことを思い出したりするのです。花を見た心と、昨日のことを思い出した心は、全く違う別の心です。心は、その時その時、一瞬の命を持って、死んで、生まれて、また死んで、それをくり返していくのです。一般的な「死」の概念とはずいぶん違うのですが、それこそが仏教における「死」の概念なのです。

 

7. manasikâra(マナシカーラ):作意        ⇒心(認識)を作動させるエネルギー

"attention"  "ego-centric demanding" the process of the mind fixating upon an object.

One of the seven universal mental factors in the Theravada Abhidharma.

 マナシカーラ(作意)は、心を作動させるエネルギーです。たとえば1万個の将棋をきれいに並べて将棋倒しをしようとしても、駒を並べただけでは動きません。先頭の駒を倒すと、すべての将棋がきれいに倒れます。マナシカーラはそのようにすべての心所の行動を起こさせる引き金のような、スイッチを押すようなはたらきをするのです。ヴェーダナ、サンニャー、チェータナ等はそれぞれ自分のはたらきを持って待機しています。マナシカーラが作動して、それらの心所を動かすのです。そういうとチェータナ(意志)のはたらきと似ているようですが、荒っぽく説明すると、チェータナは何かをやりたがっているエネルギーで、マナシカーラは「じゃあ、やろう」と作動させるはたらきなのです。

 

 どの心所も、マナシカーラに後押ししてもらわないと強くはたらくことはできません。暑さが気になるときは、身体の感覚にマナシカーラが生まれている。話し声にマナシカーラが生まれると、話の内容を理解して記憶することができる。サマタ冥想で育てようとしているのは一境性(集中)ですが、一境性を育てるためにもマナシカーラが必要なのです。たとえば、何か一つの文言、呪文のようなものを唱えながら冥想をする方法があります。あれは、何か一つのことにマナシカーラを作用させようとしているのです。サマタ冥想で呼吸に集中させるのも同じことです。色々な工夫をして、一つのことにくり返しくり返し、マナシカーラを作用させる。そうするとそこに集中力がジワジワと生まれてくるのです。

 

 マナシカーラという言葉は日常的によく使われていた言葉で、経典にもよく出てきます。その場合は釈尊は「話をよく頭に入れておく」というような意味で、マナシカーラという言葉を使っておられます。心所は素粒子レベルの心のはたらきなのですが、アビダルマでは心所のために新たな言葉をつくらずに、当時ふつうに使われていた言葉で、心所を呼び表しているのです。マナシカーラだけではなく、ヴェーダナにしてもサンニャーにしても、当時の人にはとても馴染みのある言葉だったのです。

 

 共一切心心所(触、受、想、思、一境性、命根、作意)の七つは、すべての心に常にはたらいています。この七つが揃ったら基本的な「認識」というはたらき(心)が生じるのです。何かを見るときは、瞼を開けた瞬間に、「見たい」というエネルギーがあって、対象に集中して、対象に触れる。対象に触れるとそれを感じる。そして、感じたものを識別します。「見よう」というエネルギーもはたらきますし、そこには命根という、「生きている」というはたらきもあります。これらはすべて素粒子レベルのはたらきで、「見た」と思う以前の一瞬のはたらきです。物理学では素粒子レベルで物質を理解するように、心というものも素粒子レベルで理解すれば、本当の理解が得られるのです。

 

 仏教では、心は育てることもコントロールすることもできるといっています。サンニャーを育てると抜群の知識人になりますし、パッサを育てると敏感で鋭い人になります。けれども一般的には、とにかく心は、その時その時、自分にとって強烈な対象を勝手に認識しています。そこにはコントロールは全くありません。人々がよく「人間には自由がない」と言うのは、実はそのことなのです。一般的には人間は自分の意志で生きているのではなく、ただ流されているだけなのですね。仏教では、「流されているだけの生き方をやめて、自分で生きてみたらどうですか」といっています。生きるということは、認識するということです。ですから「自分で生きる」ということは、「きちんとコントロールして認識する」ということなのですね。

 

 認識を自分でコントロールできるならば心は自由です。だから「心は自由なのか、自由でないのか」と訊かれても、それはどちらとも言えないのです。心を放っておけば心の自由はないし、正しいやり方でコントロールすれば、心も自由にコントロールできるのです。だから仏教では、「心は自由だとも、自由ではないとも言うことはできません。それは因果法則によるのです」と答えています。

 

 

 

 

 

PAKINNAKA CETASIKA(パキンナカ チェータシカ):雑心所

 雑心所も、共一切心心所と同様、善でも悪でもありません。善い心所と共に働くと善心所になり、悪い心所と共に働くと悪心所になる心所(同他心所)です。雑心所と共一切心心所の違いは、雑心所は必ずすべての心に生じるとは限らないところです。例えば五官(眼耳鼻舌身)に色・音などの情報が入った瞬間の心には、自動的に認識作用が起きるので、雑心所は必要ないのです。雑心所は6種類あります。

 

1. vitakka (ヴィタッカ): 尋(じん)     ⇒ 認識対象を心に乗せる(同時に心の論理を担当)

 六識(眼耳鼻舌身意)に入る対象(色声香味触法)を認識するとき必要な、基本的な働きです。

 目に、何か見える対象が入ったとします。瞬時に『見えた』という実感を作り出す眼識が生まれます。でも何が見えたかはわかりません。次の瞬間に『花だ』『椅子だ』と、見た対象を認識します。花だと決めるために何かの情報処理が必要です。この情報処理をする基本的な働きがヴィタッカ()です。

 

 ヴィタッカのヴィは、明確に細かく、という意味です。タッカは、思索、論理という意味を持っています。通常のパーリ語では、ヴィタッカといえば、論理的に物事を考えるという意味になりますが、アビダルマのヴィタッカ()は、論理という意味を持っていません。

 

 注釈書では、『対象をこころに乗せる』というような解釈をします。注釈書でも尋の説明はかなり長いですが、明確とは言い切れません。ですから、尋は、ものごとを認識するときに必要な、とても基本的な論理作用だと思います。

 これを我々が普通に使う論理と区別しておきましょう。日常生活の中で何かを判断するとき、我々は頭の中でかなり考えるのです。たとえば、進学はどこにしますか、晩ご飯には何を作りますか、などです。

 論理的に考えるといっても、その論理自体が、論理学にのっとった正しい理論ということにはなりません。基本的論理作用()は、それとは違います。

 目をあけて何かを見た瞬間、「赤いバラの花だ」と認識してしまうのです。「赤いバラの花だ」という言葉が、認識してからずいぶん後に付け加えられます。いわゆる『言葉』が現れる以前に、論理的に対象を認識しています。この場合も、論理だからといって正しい論理と思う必要はないのです。

 この基本的な論理を簡単に見出せる方法があります。日常生活の中で我々は、何も考えず行う行為がほとんどです。それらの行為を探ってみると、何か理屈を見出せます。靴を脱ぐ、かばんを置く、新聞雑誌などをどこかに置くなど、無意識にする行為がいっぱいあります。

 「なぜ、あなたは靴を脱ぐとき左足の靴は後ろに下がっているのですか」と、脱いだ本人に聞いてみましょう。その人は、まったく無意識に何も考えずにやったことだから、自然にそうなっただろうと思いがちなのですが、しつこく聞いてみると、頭に何かの理由が浮かんできます。実は左足の靴は後ろに下がるように、脱ぐ瞬間にその理由が心の中に機能していたのです。

 花を見て、「バラだ」と決めるときも、「なぜバラなの?」と聞いても、答えられないかもしれませんが、見た対象をバラに決めた理屈があります。

 この言葉にならない、自分でも気づかない、何かを区別して認識するとき必要な基本的な論理構成が『尋』です。知識人が考える大げさな論理ではなく認識するとき必ず必要とする論理的な働きです。動物でも、獲物になる動物と、そうならない動物を区別し、認識するとき、尋が働きます。

 

2. vicâra (ヴィチャーラ): 伺(し)    ⇒認識対象をつかまえているはたらき

 ヴィチャーラ(伺)という心所は対象を上手くつかまえている役目をします。ヴィタッカ(尋)は対象を心に乗せ、ヴィチャーラは心に乗せた対象を、ちゃんとつかまえておくのです。

 注釈書には「鐘を叩くとカーンと音が出ますが、その後もしばらく音は出つづけています。ヴィタッカはカーンという音に、ヴィチャーラは叩いた後に響いている音にたとえられます」と説明されています。

ヴィタッカとヴィチャーラは両方とも頭に浮かぶ思考なのですが、思考には粗いはたらきと細やかなはたらきの二種があるということなのです。ヴィタッカはすごく基本的なはたらきで、ヴィチャーラはより微妙で細かいはたらきです。強引に何かを考えるとヴィタッカで、自然に考えが流れてくるとヴィチャーラがはたらいています。

 

 たとえば「絵を見よう」と見る時はヴィタッカがはたらいていて、そのあと自然に見ている時はヴィチャーラがはたらいています。ヴィチャーラは対象をつかまえていますから、対象をよく認識することができます。「その絵は青い色がポイントです」と言われて、「どこだろう」とあらためて見る時にはヴィタッカがはたらいて、ヴィチャーラで見て「ここに青い色がある」とわかります。そのようにヴィタッカとヴィチャーラの二つはセットになってはたらくのです。大概の思考はヴィタッカとヴィチャーラの両方でできています。

 たとえでいえば、馬の背中に乗ることはヴィタッカで、馬が暴れて振り落とそうとしても頑張って乗り続けるのはヴィチャーラです。

 難しくておもしろくないけれども読まなくてはならない本があるとします。その本を読むときに、理解しようとするのはヴィタッカで、それから20分、30分と頑張って努力して理解するのはヴィチャーラです。ヴィチャーラがない人は、難しい本を読むとすぐに眠くなったりしてやめたくなります。

 

 私たちが何かを考えるときには、普通は頭の中で言葉を使って考えています。その場合はヴィタッカがよくはたらいているのです。もしも言葉を使わずに考える人がいるならば、その人はヴィチャーラで考えているのです。

 言葉で考える場合は、あまり大胆なことを考えることはできません。すごいことを発見する人の頭には言葉がないのです。言葉なしに考えると、すごく速く考えられるし、無駄がないのです。いちいち考えを言葉に通訳して考えていると遅いですし、言葉に通訳する過程で、かなりの意味が落ちてしまいます。たとえば何かに驚いたとします。その時の実際の感じを「驚いた」という言葉で表すことはできません。ですから言葉で考える人よりも、言葉なしで考える人の方が鋭いのです。

 冥想で、最初は、積極的に現象を確認していきます。その場合は、ヴィタッカが強くはたらいています。「痛み」「膨らみ、縮み」「妄想」などを積極的に確認して、確認して、どんどん慣れてくると、積極的に確認しようとしなくても自然に確認が流れていくようになります。その自然に確認が流れていく状態の場合はヴィチャーラが強くはたらいているのです。つまり、ヴィタッカがあまりはたらかなくても確認ができるようになった状態は、ヴィチャーラで確認しているのです。

 

 人が何をヴィタッカ・ヴィチャーラするかによって、その人の生き方が方向づけられます。その方向に傾いたからといって、すぐさま行動に移るわけではありませんが、行動をするための意志にヴィタッカとヴィチャーラが影響を与えるのです。ですからヴィタッカ・ヴィチャーラと共にはたらく心所が善心所か不善心所かということは、とても大切なことなのです。

 

3. adhimokkha (アディモッカ ):Determination 勝解(しょうげ) ⇒心を対象に結びつける結合

 アディモッカは、心を対象に結びつけるはたらきです。「勝解」と訳されているのですが、この訳は直訳過ぎてちょっと意味がつかみにくいのです。

 mokkha は「解脱」と訳されている言葉で〈逃げていく〉〈出ていく〉というような意味です。adhi という言葉は、英語の super …〈優れている〉〈レベルが高い〉というのが一般的な意味で「勝」と漢訳されます。ですからアディモッカも「勝解」と訳されているのですが、この場合の adhi は反語的な意味で、アディモッカは、〈逃げていかないようにする〉というような意味なのです。「勝解」は〈すばらしく自由になる〉という意味ですから、全く逆なのです。ですから「勝解」よりも「結合」などと訳した方がいいかもわかりません。

 

 アディモッカは、その瞬間その瞬間に、認識対象に心を結びつけます。私たちに、忘れようとしても忘れられない、ずっと心から離れないことが色々あるでしょう。そういう状態をつくるはたらきなのです。たとえば、とてもおもしろい本を買うと、その本を読み終わるまでずっと「あの本を読みたい」という気持ちが心から離れません。何をしていてもすぐにそこに戻るのですね。その場合は、このアディモッカが強くはたらいています。アディモッカのはたらきは一境性と似ているところがありますが、一境性は、ひとつのことを認識するように他の心所をまとめるはたらきです。

 

 私たちの心が何かを認識しようとする時は、尋や伺がはたらいて対象を捉えます。けれども人間には〈対象そのもの〉を認識することはできません。私たちは対象の無数の側面の中の一つの面だけを認識するのです。認識する瞬間に対象の一つの側面に心をくっつけるようなはたらきがあるのです。それがアディモッカです。

 

 たとえば、歩いていて縄を踏むとします。縄を踏んだ瞬間は、自動的に足の裏に異変を感じますからそこには尋も伺もアディモッカもはたらいていません。その次の瞬間で、色々な心所がはたらいて、その人の性格や煩悩が出てきます。そして、怖がったり、心配したりするのです。人によっては「蛇だ」と認識して、慌てて転んだり、大声を出したりするのですね。それから「なんだ、縄か」と認識すると、ホッとする。そうするとさっきまでの恐怖感がサーッとなくなっていくのです。そういう一連の流れの中で、その瞬間その瞬間に「こういう対象だよ」と対象のある側面をつかんでいるのが、このアディモッカという機能なのです。

 

 アディモッカが強くはたらくと、心が対象に釘打たれたような、ボンドで付けられてしまったような状態になります。たとえば病気になったら、病気という対象に、ずっと心が結ばれてしまうのです。他のことを考えることができずに、病気のことばかり考えてしまうのですね。家の中で何かトラブルがあったら、何もできずに、ご飯も食べないでそればっかり考えています。どうして悩みつづけるかというと、悩んでいる対象に釘づけになっている状態になっているからです。それは、このアディモッカが強くはたらいているのです。

 

 何かに悩んでいる人が何か他のことをすると、悩みなど忘れてしまうことがあります。それは結構効果がある解決法なので、私は悩んでいる人に何か他のことをするように勧めたりします。ただそれだけで直るのですね。けれども場合によっては、何をしても悩みが頭から離れないことがあります。それはそこにまだアディモッカがしつこくはたらいているということなのです。 そのように、悩みなどにアディモッカがはたらくとすごく迷惑なのですが、勉強などにアディモッカがはたらくと、ありがたいはたらきになります。冥想の修行をしていても、冥想以外のことにアディモッカがあると、なかなかうまくいきません。ヴィパッサナー冥想に対してアディモッカがはたらいたならば、ちゃんと修行をつづけることができて、とてもいい結果を出してくれます。

 

4. viriya (ヴィリヤ): 精進(しょうじん)    ⇒努力しようとするエネルギー

 ヴィリヤは精進するエネルギーです。

「精進」は日本語で一般的に使われている言葉です。何かをやりたいからやるのではなくて、「〜しよう」と決めて、その方向にがんばる心のエネルギーです。心所としてのヴィリヤは認識の対象を決めるために必要なエネルギーで、ヴィリヤはそういう基本的なはたらきもしています。

 

 日本語の「精進」という言葉は普通いい意味で使われていますが、心所としての精進(ヴィリヤ)には善悪はありません。ヴィリヤは同他心所ですから、善、悪、どちらにもなるのですね。がんばる人が何にがんばるかによって、善か悪かが決まります。銀行強盗をするためにがんばる、勉強をするのをがんばる、どちらにもヴィリヤがはたらいています。

 

 心所には強弱がありますが、ヴィリヤが強いと、かなり楽に仕事ができます。たとえば、体の弱いお年寄りをお風呂に入れてあげるのは大変な仕事ですが、ヴィリヤの強い人がすると、全然疲れません。元気で、「何人でもどうぞ」という感じでいます。ヴィリヤが弱い人が同じ仕事をすると、「これをやらないといけないからしょうがない」というおっくうな感じになってしまって、すごく疲れるのです。その差は何かというと、ヴィリヤという心所の強弱です。

 

 仏教でヴィリヤを善い方向に育てなければならないと強く説く理由があります。それは何かというと、ヴィリヤが育たなければ人間は自由にならないのです。ヴィリヤが弱い人は煩悩(貪瞋痴)に操られている奴隷状態で、目の奴隷、耳の奴隷、鼻の奴隷、舌の奴隷、身体の奴隷、考えの奴隷という、どうしようもないひどい状態です。自由は全くありません。

 

 ヴィリヤを育てれば育てるほど、人は自由になります。六処(眼耳鼻舌身意)の意のままに操られる状態から脱出できるのです。心をコントロールできるようになってはじめて、私たちは自分の見たいものを見る、聞きたいことを聞く、考えたいことを考える、という状態になれるのです。

 

 「私は今でも見たいものを見ていますよ」と思われるかもしれません。ところがそれは勘違いであって、実際は欲に操られているだけなのです。

美しいものや心地よいものを見たいと思って見るということは、誰でもしています。心はそれを願っているのだから、それはとても自然な流れです。

誰かに何かイヤなことを言われたら、すぐに怒ってしまう。それも自然の流れです。そこが落とし穴で、私たちは罠にはめられているのです。そういう状態がいかに不自由で苦しい状態であるかということに、気づくことができないのです。そのことは、ヴィパッサナー冥想の修行によって不貪不瞋不痴の真の自由を得て、はじめて理解できるのです。

  ところが、数ある善行為の中でも、特にヴィパッサナー冥想というのは、人間が本来絶対にしたくないことなのです。

心の流れと全く正反対のことを心にさせるのですから、ヴィパッサナー冥想こそは心が嫌がる第一番目の仕事であって、他に競争相手はいません。

心はどうしても貪瞋痴に傾きやすいのです。

 怒るのは容易いでしょう。怒らないのは難しい。

 欲張るのは簡単。欲張らないのは難しい。

そして、普通はそういう状態に気づきません。気づくためにもまたがんばらないとダメなのですね。

 

 ですから貪瞋痴と反対方向に行く修行をやらせることは、魚に「歩け、歩け」と言うようなことなのです。

そこをがんばってやらないといけないのです。

 ですからよほどヴィリヤを育てて、「やるぞ」とがんばらないと仏教の修行はできないのです。

そのように、ヴィリヤは仏教で最も大切にし、がんばって育てるべき心所のひとつなのです。

 

5. pîti (ピーティ):喜(き)       ⇒喜ぶエネルギー

 ピーティは、喜ぶエネルギーです。喜びには理屈はありません。何かを見てうれしい、何かを聞いて楽しい、何かを食べておいしい。それらは自動的に出てくる感情です。食べたものがまずいのであれば、口に入れた瞬間に心が知っています。「おいしいですね」とお世辞を言うことはできますが、感覚的に自分に嘘をつくことはできません。音楽が耳に入った瞬間に、気持ちがいいかどうかが決まっています。無理矢理に喜ぶことはできません。このようにピーティが自然に生まれるものです。

  しかし、喜びの心所も育てられます。嫌いな食べ物でも「どんな味かな」と興味をもって食べてみると、だんだん味がわかってきておいしく感じ始めるものです。そうすると喜びが出てきます。虫の鳴き声も、「うるさい」と感じることも「楽しい」と感じることもできます。つまり、喜びを得るためには、味や音など、感覚の対象の質が問題ではないのです。すべてが心の問題なのですね。好ましいか好ましくないかということは、決して絶対的な固定されたものではなく、心が決めるのです。

 

 そのようにピーティ(喜び)は心の問題で、外界の問題ではありません。外に向かって文句を言う必要はないのです。わざわざ楽しみを捜し歩かなくても、なんのこともなく喜びの心が生まれるようにすることもできます。たとえば正しく冥想をすると、心が集中して心の荒波が消え、自然に喜びの心が生まれます。心が落ち着くと、ピーティが生まれるのです。だから冥想がうまくいくと、確実に喜悦感が生まれます。

 

 外界のもの ─ 美しい景色、おいしい食べ物、きれいな音楽などから喜びを得ようとしても、限界があります。外の物質が私たちを落ち着かせてくれる力は、たいしたことはありません。何時間も何時間も音楽を聴いて楽しむことはできません。美術館に行って絵を見ていても、30分くらいたつと、なんか味のようなものが消えてしまう。麻痺してしまうのですね。そのように、物質に依存して喜びを得ようとしても、ある程度の量に触れると麻痺してしまって、大した喜びは得られません。

 

 直接心を落ち着けて得られる喜びは、物質から得られる喜びとは比べものにならないくらい大きいのです。冥想で集中力ができると、すばらしい喜びが生まれてきます。しかも、その喜びにはリミットがないのです。いくらでも成長させることができます。

 

 しかし逆に、それによって問題も出てきます。サマーディー冥想であまりの喜悦感に浸ってしまうとその強い喜びに満足してしまって、ヴィパッサナー冥想ができなくなってしまうのです。ただの喜悦感を「これこそ究極だ」と思ってしまったら、そこでその人の心の成長はストップしてしまいます。そこから抜けられなくなって、真理の世界にはいけなくなってしまうのです。

  ですから、喜ぶことは決して悪いことではないのですが、喜びの心が大きければ大きいほどすばらしいということでもないのですね。冥想の場合だけではなく、一般的な生活の場でも、仏教では平静な心を喜びの心より上に置いています。善行為をして喜びや感動を得るよりも、すごく落ち着いて「ただ善いことをする」という態度をほめるのです。

  たとえば、患者さんにほめられたり感動されたりして喜ぶ医者は、ピーティという刺激を求めているのですね。まあ、善いことをして喜ぶことは決して悪いことではないのですが、喜びを求めすぎると問題が出てくることもあります。

  平静なお医者さんは、患者がいくら文句を言おうが、わがままを言おうが、何のことなく冷静に治療をして終わるのです。「自分の仕事はこの患者を治すことであって、いくらわがままを言う患者であっても放っておくことはできない。文句を言おうが感謝しようが関係ない」という態度です。患者さんが「この医者は藪医者だ、こんな治療は殺人だ」などと泣こうがわめこうが、冷静にベストを尽くして治療をします。仏教ではそういう平静な態度をほめるのです。

 

 

6. canda (チャンダ):意欲(いよく)        ⇒意欲。やる気。

チャンダは意欲です。「見よう」「聞こう」など、何かを認識をしようとすると、そこにチャンダがはたらいています。チャンダは共一切心心所のチェータナー(思)と似ているはたらきですが、チェータナーの場合は自分の意志としてのはたらきなので、行為に付随する煩悩(または善心)がポテンシャルエネルギーとして蓄えられ、その人のカルマ(業)になります。チャンダはビリヤ(精進)とも似ているようですが、ビリヤはある一定の方向に自分の意志を向けようとするはたらきです。チャンダはもっと単純なエネルギーで、ただ何かを「やろう」とすることです。

 

「あれもやりたい、これもやりたい」という気持ちはあるのだけれども実行に移さない場合は、やる気のエネルギー(チャンダ)が足りないのです。「やらないといけないことがいっぱいあるんだけど…」と言いながら何もしない人は、ストレスがたまって、暗くなって、ダメになってしまう傾向がある。チャンダを育てると、やりたいことをどんどんするようになります。その人にはよけいなことを考える暇もないのだから、ストレスはたまりません。

 

外の世界を見て「あのようになりたい」と目標を作ったり、「外からの評価を得よう」と意気込んだりすると、かえってやる気が萎んでしまいます。自分の能力がどのくらいあるか試すつもりで、ゲーム感覚で楽しめば、やる気が育つのです。

 

 

 

 

 

心所と瞑想

冥想をして禅定に入った人と私たちとはどこが違うかというと、心所の差なのです。ある人が解脱を得たとしても、心自体は別に変わったわけではありません。変わったのは心所なのです。

心所をよく理解した人は、これまでの「わたし」という考え方を静かにゆっくりと見つめ直すことです。すると「わたし」があるのではなくて、ただ心所のはたらきのみがある、ということを理解することができます。

 

たとえば「あの人は知識人だ」と言う場合は、その人の心所の特徴を言っているのです。「あの人の心所のはたらきは、勉強をしていない人の心所のはたらきとは違う」というだけのことなのです。

勉強することにしろ、冥想することにしろ、結局は心所との戦いです。心に生まれる色々な現象との戦いなのです。ここで「戦い」というのは、必要なものを育て上げ、邪魔なものを抑えて消そうとする、という意味です。

ですから、冥想をするときには「自分の心に今どんな心所がはたらいているのか」と理解しておいた方がいいのです。

特に独りで修行をする場合は、心所の知識をもって自分の心をチェックすることが必ず必要です。

 

たとえば冥想して眠気が出てきたとします。眠気と戦っていると、自分では気づかないうちに怒りが生まれてくるのです。そうすると、一生懸命に善行為(冥想)をしようとして、逆に悪の心所(怒り)をためてしまうということになりかねません。いくら冥想をしても、睡眠と怒りという悪心所をくり返していれば、当然のことながら結果がよくありません。そこで不信感(疑)が出てくる、また怒りが出る、などという悪循環に陥ります。

 

一生懸命に冥想修行をしても、心が育っていかないならば、意味がありません。大切なのは、心が清らかになって煩悩(貪瞋痴)が少なくなっていくかどうかということなのです。残念なことに、せっかく冥想をしても、慢心や怒りばかりが大きくなる場合もあるのです。ですから心所を勉強して、細やかに理解して、自分の状態をきちんと把握しておくことが、正しく修行するためにとても大切なのです。

 

 

 

 

 

AKUSALACETASKA:不善心所     アクサラチェ一タシカ

 アクサラは不善、チェ一タシカは心の成分のようなもので「心所」と訳されています。心はしょっちゅう変化をします。溶けている成分によって水がコーヒーや紅茶やジュースになるように、心も溶けている成分によって違う心になります。人の性格は、どういう心所がその人の心に溶けやすいか、ということで決まります。不善心所は心を汚す心所、心を暗く弱く狭くする心所で、14種類あります。私たちの悩み苦しみは、すべてこの不善心所のせいなのです。

 

不善心所 14種類は、

(1)痴のグループ 4。 (2)欲のグループ 3。 (3)怒りのグループ 4。 (4)それ以外 3。

という四つにカテゴライズされています。

 

《痴のグループ》

moha(モーハ:痴)。無知。、愚かさ。ものごとの真の側面に気づくことができないこと。

 人は、たとえばバラの花を見て「きれいなバラだ」と価値判断をし、それによって行動を起こします。それはごく一般的な行為ですが、真理の立場で物事を観ているとは言えません。正しくない認識による行動は、当然問題をつくり出します。

 仏教では、ある一定の条件の中で一時的に「バラの花」という現象があるにすぎない、これは瞬間瞬間変化し続ける不安定な空しいものだ、という因果関係、無常の立場、現象論でものごとを観ます。そのように真理の立場からものごとを観られるのは悟りを開いた人だけなので、世の中の人々は皆無知な愚かさの中で生きているということになります。無知で生きている私たちは、ものごとをはっきりと正しくとらえることはできません。いつでも大雑把に認識して、混乱状態の中で価値判断をしています。そしてすぐに執着したり嫌ったりして苦しみをつくり出します。ですからこのモーハ(無知)こそは、すべての悩み苦しみの土台になる心所なのです。

 

ahirika(アヒリカ:無慚)。恥を知らない心。

 悪いことをするときに「これは人間として恥ずかしいことだ」という心が無いところから生じるエネルギー。「まあこのくらいのことはやってもいいんじゃないか」とパッとやってしまう。

 混乱状態で恥を知る心がないことに気がつかないこともよくあります。でも悪いことをしてしまったときに心を観ると、必ずこのアヒリカという心所があったことに気づきます。

 

anottappa(アノッタッパ:無愧)。怖れを知らない心。

 怖がらずに悪いことをしてしまうことです。この無愧と無漸は自己コントロールができないはたらきです。人は、自制心を失ったら恐ろしい存在になってしまいます。行儀の悪い行いは恥ずかしい、罪を犯したら怖い、という心がなければ、私たちはすぐに悪いことをしてしまうのです。

 

uddhacca(ウッダッチャ:掉挙)。落ち着きのない心。混乱状態。

  人が悪いことをするときは、正しく物事を把握できずに混乱しています。焦ったり、緊張したりするのもこのウッダッチャのはたらきです。落ち着きがないと、どのようなこともうまくいきません。上手な人でもへたな人になります。だからこのウッダッチャという心所が入れば、することはすべて不善(アクサラ)であって、善行為(クサラ)ではありません。

 以上の4つが痴のグループで、人の悩み苦しみには必ずこの4つがはたらいています。悩んでいるときは心を観て「今私には、無知と無漸と無愧と掉挙があります」と気づいて下さい。人はすぐに善悪の判断をしようとしますが、悪者を捜しても問題の解決にはつながりません。問題を解決したければ、まず状況を正しく把握する。そして心を落ち着かせる。そうすればほとんどの問題は解決します。

 

《欲のグループ》

lobha(ローバ:貪)⇒六処(眼耳鼻舌身意)によって得られた情報を受け入れるはたらき。

 仏教では、「世の中には美しいものがある、きれいな音がある、おいしい食べ物がある」と見るのではなく、「生命は生命の感覚器官にぶつかる情報に対してどういう態度を取っているのか」ということを見ます。ある生命がある味を受け入れる場合は、その味に対して欲を作る、つまりその味覚に対してローバ()という心所が生じている、と見るのです。

 貪(ローバ)は巨大な心所です。生命は自動的に自分が好むことをしようと、欲で行動するからです。食べたいから食べる。見たいから見る。聞きたいから聞く。考えたいから考える。妄想したいから妄想する。寝たいから寝る。それらすべての行為に貪という心所がはたらいています。ですから心所の中で私たちにいちばんなじんでいる不善心所は貪なのです。私たちにとってローバはあまりにも普通の心所であり、普通であるだけにとても捨てにくい不善心所です。「おかげさまで欲のない生活をしております」などと言う人でも、真に不貪の生活をしている人はめったにいません。

 何かを見たり聞いたりして「きれいだな」「いいな」と好ましく思った瞬間に、すでにローバは生じています。そういう感情は自動的にあらわれますから、「欲のない生活」というのはそれほど簡単なことではありません。無常を完全に理解していないと、対象に対して真にクールな心は生まれないのです。

 

ditthi(ディッティ:見)⇒邪見。間違っている考え方にしがみつくはたらき。

 見は「これこそ正しい思想だ」「これこそ私の道だ」などと、間違った考え方にしがみつくことです。誰かが反対意見を言っても耳を貸そうとしません。見は愚かさ(モーハ:痴)と似ているようですが、モーハは本来的な愚かさで、ものの真の姿が見えないことです。ディッティは特定の何か間違った考えを気に入って、「これこそ正しい」と決めつけてしまうのです。ディッティ(見)がはたらくと心の自由はなくなって、心は小さく狭くなります。

 人が「これが正しい」と決めつける(ディッティ)場合は、欲(ローバ)で決めています。ですから見と貪は同時にはたらきます。ローバ(貪)は気に入ったものを受け入れること。ディッティ(見)は受け入れるだけではなく、きつくしがみついてしまうことです。

 

mâna(マーナ:慢)⇒「私」という概念を規準に、他と比べたり計ったりするはたらき。

 人は六処(眼耳鼻舌身意)によって「私は見た」「私は聞いた」と「私」という概念をつくり出します。そしてその「私」という思いが生じると同時に、すぐ他人と比較したり計ったりします。自と他を比べることも、欲から生まれます。自分のことが好きだから比べるのです。ですからマーナ()もローバ()と共に生じる心所で、貪のグループに入ります。自分が好きで、自分の立場を守りたいという気持ちです。他と比べて見ることは嫉妬ではないかと思われるかもしれません。でも慢は嫉妬ではありません。嫉妬は怒りの心で、もっと破壊力の強い不善心所です。慢は嫉妬ほど目立つ悪行為ではないのですが、ジワジワと心を汚していきます。人と比べなくても自分にできることをすればいいし、できなければやめればいいのです。他人と比べると生きるのがとても複雑で難しくなります。

 慢には、三種類あります。自分が他人より上だと考える、自分が他人と同等と考える、自分が他人より劣っていると考える、その三つです。「自分はダメだ」と思うことも慢です。それは、結局「私」という概念から出ています。あらゆる苦しみはすべて慢(マーナ)から出てくると言っても過言ではありません。でもこの「私」という思いはなかなか捨てられません。人は皆「私」「私」と心を汚しながら生きているのです。

 

3)《怒りのグループ》

dosa (ドーサ:瞋)⇒怒り。 六処(眼耳鼻舌身意)によって得られた情報を拒否するはたらき

 自分が得た情報を認識したくない時、例えば見たくないものを見たり聞きたくないことを聞いた時などに生じるのが、怒りの心所()です。感覚器官に情報が入ることは止められません。目を開けると何かが見えるし、音は自動的に耳に入ります。人はかなりきめ細かく情報を取捨選択しています。ですからドーサには、怒りになる以前のかすかな「イヤだ」という心も含まれます。

 怒りは自分のわがままから生じます。自分が気に入るか気に入らないか、という自己中心性がなければ怒りは生まれません。自分が気に入っている対象にはローバ()が生じ、気に入らない対象にはドーサ(怒り)が生じます。一見、ローバ()は明るくてドーサ(怒り)は暗いようですが、本当はどちらも暗い心です。明るいのは善心所だけで、不善心所はすべて暗い心なのです。

 怒ると気分が悪くなるから心が怒りを好まないかというと、決してそういうことはありません。心は刺激を求めています。欲も怒りも、結局は刺激なのです。

 

issâ (イッサー:嫉)⇒ねたみ。嫉妬。  自分にないものが他人にあるという状態に対する怒り

 自分より上の人を見てねたむ心で怒るのが嫉妬です。嫉妬をする人はすごく苦しむ上に、成長が止まって、堕落してしまいます。

 優れた人を見て「優れた人だ」と思うことはイッサー(嫉妬)ではありません。その人に対して怒りの心が生じるのが嫉妬です。もし嫉妬の心が生まれたら、「これは嫉妬だ」と明確に知っておくことが大切です。嫉妬は自分にないものに対して生じる怒りです。

 

macchariya (マッチャリヤ:慳)⇒物惜しみ。自分のものを分け与えるのはイヤだという怒り

 嫉妬と反対に、自分にあるものによって生じる怒りの心所がマッチャリヤです。

 全く社会的な貢献をしようとしない。自分の知識を人に教えようとしない。熱心に修行をしている人が、他の人も修行をしようとしたらおもしろくない。それらはすべてマッチャリヤです。

 嫉妬(イッサー)と慳(マッチャリヤ)は、外から見るとどちらなのかわからないときもあります。たとえば、誰かが「あの人はすばらしい人ですね」とほめるのを聞いて、おもしろくない暗い心が生じたとします。他人の優れたところをねたんでいれば嫉妬で、自分の優れたところにケチをつけられたように感じているならば慳です。自分の心を細やかに見て、これは嫉妬だ、これは慳だ、と確認します。人は自分の悪いところを隠そう隠そうとします。修行をする人は、正直に自分を明確に見ていくことが大切です。

 

kukkucca(クックッチャ:悪作)⇒後悔。自分が恥ずかしいことをした、と自分に対して怒ること

 仏教では、後悔をすることはとてもよくないことだとされています。後悔をすると心が暗くなって、心が冴えていかないからです。元気でがんばっている人でも、後悔がちょっと入ったら、すぐに心がしぼんでしまいます。後悔は大変危険で強いマイナスのエネルギーなのです。

 自分がしてしまった悪行為を思い出すことは、悪行為を重ねることと同じことです。「あのときは悪いことをした」と思い出すと、その度に罪がどんどん重く大きくなるのです。思い出す度に印象を心に強くして、新しい印象を何回も作ってしまいます。

 後悔をする癖のある人は、歩いていても、料理をしていても、しょっちゅう後悔をしています。失敗してもそれを認めて前向きにがんばる人、自分の失敗を堂々と明るく言える人は、後悔はしません。失敗から何かを習っていい勉強になった、という感じで、明るく生きるのがいいのです。「どうしてあんなことをしてしまったのか」と悩むことは後悔であって、へたな行為(アクサラ)であり、成長して進んでいけなくなる生き方です。

 

《その他の不善心所》3つ

thîna (ティーナ:昏沈)⇒心の力を弱くするはたらき

 心の活発なエネルギーがなくなって、やる気がしぼんでしまうことです。何かをするためには元気なエネルギーが必要です。昏沈が出ると「明日でもいいか」と仕事を後回しにしたりします。

 修行をしていてもこの昏沈が出てくると、無知が生まれてきてぼんやりとし、やる気がなくなってしまいます。本来、ヴィパッサナー冥想をしていてエネルギーが減るはずはないのです。正しく不貪不瞋不痴で冥想実践をしているならば、どんどん元気になってやる気が出てこないとおかしいのです。だから疲れてやる気がなくなったり眠くなったりするということは、貪瞋痴で冥想実践をしてしまっているということになります。

 これは修行以外でも同じことです。怒りや欲で仕事をすると、どんどん疲れてエネルギーがなくなってきます。「ああイヤだな」と思ったとたんに、昏沈が出て、ストレスがたまってきます。だからといって「不貪不瞋不痴でがんばるんだ」と無理矢理に自分に言い聞かせても意味がありません。そういう大げさなことではなく、まず自分の心に気づくことです。たとえばお年寄りの介護をしていて疲れたとします。そのときに「私は疲れてイヤになってやめたくなっている…ということは、怒りや無知の心があったのかな」と自分の心を観ます。仕事をしていて元気になって気持ちよくやる気が出たら、「不貪不瞋不痴でがんばれた」と気づくようにします。そうしていくと自然にいい方向に進めるようになります。

 

middha (ミッダ:睡眠)⇒心の機能を鈍くするはたらき

 心の機能が鈍くなっていくと眠くなります。だからミッダ(睡眠)がはたらいてくると眠くなってきて、最終的には寝てしまいます。瞑想の時は、このミッダのはたらきだけは出ないように気をつけなければいけません。なぜかというと、心のはたらきをすべて鈍くしてしまうので、サティのはたらきも鈍くなって冥想実践ができなくなってしまうのです。ですから気をつけて、ちょっとでもこの睡眠の心所がはたらいていることに気づいたら、それがまだ弱いところで切るようにします。

 昏沈と睡眠はよくいっしょに出てくるので、昏沈睡眠というように、二つあわせて呼ばれています。両方とも行動的でなくなって、やる気がなくなっていく暗いエネルギーです。

 

vicikicchâ (ヴィチキッチャー:疑)⇒心の進歩を止める疑い。 因果関係が理解できないはたらき

 疑いには、「これは事実だろうか」と自分で納得いくように確かめようとする善い疑いと、因果関係を理解しようとしない不善の疑いがあります。善い疑いは心を育て、不善の疑いは心の進歩を止めてしまいます。ヴィチキッチャー()は後者の不善の疑いで、対象をわかっていないし、信頼もしないことです。きちんと見ようとしないのでしっかりできず、自分の立場がはっきりとしません。疑のある人は精神的に不安定になってしまって、智慧が育ちません。

 頭から話も聞きたくないし信じたくもない、というのはヴィチキッチャーの態度です。しっかりした情報も理屈もなく、ただ「私は信じない」という態度。そういう人は心に鍵をかけてしまっている状態で、真理を理解するどころか、捜すことさえできません。

 疑いといっても、自分できちんと疑問をもってちゃんと調べたり原因をさがしたりすることは、仏教ではとても大事なことだとされています。とことん調べてから、きちんと「これは信じない」「これはわからない」という結論を出すことは、正しい態度であって、心を育てる善い行いです。

 

 心所は全部で52ありますが、不善心所は以上の14で終わりです。私たちの心を汚す不善の心は、たった14しかないのですから、それほど複雑で大変なことではありません。でもこれを知っているととても役に立ちます。すべての私たちの問題、悩み苦しみは、この14の不善心所が原因となっているからです。

 

 

 

SOBHANA-CETASIKA:浄心所   ソーバナ  チェータシカ

 sobhana は「善美の、浄き」という意味で、sobhana-cetasika は浄心所と訳されています。

 浄心所とは心を清らかにして向上させる心のはたらきです。「心の汚れを洗って、心を清らかにして下さい」ということは仏教の最も基本的な教えです。では、いったいどういうはたらき(心所)のある心が清らかな心なのでしょうか。アビダルマではこの疑問について「浄心所」できちんと説明しています。浄心所は全部で25あります。

 

saddhâ (サッダー:信)⇒ 自由で正しい判断による確信

 サッダー()は、自分の自由で正しい判断によって何かを信頼したり信じたりすることです。

サッダーは心の汚れ(欲や怒りなど)を沈めて心をきれいにします。それは人を明るく活発に行動させるための基本的な心の状態です。でもいくら行動的になったとしても、何か悪い行為、たとえば他の生命を害したり何かを盗んだりするのであれば、それはサッダーによる行為ではありません。世の中に活発に活動しているように見える人々はたくさんいますが、ほとんどの人々は自分の欲や怒りのエネルギーで行動しています。行動の動機が欲や怒りであれば、その行動は当然悪い行為になります。サッダーによる行動かどうかは、自分も周りも明るく幸福になる行為をしているかどうかで判断することができます。

 

 仏教では「仏法僧(三宝)を信頼して、道を歩んで下さい」と言っています。仏とは自ら悟りを開かれた釈尊のこと、法は釈尊が説かれた真理、僧は釈尊の教えによって悟りを開いた人々です。三宝を信頼するためには、釈尊の教えを勉強したり実践したりして、自分で確かめて納得することが必要です。サッダーはきちんと自分で得た確信です。何も実践しないでただ信じるだけでは、しっかりした確信にはならないのです。

 

sati (サティ:念) ⇒ 気づき。今の自分の状態や自分が置かれている状況に目覚めていること

 私たちは皆、眼耳鼻舌身意という六つの認識作用から得られる情報に、振り回されて生きています。それは実際ひどい状態なのですが、私たちはそのことにあまりにも慣れてしまって、その事実にさえ気がついていません。例えばある音が聞こえたとすると、私たちは聞いた瞬間に「好きなタイプの古いジャズだ」「お母さんが怒っている」などと判断し、執着したり嫌ったりして、欲や怒りの煩悩で心を汚します。これは、音だけに限りません。見るもの、食べるもの、匂い、感じること、考えること、妄想すること、等々、ありとあらゆることによって、私たちは煩悩を作り続けています。サティ(気づくこと)はその束縛を解き、心を自由にします。例えば電車の中で足を踏まれたら、「痛い」と思った瞬間に怒りが生じて、心は汚れていきます。もしも、サティをもって「痛み」とその現象を観ると、怒りは生じません。それどころか、すばらしい智慧が生じてきます。そのように、サティは不善に走る心を善に入れ替えるすばらしい力を持っているのです。

 

 人を親切に助けてあげるような善行為の場合も、サティを入れたらよりすばらしい行為になります。普通そういう善行為をすれば、どこかに自我が残ります。お礼を言われることを期待したりして、よけいな煩悩が心に残るのです。サティを入れて人を助けてあげれば「私が」という自我なしに人を助けるので、何も心に残りません。それは純粋に清らかで真にすばらしい行為となります。

 ほんの瞬間でもサティを入れたならば、そこに善があるのです。ですからサティはがんばってできるだけたくさん入れれば入れるほどいいのです。1日や2日ではなく、毎日毎日一生続けてくださいと仏教では言っています。痛くなったら「痛み」、怒ったら「怒り」、何か聞こえたら「音」と気づく。特別なことをするのではなく、普通の生活をしながらサティを入れればいいのです。そうすればサティを入れる瞬間瞬間、善行為をしていることになります。それを積み重ねていくと、色々な対象から自分がどんどん自由になっていって特別な智慧が生じてきます。サティこそは智慧を生じさせ、解脱に至る道に導いてくれる大切なはたらきなのです。

 

hiri(ヒリ:慚)⇒不善行為をすることを恥ずかしいと思うこと

 

ottappa(オッタッパ:愧)⇒不善行為をすることを怖がること

 

 「慚と愧の二つは世の中の支配者です」という言葉があります。それほどこの慚と愧は大切なはたらきなのです。「こういう悪いことをすることは自分に対して恥ずかしい」「こんなことをして人に知られたら怖い」という二つの心によって、この世の道徳秩序は守られています。この二つがなくなったら恐ろしい世界が現れて、もうこの世の終わりだと言ってもいいでしょう。

 

 この二つのはたらきが弱くなると人は悪いことをしてしまいます。たとえばある大学の実力者が裏口入学を頼まれたとします。五万や十万のお金ではその人の心は動かないでしょう。「そんなことをしたらよくない、怖い」という慚と愧がちゃんとはたらきます。ところが「一千万でも、いえ五千万円でも渡しますよ」と言われると、もしかすると慚と愧が弱くなって不正をしてしまうかもしれません。そのように私たちの心は善と不善が戦っていて、場合と条件によって悪いことをしてしまうのです。けれども慚と愧をしっかりと育てている人は、決して悪いことはしません。

 

 慚と愧が育っている人は、「私はこれをします」と堂々と行動します。どっちつかずのもやーっとした心ではなく、やってはいけないこととやるべきことの区別がしっかりできるようになるのです。ですから慚と愧の浄心所としてのはたらきは、正しい決断力の伴った行動的な力を私たちにもたらすことです。

 

 

中捨という浄心所を成長させようとします。善行為をするときも、「やるべきことだからやります」という感じで、感謝や感動を求めません。それよりも自分の平安で清らかな心が成長することを喜びます。

 

 アビダルマでは、慈悲喜捨の捨の心(upekkhâ)をこの心所に含めています。中捨が強くなると、主観的な自分主義が全く消えて、生命は皆生命として平等だよ、という捨 ( upekkhâ ) の心になるのです。優れているとか優れていないとか、そういうのは無知の人々の言う言葉で、仏教は生命に対してそういう差別はしません。ウペッカーは、智慧によって生命を理解して、その理解によって相手に対して落ち着いているという、とてもレベルの高い優しさなのです。

 

 浄心所の8番目から19番目までは、心(チッタ:citta)と体(カーヤ:kâya)のペアになっていま

す(チッタとカーヤは心と心所だという解釈もあります)。

 

kâyappassaddhi(カーヤパッサッディ:身軽安)

cittappassaddhi(チッタパッサッディ:心軽安)

パッサッディは「安息」。とても落ち着いていることです。暑い時に涼しい部屋に入るとほっとします。そういう、ほっとリラックスしている状態です。

 

10 kâyalahutâ(カーヤラフター:身軽快)

11 cittalahutâ(チッタラフター:心軽快)

ラフターは「軽さ」。心や体が重いと行動できません。心が軽いと体も軽くなります。

 

12 kâyamudutâ(カーヤムドゥター:身柔軟性)

13 cittamudutâ(チッタムドゥター:心柔軟性)

ムドゥターは「柔軟性、柔らかさ」。「だから何よ」という感じで人に当たるのではなく、相手をよく理解してあげる柔軟性。冥想したいのだけど心がついてこない、勉強したいのだけど心がついてこない、ということがよくあります。ムドゥターは、目的に心がついてくることです。

 

14 kâyakammaññatâ(カーヤカンマンニャター:身適合性)

15 cittakammaññatâ(チッタカンマンニャター:心適合性)

カンマンニャターは「適合性」。行動に適している状態。動ける状態。自分の目的のために心が動いてくれること。柔軟性も適合性もある人は「ああそうですね」と納得してくれるだけではなくて「それだったらこうしましょう」と仕事をしてくれる人です。

 

16 kâyapâguññatâ(カーヤパーグンニャター:身練達性)

17 cittapâguññatâ(チッタパーグンニャター:心練達性)

パーグンニャターは「練達性」。上手であること。練習済みであること。仕事が成功する場合はする前から上手にできる状態があります。そのように準備ができていることです。仕事をしてくれるだけではなくて、上手にしてくれるはたらき。

 

18 kâyujukatâ(カーユジュカター:身端直性)

19 cittujukatâ(チットゥジュカター:心端直性)

ウジュカターは「ちゃんとまっすぐ」ということ。きちんと決めた行動をすること。心が揺れない。イヤイヤではなくて、「やり終わりました」ときちんと全部やって終わることです。

 

浄心所は全部で25ありますが、以上の19の浄心所は常に同時に働くので特に、共浄心所と呼ばれています。善心による行動はストレスが溜まらず疲れませんし、後から思い出してもとても気持ちがいいものです。人生を成功したければ、浄心所を育てなければなりません。「善い心が働けば明るく行動的になる」ということを忘れずに浄心所のはたらきに沿う行為をします。特別な宗教的な行動は、ひとつもありません。仏教は普遍的な教えであって、宗教、民族、時代を超えて、誰にも役に立つ教えなのです。

 

20 sammâ vâcâ (サンマーワーチャー:正語)⇒正しい言葉しか語らないエネルギー

サンマーワーチャー(正語)は、正しく言葉をしゃべるときに生まれる心所です。具体的には、<>嘘 <>人の悪口 <>人の心を傷つける言葉 <>ムダ話、という四つの悪語から、離れることです。優しい言葉で、人の役に立つことをしゃべるように心がけます。

しゃべるときは、サティはなかなかできません。そのときは「私はしゃべるのですから、正語をしゃべります」と、正しい言葉をしゃべります。

 

たとえ「誰かを傷つけてやろう」という悪い意図はなかったとしても、悪い言葉を使うといい結果にはなりません。言葉というのは、言葉自体が意味を持っています。ですからその言葉の意味が自分の心に跳ね返り、心を汚してしまいます。

結局、正語とは、相手のことを思いやって、話さなくてはならないことだけを、時と場合をみて話すことです。

 

21 sammâ kammanta(サンマーカンマンタ:正業)⇒正しい行為をするエネルギー

kammanta(カンマンタ)は、「体で行う行為」を指し、正業とは「社会や他の生命に対して害にならないような行為」のことです。

 

みだりに生き物を殺す、他人のものを盗る、みだらな行為をする、という三つの悪行為から離れることです。賄賂を取ったり、大した仕事もせずに高い給料をもらったりすることも、他人のものを盗る行為です。

 

心が清らかになれば自然に体の行動も正しくなるはずなのですが、どんな人でも完全に心をきれいにしていない限り、ある条件の中では悪い行為をしてしまう可能性をもっています。どのようなことがあっても気をつけて、社会や生命のためになるような行為を心がけます。

 

22 sammâ âjîva(サンマーアージーヴァ:正命)⇒正しい仕事をするエネルギー

社会の中で生きている私たちは、生活をするために何かの仕事をすることが必要です。仏教では、生活の糧を得るために仕事をすることは人として当然のことであり、逆にきちんと仕事をしない人のことを厳しくいさめています。

 

正命は、人の役に立つ仕事を選び、自然や社会、生命の破壊につながらないように仕事をすることです。仕事の種類はたくさんありますので、仏教では具体的な職業を禁ずることはしていません。ただし毒、酒、武器、などを作ったり売ったりすることは禁じてあります。

 

仕事をするときでも、できるだけ、善心所でがんばると、とてもいい結果が得られます。いい結果といっても、お金が儲かるというのではなくて、仕事をすればするほど自分の心が清らかになっていくのです。

 

離心所の三つは、仏教徒として日常生活をどう生きていくべきかという規準になります。離心所の三つだけでも守って生活すると、かなりの浄心所が出てきます。私たちがしているすべてのこと、朝起きて、着替えて、食事をつくって…、という日常生活をすべて浄心所で励むようにしようと思えば、できるのです。がんばってそのようにすれば、とてもいい結果が得られます。

 

karunâ(悲)と muditâ(喜)は、一般的な善心(共浄心所)とは別に育てなければならない浄心所で、無量心所(appamaññâ - cetasika)と名づけられています。無量心(appamaññâ - citta )とは、限りなく広げられ、力強くすることができる心という意味で慈悲心の別名です。

 

23 karunâ(カルナー:悲)⇒他の悩み苦しみを助けようとするエネルギー

好きな人が苦しんでいれば共に涙を流す人でも、嫌いな人が苦しんでいたら「ざまあみろ」と考えるのはよくあることです。年寄りが病気になったと聞くと「かわいそうに」と同情する人も、自分が世話をしなければならないとなると「めんどくさい」と思ったりもします。私たちの心というのは、そのように自己中心的で恐ろしいものなのです。

 

苦しんでいる人がいればいつでも「かわいそうだから何とかしてあげたい」と思える優しい心は自然には生じないので、がんばって育てる必要があります。「本当はイヤなのだけど、なんとかして優しくしよう」というのではなく、自然に心からわいてくるエネルギーでなければ意味がありません。そのためには、まず、「自分の苦しみがなくなりますように」「自分の親しい人の苦しみがなくなりますように」と念じるところから始めて、徐々にその心を広げていきます。

 

他の生命の苦しみを感じられる人間になる。人の悩み苦しみを理解し、心配し、「何とかなってほしい、何かしてあげたい」と自然に正直に思える心を育てる。そうすると醜くて汚い小さな心が、美しく香り高い大きな心になっていきます。このエネルギーは無限に育てることができます。

 

24 muditâ(ムディター:喜) ⇒他の幸福を喜ぶエネルギー

人は、誰かが成功すると、何となくおもしろくないと感じて嫉妬します。ムディターは、嫉妬の反対で、相手の成功を共に喜ぶ気持ちです。他人が幸福であるのを見て共感する優しさです。

 

カルナーと同様にムディターも自然に生じるものとはかぎりません。人はいくらアタマが選択したからと言って、無理矢理に義務感で喜ぶことはできません。母親が子供の幸福を見ると即座に喜びの心がわいてくるような、自然に出てくるエネルギーを育てるようにします。まず自分の幸福、自分の親しい人々の幸福を喜んで自然な気持ちを感じてみて、その気持ちをどんどん広げ育てていくのです。ムディターを育てることも、小さな心を大きくすることであって、それは無限に大きくすることができます。

 

 慈悲心(無量心)は限りなく育てられます。仏教で言う有情(生命)には、私たちの目に見える生命だけではなく、梵天や神々や地獄の生命などすべての生命が含まれています。それらすべての生命が幸福になりたいと願い、優しさを求めているのです。慈悲心は、そういう無限(無量)の生命を対象としているので、無制限に拡げていくことができるのです。もちろん私たちが実際に行動する時には限られた対象にしか優しくすることはできません。これはあくまでも心の状態のことです。人は限りなく優しい心を育てることができるのです。

 

無量心は、mettâ(慈/メッター)karunâ(悲/カルナー)、muditâ(喜/ムディター)upekkhâ(捨/ウペッカー) の四つです。その中のメッターとウペッカーは、共浄心所の adosa(無瞋)と tatramajjhattatâ(中捨)にそれぞれ含まれています。慈しみの心(mettâ)と平等である心(upekkhâ)は善行為には常に必要なはたらきですが、必ずしも他の幸不幸に関与していくはたらきではありません。

 カルナーとムディターは、他の生命の幸不幸に関わりをもっていく善心所です。私たちは生きている限り、他の生命とつながって存在しています。ですからカルナーとムディターを育てることはとても大切なことです。慈悲の心で生きることこそ、この世で最高に幸福な生き方なのです。

 

25 paññindriya(パンニンドゥリヤ:慧根)

⇒智慧。ものごとの真理の側面を観ることができるはたらき

 

仏教で一番大事なことは、paññâ(パンニャー:智慧)が現れることです。仏教で言う智慧とは、無常・苦・無我・因縁の法則などの真理を正しく観ることができるはたらきです。智慧は、共浄心所(一般的な浄心所)とは別に育てなくてはいけない浄心所です。つまり、善心で生きているからといって智慧が生じるわけではないということです。そのことを理解しておいてください。

ものごとが永久的に続くと思うのは、無知ゆえです。ものごとは瞬間しか成り立たないという無常の真理を理解し、その体験へ進む方法は、智慧を発達させる道です。

 

 たとえば人に優しくすることは善いことですが、そこで喜んで終わるのではなく、智慧も育ててもらいたいのです。どういうことかというと、善いことをしても「これはこの瞬間だけのことだ、すべてはすぐに消えていく」という無常の方向で考えてみるのです。そういうように考えると、智慧が生まれてきます。人に優しくしたからといって、その人を永久的に助けてあげたわけではないし、自分が永久的な何かを得たわけではありません。

 

 たとえば、人に夕食をごちそうしてあげたとします。それでその人が喜んだとし、ても、ずっとその人を追いかけて「私はあなたをこの間喜ばせてあげたでしょう。あなたは満腹したでしょう」などと言いつづけるのはおかしいでしょう。

 

 けれども無知な人の行動はそれと似ています。

ですから無知の人がいくら善いことをしても、力強い善い結果は得られないのです。たとえ大金を寄付しても、その根底が無知であれば、わずかな善果で終わってしまいます。智慧がある人が善いことをすれば、確実に善い結果が得られます。

 

 私たちにも時たま智慧は生まれます。「世の中は無常だ」と思ったりするのは智慧なのです。しかし慧根はなかなか根づきません。心の中に無知という巨大な木があり、ものすごく広く深く根が張っていると考えてください。その痴根の代わりに慧根を根づかせなければならないのです。

 

 まず無知の木のそばに智慧の木の種を植えます。

種を植えても、大きな木のそばだから、日当たりは悪いし、育ちにくくて、なかなか根づきません。ですからずっと見守ってあげて、日が当たるようにしてあげたり、水をやったり、色々と世話をしてあげるのです。そうすると芽が出て、少しずつ根を張っていくのです。

 

 智慧の木は、たくさんの浄心所がついているから力強いのです。無知の木は大きいけれども、智慧の木よりも弱いのです。ですから智慧がある程度大きくなると、無知の木は倒れてしまいます。その代わりに智慧の根がきちんと定着します。そのようにして智慧で無知を追い払うのです。ですから私たちの仕事は、無知をなくそうとするのではなく、智慧を育てようとすることです。そうすれば無知の大木もいずれ弱くなって死んでしまいます。

 

 ものごとは、ものすごいスピードで変化しています。それを頭だけで理解しても、心の中では「ものごとはずっと有るのだ」と思ってしまいます。心の波動はあまりにも速いのです。スピードが速ければ速いほど、そこに何かが「有る」ように思えます。

「魂が有る」「私がいる」などと思ってしまうのは心があまりにも無常だからです。実際は、人間の心もすべての現象も、流れている川のように瞬間瞬間変化しつづける実体のないものなのです。

 

 慧根(paññindriya)は、そういうことが頭でわかるのではなく、修行(ヴィパッサナー)による体験でしっかりとわかることによって生じるのです。