学問の基準点 矛盾と虚偽 経済学、政治学
今度は少し各学問の矛盾を少し覗いてみましょう。
こんな実験室でしか通用しない学問を人に教えて金銭をもらったり、他者に教えを授けることができるのはどうしてなんでしょう?
経済学も自然の一部である人間の行動をできるだけ除外して理念から作り上げた学問です。
経済学で作り上げた理論を、人間の行動や心理や情動や思考がロボットのようにプログラミングできればいいのですが、本能や無意識の情動行動がある人間はいくら理性でプログラミングしてもそのような行動をとるとは限りません。
例えば、経済学では「神の手」という考え方がよく出てきます。
それぞれの人間が利潤を最大にするように利己的に働けば社会全体が神の手に導かれて予定調和する、という前提を聞いてどう思いますか?
個人や国家の富をいかにして最大にすることばかり考えているのに、市場経済は消費者のためだといってはばからない経済学にはどのようにして付き合うのがいいのでしょうか?
私には利己的になることが正しいことであると言い訳をしているように見えます。
利己的になることはいいのですが、それを自己責任ではなく、神に責任転嫁しているように感じます。
学問の虚偽と有効性 経済学 政治学
学問とは、はじめに、この世には瞬間的には存在するかのように見える時空(実際にはあり続けないので一種の幻想ですが)を基準にして、そこから出発してルールを作り上げ、目の前の世界を判断します。
これが学問が武器になってきた理由です。
理系では、物理学では素粒子(ダークエネルギーなどは考慮しないで)を基準にし、数学では0を基準にし、熱力学では理想気体を基準にして、学問を組み立てていますが、どの基準も架空の根源です。
文系では、架空の理想状態をを基準にし、例えば経済学ではまず自由競争という「完全競争市場」を想定します。競争が最も理想的に行われる状態のことです。
たとえば経済学が成り立つには以下の4つの条件が必要で
1 売り手も買い手も十分に多数存在し、
2 売られている商品の質が全く均一で
3 市場の参加者が誰でも同じ情報をフリーに利用でき、
4 誰もが自由に参加・脱退できる
ということが前提です。
ご存知の通り、こんなことは人間界にはありえないでしょう。
しかしこういうユートピアを作らないと因果関係(計算式、数値化)は作れず、経済学の前提である土台を作ることができないのです。
こんなことを前提した上に成り立っているのが経済学です。
次の新しい経済学者は前のものを否定して新たな法則について語り始めますが、やっていることは同じです。 特殊な状況や条件の中でしか通用しないルールをほかの世界に広げようとする繰り返しが果てしなく続いていくだけなのです。
真実を目指すのが学問ではなく、ゲームセンターやPCゲームで攻略方法を競い合っている大人たちと同じことをしているだけです。
次に政治学を見てみます。
民主主義の語源はギリシャ語のdImokratLa (dImo-人々+-kratia政治=民衆の政治)です。
この民衆とは塀で囲まれた都市国家に暮らす人々のことで、塀の外に住む人々はこの民衆には入っていません。
民主主義における自由や平等や公平といっても、それは塀の外から原料や奴隷や収穫物を収奪して、それを塀の中で話し合って分配しようというのがコンセプトです。
ですから、常に塀の外から略奪することを前提にした思想なので、塀の範囲が広がって奴隷や略奪物やエネルギー源がいなくなれば、いかに分配するかではなく、デモクラシーとは自分たちの分け前をいかに手に入れるかという言い訳の道具に成り果ててしまう歴史を人は繰り返しています。
奴隷を解放したと言われる米国大統領リンカーンの名言の「人民の、人民による、人民のための政府」も
同じ「人民」という語句を使っていますが、はじめの人民にはアメリカ先住民は入っていないし、次の人民は選挙権のある人々のことだし、最後の人民は特権階級の人々のことを指しています。
The government (which is) of the people
(and is) by the people (and is) for the people
このような公平や平等などの考え方はまず塀の中で暮らす市民という特権階級の中でしか通用しないところから生じる概念で、それは共産主義、社会主義、資本主義の共通点です。
これらの源泉はキリスト教の預定説predestinationから派生したものですが、根底に流れている思考は理性rationalityによって作られたものです。
対象の「いま・ここ」の変化に寄り添うものではなく、pre先にdestination目的地を決めるという、ヒトの大脳皮質による計測によって答えを予め出したものです。
物理的都市とメンタル的思考という閉じた「塀の中」で暮らす者たちにシンパシーが生じる暮らし方です。
個別的で議論にならないものを議論にしようとする試みとしては素晴らしいけれど、議論された後は、不完全な想定からの推論なので、役目は終わったと見るのが妥当ではないでしょうか?
ところが、この方法論を使って人間の社会の問題を科学にみえるように仕立て上げていくことが流行りました。
このユートピア(理想)を基準にして学問を始めてしまうと、自分の首を自分で締めてしまうか、もしくは、これを利用して、この法則が通用する領域と地域を広げ、結果的に周囲の世界を侵略していきます。
たとえば、資本主義を維持するために、社会主義を保持するために、という大義名分を打ち立てて、それに反対するものを排除しようとします。
これは平和を求めるリベラル派がよく行う言動で、平和的でないグループの言動を憎悪や暴力でもって排除しようとします
自分の知らないことは罪ではないので、自分が誠実に正しい勉強しているだけなので、自分には汚点はなく、悪は、私の外側にある、という思考パターンを持ちます。
「体」に必要なのは、他とつながり、いい加減に、突発的に、悪意とともに、間違いながら、ちゃらんぽらんにすることです。
このネガティブなものたちも全体性の一部なので、これらを排除する「正義」が通用するのは一時的なもので、いくらネガティブを排除してもポジティブなものからまたネガティブなものが生じます。
ですから排除という強引で暴力的な正義は長い間は維持できず、時間が経って、次の時空の枠組から見ればそれは「悪意」と評価されます。
そして一番の問題は自然の中での実用性です。
脳内の妄想の中では悪を排除すれば善だけの世界ができあがるように思われるのでしょうが、2つの点で大きな問題になります。
1つ目は、分別することを前提に成り立っている世界では、全体性を善悪に区分して悪を排除したと思い込んでも、悪を排除した瞬間には、残った善が全体となるので、それが自動的に分別されて全体性の善は「比べるとよりよい善」と「比べるとよりよくない善」となり、これに新しい善と悪のレッテルを貼り付けることになります。
そして、また悪の部分は排除されるという動きが起こり、このサイクルが分別を基準にする限り繰り返されます。
もう1つの問題は、実際に正義を実行して悪を排除してみると、その善なる世界は、自然から隔離されたものとなり、「いのち」は弱まって死に至るということです。
具体的には、都市文明の真ん中には「善」だけの世界を作成することも可能ですが、それは次々と悪を作り出すものになります。
そして何よりもその「善」は、塀の外側の世界からのエネルギーを使ってしか成り立ちません。