コペルニクス的解釈の勘違い 自分をなくす人々
視点の違い 立ち位置 次元 人口密度 コペルニクス
変化し続ける点と固定された点
コペルニクス 銀河 銀河団の中心 インフレーション
カトリック教会がかつて地球を中心にして星々が回っている、というのには間違いも含まれている。
コペルニクスたちが太陽を中心にして太陽系の惑星が回っているというのは事実に則している。
だからといって太陽を中心に星々が回っているというわけではない。
コペルニクスの理論が成り立つのは太陽系という宇宙の中では極小であるほんの限られた領域だけであって、その外側では天の川銀河の中心を基点にして、星々は回っている。
またその天の川銀河をはじめ数々の銀河が集まった銀河団では、そのの中心を基点にして銀河が回っている。
このように範囲を拡げ続けると、回転の中心が次々と現れて、そこを基点にすると地球の動いているスピードも変化してまちまちである。
地球は自転しているので、赤道では西から東へ時速1670キロ
地球は時速108000キロ(秒速30キロ)で太陽の周囲を公転している
天の川銀河(1000億個の恒星が集まり、直径10万年光の円盤状の構造)の回転速度は太陽系では時計回りで時速約792000キロ(秒速約220キロ)で回転している。
またこの天の川銀河も宇宙の膨張の中にあるので、隣の銀河団から高速で遠ざかっている。
かみのけ座銀河団 6700km/s
おおぐま座T銀河団 15400km/s
ペルセウス座銀河団 5400km/s
おとめ座銀河団 1180km/sだけが近づいているのはなぜ?
かみのけ座団4.2 億光年 9.13E+03 (km/s)
おとめ座団 0.59億光年 1.17E+03
Eとは何?
距離と後退速度が比例している。
この直線の傾き(ハッブルの定数)は1億光年につき2280km・s-1
コペルニクスが唱える太陽を中心に星が回っているという理論は太陽系の惑星にだけ通用するものなので、宇宙から見ればこの理論が通用するのは極めて狭い範囲に限定される。
それに対して、地球は一定のスピードで自転し続けているので、太陽系を除けば、地球を中心に星々が回っているというのは論理的である。
正確に言うと、惑星や星や銀河の中心軸は複数あるので、この宇宙には一つだけの基点などはない。
地球を中心にしてすべての星星が回っているのではないが、太陽系を除外すれば、一定スピードで自転し続ける地球を中心の定点として他の星々を観察することができる。
この物質的宇宙には静止しているものは何一つなく、すべてが相対的なので、アンドロメダ星雲から見れば、地球は太陽の周りを回っているようにも、天の川銀河の端を駆け巡っているようにも、宇宙の膨張とともに遠ざかっているようにも、視点の枠組みを決めることで違って見えてくる。
そして相対的ということは、たとえばアンドロメダ星雲から地球を見れば地球は自転しており、ということは、地球から天を見れば、星々は地球を中心に動いていることになるので、天動説にどこの間違えもない。
地球が自転する事実と天動説とは同じ内容のことであるので、視点を変えることによって記述が違うだけで同一のことを表している。
このように考えてみると、天動説が間違えで地動説が正しいという考え方も誤謬であることがわかる。
なぜキリスト教会が間違えでコペルニクスたちが正しいと思うようになってしまったのかというと、
第一に、スポットライトを太陽系(特に太陽と火星と金星)だけに当ててしまっていたこと、
第二に、矛盾をみつけた時に抽象度を一つ上げることで論理を再構成することで矛盾を解消できた場合に、前者が間違えで後者が正解であると判断してしまう大脳皮質のクセを優先する時代に入ったこと。
意識体はこのような大脳皮質の機能により判断基準を固定化してしまう思考パターンをしたがる。
この意識を軸に社会を構成している時空では、抽象度の高い方が正しく低い方が間違えとして判断する傾向が増大する。
社会人(単純化された規則を基準にして世界を見たがる人たち)が常に過剰一般化をすることを常識としている時空では、この正誤の判断が日常生活に染み込んでいる。
ありのままの姿とは抽象度によって表現できるものではなく、TPOの組み合わせ(原因、条件、法則、結果)によって常に変化し続けるので、パターン認識は通用しないので、それぞれに対応するしかない。
第三にカミがこの世界を造り、そのシステムを理解している教会が民衆たちを指導しているという思考パターンを教育(洗脳)してきたことで、教会は優位性を築き上げて利権を維持し、これに反するものを排除してきた教会史があるので、民衆はこれに気づき、反発することを学習した。
これには都市に居住する住民の割合が急激に増えたことに関係する。
コペルニクス的解釈の弊害
2つの弊害がある。
1つ目は視点を自分の肉眼から、理性の眼に移行させて、そこで固定化させてしまう傾向があること
2つ目は、矛盾を解決する法則を見つけると、以前を間違え、以後を正解とする判断基準を固定化させてしまう傾向があること、である。
1の結果により、理性を肉体よりも優先させ、理性が肉体を考慮に入れないで独り歩きする傾向が増えた。
コペルニクスの視点とは、観察者が地球上にいるのではなく、まるで太陽系の星を見渡すことができる静止人工衛星からの見渡しているかのようである。しかし、事実をよく見てみると、そのような場所には生命体が生きることができない位置である。(宇宙船に乗船していないのであれば)
そこの視点に立てるのは機械だけであり、もしくは妄想の中にいる偽疑似化されたカミである。
この視点に立って、倫理観を唱えるようになってから、見た目はキレイだが対象の内情に寄り添うことのない冷徹な理性と論理と正義が威張り始め、道徳は形骸化した。
人々の認識は脳機能を中心にしたものに移行したことで、これまでの循環器系器官の感覚や消化器系器官の感覚を弱めることで、全体性に対する親和性が低下した。
つまりハート(紫式部のやまとごころ)で感じたり、肝に銘じたり、腹に響いたり、腑に落ちたり、する体感の割合が減ったということである。
一言でいうと、腸内微生物に対する愛着や感謝が薄くなり、理性を勘違いする人々が増加した。
リンク 体と心が閉じてしまった近代文学
2の結果により、人工衛星からの視点を固定化する時空が増えることで、相対的動的解釈が減少した。
人工衛星の視点で一つの正しさを語るのはいいのですが、その視点を他の視点までにも適用しようとする過剰一般化の病いが蔓延しています。
各視点から見れば、どの視点にも、そこから見えるあるがままの姿がある、という事実があるのみです。
天動説を否定したからといって、地動説が正しいわけではありません。
たとえば、地球を中心軸にして太陽系は廻ってはいませんが、地球上にいる私の周りを太陽が廻っている、とは言うことはできます。
地球が自転している限りは、地球を中心に星々が動いているので、天動説とは地球の自転と同じことを別の表現を使って表しているにすぎません。
しかし天動説を否定し、地動説を主張する人々の中には、偽のカミ(人工衛星)の視点に身も心も依存してしまって、地動説の正しさを他者に強要することでその他者を踏みにじっていることに気が付かない人もいます。
たとえば、スポットライトを当てる範囲を変えることで、以前の法則に矛盾があったのが、以後の法則で矛盾が解消された場合には、以前を間違え、以後を正解と単純に判断する思考パターンをもつ傾向が増加した。
以前の法則の中にある真理性までも否定するのは、正誤で二分することで物事を判断することを基盤にした世界の住人の特徴である。
たとえば天動説が間違っていて、地上説が正しいと判断しているように。
範囲を変えるということを、抽象度の上下に関係させ、抽象度を上げることに価値があり正しいと思いたがるインテリが増えることで、対象に寄り添うことがなく、体感ではなく理性による判断を基準とする時空が近代以降に増大した。
近代以前は城の中に住むプリンセスの特権であったのに。
速度は見る立場によってかわる。 この世には静止している場所などはない ただそう仮想しただけ
絶対的な基準がないので、物体の絶対的な速度はこの世にはない
結局、物の速度は見る立場によって相対的なものである。
光の速度=空間の長さ/時間 空間と時間の組み合わせ 伸び縮みする時間
静止している場所はこの世には存在しない。
ただ静止していると仮定しているだけ。
光速に近づくほど、距離が短く時間が遅くなる
光速が常に秒速30万キロに見えるように時空は伸び縮みする。