「意」から生まれる物質エネルギー

 

 

はじめに

宇宙創世神話

科学における意識と物質の関係のリンク

4つの世界                 涅槃nibbāna 心citta  心所 cetasika  物質エネルギーrūpa

宇宙にあまねく創造物、dhammāエネルギー

意識体から生まれる物質のプロセス

 

 

はじめに

物質は意識から生まれる、と言われても、そんなことを言う人の思考回路を心配したり、

もしくは戸惑いを感じて回避をするのが現代文明圏の居住者にとって健全な反応でしょう。

 

しかし、意識と物質の関係はそれほど突飛なものではなく、私たちの日常生活ではすでに活用されている領域の話です。

 

たとえば、脳波。

人間の脳の活動すると、脳を構成している神経細胞間での微弱な電気信号のやり取りによって行われるので、

それを読み取り、波の形で可視化したものです。

α(アルファ)波とは8-13Hzの周波数のことで、これを基準にして、周波数の高いものを速波(β(ベータ)波13-30Hz

γ(ガンマ)波31Hz〜)、低いものを徐波(θ(シータ)波47Hz、δ(デルタ)波4Hz未満)と呼んでいます。この周波数とは1秒間に繰り返される電磁波の周期のことなので、そこに電磁波というエネルギーが発されていることが知られています。

このように人が何かを意識したらそれが、数値化できるエネルギーとなります。

物理学のE=mc2で示されるように、エネルギーとは物質の一部なので、はじめの「意識と物質の関係」を使った計器がいろいろあります。

また、脳の電磁波を測定するMRI検査をした人も少なくはないと思います。

動物界でも意識と物質の関係はよく見られることで、たとえば托卵といってカッコウが他の種類の鳥に自分が産んだ卵を孵化してもらう時に、その巣にある卵の柄を見て、それに類似した卵を産み落とします。

カメレオンは見た色や柄に合わせて皮膚の色を変化させます。

これらは見るという「意識」によって、卵や皮膚という「物質」を変化させています。

他にも意識と物質のわかりやすい例があれば教えて下さい。 タコ

 

量子力学でも、ヤングの実験の応用で、「観る」ことによって、光子が波動性から粒子に変換される実験が証明されています。

また1932年には対生成Pair productionと言われるエネルギーから物質(粒子と反粒子)が生成する自然現象がカール・デイヴィッド・アンダーソンの電子対生成発見によって立証され、その後の加速器実験により、各中間子やミュー粒子、陽子についても観測されています。逆反応は対消滅annihilation

 

果たして意識はエネルギーなのでしょうか?

 

このように「意識と物質の関係性」を見てみると「物質(エネルギー)は意識からうみだされる」という説もそれほど突飛ではないことだと思います。

 

この世で、意識から物質が生まれるという話が一番よく見られるのが「神話」ではないでしょうか?

どの神話もカミさまという、人よりも大いなる存在の意識が、次々と宇宙(物質)を創り出していくお話です。

この大いなる存在の意識のことを、私たちの意識とは区別するために「意」とこのエッセイでは呼ぶことにします。

 

このエッセイでは

はじめにインドの宇宙創世神話、

次に科学実験のリンク

最後にパーリ経典三蔵における宇宙の「意」やヒトの意識がどのような順番でエネルギーそして物質を生み出していったのかを考察してみます。

 

 

 

 

 

 

賢者の宇宙観と意識観

 

先達の賢人たちが行っているのは、「生命の誕生の流れ」を経験し、それを遡及する体感をすることです。

特に個の消滅は物質すなわち地球の元素に解体され、それは宇宙のエネルギーに溶解していくものだと観ることもできるので、

自分という個の消滅を詳細に理解するために、宇宙や地球や生命体の誕生に強い関心が持たれてきました。

 

賢人は、自分の意識の奥底へ深く沈潜し、何層にもなった世界を順番にくまなく次々と探索します。

その時にコンパスの指針となる地図が2種類あります。

1つは生命体の誕生から死に至るまでのプロセスであり、それを知り、それを遡ることが、

自分の奥底にある何層にもなっている意識と深く対応する関係であることを経験しているからです。

 

そして2つ目は、生命体の誕生から死に至るプロセスは宇宙の誕生からからの進展のプロセスにも共通点があり、

宇宙の誕生を知ることで、己の何層にも連なる意識を遡及するマップとなることを直観しているからです。

つまり宇宙観(コスモロジー)とはその人やその文化の死生観でもあるのです。

 

誕生のプロセスを順序正しく儀式を通じて進めていくのは、体感として経験にするためであり、

次にそれを遡及する儀式を通して、自己の意識の奥底に沈潜していきます。

 

先達たちのチャレンジは聖典や聖書として残され、その教えを代々と引き継ぐ人々がいることで、

私たちは宇宙創生のイベントや歴史を知ることができます。

宇宙創造の実体感がなくても、これらを習うことで、自己熟慮や沈思黙考や観想や観照や内観洞察や修行や瞑想をとおして、

これらを体感する「地図」とすることができます。

 

 

インドの宇宙創造

絶対者ブラフマンbrahmanが根本自性prakritiを観ることで、

バランスが取れていた3徳性guaが動き出し、

mahā ākāsh時間・空間・方向が現われた。

大なる実在原理mahatは大善性mahat sattwaと大動性mahat jajasと大暗性mahat tamasの3つである。

大善性mahat sattwaからは宇宙心素samashti chitta

大動性mahat jajasからは宇宙理智samashti buddhi

大暗性mahat tamasからは宇宙我執samashti ahamkāraが具象化した。

宇宙我執samashti ahamkāraにも3徳性があるので

善性我執からは宇宙微細知覚器官samashti jñānendriya

善・動性我執からは宇宙意思samashti manas

動性我執からは宇宙微細運動器官samashti karmendriya

暗性我執からは微細元素tanmātrā

そして最後に、微細元素tanmātrāからは粗雑元素bhūtaが生じ、

ここから星々や惑星や衛星が生まれては消滅を繰り返している。

 

 

 

大宇宙の構成要素と内的心理器官に関する創造原理

 

 

宇宙マクロ

宇宙原理

宇宙具象化

宇宙我執

個ミクロ

内容

絶対者ブラフマン

Brahman

 

 

 

purua

ātman

 

根本自性

prakriti

 

 

 

prakriti

 

mahā ākāsh

時間

空間

方向

 

 

 

 

 

大なる実在原理

 

3徳性gua

mahat

 

mahat sattwa

mahat jajas

mahat tamas

実在

 

大善性

大動性

大暗性

 

 

sattwa

jajas

tamas

 

 

心素

chitta

大善性

 

宇宙心素samashti

 

心素

chitta

 

理智

buddhi

大動性

 

宇宙理智

samashti

 

理智

buddhi

 

我執

ahamkāra

大暗性

 

宇宙我執

samashti

 

我執

ahamkāra

 

 

 

 

 

 

 

 

微細知覚器官

jñānendriya

 

善性我執

 

5宇宙知覚器官samashti

5微細知覚器官

眼耳鼻舌身

意思

manas

 

善・動性

我執

宇宙意思

samashti

意思

manas

 

微細運動器官

karmendriya

 

動性我執

5宇宙運動

器官samashti

5微細運動器官

口語、手、足、排出、生殖

微細元素

tanmātrā

仏教のbhūta

 

暗性我執

5微細元素

微細世界の万物

 

粗雑元素

bhūta

仏教のdhātu

 

 

 

5粗雑元素

粗雑世界の万物

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次に地球における個体の生命体では

真我purushaātmanによって

根本自性prakritiは内部の3徳性gunaのバランスが崩れることで、

善性sattwaからは心素chitta

動性jajasからは理智buddhi

暗性tamasからは我執ahamkāraが生じ、

我執ahamkāraにも3徳性があるので

善性我執からは微細知覚器官jñānendriya

善・動性我執からは意思manas

動性我執からは微細運動器官karmendriya

暗性我執からは微細元素tanmātrā

微細元素tanmātrāからは粗雑元素bhūta

最後に地球元素に内在して生物になった。

 

これを発生した意識の順序に並べ、現代用語での表現を試みると

 

 

 

 

 

 

真我puruaātman)              

 

真我意識

観照するだけだが、唯一の実体

 

根本prakrit

根本意識

変化はするがエネルギーはない

 

prakriti

sattwajajastamas)      

真空意識 

カタチはないがdhammāエネルギーの塊

3つの徳性のバランスが崩れてエネルギー創出

 

心素chitta                   

 

全体性意識

善性   精神性に抽象度を上げる、

 

理智buddhi                    

 

分別意識

動性   知を使って1を2にする

 

我執ahamkāra                  

 

枠組意識

暗性   具象化することで抽象度を下げる

dhammāの塊がgatiが構成される

 

微細知覚器官

jñānendriya                   

直観意識

微細エネルギーのレベルで差異を知覚する   

視覚と聴覚のみで、嗅覚、味覚、触覚はない

 

意思manas                                 

 

共通意識

2つをつなげるために共通点にスポットライトを当てる

 

微細運動器官

karmendriya                   

運動意識

微細エネルギーと身体の連動を体感

 

個我jīva                     

 

統合意識

アイデンティ

分類をまとめて統合する

 

微細元素tanmātrā                          

仏教でいうbhūtaのレベル 

概念意識

一般化、概念化、シンボル化する

 

粗雑元素                           

rūpaの中の細かいdhātu 

潜在意識

パターン認識する

 

物質

rūpaの中の粗いdhātu                    

表層意識

差異にスポットライトを当てる5感覚器官と心の認識

 

上座部仏教の9段階のcitta(心)

 

 上座部仏教

 内容

 説明

サーンキヤ派

意識

 

 

 

 

 

citta

知る機能

白いキャンバス

prakrit

根本空

根本意識

真空意識

manō

全体像を把握

全体性機能 paññā

chitta心素

全体性意識

mānasam

 

分割して「知る」根源状態

阿羅漢はこの段階までしか認識しない

buddhi

理智

分別意識

hadaya

自我認識

私の・・・

私という枠組みの内と外

saññāの生成と執着が始まる

ahakāra

我執

枠組意識

paṇḍara

エネルギー増大

bhūtaレベルの微細要素を認識

執着に多くのエネルギーを割当てる

jñānendriya

微細知覚器官

直観意識

manōmanāyatanam

±のタグが付加

対象に受容的or反発的or中立な心

manas意思

近遠意識

 mānaindriyam

 意識エネルギー

対象に対する執着の力が強化する

karmendriya

微細運動器官

運動意識

viññāna

分割された智慧

日常の認識

智慧が除去された部分的認識と統合

世俗的な欲求・渇望

jīva

個我

統合意識

viññākkhandō

思考、記憶、空想

愛着を強め、現状を評価し、将来への新しい希望と計画のパターン認識

tanmātrā

微細元素

回路意識

 

上座部仏教の論蔵にある9段階のcittaの変化プロセスも宇宙コスモロジーに対応して説明できるとおもいます。

cittamanōmānasamhadayapaṇḍaramanōmanāyatanammānaindriyamviññānaviññākkhandō

 

 

 

 

 

これを発生した意識の順序に並べ、現代用語での表現を試みると

 

 

 

 

 

 

真我puruaātman)              

 

真我意識

観照するだけだが、唯一の実体

 

根本prakrit

prakriti

sattwajajastamas

根本意識

真空意識

定まったカタチはなくdhammāエネルギーの塊

3つの徳性のバランスが崩れるとカタチが創出する

 

心素chitta                   

全体性意識

善性 より微細なモノに抽象度を上げる機能をもつ

 

理智buddhi                    

 

分別意識

動性  知を使って1を2にする機能

 

我執ahamkāra                  

 

枠組意識

暗性   具象化することで抽象度を下げる

dhammāの塊がgatiが構成される

 

微細知覚器官

jñānendriya                   

直観意識

微細エネルギーのレベルで差異を知覚する   

視覚と聴覚のみで、嗅覚、味覚、触覚はない

 

意思manas                                 

近遠意識

対象に対する感覚に±or中立のタグを貼る

2つをつなげるために共通点にスポットライトを当てる

 

微細運動器官

karmendriya                   

運動意識

微細エネルギーと身体の連動を体感

 

個我jīva                     

統合意識

アイデンティ

分類したものをまとめてあげて統合する

 

微細元素tanmātrā                          

仏教でいうbhūtaのレベル 

回路意識

パターン認識するアプリを作成する

 

粗雑元素                           

rūpaの中の細かいdhātu 

概念意識

一般化、概念化、シンボル化する

 

物質rūpaの中の粗いdhātu 

五感覚器官の信号が基盤                   

自我意識

差異にスポットライトを当てる5感覚器官と心による認識手段

 

他者の意識をも信号に含有

自己意識

他者を含めた「自分」を主体として、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する子供の意識

 

 

 

これをヒトの誕生から具体化する流れでの表現を試みると、

 

まずはヒト以前にある意識では、

ゼロ意識  エネルギーを少しも持たない意識の外側にあるモノ

宇宙意識  受精以前からあるエネルギーをもつ宇宙の意識

霊魂意識  メンタル体がもつ「いのち」の意識

 

次のヒトの意識では、

真我意識  受精の瞬間に生じる個がはじめて持つ純粋意識  

真空意識  受精の瞬間の意識  定まるカタチはないが「いのち」そのものとなる意識

全体性意識 受精直後の意識   カタチはあるが境界線がまだ確定されていない意識

分別意識  細胞分裂後の意識  外部(母体や自分の身体)の信号を体感する胎児

枠組意識  外界と自分の意識との間に違いがあることを内胚葉の蠕動で認識しはじめる胎児の意識 

直観意識  眼耳鼻舌身の感覚器官からではなく、微細な波動を直截に認識する胎児の意識

近遠意識  中胚葉(循環器系器官)で外部の波長と同調することで対象と共通性と近遠を付加する胎児の意識 

行動意識  自分の微細体と肉体がつながっていることがわかり、肉体を意識的に動かす胎児の意識

統合意識  内//外胚葉が器官となり、信号の差異を把握して、それらをまとめて統合する新生児の意識

回路意識  パターン認識  インプット信号に対応する自動反応回路で世界を認識する乳児の意識

概念意識  シンボリズム認識  外界の信号をシンボルとして認識する幼児の意識

自我意識  「自分」という主体を基準にして、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する幼児の意識  

自己意識  他者を含めた「自分」を主体として、感覚器官を通じて外界からの信号を認識する子供の意識

 

 

 

サーンキヤ

インド哲学

意識

ヒトの誕生

 唯識派

パラアートマンparamātman

ブラフマン

 宇宙意識

 

涅槃  絶対者

プルシャpurua

自己

atman

 

真我意識 

エネルギーを持たない意識

 

受精の瞬間

変化のない実体  

観照するだけ 

プラクリティ

prakti

原質、自性

真空意識   

根源意識

カタチはないがエネルギーをもつ意識の原形

超感性的な根本物質自性エネルギー

chitta

心素

 

全体感意識

カタチはあるが、境界線がまだ確定されていない意識

 

buddhi

理智

分別意識  

外部(母体や自分の身体)の信号を体感する胎児

 

様々な階層の認識に分離する

思惟機能 識viññāna

阿頼耶識    知る根源状態

アハンカーラ

Ahakāra

我執

枠組意識  

複数の波動で立体的に認識

内胚葉の蠕動で認識する受精数週間後の胎児

感覚器官と心による認識

自我意識

末那識

Jñānendriya

ジュニャーネンドリヤ

五感覚器官

 

直観意識

微細な波動を直截に認識する胎児

意識

マナス

manas

共通意識  

中胚葉の波動で認識する

新生児

 意識

カルメンドリヤKarmendriya

五行為器官

行動意識

自分の意識と体がつながっていることを認識する

手足性泄発声

ジーバjīva

 

個我

統合意識

信号をまとめて認識する

 

 

 

 

 

 

タマントーラ

Tanmātra

五唯(五境)

五大

概念意識  

シンボリズム  

一般化、言語化

外界の信号をシンボルとして認識する乳児

 

粗雑元素bhūta             潜在意識         

                       

潜在意識  

パターン認識 

 

 

外界の信号がインプットされるとアウトプットが対応する自動反応回路で世界を認識する 乳児から幼児

 前意識

物質rūpa

 

表層意識

こうして自意識が目ざめ、言語学習もはじまる。

「自分」という主体を使って感覚器官を通して外界からの信号を認識する幼児

 

 

 

 

 

 

 

 

 

科学における意識が物質になるお話

意識エネルギー       Psycho精神「kinesis動き Tele遠方    意識の力

意識がエネルギーに影響を与える、というエッセイのリンクです。

もし意識が対象に何かしらの影響を与えているのならば、2つの間には共通項があるということですから、

物質がエネルギーの一部であるように、意識そのものもエネルギーの一部である、ということになります。

 

意識が事実を変える

意識と量子エネルギー   量子脳理論 意識には量子力学の性質がある Quantum consciousness

物理学者の目指す万物の理論ToE    重力と意識エネルギーの関係性

アフォーダンス理論 私がすることはなく、主格一致で行為が実践される  頭脳を経由しない行為

意識の内側と外側    意識のエッセイ

音と意識    チャクラと波動の関係性 OM    音響免疫療法 西堀貞夫  

三木成夫  「個体発生は系統発生を繰り返す」ヘッケル    

不思議体験のメカニズムと実践法   意識の層

サーンキヤ学派の特徴

意識と本質 井筒俊彦

無意識と自己意識の脳 ダマシオ  The Feeling of What Happens

日本人はなぜ狐を信仰するのか  松村潔       上と下の世界とつながる中和の術

ヘミシンク   表層意識から真我まで

カルダシェフ・スケール (The Kardashev scale) 文明の段階    

 

 

 

パーリ経典の三蔵における意識と物質の関係性

こうして、わかっているのは、上記のエネルギーと意識の関係性は、実験の結果として現象として理解できますが、

これらの詳細なメカニズムについてはまだわかっていません。

ところが、この2つの関係性を詳細に記述したものがありました。

 

それがパーリ経典の三蔵です。

経蔵、律蔵、論蔵には、この2つの関係をこと細やかに説いています。

釈尊やその弟子たちは科学好きでこのようなことを記述したのではなく、苦しみから離脱する方法をいろいろと探求していたら、

発見したメカニズムの数々です。

この2つの関係がわかり、意識を変えることで、苦しみから離脱できると釈尊は体験し、それを生涯かけて人々に伝えました。

それはエネルギーを基準にすることで成立するこの世と、それに由来する誤謬と苦しみ、そしてそこからの離脱法を説いたものです。

 

ですから仏法Buddha Dhammadhammaをこの宇宙にあまねくdhammāエネルギーとして捉えると、

仏法はエネルギーの性質やメカニズムを明解にすることで、この世の仕組みを解説し、

苦しみから離脱する生き方に導く「エネルギーを理解することで至ることのできる救済論」である、とも言えます。

 

 

 

 

物質の起源

すべての物質が何らかの方法で創造されたことを受け入れる場合、物質の起源とは何でしょうか?

現代科学では宇宙のすべての問題は、約140億年前の「ビッグバン」で発生したと考えられています。

科学者はビッグバン後のほんの一瞬から宇宙の進化を計算できますが、

物理学はビッグバンの前に何が起こったかを説明することはできません。

そして多くの科学者は「ビッグバン理論」を信じていますが、まだ完全には確認されてはいません。

一部の科学者は、ビッグバンですべてが突然「出現した」したとは考えていません。

彼らは、宇宙は周期的であると考えています。

それらは変化し進化しているということです。

たとえば、P.J. Steinhardt and N. Turok2007)の「Endless Universe-Beyond the Big Bang」などを参照してください。

科学は物質エネルギーの数値化によって成り立つ世界観でこの世をマッピングする努力を続けています。

 

対して体感派は、自分自身で感じたことを基準にして、この世をマッピングしているので、

切り口(知)が違うので、そこから生じる知識も違うものになります。

 

では物質の起源とこの世の起源は同じものなのでしょうか?

体感派は科学派とは違う切り口を使って、この世を体感します。

 

体感派は一般的には宗教者と呼ばれる人たちのこの世の理解の仕方です。

パーリ語経典では

この世界を4つに区分して、すべのものはこのどこかに区分することを前提にして話を進めていきます。

これを勝義諦 paramattha saccaと呼ぶのですが、それは、数学でいう2つの直線が交わるところを点と呼ぶ、

などといった公理と同様、絶対の前提条件です。

ですから仏教の話を聞くならばここから受け入れるしかありません。

ピンとこないのならばやめるしかありません。

たとえば、数学が嫌ならば教科書を開けなければ良いように。

 

 

4つの究極の現実(paramatthathō):勝義諦

 

勝義諦からみたこの世は4つだけ      Abhidhammattha Sagaha、摂阿毘達磨義論

Tattha vutt' abhidhammatthā - catudhā paramatthato

Cittam cetasikam rūpam - Nibbānam' iti sabbathā.

ここに言われるアビダンマの義は、勝義としては、全部で「心」「心所」「色」「涅槃」の4種類である。

 

パーリ経典では世界を以下の4つに分けて、すべてのものはこのどこかに属すると考えます。

dhammāはどこに属するのか?      rūpa 

kamma bījaはどこに属するのか?  rūpa

arūpa界はどこに属するのか?   四大元素はrūpa生命体はcittahadaya vatthu cētasika

cittaはエネルギーがあるのか?

 

 

これを解釈してみます。この解釈が曲者で、ここから誤謬が生まれます。

しかしこれがないと各自の解釈に委ねるしかないので、ここは一つの物語として聴いてみてください。

各賢人の解釈も分かり次第、追記します。

 

Nibbāna           エネルギーのない世界   「意」のふるさと

認識する機能(citta)    「いのち」と記録

メンタル的要因(cētasika)  エネルギーのある意識世界   いろいろな心の様子    

物質(rūpa)、        物質エネルギー世界

 

そしてnibbānaからcittacittaからcētasikacētasika からrūpaが生まれ、

創造されたものが、このプロセスを遡ることを「道」とよびます。

 

Citta   心  認識機能

認識する働き、すなわち認識機能のこと。 5つの感覚器官と意識の6種類の認識する働き

内外の物事を感じ、気づき、察知する働き

 

Cetasika  心所   認識と一緒に生まれる感情   心に生まれる状態

花を見れば、見る働きで認識する(citta)だけではなく、きれい、だとか嫌いだとか、それを限定する感覚が伴い、

心の感情が変化する。いろいろなものが心に生まれる。明るさ、喜び、悩み、苦しみ、眠気などあらゆる感情がすべてCetasika

「覚りの智慧」も心に生まれる状態なのでCetasika

善悪に関わらず心に生まれる一切の感情

 

rūpa    色    認識するための機械

認識するためのカタチである物質エネルギー   内側の身体、外側の物質エネルギー

内側の主観的な物質エネルギーである身体 と 外側の客観的な物質エネルギーである現象の二種類がある。

 

この3つの別名はloka-sacca世間諦)で、この世はこの3つだけで、それ以外はない。

この3つの中で生きている存在が我々だというのが勝義諦の真実である。

もし、この3つの働きが止まったら、この世間諦から離脱することになり、それをlokuttara-sacca出世間諦という。

認識機能が止まった時空なので認識できない。

 

Nibbāna   涅槃

上記の3つの常変を体感することで、何ものにも囚われる意味などはないという智慧の感情が生まれる。

そしてそこから離脱することができたら、それが涅槃である。

 

エネルギーのない世界。

三相を把握した後に、この転生プロセスの危険を見ると、abhisankhāraを介して作っていた31領域に留まる原因を認識し、そこから離れるために、欲求や愛着(tanhā)を放棄します、これがNibbānaに導きます。

 

Nibbānaは、これらのすべての原因が取り除かれた場合に発生し、そこにはrūpaはもう発生しません。

したがってNibbānaは永続的です。もう苦しむ必要はなくなります。

Nibbānaにはdhammāsankataもエネルギーもない。

「この物質的な世界のすべてに飽きて諦め関心をなくす」ことによって達成されるNibbānaのみがattaすなわち「価値のある」もの

 

 

実践方法 

ヴィパッサナー瞑想で、認識機能を一つづつ察知していく。ものごとそのものを感じるのではなく、見えている、聞こえている、

という見る機能、聞く機能そのものを気づき続ける。

たとえば、ある音(鶯の鳴声)があって、それが聞こえた、そうしたら心が反応して反応(嬉しさ)が生まれてきた、

という一つづつの事実関係を把握することで、認識の仕組みを体で(クセとして)納得し続ける。

このような認識の仕組みが常変でありことを体感し続けると、心が変化する。

この変化のほんの瞬間において、現象から離脱する状態を体感する。

この瞬間が涅槃である。

だから認識の外側にあるものなので、日常の五感器官とマインドによる認識能力では捉えることができないものである。

真に悟った者はこのエネルギーのない世界を一瞬の出来事ではなく、日常の基準にして生きる。

 

 

 

パーリ経典の4つの区分に対応する伝統的な日本の概念は、霊と魂と心と物です。

この4つはお互いに影響を与え、相互作用していますが、このように分けて表現することも可能です。

 

霊とは、大いなるもの、カミさま、などと呼ばれているこの世界にあまねくあります。

魂とは、霊の一部が膜に入った「いのち」とそれによって生じたエネルギーである「光」と「カタチ」です。

心とは魂が物とつながり、架け橋の機能を担当するマインドが玉座にすわるメンタル界のことです。

物とは霊と魂と心によって作られたエネルギーとそれが凝縮されて物質と呼ばれているモノたちのことです。

 

これから先は原典のパーリ語に則して話を進めていきますが、知らない用語で整理しづらくなった時には、

上記の霊魂心物に置き換えて理解してみてください。

 

 

 

欧米の伝統

spirit

soul

mind

subtle body

body

 

日本の伝統

 

 

 

 

 

 

 

 

H2Oの喩え

大気圏外

大気 分子

水蒸気

 

 

 

 

 

 

 

 

ある都会人の枠組

不可知

不可知

マインド

エネルギー

物質

 

科学界

 

不可知

マインド

エネルギー

物質

 

学問

宇宙論

量子力学

心理学

相対性理論学

物理学

 

 

 

 

 

 

 

 

先住民・賢人

流動体

肉体

 

霊界

霊と微細エネルギー

物質微細エネルギー

物質エネルギー

物質

 

 

 

 

 

 

 

 

パーリ語での仏教

nibbāna

citta

cetasika

 

rūpa

 

サーンキヤ学派

brahman

ブラーフマ

parātman

ātman

chitta

ahankāra

buddhi

manas

微細運動器官karmendriya

微細知覚器官

jñānendriya

 

微細元素

tanmātrā

粗大元素bhūta

dhātu

 

ヨーガ派

 

 Anandamaya kosha,

"bliss" sheath (Ananda)

純粋な意識からできている

アーナンダ(歓喜)に満ちた場所

 

Manomaya kosha "mind" sheath (Manas)

(意思鞘)    

感情と思考

Vijñānamaya kosha

Knowing"理智鞘

感情や行動の基準を決定する知性

 

prāamaya kosha

 (生気鞘)       プラーナ

生命エネルギー

annamaya kosha (食物鞘)         

アンナ(食べ物)

からでき、目に見え、触れることのできる身体

  

 

 

パンチャコーシャ

人間五身体説

絶対者

ブラーフマン

アーナンダマヤ

心 heart

マノマヤ

大脳 mind 

ヴィジュナナマヤ 理智、知性

プラーナマヤ

生気

アナマヤ

食物・物質 

 

3身体シャリーラ

カーラナ

スークシャマ

スークシャマ

スークシャマ

ストゥーラ

 

神智学

カミ

コーザル体

アストラル体

メンタル体

エーテル体

肉体

 

霊・幽・肉

霊体

幽体

幽体

肉体

 

 

 

 

 

 

 

 

 

仏教では魂やātmanを認めない教義を大事にする派もあるので、単純にcittaを魂に置き換えているのではありません。

9段階に変化するcittacittaとエネルギーの関係、ātmanahankāhaとの関連性、純粋なるcittaPabhassara Citta

sk.chittaとの違い、記録namāgottamano界、cittaの普遍メンタル要因である想saññā

prakritiを観る前と観た後の世界など詳細する必要があるので他のエッセイで詳細を考察します。

 

 

 

 

sankata   abhisankhāraによってできたrūpa物質エネルギー

 

Nibbanaは、唯一のsankataでないものであり、「この世の31領域」である宇宙に属していません。

nibbhana以外のものがsankataです。

 

sankataには始まりがあり、存在中に予測不可能な形で変化し(viparinama)、最終的には存在しなくなります。

この宇宙のすべては、sankataです。つまり、始まりと終わりがあります。

換言すれば、始まりと終わりを繰り返します。

したがってその起源は「始まりなき周期」と呼ばれます。

 

アインシュタインは私たちの宇宙は定常状態にあると考えました。

もしそのように証明された場合は、これは仏法と矛盾する可能性があります。

しかし今では、この宇宙には永遠に続くものはない、と修正されています。そして、すべてが流動的に変化しています。

そして、これは過去100年ほどの間に科学によって確認されました。

しかしビッグバンという始源がある説と終始を繰り返すという説があります。

 

 

Dhammā  この世(31領域)を構成するエネルギー

nibbhana以外のものがsankataであり、それはdhammāというエネルギーによって構成されている。

換言すると、dhammāがないのは涅槃nibbānaだけ。

 

Dhammā(末尾に長い「a」が付いている)は、「意」とマインドが生み出したエネルギー

カルマの種子kamma bijaとも呼ばれます。すなわちエネルギーが育成する芯のようなものです。

 

釈尊の教えとしてのブッダ・ダンマと混同しないために、あえて物質としてのダンマと記すが、

正確には、ダンマはエネルギーである。

 

量子力学では光子も素粒子の一つであると説明されるが、このdhammāは光子(photonよりもはるかに微細で、

まだsuddhāshtakaステージ(物質の最小単位)に「凝縮」されていない。

suddhanshtakaとは、最小の物質単位(現代科学では原子より10億倍ほど小さい)のこと。

 

 

dhammāは「意」によって創出する。

宇宙に始まりと終わりがあるのではなく、伸縮が周期的に繰り返されるとするコスモロジーの中では、

宇宙がカタチになる次元は宇宙の「意」によって成り立っている、と体感する。

「意」がprakriti(根本自性、あるいは自分自身)を観照すると、それまでエネルギーのなかった根本自性に動きが生まれ、

そこから時間と空間と方向性(流れ)が生じる。

インド哲学ではこの動きを「3つのグナ(徳性)のバランスが静から動に転じた」と表現する。

換言すれば、この宇宙の「意」が観ることによって対象が生じ、その対象とはエネルギー、つまりdhammāのことである。

この「意」の働きは宇宙だけのものではなく、あらゆる意識体がもつ力である。

意識体の1つであるヒトも「意」をスポットライトを当てるように照射すると、対象からdhammāエネルギーが生じる。

ヒトの場合はこの「意」を意識と呼ぶ。

 

ヒトの意識過程の17連続する心路citta vithijavanaステージで「因果の種」として生成されるのがdhammāである。

 

dhammāが集まることで、gatiというエネルギー体ができ、この塊のために、dhammāの流れに方向性が生じる。

 

 

これが

「全てモノには「意」が先行している」

manō pubbangamā dhammā…” 法句経(Dhammapada verses 1 and 2

という釈尊の教えの深層の意味である。

 

ヒトは五感器官から信号を遮断される環境になると、このdhammāがマインドの感覚器官mano indriyaによって察知され、

想いや想起や思いつきやランダムな思考や夢やが起こり、過去の出来事や未来の計画をマインドで「上演」する。

 

このマインドが体験をすると顕れる物質エネルギーrūpadhammāである。

dhammārūpaに含まれるという区分がされるときもあるが、rūpaほど密度が濃くないのでカタチになっておらず、

rūpaは物質界に属しているが、dhammāはメンタル界に属していると定義される。

 

このような原因をつくることによってdhammāは育ち、やがてdhammāgathiもしくはgatiと呼ばれるエネルギーの塊になり、

その塊によりdhammāの流れに影響を与える。

これを「向き、性向、偏向」と呼ぶ。

ヒトに対応するときにはこのgatiは特徴、特質、性格、習性、キャラクターとして理解される。

 

 

 

kamma Viññāa

ヒトば創出するdhammākamma Viññāaである。

エネルギーを持つ意識のことで、行sankhāraを経由した信号は識viññānaの機能で、kamma Viññāaが生成される。

このkamma Viññāaが集まると「カルマの種 kamma bīja」ができる

カルマの種は潜在意識で待機しており、条件が揃うとカタチとなり顕出される。

つまりkamma Viññāaが未来を作り出している。

 

kamma Viññāaとは、マインドと物質のリンクであり、

マインドによって作られたsuddhāshtakaステージの塊に至らぬ物質エネルギーdhammāである。
ポイントは、kamma viññānaは完全なメンタルではなく、物質エネルギーでもあるといということ。

 

縁起PaticcaSamuppādaにおける「viññāna paccayā nāmarūpa」とは、ここがメンタルからrūpaへの接続点である。

viññāaが強くなるにつれてviññāna paccayā nāmarūpanāmarūpaは強化される。

このnāmarūpaとは、マインド・エネルギーによって作成されたrūpa(物質エネルギー)の最初の段階で、viññānaはこの仲介として機能する。

 

マインドに付着するものがあると、エネルギー(つまり、kamma beejaすなわちdhammā)が生成され、

それがkamma bhavaに記録される。

kamma bhavaとはkammaviññānaが詰まった、カタチになる直前のエネルギーの枠組のこと。

このbhavaの振動が31領域の1つと共鳴して輪廻転生のプロセスが生じる。

 

 dhammāにはkamma beejaだけでなく、特定の人物が行ったあらゆる記録も含まれる。

したがってカルマのエネルギーとは関係のないイベント、たとえば、誰かと話したことや

何かを見たことや数学の問題を解いたことなどを思い出すこともできる。

nāma gotta(記号の起源)およびkamma Viññāakamma bījaとも呼ばれる)を含むすべてのdhammāは、

nāma lōka(メンタル界)に属している。

kamma bījaと呼ばれる場合はrūpa lōka(物質エネルギー界)に属すると定義する派もある。

 

 

 

心臓にある強い光  パオ・セヤドー     禅定状態になると、心がcittaja- kalāpaという微細な粒子を生み出す

第一禅定の対象は、集中が深まっていくにつれて現れてくるアナパナニミッタānāpāna-nimittaです。

nimittaはその強さによって三段階あり、最後はパティパーガ・ニミッタpatibhāga-nimitta(浄亮光)というクリアな光を放つニミッタが現れてきます。ānāpānaではずっと呼吸を対象として集中しますが、ここでその対象を呼吸からニミッタに移します。するとニミッタに心がスーッと沈んでいくような状態になり、この没入状態を第一禅定といいます。

 

禅定(jhānaジャーナ)を支えるには五つの要素である禅支jhānaga (ジャーナファクター)があります。

第一禅定に入れる状態が、2時間、3時間と増えて禅定が安定していき、三日間くらい、毎日禅定に入れるようになると、とても安定した禅定をつくれるようになります。

 

では、どのように五つの禅支を観ていくのでしょうか。

まず、一時間ほど、深い禅定状態に入ります。禅定状態にあると、物事を分析することができないので、一旦そこから出ます。そして、Bhavanga(有分心)というものを見ていきます。

有分心(Bhavanga)とは、心臓の真ん中の辺りに心を向けると存在している、とても光溢れるものです。

有分心についてはアビダンマに詳しい説明があります、ここではメタファー(隠喩)としてとらえましょう。

とにかく、一旦禅定状態から出て、心臓の真ん中にとても強い光があるということを確認します。

 

 なぜとても強い光が見えるのでしょうか。非常に強い禅定状態になると、チッタジャーカラーパcittaja- kalāpaという、心が生み出すkalāpa (微細な粒子)が体全体に広がっていきます。

kalāpaには、8つの要素がありますが、このときは、その中の色の要素がとても強いのです。

また、8つの物質エネルギーのうちの1つに火の要素(tejo)がありますが、その要素から、次のkalāpaが生まれてきます。そうやって新しく生まれてきたkalāpaの色も輝いています。

 

 心から生まれたkalāpaと、火から生まれたkalāpa、両方がとても輝いているので、光となって現れるのです。それが光の正体であり、有分心(Bhavanga)というのは、とても輝いています。

 心の門(意門)というものがあり、これは心臓のところにある鏡のようなものと理解してください。ānāpānaを深めていき、呼吸に集中していますので、鼻のところに強いānāpāna-nimittaが現れ、光が現れます。

心臓のところに鏡があるので、そこにもう1つの光が現れるように見えるのです。

 

 

 

nāmagotta    メモリ・レコード

経験された「すべてのイベント」(sankhāraおよびabhisankhāra)の記録。

カルマ・エネルギーのないdhammāのデータ。

sankhārāを経由した信号は現在進行形の識viññānaとなってアウトプットされ、次の瞬間には過去のものになりkamma viññāaすなわち思い出となるが、

sankhārāを経由しない信号はカンマ・エネルギーを持たないので、nāma gottaというデータになる。

 

Najīrati Sutta (SN 1.76)で述べているように、

Rūpa jīrati maccānanāmagotta na jīrati」、すなわち

「物質的なものは朽ちて消えていきますが、nāmagottaは朽ちません。」

 

 

dhammāは顕れては消えていくものであるが、唯一その中で永遠なものは記録(nāma gotta)」

nāmaby name   gotta[nt.] clanancestry.であり、

このnāma gottaだけは他のdhammāであるsankhārakamma bijasankataとは異なり、この世で消滅しない永遠なるものです。

 

今の所、私の知るかぎり、nāma gottaはこの世に存在する唯一の不変なもの、つまりaniccaの特性を持たず、苦しみにもつながりません。

しかし、nibānnaではなく、31領域に属しているので、anatta(実体がない)というこの世の特性を持つ。

 

 

何かを実行する(sankhāra)たびに、その「記録」(nāmagotta)が作成されます。

したがって、感覚が与えられた存在は、始まりのない時間からのすべての活動の記録が生き残っており、それがnāmagottaです。

すべての以前の人生と以前の人生のすべての活動は、映画のリールのように、その「記録の流れ」にあります。

 

abhiññā神通を通じてanariya jhanasを開発した人は、それぞれの以前の人生のnāmagottāをたどることができます。

しかも、よく発達したabhiññā力を使用すると、はるかに深い歴史を精査することができます。

釈尊は驚くほどの速さで好きなところまでさかのぼることができました。

しかし、彼はどの衆生のnāmagottāの「始まり」を見ることができませんでした。

そのため、転生プロセスの追跡可能な始まりがありません。

つまりこの世には始まりなき時間があるということです。

 

私たちは私たちの生活の多くの「出来事」すなわちnāmagottāの一部を思い出すことができます。

一部の幼い子供たちは、前世のnāmagottāのいくつかの出来事を思い出すことができます。

abhiññāの力でできることに非常に似ています。

abhiññāの機能は記憶すなわち各自のnāmagottāにある過去のイベントを振り返る能力を大幅に拡張します。

 

 

 

意識からrūpa物質エネルギーへの生成プロセス

インドの宇宙創生神話では、霊我puruaが根本自性prakritiを観ることでエネルギー界が展開し、

次にそこから物質界が生成されていったように、

意識体の「意」である真我ātmanが「眼を開ける」ことで、エネルギー界を知るcittaが展開します。

次にātmancittaに寄り添うことでエネルギーが発生し、ahankārabuddhimanasの段階を経て、

そのエネルギーの密度が増し、凝縮してだんだんと大きい元素の物質となっていきます。

 

上座部仏教でははじめのエネルギーをdhammā、そこから四大元素、そして重力を持つ物質エネルギーの最小単位であるsuddhāshtaka、そしてこれらが集合したbhūtaのユニット、それらが集合したdhātuのユニットと段々と大きな単位へと移行していきます。

換言すると、宇宙創生のプルシャの「意」や、あらゆる生命体のマインドの「意識」により、微細なエネルギーであるdhammākalāpaが創出されます。

 

 

パーリ仏典である三蔵では、修行の障碍になる「我」を除去して説明しているために、

cittacetasikaが加わっていくことでだんだんと自動回路化(汚染)していくマインドの9段階や

心路citta vithi17プロセスを示して、マインドの意識が物質に変化する過程を説明しています。

 

それが、心路citta vithiプロセスの9番目から14番目の間のjavanaステージで生成されるdhammāで、そのエネルギーが蓄積して「因果の種kamma bīja」が生成されます。

 

リンク先 認識システムと五蘊 そこからの離脱法

 

     

三蔵では、この世であるsannkatadhammāというエネルギーによって構成されており、dhammāが集まると、

gathiという「向き、性向、偏向」を持つエネルギーになる。

極寒地の川の中にできる氷のように、塊ができることで、川の流れに影響を与えることになり、その偏りからkalāpa(四大元素)が創出される。

 

rūpa(物質エネルギー)のgati段階、すなわちrūpaの起源は、manō rūpa」とも呼ばれる四大元素である。

kalāpaと四大元素の関係は?同じもの?

これらは、私たちのマインドからも創出される。 

たとえば、過去のシーンや思考中に浮かんでくる映像や夢を視覚化しているのがmanō rūpaである。

 

これらのmanō rūpaが凝縮いていくと、物質の最小単位であるsuddhātthaka(八元素)で構成されるbhūtaという元素になり、物質エネルギーが生成される。

論蔵Abhidhammaで見られるように出典元?suddhāshtaka 8 つの「物質の基本単位」のうち 4 つ(四大元素pathavi, āpo, tejo, vāyo)はavijjāによって生じ、残りの 4 つ(vaṇṇa, gandha, rasa, ojā)はtaṇhāāsāvāsによって生じる)によって生じます。

このため、avijjātaṇhāは「bhava-mūla根元、原因 」と呼ばれている。

 

次にbhūtaがさらに密を増すことで、mahā bhūtamahā bhūtaがさらに凝縮するとdhātuになる。

私たちの体は、私たちが見るすべての物質的なものと同様に、密度の高いdhātuで構成されている。

 

 

私たちを取り巻くほとんどすべての物質は、宇宙の「意」による「メンタル的プロセス」によって創造されました。

それがAggaññasutta Dīgha Nikāya 27 『起源経』経蔵長部 第27経の物語です。

 

 

メンタル・エネルギーをメンタル界、物質エネルギーを物質界と区分していますが、どちらの世界も同じdhammāの集合体ですが、本当?

密度が違うために、その密度によって呼称が異なります本当?   

メンタル界はdhammāの集合体ではない?

メンタル界のモノはエネルギーを持つ?持たない?

 

 

 

 

マインドが物質を創造する。

 

javana citta abhisankharaを創造する

kamma回路、kamma bīja

すべてのkammaは、7つのjavana cittaで生成されます。

javana citta(「javana」は飛行中の「矢」を意味します。非常に強力な場合があります)と呼ばれ、強力なものもあります。

 

ここでvaci saṅkhārakāya saṅkhāraが生成されます。  mano sankhāraは?

次に、それらは必要に応じて脳によって実行されます。

 

pancadvāracitta vithi

AB BC BU PD CV Sam SanV J J J J J J J T T

tadārammanaT

bhavaṅga

 

mahāntārammana(強い)citta vithi

AB BC BU PD CV Sam San V J J J J J J J B B」になります。

 

atimahattarammana(非常に強い)citta vithi

 

感覚入力がマインドに関心をもたらすほど強くない場合、javana cittaは生成されません。

ご感覚器官からの信号を受信したvipaka citta vithiにはjavana cittaがありません

parittārammana(弱い)citta vithi      夢   

atiparittārammna(非常に弱い)citta vithi   呼吸       citta vithiに気づくことさえない

 

Arahant phala cittaはたった1つのcittaで終了します。それがpabhassara cittaです。

ArahantArahant phala samapatti(入定、達到)にいる場合、Arahantは生きていることを知っていますが、外部の出来事を認識していません。これは、animitta(無相), appanihita(安止), suññata (空虚、渇望の消滅)samādhiと呼ばれます。それは、cittaの流れが止まるnirōdha samāpatti(第9禅定)とは異なります。

Buddha Dhammaでは、汚れは「暗い」と関連付けられ、純粋な状態は「明るい」または「輝く」と関連付けられます。したがって、pabhassara cittaを「放射しているcitta」と呼び、その状態のcittaを生成して維持するマインドを「放射性を持つマインド」と呼ぶことができます。

そのような放射している、すなわち純粋なcittaの流れが発生するのは、アラハンがArahant phala samapattiにあり、Arahant phala cittaが連続的に流れているときだけです。

 

 

 

 

 

内外の信号をsankhāra経由で「認識」すればkamma viññānaとなりエネルギーとなります。

このような意図的思考を私たちは常にどこでも実行しています。

言い方を変えると、私たちはmanovacikāya sakhāraに従事して(操作されて)いるということです。

過去に各自が作った自動反応回路に逆に操れれている、もしくはこき使われているということです。

 

正確には、認識システムの中で、信号をsankhāraに通過させたことで、アウトプットとしてエネルギーを持つ識viññānaが生まれ、それが密集・凝縮するにつれて段階的に物質になっていく。

 

このdhammāエネルギーがbhūtaの段階まで凝縮して密度が高まったモノから固形物質までの範疇をrūpaと名付けた。

つまりメンタル界のものが物質エネルギー界に変化していくのだが、

この世はエネルギーであるdhammāで構成されているので、すべてが物質エネルギーであると言えないことはないが、

仏法ではdhammāエネルギーとrūpaと2つに分けて説明することが一般的である。

 

 

 

 

 

絶対Nibbānaと本来のわたし(citta)と心の様子(cētasika)と物質エネルギー(rūpa)との関係

 

Nibbāna

                 ↓

                 citta   ātmanchitta  mano界のnāmagotta

 cētasika(心所 メンタル要因) ↓ gati (ahankārabuddhimanas)       

abi Sankhārā  ∈  Sankhārā  (相違点 強弱)

意図的考え・行為     因果の結果に現れる想い

vacisakhāra       manō Sankhārā これも意図的思考?

kāyasakhāra

 

          ↓              ↓

Dhammā kamma bija        Dhammā

カルマ(善/悪)       カルマの中立 

エネルギーが強い       エネルギーが弱い         

  ↓sankata         概念   Buddha Dhammaも含む ≠ Nibbāna

gati             一時的に形式化するがすぐに消滅する

bhūta

mahā bhūta

微細なdhātu

密なdhātu

 

結果はエネルギーのないnāmagottamanō lōka     

エネルギーのあるkamma bijaviññānakkhandha潜在する

 

 

 

 

意識から物質へのプロセス

 

 

意→モノ

意識

領域、機能

 

 

 

パーリ語

梵字

 

 

 

 

citta

真我意識

ソウル界

ātmanchitta

「いのち」そのもの 

エネルギーはなく観照するだけで、唯一の実体

 

 

 

 

 

dhammāエネルギー

kammicエネルギーのパケットである。

kamma beejamanō lōka内)がdhammāになる

kamma bijadhammāの一部である、とも言える

kamma bija以外にも多くの Dhammāがある。

dhammāは概念、さらには仏法も含む

dhammāにはaniccadukkhaの特性はない。

しかし、dhammā にはanattaの特性はあるので、本質的に必要な重要なものは何もない。

 

 

manō

nāmagotta prakriti

真空意識 

 

 

エネルギーがない記憶の記録

すべてのnāmagotta は、アクセスの有無にかかわらず、「始まりのない時間」に戻っていく。

 

サンスクリット語のprakriti根本自性

 

Najirati Sutta (SN 1.76)

Rūpajīrati maccānanāmagottana jīrati

「物質エネルギーは崩壊し、消滅しますが、nāma gottaは崩壊することはありません。

 

chitta    全体性意識

カタチはないがエネルギーの塊 基準点ができる

精神性に抽象度を上げる 

 

 

 

mānasan    

 

buddhi

分別意識

メンタル界

知を使って1を2にする  想saññāとの照合

アラハンはここまで、これ先の過程には進まない

 

 

hadayan,

 

ahankāra

枠組意識

vēdanā

タグづけ

 

具象化することで抽象度を下げる

 

 

pandaran

 

manas  

共通意識

 

           

saññā

「パワーを追加する」  

2つをつなげるために共通点にスポットライト

記憶と記録を照合する

 

 

 

manō manāyatanam

 

jīva

統合意識

sankhāra

アイデンティ(分類)をまとめて統合する

エピソード想起を繰り返しさらに愛着を深める

 

 

mana indriyam     

 

tanmātrā

概念意識

計算処理

変換処理

一般化、概念化   シンボル化

微細元素tanmātrā

 

 

viññāna     

 

bhūta 

深層意識

メンタル界

kamma viññāna

作成

粗雑元素    パターン認識する

anusayaāsāvasgatiのために非常に汚染されたcitta

 

意識過程citta vithijavanaステージ

 

 

viññānakkhandha   

 

潜在意識

メンタル界

rūpa物質  dhātu

11種類のviññānaを含むviññānakkhandhaの一部になる

 

 

kamma bija

カルマの種

rūpa

メンタルとrūpa

のリンク

abhisakhāraだけがkamma bijaになる

エネルギーの塊の未来設計図

 

 

 

 

 

 

 

 

kalpaカルパ

 

 

 

素粒子よりもまだずっと小さいこの物質世界の最小単位になる。

 

 

 

 

 

 

 

 

gati

 

arūpa lōka

2831

「性向、キャラクター、性質、特質、偏向」になる

rūpagati段階、

すなわちrūpaの起源は、「manō rūpa」とも呼ばれます。

これらはマインドで視覚化するもの。

 

過去のシーンを視覚化がmanō rūpa

 

gathiを作成するプロセスにおいて、関連する物質的なものについて私たちは常に考えます。それらがmanō rūpa

 

hadaya vatthuだけがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

bhūta

suddhāshtaka

 

dhammā

rūpalōkas

1219

gathiが育まれるとbhūtaになり、これがsuddhāshtaka

のステージ

 

カルパの複合体である八元素suddhātthakaになり、

すなわち物質を生成する

 

物質の最小単位bhūtaで作られたhadaya vatthu

mana indriyadhātuではなく、bhūta

hadaya vatthuは上位3種はdhammā

構成されているのではないか?

 

 

マインドで経験するrūpadhamma

manañca paicca dhammē ca uppajjati manōviññāa

Cha Chakka Sutta (MN 148)

 

dhammāmana indriyaの接触がmanō viññāna

 

anidassan appatighan dhammāyatana pariyā

pannarūpan

anidassanaは「見えない」ことを意味し、

appatighaは「最高の器官でさえ感知できない」

dhammāyatanamana indriyaのこと

Pariyā [pari+yā] winding round,転回

pannarūpanrupaとの唯一の接触を意味する。

 

 

 

mahā bhūta

4大元素

色、音

rūpalōkas

2027

bhūtaがさらに密を増したもの

rūpi brahmasが住む 16段階

 

brahmasの体はmahā bhūtaで構成されている

gandhabbasの微細体はmahā bhūtaで構成。

 

hadaya vatthucakkhusōta pasāda rūpaがある

 

BakaBrahmāが到達し、普遍世界と勘違いしていた領域

Brahmanimantanika Sutta (MN 49)では、釈尊と彼の弟子たちがこの領域を訪れ、Bakaを諭した。

 

 

微細なdhātu

 

kāma lōka

6〜11

mahā bhūtaがさらに凝縮する

devaは人には不可視の繊細なdhātuで構成

 

cakkhuñca paicca rūpē ca uppajjati cakkhuviññāa

sōtañca paicca saddēca uppajjati sōtaviññāa

Cha Chakka Sutta (MN 148)

 

(vanna) rūpa すなわち光とcakku indriya(眼)が接触

するとcakku viññānaが起こる。

視覚には光の粒子(光子)と肉眼との相互交流がある。

アインシュタインまでは光は粒子だとは考えられて

おらず、Comptonたちが証明したのは1920年代

 

sadda rūpa(音波)が sōta indriya(耳)と接触

するとsōta viññānaが起こる。

 

 

粗いdhātu

香、

味、

体(触感)

欲界

kāma lōka

1〜5

 

 

私たちの体は、密度の高いdhātuで構成されている。

 

ghānañca paicca gandhē ca uppajjati ghānaviññāa

jivhañca paicca rasē ca uppajjati jivhāviññāa

kāyañca paicca phōṭṭhabbē ca uppajjati kāyaviññāa

Cha Chakka Sutta (MN 148)

 

kāya viññānaは最も粗いpottabbaすなわちdhātu

との接触に起因する。

身体の接触(感触)、味、匂いは粗い接触です。

それらは直接の接触(pottabba)を伴い、

それらは固体粒子(味と匂い)を伴います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

rūpaの段階  エネルギーから物質へ

 

 

 


Oval: kalpa 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


gatikalpaの関係性?

 

私見ではnamagottaはエネルギーのない根本自性prakritiにあるものなので、sankataの一部ではあるが、

エネルギーのあるdhammāに含まれるものではなく、dhammāの外側にある。

cittaは時空もエネルギーもないものなので、namagottacittadhammāの間に保存される。

 

 

 

 

cittaにフィルター(自動反応回路)がかかるプロセスについては、Pabhassara Sutta (AN 1.51)にあります。

 

上座部仏教の9段階のcittaと宇宙創世

 

 サーンキヤ

 サンスクリット

 内容

 上座部仏教

 説明

 

 

 

 

 

プルシャ

purua

霊我 観照だけ

citta

変化のない実体 涅槃 出世間界

プラクリティ

prakti mahat

自性 

エネルギー

manō無色界

purua観ることで平衡が崩れて「空」なる根本物質が「有」として展開する

ブッディ

buddhi

「知る」根源状態

mānasam

阿羅漢はここまで

全体性機能 paññā

アハンカーラ

ahakāra

自我、 認識

hadaya

様々な階層の認識に分離していく

saññāの生成と、それへの執着

 

jñānendriya

 

paṇḍara

執着に多くのエネルギーを割当てる

 

manas

 

manōmanāyatanam

対象に受容的or憎悪的になる心

 

karmendriya

 

 mānaindriyam

レベルの範囲内で力を強化させる

 

tanmātrā

 

viññāna

智慧は除去され世俗的な欲求・渇望

 

bhūta

 

viññākkhandō

愛着を強め、現在の状況を評価し、将来への新しい希望と計画

 

上座部仏教の論蔵にある9段階のcittaの変化プロセスもこの宇宙のコスモロジーと対応できるとおもいます。

cittamanōmānasamhadayapaṇḍaramanōmanāyatanammānaindriyamviññānaviññākkhandō

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

考察資料

以下の20行は誤謬であるが、考えを整理するためのたたき台であり、伝統的citta論では、

純粋なcittaでも7つのcetasikaを持つもの、すなわちエネルギーを持つものとして理解されている。

 

 

cittaが独存する             「いのち」そのもの  ただ観照するだけ                  

 

エネルギーがないmanō          nāmagottaが保存される領域 

 

dhammākalpagatiの単位は無色界 ソウル界cittaそのものはdhammāではない)

エネルギーが生成する3番目のmānasan

4番目のhadayan,

5番目のpandaran

 

bhūtamahā bhūtaの単位は色界   メンタル界

6番目manō manāyatanam

7番目mana indriyam     

8番目viññāna     

  

 

dhātuの単位は欲界          物質エネルギー界、物質界

9番目viññānakkhandha 

と呼ばれます。

 

mana indriyaは脳内にある物質的器官なのかそれともメンタル界のものなのか?

mana indriyaの構成要素はbhūtaなのかdhātuなのか?

もしmana indriyaがメンタル界のものならば、マインドの「場」hadaya vatthu「場」はdhammāで構成されているのか?

 

 

 

 

メンタル界のエネルギーの塊であるdhammā

gati

bhūta

mahā bhūta

微細なエネルギーとしてのdhātu  

密な物質としてのdhātu

と凝縮(密集)するごとにエネルギーが固体物質へと変化していく。

 

メンタル界の最小単位はdhammāなのか?