Rūpaと五蘊の色Rūpakkhandha
はじめに rūpaとは?
準備 すべての分類 霊魂心体
霊とエネルギー sankata dhammā 魂と心と身と体
rūpaの生成プロセス ビッグバンと仏法 無から有へ
rūpaの段階と種類 物質界とマインド界 有から無へ
rūpaの密度と苦しみ
Rūpakkhandhaの特徴 2つの違い RūpaとRūpakkhandha
参考文献
物質の起源
すべての物質が何らかの方法で創造されたことを受け入れる場合、物質の起源とは何でしょうか?
宇宙のすべての問題は、約140億年前の「ビッグバン」で発生したと考えられています。
科学者はビッグバン後のほんの一瞬から宇宙の進化を計算できますが、物理学はビッグバンの前に何が起こったかを説明することはできません。
そして多くの科学者は「ビッグバン理論」を信じていますが、まだ完全には確認されてはいません。
一部の科学者は、ビッグバンですべてが突然「出現した」したとは考えていません。
彼らは、宇宙は周期的であると考えています。
それらは変化し進化しているということです。たとえば、P.J. Steinhardt and N. Turok(2007)の「Endless Universe-Beyond the Big Bang」を参照してください。
科学は物質エネルギーの数値化によって成り立つ世界観でこの世をマッピングする努力を続けています。
対して体感派は、自分自身で感じたことを基準にして、この世をマッピングしているので、
切り口(知)が違うので、そこから生じる知識も違うものになります。
では物質の起源とこの世の起源は同じものなのでしょうか?
体感派は科学派(仮説派)とは違う切り口を使って、この世を体感します。
体感派は一般的には宗教者と呼ばれる人たちのこの世の理解の仕方です。
パーリ語経典では、この世界の(一時的)実在の種類を4つに区分しています。
これを勝義諦
paramattha saccaと呼ぶのですが、それは、数学でいう2つの直線が交わるところを点と呼ぶ、などといった公理と同様、絶対の前提条件です。
ですから仏教の話を聞くならばここから受け入れるしかありません。
ピンとこないのならばやめるしかありません。たとえば、数学が嫌ならば教科書を開けなければ良いように。
4つの究極の現実(paramatthathō):勝義諦
パーリ経典では世界を以下の4つに分けます。
Nibbāna エネルギーのない世界
本来の「わたし」(citta) (ātman+chittaの複合体) 「いのち」と記録
メンタル的要因(cētasika) いろいろな心の様子 意識のあるエネルギー世界
物質(rūpa)、 意識のないエネルギー世界
「私」という概念をさらに分解して、実際に経験に生じている citta・cetasika・rūpa を直接観察するための土台になります。
例えば「怒っている私」を考える場合、paramatthaの分析では「私」という一つの実体として扱わずにcitta、cetasika、rūpaに分析します。
怒りは、怒りに伴う心+dosaなどのcetasika+身体に生じるrūpa+それを認識する過程、に分解していきます。
すると「私が怒っている」から「怒りを伴う心的現象が条件によって生じている」へと見方が変わります。
paramattha saccaは、「世界の究極的な構成物を理論的に発見する」という意味ではありません。
Theravāda Abhidhammaの文脈では、概念(paññatti)を離れて、経験を究極的な法の単位で分析するための枠組みです。
paramattha的に見ると、rūpaとしての身体現象とvedanāなどのcetasikaとそれを知るcittaという具合に、経験を構成している法を区別できます。
すると、例えば「手が痛い」「私の痛み」という巨大な一塊だったものが、「生じているrūpa」「それに伴うvedanā」「それを知るcitta」へと変わり、「私」というのは概念的な統合・名称として成立しているものであって、paññattiとしての「私」と、実際にその瞬間に生じているparamattha dhammaを区別できるようになります。
通常は、私 →
対象を見る → 快・不快を感じる → 私が選択する、と考えますが分析すると、
rūpa→viññāṇa→vedanā→saññā→saṅkhāra / cetanā→javana……という条件によって生じるプロセスとして見えてきます。
これがヴィパッサナーの実践で役に立ちます。
「vedanāはcetasikaである」と暗記しても、その瞬間に生じているvedanāをaniccaとして直接観察できなければ、それは単なる知識です。ヴィパッサナーは、その解体された現象を「生じては消えるもの」として直接観察します。
二重構造の現実 人が決めたルールの世界と天国から見た世界
世俗諦の根底にある勝義諦
世俗諦 sammuti sacca
そのように決まっているから、それをルールとして認めることにしようという世界
英語でいうconventional truthのことで、common senseではない。
常識ommon senseとは共通感覚を仮に設定した分別のことであるのに対して、
conventional
truthとは、はじめから無理があり正しくはないけれどみんなで決めたルールなので、そこに徹底的な真実・真理・論理的根拠がないことをあらかじめ理解している。
つまり、みんなで決めたからできたものであって、それに従うのをルールと仮定した世界観。
この世は変化し続ける存在なので、カタチを基準にした真実などあるはずがなく、
カタチになった科学や言葉など世の中の全ては世俗諦に属する。
人の理屈(論理の回路)はそれぞれ違うので、解釈も異なり、結果的に各自の判断も人によって異なる。
このような真実とはTPOによって変化するもの。
次々と科学の真説は現れるが、そのデータは事実であるが、解釈は各自にとって違う理由は、その科学の説の因果関係の原因は何百もあるものから少数を限定して作り上げたものなので、実際にはどのような因果関係なのか特定することができないので、一番データに近いものが表示される因果関係式を作り上げたのが科学であるので、あくまでも近似値でしかない。
また解釈はその一面でしかないので、科学が証明した因果関係は数十年ごとに更新される。
たとえば物質がエネルギー、分子、原子、電子、中性子、素粒子、量子の場、と変化していったように。
言語界の例えでは、平和と自由と公平と理性の愛好家たちは、その外側にある世界を見ないことで、世俗諦で暮らすことができる。
五感覚器官と脳で認識したものを、私たちは知っているつもりでいるが、それらはすべて五感覚器官という粗雑な粒子を感覚信号として構築した感性であり、そのデータを認識を基にして作り上げたものなので、その奥にある微細な元素の流れや全体性を捉えることなく理論や数値化をしたものなので、物質から見れば一時的事実だが、「いのち」から見れば、ただの妄想である。
一応そこにあるように言葉(世間のルール)を理解せよと釈尊は説いた。SN 1.25
世間の言葉を使うのと、世間的な実体論を信じるとは異なることものである。
また、「全ては「空」であり、実体はない」と言わないのは、瞬間的にしか成り立たない事実なので、もしそこに基準点を置けば、なんの区別もつかなくなる世界になるが、それは言葉という区別を基準にする世界の表現には相応しくないからである。
勝義諦 paramattha
sacca parama 勝 + attha 義(意味)
parama:[adj.] superior; best; excellent
attha:[m.] welfare; gain; wealth; need; want; use; meaning;
destruction.(attha pres.2nd plu.of atthi.)
優れている究極の真実
変化し続ける世俗諦を徹底的に分解すると行き着く究極の終点
物質から量子、そしてエネルギー体、そして霊界、そして涅槃
「言葉」という世俗諦を使ってしか、勝義諦のことは説明できない。
これが勝義諦だと説明しても、その説明は世俗諦でしかない。
勝義諦からみたこの世は4つの区分だけ Abhidhammattha
Saṅgaha、摂阿毘達磨義論
Tattha vutt' abhidhammatthā - catudhā paramatthato
Cittam cetasikam rūpam - Nibbānam' iti sabbathā.
原文はvutt' abhidhammatthā なのかvuttābhidhammatthā
Nibbānam' なのかNibbānaṃ
サンディ(連声)と写本・転写上の表記を分けるとすっきりします。
vutt' abhidhammatthā ではなく、語としては vuttābhidhammatthā
Nibbānam' iti ではなく、形としては Nibbānam iti、正規化すれば Nibbānaṃ iti
ここに言われるアビダンマの義は、勝義としては、全部で「心」「心所」「色」「涅槃」の4種類である。
Citta 心 認識機能
認識する働き、すなわち認識機能のこと。 5つの感覚器官と意識の6種類の認識する働き
内外の物事を感じ、気づき、察知する働き
Cetasika 心所 認識と一緒に生まれる感情 心に生まれる状態
花を見れば、見る働きで認識する(citta)だけではなく、きれい、だとか嫌いだとか、それを限定する感覚が伴い、心の感情が変化する。いろいろなものが心に生まれる。明るさ、喜び、悩み、苦しみ、眠気などあらゆる感情がすべてCetasika
「覚りの智慧」も心に生まれる状態なのでCetasika
善悪に関わらず心に生まれる一切の感情
rūpa 色 認識するための機械
認識するための機械である物質 内側の身体、外側の物質
内側の主観的な物質である身体と外側の客観的な物質である現象の二種類がある。
rūpaは固体物質ではなく、単なるエネルギーです。
たとえばrūpaの1つであるdhammaは無色界では普遍エネルギー、色界では意識エネルギー、欲界では概念法則という多層の側面があります。
したがってrūpaは「物質」と翻訳するよりもエネルギーのほうが適していると想います。
ただし、無色界というように、色rūpaを否定する領域があることから分かるように、色rūpaは宇宙の普遍的なdhammaエネルギーは含まないので、重力を持つエネルギーのことを色rūpaと訳するのがいいかもしれません。
意外かもしれませんが、重力を持つエネルギーとは、意識エネルギーが含まれます。
またダークマターも重力を持つエネルギーです。
どちらもこれらのエネルギーが充満して、凝縮することで、物質エネルギーになります。
そして物質エネルギーが充満して、凝縮すると、物質になります。
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31領域 |
色 |
エネルギー |
構成単位 |
特徴 |
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無色界 |
無色 |
普遍エネルギー |
dhamma |
ダークエネルギー |
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色界 |
色 |
重力エネルギー |
bhūta |
重力がある ダークマター、意識 |
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欲界 天界 |
色 |
物質エネルギー |
細かいdhātu |
電気 強い力 |
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欲界 人間界 |
色 |
物質 |
粗いdhātu |
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この3つが勝義諦の真実であり、この3つの別名はloka-sacca 世間諦で、この世はこの3つだけで、それ以外はない。この中で生きている存在が我々だというのが勝義諦の真実である。
もし、この3つの働きが止まったら、この世間諦から離脱することになり、それをlokuttara-sacca出世間諦という。
認識機能が止まった時空なので認識できない。
Nibbāna 涅槃
上記の3つの常変を体感することで、何ものにも囚われる意味などはないという智慧の感情が生まれる。
すると、そこで体験する世界の状態がある。それが涅槃である。
実践方法
ヴィパッサナー瞑想で、認識機能を一つづつ察知していく。ものごとそのものを感じるのではなく、見えている、聞こえている、という見る機能、聞く機能そのものを気づき続ける。
たとえば、ある音(鶯の鳴声)があって、それが聞こえた、そうしたら心が反応して反応(嬉しさ)が生まれてきた、という一つづつの事実関係を把握することで、認識の仕組みを体で(クセとして)納得し続ける。
このような認識の仕組みが常変でありことを体感し続けると、心が変化する。
この変化のほんの瞬間において、現象から離脱する状態を体感する。
この瞬間が涅槃である。
だから認識の外側にあるものなので、日常の五感器官とマインドによる認識能力では捉えることができないものである。
勝義諦 citta心とは「認識する機能」
定義 ārammaṇa-vijānana-lakkhaṇaṃ-cittaṃ
ārammaṇa対象-vijānana(分割して)知ること-lakkhaṇaṃ性質(本性)-cittaṃ(心)
対象を知る(認識)本性がcittaである。
たとえば、ヒトには見えるという機能があり、それで見るという認識すなわち視覚という認識が起こる。
これがcittaである。
「認識する機能があるもの」のことを心があるもの、それを生命と呼ぶ。
生命とは認識するもののこと、そうでないと生命とは言えない。
認識する機能という角度でみると、生命は一つ。
認識するから「生命」が誕生するのであって、「生命」というものがあるのではない。
認識する機能はずっと休みなく続いているので、それらを世俗諦として仮に「生命」と呼んでいるにすぎない。
「生命がある」という世俗諦を勝義諦と勘違いして、生命を探しては、科学で定義しようとしている。
認識はただの働きであり、エネルギーの流れである。
「私」が認識しているのではなく、エネルギーの流れを「私」と仮に呼んでいるにすぎない。
私見によればcittaは「ただ観る機能」であり「いのち」でありエネルギーを持たない。
仏教は我がないことを教義におくので、説明するための枠組(喩え)である。。
アメーバーもウイルスも生存できる環境を判断し、反応しているので、cittaのある立派な生命である。
生命の定義は認識する機能があることで、この機能をcittaという。
しかしcittaという「物」はない。ただの働きであるからだ。
Nibbāna
「この物質的な世界のすべてをあきらめる」ことによって達成されるNibbānaのみがattaすなわち「価値のある」もの
Nibbānaとrūpa
(三相を把握した後に)この転生プロセスの危険を見ると、abhisankhāraを介して原因を作ることをやめ、そして、欲求や愛着(tanhā)を放棄します、これがNibbānaに導きます。
Nibbānaは、これらのすべての原因が取り除かれた場合に発生し、そこにはrūpaはもう発生しません。したがってNibbānaは永続的です。もう苦しむ必要はなくなる。
Nibbānaにはdhammāもsankataもエネルギーもない。
sankataとは、san足されたもの(によって)+kata作られたもの、が語源です。
世界の区分の仕方
上記のように、パーリ語仏典ではこの世界をnibbāna とcitta とcetasikaとrūpaの4つに分類する。
伝統的な日本の概念でいうと、霊と魂と心と物です。
この4つはお互いに影響を与え、相互作用していますが、このように分けて表現することも可能です。
霊とは、大いなるもの、カミさま、などと呼ばれているこの世界にあまねくあります。
魂とは、霊の一部が膜に入った「いのち」とそれによって生じたエネルギーである「知ること」と「光」と「カタチ」です。
心とは魂が物とつながり、架け橋の機能を担当するマインドが玉座にすわるメンタル界のことです。
物とは霊と魂と心によって作られたエネルギーとそれが凝縮されて物質と呼ばれているモノたちのことです。
これから先は原典のパーリ語に則して話を進めていきますが、知らない用語で整理しづらくなった時には、上記の霊魂心物に置き換えて理解してみてください。
まず霊とそうでないものを区分します。
パーリ語の仏教用語ではasankataとsankataの違いです。
nibbāna はasankata で、cittaとcetasikaとrūpaはsankataです。
次に魂と心は、ヨーガ派はAnandamaya koshaとManomaya kosha
(Manas)+Vijñānamaya kosha(buddhi)で区分したもので、魂には「本来のわたし」と知ることを補助する機能と記録とカルマの種があり、
心には、魂と物の架け橋になるManasと知るために区切る基準となる「知buddhi」がある。
メンタル界nāma lōka とも呼ばれる
次に心cetasika(メンタル界)の外にあるものを物rūpa(物質界)と分けるが、これは目に見える物質だけではなく物質エネルギーも含まれる。
これにはdhammā、gati、bhūta、 mahā bhūta 、dhātuと段階があるので、後述する。
この段階を知ることで瞑想において次のステップに行くときの参考になる。
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欧米の伝統 |
spirit |
soul |
mind |
subtle body |
body |
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日本の伝統 |
霊 |
魂 |
心 |
気 |
体 |
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H2Oの喩え |
大気圏外 |
大気 分子 |
水蒸気 |
水 |
氷 |
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ある都会人の枠組 |
不可知 |
不可知 |
マインド |
エネルギー |
物質 |
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科学界 |
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不可知 |
マインド |
エネルギー |
物質 |
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学問 |
宇宙論 |
量子力学 |
心理学 |
相対性理論学 |
物理学 |
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先住民・賢人 |
霊 |
魂 |
心 |
流動体 |
肉体 |
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霊界 |
霊 |
霊と微細エネルギー |
物質微細エネルギー |
物質エネルギー |
物質 |
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パーリ語での仏教 |
nibbāna |
citta |
cetasika |
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rūpa |
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ヨーガ派 |
brahman ブラーフマンs parātman |
ātman chitta ahankāra |
buddhi manas 微細運動器官karmendriya 微細知覚器官 jñānendriya |
微細元素 tanmātrā 粗大元素bhūta |
dhātu |
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ヨーガ派 |
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Anandamaya kosha, "bliss"
sheath (Ananda) 純粋な意識からできている アーナンダ(歓喜)に満ちた場所 |
Manomaya kosha
"mind" sheath (Manas) (意思鞘) 感情と思考 Vijñānamaya kosha Knowing"理智鞘 感情や行動の基準を決定する知性 |
prāṇamaya kosha (生気鞘) プラーナ 生命エネルギー |
annamaya kosha (食物鞘) アンナ(食べ物) からでき、目に見え、触れることのできる身体 |
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パンチャコーシャ 人間五身体説 |
絶対者 ブラーフマン |
アーナンダマヤ 心 heart |
マノマヤ 大脳 mind ヴィジュナナマヤ 理智、知性 |
プラーナマヤ 生気 |
アナマヤ 食物・物質 |
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3身体シャリーラ |
カーラナ |
スークシャマ |
スークシャマ |
スークシャマ |
ストゥーラ |
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神智学 |
カミ |
コーザル体 |
アストラル体 メンタル体 |
エーテル体 |
肉体 |
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霊・幽・肉 |
霊 |
霊体 |
幽体 |
幽体 |
肉体 |
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魂の領域の解釈は各派によって異なります。
私見では魂とは、五取蘊のことで、エネルギーのない霊と、エネルギーのない記録namāgottaと、エネルギーのあるgati(dhammāエネルギーの集合体で構成されている性向という方向性)の複合体だと仮説してみます。
サンスクリット文化圏ではエネルギーのない霊をātman、gatiをahankāra(我執)としていますが、上座部仏教は「自己」を認めないので、これらをcittaが含んでいると推察します。
sankata abhisankhāraによってできたrūpa物質エネルギー
すべては、sankata もしくは asankataのどちらかです。
sankataには始まりがあり、存在中に予測不可能な形で変化し(viparinama)、最終的には存在しなくなります。
asankataには始まりがなく、存在中に変化せず、最終地点もありません。asankataは永遠に続きます。
Nibbanaは、唯一のasankataであり、「この世の31領域」に属していません。
この宇宙のすべては、sankataです。つまり、始まりと終わりがあります。
換言すれば、始まりと終わりを繰り返します。
アインシュタインは私たちの宇宙は定常状態にあると考えました。
もしそのように証明された場合は、これは仏法と矛盾する可能性があります。しかし今では、この宇宙には永遠に続くものはないことが明らかになっています。そして、すべてが流動的に変化しています。
そして、これは過去100年ほどの間に科学によって確認されました。
しかしビッグバンという始源がある説と終始を繰り返すという説があります。
SaṅkhSanraがSankataを発生させる
私たちが生成するsaṅkhāra(とくにabhisaṅkhāra)は、不活性な対象(物)または生きている形態(人生)の発生につながる可能性があります。
saṅkhāraがsankataの発生につながるということです。
たとえば、家を建てるというアイデアを想いついた(manōsaṅkhāra)場合、それについて注意深く考え、(vacisaṅkhāra)、決めた場合、それを実現するために行動を起こす(kāyasaṅkhāra)としましょう。
この場合、私たちのsaṅkhāraは家を生み出し、その家がsankataになります。
このような強いsankhāraであるabhisankhāraの結果として、新しい人生が形成されていきます。
この新しい人生は、そのabhisankhāraによって生まれたのでsankataでもあります
過去に作った「カルマの種」がアイディアという因果の結果kammavipākaになって、abhisankhāraによってsankataが存在するようになりました
見方を変えれば、マインドに浮かんだabhisankhāra(想い、考え、実行)が既存のrūpa(不活性物質のコンクリート、木材、プラスティック、金属)を使ってsankata(家)につながりました。
たとえばabhiññā(集中したJavana citta)の力があれば、新しいモノを「作成」することもできます。
どちらもsankataと呼ばれます。
私たちがこの世界で経験するすべてのrūpa(目に見える物体、音、臭い、味、身体の接触を含む)はsankataであり、それらはすべて予測できない変化を受け、最終的には消滅します。
私たちは行動、思慮、想いの(abhi)sankhāraを通じて未来を作っていることがわかります。
ただし、これらの新しいsankataのいずれもが永続することはありません。
dēva(欲界)やブラフマ(色界・無色界)の領域で生まれたものだとしても、そのカルマのエネルギーはいつかなくなります。
すると、その時点で存在する最も強力なエネルギー(kamma bija /dhammā)に応じて、次の転生が誘導されます。
私たちが自分のために作ったあらゆるsankata(dēva領域の新しい生活であったとしても)は、この世の性質であるaniccāによって長期的には満足できるようには維持することはできません。
dēva領域での新しい生活はいつか終わり、精算されて「生命の集合体」に戻ります。
それが“Sabbē sankhāra aniccā.”と言われている理由です。
abhisankhāraによって発生するどんなSankataにも有限の寿命があり、その存在中にも予期しない変化(viparināma)にさらされます。
私たちは物事を満足するように維持できなくなると苦しみます。
たとえ1億円の貯金があり、素敵な家族ができたとしても、亡くなるときには、そのすべてから離れなければなりません。また他界する以前にも、多くの場合で苦しむ(友人/家族の死、病気、財産の喪失など)可能性があります。
それがaniccaの性質のために発生するviparināmaの性質です。
仏法においては、与えられた「life stream」は、存在する領域(欲・色・無色界)に応じて粗いまたは微細な体を取得しますが、その体がsankataです。その体が死ぬと、life
streamは新しい体をつかみます。
「life stream」は三蔵ではGandhabbaと呼ばれるもので、文化圏によってはメンタル体、幽体、魂などいろいろな呼び名と解釈があり、中身も類似しているものや異なるものがあります。
絶えず変化しながら、生から生へと「伝播」しているのは、āsāvas(深層にある渇望つまり本能)、anusaya(煩悩)、gati(メンタル的特性)で、これが常に変化する動的Gandhabbaです。
Sankhārā 自動反応回路というパターン化されたアプリ
サンカーラは意識によって生じるもの。
具体的には、ヒトの意図、希望、夢に基づいて想い、考え、話し、行動すること
私たちは行動、思慮、、想いの(abhi)sankhāraを通じて未来を作っている。
その苦しみの根本的な原因はsankhāra(より正確にはabhisankhāra)である。
Sabbē sankhāra dukkhāと言われるのはそのためである。
サンカーラ(すなわちパターン化された計画)を作成するが、そのサンカーラは長いスパンではうまく機能しないために苦しみに支配されます。
したがって、それらのsankhāraは最後にdukkhaにつながり、そうして長期的でみれば助けようがない無力(anatta)なものです。
有名な Dhammapadaの節にあるsaṅkhāra
Dhammapadaの277、278、および279節では、saṅkhāraおよびdhammāという用語について混乱があります。これらの3節の最初の行は次のとおりです。
「Sabbē saṅkhāra aniccā」すなわち「すべてのsaṅkhāraはaniccaです。」
パターンというアプリ化されたものは、長期的には満足のいくものとして維持できません、ということです。
換言すれば、長期的に計画するのは無駄だということです。
これは「この世の性質」を語っているのであって、私たちはこの日常生活を送るためには計画を立てる必要があり、短期的にはそれは有効です。
「Sabbē saṅkhāra dukkhā」すなわち「すべてのsaṅkhāraは最終的にdukkha(苦しみ、価値がないもの、無用なもの)につながります。」
「Sabbē dhammā anattā」すなわち「すべてのdhammā(エネルギーがあるもの)は、最後に実体がありません(実りがなく、無力です)。」
「この世界の特質」を3つの視点で表しているので、漢字仏教用語では「三相」と呼ばれているもので、これを実感して暮らすことが、仏道の歩みに導くものです。
Sankhārāとは私たちの考えのこと
sankhārāとは「私たちの現在の考えである」ことを認識することが不可欠です。
sankhārāは現在の考えなので、それらの考えが過去になると、それらはすぐにnāma gottaすなわち記録になります。
Sankhārāは、私たちの意図、希望、夢に基づいて想い、考え、行動することであり、
それらはメンタル界の意識viññānaで発生します。
cittaは8段階を経て識viññānaにいたります。
正確にいうと、cittaから始まる最初の3段階は魂界で、4段階から8段階はメンタル界で、9段階目の識蘊viññānakandhaの一部は物質界の物質エネルギーになります。
sankhārāは想い、考え、行動という3つのタイプがり、(この順序で)manōsaṅkhāra、vacisaṅkhāra、 kāyasaṅkhāraとなります。
直訳すると
manō saṅkhāraはマインド、意、心ですが、内容は心に浮かぶ「想い」のことで、
vaci saṅkhāraはスピーチ、言葉ですが、内容はシンボルで構造を作成する「考え」のことで
kaya saṅkhāraはボディ、肉体ですが、内容は小脳で信号と動きを結びつける「条件反射」や「癖」のことです。
たとえば、言葉に出さなくても、算数の図形問題を解く時に常に三方定理を使うことに執着していたらそれはvaci saṅkhāraですし、
梅干しらしきものを見て唾液が出るのはkaya saṅkhāraになります。
どちらも、眼の前の「ありのまま」を観るのではなく、以前に学習したパターンを対象に当て嵌めようとしているのが共通点です。
強いサンカーラと普通のサンカーラ
しかしこれだけでは回路はすぐに消滅しますが、その回路に固執するようになると、それはabhisaṅkhāraと呼ばれ、そこから「カルマの種」が生じ、それは因果関係の法則であるkammavipākaとして、将来に結果が現れる可能性になります。
具体的には、図形の問題が解けなかったり、梅干しではない似ているものを見る度に、唾液が出てしまうことになります。
abhisankhāraで行われると kamma bija(Dhammāエネルギーの集合体)が生まれ、kamma vipākaになる。
これら3つのタイプのサンカーラ(manō、vaci、kāya sankhāra)は、この世であるsansāraを延長させるためのsanが埋め込まれた回路です。
sanとは加えられてものを意味し、具体的には貪瞋痴のことです。
sāraとは良い、khāraとは行為を意味します。
したがって、sansāraは貪瞋痴を良いものだと思い肯定する世界、すなわち「この世」のことであり、
sankhāraは貪瞋痴を伴った行為を意味します。
貪瞋痴によって、ありのままの状態を見れなくなり、以前のパターンをそのまま使用する回路をつくる行為のことであり、入力信号を作成した回路を通すことでパターン化されたで想い、考え、行動が出力されるアプリをプログラミングすることになります。
したがって、釈尊はこの世を去る時に、サンカーラは「vaya dhammā」(エネルギーとして消え去るもの)であるので、サンカーラが何であるかを見極め気づいているように比丘たちに告げました。
「vayadhammā saṅkhārā, appamādena sampādetha」
この世界のすべてはdhammāすなわちエネルギーによって成り立っています。
sankhāraもdhammāであり、vaya衰滅するdhammā、つまり終焉につながる(つまり、悪い結果につながる)だけです。
釈尊の肉体もsankhāraであり、いま、エネルギーがなくなりかけています。
したがって釈尊は「sanを遅滞なく整理し見極め気づいているように」と指示しました
appamāda:m. [a-pamāda] 不放逸 だらしないことがない 弛緩せずにnon-laxity
「vaya」は破壊を意味します。ここでは、自分の未来を破壊することを意味します。
saṅkhāra とはvaya dhammāなのです。
sampādeti:[saṃ + pad + e] [sampajjati の caus.] pajjati:[Sk.padyate<pad] 歩く,行く
sanに向かっている、つまり足されたもの(貪瞋痴)に気づいている。
「san」「pādēta」は「sampādēta」と韻を踏みます。
Dīgha Nikāya 16 Mahāparinibbānasutta経蔵長部第16経大般涅槃経『南伝大蔵経』第7巻144頁
3種類のサンカーラ(行為、考え、想いの3種)の強弱
私たちが体で何かをするとき(つまり、体の動き)、それはマインドの中で発生するkāya sankhāraによってコントールされています。
サンカーラには道徳的なものと不道徳的なものがあります。
この2つ基準は色々なケースがあるので別のエッセイにします。リンク先
考えなくてもできる自転車の操縦など体が憶えている言動です。
無意識にやっている癖もkāya sankhāraです。
これらの無意識のものは強いサンカーラです。
私たちが言語などのシンボルを組み立て頭の中でカタチにするだけでもうvaci sankhāraを作成しています。
これだけならば弱いサンカーラですが、そこから思考や思想などを基準にして、目の前の事象に適応しようとしているのならば、それは強いサンカーラです。
mano sankhāraは自動的に発生する「想い」のことです。
これは各自のgati(性格の方向性、性向)と条件が揃うことによって、以前の因果関係kamma vipākaの結果が顕出したものです。
自然に起こることなので、アラハンでも制御することができません。
これは弱いサンカーラなのですが、次の段階のvaci sankhāraやkāya sankhāraで強いサンカーラになる可能性があるので、mano sankhāraが起きた直後にそれに気づいていることで、それ以上のサンカーラの作成を停止することができます。
またアラハンに至らない普通の人でも、mano sankhāraが顕出するTPOは想定できるので、そのようなTPOと距離を取ることで、mano sankhāraを回避することができます。
比丘の中には、目線を足元から上に挙げず、他者とも必要なことだけしか話をせず、歩きながらも「いま・ここ」に基準をおき、食事のときもエネルギーを生み出さないように貪瞋痴に反応しないように気づきながら暮らすことで、間接的にmano sankhāraをコントロールしている方々がいらっしゃいます。
Sankhārāには3つのタイプ(manō、vaci、kāyasaṅkhāra)があり、この世であるsansāraを延長させているsanエネルギーにつながります。
したがって、釈尊はsaṅkhāraでできたこの世のものはvaya dhammā(消え去るもの)であることを再確認して、saṅkhāraに注意を向けていること、すなわち、それらのエネルギーを肯定しないで、気づいていることを比丘たちに辞世の句として伝えました。
アラハンのgatiとvēdanāとsankhāra
アラハンは「悪いgati(性向)」を持っていないので、彼らはいかなるabhisankhāraも作成できないので、悪いvēdanā(感情)はなく、sankhāraから生じるあらゆる種類の感情が生まれてきません。
sankhāraを経由した意識kamma viññānaからdhammāが、そこからgatiが、そして、そこからvēdanāが発生します。
つまり、vēdanāは自分のgati(性向、方向性、癖、習慣)によって発生します。
dhammāはだんだんと密度が増すことによって、このエネルギーは、カルパという素粒子よりもまだずっと小さい物質エネルギー界の最小単位になる。
これらがgathi「性向、キャラクター、性質、特質、偏向」になる。
kalpaとgatiの関係性は?
転生の領域 行sankhāra 変更の可能性
体で何かをするとき(つまり体を動かす動機)、それはマインドの中で発生するkāya saṅkhāraによってコントロールされます。
微生物などの生命体は入力に対して、決まった反応をするので、ロボットのようなものもありますが、
私たち人類ははロボットではありません。
時には自動的に物事を行うことがありますが、私たちは自分の想い、考え、行動をコントロールしています。
必要に応じて、考えや行動を変更できるからです。
Manosaṅkhāraは(kammavipākaと各自のgatiによって)自動的に発生する「想い」ですが、
vaci saṅkhāraである「考え」は自分自身で変更が可能であり、そのサンカーラの強弱によって転生先も変化します。
たとえば、家を建てることは、道徳的/不道徳な意図は関与しておらず、カルマ・エネルギーとしては中立的な行動です。
将来的にkamma vipākaをもたらす可能性のあるkamma bija(dhammā)を生成する可能性のある強いsaṅhāāra(abhisaṅkhāra)を生成していません。
しかし、たとえば、人間を殺す計画には、manōsaṅkhāraとvacisaṅkhāra(計画段階)が含まれ、その後kāyasaṅkhāraでそれを実行します。
この場合のsaṅkhāraはabhisaṅkhāraであり、下位4領域のapāyāでの転生という形で、将来の悪いkammavipākaをもたらす可能性があります。
Abhisaṅkhāraは強いSaṅkhāraです
Abhisaṅkhāra(力を持つ、すなわち強いsaṅkhāra)は、カルマの種kamma bijaを引き起こします。
これらは、javana cittaによって作成されるエネルギーが構成要素になります。
kamma bijaはkammavipākaをもたらすことになります。
死の瞬間、そのような強いkamma bijaであるDhammaは
“manañca paṭicca dhammē ca uppajjāti manōviññāṇaṃ.”を介して頭に浮かんでくる可能性があります。
その意識viññānaが転生する一番目のpatisandh viññānaとなります。
したがって、前世のabhisaṅkhāraの結果として、新しい人生が形成されることになります。
そのabhisaṅkhāraによって生じた新しい生命体はsankataです。
行為の最中にabhisaṅkhāraが生じ、それによってsankataが誕生します。
それはkammavipākaを介して、後にその結果が生まれたということです。
転生プロセスを信じる人にとっては、
道徳的なabhisaṅkhāraすなわちpuññaabhisaṅkhāraは、良好なkamma bija /dhammāにつながり、人間、dēva、およびBrahmaの領域での良好な転生につながります。
不道徳なabhisaṅkhāraすなわちapuññaabhisaṅkhāraは不良なkamma bija /dhammāにつながり、(apāyāsでの)不幸な転生につながります。
それが心と物質のつながりです。
マインドに浮かんだabhisaṅkhāraが、rūpa(不活性物質である元素)であるsankata(体)につながるという具体例です。
意識からrūpa物質の生成プロセス
インドの宇宙創生神話では、霊我puruṣaが根本自性prakritiを観ることでエネルギー界が展開し、次に物質界が生成されていったように、
意識体では、真我ātmanが「眼を開ける」ことで、エネルギー界を知るcittaが展開し、次に物質界を知ることが起きていきます。
そして、意識体でもātmanという「いのち」がchittaに寄り添うことでエネルギーが発生し、ahankāra、buddhi、manasの段階を経て、そのエネルギーの密度が増し、凝縮してだんだんと大きい元素の物質となっていきます。
宇宙創生のプルシャの「意」やヒトの意識により、光子分子(photon)よりもはるかに微細なエネルギーが創出されます。
パーリ仏典である三蔵では、修行の障碍になる「我」を除去して説明しているために、cittaにcetasikaが加わっていく9段階や心路citta vithiの17プロセスを示して、意識が物質に変化する過程を説明しています。
それが、心路citta vithiプロセスの9番目から14番目の間のjavanaステージで「因果の種」として生成されるdhammāです。
リンク先 論蔵のおける認識システムと離脱
三蔵では、
この世であるsannkataはdhammāというエネルギーによって構成されており、dhammāはだんだんと密度が増すことによって、このエネルギー体は、カルパという素粒子よりもまだずっと小さいこの物質世界の最小単位になる。
これらはgathi「性向、キャラクター、性質、特質、偏向」になる。
空壜の口に風が当たると音を出すように、カタチが形成されると、そこにある傾向が出てくる。
また結晶化したものには傾向のある特色が生じる。
rūpa(物質エネルギー)のgati段階、すなわちrūpaの起源は、「manō rūpa」とも呼ばれる。
これらは、私たちがマインドで視覚化することによって起きる。
過去のシーンや思考中に浮かんでくる映像や夢を視覚化しているのがmanō rūpaである。
次にkalpaが8つ集まってできるsuddhātthakaがマインドによって作成されます。
それは多くの人にとって驚くべきことかもしれませんが、このエッセイでの説明が進むにつれて、このプロセスの実例や科学の凡例のデータなどを提供します。
それが、釈尊が“manō pubbangamā dhammā…”つまり「すべてにおいて、(まずは)マインドが先行する…」と言った理由です。
( Dhammaパーダの1節と2節)
しかし、私たちを取り巻くほとんどすべての物質は、かなり前にこの「メンタル的プロセス」によって創造されました。それがAggaññasutta Dīgha
Nikāya 27 『起源経』経蔵長部 第27経の物語です。
citta・nāma・rūpaと三界の関係
cittaは、それ自体が「いのち」や「魂」として独存するものではありません。
cittaは対象を認識する心であり、cetasikaとともに生起します。したがって、cittaを「ただ観照する永続的な主体」と考えるのは、仏教の**anattā(無我)**の教えとは一致しません。
manoは「意」であり、第六の感覚門(manodvāra)として、dhammaを対象として認識する働きに関係します。
manoを、nāmagottaが保存されている「領域」や、記憶を読み出す独立した装置と考えることも適切ではありません。
nāmagottaは、初期経典で「記憶データが保存される非物質的な領域」を意味する技術用語ではありません。したがって、nāmagottaを無色界(arūpadhātu)に置くという説明はしません。
三界(三界・三dhātu)の分類は、次のように整理できます。
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生存領域 |
Pāli |
大まかな特徴 |
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欲界 |
kāmadhātu / kāmaloka |
感覚的対象に関係する生存領域。rūpaもnāmaも存在する |
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色界 |
rūpadhātu / rūpaloka |
欲界の欲から離れた、rūpaを伴う高次の生存領域 |
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無色界 |
arūpadhātu / arūpaloka |
rūpaを伴わない生存領域。cittaとcetasikaによる心的現象が存在する |
したがって、欲界=物質界、色界=メンタル界、無色界=魂界という三分類にはしません。
内外の信号をsankhāra経由で「認識」すればkamma viññānaとなりエネルギーとなります。
このような意図的思考を私たちは常にどこでも行っています。
言い方を変えると、私たちはmano、vaci、kāya saṅkhāraに従事しているということです。
過去に作った自動反応回路に操れれている?もしくはこき使われているということです。
正確には、認識システムの中で、行sankhāraからの信号を識viññānaによって分別したことで、アウトプットとしてエネルギーが生まれ、それが密集・凝縮するにつれて段階的に物質になっていく。
このdhammāエネルギーがbhūtaの段階まで凝縮して密度が高まったモノから固形物質までの範疇をrūpaと名付けた。
つまりメンタル界のものが物質エネルギー界に変化していくのだが、
この世はエネルギーであるdhammāで構成されているので、すべてが物質エネルギーであると言えないことはないが、仏法ではdhammāエネルギーとrūpaと2つに分けて説明することが一般的である。
メンタル界のエネルギーの塊であるkamma bijaは
エネルギーであるdhammāに変換され、
gati
kalpa
bhūta
mahā bhūta
微細なエネルギーとしてのdhātu
密な物質としてのdhātu
と凝縮(密集)するごとにエネルギーが固体物質へと変化していく。
絶対Nibbānaと本来のわたし(citta)と心の様子(cētasika)と物質エネルギー(rūpa)との関係
Nibbāna
→
citta (ātman+chitta mano界のnāmagotta)
cētasika(心所 メンタル要因) → gati (ahankāra+buddhi+manas)
abi Sankhārā ∈
Sankhārā (相違点 強弱)
意図的考え・行為 因果の結果に現れる想い
vacisaṅkhāra manō Sankhārā
kāyasaṅkhāra
→ →
Dhammā kamma bija Dhammā
カルマ(善/悪) カルマの中立
エネルギーが強い エネルギーが弱い
→sankata 概念 Buddha Dhammaも含む ≠ Nibbāna
gati
kalpa
bhūta
mahā bhūta
微細なdhātu
密なdhātu
結果はエネルギーのない
nāmagottaはmanō lōkaへ nāmagotta はmanō lōkaへ
エネルギーのkamma bijaは
viññānakkhandhaに潜在する
意識から物質へのプロセス
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意→モノ |
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領域、機能 |
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パーリ語 |
梵字 |
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citta |
真我意識 |
ソウル界 |
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manō |
nāmagotta prakriti 真空意識 |
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エネルギーがない記憶の記録 すべてのnāmagotta は、アクセスの有無にかかわらず、「始まりのない時間」に戻っていく。 サンスクリット語のprakriti根本自性 「Rūpaṃ jīrati maccānaṃ、nāmagottaṃ na jīrati」 「物質エネルギーは崩壊し、消滅しますが、nāma gottaは崩壊することはありません。 chitta 全体性意識 カタチはないがエネルギーの塊 基準点ができる 精神性に抽象度を上げる |
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mānasan |
buddhi 分別意識 |
知を使って1を2にする アラハンはここまで、これ先の過程には進まない |
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hadayan, |
ahankāra 枠組意識 |
自我認識 私の・・・ |
具象化することで抽象度を下げる 私という枠組みの内と外 saññāの生成と執着が始まる |
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pandaran |
jñānendriya 微細知覚器官 |
直観意識 |
「パワーを追加する」 bhūtaレベルの微細要素を認識 執着に多くのエネルギーを割当てる |
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manō manāyatanam |
manas 近遠意識 |
vēdanāの タグづけ |
アイデンティ(分類)をまとめて統合する エピソード想起を繰り返しさらに愛着を深める manas意思 |
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mana indriyam |
karmendriya 微細運動器官 |
運動意識 計算処理 変換処理 |
対象に対する執着の力が強化する 意識エネルギー |
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viññāna |
jīva 統合意識 |
統合意識kamma viññāna |
分割された智慧 部分的認識と統合 日常の認識 世俗的な欲求・渇望 anusaya、āsāvas、gatiのために非常に汚染されたcitta 意識過程citta vithiのjavanaステージ |
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viññānakkhandha |
回路意識 |
思考、記憶、空想 物質 dhātu tanmātrā微細元素 11種類のviññānaを含むviññānakkhandhaの一部になる 愛着を強め、現状を評価し、将来への新しい希望と計画のパターン認識 |
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gati |
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arūpa lōka 28〜31 |
「性向、キャラクター、性質、特質、偏向」になる rūpaのgati段階、 すなわちrūpaの起源は、「manō rūpa」とも呼ばれます。 これらはマインドで視覚化するもの。 過去のシーンを視覚化がmanō rūpa gathiを作成するプロセスにおいて、関連する物質的なものについて私たちは常に考えます。それらがmanō rūpa hadaya vatthuだけがある。 |
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bhūta |
suddhāshtaka dhammā |
rūpalōkas 12〜19 |
gathiが育まれるとbhūtaになり、これがsuddhāshtaka のステージ カルパの複合体である八元素suddhātthakaになり、 すなわち物質を生成する。 物質の最小単位bhūtaで作られたhadaya vatthu mana indriyaはdhātuではなく、bhūtaで hadaya vatthuは上位3種はdhammāで 構成されているのではないか? マインドで経験するrūpaがdhamma manañca paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ dhammāとmana indriyaの接触がmanō viññāna anidassan appatighan dhammāyatana pariyā pannarūpan anidassanaは「見えない」ことを意味し、 appatighaは「最高の器官でさえ感知できない」 dhammāyatanaはmana indriyaのこと Pariyā [pari+yā] winding round,転回 pannarūpanはrupaとの唯一の接触を意味する。 |
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mahā bhūta |
4大元素 色、音 |
rūpalōkas 20〜27 |
bhūtaがさらに密を増したもの rūpi brahmasが住む 16段階 brahmasの体はmahā bhūtaで構成されている gandhabbasの微細体はmahā bhūtaで構成。 hadaya vatthuにcakkhuとsōta pasāda rūpaがある BakaBrahmāが到達し、普遍世界と勘違いしていた領域 Brahmanimantanika Sutta (MN 49)では、釈尊と彼の弟子たちがこの領域を訪れ、Bakaを諭した。 |
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微細なdhātu |
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kāma lōka 6〜11 |
mahā bhūtaがさらに凝縮する devaは人には不可視の繊細なdhātuで構成 cakkhuñca paṭicca rūpē ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ、 sōtañca paṭicca saddēca uppajjati sōtaviññāṇaṃ、 (vanna) rūpa すなわち光とcakku indriya(眼)が接触 するとcakku viññānaが起こる。 視覚には光の粒子(光子)と肉眼との相互交流がある。 アインシュタインまでは光は粒子だとは考えられて おらず、Comptonたちが証明したのは1920年代 sadda rūpa(音波)が sōta indriya(耳)と接触 するとsōta viññānaが起こる。 |
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粗いdhātu |
香、 味、 体(触感) |
欲界 kāma lōka 1〜5 |
私たちの体は、密度の高いdhātuで構成されている。 ghānañca paṭicca gandhē ca uppajjati ghānaviññāṇaṃ jivhañca paṭicca rasē ca uppajjati jivhāviññāṇaṃ kāyañca paṭicca phōṭṭhabbē ca uppajjati kāyaviññāṇaṃ kāya viññānaは最も粗いpottabbaすなわちdhātu との接触に起因する。 身体の接触(感触)、味、匂いは粗い接触です。 それらは直接の接触(pottabba)を伴い、 それらは固体粒子(味と匂い)を伴います。 |
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rūpaの段階 エネルギーから物質へ
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nāmagottaとは何か?
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用例 |
nāmagottaの意味 |
特徴 |
備考 |
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「名前・氏族」が老いない |
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父母から伝わる家系・氏族 |
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名前・氏族を名乗る |
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名前・氏族を名乗る |
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名前・氏族を名乗る |
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名前・氏族を名乗る |
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名前・氏族を名乗る |
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@ SN 1.76 Najīratisutta
Rūpaṃ jīrati maccānaṃ, nāmagottaṃ na
jīrati.
「死すべき者たちのrūpaは老いるが、nāmagottaは老いない。」
A DN 3 Ambaṭṭhasutta
ここでは釈尊がアンバッタにporāṇaṃ mātāpettikaṃ
nāmagottaṃ
anussaratoと述べています。
意味は「古くからの母方・父方の nāmagotta を思い出すと……」という文脈です。
、nāmagotta が明らかに「家系・血統・氏族名」に関係して使われていることです。
B MN 35 Cūḷasaccakasutta
ここでは人々が釈尊のところに来た際、nāmagottaṃ sāvetvāという表現があります。
つまり、「自分の名前・氏族名を告げて」という意味です。
C MN 60 Apaṇṇakasutta
nāmagottaṃ sāvetvāが出ています。つまり、ここでも、「名前と氏族名を名乗って」という通常の意味です。
D MN 82 Raṭṭhapālasutta
ここにも、nāmagottaṃ sāvetvāがあります。
やはり人々が釈尊の前で名前・氏族を名乗る場面です。
E DN 32 Āṭānāṭiyasutta
ここでは、nāmagottaṃ sāvetvāが出てきます。
これも、yakkhaたちが釈尊の前で名前・氏族名を告げる場面です。
F Vinaya Mahākhandhaka
ここにも、nāmagottaṃ sāvetvāが見られます。
これも同じく、名前・氏族を告げるという文脈です。
見えてくることは、Sutta /
Vinayaにおける通常の nāmagotta は、「名前+氏族・家系」という意味です。
gotta の語根
Pāli gotta は Sanskrit gotra に対応します。
Pāliでは、gotra 家畜を囲う場所 → gotta音韻変化「同じ家系・血統に属する人々」
gotta = family, clan, ancestry, lineage, descent、家系・血統・氏族
go牛、家畜 + tta √trai 守る
という伝統的分析がある一方、より古いインド・ヨーロッパ語族の語源に遡る可能性も論じられています。
「nāma + gotta」は?
語 意味
nāma 名前
gotta 氏族・家系・血統
nāmagotta 名前+氏族名/家系
実際、Pali-English
Dictionaryでは、nāmagotta = name & lineageとして説明されています。さらに注釈では、
nāma = paññatti-vasena
gotta = paveṇi-vasena
つまり、
nāma=識別のための名前
gotta=伝統・家系による氏族名、という説明があります。
するとSN 1.76はどう読むべきか
ここまで分かると、問題のRūpaṃ jīrati maccānaṃ, nāmagottaṃ na
jīrati.は、
「死すべき人々の身体は老いる。しかし、その名前・氏族は老いない。」
という意味で読むのが、少なくとも他の経典でのnāmagottaの用例と非常によく整合します。
実際、SuttaCentral系の英訳も、“The physical form of mortals gets old, but their name and clan
don't.”
と訳しています。したがって、これまで検討していた、「nāmagotta=過去の五蘊の永久記録」
という解釈は、少なくとも「nāmagottaという語の一般的なパーリ語用法」からは支持されません。
これは、これまでの文章をかなり修正する必要がある
以前の文章では、「すべての思考がnāmalokaに永久的な記録(nāmagotta)を残す」という説明がありました。
しかし今回、SuttaCentralの実際の用例を並べると、nāmagotta = 永久保存された記憶記録とするのは、かなり特殊な解釈だと分かります。
むしろ、nāmagottaという語は、パーリ経典では基本的に「名前・氏族・家系」を意味する。SN 1.76の「nāmagottaṃ na jīrati」も、まずこの通常の語義から読むべきであり、「宇宙的な記憶データベース」を意味すると断定することはできない。
と整理するのが原典に忠実です。
そして、ここは前回の**「rūpakkhandhaに記憶が保存されるのか?」**という問題にも直結します。
rūpakkhandhaを記憶庫とする根拠も、nāmagottaを記憶媒体とする根拠も、少なくとも今回確認したSuttaCentralの用例からは出てきません。
これはかなり大きな修正点です。
gatiとkalpaの関係性?
私見ではnamagottaはエネルギーのない根本自性prakritiにあるものなので、sankataの一部ではあるが、エネルギーのあるdhammāに含まれるものではなく、dhammāの外側にある。
cittaは時空もエネルギーもないものなので、namagottaはcittaとdhammāの間に保存される。
rūpaの大きさとその寿命と感覚器官
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大きさ |
寿命 |
界 |
感覚・メンタル器官 |
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nāmagotta |
ない |
未来永劫 |
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エネルギーを持たない |
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dhammā |
photon の 10億分の1 |
有限 |
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nibbana以外のもの |
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gati |
dhammāの集合体 |
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arūpa 無色界 |
hadaya vatthu |
エネルギー構成物 Dhammāを感知する |
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kalp |
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bhūta |
原子の 10億分の1 |
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rūpa 色界 |
hadaya vatthu mana
indriya |
suddhāshtaka物質最小単位 kalpaが8つの複合体 |
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mahā bhūta |
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rūpa 色界 |
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光子 音波 |
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微細なdhātu |
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kāma 欲界 deva |
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目では見ることができない |
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粗いdhātu 最も密度が高い |
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kāma 欲界 人、 動物以下 |
mana
indriya 眼vanna rūpa varna 耳sadda rūpa 鼻gandha 舌rasa 体 ōja |
cakku indriya sōta indriya pottabba kāya |
発生しているいかなるrūpaも、予期せぬ変化(viparināma)と、最終的には老朽して崩壊します。
これがaniccaの性質がある基本の事実です。
しかしrūpaにも種類があり、崩壊するスピードも各段階により違います。
ヒトからみた2つの世界
5感覚器官と心器官が接触する信号の違い 物質界とメンタル界

「人間の世界」は2種類の世界で構成されています。
五感で体験する物質世界と心で体験するメンタル世界です。
物質界は、対象が生物や物体なので、すでに慣れ親しんでいる世界です。
この物質界との媒体は、光景、音、香り、味、そして身体の感触です。
たとえば「cakkhuñca paṭicca
rūpe ca uppajjāti cakkhuviññ ānam」のプロセスを介して光景を体験します。
これを分析的に翻訳すると、眼の器官indriyaに当たる光粒子が視覚に信号を与えることで「見る」という感覚意識が生じる、という意味になります。
論蔵Abhidhammaにあるように、「見るイベント」とは目を介した感覚入力によって起こるものです。
つまり、対象物質を反映する光粒子が目に影響を与え、目の意識、すなわち視覚が生起します。
cakkhuviññaとは「見ている」こと、見ている意識のことです。
他の4つの感覚機能も同様の作用を介して、対象を認識します。
また、ヒトは過去の思い出や将来の希望や期待を「想う」こともできます。
それらは、私たちがマインドで経験する「物質ではない世界」の事象です。
これは「物質ではない世界」すなわちメンタル界(nāmalōka)と呼ばれ、マインドでのみが体験できるdhammā
が対象になります。
それは「manañca paṭicca
dhamme ca uppajjāti manoviññāṇaṃ」によって体験できる世界です。
これを分析的に翻訳すると、マインドの器官にdhammāが接触することで、意識が生じる、ということです。
この対象であるdhammāには、エネルギーを持つkamma bījaに加えて、概念、記憶、印象、夢などやエネルギーを持たない記録nāmagottaがあります。
これら2つの世界は共存していますが、物質的ではない(見えない)世界すなわちnāma lōka(メンタル界)を直接に体験できないだけです。
mano lōka とnāma lōkaは同一異句と言い切っていいのか?
それともmano lōkaはエネルギーを持たないprakritiの世界を指し、
nāma lōkaは、物質界ではない世界という意味でのメンタル界なのか?
Dhātuの観点から見た世界
この世をどの視点で見るかによって、見えてくるものが違います。
同じ素材のものでも、切り口が変われば、見える世界は変わり、その世界観も変わるように。
たとえば、同じジャガイモでも包丁の使い方次第で、その後の調理法が、ベークドポテトか、煮っころがしか、ポテトチップスか、マッシュポテトに変わるように。
喩えでいうと、どのように切るか、というのが「知」で、その結果にできる料理が「知識」です。
まずはrūpaの中で一番密度が高いdhātuからの視点でこの世を見てみます。
Dhātuの観点から見た世界では、この世界のすべては、patavi, apo, tejo,
vayo, Ākāsa, viññānaの6つのdhātuで構成されています。
そのうちの5つは「物質的な世界」を構成し、viññāna dhātuは「非物質的な世界」を表します。
物質世界の基本的な構成要素は、suddhāṭṭhakaです。
suddhāṭṭhakaはどの素粒子よりもはるかに細かいものです。
非物質的な世界(すなわちメンタル界)には、suddhāṭṭhakaへのメンタル的前駆体があります。
それらがdhammā、gati、bhavaです。
gatiに基づいて、javana cittaでsuddhāṭṭhakaを作成します。
6感覚を通じて経験する、つまり感知している対象すべてはrūpaですが、最初の5感覚入力は、誰にでも明らかな5つの「感覚器官」(目、耳、鼻、舌、および身体)を介しています。
mana indriyaと呼ばれる6番目のものは、科学では知られていませんが、
Cha Chakka Sutta (MN 148)経蔵中部Majjhima Nikya148で明確に述べられています。
すべての6つのタイプの感覚は、最終的にマインドによって経験されます。
6つの「感覚のドア」を介して感覚入力信号がマインドによって経験されます。
つまりcitta(想い)とcētasika(メンタル的要因)によってです。
5つの身体感覚(目、耳、鼻、舌、身体)で経験するものは「密なrūpa」です。
つまり4大要素すなわちsatara mahā bhūtaで作られたものなので、suddhāshtakaで構成されています。
これらの5種類のrūpaは、すべて「rūpa lōka」のものです。
これは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、身体的接触としてよく知っているものです。
体に触れたり、目で見たりするのは、誰もが知っているrūpaです。
他の4つのタイプと区別するために、「rūpa rūpa」すなわち「vanna rūpa」(サンスクリット語では「varna rūpa」)と呼ばれることもあります。
しかし、それらの「rūpa rūpa」を「見る」には光が必要です。
光は、光子と呼ばれる小さな粒子で構成されています。それらはそのエネルギーのために非常に小さな質量を持っています。
次に、耳、鼻、舌で感知する他の4種類のrūpaがあります。
私たちが味わうものは「rūpa rūpa」、つまり固形食品または液体です。
鼻で感知するのは匂いです。これは非常に小さな微粒子です。ですから、それらもrūpa rūpaです。
音を聞くと、耳はその音による空気の乱れを感知します。したがって、音は光のようにエネルギーを伴います。音エネルギーは、「phonons」と呼ばれるエネルギーパケットに起因する場合があります。
起因しないのはどのようなケースがあるのか?
音量子phononは、結晶中における振動の量子(準粒子)で、場の量子論を応用することにより考案された。
フォノンは、光子と同様に生成や消滅をすることができ、質量は存在しない。
エネルギーがあるのに質量が存在しないのは何故なのか?
したがって、「rūpa lōka」でのrūpaの感知には、物質エネルギーが関係しており、それらはすべてsuddhāshtakaレベルのbhūtaを超えて、mahābhūta、そしてdhātuと膨大な塊になったものです。
光子すなわち軽い粒子もsuddhāshtakaでできています。
suddhāshtakaレベルよりも粗大であるので、suddhāshtakaがどれくらい微細であるのかがわかります。
それは、現代科学の原子よりもはるかに小さいものです。
たとえば、可視範囲の光子(suddhāshtaka)は、最小の原子である水素原子の10億分の1の質量です。
それは砂の粒と平均的な飛行機の質量の差ぐらいがあります。
suddhāshtakaは、光子のさらに10億分の1ぐらいの質量になります。
計算式?
釈尊は、5つの物理的感覚によって感知された5つの「対象」をすべて、suddhāshtakaで構成される「rūpa」として分類しました。
量子力学の到来により、科学が光子を粒子として特定したのはわずか100年前です。
多くの物理学者でさえ、1986年のGrainger、Roger、およびAspectの単一光子感知実験まで、光の粒子の性質を受け入れませんでした。
現在、光は光子と呼ばれる粒子で構成されていることが認められています。
異なるタイプの感覚入力によるviññānaの発生は、abhidhamma (およびCha Chakka Sutta
(MN 148))で次のように説明されています。
「cakkhuñca
paṭicca rūpē ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ」、
「sōtañca
paṭicca saddēca uppajjati sōtaviññāṇaṃ」、
「ghānañca
paṭicca gandhē ca uppajjati ghānaviññāṇaṃ」、
「jivhañca
paṭicca rasē ca uppajjati jivhāviññāṇaṃ」、
「kāyañca
paṭicca phōṭṭhabbē ca uppajjati kāyaviññāṇaṃ」、
「manañca
paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ」
上記の
眼のindriya器官と光粒子が接触すると、「見る」という感覚意識が生じる。
心のindriya器官とdhammāが接触すると、manōviññāna、すなわち意識が生じる、とあります。
言い換えると、
(vanna) rūpa すなわち光粒子とcakku
indriya(眼)が接触するとcakku
viññānaが起こります。
またsadda
rūpa(音波)が sōta indriya(耳)と接触するとsōta viññānaが起こります。
kāya viññānaは最も粗い接触(pottabbaすなわちdhātuとの接触)に起因し、
manō viññānaは非常に微細なdhammaとの接触に起因します。
ということです。
6つのタイプの外部世界との接触は、接触の「粗さ」に従って分類できます。
身体の接触(感触)、味、匂いが粒子の粗い順です。それらは直接の接触(pottabba)で、固体の粒子との接触です。
視覚には光の粒子(光子)と眼との相互交流です。
アインシュタインまでは光は粒子だとは考えられておらず、Comptonたちが証明したのは1920年代のことです。
音を感知は、内耳の蝸牛(かぎゅう)が振動を電気信号に変えて脳に伝えます。
触覚、嗅覚、味覚、視覚、聴覚は感覚器官(体、舌、鼻、目、耳)と外的物質との接触で生じ、その物質の大きさは、接触、味、匂い、光(光子)、音(フォノン)の順序でrūpaは粗大から繊細になります。
5つの物理感覚が密なRūpaを感知し、Mana IndriyaがDhammāを感知する
私たちがある人を見たと感じるのは、その人から反射された光が私たちの目に届くからです。
音が聞こえるのは、その音による空気の乱れが耳に届くからです。
匂いがするのは、香りの小さな粒子が鼻に届くからです。食べ物の味がするのは、食べ物の粒子が舌と接触するからです。
したがって、私たちの身体には目、耳、舌、鼻、体という5つの物理的な「感覚器官」があり、これらが5つの感覚入力を感知します。
それらはcakkhu、sota、ghāna、jivhā、kāyaindriyaと呼ばれます。
それらを介した電気信号は脳によって処理されて、EM波(kirana)に変換されます。この電磁波の信号はメンタル界のgandhabba すなわちmanōmaya kāya(メンタル体)にある5つのpasāda rūpaの振動となり、心路citta vithiを振動させることで意識が発生して、認識できるようになります。
ちなみに、gandhabba は大乗仏教Mahayānaの概念にはありません。
pasāda rupaとは澄明な物質という意味で、現代科学の電磁波エネルギーに相当します。
リンク先 認識システムと五蘊
例として、木を見た場合を考えてみます。
目から脳に到達する連続した一連の「データのパケット」(シナプスの化学信号および電気信号)は、脳によって処理され、EM波(kirana)に変換され、「データパケット」がcakkhupasādaに到着すると、マインドの「場」であるhadaya vatthuに接触し、木に関する視覚データを心路citta
vithiの5番目で眼の意識が発生して、認識されます。
これが「cakkhunca
paticca rupeca uppajjati cakkhuviññānam」が意味することです。
ここでのcakkhuはcakkhu pasāda rūpa(物質界の肉眼ではなくメンタル界の眼)のことであり、rūpa(rupeca)はdhātuレベルではなく、bhūtaレベルの電磁波のことで、cakkhuviññānamとは脳からの木に関する視覚信号が電磁波に変換されたイメージを心路citta vithiで意識化したもののことです。
無形(非物質)の世界を感知するために、mana indriya(心の感覚器官)があります。
物質的な世界と5つの物理的な感覚の接触と、非物質的な世界とmana indriyaの接触に基づいて、私たちの考えはhadaya vatthuマインドで起こります。
マインドの「場」は脳ではなく、Gandhabbaの微細なメンタル体(manōmaya kāya)にあります。
したがって、人間が感知できるrūpaは、
五感覚器官を介する物質界のrūpaと
目に見えず(anidassana)、触知できない(appaṭigha)rūpa(たとえば、思考、認識、計画、記憶など)のdhammā、mano rūpa、gati、bhava、nāmagottaがあります。
微細なrūpāの感知を担当するのが、mana
indriyaです。
hadaya vatthuは脳ではなくGandhabbaの体にあり、肉体の心臓の領域に重なっています。
どちらのタイプのrūpaも、最終的にはマインド(hadaya vatthu)によって意識化されて体験されます。
このように密なrūpaを体験するために肉体は存在し、それらをマインド(cittaとcētasikaで)は体験するために存在しています。
6感覚器官と6rūpaについて記述している経があります。
Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’ti—iti kho panetaṃ vuttaṃ. Kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃ? Cakkhāyatanaṃ,sotaāyatanaṃ,ghānāyatanaṃ,jivhāyatanaṃ,kāyāyatanaṃ manāyatanaṃ.
Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’ti—itiyaṃtaṃ vuttaṃ、idametaṃ paṭicca vuttaṃ。 Idaṃ paṭhamaṃ chakkaṃ.(1)
Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī’ti—iti kho panetaṃ vuttaṃ. Kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃ? Rūpāyatanaṃ,saddāyatanaṃ,gandhāyatanaṃ,rasāyatanaṃ,phoṭṭhabbā-yatanaṃ,dhammāyatanaṃ.
Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī´ti—iti yaṃ taṃ vuttaṃ、idametaṃ paṭicca vuttaṃ. Idaṃ dutiyaṃ chakkaṃ.(2)
ajjhattikā:内の
āyatana:The 12 'bases' or 'sources' もと、出所、根源、基盤
veditabba:[pt.p.of] should be known
paṇeti:[pa-nī] 適用する,判決する
vattati:[Sk.vartate vṛt] 転ずる,起こる,存在する
kiñceti:To crush,to trample
iti:indecl.thus かく,…と,とて
idaṃ:Here,now,even this thing.
paṭhamaṃ:[adv.] at first; for the first time
bāhirā:From outside
上記のように、6つの(Cha)内部āyatana(ajjhattikāni āyatanāni)と6つの外部āyatana(bāhirāni āyatanāni)があります。
6番目の内部āyatanaはmanāyatanaであり、dhammaを感知します。
Cha ajjhattikāni āyatanāni(6つの内なる元)は六根、
Cha bāhirāni āyatanāni(6つの外なる元)は六境、āyatanāniは処
と漢字仏教用語では訳されます。
触ったり、匂いを嗅いだり、味見したりするのとは対照的に、
目、耳、マインドは外界(物質)に直接「接触する」ことはありません。
意識体の経験とは、結局は、この内と外にあるモノが接触することでしかありません。
このようなrūpaの寿命は有限です(非永続的です)。さらに、存在している間は、予測不可能に変化し、それはviparināma lakkhana(予測不可能に変化する性質)と呼ばれます。
しかし、どんなに一所懸命に努力しても、このようなrūpaを満足できるように維持することはできません。
したがって、このようなrūpaは、どんな喜びよりも苦しみにつながります。
5つの肉体的感覚で外側の世界を「そのまま」(すなわち客観的に)体験しますが、私たちがマインドと交流(対話)するのは、私たち自身の「認識、感情、計画、希望、概念、思想」です。
物質界と非物質界
私たちが「見る」ことができないものはたくさんありますが、私たちは存在することを知っています。
たとえば、ラジオやテレビの信号が周囲にあることはわかっていますが、それらを「見る」ことはできません。これらの信号を感知するには、ラジオやテレビなどの特別な機器が必要です。
非物質的な世界のdhammāはちょうどそのようなものです。
dhammāを感知する器官(mana indriya)が脳にあります。
たとえば、過去の記憶は物質的な脳に保存されていると現在の神経学者は考えています。
しかし、仏法においては記憶は、物質的な世界と共存する非物質的世界にあるとしています。 出典?
物質世界の脳には非物質のdhammā(物質になる前のエネルギー)を感知することはできず、また記憶が保存されているのも、非物質世界であると説いているのです。
ラジオが目に見えない電波を感知できるのと同じように、mana indriyaはそれらの「目に見えない」記憶(およびkamma vipākaをもたらすカルマの種kamma bija)を感知します。
どのようにmana indriyaによって、前世からのすべての記録と数え切れないほどのkamma bijaが分類されるのは不可能であると考えると思いますが、たとえば、世界のどの大都市にもラジオやテレビの信号が空間を占めており、ラジオやテレビを介すれば、それらの電波を信号として感知できるのと同じように、mana indriyaはさまざまな種類のdhammāを感知できるとするのが、仏法による解釈になります。
dhammāは物質世界のsuddhāshtakaステージよりはるかな微細なエネルギーで、これらの集合体が段階的(gati、bhūta、mahā
bhūta、dāhtuという順に)に粗大なrūpaになります。
メンタル界
日常生活で得る知識は、私たちは5つの肉体的感覚器官を介して外界を経験します。
具体的には私たちは目で見て、耳で聞き、鼻で匂い、舌で味わい、体で物に触れます。
それらがすべての経験なのでしょうか?
他の世界から完全に隔離された暗い部屋にいると想像してみてください。
わかりやすい例は、感覚を遮断するための装置であるアイソレーション・タンク(Isolation floting tank)や、昔の軍隊による処罰による独房監禁です。
何時間もの間、完全に隔離された暗い空間に孤立していると、外界からの刺激はないので、本人の過去の出来事を思い出したり、未来を思い描いたりして、あらゆる「想い」の世界で生きることになります。
隔離された部屋に閉じ込められた人は、過去の出来事や将来の希望のdhammāがmana indriyaと接触すると、自分の過去や未来についての考えが生まれでてきます。
5つの物理的感覚以外の感覚との接触は、この6番目の感覚、つまりマインドによるものです。
そして、ヒトは完全に意識がなくなっときにのみ、外界からの信号と接触が完全になくなります。
このような状態でマインドで経験するrūpaがdhammāです。
「manañca paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ」で述べたように、
dhammāとmana indriyaの接触がmanō viññānaにつながります。
密閉された暗い空間にいると5感覚器官は働きませんが、想うことや思うことや考えることはできます。
自分がやりたいことや、過去の出来事についてや、未来予測について、考えることができます。
これらの考えが次々と現れるのは偶然やランダムなのではなく、kamma vipākaによるものです。
つまり過去に作成したエネルギー回路がカタチとなって現れた、という因果関係です。
もちろん、それらを喜んで思い出すことができます。とりわけ良き思い出と将来の希望は。
それら「記憶や想い」はsuddhāshtaka(最小物質)レベルより微細であるdhammāとして感知されています。
dhammāはまずメンタル界のmana indriyaによって感知され、その後にその信号はマインドに送信されて、そこで感知されます。
仏法ではマインドはこの肉体にあるのではなく、微細なrūpaから構成するメンタル体にある、としています。
出典?
記憶や想いを介してマインドによって生成されるkamma beejaもdhammāの一部です。
そして、kamma beejaは時々kamma vipāka、すなわち条件が揃ったので「想い」というカタチでマインドに現れます。
「メンタル界」は「物質界」と同じように私たちの周りにありますが、私たちは「見る」ことはできません。
前述したように、ラジオ、テレビ、携帯電話で受信できることで、ラジオ、テレビ、携帯電話の信号があることを知るのと同じように、mana indriyaで Dhammāを受け取っていることを知ることができます。
洗濯したり、仕事をしている時に、突然遠く離れた友人や職場での出来事について思いが浮かぶことがあるかもしれません。これは、kamma vipakaによってdhammāがmana indriyaに影響を与えたためです。
内外のrūpaがトリガーとなって条件が揃うことで、因果関係の結果であるdhammāが顕出し、それをmana indriyaが感知したということです。
さらに、私たちもそのような記憶を思いのままに思い出すことができます。
これらが、物や人のイメージが頭(マインド)に突然のように浮かんでくる「ランダムな思考」のメカニズムです。
これらのdhammāは、abhiññā(極度の集中力)の力でさえ見ることができないほど微細で、当然のごとく他の5つの粗い感覚器官の網は通り抜けるほど微細なので、感覚器官に接触することはないので、感知されません。
したがって、それらはanidassan appatighan dhammāyatana pariyāpanna rūpanと呼ばれています。
:[pp.] included in; belonging to; got into.
ここでは、anidassanaは「見えない」、appatighaは「(最も微細な器官でさえ)触ったり感知したりできない」、pariyāpannaは「含まれる」ことを意味します。
また、dhammāyatanaはdhammāの器官すなわちmana indriyaのことになります。
最も繊細な感覚器官は、mana indriyaです。
「第三の目」の伝説に伝わるのは、この「mana indriya」です。それは額の裏側に位置することになっています。
mana
indriyaと接触するrūpaはsuddhāshtakaよりも微細なもので、まだgatiの段階にあるものでsuddhāshtakaなる途中の状態です。
目が視覚情報を、耳が音を受け取るように、「mana indriya」は「dhammā」を受け取ります。
5つの物理感覚はすべて、suddhāshtakaから作られた粒子を介して受信された信号を処理しますが、
dhammāは単なるエネルギーなので、メンタル界に属していると言えます。
実際、ほとんどの物理学者でさえ、光を物質すなわち「粒子」とは見なしていません。
単一の軽い粒子(光子)でも非常に多くのsuddhāshtakでできています。
Dhammāはマインドで作られ、そこからgatiが生じ、それが凝縮したbhūtaもマインドによって作られている、と言うことができます。
Dhammāは、実際にはjavana cittaのマインドによって作られたkammicエネルギーのパケットなので、マインドと物質の間のリンクとなります。
すべての6つの感覚によって、私たちのマインドが物質世界と相互作用することを可能にします。
私たちは実際に、物質世界とマインドの世界という2つの世界と交流して生きています。
物理的世界(rūpa lōka)のさまざまなタイプのrūpa(varna、gandha、rasa、ōja、pottabba)はsuddhāshtakaで構築されています。
Dhammāすなわちkamma beejaは、基本的にはまだsuddhāshtakaの状態に固まっていない「エネルギーパケット」です。
各生命体のそれぞれが自分だけのメンタル的印象を作るため、すべての生命体は自分自身のpancakkhandhaによって関連付けられています。
釈尊は、5つのkhandha以外で生き物を定義することはできないと言いました。 出典?
意識体のもつ五蘊pancakkhandhaは、物質界にあるものをメンタル界に変換(rūpakkhandha)して、そこでそのイメージを編集(vedana、sanna、sankhara)することで体験(viññāna)し、その一部をエネルギーとして物質界に還元しています。
五感覚器官感で感知できる「密なrūpa」が「rūpa lōka物質界」にあるように、これらのdhammā(またkamma beeja)は「manō lōka」(メンタル界)にあります。
このmanō lōkaは、kamma bhavaとも呼ばれます。これは、kamma beejaがある場所だからです。
転生で新しいbhavaをつかむと、適切なbhavaに対応するエネルギーの強いkamma beejaが選択されます。
kamma beejaが原因となり、各自の人生においてkamma vipākaも発生します。
長い期間によってkamma beejaがエネルギーを失うと、それらは単なる「何が起こったのかという記録」になります。
こうなるとそれ以上のvipākaを持ち込むことはできず、単なる「思い出」という記録になります。
釈尊は「sabbē dhammā anattā」、すなわち「すべてのdhammāは最後には本質を持たない」と言っており、Nibbānaを達成するために放棄しなければなりません。
しかし、それは明瞭な意志の力であっても不可能です。
Dhammāを含むすべてのrūpaの本当の性質を見るために、本当の性質である三相を理解する必要があります。
想いがdhammāを創出している
私たちは自分でdhammāを創出してこの世界を作っています。
dhammāの基礎は、javana cittaにおける私たちの「考え・想い」です。
javana cittaはkamma beejaを生成し、将来のkamma vipākaを生成します。
このkamma beejaがdhammāです。
dhammā はsuddhāshtakaステージより微細な非常に小さなエネルギーの塊です。
マインドがこのエネルギーを創出しています。
一部のjavana(特にjhāna samāpatti入定)では、suddhāshtakaステージよりも密なエネルギー物質を作成できます。つまり、有形のrūpaを作成しています。
しかし、自分で作るrūpa(kamma beejaを含む)は、各自が満足するように維持させることはできません。
エネルギーを持つrūpaはそのエネルギーゆえに消耗し、最終的には消滅します。
さらに、存在している間にも予期せず変化する可能性があります。それがviparināma(予測不可能な変化)の特徴であり、苦しみの根本原因です。
iddhi(超能力)の力を持つ人だけが前世の人生を呼び出すことができます。しかし、一部の子供たちは前世を思い出すことができます。
しかし、dhammā(複数形)には、私たちの過去のkamma(現在の生活だけでなく、前世の生活からの)のために多数のkamma bijaも含まれています。
それらは単なる記憶ではなく、エネルギーを持っています。
物質とエネルギーはEinsteinの有名な方程式、E = mc2(Eはエネルギー、cは光速、mは質量(物質の量))によって関連付けられることを私たちは現代科学から知っています。
植物の種子が発芽して木になるのと同じように、私たちのkamma bija(kammaの種子、bijabeejaは「種子」を意味します)は私たちのマインドの中で発芽し、kamma vipākaをもたらします。
Buddha DhammaのRūpaを「物質」または「固い物体」と翻訳することはできません。
私たちのマインドはdhammāと呼ばれる非常に微細なrūpaを作ることができ、非物質的な世界にあるdhammāを感知することもできます。
5つの物理的な感覚は、物質的な世界にある「密度のある」rūpāを感知します。仏法では「密度のある」rūpāは最小の「物質の単位」であるsuddhāṭṭhakaの上(大きい)にあります。 (suddhāṭṭhakaは、現在の科学の原子より10億倍小さい)。
28種類のrūpāは、これらの「密なタイプのrūpā」で構成されています。
微細なrūpaは通常rūpaとは呼ばれずに、区別するためにdhammāと呼ばれます。
jhānasにいるとき、cittasはまだ両者の間にあって、物理的な五感に戻ることができます。
jhānasに入っていても、例えば、外部の音を聞くことができます。
しかし、samāpatthiにいるとき、jhānic cittaは長い間絶え間なく流れることができます。
したがって、pancadvāra citta vithiはその間を流れることができません。
したがって、samāpattiにいるときは外部環境にまったく気づくことができません。
amāpattiの場合、jhānic cittaは絶え間なく流れ、それぞれの新しいjavana cittaを「Asēvana Paccaya」の前よりも強くします。
これは、abhiññāの力を持つ人(つまり、容易にsamāpattiに入り、それをうまく実践できる人)が物理的なモノを作成する方法です。
写真の花をマインドでイメージすることからはじめ、新しいjavana cittaごとにsuddhāshtakaを次々に創造し、非常に短時間で実際の花を生成します。
kamma Viññāṇa メンタルと物質を結ぶもの
kamma Viññāṇaはマインドと物質のつながりの架け橋で、suddhāshtakaステージに至らない、マインドによって作られた物質エネルギー(rūpa)です。
重要な点は、kamma viññānaはメンタル界のモノながら、完全なメンタル界ではなく、物質エネルギーでもあるといということです。
PaticcaSamuppādaの「viññāna paccayā nāmarūpa」段階が、メンタルからrūpaへの接続点になります。
Viññāṇaが強くなるにつれてviññāna paccayā nāmarūpaによってnāmarūpaは強化されます。
このnāmarūpaとは、マインドによって作成されたrūpaの最初の段階で、viññānaはこの仲介として機能します。
マインドに「付着するもの」があると、エネルギー(つまり、kamma beejaすなわちdhammā)が生成され、それがkamma bhavaに積み重なり記録されます。
kamma bhavaはメンタル界に属し、枠組とエネルギーはあるがまだカタチには至っていません。
枠組にエネルギーが集積するとカタチになって生まれてくる、エネルギーの入れ物のようなものです。
dhammāにはkamma beejaだけでなく、特定の人物が行ったあらゆる記録も含まれます。
したがってカルマのエネルギーとは関係のないイベント、たとえば、誰かと話したことや何かを見たことや数学の問題を解いたことなどを思い出すこともできます。
nāma gotta(記号の起源)およびkamma Viññāṇa(kamma beejaとも呼ばれる)を含むすべてのdhammāは、メンタル界nāma lōkaにあり、そこから物質エネルギーが作成されます。
dhammā 「Dhammāがすべての物質エネルギーである」
sankataとの同義語がDhammā
涅槃nibbānaでないものすべてがdhammāです。
つまりこの世はすべてがdhammāです。
Dhammāとは仏法において、意識体が「想う」ことによって生じる素粒子より微細なもので、これらが凝集していくと物質エネルギーになるとされています。
語源は、「産む」という意味を持ち、好きなことや関わることを引き受けてdhammāが産まれてきます。
Dhammāは、suddhāshtaka(物質エネルギー)の初期段階と見なすことができます。
Dhammāは、実際にはjavana cittaのマインドによって作られたkammicエネルギーのパケットであり、私たち意識体のgatiのために生じています。
dhammāとはマインドと物質との間のリンク、架け橋のことです。
メンタル界としては「カルマの種子」やカルマの意識と呼ばれ、、物質界としてはエネルギーと呼ばれます。
nibbānaではないものすべてがdhammāなので、いろいろな文脈でいろいろな切口、つまり定義があります。
1 この世の31領域 実体がない(実がない)エネルギー
2 宇宙の「意」が生み出したもの
3 意識体(ヒト)のマインド(心)が生み出したもの マインドと物質の架け橋
4 カルマのエネルギー 「カルマの種子kamma bija」
5 エネルギーを持つ意識 kamma viññāna
6 rūpaを作成するエネルギーのこと
7 Buddha Dhammā釈尊の教えである仏法に象徴される、概念
大乗仏教の「空」と同義語
Dhammā(末尾に長い「a」が付いている)は、主にマインドが生み出したエネルギー
量子力学では光子も分子の一つであると説明されるが、このdhammāは光子分子(photon)よりも10億倍ほど微細である。
dhammaはまだsuddhāshtakaステージ(物質)に「凝縮」されていない。
suddhanshtakaとは、最小の物質単位(現代科学では原子より10億倍小さい)の段階のこと。
“anidassanan appatighan“
目に見えない(anidassana)、触知できない(appaṭigha)rūpa(たとえば、思考、認識、計画、記憶など)があります。
dhammāはmano rūpa(メンタル的物質エネルギー)であり、gatiとbhavaの構成要素です。
dhammāの中にエネルギーのないnāmagottaも含めるのは、nāmagottaは涅槃nibbānaの領域のものではないので、後付けで、dhammāの中に含むようにしたと推定。
nāmagottaはエネルギーを持たない特殊なdhammā、もしくはdhammāに含まれず、外側にある記録です。
gatiとカルパの関係は?
マインドが物質を作るという
「法句経」(Dhammapada verses 1 and 2)
Manō pubbangamā
dhammā
Manō pubbangamā dhammā
manō setthā manōmayā
manō setthā manōmayā
manasā cē padutthēna
manasā cē pasannēna
bhāsati vā karoti vā
bhāsati vā karoti vā
tatō nam dukkhamanvēti
tatō nam sukhamanvēti
cakkamva vahatō padam. chāyāva
anapāyani.
マインドがすべての現象の先がけとなります。
現象はすべて、マインドによって作られたものです。
邪悪なマインド(すなわち、dasa akusalaに関わる)で話すか行動すると、
荷車の車輪がそれを引く牛の足跡をたどるのと同じように苦しみ(dukha)が続きます。
すべての現象はマインドがその先がけとなります。
すべてはマインドによって作られたものです。
純粋なマインド(すなわち、dasa kusalaとpuña kammaに関わる)で話すか行動すると、
幸福(sukha)は自分の影のように従います。
Pubbangama(pubba先、前 + anga)は、「最初に来るもの」を意味。
すべてが準備され(settā)、マインドの物質化現象(manōmayā)である、といいます。
マインドは思考(saṅkhāra)でDhammāを創造しています。
.汚い(padutta)または快い(pasanna)マインドで話したり(bhāsati)行動する(karōti)かによって、
マインドによって生成されるdhammāは苦しみ(dukkhamanvēti)または幸福(sukhamanvēti)に至る(tatō nam)。
汚れたマインドの場合(lōbha、dosa、mōhaで行動する)、荷車の車輪が引っ張っている牛の足跡をたどるのと同じように苦しみが続きます(cakkamva vahatō padam)。
気持ちの良い、道徳的なマインドの場合(alōbha, adōsa, amōhaで行動する)、影が自分を追うように幸せが続きます(chāyāva anapāyani)。
物質レベルに話を限定すると、
身近な所では、心の変化が電磁波となり、脳波検査やMRI検査でグラフとして表現されるということです。
また、カメレオンは視覚からのインプットによって体の色を変化させるようなことです。
つぎには托卵といってカッコウは卵の殻の模様を預ける鳥と似せて産むようにします。
これは、量子力学の実験では、観察者がいるのといないのでは、光が粒子もしくは波動になるか、という話でもあります。
ヒトの想いが未来を作り上げているという各自の人生の話でもあります。
想うことを休憩する訓練も必要なことですが、
これが
「全てモノには「意」が先行している」
“manō pubbangamā dhammā…” 法句経(Dhammapada verses 1 and 2)
という釈尊の教えの深層の意味である。
ヒトは五感器官から信号を遮断される環境になると、このdhammāによってランダムな思考が起こり、過去の出来事や未来の計画を「上演」する。
このマインドが体験をすると顕れる物質エネルギーrūpaのdhammāである。
行った原因によってdhammāが顕れ出てくる。
このような原因をつくることによってdhammāは育ち、やがてdhammāはgathi(もしくはgati)と呼ばれるエネルギー体になり、それを称して、性向、キャラクター、性質、特質、偏向、習慣とよんでいる。
dhammāは顕れては消えていくものであるが、唯一その中で永遠なものは私たちのsankhāraの記録(nāma gotta)」(nāma:by name「意」 マインド gotta:[nt.] clan;ancestry).であり、このnāma gottaだけはエネルギーはなく不変で未来永劫に継続するものである。
nāma gottaは涅槃nibbāna以外でこの世に存在する唯一の不変なものであるのでaniccaの特性を持たない。
しかし、nibānnaではなく、31領域に属しているので、anatta(助けにならない価値がないもの)の特性は持つ。
仏法のdhamma
dhammāは、使用されるTPOに応じて、異なる意味を持ちます。
dhammaは仏教のような教義を指し、dhammāはエネルギーであり、非常に微細なrūpaを指すと覚えるのが一般的です。
Buddha Dhammaとは、仏の教え、すなわち仏法を意味します。
通常はBuddha Dhammaと記述されますが、一部の人はBuddha Dhammāと記述する人もいます。
したがって、文脈に応じて与えられた単語の適切な意味を取る必要があります。
転生プロセスの中では、Dhammāは、私たちが未来のために自分自身を作成し、最終的には苦痛をもたらす原因です。
したがってdhammāには実質がありません。
Nāmagottaとpaññātiすなわち概念にも実質はありません。
それらはすべてanattaです。つまり無力なので、 それらに「掴まっても」意味がありません。
「この物質的な世界のすべてをあきらめる」ことによって達成されるNibbānaのみが、attaすなわち「実体のある」「価値のある」ものです。
Nibbānaを達成することを可能にするBuddha Dhammaでさえ、最終的に(アラハンになると)放棄されるべきです。
ブッダは、仏法を川を渡るのに使用する筏と比較しました。川を渡ると、いかだを背負っていても意味がありません。ですから、仏法でさえ、Nibbānaに到達するまでの価値しかありません。
パーリ仏典経蔵中部第22経『蛇喩経』: Alagaddūpama-sutta,
筏は法dammaの喩えで、涅槃という目的の達成のために法に依拠すべきであるが、目的達成後は法を捨て去るべきであり、法に執着してはならないと説く
パーリ語経典長部の『大般涅槃経』Mahaaparinibbaana Sutta(nta)
川は渇愛(taṇhā)、筏や橋は聖道(ariyamagga)の隠喩
Buddha Dhammaすなわち論蔵Abhidhammaのdhammaとは、ブッダの教えを指します。
この世のすべてを霊魂心物に分類するのであれば、このdhammaも霊ではない存在であるdhammāと同じカテゴリーに入ることになります。
gati
dhammāが集まってgatiができ、それは、「dhammāの流れ」の障碍になったり補助になったりするので、流れに1つの方向性を与えることになります。
川底の石のように。
いくつものgatiが集まり、多くの性向となります。
それが集まるとその人の感性や思考や行動のパターンとなりキャラクターとなります。
川底の石が集まると川の場所によって流れの緩急がつくように。
キャラクターのする行動パターンは習慣となり、その習慣によってgatiはますます確固たるものになり、
また新たなgatiを生み出し始めます。
そしてこれは性格となり、将来のカタチのエネルギー体であるbhavaにつながっていきます。
川は岸をえぐり、新たな川を作るようになります。
利根川や木曽川の下流やアマゾンの上流の新しい川や湖のように。
dhammāは私たちがコミットするkammaのために生じることを実感するのが重要です。
kammaを増やすと、それにdhammāが対応して成長し、gathiになります。
rūpaのgati段階、すなわちrūpaの起源は、「manō rūpa」とも呼ばれます。
これらは、私たちがマインドで視覚化するものです。
過去のシーンを視覚化することができますが、それがmanō rūpaです。
gathiを作成するプロセスでは、関連する物質的なものについて私たちは常に考えます。
それらはmanō rūpaです。
そして、dhammaすなわちkamma beejaは、マインドがあるgatiに対して受容状態にある時には、そのkamma beeja自分のマインドに戻ることができます。したがって、自己供給のフィードバック・ループが繰り返されます。
自分の性格とメンタル的な不純物(kilesa)を形成するのが性向の繰り返しである習慣(gati)です。
もちろん、それらは一生の間でも変化し続けます。
gatiは絶え間なく変化しているという意味で、メンタル体の「動的人格」と呼ばれることもあります。
それが、釈尊が「自己」すなわち「魂」だけでなく「無自己」も拒否した別の理由です。
同じ状態を続ける「自己」はありませんが、来世にも残る各自のgati (そして asavaとkilesa)が形づくっているのでアイデンティティーがあるので、「無自己」とは言いません。
天界や色界や無色界ではマインドの能力が低く、望まないgatiやカルマの種を取り除き、望むカルマの種を育むのが難しい、という、それは何故なのか?
特定のメンタル体のカルマの種(および関連するgati)は、人間の生活の間に大きく変化する可能性があります。人間は自分の運命を変えることができますが、動物はできません。
この世の31の領域のほとんどの領域では、マインドの能力は人間界に比べてはるかに低いです。
したがって、人間以外の領域では、不良なカルマの種を取り除き、良いものを育むことは非常に困難です。
したがって、悪い種を取り除き、100年ほどの短い寿命の間に「良い種」を開発するために最大限の努力を払うべきです。
また、肉体的な死は必ずしも人間としての再生の終わりを意味するわけではありません。
人間のbhava(メンタル体)を得るのはまれなイベントだが、人間のbhavaの間は、また人として多くの転生があるかもしれません。
彼の人間としての転生につながったカルマの種がより多くのkammicの可能性(エネルギー)を残しているなら、人間は何度でも人間として生まれ変わることができる。
それが人によっては過去世の生活を思い出すことができる理由です
しかしkammicの可能性(エネルギー)がなくなると停止します。
悪いgatiから離脱する方法
悪いgati から脱却するには、そのような悪い活動をやめるだけでなく、反対の良いgati を築き上げ、正しい方向に向かい始めるという決意をする必要があります。
世俗の八聖道をたどり、次に八聖道をたどるという順序です。
世俗と正統の違いはリンク先で
持っている特定の悪い習慣を意志の力で素早く取り除くことは、多くの場合でうまくいきません。
Dhammaの重要な教えを学び、理解しながら、忍耐強く、道をたどる必要があります。
「悪いgati」は、2段階の方法で削減し、最終的に排除できます。
(i)活動と意識している思考を強制的に停止します。
行動、つまり思考の最中に気づくことによってgatiに影響を与えます。
(ii)Buddha Dhammaを学び続け、そのプロセスが実際にどのように機能するかを理解し実践する。
言動や思考が導く悪い結果を熟考することが重要な視点の1つです。
Buddhaは次の例を挙げました。
農民は自分の畑を耕作するとき、十分な水を与え、雑草を取り除き、肥料を与える必要があります。
しかし「いつ収穫するのだろうか」という時期については考えません。
必要な作業が行われれば、作物は時間と共に成長し、豊作をもたらします。
同様に、道徳的な生活を送り、dhammaを学ぶことによって道を歩むと、正しい方向に導かれます。
そして、農民が作物が順調に成長しているのを見ることができるのと同じように、進歩を体験することはできますが、1つのステップである最終結果を体験することはできません。
gatiとbhavaとkamma bījaの関係性
自分のgatiには、無数のbhavaがあります。
各bhavaの中には、たくさんのkamma bīja(種)があります。
「不健康なbhava」には、ガンや腰痛などのkamma bījaがあるかもしれません。
同じ人が異なる時間に異なるbhava(例えば、金持ち/貧乏人)を持っているかもしれません
31の中の人間の領域(すなわちbhava)は、「人間のgati 」が生み出す可能性のある膨大な種類のbhavaに対応して、無限の数の小さな枠にbhavaを細分化しています。
javana cittaのマインドによるsuddhāshtakaの創造は、まずgatiを高めることから始まります。
特定のgatiに関連する活動を行うほど、gatiは成長します。
gatiの成長とは、実際にはkamma beeja(種子)の蓄積であり、それはマインド界のkamma bhavaに堆積します。
bhava 枠組の中のエネルギー、領域、 dhammāの集合枠
bhavaを詳細に見ると、その構成rūpaの大きさに準じて、大きく分けて3つ(kāma bhava、rūpa bhava、arūpa bhava)
にわける「界」、細かく分ける31領域があります。
そして31領域のそれぞれの中には、また無数の小さなbhavaがあり、それは入れ物のようになっていて、その中にはこれまた無数のカルマの種子と呼ばれる小さなエネルギーが入っている。
この小さいbhavaにはいろいろな区分があって、健康と不健康、笑いと悲しみ、喜びと怒りなどと相反するものが並んだ入れ物になっている。
だれもが違うbhava、カルマの種子、そしてgatiを持っていることになる。

bhavaと転生
人間の活動のほとんどは、kāma lōkaの官能的な快楽の楽しみに関連しています。
私たちの少人数がjhānicの快楽を楽しむのに対して、私たちのほとんどは通常、五感に関連する官能的な快楽を楽しんでいます。
私たちは、目を楽しませてくれる景色を見たり、耳に心地よい音を聞いたり、舌に心地よい味を味わったり、鼻に心地よい匂いを嗅いだり、体に心地よい物体に触れたりするのが好きです。
5つの感覚機能はすべてkāma lōkaにのみ存在します
Rūpa lōka Brahmā(生命体)には鼻も舌もありません。arūpalōkaにはマインドだけがあります。
ある感覚の欲求を満たすことができないとき、私たち人間はそのような感覚の欲求を満たすために不道徳なことをする傾向があります。これらは、強力なkammapathaに関連するapunnābhisaṅkhāraであり、悪いkammabījaを生成して悪い結果すなわちvipākaを生成し、kāmalōkaの最下位4領域での転生につながる可能性があります。
最下層にあるniraya(地獄)の「悪いkamma bīja」は、強い憎しみすなわちvyāpādaによって生み出されます。、快楽(貪欲)への愛着は他の誰かが同じ快楽を得ることでが憎しみに変わる可能性があります。他の人間の殺害を含むほとんどの凶悪な犯罪は、そのような強い憎しみで行われます。
道を歩むと、徐々に動物、餓鬼、阿修羅、地獄が失われ、いつの日かSōtapannaの段階になります。
したがって、kāma lōkaの最下層での誕生は、kāma rāga だけでなく、貪欲(lōbha)と憎しみ(dōsa)の強い別形によるものです。
少し考えてみると、私たちが行っているabhisaṅkhāraのほとんどは、1つ以上の感覚を喜ばせる活動を対象にしていることがわかります。
通常、不道徳ではありませんが、より少ないカルマ・エネルギーであってもapunnābhisaṅkhāraです。
しかし、これらはapāyāsでの転生にはつながりません。
五感の喜びを切望しているので、それらに愛着を持っており、「pati + ichcha」(すなわち好みや欲望との結びつき)に従って、「sama +uppāda」(それに応じて誕生する)につながります。
したがって、私たちが熱意を持ってこれらの活動に従事すればするほどkāma bhavaでkamma bījaを作り、kāma gatiを強化し続けています。
アラハンも熱意を持って行なうことはありますが、していることに渇望はないのでkamma bījaも作らず、kāma gatiも作りません。
ここが違いです。
一方、感覚の快楽に不満を抱き、rūpa lōkaまたはarūpa lōkaのどちらかで「心の快楽」を楽しむために禅定を育む人もいます。
したがって、kāmarāgaを持っている人はkāma bhavaを生成します。
Rūparāgaとarūparāgaはそれぞれrūpabhavaとarūpabhavaにつながります。
このように、自分のgati に応じて好きなことを習慣的に行うことでbhavaがどのように準備され、強化されているかがわかります。
物事を行うには、kāya saṅkhāraが関与します。それらについて話したり考えたりすることはvaci saṅkhāraが関与します。これが、saṅkhāraが「汚れた考え方」すなわちviññānaにつながり、それがPaṭiccaSamuppādaのステップを介して対応するbhavaにつながる理由です。
このようにbhavaは私たちが行動を通して自分自身を築き上げているエネルギーです。
明らかにされるべきことの一つは、私たちが不道徳な行為をしなくても、私たちが感覚の喜びを切望している限り、私たちはkāma lōka(4つのapāyāsと人間とdevaの感覚領域)で生まれ変わるに違いないということです。
しかし、そのような官能的な渇望は、それ自体では、apāyāsでの転生にはつながりません。
apāyāsでの転生は、apunnābhisaṅkhāraまたは不道徳なsaṅkhāraによるものです。
私たちが感覚の喜びが好きである限り(そしてそれらの危険性に気づかない限り)、私たちはkāma gatiを持ち、したがってkāma bhavaを持ちます。つまり、私たちはkāma bhavaに属する良いと悪いの両方のkammaの種子を生成し続けます。
それでは、kāma lōkaに残ることの危険性は何でしょうか?
たとえば良い家族、良い国、良い地域などで生まれるという環境によって、この生涯で不道徳な行為をしなくても、私たちは生き延びるために不道徳な行為をしなければならないかもしれない悪い環境で生まれ変わるかもしれません。
kāma lōkaから逃れるための方法は、anariya jhānās(rūpajhānāsまたはarūpajhānās)を育み、rūpaまたはarūpa lōkaでの転生を求めることです。
しかし、それでも、将来、kāma lōkaでの転生から「本当に自由」になることはありません。
これは、そのrūpa bhavaまたはarūpa bhavaのカルマ・エネルギーが使い果たされた後、そのanariya(非聖)の人が再びkāma lōkaに生まれ変わるためです。
これがBuddhaが少なくともNibbānaのSōtapannaの段階を達成するために一生懸命努力するように比丘に忠告した理由です。
kāma lōkaでの転生の危険性を本当に知っていれば、自分を巻き込んでいる火を消そうとするほど、急ぐであろうと言いました。
実際、この世界の本質に気づき、その苦境から解放されるためにいくらかの進歩を遂げるとき、人は安心して幸せに感じ始めるでしょう。これはNibbānaのnirāmisasukhaです。
bhavaとは、「この世界」に「生きる」ことを意味します。
この世界とは31領域の世界のことです。
生きるとは31領域に関わるということです。
したがって、bhavaとは「この31の領域の世界」のどこにでも同時に「存在する」ことを意味するとも言えます。
rūpalōkaのjhānāsを育むと、rūpalōkaに存在することにつながることができるkammabījaのカルマ・エネルギーを生成します。
つまり、人間の領域にいる間でさえ、禅定に入ることで「効果的にrūpalōkaに住む」ことができます。
なぜなら、それがrūpalōkaの生命(Brahma)が経験していることだからです。
これがpavutti kamma bhavaと呼ばれます。
さらに、jhānaを実践すればするほど、そのkammabījaは強くなり、jhānaにいる間に死んだ場合、そのkammabījaがupādāna、すなわち死の瞬間を把握するため、そのrūpalōkaにて転生します。
これがuppatti kamma bhavaです。
したがって、そのkamma bījaはrūpa lōka bhavaにあると言われています。
同様に、arūpa jhānāsを実践している人はarūpa lōka bhavaでkamma bījaを育みます。
さらに、人間の生活を送っている間でも、arūpa Brahmaの資質すなわちgatiを発揮する可能性があります。
したがって、特定のbhavaを持っている場合、現世の短期間でそのbhavaで生まれるか(pavutti kamma bhavaと呼ばれます)、または死のときにその領域で生まれる(uppatti kamma bhava)可能性があります。
bhūta
Suddhātthakaは、8つの基本実体で構成される単位を意味します。
「suddha」は「純粋」または「基本」+「attha」は「8」を表し、pure octad「純粋な8進数」とも翻訳されます)
これらのうち4つは「satara mahā bhūta 」です。
四大元素のpatavi土、āpo水、tejo火、vayo風。
これらは確かに物質の最も基本的な単位ですが、それ自体では感知できません。
それらはgatiによって生じます。
Suddhātthakaにはエネルギーのgatiが集まって4つの基本元素とそこから派生した4元素になった言う意味と
メンタル界のgatiという回路により、エネルギーが特定のカタチになることを意味します。
suddhāshtakaがどのように作成されるのか?
suddhāshtakaの生成には、連続して実行される数兆のcitta vithiが必要です。出典?
したがって、そのようなことは普通の人間ではあまり起こりません。
例外はsamāpatthi、つまり第9禅定であるnirodhasamāpattiに入ることが必要です。
patavi、āpo、tejo、vayoの4つの基本単位はavijjā(無明)によって発生し、
varna、gandha、rasa、ojaの他の4つの単位はtanhā(付着)によって発生します。
後者の4つは、patavi、āpo、tejo、vayoに由来するのでupādaya rūpaとも呼ばれます。(upādaは執着する)、実際には、patavi、āpo、tejo、vayoの異なる振動モードにすぎないものです。
satara mahā bhūtaは、マインドによって人間の4つの基本的な「gati」で最初に作り出されます。
pataviの特質は「粗さ」で、汚れたマインドとは「固さ」および「粗さ」です。
āpoの特質は「流動性」と「結合」で、世俗的なものに執着する、または惹きつけられる傾向に由来します。
tējoの特質は「燃えるような、すなわちエネルギッシュ」です。
vāyoの特質は「動き」です。
これらの物質的なものへの渇望は、tanhāによるもう4つのgatiにつながります。
私たちの物事を抽象化する傾向によって、四大元素は違った物質化現象をして、欲望と接触し、近くに置いておきたいと執着することで、再び生み出す渇望によって、
物質的なものへの渇望と嫌悪のため、四大元素とは違うもう4つのgatiである、varna (色)gandha(香)、rasa(味)、oja(汁)と呼ばれる4つのユニットが作り出されます。
それらは私たちの願望に対応して、相互関連し、密接(rassa)を保ち、再生成をします。
これらの8つは単独では発生しないため、「avinibbhoga(不可分の)rupa」と呼ばれます。
それらは常に一緒に発生します。どのsuddhātthakaにもこれらの8つがあります。
各構成要素の相対的な「量」は変化する可能性があるため、1つが特化した要素になったとしても、8つすべてがある程度は存在します。
これは、avijjāがあるところはどこでも必ずtanhāがあり、逆も同じであるということと同様です。
それらはすべてマインドに現れるjavana cittaで作成されます、
abhiññāの力を持つ人々は、花のような物質を大量に生成する可能性があります。
私たちはこれらのユニットから作られたものを所有するのが好きです。なぜなら、私たちはそのような非永続的なものの「実りのない性質」を理解していないからです。
これについては、Mahāhatthipadopama
Sutta (MN 28)で簡単に説明されています。
英語の翻訳はThe Greater
Discourse on the Simile of the Elephant’s Footprint (MN 28)
bhūtaは、そのとらえどころのない性質から別名はゴースト(幽霊)です。
それらは決して感知されることができず、釈尊によってのみ「見られる」ことができます。
釈尊はこれを世界についてすべてを知っていると思っていたMahā Brahmaに説明しました。
Brahmanimantanika Sutta
(Majjhima Nikaya 49)
私たちが物質と呼ぶ、これらの8つの不可分なユニットに固形化する前は、gatiという前段階があります。
このgathiが育まれるとbhūtaすなわち、suddhāshtakaのステージになります。
さらにbhūtaが凝縮すると、mahā bhūtaになります。
Dhammāすなわちkamma beejaは、まだsuddhāshtakaの状態に固まっていない「エネルギーのパケット」です。パケットとは、小包のようなデータの伝送単位を意味します。
suddhātthakaと呼ばれる物質の最小単位の起源
この物質の単位は、現代科学の「原子」よりも10億倍小さなスケールです。
suddhātthakaとは「エネルギーのパケット」であり、物質の基本単位です。
私たちが見ている光の光子に比べてよりはるかに小さいエネルギーです。
巨大な数のsuddhātthakaで、たった一つの光子のエネルギーになります。
つまり、単一の軽い粒子(光子)でも、非常に多くのsuddhāshtakでできています。
かつて、科学は原子が物質の最小単位であると信じていました。しかし、現代科学では原子は多くの「素粒子」の複合体です。それらの「素粒子」の多くでさえ、より多くの構造を持つことが示されています。
「物質の基本単位」がどれほど小さくなるのかまだわからず、現時点が最小単位の探求は終わりではありません。
現在、科学は「物質」と「エネルギー」を区別できていません。
たとえば、「ヒッグス粒子」は単なるエネルギーの塊です。
物質とエネルギーは本質的に同じであり、有名な方程式E= mc2(E(エネルギー)= m(質量))よって表されます。ここで、cは光の速度です。したがって、物質の小さな単位は「エネルギーのパケット」と見分けがつきません。
たとえば、私たちが目にする光は、光子photonと呼ばれる「パケット」になります。
したがって、光子はこの意味で物質であり、したがって、この世界の主要なすべてのものは、「物質」または「エネルギー」と言うことができます。
しかし、この基本レベルでも、「物質」と「エネルギー」の区別があいまいになっています。
したがって、一部の人々が誤って信じているように、物質は「17の思考瞬間」の寿命しかを持たないのではなく、suddhātthakaの寿命はとんでもなく非常に長いのです。
現代の物理学では、一部の素粒子(電子など)の寿命が非常に長いことが確認されています。
したがって、この「すべてのものは急速に現れては消えていく」という考え方は誤解です。
suddhātthakaのステージは、非常に基本的な段階でメンタルのエネルギーが物質に変換される場所です。
これらの膨大な数のsuddhātthakaが融合すると、より凝縮された「mahā bhūta」の状態になります。
brahmas と gandhabbasの微細な体はこのmahā bhūtaで作られています。
私たちの意識的思考はすべて、六感のうちの一つから始まります。
これらの6つの感覚機能により、私たちはこの世で6種類の「外」rūpaを感知します。
多くの人は、rūpaとは世界で見られる「物質的なもの」を意味すると考えています。
しかし、私たちが六感で感じることはすべてrūpaです。これを体系的に説明します。
5つの肉体的感覚で感知したものは、「密なrūpa」と呼ぶことができます。それらは、suddhāshtakaで作られています。つまり、satara mahā bhūta(patavi、āpō、tejo、vayō)で作られています。
mana indriyaで感知されるこのようなrūpaはDhammāと呼ばれます。
これらは単なるエネルギーであり、suddhāshtakaレベルにまで凝縮していません。
bhūtaの性質
yathābhūtañānaの理解 yathā本当の+bhūta物質+ñāna智慧
科学者たちは、物質のもつ幻想的な性質を非常に小さなスケールで検証しました。
1897年にThomson.Jが電子を発見するまでは原子が最小の単位と思われていました。
その後、原子はより小さな単位(陽子、中性子、電子)で構成され、それらも素粒子などの下位の構造を持っていることがわかりましたが、サブユニット(クォークquarkなど)はまだ検知できていません。
量子力学の出現により、物質とエネルギーの区別があいまいになりました。
粒子の質量はその速度に依存し、静止時の質量は最小です。
光子すなわち「光の粒子」は静止時の質量がゼロ、つまり静止質量がゼロです。
つまりエネルギーがゼロになるということでしょうか?
現在では、素粒子の質量をエネルギー単位で表すことが一般的です。
すべての物質が構成されている「最小単位」を把握しようとすると、物質は幻想的な性質を持つことが明らかになりました。
さらに、特定の時間に素粒子の正確な位置を決定することはできません。
たとえば、電子は空間の特定の領域内にあると言うことができるだけです。
したがって、電子はゴースト(幽霊bhūta)のようなものです。特定の場所に固定することはできません。
光の粒子である光子の場合、状況はさらに悪化します。
光子が放出されると、感知器を停止させた後にしか、光子を見つけることができません。
光源から感知器までの光子の正確な経路を確定することは不可能です。
中間にはどこかあったのかもわかりません。
電子はゼロではない静止質量を持っているにもかかわらず、同じことが当てはまります。
これは「量子の奇妙さquantum weirdness」と呼ばれています。
これらの小さな粒子は、幽霊と同じくらいつかみにくいものです。
それはまさに釈尊が言ったことです。
suddhāshtakaは光子よりもはるかに小さく、釈尊はsatara mahā bhūtaが真の「物質の最小単位」であると言いました。
これが釈尊がbhūtaと呼んだ理由です。それらを見ることも、個別に感知することもできません。
上で述べたように、rūpaの最小単位、すなわちsuddhāshtakaは8つのサブ単位で構成されます。
メンタル体
説明してきたこの世界に存在する物質の真の性質について理解すると、その人はyathābhūta ñānaを持っていると言われます。
ただし、読むだけではまだ開始したばかりです。
ñānaは、繊細な部分を理解するにつれて成長します。
Yathāとは「本当の性質」を意味します。
Yathābhūtaとは、マインドを介して生じる物質の本質、すなわちbhūtaの本質を意味します。
釈尊の有名なDhammapada gāthā(法句経)での
「manō pubbangamā dhammā、manō seta manōmayā」
は、「この世のすべてがマインドに起源を持ち、すべてがマインドによって設定され、マインドによって準備されている」ことを暗示しています。
Suddhāshtaka自体は不活性、すなわち「いのち」はありません。
それらはマインドによって、エネルギーが与えられて「kammaja rūpa 」になると「生命」を獲得します。
[kamma+jana+kvi kamma+ja出生 kammaja rūpaは、kammicエネルギーによって作成されます。
Source: Journey to Nibbana: Patthana Dhama
There are kamma that can cause kammaja rupas. These kamma are 12 akusala kamma, 8 kamavacara kusala kamma, and 5 rupavacara kusala kamma altogether 25 kamma can
cause kammaja rupas or rupas generated by kamma.
Source: Pali Kanon: Manual of
Buddhist Terms and Doctrines
'karma-produced corporeality'; s. samutthāna.
このエネルギーは、回転(paribramana)およびスピン(bramana)として埋め込まれます。
その埋め込まれたエネルギーがなくなると、回転とスピンが停止し、再び不活性になります。
たとえば、新しい生命のためにhadaya vatthu(マインドの「場」)は、cuti-patisandhi(死と再生)の瞬間にkammaja rūpaとして生まれます。
そして、その一生涯、hadaya vatthuはその回転と回転を維持します。
埋め込まれていたkammicエネルギーが使い果たされると、その動きは停止し、bhava(メンタル体のエネルギー)は終了します。
その時、新しいbhava(生命)のための新しいhadaya vatthu(マインドの「場」) は、kammicエネルギーによって形成されます。
hadaya vatthu は「vatthu dasaka」とも呼ばれ、dasakaは10を意味します。
これは、hadaya vatthu すなわちvatthu dasakaは、不活性なsuddhāshtakaの8つの部分に加えて、2つのエネルギーモード(スピンと回転)があるためです。
それがdasaka(10個のユニットで構成)と呼ばれる理由です。
この追加されたローテーションとスピンは、不活性なsuddhāshtakaに生命を与えます。
そのエネルギーの力はjavana citta(マインド)によって与えられます。
cittaとhadaya vatthuの関係性は? bhavaとhadaya vatthuの関連性は?
kamma beejaに与えられるエネルギーが多いほど、kamma beejaから発生するbhava(hadaya vatthu)が長く持続します。
同じことが、cuti-patisandhiの瞬間に形成される5つのpasāda rūpa(cakkhu、sota、ghana、jivha、kāya)にも当てはまります。
dasakaにはbhava rūpaとjivitindriya rūpa (navaka(スピンbramana))があります。
bhava rūpaの機能は回転なのか?
私たちの重い肉体自体が完全に不活性(つまり生きていない)であることをはっきりと見ることができます。
実際の生命はgandhabbaにあり、具体的にはhadaya vatthuと5つのpasāda rūpaです。
私たちの体の動きはgandhabbaのkāya dasakaによって制御され、全身に非常に細かいメッシュのように広がっています。
肉体が死ぬと、この生命を次の肉体に運ぶgandhabbaは体を離れ、体は不活性になり、衰退し腐敗し始めます。
体外体験(OBE)の場合、gandhabbaが肉体を離れても、それはまだ肉体(astral projection用語で「silver cordによって)に接続されています、それが体が腐敗し始めない理由です。
したがって、31の領域のすべての生命は、最大5つのpasāda rūpaを伴うhadaya vatthuの超微細な生命が基盤になっています。
具体的には、arupavaccara
brahma領域では、hadaya vatthuのみがあります。
rupavacara brahmaの領域では、hadaya vatthuにcakkhuとsōta pasāda rūpaがあります。
他のすべての領域では、5つのpasāda rūpaがhadaya vatthuとともに存在します。
唯一の例外は最上位のasaññaの領域です。ここでは、kāya dasakaのみがjivitindriyaによって維持されます(思考が生成されないため、hadaya vatthuはありません)。
yathābhūta ñānaのもう1つの重要な教えは、
あらゆる領域のあらゆる生命は、samsāricのスケールでは短命です。
Samsāricのスケールでは、兆年は大海の一滴のようです。
本質的に、生命は、見ることも一時的に存在することも不可能な超微細な体によって維持されていて、すべての「生命」はbhūta(幽霊)のようなものです。
生命はエネルギーがあるからです。
「いのち」にはエネルギーがありません。つまり涅槃nibbānaです。
このyathābhūta ñānaは、肉体についての「ghana(高密度) saññā」を取り除き、体の本当の性質について知るのにも役立ちます。
肉体には「自己」があると信じているため、自分の密度の高い体をとても大切にしています。
Uccēda(高位?) ditthi(見解)を持つ人々(現在のほとんどの科学者や哲学者のように)は、私たちの肉体(およびその脳)がすべてであると信じています。
sāssata ditthiの人は、永遠に生きるメンタル体があると信じています。
釈尊は両方とも間違った見方であることを発見しました。
メンタル体はありますが、bhavaからbhavaへと劇的に変化します。
しばらくの間、devaまたは人間である可能性がありますが、次のbhavaはapāyasにある可能性があります。
私たちの肉体には、「私のもの」とみなすに値するものは何もありません。
この事実を理解すると、sakāya(子宮?) ditthi(Sōtapannaステージを達成するための4つの条件の1つ)が削除されます。ただし、これはsakkāya ditthiを削除する1つの方法にすぎません。
この解釈についてはMūlapariyāya
Sutta (MN 1)“, “Kaccānagotta Sutta (SN
12.15) とMahā Hatthipadopama Sutta
(MN 28)で説明されています。
この世界のすべての物質の前駆体であるsatara mahā bhūtaは、マインドによって作られ、一時的な存在です。
それらは「bhūta」すなわち「ゴースト」です。
そして、他のすべてがそれらから作られているので、私たちはこの世界の「堅実で感触できるもの」は本当はどれもが「幽霊」のようなものです。
この「幽霊」のような性質の知識がyathābhūta ñānaと呼ばれます。
その知識があると、その正しい見解に従って世界を見ることができます。
これは「anu(順じて、倶に) bhūtam」と呼ばれます。
Brahmanimantanika
Sutta (Majjhima Nikaya 49)
“Viññāṇaṃ anidassanaṃ anantaṃ sabbato pabhaṃ, taṃ pathaviyā pathavattena ananubhūtaṃ, āpassa āpattena ananubhūtaṃ, tejassa tejattena ananubhūtaṃ, vāyassavāyattena ananubhūtaṃ, bhūtānaṃ bhūtattena ananubhūtaṃ, devānaṃ devattena ananubhūtaṃ, pajāpatissa pajāpatittena ananubhūtaṃ, brahmānaṃ brahmattena ananubhūtaṃ, ābhassarānaṃ ābhassarattena ananubhūtaṃ, subhakiṇhānaṃ subhakiṇhānaṃ
subhakiṇhattena ananubhūtaṃ,
vehapphalānaṃ vehapphalattena ananubhūtaṃ, abhibhussa abhibhuttena ananubhūtaṃ, sabbassa sabbattena ananubhūtaṃ..”
ananta:[adj.] endless; limitless; infinite.
pabhā:[f.]
light; radiance.
翻訳:「Viññāṇaは目に見えず、無限であり、すべての人の転生プロセスにつながります。
Viññāṇaでは、patavi, āpo, tējo, vāyo,
bhūta, deva, pajapti
brahma, abhassara brahma, subhakinha
brahma, vehapphala brahmaなど、この世界のすべて(sabba)の本質を理解することはできません。
アラハンに到達するまで、人は汚れた意識すなわちViññāṇaを持ちます。
それまでは、この世界のすべてが「幽霊のような」本当の性質を完全に理解することはできません。
つまり、yathābhūta ñānaは完全なものではありません。
Saḷāyatana
Vibhaṅga Sutta (MN 137)
“Rūpānaṃ tveva
aniccataṃ
viditvā vipari ṇāma virago nirodham, ‘pubbe ceva rūpā etarahi ca sabbe te rūpā aniccā
dukkhā vipari ṇāma dhammā’ti evametaṃ
yathābhūtaṃ sammappaññāya passato uppajjati somanassaṃ“
大意:
現在まで存在している、つまり「いま・ここ」のrūpaには、「ゴーストのような一時的な性質」があります。
それが、想定外に変化し(viparinama)、aniccaの性質を持つ理由です。
この本質を理解すると、マインドの喜び(somanassa)になります。
mahā bhūta
bhūtaがさらに密を増したものが、mahā bhūtaです。
bhūtaよりも粗大ですが、dhātuよりも微細です。
したがって、dhātuである感触、香り、味の物質はまだないので、触覚、嗅覚、味覚はまだありません。
ですからdhātuで構成される肉体も当然ありません。
あるのはメンタル体とmahā bhūtaで構成された物質rūpaだけです。
具体的には、hadaya vatthuとcakkhu pasāda rūpaとsōta pasāda rūpaです。
肉体は存在できないので、肉体の視覚と聴覚はありませんが、メンタル体の視覚と聴覚はあります。
rūpi brahmasが住む 16段階にわかれる領域です。
無色界と色界がこのmahā bhūtaによって区分されます。
mahā bhūtaで構成された色界にBaka Brahmāが到達し、そこを普遍的世界、つまり涅槃nibbānaと勘違いしている説話がBrahmanimantanika Sutta (MN 49) にあります。
Baka Brahmāは、
「この存在は私の好みに合わせて維持することができます。それは安定していて、永遠です。それはすべてを含んでおり、過ぎ去るものではなく、生まれたものではなく、老化したり、死んだり、亡くなったり、出現したりすることもありません。もう苦しみはありません。この存在からのさらなる解放はありません。
私はpatavi, apo, tejo, vayoである dhātuへの渇望を克服しました。」と釈尊に言いました。
それに対して釈尊は
「あなたは無知です。あなたのいう「存在」はあなたの好みに適うと言いますが、それはそうではありません。あなたが言うようにそれは永続的ではありません…」
と応えました。
微細なdhātu
数十億個のsuddhāshtakaが組み合わされて、rūpaのmahā bhūta段階に至ります。
多数のmahā bhūtaが組み合わされると、それがrūpaのdhātuステージに至ります。
devaの体はより細かいdhātuで構成されており、私たちの体は、私たちが見るすべての物質的なものと同様に、より密度の高いdhātuで構成されています。
この世界のすべては、patavi, apo, tejo, vayo, Ākāsa,
viññānaの6つのdhātuで構成されています。
そのうちの5つは「物質的な世界」を構成し、viññāna dhātuは「非物質的な世界」を表します。
ちなみに、akāsaは単なる「空の空間」ではありません。他のdhātuが入る枠組になる機能があります。
物質世界の基本的な構成要素は、suddhāṭṭhakaです。
科学者たちは、原子が構成要素であると考えていましたが、今では、素粒子でさえ構造を持っていると言っています。
suddhāṭṭhakaはどの素粒子よりもはるかに細かいものです。非物質的な世界(すなわちメンタル界)には、suddhāṭṭhakaへのメンタル的前駆体があります。
それらがdhammā、gati、bhavaです。gatiに基づいて、javana cittaでsuddhāṭṭhakaを作成します。
膨大な量のmahā bhūtaが融合してさらに凝縮されたときのみ、私たちはそれらを見ることができます。
この高密度に凝縮された状態の物質は「dhātu」と呼ばれます。
deva(天人)の体は、繊細なdhātuで作られています。だから私たちはdevaを見ることができませんが、brahmasはdevaを見ることができます。
肉眼ではなく、mahā bhūtaで構成されたcakkhu pasāda rūpaのメンタル体の眼で見ているからです。
私たちの体は、私たちが見ることができるほど微細ではない高密度のdhātuでできています。
そのため、固体物は「patavi dhātu」と呼ばれます。
そのような固体物のsuddhātthakaは主にpataviで構成されています。
液体は、ほとんどがāpo dhātuで構成されるため、一緒に束ねられて流れます。
火だけでなく「エネルギッシュな外観」をしている物は、多くのtejoによって構成されています。
そして、風だけでなく動きやすい傾向がある物はより多くのvāyoで構成されます。
しかし、(普通の人間の)私たちのgatiは、実際に多くの量のsuddhāshtakaも形成しません。
『起源経』経蔵長部
第27経Aggaññasutta Dīgha
Nikāya 27では、この世界の固体対象がどのように形成されたかについて説明されています。
すべてのモノの起源はgatiです。
dhammāはエネルギーなので、そこに点が必要となります。たとえば、空気中の大気にが「ちり」があると雲が形成されるように。
高密度のdhātu
私たちが見るすべての物質は、高密度なdhātuでできています。
岩は大部分がpataviであるdhātuです。水は主にāpoです。火は主にtējo で、風はほとんどvāyoです。地球、水、火、風がpatavi, āpo,
tējo, vāyoと大まかに呼ばれているのはそのためです。
31の領域のどこかで生まれたとき、マインドを物質的な肉体に縛り付けているのはviññāna(純粋でない意識)です。
マインドの純度が上がると、密度の高いボディを持つ低い領域から、密度の低いボディを持つ領域に移動します。
下の領域(5番目の領域である人間の領域以下)では、マインドは通常、人間の目で見ることができる高密度の体に付着しています。これは密なdhātuのカタチです。 地獄と餓鬼の世界が見えないのはなぜ?
dēvalokā(領域6-11)では、肉体はより細かく精微です。
彼らのマインドには憎しみがなく、したがってより純粋です。
6-11の領域では、ボディはまだ「dhātu」形式のrūpaでできていますが、密度は低くなっています。
rūpalokaとarūpalokaでは、マインドは憎悪と貪欲の両方を欠いているため、より純粋です。
rūpaloka(領域12〜27)では、存在の体はdēvasよりも密度が低く、mahā bhūtaで構成されています。
arūpaloka(領域28-31)では、bhūtaは、依然としてそれらの「gati」に関連付けられています
Dīgha Nikāya 11 Kevaṭṭasutta 英訳を参照すると、これらの領域では、rūpaはエネルギーと区別できないものと考えることができます。
nāmagotta メモリ・レコード 記憶の記録
nāmagottaは、エネルギーが埋め込まれていない単なるレコード(記録)です。
意識体が想い、考え、話し、そして身体的に行動するとき、それらの痕跡が(テープのように)メンタル次元に記録されます。
たとえば、寅さんの渥美清やニューヨークのツインタワーのワールドセンターの物質(肉体やビル)は、もはやこの世界にはありません。つまりrūpaすなわち肉体やビルはsankataとして、消滅しました。しかし、それらのnāmagottaはある程度まではまだここにあります。
それらの記憶すなわちnāmagottaがどれだけ残っているかは、各自がそれらとどの程度密接に関連しているかによって異なります。名前を言った瞬間に、それらのイメージが思い浮かびます。それだけでなく、密接な関係を持った人は、映画を見ているように、その出来事を鮮やかに、そして思い出すことができます。
同様に、私たちは生活の多くの「出来事」すなわちnāmagottaの一部を思い出すことができます。
nāmagottaはエネルギーのない唯一のdhammāとも言われています。
論蔵ではdhammāの1つだと定義されていますが、エネルギーがないので、私見ではdhammāに含めないのが理解しやすいと思います。
一方、これらの活動の痕跡にはエネルギーが埋め込まれている(エネルギーでできている)モノもあります。
私たちがabhisaṅkhāra(強いタイプのsaṅkhāra)をするとき、それは良いまたは悪いkamma bija、すなわちDhammaの形成につながります。その強いkammabijaは、sankata(生き物や不活性なもの)の発生につながる可能性があります
それらは、物質界とメンタル界でカタチになるように、識蘊で待機する潜在力になります。
それらの「カルマの種」からエネルギーを取り外したコピーもnāmagottaの一部になります。
nāmagottaは、何が起こったのかについての単なる記録です。
また受vedanā、想saññā、行sankhāra、識viññānaにもエネルギーでできていますが、これらからエネルギーを取り外したコピーもnāmagottaの一部になります。
たとえば、sankhārāによる現在の想い、考え、行動にはエネルギーがありますが、それらは次の瞬間には過去のものになるので、それらはnāma gotta すなわち記録になります。
何かを実行する(sankhāra)たびに、その「記録」(nāmagotta)が作成されます。したがって、感覚が与えられた「生命」は、始まりのない時間からのすべての活動の記録が残存しており、それがnāmagottaです。
すべての前世と以前の人生のすべての活動は、たとえば映画のリールのように、その「記録の流れ」になっています。
このようにnāmagottaとは、メンタル体の経験した「すべてのイベント」の記録です。
永遠の記録
はじめからエネルギーがないので、生まれることも破壊されることないのはこの世ではnāmagottaだけです。
sankhāra、kamma bija、sankataとは異なり、nāmagottaはPERMANENTです(これらは単なるレコードです)。
Saṁyutta Nikāya 1 8. Chetvāvagga 76. Najīratisutta (SN 1.76) の性質が明確に述べられています。英訳
「Rūpaṃ jīrati maccānaṃ、nāmagottaṃ na jīrati」、
「物質的なものは朽ちて消えていきますが、nāmagottaは朽ちません。」
jīrati 老朽、崩壊
maccānaṃ 死、破壊
そのため、abhiññāの力を持つ者は、過去のいかなる時にあった出来事でも思い出すことができます。
abhiññā神通を通じてanariya jhanasを開発した人は、それぞれの以前の人生のnāmagottāをたどることができます。しかも、よく発達したabhiññā力を使用すると、はるかに深い歴史を精査することができます。
釈尊は驚くほどの速さで好きなところまでさかのぼることができました。
(しかし、彼はどの衆生のnāmagottāの「始まり」を見ることができませんでした。そのため、転生プロセスの追跡可能な始まりがありません。)
私たちはこれまでの生活の多くの「出来事」すなわちnāmagottāの一部を思い出すことができます。
一部の幼い子供たちは、前世のnāmagottāのいくつかの出来事を思い出すことができます。
これらはabhiññāの力でできることに非常に似ています。 abhiññāの機能は記憶すなわち各自のnāmagottāにある過去のイベントを振り返る能力を大幅に拡張します。
私たちは、saṅkhāra(すなわち計画)を作成しますが、長期にわたってはうまく機能しないので、苦しみを受けています。したがって、それらのsaṅkhāraは最後にdukkhaにつながり、結果的に長期的には助けになりません。
しかし、このnāmagottaはエネルギーがないので、他のタイプのdhammāとは違い、で苦しみにつながりません。
したがってaniccaやdukkhaの特性はありません。
しかし涅槃nibbānaのモノではないので、本質的に必要なものは何もありませんのでanattaすなわち、実体がない特性はあります。
「nāma gotta」と「kamma bījaカルマの種子」の違い
すべてのイベントの記録は、そのイベントが完了するとすぐに「nāmagotta」に入ります。
しかし、いくつかのイベントはabhisaṅkhāraを介して生成された「良い」または「悪い」強いkammaを含みます。
abhisaṅkhāraには、apuññaabhisaṅkhāra、puññaabhisaṅkhāra、āneñjaabhisaṅkhāraの3種類があります。
これらは、PaṭiccaSamuppādaの「avijjā paccayā saṅkhārā」ステップのabhisaṅkhāraのタイプです。
別の言い方をすれば、そのような行動がkammaの種子の形成につながります。
それらは因果の結果kamma vipākaをもたらす可能性があります。特に強いkamma vipākaは転生につながる可能性があります。
しかし、そのようなkammaの種子がvipākaをもたらす機会を得ないならば、それらのエネルギーは長い間にわたれば使い果たされます。その時点で、それらはに関連するエネルギーはなくなり、ただの「nāma gotta」になります。
kammaの種子は、それ自体で、たとえ私たちがそれを思い出そうとしていないとしても、私たちにārammaṇa(対象)を思い起こさせることができます。
つまり、出来事の記憶を取り戻すことができます。
さらに、強いkamma種子に関連するこれらの出来事を思い出すのは簡単です。そのような出来事は私たちにとって重要であり、したがって、それらを思い出すのは簡単です。一方、nāma gottaは思い出すのがより困難です。
kamma bijaはそのエネルギーのために、それ自体でārammaṇaを頭に浮かび上がらせることができますが、nāma gottaにはエネルギーがないので、思い出される必要があります。
換言すればマインドのエネルギーを照射することによってカタチになります。
Upādāna なぜ他のものよりも何かを思い出しやすいのですか?
過去のすべての行動(およびスピーチと思考)の記録が「nāmaloka」に「永続的に保存」されています。
ただし、過去のイベントのいくつかは、他のほとんどのイベントよりも簡単に思い出すことができます。昨日起こったことすら思い出せないことが多いのに関わらずです。
思い出しやすいものには、私たちがマインドの中で「近づき続ける」傾向があるイベントであるからです。
それは、貪欲、怒り、または無知から起きている可能性があります。
美味しいものを食べたらまた味わいたくなります。
誰かが「悪い」ことをした場合、私たちは怒りからそれを忘れようとしません。
また、無知から意味のない「面白いこと」(たとえば、繰り返してしまう貧乏ゆすりなどの癖)を覚える傾向があります。
単なる「記録」すなわち「nāma gotta」に加えて、そのような「記憶に残る」イベントはメンタル界nāma lōkaにエネルギーを残しています。
それらがカルマのエネルギーであり、kamma bhavaの中にあるものです。
kamma bhavaとは、まだカタチになっていない枠組の中のあるエネルギーの塊です。
それらは、javana cittaのkamma viññāṇaに由来します。
そのようなイベントがabhisaṅkhāraによって生成されたものです。
nāmagottaの保管場所
記憶とは誕生から死までをノンストップで記録し続けるビデオカメラのようなものです。死んでもカメラは廻り続け、次は新しい生を記録し始めます。
全ての前世が記録として永久に残存されるのがnamagottaと呼ばれるもので、これらが積み重なっているものがこの5つの塊すなわち五蘊(色・受・想・行・識蘊)だという解釈があります。
五蘊pancakkhandhaが過去、現在、未来にわたっているのに対して、Namagottaは過ぎ去ったことだけなので五蘊pancakkhandhaのほんの一部でしかない、という解釈もあります。
私たちは未来における計画を立てます。未来についてのイメージも五蘊pancakkhandhaの中での出来事です。
Namagottaとは既に起こったことだけを記録したものなので、未来のイメージははNamagottaとは呼びません。
しかし、今の瞬間が過ぎるか否や五蘊にNamagottaが付け加えられます、という解釈もあります。
私見では、Namagottaの保管場所は、メンタル界と物質界との架け橋になっている五蘊ではなく、9段階に変容するcittaの2番めに当たるmano界だと考えています。
ヨーガ派用語のprakritiであり、ātmanが根本自性prakritiを観照する以前のまだ3つのグナのバランがあり、時空と方向性がなく、エネルギーが発生していない状態です。
ここがこの世で唯一のエネルギーのない「場」とも時空とも呼べない存在だからです。
rūpaの特徴と種類 物質界とメンタル界
rupaの性質と輪廻転生
この世界である31領域の存在(生命)は、私たちのこの世の「モノrūpa」への愛着によって維持されています。
マインドがこれらの外部のrūpaに接触すると、assādaと呼ばれる短い感覚の楽しさを生み出します。
私たちはこれらの感覚の接触を長続きする楽しいものだと認識しているので、私たちは意図的にそのような感覚の喜びを望みます。
しかし、それらを得るために、どのような苦しみを経験しなければならないこと見ようとも知ろうともしません。
この世に発生しているいかなるrūpaも、予期せぬ変化(viparināma)と、最終的には老朽して崩壊します。
これがaniccaの性質であり、この世の基本の事実です。
しかしrūpaにも種類があり、崩壊するスピードも各段階により異なります。
Rūpaを、内部と外部で大別することもできます。
外部のRūpaは外界を構成し、。内部のRūpaは、実際の「感覚」を経験するメンタル界の非常に微細なpasada rūpa(cakkhu、sota、ghāna、jivhā、kāya)だけでなく、物質界の肉体も含まれます。
pasada rūpaとは、肉眼、耳、鼻、舌、肉体からの物理的信号をメンタル界の電磁波に変換したものです。
非常に繊細なpasada rūpaは「メンタル的身体」すなわちgandhabbaの中ににあります。
メンタル界と物質界のrūpaの種類
仏法では、31の領域の「この世界」にあるすべてのものを、manaすなわちmanō(マインド)とrūpa(物質)の2つのカテゴリに分類できます。
マインドはcitta(想い)であり、想いのメンタル的特性はcētasikaです。
それ以外はすべてrūpa(物資的形状)です。
文脈によってはrūpaは拡大解釈されて、涅槃nibbāna以外のものであるdhammāエネルギーもrūpaに含む、すなわち、この世はすべてrūpaであるという定義もありますが、
このブロックではdhammāで構成されているメンタル界とdhātuで構成されている物質界に区別することにします。
多くの人は、rūpaは単なる身体または「物質的なもの」であると考えています。
rūpaのより良い翻訳は「物質とエネルギー」です。
31の領域ではcittaとcetasika以外のすべてはrūpaです。
私たちが五感で経験するrūpaには5つのタイプがあります。
目(cakkhu)で、私たちはvaṇṇa rūpa(目に見えるものは何でも)を経験します。
耳 (sōta)で音(sadda)、鼻(ghāna)で香り(gandha)、舌(jivhā)で味(rasa)、身体(kāya)で感触(phoṭṭhabba)を経験します。
匂いは、鼻に入る小さな粒子、味は、舌の味蕾に触れる食べ物や飲み物の物質、触覚は「物質的なもの(圧力のあるもの)」どうしの接触です。
しかし、対象を見るには光、すなわち粒子(物質)でもあり波動(エネルギー)でもある光が必要です。
音も同様にphontosと音波という物質とエネルギーです。
これらのvaṇṇa rūpa(またはvarna rūpa)は「物質とエネルギー」であり、最終的には単なるエネルギーです。
20世紀に入って以来、科学は物質が単なるエネルギーであることを確認しました。それらはアインシュタインの有名な式E = mc2によって関連付けられました。
“cakkhuñca paṭicca
rūpē ca uppajjāti cakkhu viññāṇaṃ.“の意味するところは、
眼という感覚器官に光粒子が当たることで、視覚という意識が生まれることを意味します。
したがって、vaṇṇa(rūparūpaとも呼ばれます)、sadda、gandha、rasa、およびphoṭṭhabba(五感)では、rūpaは実際にはエネルギーおよび粒子の一種です。
現代科学は今、物質とエネルギーの間に区別がないことに同意しています。
そして、物質/エネルギーはマインドによって作成されます。
bhūtaレベルより大きい物質は、最終的には超新星型爆発などの「lōka vināsa」で破壊されます。
そのときには物質はすべてgatiレベルに引き上げられ、爆発後の新星と惑星と衛星が誕生のプロセス時にgatiからbhūta、dhātuに凝縮し、それを構成要素として生命体が誕生していきます。
したがって、rūepaは「密度」が低いエネルギーから、目で確認できる「高密度」な固体対象まで変化する可能性があります。
rūpaは3つの段階を経て高密度になります。
「gati」段階では、エネルギーと同義です。
「bhūta」の段階では、それらはより凝縮されますが、人間の目はまだ見えません。
(これが、人間が見ることができない存在がパーリ語で「bhūta」と呼ばれる理由です)。
人間の目で確認できるのは「dhātu」の段階だけです。
Parinibbāna(アラハンの死)では、マインドは3つの形式(dhātu, bhūta,gati)のいずれのrūpaにも執着していません。
31の領域のどこかで生まれたとき、マインドを物質的な肉体に縛り付けているのはviññāna(純粋でない意識)です。
マインドの純度レベルが高くなると、感覚の対象が、密度の高い領域から、密度の低い領域に移動します。
より深いレベルでは、aniccaの性質、つまり私たちが何ものも満足に維持できないことは、あらゆるrūpaが老朽する(無常)だけでなく、予期しない変化(viparināmaの性質)にもさらされるという事実に基づいています。
したがって、Nibbānaを達成することは、完全に浄化されたマインドを達成することであり、それは、老朽と再生を繰り返しにつながる身体への負担を拒否します。
31の領域では、
密度の高い肉体(kāma loka)、
微細元素の体(rūpaloka)、
「gati」のカタチにある「エネルギー」の痕跡(arūpaloka)
と区分されており、ヒトは肉体とメンタル体とgati体(魂)があり、マインドがそれらの体から解放されるとき、それがNibbānaです。
仏法における28種類のrūpa(物質的形態)
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Concretely Produced (Nipphanna) 具象的 |
Abstract (Anipphanna) Rupa 抽象的 |
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I. Great Elements (Mahā
Bhuta) 4大元素 |
VII. Limiting Phenomenon 限定された現象 |
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1. Pathavi (Extension/Hardness)伸展/硬度 |
19. Ākāsa dhātu (space element)
空間要素 |
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2. Apo (Cohesion/Fluidity)
凝集性/流動性度 |
IX. Communicating (Viññatti) Rupa |
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3. Tejo (Heat/Hotness)
熱温 |
20. Kāya
Viññatti |
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4. Vāyo (Motion/Pushing
& Supporting) |
21. Vaci
Viññatti |
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II. Internal (Pasāda) Rupa 内部 |
X. Mutable (Vikāra) Rupa可変 |
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5. Cakkhu (eye
element) |
22. Lahutā (lightness)
明るさ |
|
6. Sota (ear element) |
23. Mudutā (Elasticity)
弾力性 |
|
7. Ghāna (nose
element) |
24. Kammaññatā (weildiness) 使いやすさ 適応性 |
|
8. Jivhā (tongue
element) |
XI. Material Qualities (Lakkhana Rupa) |
|
9. Kāya (body
element) |
25. Upacaya (production)
生産 |
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III. Gocara (Objective) Rupa対象物 |
26. Santati (continuity)
連続 |
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10. Vaṇṇa (visible) |
27. Jaratā (Decay)
減衰 |
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11. Sadda (Sound) |
28. Aniccatā (Dissolving)
溶解 |
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12. Gandha (Smell) |
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13. Rasa (Taste) |
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* Phoṭṭhabba (Tangibility,
warmth, and movement) 触覚、暖かさ、動きcomes
from 3 mahā bhuta of pathavi, tejo, vāyo |
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IV. Bhava Rupa |
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14. Itthi (Feminine) |
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15. Purisa (Masculine) |
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V. Hadaya (Mind Base)
心の基盤 |
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16. Hadaya
Vatthu (seat of the mind) |
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VI. Life |
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17. jīvitindriya (Life
faculty) 生命機能 |
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VII. Nutritional栄養 |
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18. Oja (Nutriment) |
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rūpaの種類
4大要素(#1から#4)と4つのgocara rupa(#10から#13)は常に一緒に表われます。
それらはそれ自体では決して感知されることはありません。
それらはsuddhāṭṭhaka(8種類のrūpaによる最小の集合体を意味します)として一緒になります。
paṭisandhi(死)の瞬間にカルマ・エネルギーによってのみ作成された9つのrūpaがあります。
それらは5つのpasāda rupa(#5から#9)と、メンタル体のマインド(hadaya vatthu)にある4つの他のrupa(#14から#17)です。
青でハイライトされている16のrūpaは微細(sukuma)rūpaです。他の12は粗雑(oḷārika)rūpaです。
Nipphanna rupaは、kamma、citta、utu(tejo)、およびāhāra(oja)によって引き起こされます。
他の10(anipphanna rupa)は、kamma、citta、utu(tejo)、およびāhāra(oja)によって引き起こされたり調整されたりすることはありません。
表の右側にある10種類のanipphanna rūpaは抽象領域のrūpaです。
3領域とrūpaの種類
28のrupāはすべてkāmaの領域(欲界)で発生しています。
sadda、5つのvikāra-rupā、jarātarupa、およびaniccatā-rupaを構成する8つのrupāは、誕生の瞬間(patisandhi)には発生しませんが、生涯の間、形成されないrūpaはありません。
Asañña領域を除く15 rupaの領域では、23のrūpaが発生します(ghana-pasāda, jivha-pasāda, kaya-pasāda, itthi-bhava 、purisa-bhavaは除外されます)。
Asañña領域では17 rūpaしか発生しません。それらは8つのavinibbhoga(4つのmahābhutaとvaṇṇa、gandha、rasa、oja)そしてjivita rupa、ākāsadhatu、3つのlahutadi、および4つのlakkhana-rupāです。
arupaの領域では、(hadayavatthを除く)suddhāṭṭhakaレベルを超えるrūpaは発生しません。
したがって、物質の痕跡は31領域のどこにでも存在します。
8つすべてのanariya jhānāを達成した古代のヨギは、arupa lokaでrūpaを見ることができず、それがNibbānaであると推測しました。
しかし、arupa lokaに達した者も、将来には他の領域で生まれ変わるため(少なくともSotāpannaの段階に達しない限り)、arupa loka でもrūpaは「足場」を持っています。
したがって、arupa lokaでは物質エネルギー(転生プロセス)とのつながりが切断されていません。
三蔵によるrupaの定義
以下は三蔵のDhammasaṅgaṇī(法の編纂)セクションの2.2.3. Rūpavibhattiからの引用です。
saṅgaṇhāti:[saṃ + gah + ṇhā] treats kindly;
compiles; collects
rūpaのテクスチャすなわち堅固性は密度の粗密
密度と苦しみ 欲界Kāma lōka、色界rūpa lōka、無色界arūpa lōkaの特徴
生命体が感覚の接触を経験し、楽しむ(または苦しむ)方法は、「生命」の3つの領域によって異なります。
欲界Kāma lōka、色界rūpa lōka、無色界arūpa lōkaです。
生命体は、この世界から喜びを得ることを期待しているため、この世界に愛着を持っています。
そのような喜びは、Rūpaと接触することによって得られます。それらにはさまざまな密度のrūpāがあります。
一番高い密度のrūupaであるdhātuで構成された世界が欲界Kāma lōkaです。
ほとんどの「粗いōlārika」感覚接触はkāma lōkaでのみ可能です。
人間の領域(およびその下の領域)で経験するrūpaは、dhātuと呼ばれる最も密度の高い種類のものです。
devaの領域は、私たちには見ることのできない、より繊細なdhātuで構成されています。
6つのdeva領域は、人間の領域よりも大幅に柔らかくなります。
devaの体ははるかに繊細で(メンタル体のように)通常の人間はそれらを見ることができません。
ヒトが感知する世界は5感覚器官と心の器官の2種類があります。
密度が高くて一番強いのは感触です。次に、味、匂い、視覚、音、その順で密度が低くなります。
最も柔らかい接触は、dhammaを通してです。これは非物質界です。考えたり、将来についての計画をしたり、過去のことを思い出したりします。
なぜ粗いniraya地獄の世界は見ることができないのか?
それとも地獄とは1次元や2次元のことを指していて、すでに見ているのか?
Rūpa lōkaには、最も粗い感覚の接触(触覚、味覚、嗅覚)はありません。
Rūpa lōkaはbhūtaで構成されているので、3感覚器官の信号であるdhātuは存在しないからです。
16のRūpa lōkaの領域では、Brahmā(生命)はマインドに加えて、視覚的および聴覚的接触のみが利用可能です。
ヒトがRūpa lōkaを訪ねられるとしても木のような「固体の対象物」はないので、見るものはないでしょう。
rūpa lōkaには、微細で微妙なrupaだけが存在します。
rūpa lōkas(色界)のrūpi brahmas(生命)はmahā
bhūtaと呼ばれるさらに繊細なrūpaを経験します。
ただし肉体は持たず、粗いrūpaであるdhātuを判別できなので、触感、味、香りを感知することはできません。
微細なrūpaである光や音の周波は判別できるので、見たり聴いたりすることはできます。
4つのarūpa lōkaの領域にいるarupi Brahmā
は、マインドだけを持ち、suddhāṭṭhakaステージよりも微細な最高に微細なrūpa (dhamma)だけを体験します。
Arūpalōkaはkāmalōkaやrūpalōkaにあるような「凝縮されたrūpa」がないことを意味しますが、もちろんdhammāは存在します(これらのarūpaの存在は私たちと同じように過去の出来事を考え、思い出すことができます)。
Arūpa lōka(無色界)の4つの領域では、suddhāṭṭhakaによって構成された「密度のある物質」はありません
(arūpa Brahmāのhadaya vatthuを除く)。
物質の最小単位で作られたbhūtaの痕跡であり、そしてはるかに繊細なgati(またはgathi)があるだけなので、光も音波も感知することはできません。
Arūpa lōkaの存在(生命)はdhammāのみを経験します。彼らは五感のいずれも持っておらず、マインドだけを持っています。
したがって「rūpalōka物質界」は、kāma lōka とrūpa lōkaの生命だけがアクセスできます。
「夢の世界」と無色界の共通点
私たちが夢見るとき、私たちは人や物質的な物体を「見る」のです。
しかし、それらは物理的な場所ではなく、非物質界にあります。そして、私たちはそれらの夢を私たちの目で「見る」のではなく、mana indriyaで「見て」います。
私たちが眠るとき、私たちの五感は機能しません。しかし、脳のmana indriyaは機能します。
科学者たちは、睡眠中に脳の一部が活動していることを確認しています。
夢の世界とArūpalōkaでの経験は、共通点もあります。
どちらも5感が機能していないので媒体はdhammāであること、そして他者からの話を聴いたり、本を読んだりすることができないという点です。
Arūpalōkaでの「生命」は、熟慮することができます。ただし、読むことも聞くこともできません。したがって、聖人から三相(anicca、dukkha、anatta)や四諦(pancakkhandha)について学ぶことはできないので、arūpa lōkaではNibbānaのSotāpanna段階に至ることはできません。
このため、悟りを開いた釈尊は、禅定の師であった2人にそれをすぐに伝授しようとしたのです。
転生してしまうともう伝えることができなくなるからです。
釈尊が禅定してArūpa lōkaで思念として伝えられるのではないか?
gatiを消すには、そのgatiに関連する感覚を心が穏やかな状態で再体験する必要があるが、arūpa界ではご感覚器官で作ったgatiがそのまま残存してしまうからではないか。
しかし、Arūpa lōkaに転生する前にSotāpannaの段階に達していれば、そこで瞑想して熟慮できるので、Sotāpannaより高い段階の「道」を歩むことができます。
rūpa lōkaとarūpa lōkaの両方のBrahmāは、kāma lōkaで利用できる「kāma assāda」(ā-sādiyati楽味)の危険を目にしました。
彼らはヒトも感じるjhānicの快楽を享受し、「粗い」感覚の快楽よりもjhānicの喜びを大切にしてきました。彼らは、触覚、味覚、および嗅覚を介することで可能な「粗い」感覚の快楽への渇望は放棄しました。
密度と感覚の具体例です。
祖母が孫の笑いや周りで踊るのを見て楽しい時間を過ごしているとしましょう。
最初は遠くから見ていて、小さな赤ちゃんが楽しんでいる姿を楽しんでいるのかもしれません。
それから彼女は近づき孫を抱擁します。遠くから見るだけでは十分ではありません。
彼女は孫に触れたちと感じます。
孫が小刻みに動き続け、楽しい時間を過ごすと、祖母が孫にキスを始めます。場合によっては、祖母が気づかずに抱きしめすぎて孫が苦痛で泣き叫ぶかもしれません。
これが、極端な感覚の喜びへの渇望が苦しみにつながる例です。
もちろん、最も苦しみにつながるのはōlōrika感覚の喜びへの渇望です。
しかしrupiと arupiの領域にも苦しみはあります。arupi Brahmāのレベルでさえ、愛着が最も柔らかなrūpa (dhamma)の喜びのみである場合でも、その存在を放棄して人間の領域に戻らなければならないとき、最後には必然的に苦しみがあります。
「密度の低い」領域では苦しみが軽減
したがって、必然的な苦痛の程度は、感覚的接触の「密度」と関連しています。
痛み、うずき、病気があるのは、下位5領域(人間の領域を含む)だけで、その密度の高い肉体です。
より高い領域では、それらは存在しません。これは、ボディマッサージ、セックス、食事、香りなどの「粗い接触の快楽」を体験できるために人間が支払わなければならないことです。
kāma lōkaにいる私たち人間は、親密で「粗い」感覚の喜びを楽しみます。さらに、ほとんどの場合、感覚の喜びを楽しむだけでは十分ではありません。
私たちは感覚的な喜びをもたらすものを「所有」するのが好きです。たとえば、人々は別荘や時計や服やバッグを「所有する」ことを好みます。借りるだけでは十分ではありません。
楽しいものを「所有する」傾向は、密度の低い領域では減少します。
brahma lōkas、特にarupi brahmaの領域では「所有」する重要なものはほとんどありません。
聖道の歩み
Nibbānaのより高い段階に到達するにつれて、「粗い」感覚の快楽への渇望、および「所有する」ものへの欲求が低下します。
Sotāpannaはkāma assādaの危険を「見た」だけです。
彼/彼女はまだそれらを楽しんでいます。したがって、彼/彼女はまだkāma lōka領域で生まれますが、apāyāでは生まれません。
Sakadāgāmiは、まだ「kāma assāda」を楽しむことができますが、喜びを与えるものを「所有」する意欲はありません。いい家を借りるだけで十分で、いい家を所有したいという欲求はありません。実際、Sakadāgāmiは「物を所有すること」の負担をはっきりと見れます。Sakadāgāmiは人間界より上の領域でのみ生まれます。
Anāgāmiはkāma assādaを楽しむことに特別な関心はありません。彼/彼女は空腹を癒すために食事をします(しかし、提供されるとおいしい食べ物を食べます。)
Anāgāmiは、いかなる感覚的な喜びよりも「Dhammaの喜び」を優先させます。(もちろん、ここでの Dhammaは仏法です)。彼/彼女は、死の際にAnāgāmisのために予約されたrūpa領域で生まれるので、kāma lōkaで生まれ変わることはできません。
アラハンは、jhānicな快楽さえも望んでおらず、死後は31の領域のどこにも生まれません。
それぞれの居住可能な惑星系(cakkavāla)には、31の存在領域がありますが、私たちの惑星、すなわち地球では、人間と動物の2つの領域しか見ることはできません。
Rūpakkhandhaの特徴
RūpaとRūpakkhandhaの違い
rūpakkhandhaを単純に「カタチの集合体」と翻訳すると、「モノの集合体」という誤った印象を与える可能性があります。そのため、ここではあえてパーリ語のrūpaとrūpakkhandhaを使用します。これらに完全に対応する日本語がなく、日本語に置き換えることで本来の意味が誤って捉えられることを避けるためです。
「rūpa」と「rūpakkhandha」の違いを理解するためには、まず、釈尊が「rūpa」という言葉で何を意味しているのかを理解することが重要です。
1.釈尊における「rūpa」とは何か
パーリ語の **rūpa** は、慣習的には「形」「物質」などと訳されています。しかし、仏法におけるrūpaは、私たちが日常的に考える「目に見える固体のモノ」だけを意味するものではありません。
rūpaについての定義は、パーリ語経典の相応部(Saṃyutta Nikāya)SN 22.56やSN 22.57など、Tpiṭakaの多くの場所にあります。 英語訳はSN
22.56やSN
22.57です。
概要すると、rūpaは四大要素(mahābhūta)と、それらを基礎として成立する派生した色法によって構成されています。
ここで重要なのは、四大要素からなるrūpaが、必ずしも私たちがイメージする「固体の物体」を意味するわけではないということです。
2.rūpaは「固体」や「素粒子」だけではない
私たちは通常、人体、木、家、岩など、目に見えて触れるものを「物質」と考えます。しかし、仏法におけるrūpaは、それよりも広い範囲を含みます。
たとえば、五つの身体感覚器官、すなわち、眼、耳、鼻、舌、身体を通じて経験される対象も、rūpaに含まれます。
それから、パーリ仏教では私たちのメンタルもrūpaの容器によって成立していると考えるので、メンタル自体はrūpaではありませんが、メンタルのあるところにはrūpaがあります。
3.現代的な「物質」と「エネルギー」との違い
現代の言葉では、人体、木、家などの目に見えるものを「物質」と呼び、光、音、熱など、目に見えないものを「エネルギー」と呼ぶことがあります。
100年ほど前に、アインシュタインのE = mc2の公式により、現代科学は物質とエネルギーは本質的に同じであることを認めました。重力から存在することは分かっていますがまだ計測されていない現代科学のダークマターやダークエネルギーもrūpaのカテゴリに含まれると推察できます。メンタルではないものはrūpaと涅槃nibbānaしかないからです。
伝統的なアビダンマの説明では、四元素から構成されるsuddhāṭṭhaka(浄き8)が物質エネルギーの最小単位で、現代科学では想像を絶するほど小さく、原子や電子よりも数十億倍も小さいものだとされています。
仏法では、これらのrūpaを、さらに細かく分析して捉え、上座部アビダンマでは、rūpaを28種類の色法として分類します。
4.28種類のrūpa
上座部アビダンマでは、上記の図表のようにrūpaは全部で28種類に分類されます。
この28種類の中には、私たちが通常「物質」と考えているものだけではありません。
感覚器官や感覚対象、生命などに関係する28種類のrūpaのうち、日常的な意味での「物質」や「固体」とは異なるものも含まれています。
したがって、rūpa=物体と理解すると、28種類のrūpa全体を理解することができません。
5.rūpaとrūpakkhandhaは分類基準の違い
ここまでが、rūpaを理解するための基礎です。
では、rūpaとrūpakkhandhaは何が違うのでしょうか。
rūpaは、物質的現象・色法を指す言葉です。
一方、rūpakkhandha(色蘊)は、五蘊(pañcakkhandha)の一つとして分類されたrūpaです。
つまり、両者はまったく別の種類のものを指しているのではありません。
rūpaという法を、「五蘊」という分類体系から捉えたものがrūpakkhandhaです。
この違いを理解するためには、まず「rūpa」という言葉が、私たちの日常的な「モノ」や「形」という意味よりも、はるかに広い範囲の現象を指していることを理解しておく必要があります。
そのうえで、rūpaを「五蘊」という観点から分類したときに現れるのが、rūpakkhandha(色蘊)です。
rūpa(色法)とrūpārammaṇa(色所縁)とrūpakkhandha(色蘊)
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用語 |
何を指すか |
特徴 |
富士山との関係 |
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rūpa(色法) |
物質的現象 |
物質とメンタルをブッダが分けた物質 |
富士山そのもの |
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rūpārammaṇa(色所縁) |
眼識が取る視覚対象 |
感知が発動する原因となる信号 |
「見られている富士山」 |
|
rūpakkhandha(色蘊) |
五蘊のうち色法をまとめた分類 |
各自の体験を基準点にした時の物質的なものをまとめた総称 |
五蘊として分析するときの「色」の集まり |
rūpa(色法) → rūpakkhandha(色蘊)
├─ rūpārammaṇa(色所縁)
└─ その他の色法
rūpaという観点 →
物質的現象
rūpārammaṇaという観点 → 眼識の対象になっている色・形
rūpakkhandhaという観点 → 五蘊の「色蘊」に分類されるもの
となります。これは、同じ一枚の紙を、「紙」という物質として見る、「視覚対象」として見る、「五蘊の色蘊」として分類するというように、分類の切り口が違います。
したがって最終的には rūpārammaṇa ⊂ rūpa
そして、五蘊の分類を採用すれば、 rūpārammaṇa ⊂ rūpakkhandhaです。
色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の具体例
|
現象・対象 |
五蘊との関係 |
具体的な意味 |
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実際の富士山の色・形 |
色法 |
岩・雪・土・樹木などの物質的現象。外界の色法として存在する 認識した瞬間に色蘊になる |
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写真に写った富士山 |
色法(rūpa) |
写真そのものは物質なので色法。 「富士山そのもの」ではなく、富士山を表す物質的媒体 |
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視覚器官 眼 |
色法(rūpa) 色蘊(rūpakkhandha) |
眼識が生じるための物質的条件 nāma-rūpaではrūpaであり、五蘊では色蘊 |
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眼浄色cakkhu-pasāda-rūpa |
色法(rūpa) 色蘊(rūpakkhandha) |
眼識が生じるための物質的条件 (微細感覚器官) nāma-rūpaではrūpaであり、五蘊では色蘊 |
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「見られている富士山」 |
色蘊のrūpārammaṇa |
眼識が取る視覚対象 認識される対象 |
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眼識 |
識蘊(viññāṇakkhandha) |
視覚対象を知る |
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富士山を見ている心 |
識蘊(viññāṇakkhandha) |
「富士山という対象を知っている」という識の働き |
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目に映った富士山の形・色 |
色蘊+識蘊の認識過程 |
外界の色法が眼に現れ、それを眼識が認識する |
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「これは富士山」と認識する働き |
想蘊(saññā) |
特徴を捉え、「富士山」と識別する働き |
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頭の中の富士山のイメージ |
想蘊を中心とする名法 |
過去に見た色や形をもとに、心に再現される心的表象。物質的な色蘊ではない |
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「富士山」という名称・概念 |
paññatti(概念) |
「富士山」という名称・概念そのものは五蘊には含まれない。 それを認識する心には五蘊が関係する |
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富士山を見て「美しい」「気持ちいい」と感じる |
受蘊(vedanākkhandha) |
快・不快・どちらでもないという感受 |
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富士山について考える・判断する・行動したいと思う |
行蘊(saṅkhārakkhandha) |
意図、判断、注意、欲求など、多数の心所による形成作用 |
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富士山を見た経験を記憶として再び思い出す |
想蘊を中心とする名法 |
過去の経験を想が捉え直し、識がそれを認識する。 必要に応じて受・行も伴う |
「名法(nāma-dhamma)」とは、物質的な現象(rūpa)ではなく、心・心の働きとして生じる現象を指す用語。
ただし、注意したいのは、nāma と nāma-dhamma は文脈によって意味が変わることです。五蘊との対応は、
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五蘊 |
パーリ語 |
名法/色法 |
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色蘊 |
rūpakkhandha |
色法(rūpa) |
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受蘊 |
vedanākkhandha |
名法(nāma) |
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想蘊 |
saññākkhandha |
名法(nāma) |
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行蘊 |
saṅkhārakkhandha |
名法(nāma) |
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識蘊 |
viññāṇakkhandha |
名法(nāma) |
したがって、非常に大まかに言えば、五蘊 = 色法 + 名法です。
名法は「心」だけではなく、例えば、vedanā(受)、saññā(想)cetanā(思・意思)、phassa(触)、manasikāra(作意)、lobha(貪)dosa(瞋)alobha(無貪)amoha(無痴)など、心とともに生じるさまざまな心的現象も名法です。つまり、名法=「心という一個のもの」ではなく、心と心に伴って生じる非物質的な諸法と考える方が正確です。
整理するとrūpa → rūpārammaṇa → rūpakkhandha → saññā → paññatti
「心的表象(mental
representation)」=「イメージ・シンボル・名称・概念」の全部、と単純にイコールではありません。
文字や名称は概念を表す手段の一つで、その概念に対応する意味内容やイメージが心に伴うこともあります。ただし、ここで「イメージ」と「概念」を同じものとしてしまうと混線します。
1.まず「心的表象」を3層に分ける
「心的表象」という言葉は便利ですが、便利すぎて何でも入ってしまうという、用語として欠点があります。
たとえば「富士山」を思い出した場合、
@ 感覚的イメージ 頭の中に浮かぶ富士山の姿はvisual mental image、つまり視覚的な心像です。
A 名称・記号 「富士山」「Mt. Fuji」「富士山」という文字は言語的・記号的表象です。
ただし、「富士山」という文字列そのものと、「富士山」という意味・概念は区別した方がいいです。
B 概念・意味 「富士山」と聞いて、特定の対象どを「これだ」と把握することがあります。
これは単なる画像ではなく、意味としての概念的把握です。
したがって、心的表象とは
├─ 感覚的イメージ
│ ├─
視覚イメージ
│ ├─
聴覚イメージ
│ ├─
嗅覚イメージ
│ ├─
味覚イメージ
│ └─
触覚イメージ
├─ 言語・記号的表象
│ ├─
「富士山」という音
│ └─
「富士山」という文字
└─ 概念的表象
└─ 「富士山」という意味・カテゴリー
に分けると理解しやすいが、これは現代の認知科学的な整理であって、アビダンマの分類表に変換できない。
2.では「概念=文字」なのか?
違います。例えば、「犬」という文字を見た場合、「犬」という文字列と、犬という概念は別です。
さらに、犬の姿が頭に浮かぶという視覚イメージも別です。
したがって、「犬」という文字→「犬」という名称→「犬」という概念→犬のイメージという関係が成立することがありまが、必ずしも一直線ではありません。
例えば犬を実際に見て、「犬だ」と認識した場合、文字を一度も思い浮かべなくても「犬」という概念は成立します。
逆に、「犬」という文字を見ても、意味を知らなければ犬の概念は成立しません。
つまり、概念は文字ではありません。文字は概念を表現するための記号です。
3.では「記憶の富士山」は何なのか?
例えば、目を閉じて「富士山」を思い出と、現在目の前に富士山という外界の色法があるわけではありません。
現在の意門に、「富士山の姿が浮かぶ」という心的現象が生じています。これは、外界の富士山そのものではありません。したがって、外界の富士山→ rūpaに対して、
思い出された富士山のイメージ→ 過去の経験を条件として現在の心に生じている心的対象です。
ただし、ここを「現在の想蘊そのものが画像を作っている」と単純化すると、アビダンマ的には少し危険です。
saññāは「表象そのもの」ではなく、対象を識別・標識化する心所だからです。
4.saññā(想蘊)は「イメージ」そのものではない
saññā ≠ 心的イメージです。
saññāは、「これは以前経験したものと同じ種類だ」と特徴を捉えて識別する働きです。
例えば、赤い丸い果物を見る→特徴を捉える→「リンゴ」と識別するとき、リンゴの画像と、「リンゴ」と識別するsaññāは同じものではありません。
したがって、「想蘊にある香り・音・感触・味」という表現も、厳密には注意が必要です。
5.では「想蘊にある香り」とは何なのか?
例えば、昔行った旅館の畳の匂いを突然思い出したとします。
実際に現在、鼻に畳の匂いの粒子が接触していないが、「あの畳の匂い」が心の中で再現されることがあります。これを現代的には、嗅覚的な心的イメージと呼べます。
そしてsaññāの働きとしては、「これは以前経験した、あの匂いだ」と識別する働きがあります。
つまり、香りの心的イメージとその香りを「何の匂いか」と認識するsaññāを分けます。
6.音の場合
例えば、昔聞いた母親の声を思い出す。頭の中に、「あの声」が再現されることがあります。
これは聴覚的な心的イメージです。
そして、「これは母親の声だ」と識別する働きがsaññāです。
同様に、昔聞いた好きな曲のメロディー、電車の音、波の音、鳥の声なども、記憶から再現される聴覚的表象になり得ます。
7.触覚の場合
例えば、子供のころ触った砂浜の砂の感触を思い出す。あるいは、温泉に入ったときの「熱い・柔らかい」感じ
を思い出し、識別する働きがsaññāです。
これらも、現在身体に実際の刺激が来ていなくても、心の中で触覚的表象として再現されることがあります。
8.味の場合
例えば、コーヒーの苦味、チョコレートの甘さ、レモンの酸味などの感じが心の中で再現されることがあります。
これも、味覚的心像と、「これはレモンの味だ」と識別するsaññāを分けて考える必要があります。
ここで「想蘊にある五感の記憶」を整理すると
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過去に経験したもの |
現在、意門で再現されるもの |
saññāの働き |
|
富士山の姿 |
富士山の視覚イメージ |
「富士山」と識別 |
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母親の声 |
声の聴覚イメージ |
「母の声」と識別 |
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畳の匂い |
匂いの嗅覚イメージ |
「畳の匂い」と識別 |
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梅干し |
酸っぱい味のイメージ |
「梅干しの味」と識別 |
|
猫の毛 |
毛の触覚イメージ |
「猫の毛の感触」と識別 |
こ表の「saññāの働き」とは「想蘊そのものがそのイメージを所有している」という意味ではありません。
「paññatti」との関係
例えば、富士山の視覚イメージと、「富士山」という概念は同じではありません。
過去の実際の富士山→rūpa→過去の視覚経験→現在、意門に再現→富士山の視覚的心像
→「富士山」という識別・名称 → paññatti
ただし、実際の心の働きはこんな綺麗な一本道ではありません。
「富士山」という言葉だけで、視覚イメージが浮かばない人もいます。
逆に、富士山の写真を見るだけで、「富士山」という名称を意識しなくても識別できる場合があります。
だから、概念=イメージでもなく、概念=文字でもありません。
要訳
【過去】
実際の対象→rūpa→五感による経験→その経験が記憶として残る
【現在・意門】
記憶が想起される→心的表象
├─ 視覚イメージ
├─ 聴覚イメージ
├─ 嗅覚イメージ
├─ 味覚イメージ
└─ 触覚イメージ
同時に/関連して、saññā→特徴を捉え「これは何か」を識別→名称・概念→paññatti
したがって、元の文章の「記憶の富士山」=想蘊が再構成した心的表象という表現は、説明用としては使えますが、アビダンマ的には少し粗いです。
より正確には、「記憶の富士山」は、過去に経験した色法を条件として、現在の意門に生じている心的対象であり、その中には視覚的な心像や、それを『富士山』として識別するsaññā、さらに『富士山』という名称・概念(paññatti)が関係し得るが、これらは同一のものではない。
つまり、まとめるとsaññāは、イメージではない、概念でもない、
paññattiは、文字でもない
心的表象は、それら全部と完全に同義でもない
この区別ができると、「想蘊は何をしているのか」「paññattiはどこから出てくるのか」「意門に現れる記憶は色蘊なのか」が、かなり明瞭に分離できます。
改めて確認すると、
paññatti(概念・名称)とは? 「想蘊=概念」ではない
paññatti(概念・名称)とは、想蘊(saññā)という「心の働き」そのものではなく、想などによって認識・構成された「概念的な対象」です。
1. 想蘊は「概念」ではなく「概念を捉える働き」
想蘊(saññākkhandha)の想(saññā)は、「対象の特徴を捉えて、再認識できるようにする働き」です。
例えば富士山を見たとします。雪をかぶった山→形・色・特徴を捉える→saññā(想)→「これは富士山だ」
このとき、「富士山だと識別する働き」=想です。
一方、「富士山」という概念・名称=paññattiです。
つまり、「想=認識する側の働き」と「paññatti=その働きによって成立する概念的対象」という関係です。
2. 「富士山」を例にすると
第1段階:物質的対象 富士山→色・形など→rūpa
第2段階:認識 眼識→「見える」
第3段階:識別 saññā(想)→特徴を捉える→「これは富士山だ」
第4段階:概念 「富士山」→paññatti
ここで重要なのは、「富士山」という概念が、想蘊そのものに変わったわけではない、ということです。
3. なぜpaññattiを五蘊に入れないのか
五蘊は、「経験を成立させている五種類の現象」を分類したものです。
色蘊 → rūpa、受蘊 → vedanā、想蘊 → saññā、行蘊 → saṅkhārā、識蘊 → viññāṇa
一方、paññattiは、「心が対象を区別・命名・概念化することで成立する「概念・名称」」です。
したがって、「五蘊とは別の概念的な施設」となります。
4. ただし「概念を認識している心」には想蘊がある
例えば、「富士山」という文字を読んでいるとします。
「富士山」という概念そのものはpaññattiですが、それを認識している心には、
識蘊 → 「知る」
想蘊 → 「富士山」という特徴・意味を捉える
受蘊 → 快・不快など
行蘊 → 注意、意図、思考など
が関係します。
したがって、paññattiは想蘊ではないが、paññattiを認識する際には想蘊が働く
という関係です。
5.「想=ラベル」ではない
これまでの話で「想」を、「富士山」というタグを付ける機能、と表現すると分かりやすいのですが、厳密には少し狭すぎます。saññāは、単に言葉を付けるだけではありません。
例えば、「色を識別する」「形を識別する」「音を識別する」「過去に経験したものと再認識する」「特徴を捉える」なども想の働きです。
だから、富士山→特徴を捉える→saññā→「富士山」と再認識できる→paññatti、という関係になります。
6. ヴィパッサナーとの関係
普段は、色・形→想→「富士山」→「美しい」→「また見たい」
というように、概念が高速に成立するため、私たちは「富士山という一つの固定した物体を見ている」と感じます。
ところがヴィパッサナーでは、色・形→生起・変化・消滅→受→想→行→識という構成過程を観察します。
すると、「富士山」という固定した実体ではなく、色法・識・想・受・行が条件によって成立しているという見方が可能になります。
したがって、paññattiは「想蘊」ではなく、想などの心の働きによって成立・認識される概念的対象です。想蘊は、その概念を生み出したり、特徴を捉えて再認識したりする側の働きです。
この区別をしておくと、「想が概念を作る」と「概念そのものが想蘊である」は別だということが明確になります。
富士山そのものは五蘊ではない
例えば、目の前にある富士山は岩、雪、木で構成されています。これらは物質です。
したがって、これは「富士山自身の五蘊」ではありません。
なぜなら富士山は有情ではないからです。
色蘊とは何か
アビダンマでは色蘊とは「有情の経験を構成する色法」です。
例えばあなたが富士山を見た瞬間、眼球、視神経、眼感覚器(cakkhu-pasāda-rūpa)などあなた側の色法があります。これらはあなたの色蘊です。
一方、富士山は外界の色法です。
nāma-rūpaではどうなる?
nāma-rūpaではnāma心、rūpa物質という大分類です。
ここでは富士山はもちろんrūpa、つまり物質界です。他には眼球や眼浄色(cakkhu-pasāda-rūpa)もrūpaです。
分類の基準軸はブッダから観たメンタル界と物質界です。ここでブッダからの視点になる理由は、一般人が考えていない、kalāpaで構成されている色界や無色界の物質界も考慮されるからです。具体的には眼浄色(cakkhu-pasāda-rūpa)や心基hadaya-vatthuな通常の視覚では感知できない微細領域も物質界に含まれます。
五蘊ではどうなる?
五蘊という分類法はnāma-rūpaの分類軸とは異なります。
修行していない人も含めて、各自の心(経験)を基準点として、物質とメンタルを分類しています。
ここではブッダが観る普遍的なrūpaかどうかではなく、「経験主体を五蘊として分析するときのrūpaをまとめたもの」で、これを色蘊rūpakkhandhaと呼びます。
したがって、富士山は rūpa(物質)ですが、それを認識する過程であれば「経験主体を構成する rūpa」として、五蘊の色蘊とも区分されます。
具体的な「経験主体を構成する rūpa」とは、各自の感覚器官とそれらに接触する外界の信号、浄色、心基hadaya-vatthuなども含まれます。しかし主体が浄色、心基を前提にしていないのであれば、それらを考慮する必要がありません。
各自のメンタルを5つの分野に分ける理由は、各分野の構成要素は「私」に関係なく生滅する実体なきものであることを観察するためであり、それらは執着しようにもできるものではないことを実感するためです。
では富士山を見た瞬間は?
富士山はnāma-rūpa の分類での rūpa、そしてこの富士山を視覚的に経験する対象(rūpārammaṇa)として、五蘊の分類では眼を介する信号としての色蘊rūpakkhandha、と2種類の分類があります。
色蘊とは、有情の経験を構成する色法(物質に区分されるもの)」を指します。
体験する時には眼という感覚器官も色蘊rūpakkhandhaに分類されます。
つまり、nāma-rūpaは「瞬間的存在を名法と色法に分ける分類」なのに対して、五蘊は「有情の経験を五つの蘊に分析する分類」です。
この二つは分類の目的が異なるため、「rūpa」という同じ語が使われていても、指している範囲と基準点が異なります。
「実際の富士山は外界の色法だが、各自にとって認識される対象となるときには色蘊になる」という理解ではなく、
「実際の富士山は外界の rūpa(色法)。それを認識する側では、眼浄色という主体側の rūpa が色蘊に属し、眼識は識蘊、識別作用は想蘊として成立する」と理解するのが、今回の文脈ではより正確です。
「富士山そのもの」と「富士山を経験している五蘊」を分ければ、これまで話してきた「富士山のイメージ」「dhammā」「paññatti」も一本につながります。
「富士山を見る経験」
│
┌── ──┼────┐
色蘊 識蘊 想蘊
眼浄色 眼識 想
(色法) (識) (識別)
眼浄色は「色蘊という別物を作る」のではなく、それ自体が色蘊に属する。
眼識はその色法を条件として生じる識蘊。
想蘊は、その認識された対象の特徴を捉えて「これは何か」と識別する働きです。
そして「色蘊→識蘊→想蘊」は一本の物質→心→概念の階段ではなく、一つの認識経験を五つの側面から分析したものと考えるのが最も分かりやすいです。
ヴィパッサナー観察からの解釈
ヴィパッサナーでは「富士山」という一個の完成した経験を観察するのではなく、
対象→眼識→受→想→行→次の認識、という条件によって生じては消えていく現象を観察します。
そして、「富士山」という一つの固定した「物を見ている私」と思っていたものを分析すると、
色法、識、受、想、行が条件によって生起しているだけ、という構造が見えてくる。
これが五蘊をヴィパッサナーの対象として見るときの重要なポイントです。
存在論と修行論
『法集論(Dhammasaṅgaṇī)』では「色蘊」は外界の色法も含むように定義されますが、『清浄道論(Visuddhimagga)』では「修行者が分析すべき五蘊」という観点が強調されるため、有情の経験を構成する色法を中心に説明されます。
つまり、定義そのものが矛盾しているのではなく、「何を分析対象にしているか」が異なるのです。
@ 『法集論』の立場
『法集論』はアビダンマ第一論であり、「存在する法(dhamma)を分類する」ことが目的です。
そのため、「rūpa とは何か」を列挙するときには、
地、水、火、風、色、音、香、味、その他の色法など、すべての色法(rūpa-dhamma)を対象にしています。
つまり、外界の岩→rūpaも、人体→rūpaも同じ rūpa-dhammaです。
『法集論』では色蘊は一切の色法(sabba-rūpa)として扱われます。
つまり富士山も石も身体も全て色蘊に入ります。
ここでは存在論(Ontology)として整理しています。
A 『清浄道論』は修行マニュアル。目的は修行者が何を観察するか
そのため五蘊を説明するときには、主にこの身体→受→想→行→識を分析します。
つまり、外の富士山より自分の経験がテーマになります。
だから説明が経験論になります。
この2つは分類軸が違います。
法集論は存在する法として全てを分類し、清浄道論は苦を観察するために、自分の五蘊を分析する
注釈ではどう説明するか
注釈書では、色蘊をupādinnaka-rūpa(執取された色法)とanupādinnaka-rūpa(執取されていない色法)に分けます。
upādinnaka-rūpaは業(kamma)によって得られた身体です。
例えば、眼、耳、身体など。つまり有情に属する色法です。
anupādinnaka-rūpaは外界です。
例えば、山、石、海、雲など。これらも色法ですが「身体として執取された色法ではない」という区別になります。
改めて、富士山は色蘊か?
存在論では富士山→rūpaですが、修行論ではヴィパッサナーが観察するのは、富士山そのものではなく「富士山を見る経験」です。つまり富士山→眼識→受→想→行→識を観察します。
『清浄道論』の意図
『清浄道論』は世界を分析する本ではなく、苦を終わらせるために、自分の経験を分析する本です。
だから富士山そのものではなく、富士山を見ているこちら側(五蘊)を分析します。
この違いを図にすると
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観点 |
『法集論』 |
『清浄道論』 |
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目的 |
法(dhamma)の分類 |
修行・観察の実践 |
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色蘊 |
一切の色法 |
修行者が経験する色法を中心に説明 |
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富士山 |
色法(色蘊に含まれる) |
外界の対象であり、観察対象は「富士山を見る経験」 |
|
身体 |
色法 |
色蘊として詳細に観察される |
|
分析の中心 |
存在論 |
経験論・実践論 |
釈尊は、2種類の区分の仕方を説きました。
1つは物質とそうでないもの。もう1つは、人が経験することを5つの要素で分析する五蘊です。
五蘊では経験している状態を基準にしてメンタルを5つに区分して、物質に関わるものはあらゆるものを1つの巨大な「コレクション」すなわち「集合体」として扱いました。それが「rūpaの集合体」すなわち「rūpa khandha」(rūpakkhandha)です。
つまり、rūpakkhandhaの中にあるものは、実際の(物理的な)rūpaではありません。
観察されたものは何でも、観察された直後に、メンタルの痕跡になり、それを釈尊はvedanā、saññā、saṅkhāra、viññāṇa という4つのカテゴリーに分けました。
これらの「コレクション」すなわち「集合体」がvedanākkhandha、saññākkhandha、saṅkhārakkhandha、viññāṇakkhandhaです。
釈尊はこれら5つの集合体、すなわち五蘊の観点から、生き物の存在、そして、これらの5つの実体が発生し消滅することを「原因とその結果」の法則で説明しました。
rūpaとrūpakkhandhaの主な違いを再確認します。
物質的なrūpa(dhātuレベル)は以下の2種類のいずれかです。
人が目で見たり、触れたりする(人、人の体、体の一部、木、惑星、星など)、通常「固体の物質」と呼ばれているものです。
物質的な rūpa は、眼で捉えられる色・形、耳で捉えられる音、鼻で捉えられる香り、舌で捉えられる味、そして身で接触される三大元素などとして経験されます。
phoṭṭhabbārammaṇa(触所縁)は特殊で、経験されるものは、独立した「第29番目の色法」のようなものではなく、地界(paṭhavī)、火界(tejo)、風界(vāyo)という三大元素として説明されます。
つまり、触覚そのものが rūpa ではない、という点にも注意が必要です。
触覚で経験される「硬い・柔らかい・熱い・冷たい・動き・圧力」などの物質的性質の基盤が、三大元素としての rūpa です。
さらに、rūpa・rūpārammaṇa・rūpakkhandha までつなげると、
rūpa(色法)→五蘊としてまとめる→rūpakkhandha(色蘊)
その rūpa のうち、眼の対象としての
rūpa→rūpārammaṇa(色所縁)となります。
では「rūpārammaṇa と phoṭṭhabbārammaṇa は、どちらも rūpakkhandha なのに、なぜ rūpārammaṇa だけを特別に『色所縁』と呼ぶのか」
結論から言うと、rūpārammaṇa だけが特別扱いされているわけではありません。
むしろ、「ārammaṇa(所縁)」という観点と「rūpakkhandha(色蘊)」という観点が違うために、そう見えるのです。
1. まず結論
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観点 |
rūpārammaṇa |
phoṭṭhabbārammaṇa |
|
日本語 |
色所縁 |
触所縁 |
|
何の対象か |
眼識の対象 |
身識の対象 |
|
感覚門 |
眼 |
身 |
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rūpa か |
はい |
はい |
|
rūpakkhandha に属するか |
はい |
はい |
|
「色所縁」と呼ばれる理由 |
眼識の対象だから |
身識の対象なので「触所縁」 |
したがって、rūpārammaṇa と phoṭṭhabbārammaṇa は、どちらも rūpakkhandha に属する rūpa ですが、認識される感覚門が違うので別の ārammaṇa 名を持つ、ということです。
2. 「rūpa」という言葉が二つの意味で登場するので混乱する
rūpaには、A. 「色法」という広い意味の物質的現象全般。
この意味では、色・形、音、香り、味、触れられる物質的性質なども rūpa に含まれます。
B. 「色・形」という狭い意味 眼で見る対象としての rūpa。
こちらが、rūpārammaṇaです。したがって、rūpārammaṇa の rūpa は「色法全体」という意味ではなく、「眼に映る色・形」という意味です。
3. では phoṭṭhabbārammaṇa
は何なのか
phoṭṭhabba は「触れられるもの」です。アビダンマでは、触所縁として経験されるものは、
paṭhavī-dhātu 地界、tejo-dhātu 火界、vāyo-dhātu 風界の三大要素として説明されます。
一方、ākāsa-dhātu(空界)は触所縁ではありません。
したがって、phoṭṭhabbārammaṇa = 地・火・風という三大要素が、身識の対象として現れること、と理解するとよいです。
4. ここで「rūpakkhandha」とつながる五蘊の分類では、rūpakkhandha = すべての rūpa の集合です。
したがって、
rūpakkhandha
│
├── rūpārammaṇa
│ └── 色・形(眼の対象)
├── saddārammaṇa
│ └── 音(耳の対象)
├── gandhārammaṇa
│ └── 香り(鼻の対象)
├── rasārammaṇa
│ └── 味(舌の対象)
└── phoṭṭhabbārammaṇa
├──
地界
├──
火界
└──
風界
という関係になります。
ただし、ここで重要なのは、これは「rūpakkhandha の5分類」そのものではないということです。
これは、rūpakkhandha に含まれる rūpa を、五感の対象という別の観点から見ているのです。
「rūpārammaṇa は rūpa なのか、rūpakkhandha なのか?」
rūpārammaṇa は「rūpa」と「rūpakkhandha」のどちらか一方ではありません。
分類軸が違います。
「それは何という法か?」→ rūpa「法としての分類」
「五蘊のどこに入るか?」→ rūpakkhandha「五蘊としての分類」
「眼識にとってどんな役割をしているか?」→ rūpārammaṇa「認識対象としての分類」
つまり、一つの同じ物質的現象について、
たとえば、富士山を見ているとします。
外界の色・形を、rūpaとして分析でき、それが五蘊の分類では、rūpakkhandhaです。
そして、「眼識が取っている対象」という認識論的な観点からは、rūpārammaṇaです。
さらに、その「見えたもの」に対して、「富士山だ」という概念が成立すれば、それはpaññattiです。
したがって、認識過程をかなり単純化すると、
rūpa(色・形)→rūpārammaṇa(眼識の所縁)→cakkhuviññāṇa(眼識)→saññā(想による識別)→「富士山」
という paññattiという整理ができます。
ここで、rūpārammaṇa は「別の物質が新しく発生した」という意味ではありません。
同じ rūpa が、「眼識の対象になっている」という関係によって rūpārammaṇa と呼ばれているだけです。
Rūpakkhandhaは、経験したすべての外部rūpaのメンタルの「印象」です。それらは触れることはできません。
各自のrūpakkhandhaは無限です。それは「始まりのない時間」にさかのぼって、過去のすべての人生で見たすべての記録です。
khandha「集めたもの」すなわち「集合体」を意味します
「khandha」とは、パーリ語では、「堆積した塊」すなわち「集積物」を意味します。
rūpaの「堆積した塊」すなわち集合体がrūpakhandhaです。 「rūpakkhandha」として韻を踏みます。
パーリ語ではsandhiといって、2つの文字を重ねて韻をふむ文法があります。
たとえば、Dhamma Cakka Pavattana
suttaを Dhammacakkappavattana sutta、Dhamma savanaをdhammassavanaと記するように。
釈尊は「五蘊の範囲を超えて、独立した『私』『人』『生き物』という実体を見いだすことはできない」
と言いました。 出典 MN 109 Mahāpuṇṇamasutta
一般的に説明されているように、人の五蘊pancakkhandhaとはその人の体ではありません。
それは物理的なものでさえありません。それはすべてメンタルです
生物のpancakkhandhaには、両方(フィジカルとメンタル)の世界の「構成要素」があります。
rūpa kkhandhaは、物質世界のメンタルの印象です。
他の4つのkhandha(受vedanā、想saññā、行sankhāra、識viññāna)は、メンタル界のメンタルの印象です。共通点はメンタルの印象であること、相違点は対象が物質界とメンタル界であることです。
各意識体は自分だけのメンタル的印象を作るため、すべての意識体とは自分自身特有の五蘊pancakkhandhaであるとも言えます。
私たちは人生で(そして過去の人生)で非常に異なるものを見てきましたので、私たちのrūpakkhandhaは大きく異なります。それぞれに別のrūpakkhandha があります。
Chachakka
Sutta (MN 148)では6感覚の機能がvedana, saññā, saṅkhāra, viññānaを生成することを説明しています。
また、それぞれがvēdanākkhandha、saññākkhandha、saṅkhārakkhandha、およびviññānakkhandhaを持っていることもわかります。これらはすべて同じように個人特有のものです。
Rūpakkhandhaはメンタルの中での物質的要素
rūpakkhandhaはすべてメンタルであることを再確認します。
「カタチの集合体」と訳してしまうと、「物質のコレクション」という意味になってしまい誤謬をうみます。
Mahāhatthipadopama Sutta (MN 28)で、Sariputta長老がrūpakkhandhaを説明しています。
具体例では、
たとえば、真っ暗な部屋に座っている場合、部屋に多くの物体があったとしても、何も見えませんが、懐中電灯を照らすと、そのスポットライトもの(たとえば、壁、天井、コップ)を見ることができます。
するとはじめて認識されて、主体のrūpakkhandha の一部になります。
別の例では、2人が部屋で本を読んでいるときに庭でメジロが鳴きましたが、1人は本に夢中でそれに気が付きませんでしたが、もう1人は本にあまり興味がなく、その鳴き声を聴いていました。
本に集中していた方には、「メジロの鳴き声」は聞こえなかったので、rūpakkhandhaの一部にはなりません。
実際のrūpaとrūpakkhandhaの違いを視覚化する別の例では、福島原発事故や津波のどちらも体験していなくても、多くの人は心のなかで映像を思い出すことができます。
実際の爆発事故や津波の物理的な形はもはや存在しませんが、それらはrūpakkhandhaの中にあります!
このようにいくらそこに物質や音というrūpaがあっても、それにスポットライトを当てて、対象を認識して、記憶ないと、それはrūpakkhandhaに加わることがありません。
ですから各自がそれぞれ特有のrūpakkhandhaを持っています。
Rūpakkhandhaは想像を絶するほど巨大!
rūpakkhandhaがrūpaの「メンタルの印象」であり、そこにあるrūpaではないことは確認できました。
重要な点は、私たちがrūpaを経験すると、経験はその瞬間にすぐに消えてしまうということです。
rūpakkhandhaのほとんど(中には空想、妄想などもある)は、すでに経験したもので、なんと私たちが過去の転生で経験したことはすべてrūpakkhandhaにあると、三蔵では理解しています。
前世を含み、これまでに見たことのある過去のrūpāは、atita rūpā(ati〜を越えて+ √i行く+ ta過去分詞を作る接尾辞「過ぎ去った」)と呼ばれるものです。
これらは物質的なrupāではなく、それらは過去に存在したrūpaの単なる記憶です。
たとえば、子供だったときにあった空き地の遊び場は、今では宅地造成されて家が建っているので存在しませんが、記憶の中でその遊び場を「見る」ことができます。もう他界した祖母や友人たちも同じです。
未来のrūpaすなわちanāgata rūpa([an + āgata] not come yet,i. e. future)(たとえば、どのように建てるか構想中の家のスケッチ)は時間とともに変化する可能性があるもので、実際の物質的なrūpaは関与していません。
現在目にしているすべてのrūpa(paccuppannarūpa)は、すぐにatita (過去)rūpaのカテゴリーに移動します。その対象が二度と見られなくても、その記憶は残存します。
Rūpakkhandha の他のタイプのrūpa
全部で11種類のrūpakkhandhaがあります。
Khandha sutta (SN 22.48)は、rūpakkhandhaの内容を要約しています。
Yaṃ kiñci, bhikkhave, rūpaṃ
atītānāgatapaccuppannaṃ
(atita,anāgata,paccuppanna) ajjhattaṃ vā
bahiddhā vā oḷārikaṃ vā
sukhumaṃ
vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā
yaṃ
dūre santike vā, ayaṃ vuccati rūpakkhandho.“
過去、未来、現在、内、外、粗い、微細、悪い、良い、遠い、近いの11種です。
これらがrūpakkhandhaと呼ばれます。
paccuppanna:[adj.] existing;
present 現在の
ayaṃ:[(nom.sing.of ima),m.; f.] this person これ
vuccati:[vac + ya] to be said or called 呼ばれる
内部(ajjhatta)rūpaとは、自分自身の一部であるものです。つまり、体の内部を含むすべての体の部分です。外的(bahiddha)rūpaは体の外にあるものです。
粗い(olārika)rūpaとは私たちが「固形物」と呼んでいるものであり、
微細な(sukuma)rūpaとは「エネルギー」(熱、音など)です。
「悪い」(hīna)rūpaと「良い」(panita)rūpaがあります。
一部のrūpaは遠く(dūre)にあり、一部は近く(santike)にあります。
したがって、これらのカテゴリの間でいくつかの重複の可能性があることがわかります。
これらの多くは、私たちが見たこともないrūpakkhandhaです。
実際には一度も見たことがなくても、心の中に「メンタルの印象」を持つことがあります。
たとえば、インカ帝国のマチュ・ピチュの遺跡の風景を実際に見たことがなくても、そのイメージである「メンタルの印象」を持っている人は少なくありません。
記憶の保存場所
rūpa(形)はkāma lokaとrūpa loka(物質界、色界)にあり、rūpakkhandhaはあらゆるrūpaを五蘊の観点からまとめたものです。SN 22.56
富士山の心的イメージは、外界に存在する富士山のrūpaではありません。
したがって、「記憶された富士山のイメージ=rūpakkhandha」とするのも不正確です。
では「rūpakkhandha」はどこにあるのか?
「nāma lokaにある」という表現は正確ではありません。
rūpakkhandhaは「世界(loka)の場所」を表す言葉ではなく、法を五蘊として分類したものだからです。
例えば人間界では、人間の身体は rūpa であり、五蘊という観点から分類すれば、rūpakkhandhaです。
人間の身体は当然、kāmalokaに存在するrūpaですので、rūpakkhandha = nāma lokaにあるとは言えません。
実際、SN 22.53では、識が色・受・想・行などを条件として成立する関係が説かれています。
mano(意)という第六の感覚器官・感覚門があり、mano + dhamma → manoviññāṇaという認識があります。
より正確には、意門によって、過去の経験、思考、記憶、概念などの法(dhamma)を対象として認識します。
私たちが過去に経験したrūpa、たとえば富士山の姿や音、匂い、味、身体的な感触などを後から思い出す場合、現在の意門に、その過去の経験に基づく心的表象が生じることがあります。しかし、この心的表象は過去に存在したrūpaそのものではなく、またrūpakkhandhaそのものでもありません。
私たちは第六の感覚門である意門(manodvāra)を通して、記憶、思考、概念などの心的対象を経験します。ただし、これは「nāmalokaという別の世界を体験する」という意味ではありません。
SN 1.76 Najīratisuttaの 「rūpaṁ jīrati maccānaṁ, nāmagottaṁ na
jīrati」 という句も、「物質が消滅しても、心的情報がnāmalokaに永久保存される」という意味に拡張して解釈するべきではありません。ここでのnāmagottaは、名前・名声・家系など、社会的・言語的に人を指し示すものとして理解する方が適切です。
過去のrūpaを経験→現在、意門で想起→心的表象・記憶 →saññā・viññāṇa等の名法が関与
→「富士山」などの名称・概念→paññatti
ここで重要なのは、過去のrūpa ≠
記憶された心的表象 ≠ rūpakkhandha ≠ nāmagottaということです。
「kāmaloka」と「nāma loka」を混同しない
kāmalokaは仏教の三界の一つです。一方、nāmaは「名法」というdhammaの分類です。
したがって、nāma loka(メンタル界)という表現を、kāmaloka・rūpaloka・arūpalokaと同じレベルの正式な世界分類として扱うのは避けた方がよいです。
つまり、分類の軸が違います。
【世界の分類】kāmaloka、rūpaloka、arūpaloka
【法の分類】 rūpa、nāma
【五蘊の分類】rūpakkhandha、vedanākkhandha、saññākkhandha、saṅkhārakkhandha、viññāṇakkhandha
「見ること」とは想いである(CakkhuViññāṇa)
Cakkhuñca paṭicca rūpe ca uppajjāti cakkhu viññāṇaṃ」
rupa(光粒子)がcakkhu(cakkhupasādarupaの略、メンタル界の眼である純粋粒子)と接触したときにcakkhu viññāṇa(眼の意識)が発生する、ことを意味します。
ここでのpaticcaとは、cakkhuとrupaが「一緒に集まる」すなわち「接触する」ことを意味します。
たとえば、暗闇で照明をつけたら、コップが見えた場合、照明ライトの光粒子がコップに反射し、それが目の感覚入力となり、脳はそのコップの画像を電磁波に転換し、その電磁波エネルギーがメンタル界のgandhabbaのcakkhu pasāda rupaと接触して共鳴し、マインドの「場」であるhadaya vatthuを振動させて、心路citta vithiプロセスが始まり、cakkhu viññāṇaが生起すると、そのコップを認識します。
したがって、「見る」とは、cakkhuviññāṇa(対象の視覚イメージの想い、意識)のことです。
こうして一般的には、照明をつけて、そこにコップがあると、「コップだ」とう想いがマインドに生起します。
見たコップは、コップ自体と同じではなく、それは各自の物質界の眼で捉えられ、無意識のうちにメンタル界で各自特有の想saññāと行sankhāraによって勝手に編集され作成された各自特有のコップのイメージです。
こうして、ただ「見る」ということは、このようなマインドのプロセスを経た後のイメージです。
何かを「見る」ことは多くのメンタル活動につながる
「見る」こと自体がメンタルな活動です。しかし、見られた物体が魅力的または反発的である場合、それはより多くのメンタル活動につながる可能性があります。
たとえば、ある車を購入したくてショールームに行ったとします。あなたのマインドはその車を買うまでその車に夢中になります。もしかすれば、他のショールームに行って、より安い価格や支払い方法など、さまざまな点に時間を費やします。
それらはすべてあなたのマインドの中で起こっている「メンタルな活動」です。
何十億もの考えがあなたのマインドを駆け巡り、そのような問題を熟考します。それらはマインドに生起した「vaci saṅkhāra(vitakka /vicāra)」です。
車について考えるのに何時間も費やしている間ずっと、あなたはnāma lokaにいます。
その間は周りのrupa loka(物質世界)で何が起こっているのかさえ知らないかもしれません。あなたが自分の考えに深く夢中になっている場合、誰かがあなたに話しかけたり、近くの時計がチャイムを鳴らすのを聞くことさえできないかもしれません。
たとえば、初めて会う人を見た場合、最初からその人の名前や過去の経験を知っているわけではありません。目の前にいる人物の身体や色・形などのrūpaを経験し、それに対してviññāṇa(識)が生じ、saññā(想)による識別で「この人は誰なのか」といった認識が成立します。
その人と以前に会った経験があれば、現在の経験を条件として、過去の経験に関係する心的対象が現在の意門(mano)に生じ、「この人には以前会ったことがある」「この人は○○さんだ」と認識することができます。
この過程は非常に速いため、本人は通常、過去の経験との照合がどのように行われたのかを意識しません。
ここでいう「照合」は、nāmagottaという記録媒体に保存されたデータを読み出している、という意味ではなく、過去の経験が現在の心的過程の条件となり、現在の意門に過去に関係する心的対象が生じる、ということです。
記憶や人物認識が損なわれる場合
一方、脳の損傷や神経疾患によって、過去の経験を思い出したり、人物を認識したりする能力が損なわれることがあります。
たとえば、数分前に会話した人物を認識できなかったり、よく知っている人物の顔を見ても誰なのか分からなかったりする場合があります。
このような現象は、知覚・記憶・人物認識などを担う脳内の神経機構に障害が生じた結果として説明することができます。
「理解する」とは何か
たとえば、目の前に一人の人物がいるとします。
目の前の人物→rūpaを経験する →viññāṇa(識)が生じる →saññā(想)などによる識別 →過去の経験との関連づけ
→「以前会った人だ」→さらに名前・関係・出来事などを想起
→「この人は○○さんだ」
ここで重要なのは、現在のrūpaそのものが「○○さん」という意味を持っているわけではない、ということです。
「この人は○○さんだ」という認識には、現在の感覚経験だけでなく、過去の経験、saññā(想)、概念、記憶などの名法的な過程が関与します。
したがって、rūpaを経験することと、そのrūpaが「何であるか」「誰であるか」を認識することは同じではありません。
したがって、私たちは「rūpa loka」と「nāma lōka」という二つの世界を同時に生きているというより、現在のrūpaの経験と、それに伴って生じるnāmaの経験を、常に相互に関係する一つの認識過程として経験している、と表現する方が適切です。
積み重なった条件(痕跡)から記憶が生じる
対象を経験するたびに、その対象の「イメージ」がrūpakkhandhaに保存されるわけではありません。rūpakkhandha(色蘊)は、経験されたrūpaを蓄積する記憶装置ではなく、rūpaを五蘊の一つとして分類したものです。
過去に経験したrūpaについて後から記憶が生じる場合、その過去のrūpaそのものが現在に戻ってくるのではありません。過去の経験を条件として、現在の意門(manodvāra)に心的対象が生じ、それをviññāṇa(識)、saññā(想)、vedanā(受)、saṅkhāra(行)などのメンタル界(名法)が経験します。
その結果として、過去に見た富士山の姿、聞いた音、嗅いだ匂い、味わった味、触れた感触などが、現在の心的イメージとして再び現れることがあります。
したがって、記憶を「イメージがrūpakkhandhaに保存され、想起というエネルギーによって再生される」と考えるよりも、「過去の経験を条件として、現在の意門に関連する心的対象が再び生起する」と考える方が、仏教の因果的な心の理解に適しています。
対象を経験したとき、その経験そのものが画像として保存されるわけではありません。過去の経験は、その後の心的過程に影響する何らかの「痕跡」あるいは条件として残り得ます。後に適切な条件がそろると、その過去の経験を対象とする心的過程が生じ、意門に視覚・聴覚・嗅覚などの心的イメージが再構成されます。
この「痕跡」はあくまで比喩であり、rūpakkhandhaやnāmagottaという場所に物理的な点が保存されているという意味ではありません。
これならば「保存 → 呼び出し → 再生」というコンピューター的モデルを完全に捨てずに、仏教の因果モデルへ寄せることができます。
rupakkhandhaとnamā gottaとmanoと保存場所の関係性は?
どれもが記憶の保存場所ではありません。
ここでは、以下の4点を押さえるのが重要です。
rūpakkhandha=記憶庫ではない
nāmagotta=記憶データベースではない
mano=記憶保存装置ではない
nāmaloka=記憶の保存場所ではない
そして、「どこに保存されているのか?」という問い自体を、仏教のモデルでは「どこかに保存される」から「何が条件となって後の心的現象を生じさせるのか」へ置き換えると、かなり綺麗に整理できます。
人は何でもコンピューターに喩えたがりますが、この3つを「ハードディスク・データ・読み出し装置」のように対応させると、非常に分かりやすい反面、経典の教説からは離れますが、敢えて試みると、
|
用語 |
内容 |
コンピューター・メタファー |
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rūpa |
物質的・身体的現象。身体、色・形、音、匂い、味、触覚の対象など |
外部から入力されるデータ/信号 |
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rūpakkhandha |
rūpaを五蘊の一つとして分類したもの。記憶の保存場所ではない |
「rūpa」というデータ群に付けた分類カテゴリー |
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nāma |
心的・精神的現象。五蘊では、vedanā(受)、saññā(想)、saṅkhāra(行)、viññāṇa(識)など、文脈に応じて心的現象を指す |
情報を処理・認識する側のソフトウェア的過程 |
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mano |
第六の感覚門。心的対象(dhamma)を対象とする認識の入口 |
入力インターフェース/入力ポート |
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nāmagotta |
基本的には「名前・氏族・家系・血統」。パーリ経典では「記憶データ」や「記憶媒体」を意味する用語ではない |
人名・家系名などの識別情報(metadata)に近い比喩 |
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nāmaloka |
「記憶が保存される非物質世界」という意味でパーリ経典の標準的な用語ではない。したがって記憶の保存場所とはしない |
コンピューター上の特定の保存領域には対応させない |
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心的イメージ |
現在の心に生じる、過去の経験に関係した視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの表象。過去のrūpaそのものではない |
現在の処理系によって生成・再構成されたイメージ |
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記憶・想起 |
過去の経験を条件として、現在の心に過去に関係する対象や心的表象が生じること |
保存された画像ファイルをそのまま再生するというより、過去の情報を条件として現在の処理系が再構成すること |
|
saññā(想) |
対象の特徴を捉え、「これは何か」と識別・標識化する心的作用。記憶そのものや記憶媒体ではない |
パターン認識/特徴抽出 |
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viññāṇa(識) |
対象を認識する働き。視覚・聴覚・意識など、対象と感覚門に応じた識が生じる |
認識プロセス/実行中の処理 |
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vedanā(受) |
経験された対象に伴って生じる快・不快・中性という感受 |
処理結果に付加される評価・状態情報 |
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saṅkhāra(行) |
意図・反応・形成作用など、心的形成に関わる諸現象 |
処理・選択・反応を生成するプロセス |
rūpakkhandhaは「イメージの貯蔵庫」ではない
たとえば富士山を見ると、外界の富士山→色・形などのrūpa→眼による経験→現在の心に生じる五蘊
このとき、「富士山のイメージがrūpakkhandhaに追加される」とは考えません。
rūpakkhandhaは「rūpaの集合体・分類」であって、経験したrūpaを蓄積する記憶倉庫ではないからです。
しかも、rūpakkhandhaには「過去・現在・未来」のrūpaが含まれ得ます。
したがって、rūpakkhandha=これまで経験したrūpaの集合でもありません。
では、記憶はどのように「再現」されるのか?
ここは、現代科学の記憶理論と仏教の心の分析を分けて説明する必要があります。
仏教的には、過去の経験が、そのままどこかに保存された画像として取り出されるというモデルを採用する必要はありません。
むしろ、過去の経験→その経験によって形成された条件・傾向→現在の条件→意門で対象が生じる
→識・想・受・行などが働く→「富士山を思い出した」という経験
という条件による生起として理解した方がよいです。
つまり「再生」というより、過去の経験を条件として、現在の心に記憶内容が再び生じると表現する方が正確です。
manoは何をしているのか
manoを「記憶装置」とするのも避けた方がいいです。
六根を考えると、眼 → rūpa、耳 → 音、鼻 → 匂い、舌 → 味、身 → 触れる対象、意(mano) → dhamma
という関係があります。
過去の富士山を現在目の前に見ているわけではなく、「富士山を思い出した」のであれば、その心的対象は意門を通じて経験される対象です。
したがって、manoは過去のデータを保存している場所ではなく、意門として心的対象を経験するための門、と考えます。
では「記憶の富士山」は何なのか
例えば、「富士山を思い出してください」と言われたとします。
すると、白い雪、円錐形の山、青い空などが頭の中に浮かぶことがあります。
しかし、現在目の前に富士山が存在しているわけではありません。
そこで、過去のrūpaそのものが現在に戻ってきた、とは考えません。
むしろ、過去の経験を条件として、現在の意門に心的対象が生じ、それを識・想などが経験する、と考えます。
そして、その中に視覚的な心像が含まれることがあります。
では「点」の比喩は完全にダメなのか?
科学的・比喩的な説明としてなら使えます。
ただし、「仏教では点のようなものが保存される」とは書かない方がいいです。
例えば、記憶は画像そのものを保存しているのではなく、過去の経験に関連する何らかの情報・痕跡が残り、それを現在の条件のもとで再構成する、という現代的な比喩なら、かなり分かりやすいです。
ただし「点」という言葉には、本当に脳や心のどこかに点状の記録が存在する、という物理的意味が入り込むので、
「痕跡」くらいにしておく方が安全です。
過去と現在の関係
【過去】富士山を実際に見る→rūpaを経験する → その経験が後の心的過程の条件となる →
【現在】適切な条件がそろう → mano / 意門 → 過去に関係する心的対象が生じる
→viññāṇa・saññā・vedanā・saṅkhāra →「富士山を思い出した」→視覚的な心的イメージなどが現れる
一人一人がNāmagottaを保存しているのか?
私たちが経験する各イベントには、rūpa、vedana, saññā, saṅkhāra, viññāṇaが関連付けられています。
たとえば、コップを見ると、関連付けられているrūpaはコップのメンタル・イメージです
そのイベントには、それに関連付けられたvedanaもあります。つまり、そのコップを見たことがわかります。関連するsaññāは、対象がコップとして認識されることです。
次に、それについてsaṅkhāraを生成する場合があります。たとえば、それで何かを飲むことを決定する(vacisaṅkhāraとして)場合です。
次に、viññāṇaには、それらすべてと関連する(飲む)計画をします。
rūpa、vedana, saññā, saṅkhāra, viññāṇaの5つに対応する集合体(コレクション)、すなわち、rupakkhandha、vedanakkhandha、saññākkhandha、saṅkhārakkhandha、およびviññāṇakkhandhaが自動的に作動します。
そして、4つのメンタル構成部門が本人のnāmagottaに追加されます。
したがって、各人の5つの集合体(pañcakkhandha)はその人の全世界であり、経験したすべてです。
記憶の想起 各自は自分だけのNāmagottaを持っている
長年会っていない友達の名前を1人あげてみると、その人の顔を思い出すのは瞬時です。
それは、HSAM(Highly Superior Autobiographical Memory自伝的超記憶能力)を持つ人々が過去を思い出すのと同じ方法です。
自分の経験とは、過去のその時にマインドに現れた考えと同じである、ことを強調しなければなりません。
しかし、それはその過去の記憶を思い出す能力に依存します。
平均的な人間は、過去の多くの出来事を覚えていません。
HSAMを持っている人が過去の出来事を思い出すとき、過去の経験を再生します。しかし、HSAMを持っていない人にとってはそれほど鮮明ではありません。
しかし、50人以上の人々が過去の経験のそのような鮮やかで詳細な「再生」を持っているということは、それらの詳細な記録がどこかに保存されていることを意味します。
想起された記憶は、ビデオとして保存されたデジタル記録と非常によく似ています。
1974年後ならばいつで何が起こったのかをマインドの中で「見る」ことができるJill Priceや、過去の出来事をビデオ録画を再生するのと同じくらいに正確に思い出すBob Petrellaなどがそれを証明しています。
習慣的な体のパターン記憶(キーボードの打ち込みや、自転車に乗るなど)は小脳に「保存」されます。
しかし、詳細な自伝的記憶(数年前の恣意的に選ばれた日に起こったこと)が脳に「保存」できると考えるのは難しいのではないでしょうか。
私たちはrūpaとnāmaの両方を経験している
私たちは、物質的・身体的な現象であるrūpaと、それを経験する際に生じるnāma(名法)の両方に関わりながら生活しています。
これは「rūpa lokaとnāma lōkaという二つの世界を行き来している、もしくは二つの世界に住んでいる」という意味ではありません。
rūpaとnāmaは、生命体が存在する世界の分類ではなく、経験される現象を分類するための概念です。したがって、「rūpaloka」と「nāmaloka」を対等な二つの世界として対応させるのではなく、「rūpa」と「nāma」を現象の二つの側面として区別する方が適切です。
パーリ経典で標準的に出てくるのは「三つのdhātu」 dhātuとは分類した時の要素の単位
MN 115 Bahudhātukasutta で釈尊は、三つのdhātuとして、kāmadhātu, rūpadhātu, arūpadhātuを挙げています。
問題は「対等な二つの世界」という表現だけではなく、「rūpa/nāma」と「kāma/rūpa/arūpa」という二つの分類体系を混ぜてしまったことです。つまり、rūpa loka =
物質世界とnāma loka = メンタル世界という二分法ではなく、代わりに、
存在領域 (生命体の分類)MN
1 現象・法 (経験・現象を構成するものの分類)
│ │
┌────┼─────┐ ┌─―─┴──┐
↓
↓
↓
↓
↓
kāmadhātu
rūpadhātu
arūpadhātu
rūpa
nāma≒ citta + cetasika
=kāmāloka =rūpaloka =arūpaloka 色法
名法(心の中で生じる現象)
欲界 色界 無色界
とすると、明快です。
Mnd 5 Paramaṭṭhakasuttaniddesa では、
idhāti kāmadhātu, hurāti
rūpadhātu arūpadhātuという形で、
こちら=kāmadhātu、とあちら=rūpadhātu・arūpadhātuと整理されています。
rūpa ≠ rūpadhātu
rūpaはrūpadhātuだけに存在するわけではなく、人間はkāmadhātuに属しますが、人間の身体は当然rūpaです。
さらに感覚対象として、rūpa、sadda、gandha、rasa、phoṭṭhabbaなどもrūpaです。
rūpaは、五蘊の色蘊にもなる、欲界や色界の物質的・身体的な現象。
rūpadhātuは三界・三つのdhātuの分類における、色界という存在領域。
では「nāma」はどこに位置するのか?
これは世界分類ではなく、法の分類として考えるべきです。
参考文献
Rupa 物質
The Origin of Matter – Suddhātthaka
What are Rūpa? – Dhammā are Rūpa too!
What Are Rūpa? (Relation to Nibbāna)
Difference Between Rūpa and Rūpakkhandha
Our Two Worlds: Material and Immaterial
Bhūta and Yathābhūta – What Do They Really Mean
Does any Object (Rupa) Last only 17 Thought Moments?
Rupa (Material Form) – Table
エネルギーとしてのDhammā
What are Dhammā? – A Deeper
Analysis
Difference Between Dhammā and
Saṅkhāra
Manōpubbangamā Dhammā..
The Origin of Matter – Suddhātthaka
November
27,2015; Revised December 17, 2017; May 17, 2019; August 21, 2019
Introduction
1. Suddhātthaka is not even mentioned in
even many Thēravada Texts. I have
deliberated for some time whether this post is premature. This post requires an
understanding of basic concepts that I have discussed so far (as of November
2015).
This topic discussed in detail in the “Nāma & Rūpa to Nāmarūpa” subsection of the “Living Dhamma”
section.
1.Suddhātthakaは多くのThēravada Textsでさえ言及されていません。このトピックが時期尚早かどうかは、しばらくの間検討してきました。このトピックでは、これまでに説明した基本的な概念(2015年11月現在)を理解している必要があります。
•「san」、gati(またはgathi)、āsāvas、paticcasamuppādaなどの基本概念を考えたことがある場合を除き、読んではいけません。これからの内容は基本概念がなければあまり意味をなさない可能性があり、したがって、このまま読んでも、「このサイトは変だ。」と思うかもしれないからです。
•一方、これらの概念をある程度理解している人にとっては、これはより多くの洞察を得るのに役立ちます。
•この問題に関する記事をさらに公開すると、その状況はますます明らかになります。しばらくお待ちください。仏法の価値も明らかになり、それがsaddhā(理解に基づく信仰)を理解する最良の方法です。
•このトピックは、Living DhammaのサブセクションNāma & Rūpa to Nāmarūpaで詳細に説明されています。
2. Anything has to be
either sankata or asankata.
All the matter in the universe is thought to have created some
14 billion years ago, in a “Big Bang.” Buddha Dhamma has a different
explanation. However, there is no doubt that any matter has a finite(限りのある)lifetime. Thus Buddha Dhamma is correct in
this fundamental aspect.
2.すべては、sankata もしくは asankataのどちらかです。
•sankataには始まりがあり、存在中に予測不可能な形で変化し(viparinama)、最終的には存在しなくなります。たとえば、Root Cause of
Anicca – Five Stages of a Sankata” and “Does any Object
(Rupa) Last only 17 Thought Moments?を参照してください。
asankataには始まりがなく、存在中に変化せず、最終地点もありません。asankataは永遠に続きます。
Nibbanaは、唯一のasankataであり、「この世の31領域」に属していません。
間には何もありません。その真実について慎重に考えてみてください。
この世界のすべては、sankataです。つまり、始まりと終わりがあります。そして、これは過去100年ほどの間に科学によって確認されました。アインシュタインは私たちの宇宙は定常状態にあると考えました。もしそのように証明された場合は、これは仏法と矛盾する可能性があります。しかし今では、この宇宙には永遠に続くものはないことが明らかになっています。そして、すべてが流動的に変化しています。
宇宙のすべての問題は、約140億年前の「ビッグバン」で発生したと考えられています。
仏法には別の説明があります。ただし、どのモノも寿命に限りがあることは間違いありません。したがって、この基本的な面において仏法は同じ見解です。
Origin of Matter – Background
3. If we accept that all matter has been created in some way,
what is the origin of matter?
And, of course, the “Big Bang Theory” has not yet fully
confirmed, even though most scientists believe it. Still, some scientists do
not believe everything “popped up” all of a sudden in a Big Bang. They think
that universes are cyclic, i.e., they transform and evolve; see, for example, “Endless Universe – Beyond the Big
Bang,” by P. J. Steinhardt and N. Turok (2007).
3.すべての物質が何らかの方法で創造されたことを受け入れる場合、物質の起源とは何でしょうか?
科学者はこの時点(2015年11月)で明確な説明をしていません。彼らはビッグバン後のほんの一瞬から宇宙の進化を計算できますが、物理学はビッグバンの前に何が起こったかを説明することはできません。
そしてもちろん、ほとんどの科学者は「ビッグバン理論」を信じていますが、まだ完全には確認されてはいません。一部の科学者は、ビッグバンですべてが突然「出現した」したとは考えていません。彼らは、宇宙は周期的であると考えています。つまり、それらは変化し進化しているということです。たとえば、P.J. Steinhardt and N. Turok(2007)の「Endless Universe-Beyond the Big Bang」を参照してください。
4. Buddha Dhamma, of course, says all living beings living at present
have existed forever.
Thus, the universe does not start with a “Big Bang,” as many
scientists believe right now. Remember that only 100 or so years ago,
scientists thought the universe was in a steady state. Scientific theories
change to “fit the existing data.” But pure Buddha Dhamma has not changed at all
since Buddha Gotama taught it 2500 years ago; see, “Historical
Background.”
4.もちろん、仏法は、現在生きているすべての生命体は永遠に存在していると言います。
言い換えると、「既存のすべてのlife stream」(いのちの流動体)は永遠に存在しているということです。それぞれの人生において、与えられた「life stream」は肉体(存在する領域に応じて粗いまたは微細な)を取得しますが、その肉体がsankataです。その肉体が死ぬと、life streamは新しい体をつかみます。
What Reincarnates? – Concept of a Lifestream
絶えず変化しながら、生から生へと「伝播」しているのは、āsāvas(深層にある渇望つまり本能)、anusaya(煩悩)、gati(メンタル的特性)で、これが常に変化する動的ライフストリームです。
したがって、現在多くの科学者が信じているように、宇宙は「ビッグバン」から始まっていません。わずか100年ほど前、科学者は宇宙が定常状態にあると考えていたことを思い出してください。科学理論とは「既存のデータに適合する」ように変化します。しかし、純粋なブッダ Dhammaは、2500年前にブッダゴータマが教えて以来、まったく変わっていません。
「歴史的背景Historical Background」を参照してください。
5. The Buddha
discouraged people from investigating the properties(固有性、特性、属性) of the universe in detail. However, he has taught that uncountable “planetary systems” like
our Solar system exist in the universe. That also has been confirmed by
science.出典?
We will slowly go through the Aggañña
sutta because that needs enough background material. I expect this
topic will take us several years, and many essays, to complete. However, the
mind is the precursor前駆体: “Manōpubbangamā Dhammā..“.
5.釈尊は、人々が宇宙の特性(固有性、特性、属性)を詳細に調査することを思いとどまらせました。しかし、彼は私たちの太陽系のような数え切れない「惑星系」が宇宙に存在することを教えました。それらは現代では科学によっても確認されています。
いずれにせよ、科学が最終的に明らかにするモデルはすべて、仏法Buddha Dhammaと一致すると推定しています。この科学モデルには、31の領域の生命体がいるものになるでしょう。これについては、いくつかのsutta、特にAggaññasutta 『起源経』経蔵長部Digha Nikayaコレクションの第27経で詳細に議論されています。
しかし、インターネット上にあるこの経の翻訳はすべて恥ずかしいほど悪いレベルであることを念頭に置いておいてください。Buddhism and Evolution – Aggañña Sutta (DN 27)に詳細を書きました。
そのsuttaでは、釈尊は「惑星系」の集合体(集塊合体)がどのように爆発し、「mahā kappas」の時間スケールで再形成されるかを説明しています。彼はmahā kappasの長さの考えを得るために喩えを与えました、そしてそれはおよそ数十億年です。The Grand Unified Theory of Dhamma参照。そして、この「星系」の爆発は、科学者が超新星として観測しているもののようです。超新星は頻繁に発生します。天の川のある銀河では、それらのうちの約3つが毎世紀発生すると予想されています。
十分な背景資料が必要なため、Aggañasuttaをゆっくりと説明します。このトピックが完了するまでに数年、多くのエッセイが必要になると思います。しかし、マインドは前駆体です:
Origin of Matter – The Mind
6. Yet, now we have
enough background material on the website to get an idea about how all
the sankata in this world originate
and die off, AT THE VERY FUNDAMENTAL LEVEL.
The distinction between “matter” and “energy” is blurred(霞む) at this fundamental level.
6.しかし、今では、この世界のすべてのsankataがどのように生まれ、死んでいくのか、非常に基本的なレベルでの考えを得るのに十分な背景資料がウェブサイトにあります。
ここでは、「suddhātthaka」と呼ばれる物質の最小単位の起源についてのみ説明します。
(時々suddhāshtakaと書かれています)。
この物質の単位は、現代科学の「原子」よりも10億倍小さなスケールです。かつて、科学は原子が物質の最小単位であると信じていました。しかし、現代科学では原子は多くの「素粒子」の複合体です。それらの「素粒子」の多くでさえ、より多くの構造を持つことが示されています。「物質の基本単位」がどれほど小さくなるのかまだわからず、現時点が終わりではありません。現在、科学は「物質」と「エネルギー」を区別できていません。
たとえば、「ヒッグス粒子」は単なるエネルギーの塊です。
物質とエネルギーは本質的に同じであり、有名な方程式、E(エネルギー)= m(質量)x c2によって表されます。ここで、cは光の速度です。したがって、物質の小さな単位は「エネルギーのパケット」と見分けがつきません。たとえば、私たちが目にする光は、光子photonと呼ばれる「パケット」になります。したがって、光子はこの意味で物質であり、したがって、この世界の主要なすべてのものは、「物質」または「エネルギー」と言うことができます。
しかし、この基本レベルでも、「物質」と「エネルギー」の区別があいまいになっています。
7. A suddhātthaka is
a “packet of energy” and is THE basic unit of matter. It is
much smaller than in energy compared to a light photon that we see. A humongous異常に大きい number of suddhātthaka would
have the energy of a single light photon.
Anyone with higher abhiññā powers
is supposed to be able to create a significant amount of matter, like
a flower or even larger entities. Matter (at the level of suddhātthaka) is
created by javana citta. And
someone with abhiññā powers can
maintain a citta vithi with javana citta flowing
continuously to generate “significant amounts of matter.” I briefly discussed
that at the end of the post, “Citta Vithi – Processing of Sense Inputs.”
7. suddhātthakaとは「エネルギーのパケット」であり、物質の基本単位です。私たちが見ている光の光子に比べてよりはるかに小さいエネルギーです。巨大な数のsuddhātthakaで、たった一つの光子のエネルギーを持ちます。
sankataであるsuddhātthakaはマインドによって作成されます。それは多くの人にとって驚くべきことかもしれませんが、このエッセイでの説明が進むにつれて、それが真実であるというデータを提供します。
それが、釈尊が“manō pubbangamā dhammā…”つまり「すべてにおいて、(まずは)マインドが先行する…」と言った理由です。
( Dhammaパーダの1節と2節)
しかし、私たちを取り巻くほとんどすべての物質は、かなり前にこの「メンタル的プロセス」によって創造されました。それがAggañña Sutta(『起源経』経蔵長部Digha Nikaya 第27経)の物語です。
現在、suddhātthakaは常に(javana cittaを介して)作成されていますが、ごくわずかな量です。
より高いabhiññāの力を持つ人は誰でも、花やさらに大きな実体であるかなりの量の物質を作り出すことができるはずです。
物質(suddhātthakaのレベル)はjavana cittaによって作成されます。そして、abhiññāの力を持つ人は、「かなりの量の物質」を生成するためにjavana cittaが継続的に流れているcitta vithiを維持できます。これについてはCitta Vithi – Processing of Sense Inputsの最後の部分で簡単に説明しています。
8. But most of the
time, what we are doing now is to “remake” different types of sankata using the “raw material” (suddhātthaka) created
billions of years ago. These original suddhātthaka have
lifetimes of close to 20 antakkappa (or antarākalpa), where 80 such antakkappa are
in a mahā kappa.
Please don’t hesitate to ask questions at this early stage. There
is a lot of information in this post to digest, and some of them will
become clearer as we proceed.
8.しかし、ほとんどの場合、私たちが今していることは、数十億年前に作成された「原材料」(suddhātthaka)を使用して、さまざまな種類のsankataを「リメイク」することです。オリジナルのsuddhātthakaは20 antakkappa(すなわちまたはantarākalpa)ほどの寿命を持ちます。(80のantakkappaで1 mahā kappaになります、すなわち数億年ほど)
したがって、一部の人々が誤って信じているように、物質は「17の思考瞬間」の寿命しかを持たないのではなく、suddhātthakaの寿命はとんでもなく非常に長いのです。
現代の物理学では、一部の素粒子(電子など)の寿命が非常に長いことが確認されています。したがって、この「すべてのものは急速に現れては消えていく」という考え方は誤解です。Does any Object
(Rupa) Last only 17 Thought Moments?を参照してください。これについては、今後さらに詳しく説明します。
早い段階でも遠慮なく質問してください。このトピックには消化する多くの情報があり、それらのいくつかは私たちが進むにつれてより明確になります。
What is Suddhātthaka?
9. Suddhātthaka (“suddha”
for “pure” or fundamental” + “attha” or
“eight”) means a unit of matter consisting of eight fundamental entities
(usually translated as the “pure octad.”)
The word āpo comes
from the tendency to “attach or get attracted to worldly things” (“bandena gathiya”
means the “bind together,” which leads to liquidity in science). Tejo comes
from “fiery or energetic” (“théjas gathi” in Sinhala), and vāyo
refers to “motion” (“salena gathiya” in Sinhala). They are all created in javana citta that arise
in mind, of course, in minute quantities that cannot be detected. However,
those with abhiññā powers can
generate large amounts of matter like a flower.
9.Suddhātthaka(「suddha」は「純粋」または「基本」+「attha」は「8」を表す)は、8つの基本実体(通常はpure
octad「純粋な8進数」と英語では翻訳されます)で構成される単位を意味します。
これらのうち4つは、「satara mahā bhūta 」です:四大元素のpatavi土、アーポ水、tejo火、vayo風。これらは確かに物質の最も基本的な単位ですが、それ自体では感知できません。この段階では多くの人にとって信じがたいかもしれませんが、それらはいくつかのトピックで議論した「gati」のために生じます。
紹介記事The Law of Attraction, Habits, Character (Gati), and Cravings (Asavas)を参照してください。ちなみに、「āsāvas」と「gati」の除去は、Nibbanaにつながります:The Way to Nibbāna – Removal of Āsavasこの記事の内容を把握するには、これらの概念を理解する必要があります。
satara mahā bhūtaは、マインドによって人間の4つの基本的な「gati」で最初に作り出されます。汚れたマインドは「固さ」および「粗さ」であり、「patavi」の性質に対応しています。
āpoという言葉は、「世俗的なものに執着する、または惹きつけられる」傾向に由来します(「bandena gathiya」は「結合」を意味し、科学の流動性につながります)。
Tejoは「燃えるようすなわちエネルギッシュ」(シンハラ語で「théjasgathi」)に由来し、vāyo は「動き」(シンハラ語で「salena gathiya」)を指します。それらはすべてマインドに現れるjavana cittaで作成されます、もちろん、感知できない量ですが。しかし、abhiññāの力を持つ人々は、花のような物質を大量に生成する可能性があります。
10.
Those most fundamental four units (satara mahā bhūta) are supposed
to be created by the mind due to avijjā or
ignorance. We like to have possession of things made out of these units
because we do not comprehend the “unfruitful nature” of such impermanent
things.
Now, the craving for these material things
leads to four more gathi due
to tanhā. Due to our tendency to think highly (“varnanä
karanava” in Sinhala), another gati of “
10.これらの最も基本的な4つのユニット(satara mahā bhūta)は、avijjāすなわち「無明」のためにマインドによって作成されます。私たちはこれらのユニットから作られたものを所有するのが好きです。なぜなら、私たちはそのような非永続的なものの「実りのない性質」を理解していないからです。
これについては、Mahāhatthipadopama
Sutta (MN 28)で簡単に説明されています。英語の翻訳。translation;
“The Greater
Discourse on the Simile of the Elephant’s Footprint (MN 28)
これを指摘してくれたセイン・ミント博士に感謝します。
物質的なものへの渇望と嫌悪のため、それらがもう4つのgatiにつながります。高度な思考への傾向(シンハラ語の「varnanäkaranava」)により、「varna」とは別のgatiが四大元素とは違うものを作り出します。
渇望と嫌悪のため同様に、gandha(香)、rasa(味)、oja(汁)と呼ばれる3つのユニットが作り出されます。それらは私たちの願望に対応して、連絡を取り、密接(rassa)を保ち、再生成します。これらを詳細に説明するスペースはありませんが、基本的な考えが得られることを願っています。
11. Therefore, four basic units of patavi,
āpo, tejo, vāyo arise due to avijjā,
and the other four of varna, gandha,
rasa, and oja arise due to tanhā. The latter four also occur due to patavi,
āpo, tejo, vāyo (actually they are just different modes of
vibration of patavi, āpo, tejo, vāyo).
We will get into more detail in the future so that even physicists would be
able to appreciate the value of Abhidhamma.
And a suddhātthaka can
never be divided; thus they are called “avinibbhöga
rupa kalapa.”
11.したがって、patavi、āpo、tejo、vayoの4つの基本単位はavijjā(無明)によって発生し、varna、gandha、rasa、ojaの他の4つの単位はtanhā(渇望と嫌悪)によって発生します。後者の4つは、patavi、āpo、tejo、vayo(実際には、patavi、āpo、tejo、vayoの異なる振動モードにすぎないのですが)によっても発生します。物理学者でさえAbhidhammaの価値を理解できるように、さらに詳しく説明を試みます。
これらの8つは単独では発生しないため、「avinibbhoga(不可分の)rupa」と呼ばれます。それらは常に一緒に発生します。どのsuddhātthakaにもこれらの8つがあります。各構成要素の相対的な「量」は変化する可能性があるため、たとえば、一部のsuddhātthakaは1つの要素によって構成されます。それでも、8つすべてがある程度は存在します。
これは、avijjāがあるところはどこでもtanhāがあり、逆も同じであるということと同様です。
この非常に基本的なレベルは「bhūta」ステージと呼ばれます。bhūtaは、そのとらえどころのない性質から別名はゴースト(幽霊)です。それらは決して感知されることができず、釈尊によってのみ「見られる」ことができます。釈尊はこれを世界についてすべてを知っていると思っていたMahā Brahmaに説明しました。:
Brahmanimantanika
Sutta (Majjhima Nikaya 49)。このsuttaについては後で詳しく説明します。
suddhātthakaは決してこれ以上は分割できません。したがって、それらは「avinibbhögarupa kalapa」(不可分な単位)と呼ばれます。
Critical Role of Gati
12. Thus “gathi”
leads to “bhūta,” the
first phase of rupa that can be seen
(only by Buddha). That is the suddhātthaka stage. That is where mental energy is
converted to matter at the very fundamental stage. Just keep that in
mind as we proceed.
Details of gati at, “Gati, Bhava, and Jāti“.
12.したがって、ここで「gathi」は「bhūta」につながります。これは、釈尊によってのみですが、見ることができるrupaの最初の段階です。それがsuddhātthakaのステージです。それは、非常に基本的な段階でメンタルエネルギーが物質に変換される場所です。それを念頭に置いて進めていきます。
これらの膨大な数のsuddhātthakaが融合すると、「mahā bhūta」がより凝縮された状態になります。brahmas と gandhabbasの微細な体はこのmahā bhūtaで作られています。このレベルの「凝固」は、長周波の電磁放射と(エネルギーで)比較できます。したがって、これらの実体を目で「見る」ことはできません。
膨大な量のmahā bhūtaが融合してさらに凝縮されたときのみ、私たちはそれらを見ることができます。この高度に凝縮された状態では、物質は「dhātu」と呼ばれます。devaのボディは、繊細なdhātuで作られています。だから私たちはdevaを見ることができませんが、brahmasはdevaを見ることができます。
したがって、私たちの体は、私たちが見ることができるほど密なdhātuでできています。そのため、固体物は「patavi dhātu」と呼ばれます。そのような固体物のsuddhātthakaは主にpataviで構成されています。液体は、ほとんどがāpo dhātuで構成されるため、一緒に束ねられて流れます。火だけでなく「エネルギッシュな外観」をしている物は、多くのtejoによって構成されています。そして、風だけでなく動きやすい傾向がある物はより多くのvāyoで構成されます。
Gati, Bhava, and Jātiにはgatiの詳細があります。
Other Implications
13. Therefore, we can
see that patavi, āpo,
tejo, vāyo have
much deeper meanings than just earth, water, fire, and wind. Why did the
ancient Greeks also use the same terms? That is due to the same reason that
Hinduism also uses terms like karma (which is the Sanskrit
word for kamma), Nirvana (which
is the Sanskrit word for Nibbana), anapana,
etc.
Human history is much longer than tens of thousands of years, as
believed by many today. Whole continents can
submerge, wiping out entire populations; this is not being considered seriously
yet, but there is evidence: see, https://en.wikipedia.org/wiki/Submerged_continent.
Anyway, that is a topic to be discussed later when more evidence becomes
available. It will be proven that one region that has not changed since the formation
of the Earth is Asia encompassing Sri Lanka, India, and China. Archeologists should
focus more in that region rather than in Africa. See, “Ancient teeth found in China challenge modern human migration theory.”
13.したがって、patavi, āpo, tejo, vāyoは、大地、水、火、風よりもはるかに深い意味を持つことがわかります。古代ギリシャ人も同じ用語を使用したのはなぜでしょうか?
これは、ヒンドゥー教でもカルマ(kammaのサンスクリット語)、ニルヴァーナ(nibbanaのサンスクリット語)、anapanaなどの用語が使用されているのと同じ理由によるものです。
釈尊(ゴータマ・ブッダ)の前に、このmahā kappa(つまり、太陽系の存在中)では3人のブッダがありました。それが、これらの用語が釈尊(ゴータマ・ブッダ)以前に使用されるようになった理由です。前のブッダたちによるこれらの概念は、世代を超えて伝えられていましたが、本当の意味は失われていました。
人類の歴史は数万年よりはるかに長い、と今日では多くの人々が信じています。大陸全体が水没して、全人口が一掃された可能性があり、これはまだ真剣に考えられていませんが、証拠があります:
https://en.wikipedia.org/wiki/Submerged_continentを参照してください。
ともかく、それはより多くの証拠が利用可能になった後に議論されるトピックです。その時には地球の形成以来変化していない地域の1つは、スリランカ、インド、中国を含むアジアであることが証明されるでしょう。考古学者はアフリカではなくその地域にもっと焦点を合わせるべきです。Ancient teeth found in China challenge modern human migration theory
14. As I mentioned
above, there were three Buddhas before Buddha Gotama. That is how some of the
key terms like patavi, āpo, tejo, vāyo and kamma, and Nibbana (nirvana)
have been in use even before the Buddha Gotama. They had been transmitted down
through generations, but of course, their true meanings had been lost.
August
2019: I recently started a new series of posts on “Origin of Life“.
14.上で述べたように、釈尊(ブッダGotama)の前に3人のブッダがありました。これが、patavi, āpo, tejo, vāyo kamma,Nibbanaなどの重要な用語の一部が、ブッダゴータマの前から使用されている理由です。それらは何世代にもわたって伝わっていましたが、もちろん、それらの本当の意味は失われてしまいました。
三蔵での真の意味の喪失が、この釈尊のsāsana(教え)の時代における過去2500年だけでも少なくても数回はありました。例としては、過去数百年間のsan, sansara,
anicca, anattaの誤訳と誤った解釈です。
What is “San”? Meaning of Sansara (or Samsara)” and “Anicca, Dukkha, Anatta – Wrong Interpretations
しかし、ブッダ・ゴータマは、彼のブッダ・サーサーナは5000年間続くと言いました。出典?
私たちはまだ途中です。それが今、釈尊の元の教えに向かっている理由です。そして今回は、インターネットの存在により、持続力があります。それが、私たち全員が現代科学に感謝すべき理由の1つです。
2019年8月「Origin
of Life」に関する一連の新しいトピックを開始しました。
What are Rūpa? – Dhammā are Rūpa too!
May
13, 2017; revised November 4, 2017
All our conscious
thoughts start with one of the six senses getting input
from the external world. With those six sense faculties, we detect six types
of rūpa “out there” in the
world.
1. Many people
think rūpa means just “material
things” that we can see out in the world. But EVERYTHING that we sense
through our six senses are rūpa. I will explain this in a systematic way.
Let us discuss those two types of rūpa in detail first.
私たちの意識的思考はすべて、外界からインプットを得る六感のうちの一つから始まります。これらの6つの感覚機能により、私たちはこの世で6種類の「外」rūpaを感知します。
1.多くの人は、rūpaとは世界で見られる「物質的なもの」を意味すると考えています。しかし、私たちが六感で感じることはすべてrūpaです。これを体系的に説明します。
•5つの肉体的感覚で感知したものは、「密なrūpa」と呼ぶことができます。それらは、suddhāshtakaで作られています。つまり、sataramahābhūta(patavi、āpō、tejo、vayō)で作られています。The Origin of Matter – suddhāshtakaを参照してください。
•mana indriyaで感知されるこのようなrūpaはDhammāと呼ばれます。これらは単なるエネルギーであり、suddhāshtakaレベルに凝縮していません。つまり、suddhāshtakaの段階より下に(小さい)あります。
•dhammaは仏教のような教義を指し、dhammāは非常に微細なrūpaを指すことを覚えておくと良いでしょう。
•最初に、これら2種類のrūpaについて詳しく説明します。
2. All
things that we experience through our SIX senses are rūpa, but the first FIVE types of sense
inputs come through five “sensors” obvious to everyone (eyes, ears, nose,
tongue, and body). The SIXTH one
called mana indriya (located in the brain) is not
known to science. This is clearly stated in the Cha Chakka Sutta,経蔵中部Majjhima
Nikya18 as discussed below.
For details of how the sensory inputs that come through the six “sense doors” are experienced by the mind, see, “Brain – Interface between Mind and Body“.
2. 6感覚を通じて経験するすべてのことはrūpaですが、最初の5感覚入力は、誰にでも明らかな5つの「感覚器官」(目、耳、鼻、舌、および身体)を通過します。mana indriyaと呼ばれる(脳にある)6番目のものは、科学では知られていません。これは、以下に説明するように、Cha Chakka Sutta 経蔵中部Majjhima Nikya18で明確に述べられています。
•すべての6つのタイプは、最終的にマインドによって経験されます。つまりcitta(想い)とcētasika(メンタル的要因)によってです。
•6つの「感覚のドア」を通過する感覚入力がどのようにマインドによって経験されるかの詳細についてはBrain – Interface between Mind and Bodyを参照してください。
3. Those that we
experience through our FIVE physical senses (eyes, ears, nose, tongue, and the
body) are “dense rūpa“, meaning they are
made of suddhāshtaka, which are made of
the four great elements or the “satara mahā bhūta“.
However, we need light to “see” those “rūpa rūpa“. Light consists of tiny particles called photons; they have very small masses due to their energies.
3. 5つの身体感覚(目、耳、鼻、舌、身体)で経験するものは「密なrūpa」です。つまり4大要素すなわちsatara mahā bhūtaで作られたものなので、suddhāshtakaで構成されています。
•これらの5種類のrūpaは、すべて「rūpa lōka」のものです。これは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、身体的接触としてよく知っているものです。
•体に触れたり、目で見たりするのは、誰もが知っているrūpaです。他の4つのタイプと区別するために、「rūpa rūpa」すなわち「vanna rūpa」(シンハラ語またはサンスクリット語では「varna rūpa」)と呼ばれることもあります。
•しかし、それらの「rūpa rūpa」を「見る」には光が必要です。光は、光子と呼ばれる小さな粒子で構成されています。それらはそのエネルギーのために非常に小さな質量を持っています。
4. Now, let us look at
the other four types of rūpa that we
detect with our ears, noses, tongues.
When we hear sounds, our ears detect disturbances in the air due to that sound. Sound, therefore, involves energy, just like light. Sometimes sound energy is attributed to energy packets called “phonons”.
4.次に、耳、鼻、舌で感知する他の4種類のrūpaを見てみましょう。
•私たちが味わうものは「rūpa rūpa」、つまり固形食品または液体であることも容易にわかります。
•鼻で感知するのは匂いです。これは非常に小さな微粒子です。ですから、それらもrūpa rūpaです。
•音を聞くと、耳はその音による空気の乱れを感知します。したがって、音は光のようにエネルギーを伴います。音エネルギーは、「phonons」と呼ばれるエネルギーパケットに起因する場合があります。
5. Therefore, detection of rūpa in the “rūpa
lōka” involve matter or energy, and all
those are above the suddhāshtaka stage.
A suddhāshtaka could
be a billion times smaller than that photon.
5.したがって、「rūpa lōka」でのrūpaの感知には、物質またはエネルギーが関係しており、それらはすべて、suddhāshtakaレベルを超えて(大きい)います。
•軽い粒子すなわち光子もsuddhāshtakaでできています。
•suddhāshtakaレベルの上にあるので、suddhāshtakaがどれくらいの微細であるのかがわかります。それは、現代科学の原子よりもはるかに小さいものです。
•たとえば、可視範囲の光子(suddhāshtaka)は、最小の原子である水素原子の10億分の1の質量です。それは砂の粒と平均的な飛行機の質量差ぐらいです。
•suddhāshtakaは、その光子の10億分の1ぐらいになります。
6. This is actually
another example of how Buddha was ahead of modern science 2500 years ago.
He had categorized all five “objects” sensed by the five physical senses as “rūpa” made up of suddhāshtaka.
It was only about 100 years ago that science identified photons as particles,
with the advent到来 of quantum mechanics.
Now it is accepted that light is made up of particles called photons.
6.これは、2500年前にブッダがどのように現代科学を先んじたかの実際の別の例です。彼は、5つの物理的感覚によって感知された5つの「対象」をすべて、suddhāshtakaで構成される「rūpa」として分類しました。量子力学の到来により、科学が光子を粒子として特定したのはわずか100年前です。
•多くの物理学者でさえ、1986年のGrainger、Roger、およびAspectの単一光子感知実験まで、光の粒子の性質を受け入れませんでした。
•現在、光は光子と呼ばれる粒子で構成されていることが認められています。
7. Now let us think about what else we experience, other than
those detected with the five physical senses. Imagine someone trapped in a cell
with soundproof walls with no light inside and nothing in that room except its
walls.
Those thoughts do not come at random, but due to kamma vipāka. Of course one can willingly recall them too. They are his memories and future hopes, among others. This is the part that most people don’t even consider.
7.ここで、5つの身体感覚で感知されたもの以外に、私たちが経験する他のことについて考えてみましょう。
誰かが防音壁のある部屋に閉じ込められており、内部に光がなく、その部屋の壁以外は何もないと想像してください。
•その人は壁にしか触れることができません。彼は何も見る、聞く、嗅ぐ、味わうことができません。
•しかし、感触だけが彼の経験ではありません。彼は自分がやりたいことについて考えることができます。彼は過去の出来事について考えることができ、将来何が起こるかについて考えることができます。
•これらの考えはランダムではなく、kamma vipākaによるものです。もちろん、それらを喜んで思い出すことができます。とりわけ思い出と将来の希望です。これはほとんどの人が考慮していません。
8. As we discussed
above, those are the finer rūpa detected
by the mind lie below the suddhāshtaka stage.
They are detected by the mana indriya in
the brain (another fact unknown to science), and subsequently sensed by the
mind.
Here, “anidassana” means “cannot be seen” and “appatigha” means “cannot be touched or sensed with even the finest instrument”. And, “dhammāyatana pariyāpanna rūpan” means “can make contact only with the dhammāyatana or mana indriya”; see, “What are Dhamma? – A Deeper Analysis“.
8.上記で説明したように、それら(想い)はsuddhāshtakaレベルの下にあるマインドによって感知される、より微細なrūpaです。それらは脳内のmana indriyaによって感知され(科学にとって未知の事実)、その後、マインドによって感知されます。
•私たちのマインドによって(私たちの想いを介して)生成されるkamma beejaもdhammāの一部です。それらは時々kamma vipākaをマインドに持ち帰ります。これらが頭(マインド)に浮かんでくる物や人についての「ランダムな思考」と考えているものです。
•これらのdhammāは、abhiññāの力でさえ「見える」ほど粗いものではなく、他の5つの粗い感覚とは接触しません。したがって、それらはanidassan appatighan dhammāyatana pariyāpanna rūpanと呼ばれています。
•ここで、「anidassana」は「見えない」ことを意味し、「appatigha」は「最も微細な器官でさえ触ったり感知したりできない」ことを意味します。また、「dhammāyatanapariyāpannarūpan」は「dhammāyatanaすなわちmana indriyaとのみ接触できる」という意味です。
What are Dhamma? – A Deeper Analysis
9. We see a person when light reflected off of that person comes
to our eyes. A sound is heard when the air disturbances due to that sound reach
our ears. We smell a scent when tiny particulates of scent reach our noses.
When food particles make contact with our tongues we taste the food.
The sixth sense that we have is called the mana indriya. It is located in the brain, but I
have not yet been able to identify it with the known components in the brain.
Of course, scientists do not think about it that way. This is how the Buddha
described it.
9. 私たちは人を見たというのは、その人から反射された光が私たちの目に届くからです。音が聞こえるのは、その音による空気の乱れが耳に届くからです。匂いがするのは、香りの小さな粒子が鼻に届くからです。食べ物の味がするのは、食べ物の粒子が舌と接触するからです。
•したがって、私たちの身体には5つの物理的な「感覚器官」があり、これらが5つの感覚入力を感知します。それらは目、耳、鼻、舌、そして私たちの体です。それらは、cakkhu、sota、ghāna、jivhā、kāyaindriyaと呼ばれます。
•私たちが持っている6番目の感覚は、mana indriyaと呼ばれます。これは脳内にありますが、脳内の既知の成分でまだ特定できていません。もちろん、科学者はそのように考えていません。これが釈尊の説明です。
10. We detect “dhammā” with the mana indriya, just
like we detect pictures with cakkhu indriya or sounds with sōta
indriya (ears). But all these sense inputs
are “felt” by the mind (hadaya vatthu) located close to the physical heart; see, “Brain – Interface between Mind and Body“.
That person locked up in an isolated room generates thoughts about his past or future when dhammā that represent such past events or future hopes make contact with the mana indriya.
10. cakhu indriyaで写真を、sota indriya(耳)で音を感知するように、mana indriyaで「dhammā」を感知します。しかし、これらすべての感覚入力は、肉体の心臓の近くにあるマインド(hadaya vatthu)によって「感じられ」ます。Brain – Interface between Mind and Bodyを参照してください。
•これらのdhammāはBuddha Dhammaでもrūpaですが、光の粒子や光子よりもさらに細かいものです。
•「Dhammā」は、suddhāshtakaレベルの下にあるエネルギーです。最高級の科学機器でさえ感知できません。
•隔離された部屋に閉じ込められた人は、そのような過去の出来事や将来の希望を表すdhammāがmana indriyaと接触すると、自分の過去や未来についての考えを生み出します。
11. Just like the dense rūpa that we detect with our five physical senses
are in our “rūpa lōka“,
these dhammā (which are the same
as kamma beeja)
are in our “manō lōka“(mental world); see,
“Our Two Worlds : Material and Mental“.
When kamma beeja lose their energy over long times, they become just “records.” of what happened. Now they cannot bring any more vipāka, but become just “memories”.
11.五感で感知する密なrūpaが「rūpa lōka物質界」にあるように、これらのdhammā(kamma beejaと同じ)は「manō lōka」(メンタル界)にあります。Our Two Worlds : Material and Mentalを参照してください。
•このmanō lōkaは、「bhava」とも呼ばれます。これは、#8で前述したように、kamma beejaがある場所だからです。新しいbhavaをつかむと、適切なbhavaに対応する最強のkamma beejaが選択されます。
•もちろん上記のようにより小さなkamma beejaが原因で、与えられた人生のkamma vipākaも発生します。
•長い期間によってkamma beejaがエネルギーを失うと、それらは単なる「何が起こったのかという記録」になります。こうなるとそれ以上のvipākaを持ち込むことはできず、単なる「思い出」になります。
12. So, these dhammā (or kamma
beeja) are rūpa that
are below the suddhāshtaka stage, and
are in our “manō lōka”
or “mental world”, as opposed to dense rūpa that
are in our “material world” or “rūpa lōka“.
In addition, we can recall such memories at our will too.
12.したがって、これらのdhammā(すなわちkamma beeja)は、suddhāshtakaステージの下にあるrūpaであり、私たちの「物質界」すなわちrūpa lōkaにある「密なrūpa」とは対照的に、「manōlōka」すなわち「mental界」にあります。
•「メンタル界」は「物質界」と同じように私たちの周りにありますが、もちろん、私たちは「見る」ことはできません。
•しかし、ラジオ、テレビ、携帯電話で受信できるために、ラジオ、テレビ、携帯電話の信号があることを知っているのとまったく同じように、mana indriyaで「 Dhamma」を受け取ることを知ることができます。
•台所で皿を洗うなどして、何らかの仕事をしている時に、突然遠く離れた友人や職場での出来事について思いが浮かぶことがあるかもしれません。これは、kamma vipakaによって「dhammā」がmana indriyaに影響を与えるためです。
•さらに、私たちもそのような記憶を思いのままに思い出すことができます。
13. Those who are
familiar with Abhidhamma know that a “seeing event” is
a sense input through the eyes: “cakkhuñca
paṭicca rūpē ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ“,
i.e., “eye-consciousness arises when a rūpa
rūpa (with the aid of light) impinges on
the eyes”.
Finally, detection of dhammā with the mana indriya is stated as, “manañca paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ“.
13. Abhidhammaに精通している人は、「見るイベント」とは目を通した感覚の入力であることを知っています。つまり、光の補助により物質粒子が目に影響を与え、目の意識が生起します。
•同様に、聴覚の原因は、「sōtañca paṭicca saddēca uppajjatI sōtaviññāṇaṃ」であり、他の物理的なghāna(におい)、jivhā(味)、およびkāya(body)も感覚の入力です。
•最後に、mana indriyaを使用したdhammāの感知は、「manañca paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ」と記述されています。
14. We also need to
realize that “dhammā” can have somewhat
different meaning too, depending on the where used.
So, we need to take the appropriate meaning of a given word depending on the context.
14.また、「dhammā」は、使用される場所に応じて、多少異なる意味を持つ可能性があることを認識する必要があります。
•仏法とは、仏の教えを意味します。ここでは通常「Dhamma」と書かれていますが、一部の人はBuddha Dhammāと書いています。
•だから、文脈に応じて与えられた単語の適切な意味を取る必要があります。
15. For those who are
familiar with Abhidhamma, we can state the above with Abhdhamma language as follows. According
to Buddha Dhamma EVERYTHING in existence can be put into four ultimate
realities (paramatthatha):
15. Abhidhammaに精通している人のために、次のようにAbhdhamma用語で上記を述べることができます。 Buddha Dhammaによると、存在するすべては4つの究極のリアリティ(勝義諦paramatthatha)に分別することができます:
•想い(citta)
•想いの質すなわちメンタル的要因(cētasika)
•エネルギーとdhammāを含む物質(rūpa)。
•Nibbāna
16. As we will see
later, it is these dhammā that
eventually lead to the formation of dense rūpa that
we enjoy with our five physical senses.
Such dense rūpa have finite lifetimes (they are impermanent). In
addition, they change unpredictably during their existence and that is
called viparināma lakkhana.
A living being exists to experience such dense rūpa and hopes to enjoy them with the mind (with citta and cētasika). That is the basis of existence in a sentence.
16.後で見るように、これらのdhammāが私たちの五感で楽しむことができる密なrūpaの形成に最終的につながることです。
このような密なrūpaの寿命は有限です(非永続的です)。さらに、存在している間は、予測不可能に変化し、それはviparināma lakkhana(予測不可能に変化する性質)と呼ばれます。
•しかし、どんなに一所懸命に努力しても、密度の高いrūpaを満足できるように維持することはできません。したがって、そのような密なrūpaは、どんな喜びよりも苦しみにつながります。
•「rūpa lōka」には5種類の密なrūpaがあり、「manō lōka」にはそれほど密ではない Dhammāがあります。Our Two Worlds: Material and Mentalを参照してください。
•そのような密なrūpaを体験するために生命体は存在し、それらをマインド(cittaとcētasikaで)で楽しむことを望んでいます。文中では、それが「存在」の基礎です。
17. The Buddha
said, “sabbē dhammā
anattā,” i.e., “all dhammā are
without essence at the end” and must be given up to attain Nibbāna. But that cannot be done by sheer明らかな will power: One has to comprehend the true nature — Tilakkhanna — to see the real nature of
all rūpa, including dhammā.
But some javana (especially in jhāna samāpatti(到達) 入定)) can create energies above the suddhāshtaka stage, i.e., they can produce tangible rūpa. That is how one with abhiññā powers can “create” physical objects.
17.釈尊は「sabbē dhammā anattā」、すなわち「すべてのdhammāは最後には本質を持たない」と言っており、Nibbānaを達成するために放棄しなければなりません。しかし、それは明瞭な意志の力ではできません。 Dhammāを含むすべてのrūpaの本当の性質を見るために、本当の性質である三相を理解する必要があります。
•私たちは自分でdhammāを作成して世界を作ります。これは、Living Dhammaセクションで説明しようとする重要なポイントです。
•dhammāを作成する基礎は、javana cittaにおける私たちの「考え・想い」です。 javana cittaは「kamma beeja」を生成し、将来のkamma vipākaを生成します。それでkamma beejaはdhammāなのです。それらはsuddhāshtakaステージの下の非常に小さなエネルギーの塊です。
•しかし、一部のjavana(特にjhāna samāpatti入定)では、suddhāshtakaステージの上にエネルギーを作成できます。つまり、有形のrūpaを作成できます。それが、abhiññāの力を持つ人が物理対象を「作成」する方法です。
18. Any rūpa (including kamma
beeja) that one makes for oneself, cannot be
maintained to one’s satisfaction.
The only dhammās that are “permanent” are nāma gotta, records of our sankhāra, which do not have energy in them; “Nāmagotta, Bhava, Kamma Beeja, and Mano Loka (Mind Plane).”
18.自分で作るrūpa(kamma beejaを含む)は、各自が満足するように維持させることはできません。
•エネルギーを持つrūpaは最終的に破壊されるか、そのエネルギーが消耗します。さらに、そのようなrūpaも存在している間に予期せず変化する可能性があります。それがviparināma(予測不可能な変化)の特徴であり、苦しみの根本原因です。
•「永続的」なdhammāは、sankhāraの記録であるnāmagottaのみで、それらにはエネルギーがありません。Nāmagotta, Bhava, Kamma Beeja, and Mano Loka (Mind Plane)
19. When one sees the
perils of this rebirth process (after one grasps the Tilakkhana),
one stops making those causes via abhisankhāra,
and also gives up the craving (tanhā) for
them, which leads to Nibbāna.
Nibbāna results when all those causes are removed, no rūpa can arise. Hence Nibbāna is permanent. No more suffering!
19. (三相を把握した後に)この転生プロセスの危険を見ると、abhisankhāraを介して原因を作ることをやめ、そして、欲求(tanhā)を放棄します、これがNibbānaに導きます。
•Nibbānaは、これらのすべての原因が取り除かれた場合に発生し、rūpaは発生しません。したがってNibbānaは永続的です。もう苦しむ必要はありません!
20. Finally, our six
sense inputs (āyatana) and the six types
of rūpa that we experience with them
are discussed in several suttas. For example, in the “Cha Chakka Sutta
(MN 148)“:
“Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’ti—iti kho panetaṃ vuttaṃ.
Kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃ? Cakkhāyatanaṃ,
sotāyatanaṃ, ghānāyatanaṃ, jivhāyatanaṃ, kāyāyatanaṃ, manāyatanaṃ. ‘Cha ajjhattikāni
āyatanāni veditabbānī’ti—iti yaṃ taṃ
vuttaṃ, idametaṃ paṭicca vuttaṃ. Idaṃ paṭhamaṃ chakkaṃ. (1)”
“Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī’ti—iti kho panetaṃ vuttaṃ.
Kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃ? Rūpāyatanaṃ,
saddāyatanaṃ, gandhāyatanaṃ,
rasāyatanaṃ, phoṭṭhabbāyatanaṃ,
dhammāyatanaṃ. ‘Cha bāhirāni
āyatanāni veditabbānī’ti—iti yaṃ taṃ
vuttaṃ, idametaṃ paṭicca vuttaṃ. Idaṃ dutiyaṃ chakkaṃ. (2)”
A more in-depth
analysis of dhammā is at, “What are Dhamma? – A Deeper Analysis.”
20.最後に、6つの感覚入力(āyatana)と、それらで経験する6種類のrūpaについて、いくつかのsuttaで説明します。たとえば、Cha Chakka Sutta (MN 148):
Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’ti—iti kho panetaṃ vuttaṃ. Kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃ? Cakkhāyatanaṃ,sotaāyatanaṃ,ghānāyatanaṃ,jivhāyatanaṃ,kāyāyatanaṃ manāyatanaṃ.
Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’ti—itiyaṃtaṃ vuttaṃ、idametaṃ paṭicca vuttaṃ。 Idaṃ paṭhamaṃ chakkaṃ.(1)
Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī’ti—iti kho panetaṃ vuttaṃ. Kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃ? Rūpāyatanaṃ,saddāyatanaṃ,gandhāyatanaṃ,rasāyatanaṃ,phoṭṭhabbā-yatanaṃ,dhammāyatanaṃ.
Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī´ti—iti yaṃ taṃ vuttaṃ、idametaṃ paṭicca vuttaṃ. Idaṃ dutiyaṃ chakkaṃ.(2)
•したがって、6つの(Cha)内部āyatana(ajjhattikāni āyatanāni)と6つの外部āyatana(bāhirāni āyatanāni)があります。
•6番目の内部āyatanaはmanāyatanaであり、dhammaを感知します(saddaすなわち音がsaddāyatanaと呼ばれるようにmanāyatanaと呼ばれます)。
dhammāのより詳細な分析は、What are Dhamma? – A Deeper Analysis
Revised
May 25, 2018; February 19, 2020
1. In Buddha Dhamma, everything in “this world” of 31 realms can
be put into two categories: mana or manō (mind)
and rūpa (material
form).
1.仏法では、31の領域の「この世界」にあるすべてのものを、manaすなわちmanō(マインド)とrūpa(物質)の2つのカテゴリに分類できます。
マインドはcitta(想い)であり、想いのメンタル的特性はcētasikaです。
それ以外はすべてrūpa(物資的形状)です。
2. Now let us look at rūpa: Many people think rūpa is
just the body or “material things”. A better translation for rūpa is
“matter and energy”. As stated in #1 above, everything else in the 31 realms
that is not citta or cētasika is rūpa.
2.次に、rūpaを見てみましょう。多くの人は、rūpaは単なる身体または「物質的なもの」であると考えています。 rūpaのより良い翻訳は「物質とエネルギー」です。上記の#1で述べたように、31の領域でcittaまたはcētasika以外のすべてはrūpaです。
私たちが五感で経験するrūpaには5つのタイプがあります。目(cakkhu)で、私たちはvaṇṇa rūpa(目に見えるものは何でも)を経験します。耳 (sōta)で音(sadda)、鼻(ghāna)で香り(gandha)、舌(jivhā)で味(rasa)、身体(kāya)で感触(phoṭṭhabba)が経験されます。
3. We can see that smells are due to tiny material particles
that enter the nose. The taste is also due to food and drinks that touch the
tongue; touch is also contact between “material things”.
3.においは、鼻に入る小さな物質の粒子が原因であることがわかります。味はまた、舌に触れる食べ物や飲み物によるものです。触覚は「物質的なもの」どうしの接触です。
しかし、目に見える対象はどうでしょうか?対象を見るには光が必要です。光がなければ見えません。したがって、「見る」には物質とエネルギーが関係します。音も同じです。したがって、vaṇṇa rūpa(またはvarna rūpa)は本当に「物質とエネルギー」であり、最終的には単なるエネルギーです。 20世紀に入って以来、科学は物質が単なるエネルギーであることを確認しました。それらはアインシュタインの有名な式E = mc2によって関連付けられました。
“cakkhuñca paṭicca
rūpē ca uppajjāti cakkhu viññāṇaṃ.“の意味するところを理解することは重要です。
それは、眼のindriyaに光が当たることが視覚に感覚を与えることを意味します。したがって、vaṇṇa(varnaまたはrūparūpaとも呼ばれます)、sadda、gandha、rasa、およびphoṭṭhabba(五感)では、rūpaは実際にはエネルギーまたは粒子の一種です。
現代科学は今、物質とエネルギーの間に区別がないことに同意しています。ただし、物質/エネルギーはマインドによって作成されます(dhammāとして)。Manōpubbangamā Dhammā..を参照してください。
bhūtaレベルの上(大きい)にある物質は、最終的には超新星型爆発の「lōka vināsa」で破壊されます。
Saṃsāric Time Scale, Buddhist
Cosmology, and the Big Bang Theoryを参照してください。
4. Thus the rūpa can vary in “density” from
almost pure energy to the solid objects that we can see with our eyes.
4.したがって、rūepaは「密度」がほぼ純粋なエネルギーから、目で確認できる固体対象まで変化する可能性があります。
rūpaは3つの段階を経ます。「gati」段階では、エネルギーと重なります。 「bhūta」の段階では、それらはより凝縮されますが、人間の目はまだ見えません(これが、人間が見ることができない存在がパーリ語またはシンハラ語で「bhūta」と呼ばれる理由です)。人間の目で確認できるのは「dhātu」の段階だけです。
The Origin of Matter – Suddhashtakaを参照してください。
Parinibbāna(アラハンの死)では、マインドは3つの形式(dhātu, bhūta,gati)のいずれのrūpaにも執着していません。
5. When one is born anywhere in the 31 realms, it is the viññāna (impure
consciousness) that keeps the mind bound to a material body. As the purity
level of the mind goes higher one moves up from the lower realms with dense
bodies to higher realms with less dense bodies.
5. 31の領域のどこかで生まれたとき、マインドを物質的な肉体に縛り付けているのはviññāna(純粋でない意識)です。マインドの純度レベルが高くなると、密度の高いボディを持つ低い領域から、密度の低いボディを持つ高い領域に移動します。
下の領域(5番目の領域である人間の領域以下)では、マインドは通常、人間の目で見ることができる密な体に取り付けられています。これは密なdhātuのカタチです。 地獄と餓鬼の世界が見えないのはなぜ?
dēvalokā(領域6-11)では、肉体はより細かく(微妙です)彼らのマインドには憎しみがなく、したがってより純粋です。 6-11の領域では、ボディはまだ「dhātu」形式のrūpaでできていますが、密度は低くなっています。
rūpalokaとarūpalokaでは、マインドは憎悪と貪欲の両方を欠いているため、より純粋です。 rūpaloka(領域12〜27)では、存在の体はdēvasよりも密度が低く、「bhūta」の形をしています。
arūpaloka(領域28-31)では、bhūtaのレベルでもrūpaはありません。しかし、4つのmahā bhūtaは、依然としてそれらの「gati」に関連付けられています(Digha NikayaのKevaddha Suttaを参照)。これらの領域では、rūpaはエネルギーと区別できないものと考えることができます。
マインドが清められると、viññānaは「anidassana viññāna」になり、これはアラハンのviññāna(別名panññā)です。ここでは、マインドと「gati」に関連付けられた微細なrūpaさえありません。メンタルは完全にrūpaから切り離されます。マインドは純粋で自由になります。 アラハンに達しても、人は死ぬまで人間の「固体(肉体)」と一緒に生きています。parinibbānaで、マインドは完全にrūpaから解放されます。
Pabhassara Citta, Radiant Mind, and
Bhavaṅgaを参照してください。
6. At a deeper level, the anicca nature,
i.e., our inability to maintain anything to our satisfaction, is based on the
fact that any rūpa is
subjected to not only decay (impermanence) but also to unexpected change (viparināma nature).
7. Thus
to attain Nibbāna is to attain the perfectly
purified mind, which refuses to be burden with a physical body that leads to
decay and rebirth repeatedly (and thus to dukkha).
6.より深いレベルでは、aniccaの性質、つまり私たちが何ものも満足に維持できないことは、あらゆるrūpaが老朽する(無常)だけでなく、予期しない変化(viparināmaの性質)にもさらされるという事実に基づいています。
この事実は、熱力学の第二法則に具体化されています。
Second Law of Thermodynamics is Part of Anicca!を参照してください。
7.したがって、Nibbānaを達成することは、完全に浄化されたマインドを達成することであり、それは、老朽と再生を繰り返し(したがって、duckkha)につながる身体への負担を拒否します。
8. In the 31 realms, one is born with a dense body (kāma loka),
fine-material body (rūpa loka),
or only a trace of “matter” in the form of “gati” (arūpa loka).
When the mind becomes free of a “body” anywhere in the 31 realms, that
is Nibbāna. This is another way to understand Nibbāna.
8. 31の領域で、ヒトは密度の高い肉体(kāmaloka)、微細元素の体(rūpaloka)、そして「gati」のカタチにある「エネルギー」の痕跡(arūpaloka)を持って生まれます。 31の領域のどこかでマインドがそれらの体から解放されるとき、それはNibbānaです。これは、Nibbānaを理解するもう1つの方法です。
9. In Buddha Dhamma, any given thing or concept can be looked at
from many different angles. They are all consistent. It is a complete “world
view”. Some people think, why do we have to worry about 31 realms, etc., but
the world is very complex. Scientists are just beginning to appreciate this
complexity.
9. Buddha Dhammaでは、与えられたものや概念をさまざまな角度から見ることができます。それらはすべて一貫しています。それは完全な「世界観」です。なぜ31の領域などを心配する必要があるのかと思う人もいますが、世界は非常に複雑です。科学者たちはこの複雑さを理解し始めたばかりです。
驚くべき事実は釈尊が彼のマインドでこれらすべてを識別したことです。さらに、彼はそれを首尾一貫して提示することができました。
10. Please re-read and contemplate on the above. In the long
run, it will be very helpful. If you do not really understand it now, do not
worry. You will be able to understand more when you become familiar with other
concepts discussed in other posts. Everything at this site is inter-connected.
It may take some time to “fill-in-the-blanks”.
More details at, “Nāma
& Rūpa to Nāmarūpa“.
10.上記をもう一度読んで熟考してください。長期的には、非常に役立ちます。今はよくわからなくても心配はいりません。他のトピックで説明されている他の概念に慣れると、より深く理解できるようになります。このサイトのすべてが相互に接続されています。
「空白を埋める」には時間がかかる場合があります。
Difference Between Rūpa and Rūpakkhandha
Revised
October 20, 2018; September 18, 2019; re-written
April 24, 2020
Introduction
1. Difference Between rūpa and rūpakkhandha is
necessary to understand. Translation of rūpakkhandha as “form aggregate,”
gives the wrong impression that it is a collection of “solid objects.”
Instead of memorizing Pāli
words, we need to understand what is meant by such Pāli
words and use the Pāli words when there is ambiguity. Many
key Pāli words do not have equivalent English words.
1. rūpaとrūpakkhandhaの違いを理解することが必要です。 rūpakkhandhaを「カタチの集合体」として翻訳すると、対象が「固形のモノの集合体」であるという誤った印象を与えます。
パーリ語を暗記する代わりに、パーリ語の意味を理解し、あいまいな場合はパーリ語を使用する必要があります。多くの主要なパーリ語には、同等の英語の単語がないからです。
What Is a Rupa?
2. Before we understand
the difference between a “rūpa” and “rūpakkhandha,” we need to understand what the Buddha
meant by a “rūpa.” The Pali word “rūpa” customarily translated as “form.”
A rūpa made of the
four great elements is not necessarily a solid object like a tree (those
are vaṇṇa rūpa.)
Types of energy are included in the rūpa category. All sensory inputs to the five physical senses are rūpa.
2.「rūpa」と「rūpakkhandha」の違いを理解する前に、釈尊が「rūpa」が何を意味しているかを理解する必要があります。パーリ語の「rūpa」は慣習的に「形」と訳されています。
rūpaの定義は、SN 22.56やSN 22.57など、Tpiṭakaの多くの場所にあります。簡単に言うと、「rūpaは4大要素と4大要素から派生されたもので構成されています。
4大要素からなるrūpaは、必ずしも木のような固体対象ではありません(それらはvaṇṇa rūpaです)。エネルギーもrūpaのカテゴリに含まれます。 5つの身体感覚へのすべての感覚入力はrūpaです。
3. Therefore, we can
see that light, sound, odors, taste, and touch are all associated with rūpa. It is only within the past 100 years or so
that scientists admitted that matter and energy are the same.
The 28 types of rūpa are
listed in “Rupa (Material Form) – Table.” As we can see, especially the
ten types of rūpa on the right-hand
side of the Table are not what we usually think of as “matter.”
3.したがって、光、音、匂い、味、触覚がすべてrūpaに関連していることがわかります。物質とエネルギーが同じであることを科学者が認めたのは、過去100年ほどのことです。
現代の用語では、rūpaは「固形物」(人体、木、家など)または「エネルギー」(光、音、熱など)のいずれかです。アインシュタインのE = mc 2の公式により、現代科学は物質とエネルギーは本質的に同じであることを認めました。
仏法Buddha Dhamma用語では、これらのrūpaはすべて、「rūpaの最小単位」であるsuddhāṭṭhakaの集合体です。通常、可視対象を「物質」そして、目に見えないエネルギー(熱、音など)は「エネルギー」と呼びます。
どちらもsuddhāṭṭhakaで構成されています。仏法ではsuddhāṭṭhakaが物質エネルギーの最小単位です。現代科学では想像を絶するほど小さく、原子や電子よりも数十億倍も小さいものだとされています。
28種類のrūpaはRupa (Material Form) – Tableにリストされています。ご覧のように、特に表の右側にある10種類のrūpaは、私たちが通常「物質」と考えるものではありません。
Khandha Means
a “Collection” or an “Aggregate”
4. Before we
discuss rūpakkhandha, it also
helps to understand what is meant by a “khandha.” In
Pāli (and Sinhala), it means a “heap” or a “pile.” In
Sinhala, a hill or a “pile of things” is called a “kanda”
(කන්ද). So,
aggregate is not a bad translation for khandha (ඛන්ධ in Sinhala for the Pāli word).
Another example is dhammassavana. “Dhamma
savana” rhymes as dhammassavana. “Dhamma
savana” is listening to dhamma (discourse).”
khandha「集めたもの」すなわち「集合体」を意味します
4.rūpakkhandhaについて説明する前に、「khandha」の意味を理解することも役立ちます。パーリ語(およびシンハラ語)では、「堆積した塊」すなわち「集積物」を意味します。シンハラ語では、丘すなわち「ものの集積」」(කන්ද)と呼びます。したがって、(シンハラ語の)集合体はkhandhaの悪い訳ではありません。
rūpaの「堆積した塊」すなわち集合体はrūpakhandhaです。 「rūpakkhandha」として韻を踏みます。これは、Dhamma Cakka Pavattana
suttaを Dhammacakkappavattana suttaと記するようにパーリ語の単語(sandhi)のの組み合わせを見てきました。
別の例は、dhammassavanaです。 「Dhamma
savana」は、dhammassavanaとして韻を踏みます。
意味は、dhamma(談話)を聞いています、です。
Rūpakkhandha is
All Mental
5. It is essential to realize that rūpakkhandha is
all mental. It is NOT a “collection of
material things” as the term “form aggregate” may imply. Towards the end of the “Mahāhatthipadopama Sutta (MN 28),”
Ven. Sariputta explains rūpakkhandha.
Now it should be quite clear that each person has his/her rūpakkhandha.
Rūpakkhandhaはすべてメンタルのです
5.rūpakkhandhaはすべてメンタルであることを認識することが不可欠です。 「フォームの集合体」という用語が示唆するような「物質のコレクション」ではありません。Mahāhatthipadopama
Sutta (MN 28)の終わりの部分で、Sariputta長老がrūpakkhandhaを説明しています。
物体、音、匂い、味、触覚そのものだけがrūpakkhandhaであるというのは十分ではありません。
たとえば、真っ暗な部屋にXが座っている場合、Xは部屋に多くの物体があったとしても、何も見えません。 Xが懐中電灯を椅子に照らすと、Xは椅子を見ることができます。椅子のイメージがXの心に登録されたら、それはXのrūpakkhandha の一部になります。
別の例を見てみましょう。 XとYの2人が部屋で本を読んでいるとき、Xは読書に夢中になっていますが、Yは本にあまり興味がありません。 Yは犬の吠え声を聞き、その音が彼の心に響き渡ります。しかし、その音がXの耳にも届いたとしても、彼の注意は完全に本に集中し、「犬の鳴き声」は聞こえませんでした。したがって、「犬の吠え声」はXのrūpakkhandhaの一部にはなりません。
これで、各自がそれぞれのrūpakkhandhaを持っていることが非常に明確になります。
Rūpakkhandha is
Unimaginably Huge!
6. Let us look
in a bit more detail to see that these rūpakkhandha are
“mental impressions” of rūpa and NOT
the rūpa that are out there.
Any rūpa that one
sees at present (paccuppanna rūpa) goes to the category of atita
rūpa in a split second. Even if we never see
that object again, that memory will be there.
Rūpakkhandhaは想像を絶するほど巨大!
6.もう少し詳しく見てみましょう。これらのrūpakkhandhaがrūpaの「メンタルの印象」であり、そこにあるrūpaではないことを確認します。
重要な点は、私たちがrūpaを経験すると、その瞬間はすぐに消えてしまうということです。 rūpakkhandhaのほとんどは、すでに経験したものです。実際、私たちが過去の転生で経験したことはすべてrūpakkhandhaにあります。
(前世を含む)これまでに見たことのある過去のrūpāは、自分のatita rūpāです。明らかに、これらは肉体的なrupāではありません。それらは過去に存在したrūpaの単なる記憶です。たとえば、子供だったときの裏庭の木を覚えているかもしれません。その木はもはや存在しませんが、心の中でその木を「見る」ことができます。もう生きていない亡くなった両親や祖父母も同じです。
未来のrūpaすなわちanāgata rūpa(たとえば、どのように建てるか構想中の家のスケッチ)は時間とともに変化する可能性があります。それには実際のrūpaは関与していません。
anāgata [an
+ āgata] not come yet,i. e. future
現在目にしているすべてのrūpa(paccuppannarūpa)は、すぐにatita rūpaのカテゴリーに移動します。その対象が二度と見られなくても、その記憶はそこにあります。
More Types of Rūpa in Rūpakkhandha
7. Internal (ajjhatta) rūpa are
those that are part of oneself: all body parts, including the ones inside the
body. External () rūpa are, of
course, anything outside of one’s body. Coarse (olārika) rūpa are what we call “solid matter,” and fine
(sukuma) rūpa are “energy”
(heat, sound, etc.).
Altogether there are 11 types included in rūpakkhandha. The Khandha sutta (SN
22.48) (among many other suttā)
summarizes what is included in rūpakkhandha. “Yaṃ kiñci, bhikkhave, rūpaṃ atītānāgatapaccuppannaṃ (atita,
anāgata, paccuppanna) ajjhattaṃ vā bahiddhā
vā oḷārikaṃ vā sukhumaṃ vā
hīnaṃ vā paṇītaṃ vā yaṃ
dūre santike vā, ayaṃ vuccati rūpakkhandho. “
Rūpakkhandha のその他のタイプのrūpa
7.内部(ajjhatta)rūpaは、自分自身の一部であるものです。つまり、体の内部を含むすべての体の部分です。外的(bahiddha)rūpaはもちろん、体の外にあるものです。粗い(olārika)rūpaとは私たちが「固形物」と呼んでいるものであり、微細な(sukuma)rūpaとは「エネルギー」(熱、音など)です。
「悪い」(hīna)rūpaと「良い」(panita)rūpaがあります。
一部のrūpaは遠く(dūre)にあり、一部は近く(santike)にあります。
したがって、これらのカテゴリの間でいくつかの重複がある可能性があることがわかります。
これらの多くは、私たちが見たこともないrūpakkhandhaです。たとえば、私たちは心の中にメンタルの印象を持っていますが、しかし心を見たことはありません。万里の長城のような風景は見たことはないかもしれませんが、写真だけはあります。私たちはそれらのメンタルの印象を持っているのです。
全部で11種類のrūpakkhandhaがあります。
Khandha sutta
(SN 22.48)は、(他の多くのsuttāの中でもよく)rūpakkhandhaの内容を要約しています。
Yaṃ kiñci, bhikkhave, rūpaṃ
atītānāgatapaccuppannaṃ
(atita,anāgata,paccuppanna) ajjhattaṃ vā
bahiddhā vā oḷārikaṃ vā
sukhumaṃ
vā hīnaṃ vā paṇītaṃ vā
yaṃ
dūre santike vā, ayaṃ vuccati rūpakkhandho.“
paccuppanna:[adj.] existing; present 現在の
ayaṃ:[(nom.sing.of ima),m.; f.] this person これ
vuccati:[vac + ya]
to be said or called 呼ばれる
Difference Between Rūpa and Rūpakkhandha
8. Now we can see the
main difference between rūpa and rūpakkhandha.
That is why those with iddhi (supernormal)
powers can recall events that took place billions of years ago. The Buddha, of
course, recalled how he received first “niyata
vivarana” or confirmation that he will become a
Buddha trillions of years ago, from Buddha Deepankara. We will discuss that in
upcoming posts.
RūpaとRūpakkhandhaの違い
8.rūpaとrūpakkhandhaの主な違いを確認できます。
rūpaは以下の2種類のいずれかです。人が目で見たり、触れたりする(人、人の体、体の一部、木、惑星、星など)、通常「固体の物質」と呼ばれているものです。他は、3つの感覚のドア(嗅覚、味覚、音)からの感覚入力されるものがあります。
Rūpakkhandhaは、経験したすべての外部rūpaのメンタルの印象です。それらは触れたり、エネルギーを持っていません。 各自のrūpakkhandhaは無限です。それは、「始まりのない時間」にさかのぼって過去のすべての人生で見たすべての記録を持っています。
そのため、iddhi(超常)パワーを持つ者は、数十億年前に起こった出来事を思い出すことができます。もちろんブッダは、彼が最初の「niyata vivarana」すなわち何兆年も前に仏Deepankaraからブッダになるという確約(授記)を受け取った経緯を思い出しました。これについては、今後のトピックで説明します。
9. Let us take another
example to visualize this difference between actual rūpa and rūpakkhandha.
But the actual rūpa that
were there in New York are no longer there.
9.実際のrūpaとrūpakkhandhaの違いを視覚化する別の例を見てみましょう。
2001年のテロ攻撃で破壊されたニューヨークのツインタワー。
ニューヨークでそれらのツインタワーを見た場合でも、心の中でそれらを思い出すことができます。それらの物理的な構造はもはや存在しませんが、それらはrūpakkhandhaの中にあります!
しかし、ニューヨークにあった実際のrūpaはもはや存在しません。
Rūpakkhandha Is
Personal
10. Since we have seen
very different things in our lives (and in past lives), our rūpakkhandha are very different. Each has
his/her rūpakkhandha.
When
experiencing a rupa through
any of the six sense faculties leads to the generation of vedana, saññā, saṅkhāra, and viññāna. That is
discussed in many suttās,
and we have discussed in detail the Chachakka Sutta (MN 148).
See, “Chachakka Sutta – No
“Self” in Initial Sensory Experience.”
.
Rūpakkhandhaは個人的なもの
10.私たちは人生で(そして過去の人生)で非常に異なるものを見てきましたので、私たちのrūpakkhandhaは大きく異なります。それぞれに別のrūpakkhandha があります。
Chachakka Sutta (MN 148)では6感覚の機能がvedana, saññā, saṅkhāra,
and viññānaを生成することを説明しています。Chachakka Sutta – No “Self” in Initial Sensory
Experienceを参照してください。
また、それぞれがvēdanākkhandha、saññākkhandha、saṅkhārakkhandha、およびviññānakkhandhaを持っていることもわかります。
これらはすべて同じように分析できます。
他の4つの「khandhā」または「集合体」については、次のトピックで説明します。
May
14, 2016; Revised September 30, 2019; October 26, 2019; January 11, 2020
1. Our “human world” is made of two types of worlds:
Here we use the phrase “immaterial world” (“nāma lōka“) to describe
those dhammā that can only be
experienced with the mind VIA, “manañca paṭicca dhamme
ca uppajjāti manoviññāṇaṃ.”
Those dhammā includes
concepts, memories, etc in addition to kamma
bīja with energy; see below.
物質界と非物質界(見えない世界)
1.「人間の世界」は2種類の世界で構成されています。
五感で体験する物質世界。これは、生き物と不活性な物体ですでに慣れ親しんでいる世界です。この世界には、光景、音、におい、味、そして身体の感触があります。たとえば「cakkhuñca paṭicca
rūpe ca uppajjāti cakkhuviññ ānam」(を介して光景を体験します。cakkhuviññaとは「見ている」ことです。他の4つの感覚機能も同様の表現をします。(眼のindriyaに光が当たることが視覚に感覚を与える)
Contact Between Āyatana Leads to
Vipāka Viññānaを参照してください。
また、過去の思い出や将来の希望や期待を「想う」こともできます。それらは、私たちがマインドで経験する「物質ではない世界」にあります。
「nāmalōka」(マインド界)とも呼ばれます。
ここでは、「物質ではない世界」(「nāmalōka」)というフレーズを使用して、マインドでのみ体験できるdhammā
を説明します。それは「manañca paṭicca
dhamme ca uppajjāti manoviññāṇaṃ」によって体験できる世界です。
このdhammāには、エネルギーを持つkamma bījaに加えて、概念、記憶なども含まれています。下記参照。
2. Those two worlds co-exist. It
is just that we cannot “directly experience” the immaterial (invisible) world
or the nāma lōka.
You may ask how can all those different memories and
uncountable kamma bija from
our past lives be sorted out by the mana
indriya. Did you realize that there are
numerous radio and TV signals in a major city? Just like a radio or a TV can
sort our and detect those signals, mana indriya can
detect various types of dhammā.
2.これら2つの世界は共存します。物質的ではない(見えない)世界すなわちnāma lōkaを直接に体験できないだけです。
私たちが「見る」ことができないものはたくさんありますが、私たちは存在することを知っています。たとえば、ラジオやテレビの信号が周囲にあることはわかっていますが、それらを「見る」ことはできません。これらの信号を感知するには、ラジオやテレビなどの特別な機器が必要です。
非物質的な世界のそれらのdhammāはちょうどそのようなものです。それらのdhammāを感知する器官(mana indriya)が脳にあります。科学者たちはまだそのことに気づいていません。たとえば、過去の記憶は脳に保存されていると考えています。しかしそうではありません。それらの記憶は、物質的な世界と共存する非物質的世界にあります。ラジオが目に見えない電波を感知できるのと同じように、mana indriyaはそれらの「目に見えない」記憶(およびkamma vipākaをもたらすkamma bija)を感知します。
あなたは、前世からのすべての思い出と数え切れないほどのkamma bijaがどのようにmana indriyaによって分類されるかを尋ねるかもしれません。大都市にはラジオやテレビの信号がたくさんあることをご存知ですか?ラジオやテレビが私たちを分類してそれらの信号を感知できるのと同じように、mana indriyaはさまざまな種類のdhammāを感知できます。
3. Dhammā are what we
perceive with the mind with the help of the mana indriya in
the brain. They include our memories including those from past lives. Only
those with iddhi (super-normal) powers can recall
memories from past lives. However, some children can remember past lives; see,
“Evidence for Rebirth.”
Just like plant seeds can germinate and become trees, our kamma bija (kamma seeds; bija means “seeds”) can
germinate in our minds and bring kamma vipāka.
3.Dhammāは、脳内のmana indriyaの助けを借りてマインドで知覚されます。前世を含む私たちの思い出がDhammāに内蔵しています。 iddhi(超能力)の力を持つ人だけが前世の人生を呼び出すことができます。しかし、一部の子供たちは前世を思い出すことができます。Evidence for Rebirthを参照してください。
しかし、dhammā(複数形)には、私たちの過去のkamma(現在の生活だけでなく、前世の生活からの)のために多数のkamma bijaも含まれています。それらは単なる記憶ではなく、エネルギーを持っています。
エネルギーを備えたdhammā(つまり、kamma bija)は私たちのマインドによって作成されます。具体的には、javana cittaで作成されます。詳細な分析については、The Origin of Matter – suddhāṭṭhakaを参照。
物質とエネルギーはEinsteinの有名な方程式、E = mc2(Eはエネルギー、cは光速、mは質量(物質の量))によって関連付けられることを私たちは現代科学から知っています。
植物の種子が発芽して木になるのと同じように、私たちのkamma bija(kammaの種子、bijabeejaは「種子」を意味します)は私たちのマインドの中で発芽し、kamma vipākaをもたらすことができます。
4. Rūpa in
Buddha Dhamma cannot be translated into English as “matter” or “solid objects.”
As we discussed above, our minds can make very fine rūpa called dhammā, and can also
detect those dhammā that
are in the immaterial world.
Therefore, those very fine rūpā are called “dhammā” They are “anidassanan, appaṭighan,” meaning
they cannot be seen or detected by our five physical senses; see, “What are Dhamma? – A Deeper
Analysis.” They include “kammic energies”
that can bring vipāka at any time.
4. Buddha DhammaのRūpaを「物質」または「固い物体」と翻訳することはできません。先に述べたように、私たちのマインドはdhammāと呼ばれる非常に微細なrūpaを作ることができ、非物質的な世界にあるdhammāを感知することもできます。
もちろん、「dhamma」は、仏法のような理論や教えを指します。複数形で使用する場合にのみ、dhammāはマインドで感知された微細なrūpāを指します(mana
indriyaの助けを借りて)。
したがって、これらの非常に微細なrūpāは「dhammā」と呼ばれます。これらは「anidassanan、appaṭighan」つまり、私たちの5つの物理的な感覚では見たり感知したりすることができません。
What are Dhamma? – A Deeper
Analysis
dhammāはvipākaをいつでももたらすことができる「カルマ・エネルギー」を含みます。
5. The five physical senses
detect “dense” rūpā that
are in the material world. Such dense rūpā are
ABOVE the smallest “unit of matter” in Buddha Dhamma, called suddhāṭṭhaka.
(A suddhāṭṭhaka is a billion times
smaller than an atom in present-day science). The 28 types of rūpa consist
of these “dense types of rūpa“; see, “Rūpa
(Material Form).”
The fine rūpas are normally
not called rūpa but
are called dhammā to
make the distinction. Dhammā are very fine rūpa which are at or below the suddhāṭṭhaka stage. They
are the rūpa are
grasped only by the mana
indriya or dhammayatana:
“anidassanan, appaṭighan, dhammayatana pariyapanna
rūpan.” For a more
in-depth analysis, see, “What are Rūpa? – Dhammā are Rūpa
too!.”
5. 5つの物理的な感覚は、物質的な世界にある「密度のある」rūpāを感知します。仏法では「密度のある」rūpāは最小の「物質の単位」であるsuddhāṭṭhakaの上(大きい)にあります。 (suddhāṭṭhakaは、現在の科学の原子より10億倍小さい)。 28種類のrūpāは、これらの「密なタイプのrūpā」で構成されています。Rūpa (Material Form).を参照してください。
微細なrūpaは通常rūpaとは呼ばれずに、区別するためにdhammāと呼ばれます。 Dhammāは、suddhāṭṭhakaステージ以下の非常に微細なrūpaです。それらは、mana indriya すなわち dhammayatanaのみが把握しているrūpaです。「anidassanan, appaṭighan,
dhammayatana pariyapanna rūpan.」
より詳細な分析については、What are Rūpa? – Dhammā are Rūpa
too!です。
6. The immaterial world is
like a fine fabric that connects all living beings. It is just that we cannot
“see” the immaterial world, while we can see most of the material world. All 31 realms share the immaterial world.

Click to open in pdf format: Two Types of Loka
Furthermore, even in the rūpa lōka only
fine and subtle matter exists. There are no “solid objects” like trees. If we
visit a rūpa lōka, we
may not see anything.
31の領域すべてが非物質的な世界を共有している
6.非物質的な世界は、すべての生命体をつなぐ微細な布のようなものです。物質のほとんどを見ることができる一方で、非物質的な世界は「見る」ことができないだけです。
Arūpa lōkaの4つの領域では、suddhāṭṭhakaによって構成された「密度のある物質」はありません(arūpa Brahmāのhadaya vatthuを除く)。 Arūpa lōkaの存在(生命)はdhammāのみを経験します。彼らは五感のいずれも持っておらず、マインドだけを持っています。
したがって、「物質界」は、kāma lōka とrūpa lōkaの生き物だけがアクセスできます。
Arūpalōkaはkāmalōkaやrūpalōkaにあるような「凝縮されたrūpa」がないことを意味しますが、もちろんdhammāは存在します(これらのarūpaの存在は私たちと同じように過去の出来事を考え、思い出すことができます)。
さらに、rūpa lōkaでさえ、微細で微妙な物質だけが存在します。木のような「固体の対象」はありません。 Rūpa lōkaを訪れると、何も見えないかもしれません。
7. Let us briefly discuss the main points depicted in the above
chart. Everything in this world is made of 6 dhātu: patavi, apo, tejo,
vayo, akāsa,
and viññāna.
Five of them constitute the “material world” and the viññāna dhātu represents
the “immaterial world”.
In the immaterial world (or the mental plane), there are the mental
precursors to suddhāṭṭhaka. They are dhammā, gati,
and bhava. Based on our gati, we
make suddhāṭṭhaka in
our javana citta; see, “The Origin of Matter – suddhāṭṭhaka“.
Dhātuの観点から見た世界
7.上図に示した主なポイントについて簡単に説明します。この世界のすべては、patavi, apo, tejo, vayo,
Ākāsa, viññānaの6つのdhātuで構成されています。そのうちの5つは「物質的な世界」を構成し、viññāna dhātuは「非物質的な世界」を表します。
ちなみに、akāsaは単なる「空の空間」ではありません。これについては後で説明します。
物質世界の基本的な構成要素は、suddhāṭṭhakaです。科学者たちは、原子が構成要素であると考えていましたが、今では、素粒子でさえ構造を持っていると言っています。 suddhāṭṭhakaはどの素粒子よりもはるかに細かいものです。非物質的な世界(すなわちメンタル界)には、suddhāṭṭhakaへのメンタル的前駆体があります。それらがdhammā、gati、bhavaです。gatiに基づいて、javana cittaでsuddhāṭṭhakaを作成します。
The Origin of Matter – suddhāṭṭhakaを参照してください。
8. We have five sense faculties to experience the material
world: eyes, ears, tongue, nose, and the body. They pass down the sensory
inputs to the five pasada rūpa located
in the gandhabba or
the manōmaya kāya,
that overlaps our physical body); see, “Gandhabba (Manomaya Kaya)“. By the way, gandhabba is
not a Mahayāna concept: “Gandhabba State – Evidence from Tipiṭaka“.
That is a very brief description of the chart above. One could
gain more information by clicking on the links provided and by using the
“Search” button. Don’t worry too much if all this does not make complete sense
yet.
5つの物理感覚が密なRūpaを感知し、Mana IndriyaがDhammāを感知する
8.私たちは、目、耳、舌、鼻、体という物質的な世界を体験する5つの感覚を備えています。それらは、感覚入力を、gandhabba すなわちmanōmaya kāyaにある5つのpasada rūpaに伝えます。Gandhabba (Manomaya Kaya)を参照してください。ちなみに、gandhabba は大乗仏教Mahayānaの概念ではありません。Gandhabba State – Evidence from
Tipiṭaka
メンタル側では、無形(非物質)の世界を感知するために、脳にmana indriyaがあります。Brain – Interface between Mind and
Bodyを参照してください。
物質的な世界と5つの物理的な感覚の接触と、非物質的な世界とmana indriyaの接触に基づいて、私たちの考えはhadaya vatthu(gandhabba すなわちmanōmaya kāyaにもあります)で起こります。Does any Object (rūpa) Last only 17
Thought Moments?を参照してください。
これが上のチャートの非常に簡単な説明です。リンクをクリックして「検索」ボタンを使用することにより、さらに多くの情報を得ることができます。これらすべてがまだ完全に理解できなくても、あまり心配しないでください。
9. Thus it is important to understand that there are two types
of rūpa in our human world:
Comprehending this “wider picture” may need a little bit of
effort. The world is complex and most of the complexity is associated with the
mind. The seat of the mind is not in the brain but in the fine body (manōmaya kāya)
of the gandhabba.
9.したがって、人間の世界には2種類のrūpaがあることを理解することが重要です。
五感の助けを借りて体験する物質界の感じられる物
次に、目に見えない(anidassana)、触知できない(appaṭigha)rūpa(たとえば、思考、認識、計画、記憶など)があります。それらはdhammā、mano rūpa、gati、bhava、nāmagottaです。微細なrūpāの感知に役立つのは、脳内のmana
indriyaです。
どちらのタイプのrūpaも、最終的にはマインド(hadaya vatthu)によって感知され、体験されます。
hadaya vatthu脳ではなくGandhabbaの体にあり、肉体の心臓の領域に重なっています。Gandhabba (Manomaya Kaya) を参照してください。
この「全体像」を理解するには、少し努力が必要かもしれません。世界は複雑であり、複雑さのほとんどはマインドに関連しています。マインドの「場」は脳ではなく、Gandhabbaの微細な体(manōmaya kāya)にあります。
10. Another part of our immaterial world is the dream
world.
What is experienced in Arūpa lōka is
somewhat similar to seeing dreams. Of course, one has the ability to
contemplate in the arūpa lōka. However,
one is unable to read or listen. Therefore, one cannot learn Tilakkhana (anicca, dukkha, anatta) from a
Noble Person. Thus, one is unable to attain the Sotāpanna stage
of Nibbāna in the arūpa lōka.
But if one had attained the Sotāpanna stage
prior to being born there, one is able to meditate and attain higher stages
of Nibbāna.
10.非物質的な世界の別のパートは「夢の世界」です。
私たちが夢見るとき、私たちは人や物質的な物体を「見る」のです。しかし、それらがどこにあるかは言えません。それらは物理的な場所を持っていません。それらは非物質界にあります。そして、私たちはそれらの夢を私たちの目で「見る」のではなく、mana indriyaで「見る」のです。
私たちが眠るとき、私たちの五感は機能しません。しかし、脳のmana indriyaは機能します。科学者たちは、睡眠中に脳の一部が活動していることを確認しています。
Arūpalōkaで経験することは、夢を見ることと幾分似ています。もちろん、人はArūpalōkaで熟考することができます。ただし、読むことも聞くこともできません。したがって、聖人から三相(anicca、dukkha、anatta)を学ぶことはできません。したがって、arūpa lōkaでNibbānaのSotāpanna段階に到達することはできません。しかし、そこで生まれる前にSotāpannaの段階に達していれば、瞑想してSotāpannaより高い段階に到達することができます。
11. There is another way to look at our sense experiences.
Living beings are attached to this world because they expect to gain pleasure
from this world. Such pleasures are obtained by making contact with rūpa.
Those rūpā come
at various densities.
Thus, contacts by the mana
indriya with dhammā in
the mano lōka constitute a significant portion of
sense experience. That involves mano rūpa (dhamma, gati,
bhava, nāma gotta)
in the mind plane or the immaterial world.
「粗い」感覚的接触のための高密度Rūpa
11.私たちの感覚の経験を見る別の方法があります。生命体は、この世界から喜びを得ることを期待しているため、この世界に愛着を持っています。そのような喜びは、Rūpaと接触することによって得られます。それらのrūpāはさまざまな密度があります。
体の喜びは一番強い接触によって達成されます。次に、味、匂い、視覚、音、その順で密度が低くなります。
最も柔らかい接触は、dhammaを通してです。これは非物質界です。考えたり、将来についての計画をしたり、過去のことを思い出したりします。これは常に行っており、どこでも行うことができます。言い方を変えると、私たちはmano、vaci、kāya saṅkhāraに従事しているということです。
このようにmano lōkaにおけるmana indriyaのdhammāとの接触は、感覚体験の重要な部分を構成します。これには、マインド界すなわち非物質的な世界でのmano rūpa(dhamma、gati、bhava、nāmagotta)が関係しています。
12. The way a living being experiences and enjoys (or suffers)
sense contacts is different in the three main categories of existence: kāma lōka, rūpa lōka, and arūpa lōka.
Those Brahmā in
both rupi and arupi lōka have
seen the perils of “kāma assāda”
that are available in the kāma lōka. They
had enjoyed jhānic pleasures
as humans and value those more than the “rough” sense pleasures. They have given up the craving for those “rough” sense pleasures
that are available via touch, taste, and smell.
12.生命体が感覚の接触を経験し、楽しむ(または苦しむ)方法は、「存在」の3つの主要なカテゴリーによって異なります。Kāma lōka、rūpa lōka、およびarūpa lōkaです。
ほとんどの「粗い」すなわち「ōlārika」感覚接触はkāma lōkaでのみ可能です。ここでも、niraya(最も低い領域である地獄)で最も粗く、一般に人間の領域である5番目の領域に移動すると、「粗さ」が減少します。 6つのdeva領域は、人間の領域よりも大幅に柔らかくなります。devaの体ははるかに繊細で(gandhabbaの体のように)通常の人間はそれらを見ることができません。なぜ粗いnirayaの世界が見ることができないのか?
Rūpa lōkaには、最も粗い感覚の接触(触覚、味覚、嗅覚)はありません。マインドに加えて、16のRūpa lōkaの領域では、Brahmāのために視覚的および聴覚的接触のみが利用可能です。
4つのarūpa lōkaの領域にいるarupi Brahmā
は、マインドだけを持ち、suddhāṭṭhakaステージの下にある最高に微細なrūpa (dhamma)だけを体験します。
rūpa lōkaとarūpa lōkaの両方のBrahmāは、kāma lōkaで利用できる「kāma assāda」(ā-sādiyati楽味)の危険を目にしました。彼らはヒトも感じるjhānicの快楽を享受し、「粗い」感覚の快楽よりもjhānicの喜びを大切にしてきました。彼らは、触覚、味覚、および嗅覚を介することで可能な「粗い」感覚の快楽への渇望は放棄しました。
13. We can get an idea of such “soft” and “rough” sense contacts
with the following example. Suppose someone (a grandmother is a good example) watching
her grandchild laughing and dancing around having a good time.
But suffering is there even in the rupi and arupi realms.
Even at the level of arupi Brahmā —
where the attachment is only to pleasures of the softest of the rūpa (dhamma) –, there is
inevitable suffering at the end when they have to give up that existence and come
back down to the human realm.
13.次の例をみて、「ソフト」および「ラフ」な感覚の接触のアイデアを得ることができます。
誰か(祖母は良い例です)が孫の笑いや周りで踊るのを見て楽しい時間を過ごしているとしましょう。
最初は遠くから見ていて、小さな赤ちゃんが楽しんでいる姿を楽しんでいるのかもしれません。
それから彼女は近づき孫を抱擁します。遠くから見るだけでは十分ではありません。彼女は孫に触れる必要があります。
孫が小刻みに動き続け、楽しい時間を過ごすと、祖母が孫にキスを始めます。場合によっては、祖母が気づかずに抱きしめすぎて孫が苦痛で泣き叫ぶかもしれません。
この最後のシナリオは、極端な感覚の喜びへの渇望が苦しみにつながる例です。
もちろん、最も苦しみにつながるのはōlōrika感覚の喜びへの渇望です。
しかしrupiと arupiの領域にも苦しみはあります。arupi Brahmāのレベルでさえ、愛着が最も柔らかなrūpa (dhamma)の喜びのみである場合でも、その存在を放棄して人間の領域に戻らなければならないとき、最後には必然的に苦しみがあります。
14. Therefore, the level of inevitable suffering goes hand in
hand with the “denseness” of the sensory contact.
This tendency to “own” pleasurable things also go down in higher
realms. There are fewer material things to “own” in brahma lōkas,
especially in the arupi brahma realms.
「密度の低い」領域での苦しみの軽減
14.したがって、必然的な苦痛の程度は、感覚的接触の「密度」と関連しています。
痛み、うずき、病気があるのは、下位5領域(人間の領域を含む)だけで、その密度の高い肉体です。より高い領域では、それらは存在しません。これは、ボディマッサージ、セックス、食事、香りなどの「粗い接触の快楽」を体験できるために人間が支払わなければならないことです。
kāma lōkaにいる私たち人間は、親密で「粗い」感覚の喜びを楽しみます。さらに、ほとんどの場合、感覚の喜びを楽しむだけでは十分ではありません。私たちは感覚的な喜びをもたらすものを「所有」するのが好きです。たとえば、人々は別荘を「所有する」ことを好みます。訪問のためだけにその場所に家を借りるだけでは十分ではありません。
楽しいものを「所有する」傾向は、より高い領域では減少します。brahma lōkas、特にarupi brahmaの領域では「所有」する重要なものはほとんどありません。
15. As one attains higher stages of Nibbāna, craving
for “rough” sense pleasures, as well as the desire to “own” things go down.
An Arahant has
no desire for even jhānic pleasures,
and will not be born anywhere in the 31 realms upon death.
15.Nibbānaのより高い段階に到達するにつれて、「粗い」感覚の快楽への渇望、および「所有する」ものへの欲求が低下します。
Sotāpannaはkāma assādaの危険を「見た」だけです。彼/彼女はまだそれらを楽しんでいます。したがって、彼/彼女はまだkāma lōka領域で生まれますが、apāyāでは生まれません。
Sakadāgāmiは、まだ「kāma assāda」を楽しむことができますが、喜びを与えるものを「所有」する意欲はありません。いい家を借りるだけで十分で、いい家を所有したいという欲求はありません。実際、Sakadāgāmiは「物を所有すること」の負担をはっきりと見れます。Sakadāgāmiは人間界より上の領域でのみ生まれます。
Anāgāmiはkāma assādaを楽しむことに特別な関心はありません。彼/彼女は空腹を癒すために食事をします(しかし、提供されるとおいしい食べ物を食べます。)
Anāgāmiは、いかなる感覚的な喜びよりも「 Dhammaの喜び」を優先させます。(もちろん、ここでの Dhammaは仏法です)。彼/彼女は、死の際にAnāgāmisのために予約されたrūpa領域で生まれるので、kāma lōkaで生まれ変わることはできません。
アラハンは、jhānicな快楽さえも望んでおらず、死後は31の領域のどこにも生まれません。
16. Each habitable planetary system (cakkavāla) has all
31 realms of existence, even though we can only see two realms (human and
animal) in ours.
16.それぞれの居住可能な惑星系(cakkavāla)には、31の存在領域がありますが、私たちの惑星、すなわち地球では、人間と動物の2つの領域しか見ることはできません。
Bhūta and Yathābhūta – What Do They Really Mean
December
28, 2017
1. Yathābhūta is normally translated as “true
nature” (which is a bit close to the true meaning). From that, it seems, bhūta is translated as “nature”; sometimes bhūta is translated as “becoming”. Both are wrong.
These words are also associated with yathābhūta ñāna. By the end of this discussion one will know what that ñāna or wisdom is about.
1. yathābhūtaは通常、「真の性質」(「真の意味」に少し近い)として翻訳されます。それから、bhūtaはnatureと訳されているようです。 bhūtaは時々becomingと翻訳されます。両方とも間違っています。
これらはyathābhūtañānaにも関連付いています。この議論の終わりまでに、そのñānaすなわち智慧が何であるかを知るでしょう。
2. Bhuta is
a Sinhala word as well as a Pāli word. It literally means a “ghost”. The
deeper meaning is associated with the “satara
mahā bhūta”: patavi, āpo, tējo, vāyo.
It should also be noted that satara mahā bhūta are the primary rūpa. All others, including varna, gandha, rasa, ōja, are
derived from them and are called upādaya rūpa.
2. Bhutaは、シンハラ語とパーリ語です。文字通りにはghostを意味します。より深い意味は、「satara mahā bhūta」に関連付けられています:patavi、āpo、tējo、vayo。
•これらのsatara mahā bhūtaを個別に見ることはできません。それらのいずれかを含む最小単位は、それらの4つとvarna、gandha、rasa、ōja で構成されるsuddhāshtaka(「suddha」純粋または基本的+「ashta」8)です。したがって、suddhāshtakaは、「純粋な8進数」または「8の純粋単位」を意味します。suddhāshtakaがどのように形成されるかは、The Origin of Matter – Suddhāshtakaで説明されています。
また、satara mahā bhūtaが主要なrūpaであることに注意する必要があります。 varna、gandha、rasa、ōjaを含む他のすべては、それらに由来し、upādaya rūpaと呼ばれます。 (upādaは執着する)
3. As mentioned in that
post, bhūta have their origins in “gathi”. When one cultivates a certain gathi and when they become strong, they can
lead to the creation of bhūta (suddhāshtaka) produced via their javana citta.
So, in order to get a good understanding of these key words, one
needs to know about gathi (I have
sometimes spelled as gati), which is
discussed in many posts at the site. For example, see, “Gati, Bhava, and Jāti“.
3. bhūtaは「gati」に起源を持っています。特定のgatiを育み、それらが強くなると、javana cittaを介して生産される、bhūta(suddhāshtaka)の作成につながる可能性があります。
したがって、これらのキーワードを十分に理解するには、サイトの多くのトピックで説明されているgatiについて知っておく必要があります。たとえば、Gati, Bhava, and Jātiを参照してください。
4. Scientists have now
verified the illusive nature of matter at very small scale. Atoms were
thought to be the smallest possible division of matter until 1897 when J.J.
Thomson discovered the electron. Then it was realized that an atom is
made of smaller units (protons, neutrons, and electrons), and then those were
found to have structure too, but they sub-units (quarks, etc)
cannot be detected individually).
It has become clear that matter has an illusive
nature when tried to figure out the “smallest units” from which all matter is
composed of.
4.科学者たちは、物質のもつ幻想的な性質を非常に小さなスケールで検証しました。1897年にThomson J.J. Thomsonは電子を発見するまでは原子が最小の単位と思われていました。その後、原子はより小さな単位(陽子、中性子、電子)で構成され、それらも構造を持っていることがわかりましたが、サブユニット(クォークなど)は個別に感知できません)。
量子力学の出現により、物質とエネルギーの区別があいまいになりました。粒子の質量はその速度に依存し、静止時の質量は最小です。光子すなわち「光の粒子」は静止時の質量がゼロ、つまり静止質量がゼロです。現在では、素粒子の質量をエネルギー単位で表すことが一般的です。
すべての物質が構成されている「最小単位」を把握しようとすると、物質は幻想的な性質を持つことが明らかになりました。
5. Furthermore, it is not possible to determine the exact
position of an elementary particle at a given time. For example, it is only
possible to say that an electron can be within a certain region of space. Thus,
an electron is like a ghost. It cannot be pinned down to be at a certain
location.
This has been referred to as “quantum weirdness”. Those small
particles are as elusive as ghosts.
5.さらに、特定の時間に素粒子の正確な位置を決定することはできません。たとえば、電子は空間の特定の領域内にあると言うことができるだけです。したがって、電子はゴーストのようなものです。特定の場所に固定することはできません。
•光の粒子である光子の場合、状況はさらに悪化します。光子が放出されると、感知器を停止させた後にしか、光子を見つけることができません。
光源から感知器までの光子の正確な経路を確定することは不可能です。
中間にはどこかあったのかもわかりません。
電子はゼロではない静止質量を持っているにもかかわらず、同じことが当てはまります。
これは「量子の奇妙さquantum weirdness」と呼ばれています。
これらの小さな粒子は、幽霊と同じくらいつかみにくいものです。
6. That is exactly what
the Buddha said. A suddhāshtaka is
much smaller than even a photon, and the Buddha said that satara mahā bhūta are the true “smallest units of
matter”. This is why he called them bhūta. One can NEVER see them or detect them individually. As we
mentioned above, the smallest unit of rūpa,
or a suddhāshtaka consists of eight
sub units.
Furthermore, these bhūta arise
from gathi of living beings (mostly
human and above); see, “The Origin of Matter – Suddhāshtaka”. A person with rough
character qualities is likely to create suddhashataka with
higher proportion of patavi, etc.
6.それはまさに釈尊が言ったことです。suddhāshtakaは光子よりもはるかに小さく、釈尊はsatara mahā
bhūtaが真の「物質の最小単位」であると言いました。これが釈尊がbhūtaと呼んだ理由です。それらを見ることも、個別に感知することもできません。上で述べたように、rūpaの最小単位、すなわちsuddhāshtakaは8つのサブ単位で構成されます。
•さらに、これらのbhūtaは生物のgatiから発生します(ほとんどが人間以上)。The Origin of Matter – Suddhāshtakaを参照してください。性格が粗い人は、pataviなどの割合が高いsuddhāshtakaを作成する可能性があります。
7. No one will be able
to “see” or figure out how gathi are
transformed to bhūta or suddhāshtaka stage. Only a Buddha can discern
that.
When large number of mahā bhūta combine, that leads to the dhātu stage of rūpa. Bodies of devas are at
fine dhātu stage. Our human bodies
are made of much denser dhātu stage
of rūpa.
7. gatiがどのようにbhūtaすなわちsuddhāshtakaのステージに変換されるかを「見」たり、理解できる人はだれもいないでしょう。釈尊だけがそれを識別できます。
数十億個のsuddhāshtakaが組み合わされて、rūpaのmahā bhūta段階に至ります。Brahmasはmahā bhūtaで作られた体があります。Brahmasだけがこのような繊細なrūpaを見ることができます。
多数のmahā bhūtaが組み合わされると、それがrāpaのdhātuステージに至ります。devasの体はdhātuの段階にあります。私たちの人体は、はるかに密度の高いrūpaのdhātuの段階でできています。
8. All mater that we
see are made of such dense dhātu. Rocks
have dhātu that have
mostly patavi. Water mostly has āpo. Fire mostly has tējo,
Wind mostly had vāyo. That is why earth,
water, fire, wind are loosely referred to as patavi,
āpo, tējo, vāyo.
8.私たちが見るすべての物質は、そのような密なdhātuでできています。岩は大部分がpataviであるdhātuです。水は主にāpoです。火は主にtējo で、風はほとんどvāyoです。地球、水、火、風がpatavi, āpo,
tējo, vāyoと大まかに呼ばれているのはそのためです。
9. When someone
comprehends what we discussed above about the true nature of matter that exists
in this world, one is said to have the yathābhūta ñāna. However, just reading about them is just the start. That ñāna grows as one comprehends the finer
details.
However, for most purposes, it is sufficient to have the above
discussed rough idea. As one learns more, the details will be automatically
filled in.
9. 説明してきたこの世界に存在する物質の真の性質について理解すると、その人はyathābhūta ñānaを持っていると言われます。ただし、読むだけではまだ開始したばかりです。ñānaは、繊細な部分を理解するにつれて成長します。
•Yathāとは「本当の性質」を意味します。Yathābhūtaとは、マインドを介して生じる物質の本質、すなわちbhūtaの本質を意味します。もちろん、より繊細な詳細は十分なAbhidhammaの理解が必要です。
ただし、上記の大まかな考えがあればほとんどの目的には十分です。もっと詳細がわかると、詳細は自動的に入力されます。
10. This is also why
the Buddha said, “manō pubbangamā dhammā, manō settā manōmayā”
in the famous Dhammapada gāthā.
It means “everything in this world has its origins in the mind, all
are set by the mind and prepared by the mind”.
10.これはまた、釈尊が有名なDhammapada gāthā(法句経)で「manō pubbangamā dhammā、manō seta manōmayā」と言った理由でもあります。
これは、「この世のすべてがマインドに起源を持ち、すべてがマインドによって設定され、マインドによって準備されている」ことを意味します。
11. Suddhāshtaka by themselves are inert. They
acquire “life” when energized by the mind in the formation of “kammaja rūpa”. This
energy in embedded as rotation (paribramana)
and spin (bramana). When that embedded energy
runs out, rotation and spin stop and they again become inert.
For example, a hadaya vatthu for a new existence comes into being as
a kammaja rūpa at
the cuti-patisandhi moment. During
its lifetime, the hadaya vatthu maintains its spin and rotation. When
the kammic energy embedded is
exhausted, its motion stops and the bhava ends. At that time,
a new hadaya vatthu for
a new bhava is formed by kammic energy.
11. Suddhāshtaka自体は不活性です。それらは「kammaja rūpa 」の形成においてマインドにエネルギーが与えられると「生命」を獲得します。このエネルギーは、回転(paribramana)およびスピン(bramana)として埋め込まれます。その埋め込まれたエネルギーがなくなると、回転とスピンが停止し、再び不活性になります。
たとえば、新しい存在のためにhadaya vatthuは、cuti-patisandhiの瞬間にkammaja rūpaとして生まれます。その生涯、hadaya vatthuはその回転と回転を維持します。埋め込まれていたkammicエネルギーが使い果たされると、その動きは停止し、bhavaは終了します。その時、新しいbhavaのための新しいhadaya vatthu は、kammicエネルギーによって形成されます。
12. The hadaya vatthu is also
called “vatthu dasaka”
where dasaka means ten. This is
because the hadaya vatthu or vatthu dasaka has
two modes of energy (spin and rotation) in addition to the 8 parts in the inert suddhāshtaka. That why it is called a dasaka (made of ten units).
By the way, the word kammaja comes
from “kamma” + “ja” where “ja”
means birth. Therefore, those nine kammaja
rūpa are created by kammic energy.
12. hadaya vatthu は「vatthu dasaka」とも呼ばれ、dasakaは10を意味します。これは、hadaya vatthu すなわちvatthu dasakaは、不活性なsuddhāshtakaの8つの部分に加えて、2つのエネルギーモード(スピンと回転)があるためです。それがダサカ(10個のユニットで構成)と呼ばれる理由です。
この追加されたローテーションとスピンは、不活性なsuddhāshtakaに生命を与えます。そのエネルギーの力はjavana citta(マインド)によって与えられます。 kamma beejaに与えられるエネルギーが多いほど、kamma beejaから発生するbhava(hadaya vatthu)が長く持続します。
•同じことが、cuti-patisandhiの瞬間に形成される5つのpasāda rūpa(cakkhu、sota、ghana、jivha、kāya)にも当てはまります。dasakaでもある2つのbhava rūpaと、navaka(スピンすなわちbramana)であるjivitindriya rūpaがあります。回転とスピンの異なるモードがこれらの9つの「生命を形成する」基本単位をどのように発生させるかについては、Gandhabba Sensing the World – With and Without a Physical Bodyで説明しています。
ところで、kammajaという単語は「kamma」+「ja」に由来します。「ja」は出生を意味します。したがって、これらの9つのkammaja rūpaは、kammicエネルギーによって作成されます。
13. Now we can clearly see that our heavy physical body, by itself, is
totally inert. The real life is in the gandhabba with
the hadaya vatthu and
the five pasāda rūpa.
Our body movements are controlled by the kāya
dasaka of the gandhabba and
it is spread like a very fine mesh over the whole body.
In the case of an out-of-body experience (OBE), even though
the gandhabba leaves the physical
body, it is still connected to the physical body (by a “silver cord” in the
terminology of astral projection) and that is why the body does not start to
decay: “Manomaya Kaya and Out-of-Body Experience (OBE)“.
13.今、私たちの重い肉体自体が完全に不活性であることをはっきりと見ることができます。実際の生活はgandhabbaにあり、hadaya vatthuと5つのpasāda rūpaがあります。私たちの体の動きは、gandhabbaのkāya dasakaによって制御され、全身に非常に細かいメッシュのように広がっています。
•肉体が死ぬと、この生命を運ぶgandhabbaは体を離れ、体は不活性になり、衰退し始めます。
•体外体験(OBE)の場合、gandhabbaが肉体を離れても、それはまだ肉体(astral projectionの用語で「silver cordによって)に接続されています、それが体が腐敗し始めない理由です。
Manomaya Kaya and Out-of-Body Experience (OBE)
14. Therefore, in all
life forms in the 31 realms, the real life is in the ultra-fine life form of
a hadaya vatthu accompanied
by up to five pasāda rūpa. In arupavaccara
brahma realms, there is only the hadaya
vatthu. In rupavacara
brahma realms, hadaya vatthu is accompanied by cakkhu and sōta
pasāda rūpa. In all
other realms, five pasāda rūpa exist with the hadaya
vatthu.
This is another critical factor in
the yathābhūta ñāna: All life forms are like bhūta (ghosts); in essence, life is maintained
by a ultra-fine body that is impossible to see and have temporary existence. Any life in any realm is short-lived in the samsāric scale. In the samsāric scale
trillion years is like a drop of water in the ocean.
14.したがって、31の領域のすべての生命体では、実際の生命体は、最大5つのpasāda rūpaを伴うhadaya vatthuの超微細な生命体です。
arupavaccara brahma領域では、hadaya vatthuのみがあります。rupavacara brahmaの領域では、hadaya vatthuにcakkhuとsōta pasāda rūpaが付いています。他のすべての領域では、5つのpasāda rūpaがhadaya vatthuとともに存在します。
•唯一の例外はasaññaの領域です。ここでは、kāya dasakaのみがjivitindriyaによって維持されます(思考が生成されないため、hadaya vatthuはありません)。
•これはyathābhūta ñānaのもう1つの重要な要素です。すべての生命体はbhūta(幽霊)に似ています。本質的に、生命は、見ることも一時的に存在することも不可能な超微細な体によって維持されています。あらゆる領域のあらゆる生命は、samsāricなスケールでは短命です。 Samsāricなスケールでは、兆年は大海の一滴のようです。
15. This yathābhūta ñāna about the real nature of our body also helps
to get rid of the “ghana saññā” about our bodies. One
values one’s dense body so much because one believes that there is a “self” in
the physical body.
Those with sāssata ditthi believe that there is a mental body that
lives forever.
15.このyathābhūta ñānaは、肉体についての「ghana saññā」を取り除き、体の本当の性質について知るのにも役立ちます。肉体には「自己」があると信じているため、自分の密度の高い体をとても大切にしています。
Uccēda ditthiを持つ人々(現在のほとんどの科学者や哲学者のように)は、私たちの肉体(およびその脳)がすべてであると信じています。
•sāssata ditthiの人は、永遠に生きるメンタル体があると信じています。
16. Buddha discovered that
both those are wrong views. There is a mental body, but it drastically changes
from bhava to bhava. One could be a deva or
a human for a time being, but the next bhava could be in
the apāyas.
This aspect is discussed in “Mūlapariyāya Sutta (MN 1)“, “Kaccānagotta Sutta (SN
12.15)“, AND “Mahā Hatthipadopama Sutta (MN 28)“,
among others.
16.釈尊は両方とも間違った見方であることを発見しました。メンタルボディがありますが、bhavaからbhavaへと劇的に変化します。 1つはしばらくの間、devaまたは人間である可能性がありますが、次のbhavaはapāyasにある可能性があります。
私たちの肉体には、「私のもの」みなすに値するものは何もありません。
この事実を理解すると、sakāya ditthi(Sōtapannaステージを達成するための4つの条件の1つ)が削除されます。ただし、これはsakkāya ditthiを削除する1つの方法にすぎません。
•この側面については、特にMūlapariyāya
Sutta (MN 1)“, “Kaccānagotta Sutta (SN
12.15) とMahā Hatthipadopama Sutta
(MN 28)で説明されています。
17. Now we see that the
precursors for all matter in this world, satara
mahā bhūta, are mind-made
and have a transient existence. They are “bhūta”
or “ghosts”. And since everything else is made of them, what we consider to be
“solid, tangible things” in this world are really “ghost-like”.
This word “ananubhūtam” comes
in several key suttas, including the ones mentioned above in
#16.
17.この世界のすべての物質の前駆体であるsatara mahā bhūtaは、マインドによって作られ、一時的な存在であることがわかります。それらは「bhūta」すなわち「ゴースト」です。そして、他のすべてがそれらで作られているので、私たちはこの世界の「堅実で感触できるもの」は本当は「幽霊のようなもの」です。
この「幽霊のような」本当の性質の知識は「yathābhūta ñāna」と呼ばれます。その知識があると、その正しい見解に従って世界を見ることができます。これは「anu bhūtam」と呼ばれます。
この真の性質を知らないとき、それは「na anu bhūtam」と呼ばれ、「ananubhūtam」と韻を踏む。多くの主要なパーリ語はそのように構成されていることに注意してください。
anattaは「na」+「atta」です。Anatta – the Opposite of Which Atta?を参照してください。
Anantariyaは「na」+「an」+「antara」です。このような単語は文法的に分析できません。これが、現在のパーリ語の専門家がそのような単語の解釈に誤りがある(そして多くのキーワードを解釈することができない)理由です。
この「ananubhūtam」という語句には、上記の#16で言及したものを含む、いくつかの重要な意味があります。
18. One good example is
the famous Brahmanimantanika Sutta (Majjhima Nikaya 49): “Viññāṇaṃ anidassanaṃ anantaṃ sabbato pabhaṃ, taṃ pathaviyā pathavattena ananubhūtaṃ, āpassa āpattena ananubhūtaṃ, tejassa tejattena ananubhūtaṃ, vāyassavāyattena ananubhūtaṃ, bhūtānaṃ bhūtattena ananubhūtaṃ, devānaṃ devattena ananubhūtaṃ, pajāpatissa pajāpatittena ananubhūtaṃ, brahmānaṃ brahmattena ananubhūtaṃ, ābhassarānaṃ ābhassarattena ananubhūtaṃ, subhakiṇhānaṃ subhakiṇhānaṃ
subhakiṇhattena ananubhūtaṃ,
vehapphalānaṃ vehapphalattena ananubhūtaṃ, abhibhussa abhibhuttena ananubhūtaṃ, sabbassa sabbattena ananubhūtaṃ..”
Translated: “Viññāna is unseen,
infinite, and leads to the rebirth process for all. With viññāna one cannot comprehend the real nature
of patavi, āpo,
tējo, vāyo, bhūta, deva, pajapti brahma, abhassara brahma, subhakinha
brahma, vehapphala brahma, etc. and everything in
this world (sabba)”.
We will discuss the first part of the verse “Viññāṇaṃ anidassanaṃ anantaṃ sabbatō pabhaṃ..” in the next post. This short phrase is commonly mistranslated.
18.一つの良い例では有名なBrahmanimantanika Sutta
(Majjhima Nikaya 49)です。
“Viññāṇaṃ anidassanaṃ
anantaṃ
sabbato pabhaṃ, taṃ
pathaviyā pathavattena ananubhūtaṃ,
āpassa āpattena ananubhūtaṃ,
tejassa tejattena ananubhūtaṃ,
vāyassavāyattena ananubhūtaṃ, bhūtānaṃ
bhūtattena ananubhūtaṃ, devānaṃ
devattena ananubhūtaṃ, pajāpatissa pajāpatittena ananubhūtaṃ,
brahmānaṃ
brahmattena ananubhūtaṃ, ābhassarānaṃ
ābhassarattena ananubhūtaṃ, subhakiṇhānaṃ subhakiṇhānaṃ subha¬kiṇ-hattena ananubhūtaṃ,
vehapphalānaṃ
vehap¬phalat¬tena ananubhūtaṃ, abhibhussa abhibhuttena ananubhūtaṃ,
sabbassa sabbattena ananubhūtaṃ..”
翻訳:「Viññāṇaは目に見えず、無限であり、すべての人の再生プロセスにつながります。Viññāṇaでは、patavi, āpo, tējo, vāyo,
bhūta, deva, pajapti
brahma, abhassara brahma, subhakinha
brahma, vehapphala brahmaなど、この世界のすべて(sabba)の本質を理解することはできません。
Arahantshipに到達するまで、人は汚れた意識またはViññāṇaを持ちます。それまでは、この世界のすべての「幽霊のような」本当の性質を完全に理解することはできません。つまり、yathābhūta ñānaは完全ではありません。
次のトピックでは、“Viññāṇaṃ anidassanaṃ
anantaṃ
sabbatō pabhaṃ..”の最初の部分について説明します。この短いフレーズは一般的に誤訳されています。
19. Another major sutta
where it appears is “Saḷāyatana Vibhaṅga Sutta (MN
137)“: “Rūpānaṃ tveva aniccataṃ viditvā vipariṇāmavirāganirodham, ‘pubbe ceva rūpā
etarahi ca sabbe te rūpā aniccā
dukkhā vipariṇāmadhammā’ti
evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya passato uppajjati somanassaṃ“.
Loosely
Translated: Any rūpa that has
existed or in existence now, has the “ghost-like transient nature”. That is the
reason why they change unexpectedly (viparinama)
and have the anicca nature. When one comprehends this true nature,
it leads to joy in one’s mind (somanassa)“.
19.登場するもう1つの主要なsuttaは、Saḷāyatana
Vibhaṅga Sutta (MN 137)です。
“Rūpānaṃ tveva
aniccataṃ
viditvā vipari¬ṇāma¬virāga¬nirodham,
‘pubbe ceva rūpā etarahi ca sabbe te rūpā aniccā
dukkhā vipari¬ṇāma¬dhammā’ti evametaṃ
yathābhūtaṃ sammappaññāya passato uppajjati somanassaṃ“
大まかな翻訳:現在まで存在している、すなわち今現在に存在しているrūpaには、「ゴーストのような一時的な性質」があります。それが、想定外に変化し(viparinama)、aniccaの性質を持つ理由です。この本質を理解すると、マインドの喜び(somanassa)につながります」。
Does any Object (Rupa) Last only 17 Thought Moments?
Revised
October 29, 2015; updated April 5, 2016; revised August 18, 2019
1. In August/September 2015, I watched a popular Abhidhamma program
(in Sinhala) from Sri Lanka on Youtube. It was right
in many aspects, but it had two fundamental problems:
Here is a direct quote
from another source, which is a popular book on Abhidhamma: “..a rupa is very short-lived – it endures only for
17 conscious moments. Whatever object formed is almost instantly gone”. Thus
it is a widespread misconception.
1. 2015年8月と 9月に、YouTubeでスリランカの人気のあるAbhidhammaプログラム(シンハラ語)を見ました。それは多くの面で正しかったのですが、2つの根本的な問題がありました。
最初に、aniccaとanattaを「無常」と「無自我」として誤って解釈します。このサイトには、これらの2つの解釈が重大な欠陥がある理由を説明する多くのトピックがあります。
私が気付いた2番目の主な問題は、「この世界のすべては短時間しか続かない。対象は、思考の瞬間の順序の短い時間内に形成され、破壊されます。その後、再形成され、プロセスは絶え間なく継続します。あなたが今見ているものは、前に考えられていたものと同じものではありません」。
次に、その「作成/破壊」プロセスは、上記の「非永続性」の概念に結び付けられました。
別の情報源であるAbhidhammaに関する人気のあるからの直接の引用は次のとおりです。
「rupaはとても短命です。17の思考の瞬間だけしかもちません。形成された対象はほとんど瞬時に消えてしまうのです。」
こうして誤解は拡がっていきました。
2. I have explained in other posts what the correct
interpretations of anicca and anatta. Let
us focus on the second point, the claim that “any object lives only for 17
thought moments” in this post.
Udayavaya describes the formation and destruction of a sankata (“Udaya” means to arise, and “vaya” means destruction). But a sankata could last for a long time.
2.他のトピックで、aniccaとanattaの正しい解釈を説明しました。ここでは2番目のポイントである「あらゆる物体は17の思考の瞬間だけ生きている」という主張に焦点を当てましょう。
sankataは原因により発生し、それらの原因があるかぎり続きます。実はこれはもう少し複雑なので“Udayavaya Nanaで説明しています。
sankataの発生は、paticca samuppadaによるものです。それが「udaya」すなわち「生成される」の部分です。一度形成されると、異なるsankataは異なる寿命を持ち、最終的には腐敗します。それは「vaya 」です。
•Udayavayaは、sankataの形成と破壊について説明しています(「udaya」は発生することを意味し、「vaya」は破壊を意味します)。しかし、sankataは長い間続く可能性があります。
3. It seems to me that
this misinterpretation comes from taking the lifetime of a “rupa”
to be 17 thought moments. But as we discussed in “Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introduction,” that is
the lifetime of a hadaya rupa.
3.この誤解は、「rupa」の寿命を17の思考の瞬間とすることに起因するように思えます。しかし、Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introductionで説明したように、それはhadaya rupaの生涯です。
4. Different sankata have
different lifetimes. A fly may live for a few days, a human about 100 years, a
building may last hundreds of years, the Earth will last about 4-5 billion more
years, etc.
From the present time
to the final destruction (or until death in the case of a living being), any
given sankata will change. If we
consider a baby born today, it will first grow to become a young person. Then
it will gradually start weakening while becoming an older adult and eventually
die one day. Therefore, the critical aspect is not destruction but change. While
the baby is growing, the cells in the body will multiply; but in an older
person’s body, more cells will be dying.
4.異なるsankataには異なる寿命があります。ハエは数日間、人間は約100年、建物は数百年、地球は約40〜50億年、それぞれの寿命が続きます。
建物のような不活性の物質は、ゆっくりと減衰し始めます。毎日、少しずつ「崩壊」しますが、建物が1000年続くと、崩壊は終わりに向かって加速すると予想されます。
現在から最終的な破壊まで(または生物の場合は死ぬまで)、sankataは変化します。今日生まれた赤ちゃんを考えると、まず成長して若者になります。その後は徐々に衰弱し始め、、高齢者になり、最終的にはいつか死にます。したがって、重要な側面は破壊ではなく変化です。赤ちゃんが成長している間、体内の細胞は増殖します。しかし、年配の人の体内では、より多くの細胞が死ぬでしょう。
5. This constant change is not discernible to us on a real-time
basis. A person does not age while we are watching him/her. But we can see the
change over several years, especially if they are very young or over the middle
age.
http://www.natgeotv.com/ca/great-migrations/videos/24-hour-lifecycle
5.この絶え間ない変化は、リアルタイムでは認識できません。私たちが彼/彼女を見ている間、人は老化しません。しかし、特に非常に若い時や中年を過ぎている場合には、数年にわたってみると変化を見ることができます。
カゲロウの寿命は1日程度(幼虫期の後)で、数時間しか生存しないものもいます。こちらがナショナルジオグラフィックチャンネルの短い動画です。http://www.natgeotv.com/ca/great-migrations/videos/24-hour-lifecycle
このように、物質対象が瞬間ごとに変化していると言うことと、対象が17思考時間ごとに「再生」されると言うことには大きな違いがあります。
冒頭で述べたプレゼンテーションの間に、司会者はペンを見せて、17の思考の瞬間ごとにペンが「破壊され、再現された」と言っていました。その論理を拡張することで、17の思考時間内にあらゆる実体(地球など)が消滅し、「再現」されると言うことができます!
sankataのudayavaya プロセスの完全な誤解です。
6. So, where does this
incorrect statement come from? “.. rupa is
very short-lived – it endures only for 17 conscious moments. Whatever object
formed is almost instantly gone.”
However, our minds only
catch a very brief (a thought moments worth) of the seeing, hearing, etc.
experience at a time. It is not that the object lives a short time; it is just
that we sense it only for a brief moment at a time! Let us discuss this in
detail.
6.では、この誤った記述はどこから来たのでしょうか? 「.. rupaは非常に短命です-それは17の意識的な瞬間にしか耐えません。どんな対象が形成されても、ほとんど瞬時に消えてしまいます。」
hadaya rupaの概念を理解していないと混乱が生じます。hadaya rupaは、5つの身体感覚の1つを介した感覚のイベントによってhadaya vatthuで生成されます。hadaya rupaの生涯時間は、その外部感覚イベントを体験するのにかかった時間です。それには17の思考時間が必要です(その間、外部rūpaの印象はcitta vithiによって作成されます)。この時間を問題の対象の存続期間とするのは間違っています。Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introductionを参照してください。
問題は、特定のrupaすなわち物質をどのように体験するかです。5つの身体感覚を通して、私たちの世界の外部の物質的なものを経験します。私たちは目で見、耳で聞き、鼻で匂い、舌で味わい、体で触れます。
しかし、私たちのマインドは、見る、聞くなどの一時の経験は非常に短く(考えている瞬間)しか捉えません。対象の寿命が短いということではありません。私たちは一度に感じれるのはほん一瞬しかないのです!これについて詳しく説明しましょう。
7. Each of these five senses
events is accomplished via a thought, even though we may not perceive it that
way. Details at “Citta and Cetasika – How Vinnana (Consciousness) Arises.” I highly recommend reading that post before proceeding further.
Here is a simple description:
Now, it takes the mind
17 thought moments (or 17 citta) to
process that information and identify the object and make decisions about it;
this series of citta is called a “citta vithi.” There
will be many such citta vithi before we “see it.”
7.これらの五感のそれぞれの出来事は、そのように知覚も認識もしないかもしれないが、思考を通して達成されています。さらなる詳細に進む前にCitta and Cetasika – How Vinnana (Consciousness) Arisesを読むことを強くお勧めします。
簡単な説明を次に示します。
対象を見ると、目はニューロンを介して対象の画像を脳に送ります。脳はその画像を処理します。各画像は10ミリ秒のオーダーです(Buddha Dhammaではこれらの時間を提供していません。科学者が発見した時間を使用しています)。
しかし、脳は何も感じません。感覚を感じるのはマインドです。
•脳はその情報を処理し、マインド臓と重なるがマインド臓の中ではないマインドの居場所(hadaya vatthuと呼ばれる)に送信します。
その情報を処理し、対象を識別し、それについて決定を下すには、17の思考の瞬間(または17のcitta)が必要です。この一連のcittaは「citta vithi」と呼ばれます。 「それを見る」前に、このようなcitta vithiがたくさんあります。
8. Many things happen during that citta
vithi: the mind recognizes the object, forms a
like/dislike about it, decides on what to do, and lastly may do something about
it. That is why there are 17 cittas in
the series. Towards the end of the citta vithi, seven javana cittas carry out the actions or speech about the object
based on the decisions made earlier part of the citta
vithi. That is a very brief statement of
what happens in that citta vithi.
If we are eating
popcorn while watching TV, that taste also comes in packets. The tongue sends
about 10 ms worth of “taste information” to the brain
and brain processes that information and transmits to the mind. The same thing
happens with sounds and body touches. As those “information packets”
continuously come in, we PERCEIVE that we are experiencing such sensations
continually. Only one “data packet” is processed at a time, so there is at
least a 10 ms delay between adjacent packets.
8.そのcitta vithiの間に多くのことが起こります:マインドは対象を認識し、それについて好き嫌いを形成し、何をすべきかを決定し、最後にそれについて何かをするかもしれません。それがシリーズとして17cittaのがある理由です。 citta
vithiの終わりに向かって、7つのjavana cittaがcitta vithiのはじめのパートの決定に基づいて対象に関するアクションまたはスピーチを実行します。それはそのcitta vithiで何が起こるかについての非常に短い声明です。
•各pancadvara citta vithiに続いて、さらに3つのmanodvara citta vithiが実行されます。もちろん、非常に高速で発生するため、これらの詳細を認識していません。そのような速いプロセスを見ることができるのは釈尊だけです。
•誰かと会話しているとき、彼女を見ることと、彼女が言うことを聞くことを「同時に」できます。しかし、同時に見て聞いているように感じるだけのようです。上記で説明したように、視覚と音声はパケットで受信され、処理されます。しかし、マインドはcitta vithiで100万分の1秒未満で各パケットを処理しています!
テレビを見ながらポップコーンを食べている場合、その味もパケットの中に含まれています。舌は約10ミリ秒の「味覚情報」を脳に送り、脳はその情報を処理してマインドに伝達します。同じことは、音と体の感触でも起こります。これらの「情報パケット」が絶えず入ってくると、私たちはそのような感覚を絶えず経験していると感じています。一度に処理される「データパケット」は1つだけなので、隣接すrūpaケット間には少なくとも10 msの遅延があります。
9. Therefore, we can be using all five senses at the same time,
and all that information processed in “10 ms
packets”. Since there are 1000 milliseconds in a second, we can say that a
maximum of about 100 such “information packets” are received by the mind each
second.
9.したがって、5つの感覚すべてを同時に使用し、そのすべての情報を「10 msパケット」で処理できます。 1秒間は1000ミリ秒にあたるため、このような「情報パケット」は毎秒最大で約100個受信されると言えます。
しかし、それはこれらすべての感覚入力を継続的に経験していると知覚するのに十分な速さです。今、私が科学から借りた唯一の部分は、各情報パケットの推定10ミリ秒の持続時間です。それらの研究はごく最近公開されました。
もちろん、科学はマインドの役割を認識していません。科学に関する限り、脳がすべてを行い、脳がマインドです。しかし、科学者は将来その理論を変えなければならないと信じています。
10. In any case, what happens in mind is analogous to what
happens when we watch a movie. We perceive that we are watching a continuous
movie. But in reality, what happens is that the movie projector projects static
pictures to the screen at a rate of about 30-60 frames a second. Here again,
each static image is of 20-30 ms duration. But it is
fast enough for us to perceive that we are watching a continuous movie.
In the same way, our
minds perceive that we are watching, hearing, smelling,
tasting, and touching all at the same time. But each sensory event is brief
lived. Even though each “information packet” sent by the brain is from a 10 ms “time slice,” the mind processes that information in
a citta vithi lasting
17 cittas. And each citta
lasts much less than a billionth of a second. Thus each “snapshot”
processed by the mind takes an unimaginably short time.
10.いずれにせよ、マインドで起きていることは、映画を見たときに起こることと類似しています。私たちは連続している映画を見ていると感じています。しかし、実際には、ムービープロジェクターが静的な画像を毎秒約30〜60フレーム(実際には24フレーム)の速度でスクリーンに投影します。ここでも、各静止画像の継続時間は20〜30ミリ秒です。しかし、連続する映画を見ていると認識するのに十分な速さです。
同様に、私たちのマインドは、すべて同時に見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れていると知覚します。しかし、各感覚イベントは短命です。脳から送信される各「情報パケット」は10ミリ秒の一塊で、マインドはその情報を17のcittaであるcitta vithiで処理します。ですから各cittaの持続時間は10億分の1秒未満です。このよにマインドによって処理される各「スナップショット」には、想像を絶するほど短い時間しかかかっていません。
11. Now if one thinks carefully, it is apparent that the mind is
idle most the time waiting for input signals from the brain. In a given second,
there are only about 100 such “data packets” coming to the mind as we discussed
above. The mind spends only 100 citta vithi for processing that information, which
takes less than a millionth of a second for the mind!
We can
see that the mind is engaged in “experiencing the world” for short times. Each perception event lasts only 17 thought moments, an
unimaginably short time; see, “Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introduction.”
11.慎重に考えれば、脳からの入力信号を待っている間、ほとんどの時間をマインドは怠けていることが明らかです。所定の秒で、上記で説明したように、頭に浮かぶ「データパケット」は約100個だけです。マインドはその情報を処理するために100 citta vithiを費やしますが、それは100万分の1秒未満しかかりません!
残りの時間、マインドは「bhavanga」と呼ばれる状態にあります。したがって、マインドは主に「bhavanga状態」にあります。
マインドが短期間だけ「世界の体験」に従事していることがわかります。各知覚イベントは、考えられないほど短い時間である17の思考瞬間のみ続きます。Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introductionを参照してください。
12. So, how does the mind perceive continuously, and take into
account what happened in the past? It is done by several mental factors (cetasika) in each citta.
In particular, the manasikara cetasika brings old memories, sanna cetasika recognizes,
etc.
Therefore, we can see
that our experience of external objects is very, very brief. A snapshot of a
picture, sound, etc. comes to the mind and is gone. The perception of a solid
image, sound, taste, etc. is put together by the mind with the help of a set of cetasika, especially seven cetasika that
are in any citta.
12.では、マインドはどのように継続的に知覚し、過去に何が起こったことを考慮しますか?それは各cittaのいくつかのメンタル的要因(cetasika)によって行われます。たとえばmanasikara cetasikaは古い記憶(想い出)をもたらし、sanna cetasikaは認識します。
このように外部対象の経験は非常に短いことがわかりました。写真や音などのスナップショットが思い浮かび、消えていきます。固いイメージ、音、味などの知覚は、一連のcetasika、特にどのcittaにもある7つのcetasikaの助けを借りて、マインドによってまとめられます。
13. Now it should be
apparent where the misconception in the following statement comes from: “.. rupa is very short-lived – it endures only for
17 conscious moments. Whatever object formed is almost instantly gone”.
You are always welcome
to point out inaccuracies or unclear instances. My goal is not to post essays
but to make sure the content is understood. To comprehend Buddha Dhamma
requires a lot of thought.
13.ここで、次の文の誤解がどこから来たのかが明らかになるはずです。「..rūpaは非常に短命です。それは17の意識的な瞬間の間のみ耐えます。形成された対象はほとんど瞬時に消えてしまいます」。
•rupa(または対象)が短命であるのではありません。その対象を体験する時間が非常に短いというだけです。私たちは常に見たり、聞いたり、味わったりしていると思います。しかし、そうではありません。映画を見ながら静止画のシリーズだけを見ているように、私たちのマインドは「スナップショット」の一連だけを経験しています。
「ghana sanna」すなわち「堅実で継続的な経験の知覚」は、マインドによって生み出された幻想です。それは重要なポイントです。明確でない場合は、上記を読み直してください。
不正確または不明瞭な事例を指摘することはいつでも歓迎です。私の目標は、エッセイを書くことではなく、内容が理解されるようにすることです。仏法を理解するには、多くの考えが必要です。
14. Therefore, objects around us do not necessarily change fast
and not that fast. It is just that our experience of “seeing” lasts
less than a millionth of a second at a time. If we look at an object for 60
seconds, the mind sees it in about 600 static frames (per #9 above). Out of
those 60 seconds, the mind “sees” the object for less than a millionth of a second
in total, but spread over the 60 seconds in “snapshots,” an unbelievably short
time.
14.したがって、私たちの周りの対象は必ずしも速く変化するわけではなく、それほど速くはありません。私たちの「見る」経験は、一度に100万分の1秒未満しか続かないということです。対象を60秒間見ると、マインドは約600静的フレーム(上記の#9ごと)でそれを見ます。それらの60秒のうち、マインドは合計で100万分の1秒未満の間対象を「見ます」が、信じられないほど短い時間である「スナップショット」が60秒に広がります。
たとえば、金の延べ棒は17の思考の瞬間にほとんど変化しません。金の延べ棒は何百万年も続くので、思考の瞬間の金の延べ棒の変化は取るに足りないほど小さいです。 1日の命のカゲロウであっても、17citta内で起こる変化は測定できないほどわずかです。したがって、
「..rūpaは非常に短命です。それは17の意識的な瞬間にしか耐えられません。形成された対象がほとんど瞬時に消えてしまう」というのは間違っています。
瞬時に消えてしまうのは、17の思考の瞬間である「感覚のイベント」すなわちhadaya rupaのことです。“Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introduction.を参照してください。
15. Buddha Dhamma (i.e., the world) is complicated enough; we need
to be careful not to make it any more complicated than necessary. Trying to
imagine a person disappearing in a thought-moment and reforming back into full
form is unrealistic. Trying to conceive the same for the Earth is
mind-boggling, not to mention all those stars, galaxies, out there. Luckily
that is not what happens.
That is not what was described by the Buddha when he said, “ditté ditta mantan bhavissati.” It means, “what is seen is seen only for a brief moment.” Mantan is “mätra” in Sinhala or Sanskrit or a “trace of something.”
15.Buddha Dhamma(すなわち、世界)は十分に複雑です。必要以上に複雑にしないように注意する必要があります。人が思考の瞬間に姿を消し、完全な形に戻ることを想像しようとするのは非現実的です。地球に対しても同じように考えるのはびっくりさせられます。星、銀河にいたるのは言うまでもありません。幸いなことに、それは起こりません。
釈尊が“ditté ditta mantan bhavissati.”と言ったとき、それは釈尊によって記述されたものではありません。意味は 「見られるものはほんの一瞬だけ痕跡が見られる」ということです。Mantan とはシンハラ語またはサンスクリット語のmätraで「痕跡」です。
16. Even though we think we see a person all the time while we
are looking at him, we see only several “snapshots” of him.
What about hearing? We usually speak 100 to 160 words per minute, which means we listen to the same rates. Thus we hear about two words per second. A word typically has less than ten letters, and thus each letter is comprehended in about 50 ms. Therefore, our rough estimate seems to hold. We indeed hear only one letter at a time, but we think we hear whole words or phrases.
16.私たちがある人を見ている間、常に人を見ていると思いますが、実際には彼のいくつかの「スナップショット」だけを見ています。
聴覚はどうでしょうか?通常、1分あたり100〜160語を話します。これは、同じレートを聞くことを意味します。したがって、1秒間に約2単語を聞きます。通常、単語は10文字未満であるため、各文字は約50ミリ秒で理解されます。したがって、私たちの大まかな想定が成り立つようです。実際に一度に聞くことができるのは1文字だけですが、フレーズ全体を聞いていると思っているのです。
17. Other sense inputs work the same way: The Buddha also said,
“suté suta mattan bhavissati”, “muté muta mattan bhavissati”, and “viññāté
viññāta mattan bhavissati”, where “suta”
means hearing, “muta” is a collective word for taste, smell, and touch,
and “viññāta” is for viññāna.
All our sensory inputs and our awareness are minuscule traces of sensations
that flow, which the mind concocts as continuous and stable experiences. Think
about the movie analogy again; a movie is a series of static “snapshots.” In
the same way, our experiences are a series of “snapshots.”
That will become even more clear when we further discuss how the “manomaya kaya controls the physical body,” see, “Ghost in the Machine – Synonym for the Manomaya Kaya?“.
17.他の感覚入力も同じように機能します。釈尊はまた“suté suta mattan bhavissati”, “muté muta mattan bhavissati”, “viññāté viññāta mattan bhavissati”と言いました。
Sutaはリスニング、mutaは味覚、匂い、感触を表す言葉、「viññāta」はviññānaを意味します。私たちのすべての感覚入力と意識は、流れる感覚のごくわずかな痕跡であり、マインドはそれを継続的で安定した体験として作り上げます。映画の類推をもう一度考えてみてください。映画は一連の静的な「スナップショット」です。同様に、私たちの経験は一連の「スナップショット」です。
Brahmaの世界では、「manomaya kaya」だけがあり、私たちのような固体はありません。そこでは、感覚は多かれ少なかれ連続しています。繊細な「manomaya kaya」しか持たない絶え間ない苦しみがある「空腹のゴースト」((petas)もいます。
私たちの肉体は、「身体的な喜び」だけでなく、さまざまな体の病気を介して痛みを与えるためにあります。また、今後この重要なポイントについても説明します。 kamma vipakaによれば、自然にはさまざまな種類の苦しみ/楽しみを与えるためのさまざまな「身体構造」があります。
manomaya kayaが肉体をどのように制御するか、についてさらに議論すると、さらに明確になります。Ghost in the Machine – Synonym for the Manomaya Kaya?を参照してください。
18. There is a lot of information to be absorbed in this
post. Our lives are just a series of very brief sense experiences. When
the Buddha uttered those four phrases to the ascetic Bahiya Daruciriya,
he contemplated on them right there and attained the Arahantship.
He is considered to be the person who spent the least
time reaching Arahantship.
More
on the formation and destruction of a sankata in,
“Nirödha and Vaya – Two
Different Concepts.”
Next,
“Ghost in the Machine – Synonym for the Manomaya Kaya?“, …….
18.このトピックには多くの情報が含まれています。私たちの人生とは、一連の非常に短い感覚の経験のことです。釈尊がこれらの4つのフレーズを修行者のBahiya Daruciriyaに話した時、彼はそれらについて熟考し、アラハンシップを達成しました。彼は、アラハンシップに到達するのに最も時間をかけなかった人と考えられています。
sankataの形成と破壊についての詳細はNirödha and Vaya – Two Different Concepts
1:五門による心路(眼門を例に)
極大所縁
§7 眼門の極大所縁路
色が眼に触れてからの心の生滅の順番
有分心から速行心まで
一番目の有分心は、完全に寝ている状態。
二番目は、動揺してなんとなく弱くなり始めた状態。(「有分動揺」という)
三番目は、有分心がもう結構弱くなった状態。有分心が捨てられ、捨断される。(「有分捨断」という)
四番目の刹那で、「目が覚めた」という状態に。(「五門引転心」という)
五番目に、眼識が、
六番目に、領受心が、
七番目に、推度心が、
八番目に、確定心が、
生まれて、滅する。
速行心
九番目に、速行心が生まれる。
同じ振動が七回起きる。(九番目から15番目まで、七つの速行心)
「考える世界、妄想の世界」は速行心のはたらきなのです。」
「きれいな花だったら、それに引っ張られるし、
汚く醜い花だったら、それから離れたくなる。
そういう人間の好き嫌いの心・感情が、この速行心なのです。」
「ああ、きれいだ」と思う感情が生まれたら、
その速行心は貪根心八種類の一つなのです。
「嫌な花だ。見たくもない」と思う感情が生まれたら、
その速行心は瞋根心二種類のどちらかなのです。
花を見たのにただぼーっとしているだけなら、痴根心二つのどちらかです。
不善心はこの十二種類
欲もなく怒りもなくただ「花だ」としっかり確認するなら、
欲界善心八つのどれかが生まれる。
「これは無常だ」などと智慧で見るなら智相応の四つから、
そうでなければ智不相応の四つから、どれかが現れます。
同じことを、阿羅漢の方々がすると、欲界有因唯作心八つのどれかです。
それと阿羅漢の方々が笑う笑起心が一つ。
この二十九種類の欲界心のどれかが速行心として生まれます。
彼所縁心は「味わい」
彼所縁心は二回生起し、滅する。
「彼所縁心は、有分心ではなく、異熟心」
「きれいな花だなあ」と感じたなら、感じたのは速行心で、
その後に残る「味わい」みたいなもの、「結果」なのです。
心の生滅の17回
「目にものが触れても、始めはただ寝ているだけの有分状態
それが動揺して捨断して、
第四刹那のところで目が醒める(五門引転心)
目に心が移動して、その反応のコピーを受ける(領受心)
「これはどんな振動かなあと推度する。
推度したものを確定する。
「見たもの」を確定するのではありません。
「推度した、この直前の心(推度心)」を確定する。
その自分勝手に推度したものについて、すぐ感情が走ってしまうのです。(速行心)
ここで善行為か悪行為かに分かれてしまいます。
「ああよかった」とか、「ああ嫌だった」とか、
ちょっとホッとしたりフッと気が抜けたりする瞬間が生まれる(彼所縁心)
いつ「見えた」のか
「認識の一セットが終わったら、かならず有分心になります。」
「こういう十七刹那のセットを書くときは、彼所縁心の次にかならず有分心を書かなくてはいけません。」
「第一心刹那で、その何か「もの」が生まれて、
第十七刹那でその「もの」は死んでしまいます。
本当は人間の知識レベルでは、この十七刹那ぐらいでは「見えた」ことになりません。
こういう十七心刹那のセットが何億回も生まれて、
やっと「あ、花が見えました」という認識が出てくるのです。」
まあ、一心刹那=一兆分の一弾指だから、それはそうだろう。
じゃあ、カニカ定で見える超高速の世界もまだまだ、この17刹那のセットを確認するほどにはいかないのだろう。
「ない」ものを見る?
「この生の瞬間は見えません。住のときは見えます。滅のときはまた見えないのです。」
「生か滅のときは、心は有分心なので何も気づかないのです。」
ヴィパッサナー瞑想をすると、
「見ている『もの』はずっとそこにあるのではない」という事実に気づく。
現象は生まれては消えるものだと気づく。」
極大の眼門路
生位の心、
二個の有分心(二個目は捨断心)
14の路心(有分でない心)で成り立つ。
滅位の有分心は17心刹那に含めない。
有 過 動 捨 五 眼 領 推 確 速 速 速 速 速 速 速 彼 彼 有
と書く。
最初と最後の「有」は含めない。
Rupa (Material Form) – Table
Revised April
22, 2020; August 16, 2020
We
discuss the 28 types of rupa (material
form) in Buddha Dhamma. For discussions on rupa,
see, “What are Rupa? (Relation to Nibbāna)”
and “Rupa (Material Form).”
仏法における28種類のrūpa(物質的形態)について説明します。
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Concretely Produced (Nipphanna) 具象的 |
Abstract (Anipphanna) Rupa 抽象的 |
|
I. Great Elements (Mahā
Bhuta) 4大元素 |
VII. Limiting Phenomenon 限定された現象 |
|
1. Pathavi (Extension/Hardness)伸展/硬度 |
19. Ākāsa dhātu (space element) 空間要素 |
|
2. Apo (Cohesion/Fluidity) 凝集性/流動性度 |
IX. Communicating (Viññatti) Rupa |
|
3. Tejo (Heat/Hotness) 熱温 |
20. Kāya
Viññatti |
|
4. Vāyo (Motion/Pushing & Supporting) |
21. Vaci
Viññatti |
|
II. Internal (Pasāda) Rupa 内部 |
X. Mutable (Vikāra) Rupa可変 |
|
5. Cakkhu (eye element) |
22. Lahutā (lightness) 明るさ |
|
6. Sota (ear
element) |
23. Mudutā (Elasticity) 弾力性 |
|
7. Ghāna (nose element) |
24. Kammaññatā (weildiness) |
|
8. Jivhā (tongue element) |
XI. Material Qualities (Lakkhana
Rupa) |
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9. Kāya (body element) |
25. Upacaya (production) 生産 |
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III. Gocara (Objective) Rupa対象物 |
26. Santati (continuity) 連続 |
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10. Vaṇṇa (visible) |
27. Jaratā (Decay) 減衰 |
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11. Sadda (Sound) |
28. Aniccatā (Dissolving) 溶解 |
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12. Gandha (Smell) |
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13. Rasa (Taste) |
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* Phoṭṭhabba (Tangibility, warmth, and
movement) 触覚、暖かさ、動きcomes
from 3 mahā bhuta of pathavi, tejo, vāyo |
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IV. Bhava Rupa |
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14. Itthi (Feminine) |
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15. Purisa (Masculine) |
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V. Hadaya (Mind Base) 心の基盤 |
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16. Hadaya
Vatthu (seat of the mind) |
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VI. Life |
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17. jīvitindriya (Life
faculty)
生命機能 |
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VII. Nutritional栄養 |
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18. Oja (Nutriment) |
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Types of Rupā
4大要素(#1から#4)と4つのgocara rupa(#10から#13)は常に一緒に表示されます。それらはそれ自体では決して感知されることはありません。それらはsuddhāṭṭhaka(8種類のrūpaによる最小の集合体を意味します)として一緒になります。The Origin of Matter – Suddhāṭṭhakaを参照してください。
paṭisandhiの瞬間にカルマ・エネルギーによってのみ作成された9つのrūpaがあります。それらは5つのpasāda rupa(#5から#9)と、メンタル体の心(hadaya vatthu)にある4つの他のrupa(#14から#17)です。
青でハイライトされている16rūpaは微細(sukuma)rūpaです。他の12は粗雑(oḷārika)rūpaです。
Nipphanna rupaは、kamma、citta、utu(tejo)、およびāhāra(oja)によって引き起こされます。
他の10(anipphanna rupa)は、kamma、citta、utu(tejo)、およびāhāra(oja)によって引き起こされたり調整されたりすることはありません。
表の右側にある10種類のanipphanna rūpaは抽象化されたrūpaです。
Types of Rupā Present in Different Realms
さまざまな領域に存在するrūpaの種類
28のrupāはすべてkāmaの領域で発生します。
sadda、5つのvikāra-rupā、jarātarupa、およびaniccatā-rupaを構成する8つのrupāは、誕生の瞬間(patisandhi)には発生しませんが、生涯の間、形成されないrūpaはありません。
Asañña領域を除く15 rupaの領域では、23のrūpaが発生します(ghana-pasāda, jivha-pasāda, kaya-pasāda, itthi-bhava 、purisa-bhavaは除外されます)。
Asañña領域では17 rūpaしか発生しません。それらは8つのavinibbhoga(4つのmahābhutaとvaṇṇa、gandha、rasa、oja)そしてjivita rupa、ākāsadhatu、3つのlahutadi、および4つのlakkhana-rupāです。
arupaの領域では、(hadayavatthを除く)suddhāṭṭhakaレベルを超えるrūpaは発生しません。
したがって、物質の痕跡は31領域のどこにでも存在します。 8つすべてのanariya jhānāを達成した古代のヨギは、arupa lokaでrūpaを見ることができず、それがNibbānaであると推測しました。しかし、arupa lokaにいる者は将来他の領域で生まれ変わるため(少なくともSotāpannaの段階に達しない限り)、rūpaはまだarupa lokaに「足場」を持っています。したがって、arupa lokaでは母体とのつながりが切断されていません。
Definitions from Dhammasaṅgaṇī
The
following are quoted from the “2.2.3. Rūpavibhatti”
section of Dhammasaṅgaṇī of the Tipiṭaka.
以下は三蔵のDhammasaṅgaṇīセクションの2.2.3. Rūpavibhattiからの引用です。
What are Dhammā? – A Deeper
Analysis
April 15,
2016; revised November 5, 2017; February 9, 2018
1. This is an advanced
topic (yet, hopefully made easy even for those who are not into Abhidhamma).
Please don’t hesitate to comment if something is not clear. A simpler version
is at: “What are rūpa? – Dhamma are rūpa too!“.
As I mentioned in
the “Abhidhamma – Introduction“, I very much want to make Abhidhamma easy
to grasp for anyone. I also want to highlight the fact the Buddha Dhamma is
well ahead of science (quantum mechanics) in understanding even our material
world; science has not even begun to explore the mind.
1.これは高度なトピックです(ただし、Abhidhammaに慣れていない人でも簡単にできることを願っています)。不明な点がある場合は、遠慮なくコメントしてください。より簡単なバージョンはWhat are rūpa? – Dhamma are rūpa too!
触ったり、匂いを嗅いだり、味見したりするのとは対照的に、目、耳、マインドは外界(物質)に直接「接触する」ことはありません。
5つの肉体的感覚で外側の世界を「そのまま」(すなわち客観的に)体験しますが、私たちがマインドと交流(対話)するのは、私たち自身の「認識、感情、計画、希望」です。
これらの2つの側面については、今後さらに詳しく説明しますが、ここでは、「dhammā」がマインドに関連して何であるかを見ていきます。これは、この先に2つの問題に対処するのに役立ちます。
dhammāはsuddhāshtakaステージより微細なrūpaであることに注意してください。Buddha Dhammaすなわち論蔵Abhidhammaのdhammaは、ブッダの教えを指します。
Abhidhamma – Introductionで述べたように、Abhidhammaを誰でも簡単に理解できるようにしたいのです。私はまた、Buddha Dhammaが私たちの物質世界でさえ理解する上で科学(量子力学)よりもはるかに優れているという事実を強調したいのです。科学はまだマインドを探求し始めてさえいません。
2. Existence in this
world of 31 realms is maintained via our attachments to “things” in this world.
These “things” are rūpa.
However,
any rūpa that arises is subjected to
unexpected change (viparināma) and eventual
decay and destruction, which is the basis of anicca nature.
2.この世界の31領域の存在(生命)は、私たちのこの世の「モノ」への愛着によって維持されています。これらの「モノ」とはrūpaのことです。
マインドがこれらの外部のrūpaに接触すると、assādaと呼ばれる短い感覚の楽しさを生み出します。Assāda, Ādīnava, Nissaranaを参照してください。私たちはこれらの感覚の接触を長続きして楽しいもの(それらを得るために私たちが経験する苦しみを無視します)だと認識しているので、私たちは意図的にそのような感覚の喜びを望みます。
ただし、発生しているいかなるrūpaも、予期せぬ変化(viparināma)と、最終的には老朽して崩壊します。これがaniccaの性質の基本です。
3. Another factor that we have not discussed much in detail
is that rūpa have different levels
of texture or solidity.
You may want to review
the concepts discussed in the following posts: “What Are rūpa? (Relation to Nibbana)“, “The Origin of Matter – suddhāshtaka“.
3.あまり詳細に説明していないもう1つの要因は、rūpaのテクスチャすなわち堅固性のレベルがいろいろとあることです。
人間の領域(およびその下の領域)で経験するrūpaは、dhātuと呼ばれる最も密度の高い種類のものです。devaの領域は、私たちには見ることのできない、より繊細なdhātuで構成されています。rūpa
lōkasでは、rūpi
brahmasはmahā bhūtaと呼ばれるさらに繊細なrūpaを経験します。そして、arūpa lōkaには、suddhāshtakaと呼ばれる物質の最小単位で作られたbhūta(例えばhadaya vatthu)の痕跡であり、そしてはるかに繊細なgathi(またはgathi)があります。
次のトピックで説明されている概念を確認できます。What Are rūpa? (Relation to Nibbana)“, “The Origin of Matter – suddhāshtaka
4. It is conventional knowledge is that we experience the
external world with our five physical senses: We see with our eyes, hear with
the ears, smell with the nose, taste with the tongue, and touch things
with our physical bodies.
In fact, we do this any
given day, not only by recalling past experiences, but also by imagining
desired future events.
4.従来の知識では、私たちは5つの肉体的感覚器官で外界を経験します。私たちは目で見て、耳で聞き、鼻で匂い、舌で味わい、体で物に触れます。
それらがすべての経験なのでしょうか?
他の世界から完全に隔離された暗い部屋にいると想像してみてください。わかりやすい例は、特に昔の独房監禁と呼ばれる軍隊による処罰です。何時間もの間、完全に隔離された暗い部屋に閉じ込められます。
そのような人は外の世界を経験しますか?もちろん。過去の出来事を思い出したり、未来を思い出したり、行ったことがある場所を思い出したりなど、あらゆることを考えることができます。
実際には、過去の経験を思い出すだけでなく、希望する将来のイベントを想像をしています。
5. Sense contacts other than the five physical senses are
due to the sixth sense: the mind. One is totally unaware of the external
world only when one is totally unconscious.
So, what are the rūpa that
we experience with our minds? These are dhamma! As stated in the
phrase, “manañca paṭicca
dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ“, contacts of dhammā with
the mana indriya leads to manō viññāna.
5. 5つの物理的感覚以外の感覚接触は、6番目の感覚、つまりマインドによるものです。人は完全に無意識であるときのみ、外界に全く気づきません。
では、マインドで経験するrūpaとは何でしょうか?これらがdhammaです! 「manañca
paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ」というフレーズで述べたように、dhammāとmana indriyaの接触がmanō viññānaにつながります。
6. The arising of viññāna due to different types of sense inputs
is described in abhidhamma (and also
in “Cha Chakka Sutta
(MN 148)“) as:
“cakkhuñca
paṭicca rūpē ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ“,
“sōtañca
paṭicca saddē ca uppajjati sōtaviññāṇaṃ“,
“ghānañca
paṭicca gandhē ca uppajjati ghānaviññāṇaṃ “,
“jivhañca
paṭicca rasē ca uppajjati jivhāviññāṇaṃ”,
“kāyañca
paṭicca phōṭṭhabbē ca uppajjati kāyaviññāṇaṃ”, and
“manañca
paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ“
kāya viññāna result from contacts which are the most coarse (pottabba or touch due to dhātu), and manō
viññāna result from the contacts that
are extremely fine, dhamma.
6.異なるタイプの感覚入力によるviññānaの発生は、abhidhamma (およびCha Chakka Sutta
(MN 148))で次のように説明されています。
「cakkhuñca
paṭicca rūpē ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ」、
「sōtañca
paṭicca saddēca uppajjati sōtaviññāṇaṃ」、
「ghānañca
paṭicca gandhē ca uppajjati ghānaviññāṇaṃ」、
「jivhañca
paṭicca rasē ca uppajjati jivhāviññāṇaṃ」、
「kāyañca
paṭicca phōṭṭhabbē ca uppajjati kāyaviññāṇaṃ」、
「manañca
paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ」
したがって、dāmmāがmana indriyaと接触すると、manōviññānaが生じると書かれています。 (vanna)
rūpa すなわち光とcakku
indriya(眼)が接触するとcakku
viññānaが起こります。
またsadda
rūpa(音波)が sōta indriya(耳)と接触するとsōta viññānaが起こります。
kāya viññānaは最も粗い接触(pottabbaすなわちdhātuとの接触)に起因し、manō viññānaは非常に微細なdhammaとの接触に起因します。
7. Thus, we can categorize our six types of contacts with the
external world according to the “coarseness” of the contacts.
7.したがって、6つのタイプの外部世界との接触は、接触の「粗さ」に従って分類できます。
身体の接触(感触)、味、匂いは粗い接触です。それらは直接の接触(pottabba)を伴い、それらは固体粒子(味と匂い)を伴います。
視覚には光の粒子(光子)と肉眼との相互交流があります。アインシュタインまでは光は粒子だとは考えられておらず、Comptonたちが証明したのは1920年代のことです。
8. We can also see that
the sense elements in the body also get less and less coarse
in that order. It must be noted that the sensing elements in the ear are
not the ear that we see, but very sensitive area deep inside the ear.
Thus going from touch,
smell, taste, sight, and hearing, both the external influences — touch, tasty
things, smells, light
(photons), sound (phonons) — and the sense elements (body, tongue, nose,
eyes, ears) become finer in that order.
8.また、体内の感覚要素もこの順序でますます粗くなくなることがわかります。耳の感知するところは、見えている耳ではなく、耳の奥にある非常に敏感な領域です。
Buddha
Dhamma(および科学によって確認された)によると、2つのものが同じぐらいの密度を持っている場合には、相互に反応しあい、使用量が多い場合でも長持ちします。たとえば、スチールの棒が木製の棒とこすれた場合、木製の棒はすぐに摩耗します。しかし、2本のスチール製の棒(または2本の木製の棒)がお互いをこすっても長い間摩耗しません。
触覚、嗅覚、味覚、視覚、聴覚と外的影響である接触、味、匂い、光(光子)、音(フォノン)と感覚要素(体、舌、鼻、目、耳)の順序で粗大さから繊細になります。
9. The finest sensing element is the “mana indriya”
which is inside the brain. It is likely to be one
of the following: thalamus間脳の視床,
amygdala小脳扁桃, or hippocampus海馬. I have not had enough time to investigate the functions of
these sensitive elements of the brain, but according to Buddha
Dhamma, the “mana indriya” is inside the brain出典? and is analogous to the eyes or the ears; more details will
become clear as we discuss below.
Here, “anidassana” means “cannot be seen” and “appatigha” means “cannot be touched or sensed with
even the finest instrument”. And, “dhammayatana
pariyāpanna rūpan”
means “can make contact only with the dhammāyatana or mana
indriya”.
9.最も繊細な感覚要素は、脳内にある「mana indriya」です。物質としては次のいずれかである可能性があります:間脳の視床、小脳扁桃、もしくは海馬。これらの脳内の感覚機能を調査するのに十分な時間がありませんでしたが、Buddha Dhammaによると、「mana indriya」は脳の中にあり、目や耳に喩えられています。詳細については、以下で説明します。
「第三の目」の伝説に伝わるのは、この「mana indriya」です。それは額の裏側に位置することになっています。
mana indriyaと接触するrūpaはsuddhāshtakaよりも微細で、まだgatiの段階にありますが、suddhāshtakaになる途中です。それらはabhiññāの力でさえ「見える」ほどの粗さはなく、他の5つの粗い感覚とは接触しません。したがって、彼らは「anidassan appatighan dhammāyatana pariyāpanna rūpan」と呼ばれています。
ここで、「anidassana」は「見えない」ことを意味し、「appatigha」は「最高の器官でさえ感知できない」ことを意味します。また、「dhammayatana pariyā」、「dhammāyatana」はmana indriyaのこと、pannarūpanはrupaとの唯一の接触」を意味します。
10. In the post, “The Origin of
Matter – suddhāshtaka“, we discussed how the smallest material
element, a suddhāshtaka, is
created by the mind with origins in four basic “gathi”
of humans that arise due to avijja: “thada gathiya” (in
Sinhala) means the “coarseness”, corresponding to patavi; “bandena gatiya”
means the “bind together” which leads to liquidity corresponding to āpo; “thējas gatiya” means the “fiery or energetic”, corresponding
to tējo; and, “salena gatiya”
means the “motion”, corresponding to vāyo.
craving
for these material things lead to four more gathi due
to tanhā: Due
to our tendency to think highly (“varnanä karanava” in Sinhala), another gathi of “varna” is created as
different manifestations of the satara
mahā bhūta. Similarly,
three more units called gandha香り, rasa, and ōja are created
due to tanhā corresponding to
our desire to be in touch with them, keep them close (rassa),
and to re-generate them.
10. The Origin of
Matter – suddhāshtakaでは、avijja(無明)に起因する人間の4つの基本的な「gati」に由来するマインドによって、最小の物質の要素であるsuddhāshtakaがどのように作成されるかについて説明しました。 」thada gathiya(シンハラ語)は、pataviに対応する「粗さ」を意味します。 「bandena gatiya」とは、āpoに対応する流動性をもたらす「結合」を意味します。 「thējas gatiya」は、tējoに対応する「燃えるような、すなわちエネルギッシュ」を意味します。そして、「salena gatiya」はvāyoに対応する「動き」を意味します。
これらの物質的なものへの渇望は、tanhāによるもう4つのgatiにつながります。
私たちの物事を抽象化する傾向によって、四大元素は違った物質化現象をして、他のvarnaのgathiが創造されます。
同様に、欲望と接触し、近くに置いておきたいと執着することで、再び生み出す渇望によって、
gandha香り, rasa味,
ōja汁と呼ばれるさらに3つのユニットも創造されます。
11. Before these eight
inseparable units solidify into what we call matter, there is
the precursor前駆 stage of gathi: cultivation of gathi leads
to bhūta, which are in
the suddhāshtaka stage. Further
solidification of bhūta leads
to mahā bhūta. The
fine rūpa of brahmas are
composed of mahā bhūta.
The gathi stage of rūpa —
the origins of rūpa — are also
called “manō rūpa“: these are really what we visualize in our minds. We can visualize
scenes from the past, and those are manō
rūpa. In the process of making gathi, we constantly think about
associated material things; those are manō
rūpa.
11.これらの8つの不可分なユニットが私たちが物質と呼ぶものに固形化する前には、gatiの前駆的な段階があります。このgathiが育まれるとbhūtaになり、これがsuddhāshtakaのステージです。さらにbhūtaの固形化がmahā bhūtaにつながります。brahmasの繊細なrūpaはmahā bhūtaで構成されています。
rūpaのgati段階、すなわちrūpaの起源は、「manō rūpa」とも呼ばれます。これらは、私たちがマインドで視覚化するものです。過去のシーンを視覚化することができますが、それがmanō rūpaです。 gathiを作成するプロセスでは、関連する物質的なものについて私たちは常に考えます。それらはmanō rūpaです。
12. mahā bhūta, upon
further condensation, become dhātu. The
bodies of devas are made of finer dhātu,
and our bodies — as well as all material things we see — are composed of
denser dhātu.
Therefore, the origins of all matter is gathi! But our gathi (of
normal humans) actually do not lead to the formation of significant amounts of
even suddhāshtaka. So, we still have a
long way to go before we can explain how these solid objects in our world were
formed as described in the Agganna
Sutta.
12.mahābhūtaがさらに凝縮するとdhātuになります。devaの体はより細かいdhātuで構成されており、私たちの体は、私たちが見るすべての物質的なものと同様に、より密度の高いdhātuで構成されています。
したがって、すべてのモノの起源はgatiです!しかし、(普通の人間の)私たちのgatiは、実際にはかなりの量のsuddhāshtakaさえも形成しません。ですから、Agganna suttaで説明されているように、私たちの世界のこれらの固体対象がどのように形成されたかを説明する前に、まだ長い道のりがあります。
13. Just like the eye is receiving
visual information or the ear the sounds, the “mana indriya”
is receiving “dhammā“. And dhammā are much finer than light or sound rūpa. In fact, all five physical senses deal with
signals transmitted via solidified particles made out of suddhāshtaka, but dhammā are just energy, below
what we call “matter”. Actually, even most physicists do not consider light as
matter or “particles”; I will write a post on why light photons are indeed
particles according to quantum mechanics.
13.目が視覚情報を、耳が音を受け取るように、「mana indriya」は「dhammā」を受け取ります。 dhammāは光や音のrūpaよりもずっと繊細です。実際、5つの物理感覚はすべて、suddhāshtakaから作られた固形化の一面も持つ粒子を介して送信される信号を処理しますが、dhammāは「モノ」と呼ばれていますが、単なるエネルギーです。実際、ほとんどの物理学者でさえ、光を物質すなわち「粒子」とは見なしていません。量子力学によると、光の光子が実際に粒子である理由についてのそのうちに説明します。
The Origin of Matter – suddhāshtakaで説明したように、単一の軽い粒子(光子)でも非常に多くのsuddhāshtakでできています。
そこで議論したように、suddhāshtakはマインドによって作られます。 Dhammāは、suddhāshtakaの初期段階と見なすことができます。それらは、実際にはjavana cittaのマインドによって作られたkammicエネルギーのパケットであり、私たちのgatiのために生じています。これは本当にマインドと物質の間のリンクです!
14. Therefore, all six
senses allow our minds to interact with the material world. We actually
interact with two worlds: the material world and the mind
world or the manō thalaya.
To repeat: One’s pancakkhadha is not one’s body as is commonly described. It is not even physical. It is all mental: “Pancupādānakkhandha – It is All Mental“.
14.したがって、すべての6つの感覚によって、私たちのマインドが物質世界と相互作用することを可能にします。私たちは実際に、物質世界とマインドの世界、すなわちmanō thalaya(陸)という2つの世界と対話しています。
物理的世界(rūpa lōka)のさまざまなタイプのrūpa(varna、gandha、rasa、ōja、pottabba)はsuddhāshtakaで構築されています。 Dhammāすなわちkamma beeja(manō lōka内)は、基本的にはまだsuddhāshtakaの状態に固まっていない「エネルギーパケット」です。
生物のpancakkhandhaには、両方の世界の「構成要素」があります。 rūpa kkhandhaは、物質世界のメンタル的な印象です(メンタル記録として)。Pancakkhandha or Five Aggregates – A Misinterpreted Conceptを参照してください。他の4つのkhandha(vedana、sanna、sankhara、viññāna)は、マインドの世界のメンタル的な印象です。
各生命体のそれぞれが自分だけのメンタル的印象を作るため、すべての生命体は自分自身のpancakkhandhaによって関連付けられています。
釈尊は、5つのkhandha以外で生き物を定義することはできないと言いました。
繰り返します:一般的に説明されているように、人のpancakkhandhaとはその人の体ではありません。それは物理的なものでさえありません。それはすべてメンタルです:Pancupādānakkhandha – It is All Mental
15. The creation
of suddhāshtaka by the mind in javana citta,
starts first by enhancing one’s gathi.
As we will discuss in a future post on the “Asēvana
Paccaya“, the more one does activities related to
a given gathi, that gathi grows.
By the way, as discussed in the “Living Dhamma” section, any such “bad gathi” can be reduced and eventually eliminated by a two-step method: (i) forcefully stop activities — and conscious thoughts about them — that contribute that gathi when one becomes aware DURING such an act OR a conscious thought, (ii) keep learning Buddha Dhamma to comprehend how that process can actually work (as discussed starting with basic fundamentals of Buddha Dhamma in the “Living Dhamma” section); one key aspect here to contemplate on the bad consequences of such actions/thoughts.
15. javana cittaのマインドによるsuddhāshtakaの創造は、まずgatiを高めることから始まります。今後「Asēvana Paccaya」のトピックで説明するように、特定のgatiに関連する活動を行うほど、gatiは成長します。
gatiの成長とは、実際にはkamma beeja(種子)の蓄積であり、それはマインド界のkamma bhavaに堆積します。これらは、「manañca paṭicca dhammēca uppajjati manōviññāṇaṃ」にある本当にdhammaです。
そして、dhammaすなわちkamma beejaは、マインドがそのようなgatiに対して受容状態にある時には、自分のマインドに戻ることができます。したがって、これは自己供給のフィードバック・ループです。
これは、熟慮すべき重要なポイントです。これが、酔っぱらいが飲みたい衝動を得たり、ギャンブラーがカジノを訪れる衝動を得たりする理由です。そのようなgatiを持っていない人は、対応するdhammāがないので、そのような衝動を感じません。そのようなdhammāがあると それが、mana indriyaに繰り返し戻る度に衝突し、それが衝動となります。
ところで、Living Dhammaで説明したように、このような「悪いgati」は、2段階の方法で削減し、最終的に排除できます。
(i)活動と意識している思考を強制的に停止します。
行動、つまり思考の最中に気づくことによってgatiに影響を与えます。
(ii)Buddha Dhammaを学び続け、そのプロセスが実際にどのように機能するかを理解する。(「Buddha Dhamma」の基本的な基礎から始める)。
このような行動/思考からくる悪い結果を熟考することが重要な視点の1つです。
16. To emphasize, dhammā arise due to kamma that
we commit. The more kamma we do, the
corresponding dhammā will grow, and
become gathi.
When one cultivates “dog gathi” that is what one bears. And that is what comes back to one’s mind at the cuti-patisandhi moment and can lead to the next bhava, and thus birth (jati) as a dog.
16. dhammāは私たちがコミットするkammaのために生じることを強調します。ます。kammaを増やすと、それにdhammāが対応して成長し、gathiになります。
dhammāは「産む」という意味です。好きなことや関わることを引き受けて、それが産まれてきます。
「犬のgati」を育む時、それは私たちが引き受けるものです。そして、それがcuti-patisandhiの瞬間に頭に浮かぶものであり、次のbhava、ひいては犬としての誕生(jati)につながります。
17. However, creation
of a suddhāshtaka requires trillions
of citta vithi running
consecutively連続. Thus it does not happen
significantly by a normal human being. It requires not only jhānas, but being able to get into samāpatthi. Those with abhiññā powers
have the ability to get into samāpatti very
quickly.
However, when one is in a samāpatti, the jhānic cittas can flow unceasingly for long times. Thus, pancadvāra citta vithi cannot run in between, and thus one is totally unaware of the external environment when in samāpatti.
17.しかし、suddhāshtakaの生成には、連続して実行される数兆のcitta vithiが必要です。したがって、そのようなことは普通の人間ではあまり起こりません。jhānasだけでなく、samāpatthiに入ることが必要です。
samāpatthi 第9禅定であるnirodhasamāpattiのこと
abhiññāの力を持つ人々は、非常に迅速にsamāpatthiに入ることができます。
jhānasにいるとき、cittasはまだ両者の間にあって、物理的な五感に戻ることができます。jhānasに入っていても、例えば、外部の音を聞くことができます。
•しかし、samāpatthiにいるとき、jhānic cittaは長い間絶え間なく流れることができます。したがって、pancadvāra citta vithiはその間(時間?空間?)を流れることができません。したがって、samāpattiにいるときは外部環境にまったく気づくことができません。
pancadvāra 5感覚器官との扉 ここが閉じると、外部からの信号が途絶える
18. Furthermore, when
in samāpatti, jhānic citta flow
unceasingly and make each new javana citta stronger than the predecessor前任 with the “Asēvana Paccaya“. We will discuss this in detail in the future.
This is how those with abhiññā powers (i.e., who can easily get into samāpatti and have practiced it well) can even make physical objects: One can start off with a picture of a flower in one’s mind and then by creating more and more suddhāshtaka with each new javana citta, create an actual flower in a very short time!
18.さらに、samāpattiの場合、jhānic cittaは絶え間なく流れ、それぞれの新しいjavana cittaを「Asēvana Paccaya」の前よりも強くします。これについてはそのうちに詳しく説明します
これは、abhiññāの力を持つ人(つまり、容易にsamāpattiに入り、それをうまく実践できる人)が物理的なモノを作成する方法です。写真の花をマインドでイメージすることからはじめ、新しいjavana cittaごとにsuddhāshtakaを次々に創造し、非常に短時間で実際の花を生成します。
19. Finally, dhamma in
the nāma lōka are
the same as those viññana established
in the kamma bhava. This is a
subtle point; see, “Viññāna Aggregate“.
19.最後に、nāma lōkaのdhammaはkamma bhavaで確立されたviññanaと同じです。これは微妙な点です。 Viññāna Aggregateを参照してください。
Dhammaすなわちanidassana と呼ばれるviññanaは、appatigha rūpa(見えない、または接触できないrūpa)と呼ばれ、suddhashtakaステージの下にあるエネルギーです。Anidassana Viññāṇa – What It Really Meansを参照してください。
kamma bhavaはnāma lōkaと同じです。
nāma lōkaのDhammaは、kamma bhavaで確立されたviññanaと同じです。Our Two Worlds : Material and Mentalを参照してください。
Revised March 22, 2017; April 17, 2017;
November 5, 2017; July 19, 2018; August 9, 2019; January 11, 2020
We will discuss the difference between saṅkhāra, sankata,
and dhammā. Some
of the descriptions given here are not compatible with meanings given in many
current Theravada texts.
However, they are fully compatible with the Tipiṭaka. Please
send me a comment ([email protected]) if you find evidence
to the contrary.
I always give links to other posts. It is not necessary to read them, but if one needs more information or clarification, one should read them. That will make the concept “really sink in.”
saṅkhāra、sankata、dhammāの違いについて説明します。ここに記載されている説明の一部は、現在の多くの上座部テキストに記載されている意味と互換性がありません。ただしTipiṭakaと完全に互換性があります。反対の証拠が見つかった場合は、コメント([電子メール保護])を送ってください。
•まず、「dhamma」という言葉は、状況によって多少異なることを意味する場合があることを覚えておくことが重要です。 「仏法Buddha Dhamma」では、「仏の教え」を意味します。
•Dhammā(末尾に長い「a」が付いている)は、主に心が生み出したエネルギーを示すために使用されます。kamma bijaとも呼ばれます。
•しかし、「sabbe dhammā anattā」の「sabbe dhammā」には、31の領域のこの世界に属するすべての現象が含まれます。後述するようにNibbānaはこの世界ではありません。
•私は常に他のトピックへのリンクを提供します。それらを読む必要はありませんが、さらに情報や説明が必要な場合は、読む必要があります。それによってコンセプトが「腑に落ちます」。
1. There is confusion about the terms saṅkhāra and dhammā in
the Dhammapada verses
277,278, and 279; the first lines in those three verses are:
“Sabbē dhammā anattā“ or “all dhammā are without substance (not fruitful) at the end.”
有名な Dhammapadaの節
1. Dhammapadaの277、278、および279節では、saṅkhāraおよびdhammāという用語について混乱があります。これらの3節の最初の行は次のとおりです。
•「Sabbē saṅkhāra aniccā」すなわち「すべてのsaṅkhāraはaniccaです(長期的には満足のいくものを維持できません)。より良い言い方をすれば、そのようなことを長期的に計画するのは無駄だということです。もちろん、私たちはこの生活を送るために必要なアイテムの計画を立てる必要があります。
•「Sabbē saṅkhāra dukkhā」すなわち「すべてのsaṅkhāraは最終的にdukkha(苦しみ)につながります。」
•「Sabbē dhammā anattā」すなわち「すべてのdhammāは、最後に実体がありません(実りがありません)。」
2. Sankhārā are involved in
thinking, speaking, and acting based on our intentions, hopes, and dreams. It
is essential to realize that sankhārā are
our current thoughts.
More on saṅkhāra at, “Saṅkhāra – What It Really Means.”
Sankhārāとは私たちの考えのこと
2.Sankhārāは、私たちの意図、希望、夢に基づいて考え、話し、行動することに関与しています。
sankhārāとは「私たちの現在の考えである」ことを認識することが不可欠です。
•「sankhārā」には、アクション、スピーチ、思考(この順序で)につながる3つのタイプ(kāyasaṅkhāra、vacisaṅkhāra、manōsaṅkhāra)がすべて含まれます。それらはすべてcitta(想い、考え)で発生します。
•vacisaṅkhāraで人に「こんにちは」と言います。リビングルームからキッチンまで歩いて水を飲む場合、それはkāyasaṅkhāraで行われます。しかし、それらはkammavipākaを開始せず、kammのエネルギーはありません。しかし、誰かを言葉で虐待する場合、それは強力なvacisaṅkhāra(abhisaṅkhāra)で行われ、それはkammavipākaになります。
•saṅkhāraの詳細についてはSaṅkhāra – What It Really Means
3. Those saṅkhāra (or abhisaṅkhāra)
that we generate may lead to the arising of an inert object or a living form.
It leads to the arising of a sankata.
If one comes up with the idea of building a house, then the following steps may happen. He will carefully think about it (manō saṅkhāra, vaci saṅkhāra) and may talk about it with others (vaci saṅkhāra). If he decides to do it, then he may take actions (kāya saṅkhāra) to make it happen. In this case, our saṅkhāra gave rise to a house, and that house is a sankata.
SaṅkhSanraがSankataを発生させる
3.私たちが生成するこれらのsaṅkhāra(またはabhisaṅkhāra)は、不活性な対象または生きている形態の発生につながる可能性があります。それがsankataの発生につながりることになります。
•家を建てるというアイデアを思いついた場合、次の手順が発生する可能性があります。彼はそれについて注意深く考え(manōsaṅkhāra、vacisaṅkhāra)、それについて他の人(vacisaṅkhāra)と話すかもしれません。彼がそれをすることに決めた場合、彼はそれを実現するために行動を起こすかもしれない(kāyasaṅkhāra)。この場合、私たちのsaṅkhāraは家を生み出し、その家がsankataになります。
4. When we do something with the body (i.e., body movement),
that is controlled by kāya saṅkhāra that
arise in our minds.
Mano saṅkhāra are thoughts that arise automatically (due to kamma vipāka and also our “gati“).
4.体で何かをするとき(つまり、体の動き)、それはマインドの中で発生するkāya saṅkhāraによってコントロールされます。
•私たちはロボットではありません(ほとんどの下等な動物はロボットのようなものです)。私たちは自分の考え、スピーチ、行動をコントロールできます。時には自動的に物事を行うことがあります。ただし、必要に応じて、スピーチやアクションを変更できます。試してみればできることがわかります。
•私たちが自分自身と話したりするとき、それはvaci saṅkhāraが関与します。それらも私たちのマインドの中で起こります。Correct Meaning of Vacī Saṅkhāraを参照してください。
•Manosaṅkhāraは(kammavipākaと各自のgatiによって)自動的に発生する「想い」のことです。
5. Building a house in #3 above may not involve moral/immoral
intentions. One may not generate strong saṅkhāra (called abhisaṅkhāra)
that can create kamma bija (dhammā),
that can bring kamma vipāka in
the future. Building a house is just a kammically-neutral
action.
In this case, all those saṅkhāra are abhisaṅkhāra, that can bring future bad kamma vipāka, in the form of rebirth in the apāyā, which includes the animal realm.
5.上記#3で家を建てることは、道徳的/不道徳な意図は関与していないでしょう。将来的にkamma vipākaをもたらす可能性のあるkamma bija(dhammā)を生成する可能性のある強いaṅhāāra(abhisaṅkhāraと呼ばれる)を生成することはできません。家を建てることは、カルマ・エネルギーとしては単なる中立的な行動です。
•ただし、たとえば、人間を殺す計画には、manōsaṅkhāraとvacisaṅkhāra(計画段階)が含まれ、その後kāyasaṅkhāraでそれを実行します。
•この場合、それらすべてのsaṅkhāraはabhisaṅkhāraであり、動物界を含むapāyāでの転生という形で、将来の悪いkammavipākaをもたらす可能性があります。
6. Abhisaṅkhāra (potent or strong saṅkhāra)
give rise to kamma bija,
which are also part of dhammā. These are energies that
were created by javana citta; see, “Javana of a Citta – The Root of
Mental Power.” They can
bring kamma vipāka.
Therefore, now a new life is formed as a result of that abhisaṅkhāra. This new lifeform is also a sankata because it arose due to that abhisaṅkhāra.
Abhisaṅkhāraは強いSaṅkhāraです
6.Abhisaṅkhāra(力を持つ、すなわち強いsaṅkhāra)は、dhammāの一部でもあるkamma bijaを引き起こします。これらは、javana cittaによって作成されたエネルギーです。Javana of a Citta – The Root of Mental Powerを参照してください。kamma bijaはkammavipākaをもたらすことができます。
•ただし、一部のdhammāにはエネルギーがありません(たとえば、nāmagotta。これは単なる記憶の記録でもあるdhammāです)。
•死の瞬間、そのような強いkamma bijaや Dhammaは“manañca paṭicca dhammē ca uppajjāti manōviññāṇaṃ.”を介して頭に浮かびます。その新しいviññānaが新しい人生のpatisandh viññānaです。
What are rūpa? – Dhammā are rūpa too!
•したがって、そのabhisaṅkhāraの結果として、新しい人生が形成されます。そのabhisaṅkhāraのために生じた新しい生命体はsankataでもあります
7. That sankata came to existence because of
that abhisaṅkhāra during
that immoral act. It came to life at a later time
via kamma vipāka.
That house in #3 was built using existing rūpa. But it is also possible to “create” new matter if one has abhiññā powers. Both are called sankata.
7.その不道徳な行為の最中に、そのabhisaṅkhāraのためにそのsankataが誕生しました。それはkammavipākaを介して後に生まれたのです。
•道徳的なabhisaṅkhāraすなわちpuññaabhisaṅkhāraは、良好なkamma bija /dhammāにつながり、人間、dēva、およびBrahmaの領域での良好な転生につながります。
•不道徳なabhisaṅkhāraすなわちapuññaabhisaṅkhāraは不良なkamma bija /dhammāにつながり、(apāyāsでの)不幸な転生につながります。
•それが心と物質のつながりです。心に浮かんだabhisaṅkhāraはrūpa(不活性物質でできている)であるsankataにつながった。
•#3の家は既存のrūpaを使って建てられました。しかし、abhiññāのパワーがあれば、新しい物質を「創造」することもできます。どちらもsankataと呼ばれています。
8. Any rūpa (including visible objects,
sounds, smells, tastes, and body touches) that we experience in this world is
a sankata,
and they all undergo unpredictable change and eventually are destroyed; see, “Root Cause of Anicca – Five Stages
of a Sankata.”
The only difference is that one will be subjected to much suffering in the apāyā, while one will get to enjoy a “good life” in a higher realm. We all have been going through this “unending journey through most of the 31 realms,” which does not have a traceable beginning.
すべてRūpaはSankata
8.私たちがこの世界で経験するすべてのrūpa(目に見える物体、音、臭い、味、身体の接触を含む)はsankataであり、それらはすべて予測できない変化を受け、最終的には破壊されます。
Root Cause of Anicca – Five Stages of a Sankataを参照してください。
•重要なのは、行動、スピーチ、思考を通じて私たちは未来を作っているということです。これらは(abhi)saṅkhāraです。
•ただし、これらの新しいsankataのどれもが永続することはありません。dēvaやBrahmaの領域で生まれたとしても、そのカンマのエネルギーはいつかなくなるでしょう。次に、その時点で存在する最も力を持つkamma bija /dhammāに応じて、次の誕生に誘導されます。
•唯一の違いは、人はより高い領域で「良い生活」を享受できるようになる一方で、他方はapāyā,で多くの苦しみを受けることになります。私たちは皆、「31の領域のほとんどを通る終わりのない旅」を経験してきました。
9. Another critical point is that the net result of all these
“journeys through various realms” is suffering. That is because we tend to do more
immoral things in “seeking pleasure” and are born mostly in the apāyā.
That is why it is said that “Sabbē saṅkhāra aniccā.” It is there because any sankata (that arise due to abhisaṅkhāra) has a finite lifetime, and is subjected to unexpected changes (viparināma) during that existence.
Rūpa(Sankata)で好きように維持できるものはない
9.もう1つの重要な点は、これらすべての「さまざまな領域の旅」の最終結果が苦しみであることです。それは、私たちが「喜びを求める」ことでより不道徳なことをする傾向があり、主にapāyāで転生するからです。
•私たちが自分のために作ったいかなるsankata(家であれ、dēva領域での新しい生活であれ)は、長期的には満足を維持できません。家は修理が必要で、焼失したり浸水したりすることもあります。 dēvaの領域での新しい生活はいつかは終わり、ふりだしに戻ります。
•それが「Sabbē saṅkhāra aniccā」と言われている理由です。そこにあるのは(abhisaarisekhāraによって発生する)いかなるsankataには有限の寿命があり、その存在中に予期しない変更(viparināma)を受けるためです。
10. When we don’t get to maintain things to our satisfaction, we
suffer. Even if one makes a billion dollars, and has a lovely family, one will
have to leave all that behind when one dies. But even before that, there could
be many other instances where one suffers (deaths of friends/family, diseases,
loss of property, etc.). That is the viparināma nature
that arises due to anicca nature.
Again, sankhārā are our CURRENT thoughts; as soon as those thoughts go to the past, they become nāma gotta or memories.
Aniccaの性質が苦しみを導く
10.物事を満足するように維持できなくなると、苦しみます。たとえ10億ドルを稼いでいて、素敵な家族がいるとしても、人が亡くなったとき、そのすべてを残さなければなりません。しかし、その以前でさえ、他の多くのケースで苦しむ可能性はあります(友人/家族の死、病気、財産の喪失など)。それはaniccaの性質のために発生するviparināmaの性質です。
•そして、その苦しみの根本的な原因はsaṅkhāra(より正確にはabhisaṅkhāra)です。 「Sabb Sasaṅkhāra dukkhā」と言われるのはそのためです。
•繰り返しますが、sankhārāは現在の考えです。それらの考えが過去に行くとすぐに、それらは、nāma gottaすなわち記憶になります。
11. The only thing not destroyed is nāma gotta,
which are just records of
“all events” (saṅkhāra and abhisaṅkhāra)
of any given lifestream; see, “What Reincarnates? – Concept of a
Lifestream“.
All these different terms could be confusing at first. They will all make sense eventually, because they are all pieces of a big puzzle.
11.破壊されないのはnāmagottaだけです。これは各々の生命流動体の「すべてのイベント」(saṅkhāraおよびabhisaṅkhāra)の単なる記録です。What Reincarnates? – Concept of a
Lifestream
•これらすべての異なる用語は、最初は混乱する可能性があります。それらはすべて大きなパズルのピースなので、最終的にはすべて意味をなすでしょう。
12. Ven. Walpola Rahula Thero, in his
famous and otherwise excellent book, “What the Buddha Taught,” did not get
it right when he interpreted those verses. He included Nibbāna in dhammā (p.
57 of 1974 edition). He
took the difference between dhammā and saṅkhāra to be Nibbāna.
However, there are many dhammā other than kamma bija, and the only abhisaṅkhāra lead to kamma bija. But both saṅkhāra or abhisaṅkhāra lead to memory records or nāma gotta. Also, dhammā includes concepts and even Buddha Dhamma.
Nibbānaにはdhammāがありません
12. Walpola Rahula Thero尊者は、彼の有名で優れた本「仏が教えたこと」で、ある節の解釈を正しく理解していませんでした。それはdhammāの中にNibbānaがあると解釈していました。(1974年版の57ページ)。彼は Dhammaとsaṅkhāraの違いをNibbānaと考えました。
•ご覧のとおり、saṅkhāraとdhammāは2つの異なる独立体です。 Saṅkhāraは心の中で生成されるものです。
•強いsaṅkhāraまたはabhisaṅkhāraはカルマ・エネルギーの創造につながり、それはdhammāすなわちkamma bijaです。
•kamma bija以外にも多くの Dhammāがありますが、abhisaṅkhāraだけがkamma bijaにつながっています。しかし、saṅkhāraとabhisaṅkhāraはどちらも記憶の記録すなわちnāmagottaにつながります。また、dhammāは概念、さらには仏法も含みます。
13. Furthermore, Nibbāna does
not belong to this world. Therefore, to
say Nibbāna is anatta is a terrible mistake. There
are four ultimate realities (paramatthathō): Thoughts (citta), mental
factors (cētasika),
matter (rūpa),
and Nibbāna.
Furthermore, anatta is also mistranslated as just “no-self.” The problems with the traditional interpretation of anicca, dukkha, anatta discussed in “Anicca, Dukka, Anatta – Wrong Interpretations.”
さらに、Nibbānaはこの世界に属していません。したがってNibbānaがanattaであると言うのは恐ろしい間違いです。 4つの究極の現実(paramatthathō)があります。思考(citta)、メンタルの要因(cētasika)、物質(rūpa)、およびNibbāna。
•「この世界のすべて」は、最初の3つで説明できます。Nibbānaは「この世界」に属していません。
•さらに、anattaも単なる「無我」と誤解されています。 anicca、dukkha、anattaの伝統的な解釈の問題は、Anicca, Dukka, Anatta – Wrong Interpretationsで説明されています。
14. When we do abhisaṅkhāra (strong types of saṅkhāra),
that lead to the formation of good or bad kamma bija,
or dhammā.
That strong kamma bija can
lead to the arising of a sankata (living beings and even
inert things).
And nāma gotta (pronounced “nāma goththā”) are just records of what happened.
NāmaGottaは永続する
14.私たちがabhisaṅkhāra(強いタイプのsaṅkhāra)をするとき、それは良いまたは悪いkamma bija、すなわちDhammaの形成につながります。その強いkammabijaは、sankata(生き物や不活性なもの)の発生につながる可能性があります
•nāmagotta(発音は「n gomagoththā」)は、何が起こったのかについての単なる記録です。
15. Unlike saṅkhāra, kamma bija, and sankata, nāma gotta are
PERMANENT (they are only records). As stated in the “Najīrati Sutta (SN
1.76)“: “Rūpaṃ
jīrati maccānaṃ, nāmagottaṃ na jīrati,” or
“material things decay and get destroyed, but nāmagotta do not decay.”
Someone who has
developed abhiññā through anariya jhānā can
trace back that nāma gottā
for several past lives. But with well-developed abhiññā powers,
a much deeper history can be probed. A Buddha can trace back as far back
as he pleases with astonishing speed. (Yet he could not see “a beginning” to
any sentient being’s nāma gotta.
That is why there is no traceable beginning to the rebirth
process.)
15.saṅkhāra、kamma bija、sankataとは異なり、nāmagottaは永続します(これらは単なる記録です)。
Najīrati Sutta (SN 1.76)で「Rūpaṃ jīrati maccānaṃ、nāmagottaṃ na jīrati」すなわち「物質エネルギーは崩壊して消滅しますが、nāmagottaは崩壊しません。」
•そのため、abhiññāのパワーを持つ者は、いつでも過去の出来事を呼び出すことができます。
Recent Evidence for Unbroken Memory Records (HSAM)も参照してください。
•何かを実行する(saṅkhāra )たびに、その「記録」nāmagottaが作成されます。したがって、各々の感覚体は、始まりのない時間からのすべての活動の記録があり、それがnāmagottaです。すべての過去世と過去のすべての活動は、映画のリール(もちろん、物理的ではない)のように、「記録の流れ」になっています。
•anariya jhānāを通じてabhiññāを開発した人は、いくつかの過去世のnāmagottāをたどることができます。しかし、よく発達したabhiññā力を使用すると、はるかに深い歴史を探ることができます。釈尊は驚くほどの速さで好きなところまでさかのぼることができます。 (しかし、彼はどの感覚体のnāmagotta にも「始まり」を見ることができませんでした。そのため転生プロセスには追跡可能な始まりがありません。)
16. It is easier to explain this “nāma gotta”
with an example. Let us take two popular US presidents, John Kennedy, and
Ronald Reagan. Their “physical bodies” are no longer with us, i.e., their “rūpa”
or physical bodies (which
were sankata) decayed long ago. But
their nāma gotta are
with us to a certain extent. How much of their memories or “nāma gotta”
remains with a given person depends on how closely that person associated with
them. The moment we say, “John Kennedy” or “Ronald Reagan,” their picture comes
to our mind. Not only that, those who met them may remember that vividly and
probably can recall that event just like watching a movie.
What can be done with abhiññā powers is very similar. The abhiññā capabilities enormously stretch the memory or the ability to “look back” at past events in one’s nāma gotta.
16.このnāmagottaを例に説明すると簡単です。2人の人気のあるアメリカ大統領ジョン・ケネディとロナルド・レーガンを取り上げましょう。彼らの「肉体」はもはや私たちの世界にはありません。つまりrūpaすなわち肉体はsankataとして、とっくの昔に消滅しました。しかし、彼らのnāmagottaはある程度までは私たちと一緒です。彼らの記憶すなわちnāmagottaがどれだけ残っているかは、各自が彼らとどの程度密接に関連しているかによって異なります。ジョン・ケネディやロナルド・レーガンと言った瞬間に、彼らのイメージが思い浮かびます。それだけでなく、彼らに会った人は、映画を見ているように、その出来事を鮮やかに、そしておそらく思い出すことができます。
•同様に、私たちは私たちの生活の多くの「出来事」すなわちnāmagottaの一部を思い出すことができます。一部の幼い子供は、前世のnāmagottaであるいくつかの出来事を覚えています。
•abhiññāの力で実行できることはこれに非常に似ています。 abhiññāの機能は、記憶すなわち、nāmagottaにある過去のイベントを振り返る能力を非常に拡張します。
17. We are subjected to suffering because we make saṅkhāra (or
plans), and since they do not work out in the LONG RUN. Therefore,
those saṅkhāra lead
to dukkha at
the end, and thus to helplessness in the long run (anatta).
But there is nothing substantial to be had with dhammā too; they are also anatta.
Anattaの性質
17.私たちは、saṅkhāra(すなわち計画)を作成しますが、長期にわたってはうまく機能しないので、苦しみを受けています。したがって、それらのsaṅkhāraは最後にdukkhaにつながり、結果的に長期的には助けになりません。(anatta)。
•しかし、nāmagotta、すなわち他のタイプのdhammāは苦しみにはつながりません。したがってdhammāにはaniccaやdukkhaの特性はありません。
•しかし、dhammāに本質的に必要なものは何もありません。それらも彼らもanattaです。
18. The Buddha’s last words were, “Vaya dhammā
saṅkhāra, appamādena sampādēta.” Everything in this world
(including saṅkhāra) is dhammā. Only “saṅkhāra are vaya dhammā, i.e., those
that lead to one’s demise (i.e., lead to adverse outcomes). Therefore, the
Buddha instructed us to “sort out such ‘san’ without delay” (“san”
“pādēta,” which rhymes as “sampādēta“).
Thus the Buddha was admonishing the bhikkhus that all saṅkhāra are “vaya dhammā” (those leading to adverse outcomes), and therefore to comprehend what saṅkhāra are.
18.釈尊の最後の言葉は、「Vaya dhammā saṅkhāra、appamādena sampādēta」でした。この世界のすべて(saṅkhāraを含む)はdhammāです。そしてsaṅkhāraはvaya dhammā、すなわち、終焉につながる(つまり、悪い結果につながる)だけです。したがって、釈尊は私たちに「そのようなsanを遅滞なく整理するように」と指示しました(「san」+「pādēta」は「sampādēta」と韻を踏みます)。
•「vaya」は破壊を意味します。ここでは、自分の未来を破壊することを意味します。saṅkhāra とはvaya dhammāなのです。
•Sankhārāには3つのタイプ(manō、vaci、kāyasaṅkhāra)があり、sansāraを拡張するための「san」につながります。What is “San”? – Meaning of Sansara (or Samsara)
•したがって、釈尊はすべてのsaṅkhāraがvaya Dhamma(有害な結果をもたらすもの)であること、したがって、saṅkhāraが何であるかを理解することを比丘たちに警告していました。
19. In the “Najirati Sutta (SN
1.76)“, the nature of nāma gotta is
clearly stated:
The “rūpa” of those two US presidents we mentioned earlier have decayed and gone. But their nāma gotta remain with us. We can access our nāma gotta with memory. Someone with abhiññā powers can look at a complete nāma gotta not only spanning a current life but also going back to many lives. All of our nāma gotta, back to beginning-less time, are there whether accessed or not.
19. Najirati Sutta (SN 1.76)では、nāmagottaの性質が明確に述べられています。
•「Rūpaṃ jīrati maccānaṃ、nāmagottaṃ na jīrati」すなわち「物質エネルギーは崩壊し、死すなわち破壊しますが、nāma gottaは崩壊することはありません。
•前に述べた2人の米国大統領のrūpaは老朽し、なくなっています。しかし、彼らのnāmaは私たちに残ります。私達は記憶で各自のnāmagottaにアクセスできます。 abhiññāの力を持つ人は、現世だけでなく、多くの過去世に戻ることができる完全なnāmagotta を見ることができます。私たちのすべてのnāmagotta は、アクセスの有無にかかわらず、始まりのない時間に戻っていきます。
20. Dhammā — in
the general sense –are causes
that we create ourselves for the future and will bring NET
suffering. Thus, they are without any substance. Nāma gotta and paññāti or
concepts are also without any substance. They are all anatta. There is no point
in “hanging on to them.”
More information on the
connection between dhammā, kamma bīja,
and patisandhi viññāna is
at, “Dhammā, Kamma, Saṅkhāra, Mind – Critical Connections.”
20. 一般的な意味では、Dhammāは、私たちが未来のために自分自身を作成し、最終的には苦痛をもたらす原因です。したがって、それらには実質がありません。 Nāmagottaとpaññātiすなわち概念にも実質はありません。それらはすべてanattaです。 それらに「掴まっても」意味がありません。
•Nibbānaを達成することを可能にするBuddha Dhammaでさえ、最終的に(Arahanthoodで)放棄されるべきです。ブッダは、仏法を川を渡るのに使用するいかだと比較しました。川を渡ると、いかだを背負っていても意味がありません。ですから、仏法でさえ、Nibbānaに到達するまでの価値しかありません。
パーリ仏典経蔵中部第22経『蛇喩経』: Alagaddūpama-sutta,
筏は法dammaの喩えで、涅槃という目的の達成のために法に依拠すべきであるが、目的達成後は法を捨て去るべきであり、法に執着してはならないと説く
パーリ語経典長部の『大般涅槃経』Mahaaparinibbaana Sutta(nta)
川は渇愛(taṇhā)、筏や橋は聖道(ariyamagga)の隠喩
•「この物質的な世界のすべてをあきらめる」ことによって達成されるNibbānaのみが、attaすなわち「価値のある」ものです。Anatta – the Opposite of Which Atta?” と“Dasa Akusala and Anatta – The Critical Linkを参照してください。
dhammā、kammabīja、およびpatisandhi viññānaの間の関係性の詳細についてはDhammā, Kamma, Saṅkhāra, Mind – Critical Connectionsを参照してください。
Manōpubbangamā Dhammā..
May 5,
2018; revised August 22, 2019; November 17, 2019
Manō pubbangamā
dhammā Manō
pubbangamā dhammā
manō setthā manōmayā
manō setthā manōmayā
manasā cē padutthēna
manasā cē pasannēna
bhāsati vā karoti vā bhāsati
vā karoti vā
tatō nam dukkhamanvēti tatō nam sukhamanvēti
cakkamva vahatō padam. chāyāva
anapāyani.
(Dhammapada
verses 1 and 2)
1. These two verses encompass the critical idea in Buddha
Dhamma: That mind is at the forefront. This whole world is made of the mind and
has the mind as the basis for everything.
The mind creates those Dhammā with thoughts (saṅkhāra.) That requires a lengthy explanation: “Worldview of the Buddha.”
1.この2つの節は、仏法の重要な考え方を網羅しています。マインドが最前線だと説いています。
この全世界はマインドから成り立っており、すべての基礎がマインドであると。
Manō は、もちろんマインドのことです。Dhammā(複数形なので仏法ではない)は、マインドが(javana powerによって)生成するエネルギーです。
Dhammāとは、「Dhammāによってすべてが生じる」という「産む」という意味です。
これらのdhammāは、生きているか生きていないか(不活性)に関わらず、この世界のなにもかも(すべての現象)を発生させます。この分析は、深いレベルまで至ることになります。
その基礎については、What are rūpa? – Dhammā are rūpa too!を参照してください。
Pubbangama(pubba先、前 + anga)は、「最初に来るもの」を意味します。
(両方の節の)最初の行では、マインドはこの世界のすべてを産み出しているすべてのdhammāを創造すると書いてあります。
2行目は、すべてが準備され(settā)、マインドの物質化現象(manōmayā)である、と言います。
マインドは思考(saṅkhāra)でDhammāを創造しています。
これには説明が必要です。Worldview of the Buddha
2. Depending on whether
one speaks (bhāsati) and acts (karōti) with a defiled (padutta)
or a pleasant (pasanna) mind, those dhammā that are generated by the mind lead to (tatō nam) suffering
(dukkhamanvēti), or happiness (sukhamanvēti).
In the case of a pleasant, moral mind (acting with alōbha, adōsa, amōha), happiness will follow one just as one’s shadow follows oneself (chāyāva anapāyani).
2.汚い(padutta)または快い(pasanna)マインドで話したり(bhāsati)行動する(karōti)かによって、マインドによって生成されるdhammāは苦しみ(dukkhamanvēti)または幸福(sukhamanvēti)に至る(tatō nam)。
汚れたマインドの場合(lōbha、dosa、mōhaで行動する)、荷車の車輪が引っ張っている牛の足跡をたどるのと同じように苦しみが続きます(cakkamva vahatō padam)。
気持ちの良い、道徳的なマインドの場合(alōbha, adōsa, amōhaで行動する)、影が自分を追うように幸せが続きます(chāyāva anapāyani)。
3. These two verses can be interpreted in a mundane way, as
outlined in #2 above. Any given task done with an un-defiled mind will always
lead to a pleasant and joyous state of mind.
The first several subsections of the “Living Dhamma,” discuss the fundamental aspects. That provides the background needed to go to the deeper issues discussed in the latter subsections there.
3.上記の#2で概説したように、これらの2つの句は普通に解釈できます。汚れていないマインドで行われたタスクは、常に気持ちの良い楽しい状態につながります。
より深い解釈があります。汚いマインド(lōbha、dōsa、mōha)で行われた思考、言論、行動は、apāyāsでの転生につながり、ひいては厳しい苦痛につながる可能性があります。気持ちの良いマインド(alōbha, adōsa, amōha)で行われたものは、「良い領域」での誕生につながり、最終的にはすべての苦しみの終わりであるNibbānaに至ります。
Living Dhammaでは、基本的な内容について説明しています。これは、後のトピックで説明されているより深い問題に進むために必要な背景を提供しています。
4. Now we can loosely translate the two verses as follows:
4. 2つの節を次のように大まかに翻訳できます。
マインドがすべての現象の先がけとなります。
現象はすべて、マインドによって作られたものです。
邪悪なマインド(すなわち、dasa akusalaに関わる)で話すか行動すると、
荷車の車輪がそれを引く牛の足跡をたどるのと同じように苦しみ(dukha)が続きます。
すべての現象はマインドがその先がけとなります。
すべてはマインドによって作られたものです。
純粋なマインド(すなわち、dasa kusalaとpuña kammaに関わる)で話すか行動すると、
幸福(sukha)は自分の影のように従います。
これが「nirāmisa sukha」の根源で、最終的にNibbānaに至ります。
Kammaja
Rupa in Theravada glossary
Source: Journey to Nibbana: Patthana Dhama
There are kamma that can cause kammaja rupas. These kamma are 12 akusala kamma, 8 kamavacara kusala kamma, and 5 rupavacara kusala kamma altogether 25 kamma can
cause kammaja rupas or rupas generated by kamma.
Source: Pali Kanon: Manual of
Buddhist Terms and Doctrines
'karma-produced corporeality'; s. samutthāna.