「なぜsaṃが苦になるのか── saṃsāraを解体する仏教的視点」
■接頭辞 saṃ- / san- の意味 辞書の説明を見ると、
A Sanskrit-English Dictionary(Monier-Williams)saṃ- = together, completely, thoroughly, intensively 「共に・完全に・強意」の意味
A Pali-English Dictionary(PTS辞典) saṃ-/san- = together, wholly,
completely 用法はほぼサンスクリットと同じ
A Dictionary of the Pali Language 初期のパーリ辞書。 saṃ-/san-
を「集合・完成」系で説明
『パーリ語辞典』(中村元ほか)『梵和大辞典』『サンスクリット語辞典』(平川彰系統)いずれも: saṃ- = 共に・完全に・統合して
このようにどの辞書も「共に・完全に・完全に・統合して・集合」という意味でほぼ一致しています。
■ 音韻変化と比較言語学
saṃ-(梵)と san-(巴)の違いは、音韻変化によって、saṃ-(梵語)が鼻音同化してsan-, sam-, saṅ-(パーリ)になる、と言語学では説明されます。
例:saṃ + kara → saṅkhāra、saṃ + yoga → saṃyoga → saṃyoga / saññog
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言語 |
形 |
|
サンスクリット |
saṃ- |
|
パーリ |
san-,
saṅ-, sam- |
変化傾向は、系統差ではなく「発音の簡略化」(phonological
simplification)とみなされています。
つまり、庶民の発音=
楽な方へ流れ、文法化したのが巴語、そして梵語はこの口語を人工補正で何度か逆に「戻した」
「サンスクリットが元でパーリが劣化版」という19世紀 19世紀比較言語学の見解には歴史的制約があった。
現代言語学の立場
現在の主流理解は、サンスクリットもパーリも「共通祖語(中期インド語)」から分化。
古代俗語(Prakrit群)
↙ ↘
Sanskrit Pāli したがって、兄弟関係であって親子関係ではないという見解。
なぜ梵語が「先」に見えるのか?
@ 文献が古く保存された
A 文法が人工的に整備された サンスクリットは「学者が磨き上げた国際標準語」、パーリは「実用寄り日常言語」
B 学者が先に研究した 欧米インド学の代表的比較言語学学者
Max
Müller(1823–1900) 書:Sacred Books of the East 東洋聖典の英訳大事業
T.
W. Rhys Davids(1843–1922) 書:Buddhism: Its History and
Literature
Pali Text Society 創設
Étienne
Lamotte(1903–1983) 書:Histoire du bouddhisme indien
学術仏教学完成期
saṃ-(梵)と san-は印欧語共通の接頭辞で語源:PIE(印欧祖語) *som / *kom =「共に」
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言語 |
形 |
|
ラテン語 |
con- |
|
英語 |
com-, con- |
|
ギリシャ語 |
syn- |
|
梵語 |
saṃ- |
例:combine、connect、synchronize、saṃyoga 全部「一緒に」という意味で、2000年経っても同じこと意味しています。
梵語 → パーリ語 対応語
|
梵語 |
saṃsāra |
dharma |
sarva |
nirvāṇa |
jñāna |
maitri |
śūnya |
karma |
prajñā |
|
パーリ |
saṃsāra |
dhamma |
sabba |
nibbāna |
ñāṇa |
mettā |
suñña |
kamma |
paññā |
|
梵語 |
sampādayata |
cakka |
mārga |
vidyā |
mantra |
saṃskāra |
dhyāna |
smṛti |
satya |
|
パーリ |
sampādetha |
satta |
magga |
vijjā |
manta |
saṅkhāra |
jhāna |
sati |
sacca |
r → kk / gg、jñ → ñ、kṣ → kh、ś → s 規則性:「発音負担の低減に伴う音韻変化」の方向に分化
このように2つの言語を対応させていく過程で、各言語の独自な解釈が一般化され、おそらく、西暦100年から200年頃、インドで大乗仏教が最盛期を迎えていた時期に、上座部仏教徒でさえ、無常(anicca)と無我(anatta)をサンスクリット語のanityaとanātmaと誤訳していました。 参照)Charles Allen著『ブッダの探求』(2003年)
■ ヒンドゥー思想との決定的差
ヒンドゥー系伝統の中心概念は「輪廻離脱」であるmokṣa(解脱)
代表テキストのウパニシャッド、バガヴァッド・ギーターで明確にsaṃsāra → mokṣa からの脱出、すなわち解脱が説かれています。
つまり、解脱は仏教だけの発想ではなく、インド思想全体の中核テーマです。
ヒンドゥーの nirvāṇa と 仏教 nibbāna の違い
ヒンドゥー側(nirvāṇa)定義は、アートマンがブラフマンと合一すること。「真我=宇宙本体に溶ける」ウパニシャッド思想が背景です。仏教側(nibbāna)定義は、渇愛・無明の完全消滅で、アートマン・合一・実体もないと否定し、「燃料が尽きて火が消える」状態です。
「我=梵」合一と「空」は何が決定的に違うのか?
根拠は、テキストの前提思想そのものにあり、
ヒンドゥー側(合一思想)中心典拠のウパニシャッドを、Advaita Vedāntaにおいては永遠の実体(Ātman / Brahman)があることを前提とし、「本当の自分=宇宙だったと悟る」と体験・解釈します。
仏教側(空)中心人物のゴータマ・ブッダは、永遠の実体は存在しないと前提し、「そもそも“本当の自分”が幻想」であると結論します。
比較表の決定的差
項目 ヒンドゥー 仏教
究極実体 ある ない
自我 ある ない
到達点 合一 無執着(離脱)
はじめのスタート地点(前提)が真逆。
Advaita
Vedānta系伝統は、合一するとsat(存在)cit(意識)ānanda(至福)の三位一体が形而上学的実在となるので、仏教の見解とは正反対のものとなります。
「解脱」という名前だけが似ていますが、たどり着いたところは異なります。
仏教から見れば、ヒンドゥー系伝統の輪廻も合一もどちらも実体があるものなので、そこから離脱を目指して、実体がない涅槃nibbānaに至る修行をはじめることになります。
最後のゴールは全く違うので、抜け出したもの自体、すなわち「輪廻」の内容や解釈が異なる可能性があります。
2つの伝統における輪廻の内容をみてみます。
■
saṃsāra再解釈
saṃsāra 梵・巴の両方で同じ語句として維持されている珍しい概念。
意味はどちらも共通で、輪廻すなわち
生死流転、生まれては死ぬ無限ループのように見えます。
仏教では、31界領域にわたり整理されています。 31領域での宇宙エネルギーの流転
ヒンドゥー輪廻の大枠は
領域 内容
Deva-loka 神界
Pitṛ-loka 祖霊界
Manushya 人間界
Naraka 地獄
絶対者ブラフマンと輪廻の関係は?これがヒンドゥー最大の特徴。
アートマンが合一するブラフマン(絶対実在)は幻影(Māyā)によって、輪廻世界になっている、というのがヒンドゥー系伝統の世界観です。
換言すると、ブラフマン(不動・汚れない・変化しない)が幻影マーヤーによって、輪廻となり、アートマン個我(satta)が生じる、という解釈です。すなわち、輪廻は「錯覚フィールドのように」存在している、という考え方です。
これらの関係を喩えると、ブラフマンがスクリーンで、輪廻が映像。
また、ブラフマンが海で、アートマンが波とすると、波は死ぬが海は死なない。
しかし、釈尊にとっては、これは「最高度の有身見(微細我執)」つまり:「かなり洗練された“自己幻想”」という見解です。
31界で言うなら最も近いのは、無色界の非想非非想処レベル(31界の最上層付近)であって、これは釈尊の言う解脱ではなく、 超高度禅定の扱いになります。
ここで、 saṃsāra の saṃ は何を意味する?という問題に戻ってきます。
語源構造は、saṃ
+ √sṛ(流れる)
梵語とパーリ語のどちらの意味も
「共に流れる」「延々と流れる」とされ、近いのは:「集合」+「連続」、要するに「無数の生がくっついて流れている状態」というイメージで解釈されてきました。
つまり、幻影マーヤーから目覚めることでマートマンはブラフマンと合一であることが認識できるのです。
このように、幻影の輪廻からの解脱mokṣaによって自分自身に気づく旅路なので、目覚めたもの(呼称は輪廻でありませんが実体は同じもの)そのものは否定するものではありません。
したがって正確に言うと、合一になって一部になるのではなく、アートマンは錯覚から目覚め「本来ブラフマンだったと気づく」のです。
Advaita
Vedāntaにおいての解釈です。 個我=錯覚 本質=ブラフマン 合一=再認識
対して、仏教はそこからやっと実体がない涅槃nibbānaに至る修行が始まる、第一歩目を踏み出すことになります。
このような視点で輪廻をみると仏教とヒンドゥー系伝統ではsaṃsāraに対するニュアンスが異なることが明快になります。
ヒンドゥー系saṃsāra 無数の生の「集合」+「連続」する流れ 幻影にはいるが実は絶対ブラフマン、
仏教saṃsāra 「何か」によって+「連続」する流れ 何かを知り続けることで、その苦しみから離脱できる
■翻訳不能な実践構造
これまで「共に・完全に・統合して・集合」と肯定したものにこそ、苦しみの原因があり、それを分別することではじめて、苦から離脱した涅槃nibbānaを体験した者が現れました。この実感により、saṃsāraの解釈が変わり、saṃが肯定的意味から実践志向に再定位されることになりました。ここが両者の「saṃの解釈」が異なる分岐ポイントになります。
こうみると、ブッダはMaghadhi語(パーリ語)、すなわち三蔵を翻訳することの問題点を予見していたこととも整合性があります。
釈尊が三蔵をいかなる言語にも、翻訳してはならないと元バラモン教徒であった弟子の2人に警告しています。
15. Minor matters (Khuddaka) 参照)Chulavagga
5.33
Na,
bhikkhave, buddhavacanaṃ
chandaso āropetabbaṃ.
(仏語を韻文語にしてはならない)
Sakāya niruttiyā
buddhavacanaṃ pariyāpuṇitabbaṃ.
(各自の言語で学べ)
これは聖典サンスクリット化禁止や標準語化拒否ではなく、現場実践者の言語を尊重することを意味しています。
したがって、輪廻だけは梵語からパーリ語に「伝統的術語として固定している」珍しい語句となったのは、同じ語句を使うが意味が異なるという立場を明らかにするために、敢えて発音しやすいパーリ語対応変換のsaṅsāraにしなかった、と現段階では証拠はないが、本稿では仮説として提起します。
例えば、ブッダゴーサの清浄道論ではsaṃsāra、nibbāna、saṅkhāraをそのままに、
Visuddhimagga XVII.113–114 Saṃsāro nāma khandhānaṃ santati…→ saṃsāra を saṅsāra
等に変形せず、そのまま使用
Visuddhimagga XVI.90–93 Nibbānaṃ nāma
rāgakkhayo…→ nibbāna 固定表記
Visuddhimagga XVII.79 Avijjāpaccayā saṅkhārā…→
saṅkhāra
固定
T. W. Rhys Davidsの英訳でもsaṃsāra →
samsara、nirvāṇa → nirvanaとそのままにしています。
『Dialogues of the Buddha』DN 15(Mahānidāna Sutta)ayaṃ
saṃsāro this samsara→ samsara音写固定
『Buddhist Suttas』nirvana、samsaraで統一。 注釈にはThese technical terms are left untranslated.(専門用語なので訳さない)
こうして、もう一度この輪廻saṃsāraを観た時に、ヒンドゥー系伝統で肯定的に扱っていたsamを取り除くことが、涅槃nibbānaにいたることの第一歩目であることを再認識できます。
■ 縁起支との接続
このようなsamの解釈の実感の違いを得た後に、もう一度、ヒンドゥー系伝統と仏教の日常世界における立場の違いをみてみます。
こうすることで、「sam,
sanとは何か」を炙り出そうという試みです。
まずはヒンドゥー系伝統と仏教の立場の対比表をつくり、そこにシンボライズされた概念からsamが何を意味しているのか再構築してみます。
ヒンドゥー系伝統と仏教の立場の違い
|
伝統 |
解脱論 |
因果・条件 |
実在論 |
固定 |
方向性 |
自我 |
実存論 |
行為論 |
|
ヒンドゥー系 |
mokṣa |
少数原因 |
本質実在論 |
固定化 |
統合 |
真我肯定 |
逆向推論 |
意図 |
|
仏教 |
離脱 |
条件生起 |
無自性論 |
非固定化 |
分別 |
非我 |
実存的 |
観察だけ |
|
伝統 |
同一性 |
世界 |
意思 |
存在論 |
動き |
記憶 |
解脱 |
|
ヒンドゥー系 |
同じ |
モノ |
自由意志 |
マーヤー |
連続 |
保存 |
自己同一化の認識 |
|
仏教 |
類似 |
プロセス |
自動反応回路 |
条件欠如 |
隣接影響 |
再起動 |
執着の終息 |
|
伝統 |
認識論 |
分岐路 |
危機 |
対処法 |
基準 |
この世 |
倫理 |
|
ヒンドゥー系 |
同一性の回復 |
選択 |
思考 |
samādhi |
基盤 |
幻影 |
善悪 |
|
仏教 |
条件性の洞察 |
受容 |
平静 |
paññā |
anicca |
苦 |
dhamma |
なぜsanを1つの意味に限定しないで、複数の意味合いからはじめようとするのは、この世の現象を条件が揃うことで生起し、それさえもanicca(生滅)としてとらえて、感じ続けることを毎瞬の心情としている仏教実践者の立場からのアプローチにするためです。
心身はTPOで変化するので修行者はそれを瞬間ごとに的確に知ることがdhammaの教えで仏教の真髄だと坐っていると感じるからです。
すると坐るやいなや見覚えのある語句が浮かんでは消えていきます。abhi-saṅkhāra、kamma-viññāṇa、salāyatana、samphassa、samphassaja vedanā、tanhā、upādāna、bhava、jāti、jarā-maranamといった縁起支の数々が余分なものとして並びます。
これらの共通点は、誤認から生じているのに、本人はそれが誤認であることに気づかず、自らの意図(はからい)によって次々に生じさせている世界観です。
その自らがつくった世界を、追いかけ、避け、意味づけ、評価し、自己化し、物語化し、意図し、また反応することを繰り返しています。
そこから思考連鎖がはじまる、縁起の12支がこの余分なものの正体です。
「私的覚書」 ■sanとは何か(実践的問題)
パーリ語のsanが何を意味しているのか?これは仏教の実践者にとっては切実な問題です。
長く坐っていると、なぜこんなことをやっているのか自分でもわからなくなる時があります。
頭の中では、sampādetha 完成させよ、sampajāno 完全に理解せよ、という言葉だけが浮かんできて、具体的に何をどうするのか迷い、呆然とすることがあります。これぐらい実践者は真摯で真剣で必死なのです。
釈尊がこんなことを最期にわざわざ言うのだろうか?と想いながら、何を完成させろと、何が完全なのか?という問いに囲まれますが、aniccaを感じ続けた時空にいたことだけを確認して、立ち上がります。
sampādetha 完成させよ、よりも、TPOに適用した縁起支の解除を+pādetha 行う、
sampajāno 完全に明快に理解せよ、よりも、TPOに適用した縁起支の解除をpajāno明確に知る。
というのが忘れがちになるが、いちばん大事な「いま・ここ」を生きる導(しるべ)と現場の実践者は実感しています。
参照)sampādeti:[sampajjati の caus.] sam+ pajjati:<pad 歩く,行く sampajānāti:[saṃ- pa-jānāti<jñā] 明快に知る
dhammaの実践者は今日も森に、小部屋に、洞に入って坐り、戻ってきては辞書や先輩の伝統的解釈を参考にしています。
パーリ語言語学、パーリ語辞典、パーリ語学会の関係者の皆さま、どうかその時に、暗闇の中でも煌く灯火であってください。
風吹く原野の中では、たった一つの言の葉が、どれほど心を落ち着かせることができるのか。
これまでの探求と、これからの闘いに感謝して。
参考出典
SN 12.2(Paṭiccasamuppāda)
DN 15(Mahānidāna)
SN 22.59(Anattalakkhaṇa)
Itivuttaka 44 涅槃定義
Udāna 8.1