aniccaの性質
aniccaとは
体験するしかない無常性
無常aniccaは多層
段階的anicca
コラム
無常と怒り
無常と欲界・色界
無常の固定観念化 anicca
saññā
社会的常識と実践者の体験の違い
果報のない行為をするのはaniccaの性質
感覚器官はaniccaの性質を持ち、「束の間の快楽」のための非生産的な行為に導く
aniccaとは
パーリ語のaniccaの性質は「生じては消え去る」ことです。
これはこの世の3つの特徴の1つです。
3つの特徴とはaniccā,dukkha,anattāのことで、一般的には無常、苦、非(無)我と漢訳されています。
この3つはパーリ語で ti-lakkhaṇa 、漢訳では三相と呼ばれています。
注)上座部仏教の経典はパーリ語で記述され、現在まで保持されています。
また、無常と無我の内容は上座部仏教と大乗仏教では意味が異なります。
「この世の特徴はaniccaである」と釈尊は説きましたが、この特徴は一般社会では気づかれにくいものです。
一般常識では物質エネルギーを原子レベルで捉えるため、この世の現象は連続性、同一性、不変性があるものとして理解しているからです。
しかし、素粒子よりも微細なレベルで物質エネルギーを捉えると、その非連続性、非同一性、常変性、すなわちaniccaとして理解することができます。
またaniccaの性質は物質エネルギー界だけではなくメンタル界にも共通している特徴です。
この2つに関連性があることは自律神経や呼吸や血圧などをみると推察することができます。
自律神経とメンタル
自律神経 |
メンタル |
心情 |
血圧 |
呼吸 |
器官 |
感覚 |
交感神経 |
興奮 |
活性化 |
増加 |
浅く、多い |
神経系 |
粗大 |
副交感神経 |
鎮静 |
平静 |
低下 |
深く、少ない |
消化系 |
微細 |
すなわち、自身の呼吸や感覚をみることで、自分のメンタル状態の変化を推察することができます。
したがって、自身の物質エネルギー界に共通する「無常」という性質に気づくことは、自分のメンタルもaniccaの性質であることを推定することになります。
また、このような感覚や心の様子を観察しているとaniccaの性質であることを直接に理解することができます。
感覚も、心の様子も、心の内容も常に変化し続けていることが認識できるからです。
そうすると、ただ「宇宙の物質エネルギー界は生じては消え去る」という解釈だけではなく、
メンタル界にも同じ性質があることがわかります。
たとえば、メンタル界のaniccaの例をあげると、
この世はaniccaの性質があるため、物質エネルギー界を自分の望む状態は長期でみると継続することができず、自分ではどうしようもない、という事実にも気がつくようになります。
このようなaniccaを感じ続けることを標準にして暮らすようになると、対象の状態をあらゆる努力をしても保持できないことが自明なので、対象にこだわったり、渇望したりすることが減少するようになります。
したがって、aniccaは上座部仏教の実践では一番はじめにそして最も大切な概念だと捉えられています。
体験するしかない無常性
苦悩から一瞬で離れる方法 アーナパーナ・サティ 呼吸への気づき
The Way to Ultimate Calm英語テキスト版 PDF版
私たちは自分自身で何を知ることができるのでしょうか?
心と物質の両方を知ることができます。
では、この気づきから何を得られるのでしょう?
心と物質の働きの特徴を理解することができます。
何も特別なことをする必要はありません。
ただ、鼻の下の一点の感覚の変化に意識をとどめ続けるだけです。
そうすれば、呼吸とこの一点への気づきに意識を集中し続ける能力を獲得してゆくにつれて、心と物質エネルギーのメッセージを受信できるようになります。
具体的にはどちらにもaniccaの性質があることを実感することになります。
ミャンマーの高僧Webu Sayādawの上記リンクの著書に以下のような問答があります。
弟子:入ってくる息がひとつ終わる際に、anicca(無常性)のことを考える必要がありますか?
Webu Sayādaw(以下 サ):一つの呼吸が終わるときにaniccaについて想うのならば、それはよいことです。
そのようにしてaniccaを理解していると、あなたはnibbāna(涅槃)を獲得することができますか?
弟子:私はまだ獲得しておりません。
サ: では、もしまだnibbāna(涅槃)を得ることができないのなら、鼻の下の一点へ集中し続けなさい。そうすれば、あなたにも分かるようになります。
弟子:私たちは、無常なものとして何を知る必要があるのでしょうか?
サ: みなさんは、「砂糖は甘い」と言いますよね? けれど、もし私が今までに一度も砂糖を味わったことがないとしたら、みなさんはどうやって私に「甘さ」というものを説明しますか?
弟子:砂糖はパーム糖(ヤシ糖)よりもさらにいっそうおいしいのですが、あなた様が真にその味をお分かりになるように説明してさしあげることはできません。
サ: しかし、みなさんは砂糖を味わったことがあるのですから、それをどうして私に教えられないことがあるでしょう?
弟子:ええと、砂糖というのは、見た目は塩に似ているのですが、蟻は塩を欲しがりはしませんが、砂糖は好みます。けれどもこの説明では、それほどお役には立ちません。あなた様は、実際にそれを味わってみねばなりません。
サ: では、塩と砂糖の見た目は似ています。だからといって塩をなめて、それを砂糖と呼んだとすると、私は砂糖を味わったことになるでしょうか?
弟子:いいえ。塩はしょっぱいままです。
サ: もしそうならば、私は「砂糖はしょっぱい」と思うようになるでしょう。
弟子:まさにそれは、無常性を認識する方法を知らない私たちと同じです。
サ: 砂糖の外見について話し合うと、砂糖以外のものを砂糖だと誤解してしまう可能性が大いにあります。あなたが砂糖の「味」のほうを適切に説明してくれて初めて、私は理解できるはずです。
弟子:実際に砂糖を食べてみることをおすすめいたします。
サ: 私が砂糖を食べている最中に、あなたは私の隣に座って、「これは甘い、これは甘い」と言う必要がありますか?
弟子:私がそう言っていれば、あなた様の邪魔になるだけです。それに、砂糖が甘いものであるためには「砂糖は甘い」と言う必要はありません。ご自分の口の中に砂糖を放りこむやいなや、あなた様はその甘さを味わうことができるでしょう。
サ: たとえば、森で修行するある僧侶が砂糖を味わいたいと思っているとしましょう。砂糖は次のように考えたりするでしょうか? 「この人は森の僧侶だ。この僧侶には完全な甘さを発揮しないようにしよう。町の人びとに対しては半分の甘さしか味わわせないことにしよう」と。
弟子:砂糖は差別をしません。誰に対しても等しく甘いものです。
サ: 心と物質エネルギーへの気づきについても、それとまったく同じです。あなたが心と物質エネルギーへの気づきを保ち続けるならば、すぐさまdhammaを味わうことになるでしょう。それは、砂糖を食べれば甘さを味わうことになるのとまったく同じです。みなさんは、まだ塩を砂糖だと誤認するでしょうか?
ブッダは真理をつらぬくように見抜き、真理を本当に理解していました。何が「解放」であり、何が「苦」であるかを区別できました。だからこそブッダは、人間とDevaとBrahmāに、等しく解放を説いたのです。ブッダは彼らに「食べる」ことだけを求めました。ただ食べなさい。それこそが本物です。
「もしかしたら、それが真の解放ではないことが判明するかもしれない」などと恐れて、実際に食べることをせず、このままここから一歩も動かずにいるつもりでしょうか?
弟子:私たちはまだ、その段階まで至っておりません。ただあなたの言葉を聞いているのみです。
サ:今 申し上げたとおり、お食べなさい。あなたは間違えたりしません。どうして間違うことがありえないのでしょうか? それは、心と物質エネルギーが実際に間断なく生成しては崩壊しているからです。
無常aniccaの多層体験
常に変化し続ける、というのは具体的にどのような体験なのでしょうか?
無常aniccaには多層の実感があります。
これは実践を重ねるごとにその意味が深層化していきます。
そしてその深層化は阿羅漢になるまで続くと言われているので、プロセスの途中では完全なaniccaの理解はできません。
大切なことはaniccaの実感であり、その実感を基準にして生活することなので、知性によるaniccaの理解ではありません。
Sōtapannaへの道のり、 aniccaの理解の深層化 私説なので、年ごとに新たな体験を加える必要があります。
層の多いもの、奥が深いものは理解し続ける心構えが必要です。
つまり、分かったからといってそこで精査や探求をやめるのではなく、より深層にあるものを理解しようとする実践が必要になります。
たとえば、塩と砂糖の見た目は似ているからといって、塩をなめて、それをいくら砂糖と名付けても、砂糖を味わったことになりません。
塩の性質はしょっぱいままなので、私は「砂糖はしょっぱい」と思うようになるだけです。同様に、無常性を深く認識する方法を知らない私たちは、このようにaniccaの表層だけを理解しています。
つまり、外見だけをみると、砂糖ではないものを砂糖だと誤解してしまう可能性があります。したがって砂糖を食べて甘さを味わうことで初めて私たちは砂糖を理解できます。
そしてその甘さには何層もの味わいがあり、それを深めていくのが実践の目的です。
ですから、表層の甘さで満足していれば、実践する必要も意味がありません。
心と物質エネルギーへの気づきを保ち続けることで、dhammaを味わい、鼻の下の一点の変化を気づき続けることで、aniccaを段階的に理解していきます。
理解の前提はaniccaとは常に「生・住・滅」と変化し続けることです。
これがこの宇宙の自然摂理であることを再認識します。
次の第1歩目は「自分が望むことを保持できるのは一時的だけであって、aniccaの性質のために長期でみると維持することができない」ことを自覚して生きること。
第2歩目は、31領域の輪廻転生の視点から、心も物質エネルギーも結局は溶解していくもの、儚いもの、「ある」ではないもの、掴まえることができないもの、空しいもの、虚しいもの、流浪するものであることを認識して、そこではそれらに何をやっても自分は無力であることを実感すること。
第3歩目は「わたし」と同化させていた体、心、魂、五蘊というaniccaの性質をもつものから1つ1つ離れていくこと。
そして「実際にはこれまで信じていた「わたし」は「ある」ときもあり、「ない」ときもあり、「生・住・滅」と流れるエネルギーのことを「わたし」と呼んでいただけ」と自覚すること。
第4歩目は静穏な気持ちで物質エネルギーと心の変化に気づき続け、自身がエネルギーの流れになることで、概念や一般名詞を基準にしなくても安らかに暮らせること。
第5歩目はaniccaによる認識で波動、つまり生まれては消えていくものを感覚の基準として暮らす生活があることを知ること。
たとえば、
視覚では噴水の外郭の形は消え、一個一個の水しぶきを見て、
聴覚では固有の鳥のさえずりを特定せずに、個々の音だけが聴こえ、
味覚ではカレーとは特定できないが、スパイスと温度と歯ごたえと5味の振動エネルギーが拡がり、
嗅覚ではバラの香りは消え、甘さと仄かさと酸味の匂いの螺旋が拡がり、
触覚では一点のツボではなく、絶え間なく立ち上る無数の蠢きの箇所となり、
意識では編集して統合することを止め、分解されたあるがまま、そして、より微細な領域に感知に向かう。
こうして、生じるあらゆる感覚は、無常の具体的な表れとなる。
第6歩目は、生じるものは必ず消え去り、2度と再現されないという体験からくる強い確信。
これが道を歩き続ける推進力になる。
第7歩目は、体や心や魂の呼ばれるものは変わり続けるものなので、これらを一般化しても意味がないこと。
無常なものを対象に怒りや悲しみや憎悪などの仮設の因果関係(妄想)を作成する必要は本質的にはないこと。
つまり、無常に対して怒りや悲しみや憎悪をいだく理由がないこと。
それらの信号は移り変わり実体のないもので、固定化させて、タグを付けたり、分類したり、回路化することは本質的には意味がないという実感。
怒りよりもこれらの因果関係を作った原因の解明、そして回路の解体に意識を向ける。
概観や統計や確率論はあるが、具体的な1つ1つの現象には法則化は適用できない、ということ。
素粒子以上の領域を対象にした法則は、数ある法則の1つで、他の法則に影響を受けているので確固たるものではないこと。
また、より微細な領域ではこれらの法則は通用しないということ。というよりもより微細な領域から粗大な領域が影響を受けていること。
第8歩目は、生成しては消滅していく微細な領域を知るだけではなく、これを基準にして暮らすこと。
素粒子よりも大きい形と機能の領域から離れて、波動の領域に寄り添って生きるということ。
第9歩目は、・・・・・・・・・。
そして「わたし」(自動反応回路が少しずつ解体していく自意識)は涅槃nibbānaに瞬間的に戻ることを体感するまで、新たな無常を体験します。
瞑想するたびに新しくわかったことを付記していく。
アラハンになるまで各段階のanicca体験があるので内容は徐々に深みの層を増していく。
これらのステップは各自によって内容も順番も異なります。
まずは自分の外側にあるrūpaがaniccaであることを知り、
次に、どの感覚器官を介する信号もaniccaとして感覚できる方法を知り、
次に、どの感覚信号も微細感覚では振動となるaniccaであることを知り、
次に、メンタル界もaniccaであることを知り、
次に五蘊の各部門がaniccaであることを一つ一つ確認する。
自分の中で起こるすべてのことを意識すると同時に、変化することを理解してそれに自動反応回路を使用しないように努めます。
これが真の智慧です。
自分自身の本質の理解であり、自分自身の奥深くにある真実を直接経験することによって達成される理解です。
これはブッダが「yathā-bhuta-ñāna-dassana」(ñāna知ること、dassana洞察すること)と呼んだもので、現実を微細領域でありのままに観察することによって生まれる智慧です。
この智慧があれば、生じるあらゆる感覚は、無常の理解を生み出すだけで、人は苦しみから抜け出すことができます。すべての反応が止まると、渇望と嫌悪のサンカーラがすべて止まります。 現実を客観的(妄想でつくりあげた観念での評価ではなく、より微細な領域におけるそのままのすがた)に感じる(観察するというよりも寄り添う)方法を学ぶことで、人は自分自身に苦しみを生み出すのをやめます。
コラム
無常と怒り
この世を「見たくない」のは、心の底流にある「怒り」が具象化しているためです。
そこには無常aniccaの智慧はありません。
避けたい信号に関わる時にその信号を拒絶すると怒りという感情が生じます。
しかし、その時に無常の智慧aniccaがあれば、その信号は変わり続けるものであるので、拒絶するよりも、どうすれば信号を変化できるかに関心を向けることができ、その信号を拒否することが無意味なことに気づきます。
また、その信号(状況)に嫌悪のタグを付けた時のことを思い出し、その時の状況とそれ以降の状況は同一ではないので、過剰一般化して怒りの回路にしてしまったことをまず自覚します。
次にaniccaの性質を再確認して、過去の出来事と今の出来事は異なるので、「見たくない」と過剰一般化する苦しみを知り、TPOに合わせた対応をするように心がけます。
無常と欲界・色界
「俗世間の快楽は微々たるもので飽きてしまった。限界がわかったら無意味なものだ」というのが欲界の智慧です。
「眼耳鼻舌身に依る喜びは限定されていて不自由で本当にばかばかしく無意味だ」と腑に落ちる納得は禅定(色界)の智慧です。
aniccaの智慧paññāは以下のようなものです。
物質エネルギー界とメンタル界のあらゆる現象は、生じては消え去るものなので、いくら願って努力しても、それらを維持することができるものではない。
このようにaniccaの世界を理解することで、苦しみから離脱するきっかけになります。
無常の固定観念化 anicca
saññā
無常そのものを体験できなくても、概念だけを徹底的に叩き込んで、無常に基づいて考えるようになればそれはそれで智慧のある生き方になります。
無常の概念とは、この世のものは「生まれては、一時留まり、消え去っていく」性質であることを知ることです。
実践の中でのヴァイブレーションとは生まれて消えていくということであり、振動の波の中で暮らすことです。
体を構成する細胞は「生・住・滅」をくり返しています。
さらに、細胞を構成する分子は「生・住・滅」をくり返しています。
さらに、分子を構成する原子は「生・住・滅」をくり返しています。
さらに、原子を構成する素粒子は「生・住・滅」をくり返しています。
さらに、素粒子を構成するBhūta「生・住・滅」をくり返しています。
さらに、Bhūtaを構成するSuddhātthakaは「生・住・滅」をくり返しています。
さらに、Suddhātthaka を構成する四大元素は「生・住・滅」をくり返しています。
真理は「ある」でも「ない」でもなく、ただ「生・住・滅」です。
社会的常識と実践者の体験の違い
定義
科学 計測できる世界の関係性
認識 各自が体験を再現できる体験 自動反応回路のアウトプットの認知すること
認識できる世界 大多数の人が体験を再現できる世界(身体・心的障害者は大多数には含まれない)
認識できない世界 特別な環境や訓練や性質を持っている人たちの体験は認識できない世界に含まれる。
事実 計測できる世界 + 認識できる世界
常識 認識できない世界を除き、多数が認識できる世界の因果関係を基盤に作った社会ルール
瞑想による試行錯誤とは、認識できない世界を排除せず、認識できない世界の因果関係を熟慮して頭の隅に置いておきます。そしてその因果関係が可能かどうかは瞑想と観照contemplationをして追体験を試みます。
果報のない行為をするのはaniccaの性質
「生滅するものを継続するもの」と思うことで生じる執着は渇望の苦しみになります。
そのような行為がさらなる苦しみにつながります。
仏陀は、誤った心(感覚、概念、反応回路)が、生まれ持ったモノの見方(uppatti bhavaṇga)に基づいて「外なるrupaの誤ったバージョン」を作り出すことを説明しました。
その(「歪んだsaññā」に基づいて作られた)「外なるrupaの誤ったバージョン」に基づいて、心(citta 知る機能)はそれに付着し、不道徳な(あるいは少なくとも果報のない)行為に手を染め始め、それによって輝く心(pabhassara)から離れてしまいます。
このように、果報のない行為に手を染めることは「aniccaの性質」です。
換言すると、「icca」すなわち、より快楽を求めますが、最終的な結果は正反対のものになってしまうのが「aniccaの性質」です。
感覚器官はaniccaの性質を持ち、「束の間の快楽」のための非生産的な行為に導く
Aniccaṁ vipariṇāmi
aññathābhāvi の正しい意味
Cakkhu Sutta (SN 25.1)は短いsuttaですが、aniccaの理解がどのようにしてSotapanna段階へとつながるかの要点を押さえています。
vipariṇāma:[vi-pariṇāma] 変易,変化、退化(進化の反意語)
aññathābhāvi [aññathā+bhū+ṇī] 異なるbhāva
ブッダはこう述べています。“Cakkhuṁ, bhikkhave, aniccaṁ vipariṇāmi aññathābhāvi”
上記リンクでは、「托鉢僧よ、目は無常であり、朽ち果て、滅びゆく」と誤って翻訳されています。その後の訳でも、他の感覚器官(sota、ghāna、jivhā、kāya、mano)も朽ち果てて滅びゆくことが繰り返されます。
しかし、正しい解釈は(puthujjana一般人として)cakkhu(肉眼)が感覚的快楽を楽しむために用いるときはいつでもNibbānaから遠ざかるとが、「洪水によって避難地から運び去られる」という譬喩で説かれています。
感覚的快楽を楽しむために目を用いるのは、「束の間の快楽」のために砂の城を建てるようなもので、つまり非生産的な行為でしかない、というのがこの節句の「Aniccaṁ」が意味するところです。
Vipariṇāmaはpariṇāmaの反義語です。pariṇāma(進化)とは、時間の経過とともに物事がより良くなる時間的進行を意味します。例えば、ダーウィンの「進化論」(パーリ語/シンハラ語では「pariṇāma vāda」)は、サルが時間とともに進化して人間になったと述べています。
vipariṇāmaは進化の反義語である「退化」です。物事が時間とともに間違った方向/反対の方向へ進む状態を意味します。感覚的な快楽を享受するために目を使うと、Nibbānaから遠ざかってしまうことを示唆しています。
「aññatha」は「悪い方向へ逸脱する」という意味なので、Aññathābhāvi は「自然な/好ましい状態から離れる」という意味になり、「ittha」、つまり「Nibbānaの安定した状態」の反義語になります。
次の節句は阿羅漢の境地に至ることを多くの経典で意味しています。
“Khīṇā jāti, vusitaṁ brahmacariyaṁ, kataṁ karaṇīyaṁ, nāparaṁ itthattāyā” ti abbhaññāsi.”
例えばDutiyaanuruddha Sutta (AN 3.130)のaññathābhāviは「itthattāya」の反義語であり、「vipariṇāmi」と非常によく似た意味を持ちます。
したがって、この節句の正しい意味は、非常に簡潔に述べると、「比丘たちよ、cakkhuを用いて感覚的快楽を得ることは、砂の城を建てるようなものである。したがって、cakkhuは無常aniccaの性質を持ち、あなたを涅槃(清浄な心)から遠ざけ、より多くの苦しみ(下降の道)へと導く」ということになります。