間違いが訂正されない理由  

自分の邪見に執着するメカニズム

以前の間違った考え方を修正して、新しい訂正を積み重ねていったものが、その人の思想である。

誤謬が消えて、正しくなる経験に裏打ちされているので、自分の思想を大切にするのは当然のことである。

自分の思想は自分の生きてきた証であり、自分の存在そのものの基準にしている場合は、財産や命よりも大切なものになるので、ヒトは執着してしまうのである。

自分の考え方が命より大切なケースなどはないだろうと思うかもしれない。しかしその考え方で生命を失った者は少なくない。

たとえば「殺されても考え方は変わりません」ということは歴史上では多く、ローマ時代や江戸時代のキリスト教徒の殉死はよく知られている。

切腹、革命、戦争などでもこのような殉死を見ることができる。

自分の考え方が命や財産よりも大切であることを体験したからである。

 

邪見とは各自の好みによって誘導されたある特定の体験を、その特殊なTPOの範疇でしか通用しないことを、それ以外の時空でも法則として適応してしまうことを指す。

 

知識と道

学習が粘土細工のようだとすれば、「道」を求めて歩くのは、彫刻に喩えられる。

新たな情報を足すのではなく、覆われている部分を少しずつ取り除いていき、奥にあるものをあらわにする。

 

「千里の道も一里から」の解釈が昔で現在では異なっている。

昔の賢人の解釈は、「一里」「十里」「百里」と進んでも、最後のゴールに至るまでは単なるはじめの一歩に過ぎずいまだ価値はない、ということであったのに、現在では、途中のプロセスが大事であるかのような解釈が多い。

多くの人は一里進むごとにそれまでの誤謬を発見することで自分にとって何が正しいのかがわかり、その誤りがその人にとって衝撃的なことであればあるほど、これまでに自分がしていた大きな勘違いに気づき、一里進むことで正しい体験をしたという気持ちが強くなってしまい、それをまだ気づいていない他人にその誤りについて語りたくなり、しばらくそこに安住しては自分の正しさを他者に吹聴してしまう。

ところが実情を見てみると、まだ1つ(か10100)の概念化してしまっていた勘違い(過剰一般化)が明らかになっただけで、この先にはこれまで以上の勘違いがずっと並び続けている。

まだ900?以上はある間違い(思考パターン)をどんどんと取り除いていかないと、「あるがまま」には届かないので、これからの999里を覚悟せよ、と解釈するのが、「道」を歩き進めるには必要な心構えとなる。

 

 

 

間違え続ける楽しさ、意味、運動する意味、動く意味         視点と分母

この世は常に変化し続けているので、私たちはこれまでに通用したパターンを目の前の事象に適用したとしたら、それは勘違いを続けてしまうという間違えを続けることなる。

自分の心に対しても同じことで、自分の感情パターンや思考パターンを変化し続けるものに適用することはできない。

 

もし強引にパターン化すれば、それが間違え続ける原因となるのである。

そしてこの間違え続けることが、この世にちゃんと生きている証であり、この世の喜びである。

間違え続けることで常に活性化され、それが生きる力となる。

根源の「いのち」は変化し続け、それに対応できない五感感覚は常に刺激を求め、そのギャップによって信号を認識する。

 

間違え続けるのは確かに大切なことではあるが、できれば、それは身心にとって元気になるものでありたい。

その時に指標となるのが、視点と全体性である。

視点とは、あることを見る時に、霊・心・体のどの視点から見ていることなのか明確にすることである。

視点によって見えることや判断やすべきことが変わるのでこれは重要なことである。

 

科学

ヒト

仏教

サーンキヤ哲学

神智学

非物質

観照

プルシャ

コーザル体

エネルギー

智性

プラクリティ 自性

アストラル体

物質

理性

物質

肉体

 

 

また何かを分類した時に、その分母は何であるのかを明らかにするクセを身につけると、分類したものに振り回されずにすむ。

分母とは全体性のことであり、大いなるもののことであり、「一」なるもののことである。

分別したのには理由がある、それは分別以前の分母を体感するためである。

そのためにはまず分別をしてそれぞれを五感覚器官と脳で知覚して理性を使って理解することである。

次に、分別する以前である分母を全体性というツールを使って波動によって体感することである。

 

それにはくり返し使っている感情や思考パターンに気づくこと。

過去や未来から離脱することが充実している瞬間であることを体感すること。

「いま・ここ」にスポットライトを当てて生きる練習をすること。

まずは体を緩め、次に呼吸を整え、そして心を静め、本来の私に至るために、本来の私と同じように、ただ自分の体、呼吸、心、心の内容にただ気づいているように、修行してみる。

 

そうすると、本来の私とは、体でないこと、思考でないこと、感情でないこと、言語化できるものでないこと、アイデンティティのあるものではないこと、共通意識ではないこと、分別するものではないこと、智慧ではないこと、エネルギー体ではないこと、と一つづつの階段を登っていくことになる。

 

リンク 気持ちを鍛える モノに支配されない心になるための鍛え法  

 

 

そのために健やかに、楽しく、明るく、おおらかに、安らかに、徹底的に、間違え続けるのが、私たちがここにいる意味である。

この明るい間違えの旅こそが本来の楽しみである。