Sankhāra 五蘊の「行」と宇宙の「行」
はじめに
万象として 広義
過剰一般化のプログラムとして 狭義
sankhāraの種類
十二支縁起の行sankhāra 貪瞋痴が導いたもの
五蘊の行sankhāra 認識システムの回路
三相の行sankhāra 範疇
体、言語、マインド 強度との関係 カルマの種との関係
強度、 abhisankhāraとsankhāra カルマの種
徳の有無 強度の基準 善悪の徳の基準
サンカーラの語源と意味 Etymology and meaning
Saṅkhāraはパーリ語だが、多くのインド哲学の古典および叙事詩時代のサンスクリット語文献の中でも広く見られる。
Saṅkhāraは、カウシタキウパニシャッドの2.6節、チャンドギャウパウパニシャッドの4.16.2–4節、ブリハダラニヤカウパニシャッドの6.3.1節など、
とヒンドゥー教のウパニシャッドにも見られる。
Saṅkhāraは経蔵( Sutta
pitaka)の経典にさまざまな意味と文脈で登場する。
一つの語句での翻訳を持たない複雑な概念で、「感動、気質、条件付け、形成、心の完成、感覚と概念の能力への影響、準備、秘跡、処分、条件」と多様の意味がある。
Saṅkhāraの英語訳、
縁起説ではサンカーラはformations(組成物)
五蘊ではreactionやvolitional(意思による)formations、that which has
been put together(一つにつなぎ合わされたモノ)と訳されることが多い。
その他にも、Activities アクティビティ(Ajahn Sucitto)、Concoctions調合(Santikaro)、Conditions条件、Conditioning Factors条件付けられた要因、Conditioned things条件付けられたもの、Determinations決定、Fabrications偽造、Formations組み立てられたもの (Bhikkhu Bodhi)、Karmic formationsカルマの形成物、Mental constructionsメンタルの構造物、Preparations準備(Bhikkhu Katukurunde Ñāṇānanda)、Volitional activities (Gethin, p. 136) 意欲的活動、Volitional formations意志による組成物(Bhikkhu Bodhi) 、インド哲学や文学ではpreparation「準備」やsacrament「秘跡」やformer impression前印象やdisposition気質や「意欲的な努力」を意味するなど多様にわたる。
西洋の文学や学界では、サンカーラは「潜在意識の傾向」と誤訳されることがある
例えば、Beckh教授は「unterbewußteBildekräfte」潜在意識の形成力と訳しているのだが、
この誤解は、おそらく非仏教のサンスクリット文学での用法をそのまま上座部仏教の含意を考慮しないで適用したためだと推定される。
「識」のところで紹介した実験でAとBの色が違って見えるのは、
「チェス盤とは白と黒の市松模様である」
「影は比較的に暗くなる」
という毎日の生活の中で学んだパターンを自分では意識せずに使っているので同じ濃度の色には見えなくなる。
このような「無意識の思考パターン」がサンカーラの一つの特徴である。
過去に学習した自動反応回路のことなので、アプリケーション・プログラム、略してアプリ、とこのエッセイ(試み)では呼ぶ
Sankhāra(フォーメーション)とは
上座部仏教Theravādaのtipitakaである、律蔵vinaya-pitaka(僧の規則)、経蔵sutta-pitaka(仏の説教)、および論蔵abhidhamma-pitaka(哲学および心理学)の中に出て来る語句である。
日本の辞書や辞典やウィキペディアでは、意識を生じる意志作用、意志形成力、心がある方向に働くこと、などと書いてあるがこれでは意味がわからないのではなかろうか。
サンカーラはその文脈に応じて、さまざまな意味合いがあるので、仏道の修行者には慎重に意味を理解するべき鍵になる語句である。
いろいろな意味や解釈があるが、通底する共通点は「繋がることで存在し、存在させているモノ」ではないか、と私は考察している。
スケールの大きな話として、広義で理解すると、この宇宙が存在するのはこのサンカーラがあるためだと理論的には考えることができる。
身近で簡潔に言えば、「パターン化されたもの」のことで、
インプットに対してアウトプットを自動反応する回路のことで、
ちょうどスマホのアプリのようなものである。、
このように宇宙の根本に関わることなので、組成物やフォーメーションや形成するもの、形成されたもの、と訳されたり、十二支縁起のキーワードになっているのだと思う。
「つながっているモノ」そして「つながさせるモノ」ということは、他から影響を受けるということなので、独立した本質的なものではなく、常に変化するものであり、顕れては消え去るものであることを意味する。
具体的にはエネルギーのことで、dhammāと呼ばれるものである。
このエネルギーは宇宙や生命の「意」がサンカーラを介した時にカタチとして創出されたものである。
話が大きくなりすぎて、雲をつかむようになると思うので、エッセイの中心は個人の中にあるサンカーラについて書いていくことになる。
宇宙創出に関しては、意識が物質を作るプロセスや古今東西の死生観とコスモロジーを参照にしてください。
このサンカーラを2つの立場(宇宙と個人)で解釈すると
1つ目の
宇宙(科学、客観的)の視点で捉えれば、サンカーラによって生まれたエネルギーが万象の根源になり、この世にあるものは素粒子以下のレベルから引力などのエネルギーもすべてのものを「つなげた」ので、サンカーラとは「万象」のことを指す。
この広義の意味での「万象」とは、停止することのない流れのことであり、これがこの視点におけるサンカーラの本質である。
また2つ目は、
ヒトが思考する(能動的)意識としてサンカーラを捉えれば、すべてのものを繋げることで影響を与えあってしまう「心の作用」のことになる。
具体的には「過剰一般化のプログラム」のことで、別名は「自動反応回路」のことである。
眼の前の現象をありのままでみることはせず、これまでに慣れ親しんできた「パターン」を通して認識してしまうことである。
そして次にはこのパターン回路が原因となり、決まった結果となるアウトプットはエネルギーを生み出し、そこから行動を生み出し続ける。
具体的に1つ目の内容を見てみると、
釈尊はこの世の現象はすべて因果のある顕れては留まり、そして過ぎ去っていくものだ、と説いた。
はじめの「万象」の意味では、サンカーラは「条件付けられたもの」または「性質、メンタルの痕跡」を指す。
この世のすべての物質とマインドの集合体に付随するものであり、すべての現象は、初期の仏教の経典に述べられているように、
前者によって後者は因果関係によって条件付けられたものである。
したがって、木、雲、原子そして生命体、思考、「意」など、宇宙のあらゆる化合物はすべてサンカーラであり、
物理的に目に見えるものはすべて、条件付けられたものである。
また仏教を学び瞑想を続けると、これらの物質と「意」の集合体との関係を実感するであろう。
釈尊は、すべてのサンカーラは非永続的で本質的でないことを説いた。
条件付けられたものとは知覚されたもの、のことなので、これらは本質を持たないため、信頼できる喜びの源ではなく、非永続的である。
また、サンカーラとは「空(すべてのエネルギーはあるがカタチがない)」からカタチ(時空と方向性の流れ)が生じる際に、二つの境界にある自動変換回路のことである。
この回路も諸行無常、諸法無我、一切皆苦という宇宙の法則の一部なので、生起しては消滅するので永遠不滅のものではない。
そしてこのサンカーラ(回路)によって予めから決まっているカタチが産み続けられるので、この回路が産み出す「分別、カタチ、分離」に囚われることから抜け落ち、
離脱することができると、あるカタチになってしまうという必然性から開放される。
この「ありのまま」の現実を理解するには智慧を育む事が必要になる。
「条件付けられたもの」を体感するためには、同じ繰り返しの輪の中で生きてしまうのは無知と誤謬と一般化と執着によるものなので、
無常と苦と無我(正確にはaniccā,dukkhā,anattā 後述)を感じる日常生活を送り、縁起説をよく理解して、聖四諦を実践する必要がある、と上座部仏教は説く。
Dīgha Nikāya 16 Mahāparinibbānasutta経蔵長部第16経大般涅槃経には、
釈尊の最後の言葉として、
「比丘たちよ、さあ、「いま」、(ここにおきていてことだからこそ)言えるのは、
(この私の体をみればわかるように)エネルギーがあるものは崩壊していきます、サンカーラによって築かれたものだから。
(ですから)怠慢なく、san(余分なモノ、つまり貪瞋痴)に向かい、それらを整理していってくださいね」
“handa dāni, bhikkhave,
āmantayāmi vo, vayadhammā saṅkhārā, appamādena sampādetha
vaya破壊、老朽dhammāこの世界、エネルギーsaṅkhārā 終焉があるのはサンカーラのためである
appamādena no
negligence, 怠慢なく no carelessness 不注意なく
sampādetha san+pādēta移動させる 完成に努める sam+pajjati 歩く
handa さあ、いざ
dāni いま、今や
āmantayāmi 話す
vo あなたに、実に
この文脈でのsaṅkhārāは「認識システムの一般化を実行する回路」という狭義ではなく、自分のメンタル世界を作り上げている膜の根源、そしてその組成物である宇宙エネルギーを含めたサンカーラである。
自分の体、メンタル、宇宙、サンカーラによって生じたエネルギーが崩壊していく、「ありのまま」の姿を見て、その理由を見極め、この世に再び戻って来ないようにするには、自分のメンタル界にある余分なもの、すなわちsanをちゃんと見て、歩み寄り、移動させて、整理しなさい、と語る言葉は、カタチの根源であるエネルギーが消え去っていく瞬間に立ち会っている「時空」だからこそ切実である。
因みに、伝統的日本語訳は以下のようなものが多い。
「弟子たち、これを私はあなたたちに宣言する。すべての条件付けられたものは消え去る。」
法句経の20章「道の部」Khuddakanikāya Dhammapada Maggavaggaには
「すべての余分に足されて行われたものは望むようにはならない・・・苦しみとなる」
sabbe sankhāra aniccā...dukkhā
伝統的日本語訳「すべての構成されたものは非永続的であり...苦しみにさらされている」。
saṅkhārāとはsan足されたもの、獲得されたもの、付加されたもの+khārā行動、反応、のことであり、
この付加されたものというのが無明avijjāによって行われてしまう貪瞋痴の言動である。
この文脈では、サンカラーラは宇宙に遍くdhammāによって構成されたものであり、このdhammāとはsankataと同義語である「nibbānaではないものすべて」を指す。
つまり宇宙に遍くただのエネルギーである。
両極端の「asankhata-dhātu」分類ではdhammāは涅槃nibbāna (asankhata)ではなく、物質側dhātuのものとなる。
(例:sabbe dhammā anattā、「すべてのものには実体はなく価値がなく、助けにならない)
つまり、すべてのサンカーラとはエネルギーで構成されている宇宙そのものであり、
サンカーラではないものは、エネルギーがないもの、すなわち涅槃nibbānaと記録namā gottaだけである。
次に2つ目の捉え方は
ヒトの意識が行っている認識システムの一つとして行sankhāraを捉えることである。
五蘊の中での「行」、縁起説の中での「行」、三相の中での「行」について見てみるとサンカーラの側面から性質を理解することができる。
ヒトの意思と関わるサンカーラにスポットライトを当てると、これは、すべてのものが繋がりがあることで影響を与えあってしまい、
次の行動につながるアウトプットを生み出し続ける、「心の作用」であることがわかる。
サンカーラとは過去において作り上げた、各自の意思(意図)によってチョイスされたものを、無意識の領域でつなぎ合わせて作り上げたプログラムなので、
これを使うことで未来の意図的行動が発生する原因となる。
これは時短と効率化と利便性と合理化のために大脳皮質が行っている「過剰一般化するプログラム」のことでもある。
すなわち「いま・ここ」の現象の一つ一つをあるがままに体感するのではなく、
過去に学んだデータを組み合わせてパターン化したアプリケーション・プログラムのことである。
このサンカーラという自動反応回路を通して現象を認識してしまうことから、意識体は眼の前のものを「ありのまま」の実態と、
各自の「見るもの」との間には違いがあるのだが、それに気づかずに自覚できないことから、次々と誤謬が生まれ、
その結果、苦しみが途切れることがない現実を生きることになる。
縁起説の中の行sankhāra
縁起とは、他との関係が縁となって次のモノが生起する、ということ。
詳細は「釈尊の風 縁起説篇」を参照。
全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立するのであって、独立自存のものは一つもなく、条件や原因がなくなれば自ずと結果もなくなる。
サンカーラとはこの全てがつながる鎖の輪の原因であり、同時にその輪の一部であって、この縁起を成り立たせるものである。
十二支縁起のPaticca-samuppada Sutta, Samyutta
Nikaya, XII (I). 1にある
「無明がサンカーラを生起させる」の一節がサンカーラとはなんであるのかをよく表している。
“avijjā
paccayā sankhāra”
ここでいうサンカーラとは善の強いサンカーラpunnābhi sankhāra もしくは悪の強いサンカーラapunnābhi sankhāra のことである。
“Punnābhi sankhāra, apunnābhi
sankhāra, ānenjābhi sankhāra ayan vuccathi avijjā paccayā sankhāra“.
縁起説(paṭicca-samuppāda)の中では、サンカーラとは、何度でも繰り返し続ける「閉じた輪」の中にいることを強制するものである。
この文脈ではサンカーラは原因であるカルマ(エネルギー)と同義であり、
これは(身体、言語・イメージ、メンタルの想いの3種類のサンカーラの中にある)強弱のうちの強いサンカーラを指している。
強いサンカーラを経由した入力(信号)が識viññānaによってkamma viññānaとなり、これが「カルマの種子kamma bīja」を作成し、
そして条件が揃うと、結果vipākaが生じ、これに強く反応してしまうことで、強いサンカーラが作られ、それが識viññānaによって・・・・。
エンドレスの「閉じた輪」になってしまう。
これから先に何度もカルマ、カンマ、kamma、カルマの種、kamma bījaといった用語が出てくるが、自分の経験の中で実感がない場合は、
これらのkammaを善悪と結びつけるのではなく、「エネルギー」と翻訳して読むと文脈が通るかと思う。
もしくは因果の原因と翻訳するほうが理解しやすい文脈もあるでしょう。
エネルギーは19世紀に作られた造語で、
ギリシャ語のἐνέργεια (energeia ) を基にして、en状態 +ergon仕事を組み合わせて、「仕事をしている状態」といった意味である。
熱力学ではエネルギー保存の法則やエントロピーの法則などあるが、どちらも閉じられた人工的な実験室の中で起きる短期的な現象を法則にしたものであり、実際のこの世界は「非平衡開放系」であるので、閉鎖系や平衡開放系というこの世にはない脳内で作った理想の環境を前提にして、因果を結びつけて法則としている。
たとえば水にインクを垂らしたら拡散するが、そのインクの拡散した容器の水が蒸発すれば、それはまたインクの基になる。いくらエネルギーが拡散する法則があるように、かぼちゃの種のように、拡散された炭素と水素と窒素と酸素をまとめて一つの実にするという法則も同時に存在する。
したがって、この熱力学も典型的な知識派の世俗諦であり、実際のエネルギーは、この宇宙のあらゆるところで、「意」や意識が「観る」ことで、生起する、と体感派は考える。
閑話休題、
強いサンカーラとは、強い回路になってしまい、強いエネルギーを生み出すものを指す。
水紋のようにできたらすぐに消えていく回路、
海岸で作る砂の城のように潮汐によって日に2度崩壊していく回路、
そして木や岩に刻み込んだ回路という強弱があり、
エネルギー(カルマのエネルギー)が大きいほど回路も強化される。
縁起説の中でのサンカーラは木や岩に刻んだレベルの強度のあるアプリケーションであることを指している。
縁起説のサンカーラは、身体と言語と行為(カンマ)によって、パターン
(アプリケーション、自動反応回路、過剰一般化、決めつけ、「ありのまま」に寄り添おうとしないもの、優しくはないもの、理想、理念、幻想)
を「近くに引き寄せ続ける(執着する)こと」で、生物が生まれ変わりの中で苦しみ続ける、ことを説いている。
釈尊は、無知(avijjā)によるすべての意志によって構成されたものは、aniccā,dukkhā,anattāによって条件付けられていると説いた。
一般的にはこれらは無常(aniccā)と苦(dukkhā)非自己(anattā)と訳されているが、これは表層的な解釈であって、中層や深層の解釈も必要である。
無知avijjā(別名は無明)とは、深層における、三毒(貪瞋痴)の行く先、四諦、八聖道、縁起説、三相、五蘊を体感していない状態、のことを言う。
この無知がサンカーラを生み出す起源であり、最終的に人間の苦しみ(dukkhā)を引き起こす。
そこで、すべてのサンカーラの停止「sabba全てsaṅkhāra nirodha停止」させることで、正覚して涅槃に至ることを仏教徒は目指す。
サンカーラによって条件付けられた自動発生を止めることで涅槃の境地がもたらされるからである。
しかし、発生を止めることで新しいサンカーラ組成物、形成物)が構築されないとしても、「カルマ的に結果として生じる意識」(vipākaviññāna)は残存する。
つまり以前(現世だけではなく前世)に作り上げた「カルマの種」が条件が揃うことで実を結ぶことになるので、これは聖人やアラハンだとしても回避することができない。
ただ、実を結んでカタチになる時に心安らからな気持ちで、その現象にただ気づいていることができれば、その現象は2度と起こらない。
しかし、その時に渇望や嫌悪などの無知avijjāの反応をしてしまうと、それは「カルマの種」と呼ばれる、
将来に自動反応回路を作り上げる設計図の基を生成してしまうので、未来において同じことを繰り返すことになる。
構築された意識という意味でのサンカーラは存在し続け、解放された各個人は新しいカルマを生成しないが、カルマの痕跡の結果である個性は保持される。
アラハンも死去するまでは心理や感情があるという事実は、カルマの継続的な結果があることを示している。
このようにサンカーラが悪いのではなく、強いサンカーラが問題なのである。
アラハンのようにサンカーラを除去するのを目指すのではなく、急がば廻れというように、
まずは他者を不幸にしてしまっている強いサンカーラ、
次は岩に刻んでしまっているもの、
そして木に刻んでしまっているものと順番に自分特有の強いサンカーラから対処していくのが大切なことである。
ウィキペディアからの情報としては
スリランカの仏教哲学者David J.
Kalupahana (1936–2014)によれば、サンカーラは全ての精神的傾向を指すことが多いとし、
釈尊はサンカーラを「完全に排除するのではなく、浄化する必要性」を強調したとする。
カルパハナは、サンカーラとは個人の物の見方を決定するものであるから、「サンカーラの除去は認識論上の自殺である」と述べている。
「人格の発達が、完全性(perfection)に向かうか不完全性(imperfection)に向かうかは、己のサンカーラによる」と述べている。
また、カルパハナは「サンカーラの重要性を認識することは、釈迦をして、世界についての究極の客観的視点を定式化することを企てることから妨げた」と述べている。
「完全に排除するのではなく、浄化する必要性」とは、黒白はっきりつけて、黒を排除することではなく、固いものを柔らかくすることを意味している。
もし黒を排除する言動や思考をすると、これが強いサンカーラとなってしまうからである。
固いものが柔らかくなり、そして消えていくと、そこにNibbanaが発生し、最終的には、建設的な意識(思い出への依存、計画の作成、パターン認識、自動反応回路の使用)、つまり「家を建てる人」は完全に破壊され、新しいフォーメーション(強いサンカーラ)は構築されなくなります。
「家を建てる人」は
法句経Dhammapada 153 and 154からの引用です。
無知が意志的なフォーメーションであるサンカーラを生起(条件付け)させ、このサンカーラが次に意識(viññāna)を条件付けてしまい、そこから新たなエネルギー回路の元(カルマの種)が生成してしまうからです。
Nibbana
The
Buddha emphasized the need to purify dispositions rather than eliminate them
completely.[38]
Kalupahana
states that "the elimination of dispositions is epistemological suicide,"
as dispositions determine our perspectives. The development of one's
personality in the direction of perfection or imperfection rests with one's
dispositions.[39]
When
preliminary nibbana with
substrate occurs (that is, nibbana of a living being), constructive consciousness,
that is, the house-builder, is completely destroyed and no new formations will
be constructed. However, sankharas in the sense of constructed consciousness,
which exists as a 'karmically-resultant-consciousness' (vipāka viññāna),
continue to exist.[40] Each
liberated individual produces no new karma, but preserves a particular
individual personality which is the result of the traces of his or her karmic
heritage. The very fact that there is a psycho-physical substrate during the
remainder of an arahant's lifetime shows the continuing effect of karma.[40]
David Kalupahana,
Mulamadhyamakakarika of Nagarjuna: The Philosophy of the Middle Way. Motilal
Banarsidass, 2005, page 48.
David Kalupahana, "A History of
Buddhist Philosophy." University of Hawaii Press, 1992, page 75.
Saṁyutta Nikāya 12 Kaḷārakhattiyavagga38 Cetanāsuttaの中で (Cetanāは意図を意味する)
釈尊は以下のように説いている。大意は
「誰が何を意図し、何をアレンジし、何に取りつかれているというのか:
これは自由であった意識が固定化され、カタチを持った意識として確立される。
この固定化された意識が成長すると、未来の生産をはじめる。
こうして未来における誕生、老化、死、悲しみ、嘆き、痛み、苦痛、そして絶望を生み出す。
これがこの苦痛とストレスの起源である。」
Yañca, bhikkhave, ceteti yañca
pakappeti yañca anuseti, ārammaṇametaṃ hoti viññāṇassa ṭhitiyā. Ārammaṇe sati patiṭṭhā viññāṇassa hoti. Tasmiṃ patiṭṭhite viññāṇe virūḷhe āyatiṃ punabbhavābhinibbatti hoti. Āyatiṃ punabbhavābhinibbattiyā sati āyatiṃ jāti·jarā·maraṇaṃ soka·parideva-dukkha·domanass·upāyāsā
sambhavanti. Evametassa kevalassa dukkha·k·khandhassa samudayo hoti.
またパーリ仏典 中部 35薩遮迦小経
Cūḷasaccaka Suttaでは、
「すべての行(サンカーラ)は望むようにできるものではなく、すべてのエネルギー界のものは価値がない」
と説いている。
Sabbe saṅkhārā aniccā, sabbe
dhammā anattā’ti.
この時のサンカーラは宇宙における「意」によってカタチになったものを指す。
この変化し続けるこの世を「ありのままの状態」で感じることができないと、何が起きるというのか?
変化しない状態、すなわち変化を感じないで固定化して静止させてこの世を見てしまう大脳による認識方法を基準とし、
この方法だけを採用してしまう時に起こるのが無明であり、サンカーラとはこの世をパターン(プログラム)として捉えた「心の働き」、
そして捉えられた現象、すなわち、すべてを指すことになる。
具体的に言うとヒトの「思考」と「感情」。
どちらも変化し続けるこの世のモノをサンカーラという自動反応回路プログラムを使って認識することから自動的に決まったアウトプットである。
このインプットとアウトプットを組み合わせて作り出された回路がサンカーラである。
このようにみると、「思考」とは変化するものを固定化させる行為である。これを一般化と言う。
パーリ語のsankhāraの (“san” は獲得、加算を、 “kāra” ( “kriya”) は反応(行動)を意味するので、「反応を獲得する」ことを意味する。
このsanを「一緒に」と解釈して、他と協調して行動する「共同行動」、または他との組み合わせによって作られるモノ、と解釈する人もいる。
そして縁起説では、
この「行」(サンカーラ)が次には「識」を生み出すのだが、このときの「識」は純粋な意識のvipāka viññānaではなくサンカーラによってフィルターがかかり(汚染されて)、「あるがまま」に感じることができなくなった kamma viññānaを次々と生み出していく。
このように無明によって生じたサンカーラ、そしてこれから生じた「識」は、同じことを際限なく繰り返し続ける。
釈尊は縁起説を通して、善き思考や行動を実践することを強調している。
崇高な心の働きの領域sobhana cittaでは、智慧と喜びの思考がある。
ここでいう智慧とは「ありのまま」を体感し理解できる能力のことを指す。
すると10の誤謬の見解miccā ditthi を取り除くことができ、智慧が育っていくと「無常、苦、無我anicca, dukkha, anatta」をより高く深いレベルで体感することができ、
sotapanna(預流果)に至ることができる。
“ñāna sampayutta associated, generate
somamnassa sahagata賦与 citta”
「智慧が心に喜びを与える」
本人が望むか否かに関わらず、善き行いは良い結果に結びつく。
サンカーラの種類
サンカーラは必ずしも悪いものとは限らない。
私たちはサンカーラとともに生きている。
問題があるのはサンカーラ回路に固執してしまう私たちの心である。
サンカーラの具体例
反応という行動(サンカーラ)には、身体kāya
sankhāra、言語・イメージvaci
sankhāra、意識manō
sankhāraを通じて起こるもので、
この世に身体がある限り、サンカーラともに生きることになる。
呼吸することさえkāya
sankhāraというサンカーラ(行動)なのでサンカーラはこの世にいる限り、避けることができないものだが、
アラハンになると心の働きをシンプルにして、自動反応のプロセスを止めることができる。
すべてのサンカーラは心の中で作られる。
意識的な考えや言語やイメージに導くものは vaci sankhāra.
身体の行動に導くものはkāya
sankhāra
心のなかで自動的に生起しているものはmanō sankhāraと呼ばれる。
サンカーラは身体と言語と思考へと導くものである。
安らかな心境で思っている時にはただのサンカーラsankhāraであるが、もしこれを貪瞋痴の心境で行うとそれは強いサンカーラabhisankhāraになる。
このようにあらゆる日常生活での言動はサンカーラに起因するのだが、サンカーラには未来の善悪の結果を導くものがある。
このような将来の結果を生む原因になるものは強いサンカーラabhisankhāraと呼ばれる。
具体例で見てみると、
寝室に行こうと考えるのはvaci sankhāra
実際にそこまで歩いて行くのはkāya sankhāra
憎む敵を殺そうと思うのはvaci abhisankhāra
実際に行うのはkāya abhisankhāra
後者の二つはapunnābhisankhāraと呼ばれる不徳のもので、欲界の下部に導かれる可能性がある。
強いサンカーラabhisankhāraに問題があるのではなく、punnābhisankhāraと言って「解放への道」に進むための強いサンカーラもあるので、
問題はサンカーラそのものではなく、その質である。
身体、言語・イメージ、メンタルのサンカーラ
kāya-、vacī-、citta(mano)-sankhāra
(1)身体機能、 行動に表れるサンカーラ 内と外の呼吸(M.10参照)
(2)シンボル構築機能 言語化したり、さらに思考するサンカーラ
(3)メンタル機能 心に浮かぶ想いのサンカーラ 感情と知覚(M.44)nirodhasamāpatti参照
すべての想いと言語・イメージと身体的行動は、心の中で生起したサンカーラを基盤にしている。
よってvaci
sankhāra と kāya sankhāra も心の中で生起することで、ヒトは想ったり、考えたり、話したり、行動したりすることができる。
すべてのサンカーラは心の中で生起するので、サンカーラとは「想い、思い、考え、思いつく」のことである。
そしてこのような「想い、考え」を基盤にして原因が作られる。
kāya sankhāra は意識できる「考え、思いつき」で、すなわち自分でコントロールできるもので、これによって身体を動かすことができる。
vaci sankhāra も意識できる「考え、思いつき」で、これも自分でコントールでき、これによって、
シンボルを並べて構築し、独り言や会話や議論やブッダの教えやヘイト・スピーチをすることができる。
それに対してmanō sankhāraは意識できない「想い、考え」で、本人の意思に関わらず勝手に生起する。
そしてそれは、各自の性向や習慣や各自の持つ無知のレベルによって生起するのだが、それが現れる瞬間をヒトは直接的にはコントロールすることができない。
これはカルマの種に条件が揃うことで実がなった状態なので、ヒトの意図では制御できないからである。
換言すると、因果関係の因が以前に作成されていたので、条件が揃うことで、その結果である果実が結すばれたので、ヒトがコントロールすることができないのである。
間接的にできることは、条件を揃わせないこと、因果の因、すなわちカルマの種を弱体化させることである。
vacī sankhāraとは
vacī sankhāraは vacīという「話す」という語句なので、意味を誤解しやすい。
この定義は“Cūḷavedalla
Sutta (MN 44)“にあるように
“vitakka vicārā vacī
sankhāra“,
“vacī
sankhāra は vitakka と vicārāである“ という意味である。
このvitakka と vicārāとはどちらも javana cittaを経由して現れる認識機能のことで、
感覚器官 (視覚、聴覚、嗅覚、味覚、体性感覚、心) に情報 (光景、音、匂い、味、感触を生むもの、心の中味)
が入る時にこれらが働く。
「Maha Satipatthana Sutta」をパーリ語から英語に翻訳した U Jotika とU Dhammindaは
Vitakkaをinitial thinking はじめの考え 一次思考
Vicaraをcontinued thinking それに続く考え 二次思考
とした。
内容は
Vitakka一次思考は、 言葉による思考 (ものごとを認識する時の基本的な働き - 認識対象把握)
Vicara二次思考は、 言葉によらない思考 (認識したものを思慮熟考する働き - 認識対象維持)
のことを意味する。
日本語では中村元監修の 「大念処経」では、
「粗い考察 (一次思考)」、「微細な考察 (二次思考)」と訳されている。
ティク・ナット・ハン著の 「ブッダの<気づき>の瞑想」 によると、「最初に生まれる知覚 (一次思考)」、「それに続く思慮
(二次思考)」 と訳されている。
「大念処経」の第三訳本では、「知覚 (一次思考)」、「観察 (二次思考)」
と訳されている。
無意識の作用をこれほどまでに見通す言葉が日本語や英語を含めた他の言語にはないので、無理に日本語を含め翻訳すると、かえって誤解を生むことであろう。
論蔵Abhidhammaでは、ハチが花の蜜を吸う時に、花に向かうのをVitakka、に、そして花の位置にホバリングしているのがvicāraであるいうメタファーで表現している。
Vitakka は、思う対象によって変化する心の様子(機能要因)のこと。
Vicāraは、その対象によって変化した思いを維持する機能のこと。
これと同じように、マインドはある対象にスポットライトを当て、この光を維持することで、この対象に対しての思いつきや考えが生起してくる。
これらは意識的な行動であり、意図的な思考である。
それに対してmanō
sankhāraは自動的に勝手に生起してくる。
例えば、私たちが尊敬する人のことを思う時に、私たちはその人のことをずっと考えていられるが、この思考はvacī
sankhāraである。
このような実際に言葉にして話をしていなくても、頭の中で考えている作業を日中の間はずっと行っているが、これもvacī
sankhāraである。
禅定する時には、この vitakka/vicāraが働かないようにして、savitakka in the formula of the first Jhānaという心境を育成する。
“Tapussa Sutta増支部(Aṅguttara Nikāya AN 9.41)“では
禅定している時は、貪りrāgaと不徳akusalaのvitakka/vicāra は消え去り、savitakka/savicāra(調査、考察)だけがそこに顕れる、と説いている。
“..So kho ahaṃ, ānanda, vivicceva kāmehi vivicca akusalehi
dhammehi savitakkaṃ savicāraṃ vivekajaṃ
pītisukhaṃ paṭhamaṃ jhānaṃ upasampajja viharāmi.”
manō sankhāraとは
manō sankhāraは各自の性向や習慣や環境によって無意識のうちに自動的に生起するので、manō
sankhāraは意識によってコントールすることができない。
そこで、もしmanō sankhāraを変えたいのであれば、各自の性向、習慣、環境を何度にもわたって変えていくしか方法はない。
各自の性向、習慣、環境によって反応に違いはあるが、共通しているのはmanō sankhāraはvottapana cittaにおいて自動的に起こるということである。
vottapana cittaとは心路citta vithiの17プロセスの8番目のステップである確定心のことで、7番目のステップで推定したことを決定するという機能がある。
実際のvacī sankhāra と kāya sankhāra の生起もvottapana cittaにおいて起こるのだが、次の
javana cittaの働きで、vitakka と vicārāが働き、ヒトはスピーチ(シンボル構築)ができるようになる。
歩行などの身体的行動もjavana cittaによって実行される。
このように vacī
sankhāra も kāya sankhāraもこのjavana cittaが深く関わっており、
私たちが原因kammaを直接に操作するにはこのjavana
cittaを通して行われる。
サンカーラの種類
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想い |
シンボル構築、言語化、思考 |
行動 |
範疇 |
manō sankhāra |
vaci sankhāra |
kāya sankhāra |
強度 |
普通 |
強度 abhisaṅkhāra |
強度 abhisaṅkhāra |
カルマの種 |
作成しない |
作成する |
作成する |
喩え |
水紋 |
潮汐のある浜辺の砂城 |
木や岩に刻まれた溝 |
脳 |
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大脳を使った条件反射 |
小脳を使った条件反射 |
他のサンカーラを具体例で見てみると
身体を動かす時に、まず意識(表層もしくは中層)的に、体を動かそうとする「思い」である kāya
sankhāraが起きる。そして、これを大脳辺縁系の力を借りて、信号を運動神経を通して足の筋肉に送ることによって、「思い」が実行され、足が動いた、という結果を得る。
息を吸って吐くことも、kāya
sankhāraの定義に含まれる。
“assāsa
passāsā kāya sankhāra”
肺の収縮運動は無意識でも可能だが、訓練をすると収縮運動の「一部」をコントロールすることができるので、体を動かす「思い」によるものなので kāya
sankhāraになると推測する。
身体を動かす目的が「悪」の行いに関わることならば、このサンカーラはapunna
abhisankhāraとなり、これには
渇望や嫌悪が生まれるasōbhana cetasika を持つことになる。この時にはヒトは熱くなったり、ストレスを感じる傾向がある。つまり意図しないエネルギーを発生する。
しかし目的が「善」の行いならば、慈悲などが生まれるsōbhana cetasikaを持つことになる。この時にはヒトは冷静になる傾向がある。
もし目的が寝室にいくだけならば、それはただの kāya sankhāra であって abhisankhāraではない。
ここでの善悪の基準は、心がシンプル(掃除、浄化、整理、深層意識)に向かう方向性があるものを善、その逆を悪、とすることにする。
心の意向cetasikaによって行動の原因が決定されて、それに従って「考え、思い」が生まれてくる。
“kāya sancetanā kāya sankhāra,”
“vaci sancetanā
vaci sankhāra,”
“manō sancetanā
manō sankhāra.”
他の具体例では、
ある人が隣の人に怒りを感じていると想定してみる。
体を一つも動かしていなくても、悪い考えは浮かぶ。
例えば隣人をすぐに叩いてやりたい、とか。
これはvaci
sankhāraである。
そしてこの「思い」が集まってきて、それを意識したとしても、それはまだvaci
sankhāraである。
ところが、それを声にしない独り言であったとしても悪言にしてしまうと、これはもうapunna
abhisankhāraになる。
強度とサンカーラ
このサンカーラには大きく分けて3段階の強度があり、
水紋のようにすぐに消えてしまうもの、
浜辺の砂に書かれた文字が潮汐によって消えてしまうもの、
石に彫り込んだようにすぐには消えないものと、残存する時間には違いがある。
思考や行動する時に強い貪瞋痴があると、強度のあるサンカーラが無意識のうちに作成され、知らないうちにこのサンカーラが次々に新たな思考を生み出していき、だんだんと自らの思考に操作せれてしまう性向を持つ人になる。
呼吸法やその他の禅定(集中や瞑想やサマディー)を実践することで、より上位の界での輪廻sansāraも可能になる。
また aniccaを常に体感していない限りは、気がついていない無明“avijjā anusaya“が残存している。
強いサンカーラabhisankhāraとは、簡潔に言えば、ありのままがみることができないフィルターがかかることであり、無明avijjāを理解できず、
繰り返し(転生)のサイクルである輪廻sansāraを延長させる行動(思考、言語・イメージ活動を含めた)すべてのことである。
これを汚れている、とも表現されるので、これらのフィルターを外していくことを清浄道Visuddhimagga (The Path of Purification)と呼ばれる。
またこの強いサンカーラは潜在エネルギー(カルマの種)を生み出すので、後になって、この種は結果という実を結ばせるので、
強いサンカーラとは未来を作り上げる原因kammaになる。
このようなkammaを持たない阿羅漢は、強いサンカーラを作る出すこともないため、31段階あるこの世において、また繰り返す人生を送ることはない。
これらのサンカーラという思考や行動が輪廻を繰り返すからと言って、何も思考しないことを勧めているのではない。
ただ対象物を見ているだけならば、それは因果によるただのサンカーラsankhāraだが、その対象物を評価したり、どのように関わるかなどの意図があると、
それは強いサンカーラabhisankhāraになる。
これらのことを釈尊は「意図こそが原因kammaである」と言ったのである。
“cētana
ham Bhikkhave kamman vadami“
このようにkammaとは意図のことであり、この始まりはマインドを起点として実行される。
例えば、散歩するという意図を持ったとしてもこれだけでは将来におけるいかなる結果も生みはしない
結果を伴うことによってカンマははじめて成り立つものである。
nibbanaへの至る道のキーポイントは価値判断をやめること、そして感覚の喜びを感じることは避けることはできないが、
その喜びや悲しみに関して考えたり追求することをやめることである。
しかし、これはaniccā,dukkhā,anattāの体感を通じて、感覚の喜びに執着することは意味が無いことを深く感じるまではエネルギーがすべて消える心境は起きない。
したがって、無理な除去をするのではなく、急がば廻れに従って、固くなった回路を柔らかくすることから始めることになる。
その時に必要なのは、落ち着いた柔らかい暖かいゆるやかで軽やかな心と体である。
徳と強いサンカーラ
abhisaṅkhāraには、apuññaabhisaṅkhāra、puññaabhisaṅkhāra、āneñjaabhisaṅkhāraの3種類があります。
(a)称賛に値する徳のあるカルマ形成(puññ'ābhisankhāra)、
(b)称賛に値しない徳のないカルマ形成 (apuññ'abhisankhāra)、
(c)落ち着いたカルマ形成 (āneñj'ābhisankhāra) e.g. S.XII.51; D.33。
Āneñjaとは危機に動じない、落ち着いたという意味である。
またサンカーラには三界によって作られる種類が違い、それに従ってどのような精神状態になるかが決まる。
例えば、
apunnābhi sankhāraならば欲界 kāma lōkaの下部、
punnābhi sankhāraならば欲界の上部、
annejabhi sankhāraならば色界 rupa lōkaや無色界arupa lōkaという31段階の中で繰り返される。
サンカーラという回路の構成要素の最小単位はdhammāが集合したgatiなのだが、そこからbhūta、dhātuといった、より凝縮し、固形化する構成要素になる。
この構成要素によってサンカーラが作られ、その回路を使った出力は、その構成要素の領域に導かれる。
apunnābhi sankhāraの構成要素は粗いdhātu
punnābhi sankhāraの構成要素は細かいdhātu
annejabhi sankhāraの構成要素はbhūtaやgati
である。
The Five Aggregates (pañca khandha) |
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Form is derived from
the Four Great Elements. ·
Consciousness arises
from other aggregates. ·
Mental Factors arise from the Contact of |
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縁起説の中の行sankhāra
「行」と「識」の関係
縁起説の中での行sankhāraと識viññāna
意識の1つのタイプ(VipākaViññāṇa)は対象Ārammanaとともに発生する
私たちはマインドを自分のものと考える傾向があります。しかし実際には、私たちの意識は2つの条件に基づいて生じます。
まず、私たちは目を覚ましている必要があり、感覚イベントは6つの感覚の1つをトリガー(きっかけ)にする必要があります。
意識を失っている場合にはどんなに大声で話しても、本人には聞こえません。
第二に、私たちの6つの感覚の1つは、外部の視覚、音、匂い、味覚、触覚、または記憶によって刺激されなければなりません。
最初の5つは私たちの5つの物理的感覚を通してもたらされ、6つ目はマインドに直接に浮かぶ「想い」のことです。
新しい意識を開始する「外部トリガー」は対象(ārammana)と呼ばれます。
そのようなārammanaは、5つの物理的な感覚入力の1つを介して、または直接にマインドに浮かびます。
そして、6つの意識(viññāṇa)のうちの1つが発生します。
これらはvipāka viññāṇaです。結果としてもたらされた意識、という意味です。
それらは因果関係kamma vipākaによって、以前の原因kammaによって発生した果実vipākaです。
これらのvipāka viññāṇaは、たとえば、「Cakkhuñ ca paṭicca rūpe ca uppajjāti cakkhu viññāṇaṃ」によって発生します。
2番目のタイプの意識(KammaViññāṇa)は対象Ārammanaに基づいて発生する
外部にある「思考対象」ārammanaに関心がある場合は、その対象ārammanaについて意識的な思考の生成を開始します。
この時点で、私たちの意識は、kamma viññāṇaと呼ばれる新しいタイプに切り替わります。
それは、この新しい意識が単なる「意識」や「想い」や「気づき」以上のものだからです。
今、私たちは自分たちが見たり聞いたりしたことなどを追求し、「もっと何かを成し遂げる」ことに興味を持っています。
たとえば、友人がケーキを提供し、そのケーキの味がvipāka viññāṇaであるとします。
しかし、もし私たちがそのケーキへの渇望を生み出したなら、私たちは将来それをもう一度味わいたいと思うかもしれません。
どうやって買うか作るかを考え始めて、その2つの可能性について友達に聞いてみるかもしれません。
その将来の期待は、「avijjā paccayā saṅkhāra」と「saṅkhāra paccayā viññāṇa」を介して生成された新しいタイプのkamma
viññāṇaになります。
言い換えれば、今では「ケーキの味をただ体験する」というvipāka viññāṇaではなく、
私たちの意識的な思考(vaci saṅkhāra)によって生成されたkamma viññāṇaで、それを再び味わうことを将来期待しています。
これが縁起説PaṭiccaSamuppādaの1ステップであるviññāṇa、すなわちkamma viññāṇaです。
苦しみを生み出している根源は無明である。
この無明がサンカーラを生み出し、そのサンカーラはフィルターがかかってしまった「識」kamma viññānaを生みだす。
この「識」kamma viññānaが将来の期待を生み出し、この期待こそは「原因のエネルギーkammic energy」であり、
「何度でも繰り返し続ける閉ざされた輪 the
rebirth process」の外に出させないように押し込めている。
聖四諦の苦諦が理解できていない者は、(abhi)sankhāraを生成してしまう。
“avijjā
paccayā sankhāra”
そして(abhi)sankhāraによってkamma viññānaを生成してしまう。
“sankhāra
paccayā viññāna”
そして十二支縁起の説くように、最終的に多くの苦しみを産み続けてしまう。
どの経典であろうとも十二支縁起で説かれるviññānaとはmanō viññānaが「期待」という未来の原因を
サンカーラを通じて発生した kamma manō viññānaのことである。
マインド(kamma manō viññāna) が原因を生み出すパワー(エネルギー源)となり、「原因のエネルギー」、別名「因果の種」を生み出す。
もし昔の記憶dhammāや未来の期待をサンカーラを通じずに直接にマインドが感知した場合はフィルターのかかっていない純粋なmanō
viññānaである。
このようにしてマインドは将来について考え、言語化し、身体的行動をすることがある。
これらの vaci and kāya sankhāra
がパターン化されたフィルターのかかった「識」kamma viññānaとなる。
このkamma viññānaは、六感を通じてインプットされた魅力的な信号(画像、音、味、香り、感触、記憶、計画)に愛着を感じた時にだけに生まれる。
縁起説Paticca
Samuppādaとは、pati+iccaがsama+uppāda(顕れ出る)を導くという意味であり、
pati+iccaは意思によって愛着を持つ、という意味で、
sama+uppādaは呼応する存在が生起する、という意味を持つ。
ダンマとサンカーラの違い
私たちの意図、希望、や夢によって、思考や言語・イメージや身体的行動のサンカーラがうまれてくる。
これらのサンカーラはこの私たちの現在の思考によって生まれてくるものだということを理解することは重要である。
Dhammāはこの世に遍くエネルギーの元であり、この世のすべてのものはこのdhammāによって構成されている。
そしてdhammāの密度、凝縮度によってgati、bhūta、dhātuと大きな構成要素になる。
サンカーラも回路である以上、構成要素があり、それがdhammāエネルギーから成るgati、bhūta、dhātuのいずれかである。
微細な無色界には、大きな構成要素であるdhātuは存在しないので、dhātuで構成されるサンカーラ回路も存在しない。
輪廻について
sankata
強力で潜在的サンカーラ(abhi)sankhāraはパターン化されて自ら動くことはない対象を生起する。
これがsankataと呼ばれるものである。
建築の例えを使うと、manō
sankhāra, vaci sankhāra、kāya
sankhāraによって建てられた家がsankataである。
sankataとは san余分なものによってkata作られたもの、でsankataは次のsankataを作成し続け、これがこの世を継続するエネルギーとなる。
具体的には
(abhi)sankhāraはdhammāの一部である「原因の種」kamma bijaを生み出し、それは javana cittaにおいてエネルギーとなる。
すべてのdhammāがエネルギーになるわけではなく、たとえば記録nāma gottaもdhammāの一部であるが、
涅槃nibbāna以外では唯一エネルギーを持たないものである。
死の瞬間にはこのような「原因(カルマ)の種」kamma
bijaが表層意識のマインドにやってくる。
“manañca
paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ.”
この新しいviññānaが patisandhi viññāna 新生獲得意識と呼ばれるものである。
こうして、abhisankhāraの結果が新しい生命となる。abhisankhāraによって生成したので
この生命体もsankataと呼ばれる。
因果の法則により後にsankataが生まれるのである。
徳の高いpunna abhisankhāraは良い「原因の種」になり、その結果、よい転生になり、
徳のないapunna
abhisankhāraは悪い「原因の種」になり、その結果、悪い転生になる。
このabhisankhāraがマインドとのモノとをつなぐ鍵となる。
abhisankhāraがsankataを生み出すのだが、sankataはモノに限定されるのではなく生命体も含む。
私たちが体験している見えるもの、音、匂い、味、感触というすべての物質は一言でいうとsankataである。
ポイントは思考、言語・イメージ、身体的行動という(abhi)sankhāraを通して、私たちは未来を作り上げているということである。
非我annataとdhammā
長い目で見ればsankhāra(将来の計画)はうまく行かず、結局は苦しみに導くだけなので、sankhāraは役に立たない。
この長期の視点に立つ(長い目で見る)、ということが非我annataの境地に入る第一歩目になる。
sankhāraはこの世の特徴であるaniccā,dukkhā,anattāの3つを持っているが、
それに対して、記録nāma
gotta はエネルギーを持たないので、anicca やdukkhaの性質を持たないので、苦しみには導かないが、
それでいてdhammāの世界のものは実体を持たないので、非我すなわち、実体がないというanattāという特徴はある。
釈尊の最後の言葉は
「サンカーラによって築かれエネルギーがあるものは崩壊していきます、だから遅延なくsanを整理しなさい」
“Vaya dhammā
sankhāra, appamādena sampādēta.
Dīgha Nikāya 16 Mahāparinibbānasutta経蔵長部第16経大般涅槃経『南伝大蔵経』第7巻144頁
釈尊は、すべてのsankhāraはdhammāの崩壊に結びつくものであり、そのサンカーラを生むものは実体がないものを実体があると誤謬することに起因するので、
sankhāraが何であるのかを、よく理解するように諭した。
実体がないanattāもの、を実体があるattāもの、と誤謬しているのは、この「わたし」である。
このような望むことの反対側の結果に導く「わたし」の終焉と「本来のわたし」の確立を提示している。
sampādētaとは、「san(加算してしまったもの)をpādēta(解決する、向き合い、歩み、気づき続ける)」ことで、
Sanを気づき続ける者が、sampajannō、すなわち、自分の思考や思想や見解が無常であること感じ続ける存在になれることを意味している。
これは何が正しく何が間違っているのかを判断するのではなく、ただサンカーラによって生まれ消えいていくプロセスに気づいていることを意味する。
ところで涅槃とは宇宙で唯一の実質であり原因をもたないものであるので、asankata (“a”
+ “sankata”)
と呼ばれている。全ての原因を消し去った瞬間者だけに至ることができる境地である。
記憶nāma
gotta
Najirati Sutta不老朽(SN 1.76)の中で記憶nāma gotta について説いている。
「物質は老朽 jiratiして崩壊maccanamするが、記憶は老朽nāma gottaすることがない。
“Rūpaṃ
jīrati maccānaṃ, nāmagottaṃ na jīrati,”
この不朽のnāma gottaによって、始まりのない時間から現世にいたる前世にアクセスする。
Dhammāが私たちの未来を創造する原因になっている。
そしてこのDhammāがすべての苦しみをもたらす。
実体を持たない記憶、paññāti智慧はDhammāの一部であり、これらは全て非我である。
涅槃に至る釈尊の教えBuddha Dhammaでさえ、アラハンになる時には捨て去るものである。
対岸に渡る時に必要にした筏さえ、この先では筏を背負う必要がないように。
参考資料
sankhāra
(“san” + “kāra”, where “kāra” or “kriya” is
action
sankhāra mental conditioning パターン化されたマインドのプログラム
in contrast to vipāka viññāna, kamma viññāna arise
via “sankhāra paccaya viññāna“.
Sankhāra
– What It Really Means
Correct
Meaning of Vacī Sankhāra
Difference
Between Dhammā and Sankhāra
Sankhāra,
Kamma, Kamma Beeja, Kamma Vipāka
Dhammā,
Kamma, Saṅkhāra, Mind – Critical Connections
Kamma
are Done with Sankhāra – Types of Sankhāra
Complexity
of the Mind – Viññāna and Sankhāra
Aniccā
vata Sankhārā…