「なぜsa苦になるのか── sasāraを解体する仏教的視点」 

 

 

 

接頭辞 sa- / san- の意味     辞書の説明を見ると、

A Sanskrit-English DictionaryMonier-Williamssa- = together, completely, thoroughly, intensively   「共に・完全に・強意」の意味

A Pali-English DictionaryPTS辞典) sa-/san- = together, wholly, completely               用法はほぼサンスクリットと同じ

A Dictionary of the Pali Language    初期のパーリ辞書。                            sa-/san- を「集合・完成」系で説明

『パーリ語辞典』(中村元ほか)『梵和大辞典』『サンスクリット語辞典』(平川彰系統)いずれも:        sa- = 共に・完全に・統合して

 

このようにどの辞書も「共に・完全に・完全に・統合して・集合」という意味でほぼ一致しています。


音韻変化と比較言語学

sa-(梵)と san-(巴)の違いは、音韻変化によって、sa-(梵語)が鼻音同化してsan-, sam-, sa-(パーリ)になる、と言語学では説明されます。

例:sa + kara → sakhārasa + yoga → sayogasayoga / saññog

言語

サンスクリット

sa-

パーリ

san-, sa-, sam-

 

変化傾向は、系統差ではなく「発音の簡略化」(phonological simplification)とみなされています。

つまり、庶民の発音= 楽な方へ流れ、文法化したのが巴語、そして梵語はこの口語を人工補正で何度か逆に「戻した」

「サンスクリットが元でパーリが劣化版」という19世紀 19世紀比較言語学の見解には歴史的制約があった。

 

現代言語学の立場

現在の主流理解は、サンスクリットもパーリも「共通祖語(中期インド語)」から分化。

古代俗語(Prakrit群)

        

Sanskrit    Pāli    したがって、兄弟関係であって親子関係ではないという見解。

 

なぜ梵語が「先」に見えるのか?

@ 文献が古く保存された

A 文法が人工的に整備された     サンスクリットは「学者が磨き上げた国際標準語」、パーリは「実用寄り日常言語」

B 学者が先に研究した        欧米インド学の代表的比較言語学学者

Max Müller1823–1900)      書:Sacred Books of the East           東洋聖典の英訳大事業

T. W. Rhys Davids1843–1922)   書:Buddhism: Its History and Literature      Pali Text Society 創設

Étienne Lamotte1903–1983)    書:Histoire du bouddhisme indien                 学術仏教学完成期

 

 

sa-(梵)と san-は印欧語共通の接頭辞で語源:PIE(印欧祖語) *som / *kom =「共に」

言語

ラテン語

con-

英語

com-, con-

ギリシャ語

syn-

梵語

sa-

例:combineconnectsynchronizesayoga   全部「一緒に」という意味で、2000年経っても同じこと意味しています。


梵語パーリ語 対応語

梵語

sasāra

dharma

sarva

nirvāa

jñāna

maitri

śūnya

karma

prajñā

パーリ

sasāra

dhamma

sabba

nibbāna

ñāa

mettā

suñña

kamma

paññā

 

梵語

sampādayata

cakka

mārga

vidyā

mantra

saskāra

dhyāna

smti

satya

パーリ

sampādetha

satta

magga

vijjā

manta

sakhāra

jhāna

sati

sacca

r → kk / gg → ñkkhś → s  規則性:「発音負担の低減に伴う音韻変化」の方向に分化

このように2つの言語を対応させていく過程で、各言語の独自な解釈が一般化され、おそらく、西暦100年から200年頃、インドで大乗仏教が最盛期を迎えていた時期に、上座部仏教徒でさえ、無常(anicca)と無我(anatta)をサンスクリット語のanityaanātmaと誤訳していました。     参照)Charles Allen著『ブッダの探求』(2003年)

 

ヒンドゥー思想との決定的差

ヒンドゥー系伝統の中心概念は「輪廻離脱」であるmoka(解脱) 

代表テキストのウパニシャッド、バガヴァッド・ギーターで明確にsasāramoka からの脱出、すなわち解脱が説かれています。

つまり、解脱は仏教だけの発想ではなく、インド思想全体の中核テーマです。

 

ヒンドゥーの nirvāa と 仏教 nibbāna の違い

ヒンドゥー側(nirvāa)定義は、アートマンがブラフマンと合一すること。「真我=宇宙本体に溶ける」ウパニシャッド思想が背景です。仏教側(nibbāna)定義は、渇愛・無明の完全消滅で、アートマン・合一・実体もないと否定し、「燃料が尽きて火が消える」状態です。

 

「我=梵」合一と「空」は何が決定的に違うのか?

根拠は、テキストの前提思想そのものにあり、

ヒンドゥー側(合一思想)中心典拠のウパニシャッドを、Advaita Vedāntaにおいては永遠の実体(Ātman / Brahman)があることを前提とし、「本当の自分=宇宙だったと悟る」と体験・解釈します。

仏教側(空)中心人物のゴータマ・ブッダは、永遠の実体は存在しないと前提し、「そもそも本当の自分が幻想」であると結論します。

 

比較表の決定的差  

項目     ヒンドゥー    仏教

究極実体 ある        ない

自我      ある       ない

到達点   合一         無執着(離脱)

はじめのスタート地点(前提)が真逆。

 

Advaita Vedānta系伝統は、合一するとsat(存在)cit(意識)ānanda(至福)の三位一体が形而上学的実在となるので、仏教の見解とは正反対のものとなります。

「解脱」という名前だけが似ていますが、たどり着いたところは異なります。

仏教から見れば、ヒンドゥー系伝統の輪廻も合一もどちらも実体があるものなので、そこから離脱を目指して、実体がない涅槃nibbānaに至る修行をはじめることになります。

最後のゴールは全く違うので、抜け出したもの自体、すなわち「輪廻」の内容や解釈が異なる可能性があります。

2つの伝統における輪廻の内容をみてみます。

 

saṃsāra再解釈

sasāra 梵・巴の両方で同じ語句として維持されている珍しい概念。

意味はどちらも共通で、輪廻すなわち 生死流転、生まれては死ぬ無限ループのように見えます。

 

仏教では、31界領域にわたり整理されています。   31領域での宇宙エネルギーの流転  

ヒンドゥー輪廻の大枠は

領域        内容

Deva-loka      神界

Pit-loka       祖霊界

Manushya       人間界

Naraka      地獄

 

絶対者ブラフマンと輪廻の関係は?これがヒンドゥー最大の特徴。

アートマンが合一するブラフマン(絶対実在)は幻影(Māyā)によって、輪廻世界になっている、というのがヒンドゥー系伝統の世界観です。

換言すると、ブラフマン(不動・汚れない・変化しない)が幻影マーヤーによって、輪廻となり、アートマン個我(satta)が生じる、という解釈です。すなわち、輪廻は「錯覚フィールドのように」存在している、という考え方です。

これらの関係を喩えると、ブラフマンがスクリーンで、輪廻が映像。

また、ブラフマンが海で、アートマンが波とすると、波は死ぬが海は死なない。

 

しかし、釈尊にとっては、これは「最高度の有身見(微細我執)」つまり:「かなり洗練された“自己幻想”」という見解です。

31界で言うなら最も近いのは、無色界の非想非非想処レベル(31界の最上層付近)であって、これは釈尊の言う解脱ではなく、 超高度禅定の扱いになります。

 

ここで、 sasāra sa は何を意味する?という問題に戻ってきます。

語源構造は、sa + √s(流れる)

梵語とパーリ語のどちらの意味も 「共に流れる」「延々と流れる」とされ、近いのは:「集合」+「連続」、要するに「無数の生がくっついて流れている状態」というイメージで解釈されてきました。  

 

つまり、幻影マーヤーから目覚めることでマートマンはブラフマンと合一であることが認識できるのです。

このように、幻影の輪廻からの解脱mokaによって自分自身に気づく旅路なので、目覚めたもの(呼称は輪廻でありませんが実体は同じもの)そのものは否定するものではありません。

したがって正確に言うと、合一になって一部になるのではなく、アートマンは錯覚から目覚め「本来ブラフマンだったと気づく」のです。

Advaita Vedāntaにおいての解釈です。 個我=錯覚  本質=ブラフマン  合一=再認識

 

対して、仏教はそこからやっと実体がない涅槃nibbānaに至る修行が始まる、第一歩目を踏み出すことになります。

このような視点で輪廻をみると仏教とヒンドゥー系伝統ではsasāraに対するニュアンスが異なることが明快になります。

 

ヒンドゥー系sasāra   無数の生の「集合」+「連続」する流れ     幻影にはいるが実は絶対ブラフマン、

仏教sasāra       「何か」によって+「連続」する流れ      何かを知り続けることで、その苦しみから離脱できる

 

 

■翻訳不能な実践構造

これまで「共に・完全に・統合して・集合」と肯定したものにこそ、苦しみの原因があり、それを分別することではじめて、苦から離脱した涅槃nibbānaを体験した者が現れました。この実感により、sasāraの解釈が変わり、saが肯定的意味から実践志向に再定位されることになりました。ここが両者の「saの解釈」が異なる分岐ポイントになります。

こうみると、ブッダはMaghadhi語(パーリ語)、すなわち三蔵を翻訳することの問題点を予見していたこととも整合性があります。

釈尊が三蔵をいかなる言語にも、翻訳してはならないと元バラモン教徒であった弟子の2人に警告しています。

15. Minor matters (Khuddaka)    参照)Chulavagga 5.33

Na, bhikkhave, buddhavacana chandaso āropetabba. (仏語を韻文語にしてはならない)

Sakāya niruttiyā buddhavacana pariyāpuitabba. (各自の言語で学べ)

これは聖典サンスクリット化禁止や標準語化拒否ではなく、現場実践者の言語を尊重することを意味しています。

 

したがって、輪廻だけは梵語からパーリ語に「伝統的術語として固定している」珍しい語句となったのは同じ語句を使うが意味が異なるという立場を明らかにするために、敢えて発音しやすいパーリ語対応変換のsaṅsāraにしなかった、と現段階では証拠はないが、本稿では仮説として提起します。

例えば、ブッダゴーサの清浄道論ではsasāranibbānasakhāraをそのままに、

Visuddhimagga XVII.113–114 Sasāro nāma khandhāna santati…→ sasāra sasāra 等に変形せず、そのまま使用

Visuddhimagga XVI.90–93 Nibbāna nāma rāgakkhayo…→ nibbāna 固定表記

Visuddhimagga XVII.79 Avijjāpaccayā sakhārā…→ sakhāra 固定

T. W. Rhys Davidsの英訳でもsasāra → samsaranirvāa → nirvanaとそのままにしています。

Dialogues of the BuddhaDN 15Mahānidāna Suttaaya sasāro this samsara→ samsara音写固定

Buddhist Suttasnirvanasamsaraで統一。 注釈にはThese technical terms are left untranslated.(専門用語なので訳さない)

 

こうして、もう一度この輪廻sasāraを観た時に、ヒンドゥー系伝統で肯定的に扱っていたsamを取り除くことが、涅槃nibbānaにいたることの第一歩目であることを再認識できます。

 

 

縁起支との接続 

このようなsamの解釈の実感の違いを得た後に、もう一度、ヒンドゥー系伝統と仏教の日常世界における立場の違いをみてみます。

こうすることで、「sam, sanとは何か」を炙り出そうという試みです。

 

まずはヒンドゥー系伝統と仏教の立場の対比表をつくり、そこにシンボライズされた概念からsamが何を意味しているのか再構築してみます。

 

ヒンドゥー系伝統と仏教の立場の違い

伝統

解脱論

因果・条件

実在論

固定

方向性

自我

実存論

行為論

ヒンドゥー系

moka

少数原因

本質実在論

固定化

統合

真我肯定

逆向推論

意図

仏教

離脱

条件生起

無自性論

非固定化

分別

非我

実存的

観察だけ

 

伝統

同一性

世界

意思

存在論

動き

記憶

解脱

ヒンドゥー系

同じ

モノ

自由意志

マーヤー

連続

保存

自己同一化の認識

仏教

類似

プロセス

自動反応回路

条件欠如

隣接影響

再起動

執着の終息

 

伝統

認識論                    

分岐路

危機

対処法

基準

この世

倫理

ヒンドゥー系

同一性の回復

選択

思考

samādhi

基盤

幻影

善悪

仏教

条件性の洞察

受容

平静

paññā

anicca

dhamma

 

 

なぜsanを1つの意味に限定しないで、複数の意味合いからはじめようとするのは、この世の現象を条件が揃うことで生起し、それさえもanicca(生滅)としてとらえて、感じ続けることを毎瞬の心情としている仏教実践者の立場からのアプローチにするためです。

心身はTPOで変化するので修行者はそれを瞬間ごとに的確に知ることがdhammaの教えで仏教の真髄だと坐っていると感じるからです。

 

すると坐るやいなや見覚えのある語句が浮かんでは消えていきます。abhi-sakhārakamma-viññāasalāyatanasamphassasamphassaja vedanātanhāupādānabhavajātijarā-maranamといった縁起支の数々が余分なものとして並びます。

これらの共通点は、誤認から生じているのに、本人はそれが誤認であることに気づかず、自らの意図(はからい)によって次々に生じさせている世界観です。

 

その自らがつくった世界を、追いかけ、避け、意味づけ、評価し、自己化し、物語化し、意図し、また反応することを繰り返しています。

そこから思考連鎖がはじまる、縁起の12支がこの余分なものの正体です。

 

 

「私的覚書」 ■sanとは何か(実践的問題)

パーリ語のsanが何を意味しているのか?これは仏教の実践者にとっては切実な問題です。

長く坐っていると、なぜこんなことをやっているのか自分でもわからなくなる時があります。

頭の中では、sampādetha 完成させよ、sampajāno 完全に理解せよ、という言葉だけが浮かんできて、具体的に何をどうするのか迷い、呆然とすることがあります。これぐらい実践者は真摯で真剣で必死なのです。

釈尊がこんなことを最期にわざわざ言うのだろうか?と想いながら、何を完成させろと、何が完全なのか?という問いに囲まれますが、aniccaを感じ続けた時空にいたことだけを確認して、立ち上がります。

 

 

sampādetha 完成させよ、よりも、TPOに適用した縁起支の解除を+pādetha 行う、

sampajāno 完全に明快に理解せよ、よりも、TPOに適用した縁起支の解除をpajāno明確に知る。

というのが忘れがちになるが、いちばん大事な「いま・ここ」を生きる導(しるべ)と現場の実践者は実感しています。

参照)sampādeti[sampajjati caus]  sam+ pajjati:<pad 歩く,行く         sampajānāti[saṃ- pa-jānātijñā]  明快に知る

 

 

dhammaの実践者は今日も森に、小部屋に、洞に入って坐り、戻ってきては辞書や先輩の伝統的解釈を参考にしています。

パーリ語言語学、パーリ語辞典、パーリ語学会の関係者の皆さま、どうかその時に、暗闇の中でも煌く灯火であってください。

風吹く原野の中では、たった一つの言の葉が、どれほど心を落ち着かせることができるのか。

これまでの探求と、これからの闘いに感謝して。

 

 

参考出典

SN 12.2Paiccasamuppāda

DN 15Mahānidāna

SN 22.59Anattalakkhaa

Itivuttaka 44  涅槃定義

Udāna 8.1