Rūpaと五蘊の色Rūpakkhandha

 

 

はじめに            rūpaとは?

準備                  すべての分類               霊魂心体

霊とエネルギー           sankata  dhammā          魂と心と身と体

rūpaの生成プロセス        ビッグバンと仏法              無から有へ

rūpaの段階と種類         物質界とマインド界            有から無へ

rūpaの密度と苦しみ

Rūpakkhandhaの特徴     2つの違い RūpaRūpakkhandha

参考文献

 

 

 

物質の起源

すべての物質が何らかの方法で創造されたことを受け入れる場合、物質の起源とは何でしょうか?

宇宙のすべての問題は、約140億年前の「ビッグバン」で発生したと考えられています。

科学者はビッグバン後のほんの一瞬から宇宙の進化を計算できますが、物理学はビッグバンの前に何が起こったかを説明することはできません。

そして多くの科学者は「ビッグバン理論」を信じていますが、まだ完全には確認されてはいません。

一部の科学者は、ビッグバンですべてが突然「出現した」したとは考えていません。

彼らは、宇宙は周期的であると考えています。

それらは変化し進化しているということです。たとえば、P.J. Steinhardt and N. Turok2007)の「Endless Universe-Beyond the Big Bang」を参照してください。

科学は物質エネルギーの数値化によって成り立つ世界観でこの世をマッピングする努力を続けています。

対して体感派は、自分自身で感じたことを基準にして、この世をマッピングしているので、

切り口(知)が違うので、そこから生じる知識も違うものになります。

 

では物質の起源とこの世の起源は同じものなのでしょうか?

体感派は科学派(仮説派)とは違う切り口を使って、この世を体感します。

 

体感派は一般的には宗教者と呼ばれる人たちのこの世の理解の仕方です。

パーリ語経典では、この世界の(一時的)実在の種類を4つに区分しています。

これを勝義諦 paramattha saccaと呼ぶのですが、それは、数学でいう2つの直線が交わるところを点と呼ぶ、などといった公理と同様、絶対の前提条件です。

ですから仏教の話を聞くならばここから受け入れるしかありません。

ピンとこないのならばやめるしかありません。たとえば、数学が嫌ならば教科書を開けなければ良いように。

 

 

4つの究極の現実(paramatthathō):勝義諦

パーリ経典では世界を以下の4つに分けます。

 

Nibbāna           エネルギーのない世界 

本来の「わたし」(citta)   (ātmanchittaの複合体) 「いのち」と記録

メンタル的要因(cētasika)  いろいろな心の様子  意識のあるエネルギー世界

物質(rūpa)、        意識のないエネルギー世界

 

 

「私」という概念をさらに分解して、実際に経験に生じている cittacetasikarūpa を直接観察するための土台になります。

例えば「怒っている私」を考える場合、paramatthaの分析では「私」という一つの実体として扱わずにcittacetasikarūpaに分析します。

怒りは、怒りに伴う心+dosaなどのcetasika+身体に生じるrūpa+それを認識する過程、に分解していきます。

すると「私が怒っている」から「怒りを伴う心的現象が条件によって生じている」へと見方が変わります。

 

paramattha saccaは、「世界の究極的な構成物を理論的に発見する」という意味ではありません。

Theravāda Abhidhammaの文脈では、概念(paññatti)を離れて、経験を究極的な法の単位で分析するための枠組みです。

 

paramattha的に見ると、rūpaとしての身体現象とvedanāなどのcetasikaとそれを知るcittaという具合に、経験を構成している法を区別できます。

すると、例えば「手が痛い」「私の痛み」という巨大な一塊だったものが、「生じているrūpa」「それに伴うvedanā」「それを知るcitta」へと変わり、「私」というのは概念的な統合・名称として成立しているものであって、paññattiとしての「私」と、実際にその瞬間に生じているparamattha dhammaを区別できるようになります。

通常は、私 対象を見る 快・不快を感じる 私が選択する、と考えますが分析すると、

rūpaviññāavedanāsaññāsakhāra / cetanājavana……という条件によって生じるプロセスとして見えてきます。

これがヴィパッサナーの実践で役に立ちます。

vedanācetasikaである」と暗記しても、その瞬間に生じているvedanāaniccaとして直接観察できなければ、それは単なる知識です。ヴィパッサナーは、その解体された現象を「生じては消えるもの」として直接観察します。

 

 

二重構造の現実        人が決めたルールの世界と天国から見た世界

世俗諦の根底にある勝義諦

世俗諦 sammuti sacca    

そのように決まっているから、それをルールとして認めることにしようという世界

英語でいうconventional truthのことで、common senseではない。

常識ommon senseとは共通感覚を仮に設定した分別のことであるのに対して、

conventional truthとは、はじめから無理があり正しくはないけれどみんなで決めたルールなので、そこに徹底的な真実・真理・論理的根拠がないことをあらかじめ理解している。

つまり、みんなで決めたからできたものであって、それに従うのをルールと仮定した世界観。

この世は変化し続ける存在なので、カタチを基準にした真実などあるはずがなく、

カタチになった科学や言葉など世の中の全ては世俗諦に属する。

   

人の理屈(論理の回路)はそれぞれ違うので、解釈も異なり、結果的に各自の判断も人によって異なる。

このような真実とはTPOによって変化するもの。

次々と科学の真説は現れるが、そのデータは事実であるが、解釈は各自にとって違う理由は、その科学の説の因果関係の原因は何百もあるものから少数を限定して作り上げたものなので、実際にはどのような因果関係なのか特定することができないので、一番データに近いものが表示される因果関係式を作り上げたのが科学であるので、あくまでも近似値でしかない。

また解釈はその一面でしかないので、科学が証明した因果関係は数十年ごとに更新される。

たとえば物質がエネルギー、分子、原子、電子、中性子、素粒子、量子の場、と変化していったように。

言語界の例えでは、平和と自由と公平と理性の愛好家たちは、その外側にある世界を見ないことで、世俗諦で暮らすことができる。

 

五感覚器官と脳で認識したものを、私たちは知っているつもりでいるが、それらはすべて五感覚器官という粗雑な粒子を感覚信号として構築した感性であり、そのデータを認識を基にして作り上げたものなので、その奥にある微細な元素の流れや全体性を捉えることなく理論や数値化をしたものなので、物質から見れば一時的事実だが、「いのち」から見れば、ただの妄想である。

 

一応そこにあるように言葉(世間のルール)を理解せよと釈尊は説いた。SN 1.25 

世間の言葉を使うのと、世間的な実体論を信じるとは異なることものである。

また、「全ては「空」であり、実体はない」と言わないのは、瞬間的にしか成り立たない事実なので、もしそこに基準点を置けば、なんの区別もつかなくなる世界になるが、それは言葉という区別を基準にする世界の表現には相応しくないからである。

    

勝義諦 paramattha sacca   parama 勝 + attha 義(意味)

parama[adj] superior best excellent

attha[m] welfare; gain; wealth; need; want; use; meaning; destruction.(attha pres2nd pluof atthi.)

優れている究極の真実

変化し続ける世俗諦を徹底的に分解すると行き着く究極の終点  

物質から量子、そしてエネルギー体、そして霊界、そして涅槃

「言葉」という世俗諦を使ってしか、勝義諦のことは説明できない。    

これが勝義諦だと説明しても、その説明は世俗諦でしかない。

 

 

勝義諦からみたこの世は4つの区分だけ    Abhidhammattha Sagaha、摂阿毘達磨義論

Tattha vutt' abhidhammatthā - catudhā paramatthato

Cittam cetasikam rūpam - Nibbānam' iti sabbathā.

 

原文はvutt' abhidhammatthā なのかvuttābhidhammatthā

Nibbānam' なのかNibbāna

サンディ(連声)と写本・転写上の表記を分けるとすっきりします。

vutt' abhidhammatthā ではなく、語としては vuttābhidhammatthā

Nibbānam' iti ではなく、形としては Nibbānam iti、正規化すれば Nibbāna iti

 

ここに言われるアビダンマの義は、勝義としては、全部で「心」「心所」「色」「涅槃」の4種類である。

 

Citta   心  認識機能

認識する働き、すなわち認識機能のこと。 5つの感覚器官と意識の6種類の認識する働き

内外の物事を感じ、気づき、察知する働き

 

Cetasika  心所   認識と一緒に生まれる感情   心に生まれる状態

花を見れば、見る働きで認識する(citta)だけではなく、きれい、だとか嫌いだとか、それを限定する感覚が伴い、心の感情が変化する。いろいろなものが心に生まれる。明るさ、喜び、悩み、苦しみ、眠気などあらゆる感情がすべてCetasika

「覚りの智慧」も心に生まれる状態なのでCetasika

善悪に関わらず心に生まれる一切の感情

 

rūpa    色    認識するための機械

認識するための機械である物質 内側の身体、外側の物質

内側の主観的な物質である身体と外側の客観的な物質である現象の二種類がある。

 

rūpaは固体物質ではなく、単なるエネルギーです。

たとえばrūpaの1つであるdhammaは無色界では普遍エネルギー、色界では意識エネルギー、欲界では概念法則という多層の側面があります。

したがってrūpaは「物質」と翻訳するよりもエネルギーのほうが適していると想います。

ただし、無色界というように、色rūpaを否定する領域があることから分かるように、色rūpaは宇宙の普遍的なdhammaエネルギーは含まないので、重力を持つエネルギーのことを色rūpaと訳するのがいいかもしれません。

意外かもしれませんが、重力を持つエネルギーとは、意識エネルギーが含まれます。

またダークマターも重力を持つエネルギーです。

どちらもこれらのエネルギーが充満して、凝縮することで、物質エネルギーになります。

そして物質エネルギーが充満して、凝縮すると、物質になります。

 

31領域

エネルギー

構成単位

特徴

無色界

無色

普遍エネルギー

dhamma

ダークエネルギー

色界

重力エネルギー

bhūta

重力がある   ダークマター、意識

欲界 天界

物質エネルギー

細かいdhātu

電気 強い力   

欲界 人間界

物質

粗いdhātu

 

 

 

この3つが勝義諦の真実であり、この3つの別名はloka-sacca 世間諦で、この世はこの3つだけで、それ以外はない。この中で生きている存在が我々だというのが勝義諦の真実である。

もし、この3つの働きが止まったら、この世間諦から離脱することになり、それをlokuttara-sacca出世間諦という。

認識機能が止まった時空なので認識できない。

 

Nibbāna   涅槃

上記の3つの常変を体感することで、何ものにも囚われる意味などはないという智慧の感情が生まれる。

すると、そこで体験する世界の状態がある。それが涅槃である。

 

実践方法 

 ヴィパッサナー瞑想で、認識機能を一つづつ察知していく。ものごとそのものを感じるのではなく、見えている、聞こえている、という見る機能、聞く機能そのものを気づき続ける。

たとえば、ある音(鶯の鳴声)があって、それが聞こえた、そうしたら心が反応して反応(嬉しさ)が生まれてきた、という一つづつの事実関係を把握することで、認識の仕組みを体で(クセとして)納得し続ける。

このような認識の仕組みが常変でありことを体感し続けると、心が変化する。

この変化のほんの瞬間において、現象から離脱する状態を体感する。

この瞬間が涅槃である。

だから認識の外側にあるものなので、日常の五感器官とマインドによる認識能力では捉えることができないものである。

 

勝義諦   citta心とは「認識する機能」

定義  ārammaa-vijānana-lakkhaa-citta  

ārammaa対象-vijānana(分割して)知ること-lakkhaa性質(本性)-citta(心)

対象を知る(認識)本性がcittaである。

 

たとえば、ヒトには見えるという機能があり、それで見るという認識すなわち視覚という認識が起こる。

これがcittaである。

 

「認識する機能があるもの」のことを心があるもの、それを生命と呼ぶ。

生命とは認識するもののこと、そうでないと生命とは言えない。

認識する機能という角度でみると、生命は一つ。

認識するから「生命」が誕生するのであって、「生命」というものがあるのではない。

認識する機能はずっと休みなく続いているので、それらを世俗諦として仮に「生命」と呼んでいるにすぎない。

「生命がある」という世俗諦を勝義諦と勘違いして、生命を探しては、科学で定義しようとしている。

認識はただの働きであり、エネルギーの流れである。

「私」が認識しているのではなく、エネルギーの流れを「私」と仮に呼んでいるにすぎない。

 

私見によればcittaは「ただ観る機能」であり「いのち」でありエネルギーを持たない。

仏教は我がないことを教義におくので、説明するための枠組(喩え)である。。

アメーバーもウイルスも生存できる環境を判断し、反応しているので、cittaのある立派な生命である。

生命の定義は認識する機能があることで、この機能をcittaという。

しかしcittaという「物」はない。ただの働きであるからだ。

 

 

Nibbāna

「この物質的な世界のすべてをあきらめる」ことによって達成されるNibbānaのみがattaすなわち「価値のある」もの

 

Nibbānarūpa

(三相を把握した後に)この転生プロセスの危険を見ると、abhisankhāraを介して原因を作ることをやめ、そして、欲求や愛着(tanhā)を放棄します、これがNibbānaに導きます。

 

Nibbānaは、これらのすべての原因が取り除かれた場合に発生し、そこにはrūpaはもう発生しません。したがってNibbānaは永続的です。もう苦しむ必要はなくなる。

Nibbānaにはdhammāsankataもエネルギーもない。

sankataとは、san足されたもの(によって)+kata作られたもの、が語源です。

 

 

世界の区分の仕方

上記のように、パーリ語仏典ではこの世界をnibbāna citta cetasikarūpaの4つに分類する。

 

 

伝統的な日本の概念でいうと、霊と魂と心と物です。

この4つはお互いに影響を与え、相互作用していますが、このように分けて表現することも可能です。

霊とは、大いなるもの、カミさま、などと呼ばれているこの世界にあまねくあります。

魂とは、霊の一部が膜に入った「いのち」とそれによって生じたエネルギーである「知ること」と「光」と「カタチ」です。

心とは魂が物とつながり、架け橋の機能を担当するマインドが玉座にすわるメンタル界のことです。

物とは霊と魂と心によって作られたエネルギーとそれが凝縮されて物質と呼ばれているモノたちのことです。

 

これから先は原典のパーリ語に則して話を進めていきますが、知らない用語で整理しづらくなった時には、上記の霊魂心物に置き換えて理解してみてください。

 

 

まず霊とそうでないものを区分します。

パーリ語の仏教用語ではasankatasankataの違いです。

nibbāna asankata で、cittacetasikarūpasankataです。

 

次に魂と心は、ヨーガ派はAnandamaya koshaManomaya kosha (Manas)Vijñānamaya koshabuddhi)で区分したもので、魂には「本来のわたし」と知ることを補助する機能と記録とカルマの種があり、

心には、魂と物の架け橋になるManasと知るために区切る基準となる「知buddhi」がある。

メンタル界nāma lōka とも呼ばれる

 

次に心cetasika(メンタル界)の外にあるものを物rūpa(物質界)と分けるが、これは目に見える物質だけではなく物質エネルギーも含まれる。

これにはdhammāgatibhūta、 mahā bhūta 、dhātuと段階があるので、後述する。

この段階を知ることで瞑想において次のステップに行くときの参考になる。

 

 

欧米の伝統

spirit

soul

mind

subtle body

body

 

日本の伝統

 

 

 

 

 

 

 

 

H2Oの喩え

大気圏外

大気 分子

水蒸気

 

 

 

 

 

 

 

 

ある都会人の枠組

不可知

不可知

マインド

エネルギー

物質

 

科学界

 

不可知

マインド

エネルギー

物質

 

学問

宇宙論

量子力学

心理学

相対性理論学

物理学

 

 

 

 

 

 

 

 

先住民・賢人

流動体

肉体

 

霊界

霊と微細エネルギー

物質微細エネルギー

物質エネルギー

物質

 

 

 

 

 

 

 

 

パーリ語での仏教

nibbāna

citta

cetasika

 

rūpa

 

ヨーガ派

brahman

ブラーフマンs

parātman

ātman

chitta

ahankāra

buddhi

manas

微細運動器官karmendriya

微細知覚器官

jñānendriya

 

微細元素

tanmātrā

粗大元素bhūta

dhātu

 

ヨーガ派

 

 Anandamaya kosha,

"bliss" sheath (Ananda)

純粋な意識からできている

アーナンダ(歓喜)に満ちた場所

 

Manomaya kosha "mind" sheath (Manas)

(意思鞘)    

感情と思考

Vijñānamaya kosha

Knowing"理智鞘

感情や行動の基準を決定する知性

 

prāamaya kosha

 (生気鞘)       プラーナ

生命エネルギー

annamaya kosha (食物鞘)         

アンナ(食べ物)

からでき、目に見え、触れることのできる身体

  

 

 

パンチャコーシャ

人間五身体説

絶対者

ブラーフマン

アーナンダマヤ

心 heart

マノマヤ

大脳 mind 

ヴィジュナナマヤ 理智、知性

プラーナマヤ

生気

アナマヤ

食物・物質 

 

3身体シャリーラ

カーラナ

スークシャマ

スークシャマ

スークシャマ

ストゥーラ

 

神智学

カミ

コーザル体

アストラル体

メンタル体

エーテル体

肉体

 

霊・幽・肉

霊体

幽体

幽体

肉体

 

 

 

 

 

 

 

 

 

魂の領域の解釈は各派によって異なります。

私見では魂とは、五取蘊のことで、エネルギーのない霊と、エネルギーのない記録namāgottaと、エネルギーのあるgatidhammāエネルギーの集合体で構成されている性向という方向性)の複合体だと仮説してみます。

サンスクリット文化圏ではエネルギーのない霊をātmangatiahankāra(我執)としていますが、上座部仏教は「自己」を認めないので、これらをcittaが含んでいると推察します。

 

 

sankata   abhisankhāraによってできたrūpa物質エネルギー

すべては、sankata もしくは asankataのどちらかです。

sankataには始まりがあり、存在中に予測不可能な形で変化し(viparinama)、最終的には存在しなくなります。

 

asankataには始まりがなく、存在中に変化せず、最終地点もありません。asankataは永遠に続きます。

Nibbanaは、唯一のasankataであり、「この世の31領域」に属していません。

 

この宇宙のすべては、sankataです。つまり、始まりと終わりがあります。

換言すれば、始まりと終わりを繰り返します。

 

アインシュタインは私たちの宇宙は定常状態にあると考えました。

もしそのように証明された場合は、これは仏法と矛盾する可能性があります。しかし今では、この宇宙には永遠に続くものはないことが明らかになっています。そして、すべてが流動的に変化しています。

そして、これは過去100年ほどの間に科学によって確認されました。

しかしビッグバンという始源がある説と終始を繰り返すという説があります。

 

 

SakhSanraSankataを発生させる

私たちが生成するsakhāra(とくにabhisakhāra)は、不活性な対象(物)または生きている形態(人生)の発生につながる可能性があります。

sakhārasankataの発生につながるということです。

 

たとえば、家を建てるというアイデアを想いついた(manōsakhāra)場合、それについて注意深く考え、(vacisakhāra)、決めた場合、それを実現するために行動を起こす(kāyasakhāra)としましょう。

この場合、私たちのsakhāraは家を生み出し、その家がsankataになります。

 

このような強いsankhāraであるabhisankhāraの結果として、新しい人生が形成されていきます。

この新しい人生は、そのabhisankhāraによって生まれたのでsankataでもあります

過去に作った「カルマの種」がアイディアという因果の結果kammavipākaになって、abhisankhāraによってsankataが存在するようになりました

 

見方を変えれば、マインドに浮かんだabhisankhāra(想い、考え、実行)が既存のrūpa(不活性物質のコンクリート、木材、プラスティック、金属)を使ってsankata(家)につながりました。

たとえばabhiññā(集中したJavana citta)の力があれば、新しいモノを「作成」することもできます。

どちらもsankataと呼ばれます。

 

私たちがこの世界で経験するすべてのrūpa(目に見える物体、音、臭い、味、身体の接触を含む)はsankataであり、それらはすべて予測できない変化を受け、最終的には消滅します。

 

私たちは行動、思慮、想いの(abhisankhāraを通じて未来を作っていることがわかります。

ただし、これらの新しいsankataのいずれもが永続することはありません。

dēva(欲界)やブラフマ(色界・無色界)の領域で生まれたものだとしても、そのカルマのエネルギーはいつかなくなります。

すると、その時点で存在する最も強力なエネルギー(kamma bija /dhammā)に応じて、次の転生が誘導されます。

 

私たちが自分のために作ったあらゆるsankatadēva領域の新しい生活であったとしても)は、この世の性質であるaniccāによって長期的には満足できるようには維持することはできません。

dēva領域での新しい生活はいつか終わり、精算されて「生命の集合体」に戻ります。

それが“Sabbē sankhāra aniccā.”と言われている理由です。

abhisankhāraによって発生するどんなSankataにも有限の寿命があり、その存在中にも予期しない変化(viparināma)にさらされます。 

私たちは物事を満足するように維持できなくなると苦しみます。

たとえ1億円の貯金があり、素敵な家族ができたとしても、亡くなるときには、そのすべてから離れなければなりません。また他界する以前にも、多くの場合で苦しむ(友人/家族の死、病気、財産の喪失など)可能性があります。

それがaniccaの性質のために発生するviparināmaの性質です。

 

仏法においては、与えられた「life stream」は、存在する領域(欲・色・無色界)に応じて粗いまたは微細な体を取得しますが、その体がsankataです。その体が死ぬと、life streamは新しい体をつかみます。

life stream」は三蔵ではGandhabbaと呼ばれるもので、文化圏によってはメンタル体、幽体、魂などいろいろな呼び名と解釈があり、中身も類似しているものや異なるものがあります。

 

 

絶えず変化しながら、生から生へと「伝播」しているのは、āsāvas(深層にある渇望つまり本能)、anusaya(煩悩)、gati(メンタル的特性)で、これが常に変化する動的Gandhabbaです。

 

 

 

 

Sankhārā  自動反応回路というパターン化されたアプリ

サンカーラは意識によって生じるもの。

具体的には、ヒトの意図、希望、夢に基づいて想い、考え、話し、行動すること  

私たちは行動、思慮、、想いの(abhisankhāraを通じて未来を作っている。

その苦しみの根本的な原因はsankhāra(より正確にはabhisankhāra)である。

Sabbē sankhāra dukkhāと言われるのはそのためである。

 

サンカーラ(すなわちパターン化された計画)を作成するが、そのサンカーラは長いスパンではうまく機能しないために苦しみに支配されます。

したがって、それらのsankhāraは最後にdukkhaにつながり、そうして長期的でみれば助けようがない無力(anatta)なものです。

 

有名な Dhammapadaの節にあるsakhāra

Dhammapada277278、および279節では、sakhāraおよびdhammāという用語について混乱があります。これらの3節の最初の行は次のとおりです。

 

Sabbē sakhāra aniccā」すなわち「すべてのsakhāraaniccaです。」

パターンというアプリ化されたものは、長期的には満足のいくものとして維持できません、ということです。

換言すれば、長期的に計画するのは無駄だということです。

これは「この世の性質」を語っているのであって、私たちはこの日常生活を送るためには計画を立てる必要があり、短期的にはそれは有効です。

 

Sabbē sakhāra dukkhā」すなわち「すべてのsakhāraは最終的にdukkha(苦しみ、価値がないもの、無用なもの)につながります。」

Sabbē dhammā anattā」すなわち「すべてのdhammā(エネルギーがあるもの)は、最後に実体がありません(実りがなく、無力です)。」

「この世界の特質」を3つの視点で表しているので、漢字仏教用語では「三相」と呼ばれているもので、これを実感して暮らすことが、仏道の歩みに導くものです。

 

 

Sankhārāとは私たちの考えのこと

sankhārāとは「私たちの現在の考えである」ことを認識することが不可欠です。

sankhārāは現在の考えなので、それらの考えが過去になると、それらはすぐにnāma gottaすなわち記録になります。

Sankhārāは、私たちの意図、希望、夢に基づいて想い、考え、行動することであり、

それらはメンタル界の意識viññānaで発生します。

citta8段階を経て識viññānaにいたります。

正確にいうと、cittaから始まる最初の3段階は魂界で、4段階から8段階はメンタル界で、9段階目の識蘊viññānakandhaの一部は物質界の物質エネルギーになります。

 

sankhārāは想い、考え、行動という3つのタイプがり、(この順序で)manōsakhāravacisakhāra kāyasakhāraとなります。

直訳すると

manō sakhāraはマインド、意、心ですが、内容は心に浮かぶ「想い」のことで、

vaci sakhāraはスピーチ、言葉ですが、内容はシンボルで構造を作成する「考え」のことで

kaya sakhāraはボディ、肉体ですが、内容は小脳で信号と動きを結びつける「条件反射」や「癖」のことです。

 

たとえば、言葉に出さなくても、算数の図形問題を解く時に常に三方定理を使うことに執着していたらそれはvaci sakhāraですし、

梅干しらしきものを見て唾液が出るのはkaya sakhāraになります。

どちらも、眼の前の「ありのまま」を観るのではなく、以前に学習したパターンを対象に当て嵌めようとしているのが共通点です。

 

強いサンカーラと普通のサンカーラ

しかしこれだけでは回路はすぐに消滅しますが、その回路に固執するようになると、それはabhisakhāraと呼ばれ、そこから「カルマの種」が生じ、それは因果関係の法則であるkammavipākaとして、将来に結果が現れる可能性になります。

具体的には、図形の問題が解けなかったり、梅干しではない似ているものを見る度に、唾液が出てしまうことになります。

 

abhisankhāraで行われると kamma bijaDhammāエネルギーの集合体)が生まれ、kamma vipākaになる。

 

これら3つのタイプのサンカーラ(manōvacikāya sankhāra)は、この世であるsansāraを延長させるためのsanが埋め込まれた回路です。

sanとは加えられてものを意味し、具体的には貪瞋痴のことです。

sāraとは良い、khāraとは行為を意味します。

したがって、sansāraは貪瞋痴を良いものだと思い肯定する世界、すなわち「この世」のことであり、

sankhāraは貪瞋痴を伴った行為を意味します。

貪瞋痴によって、ありのままの状態を見れなくなり、以前のパターンをそのまま使用する回路をつくる行為のことであり、入力信号を作成した回路を通すことでパターン化されたで想い、考え、行動が出力されるアプリをプログラミングすることになります。

 

 

したがって、釈尊はこの世を去る時に、サンカーラは「vaya dhammā」(エネルギーとして消え去るもの)であるので、サンカーラが何であるかを見極め気づいているように比丘たちに告げました。

vayadhammā sakhārā, appamādena sampādetha

 

この世界のすべてはdhammāすなわちエネルギーによって成り立っています。

sankhāradhammāであり、vaya衰滅するdhammā、つまり終焉につながる(つまり、悪い結果につながる)だけです。

釈尊の肉体もsankhāraであり、いま、エネルギーがなくなりかけています。

したがって釈尊は「sanを遅滞なく整理し見極め気づいているように」と指示しました

 

appamādam. [a-pamāda] 不放逸 だらしないことがない 弛緩せずにnon-laxity

vaya」は破壊を意味します。ここでは、自分の未来を破壊することを意味します。

sakhāra とはvaya dhammāなのです。

sampādeti[sa + pad + e] [sampajjati caus]    pajjati[Skpadyatepad] 歩く,行く

sanに向かっている、つまり足されたもの(貪瞋痴)に気づいている。

san」「pādēta」は「sampādēta」と韻を踏みます。

Dīgha Nikāya 16 Mahāparinibbānasutta経蔵長部第16経大般涅槃経『南伝大蔵経』第7144

 

 

 

3種類のサンカーラ(行為、考え、想いの3種)の強弱

私たちが体で何かをするとき(つまり、体の動き)、それはマインドの中で発生するkāya sankhāraによってコントールされています。

サンカーラには道徳的なものと不道徳的なものがあります。

この2つ基準は色々なケースがあるので別のエッセイにします。リンク先

 

考えなくてもできる自転車の操縦など体が憶えている言動です。

無意識にやっている癖もkāya sankhāraです。

これらの無意識のものは強いサンカーラです。

 

私たちが言語などのシンボルを組み立て頭の中でカタチにするだけでもうvaci sankhāraを作成しています。

これだけならば弱いサンカーラですが、そこから思考や思想などを基準にして、目の前の事象に適応しようとしているのならば、それは強いサンカーラです。

 

mano sankhāraは自動的に発生する「想い」のことです。

これは各自のgati(性格の方向性、性向)と条件が揃うことによって、以前の因果関係kamma vipākaの結果が顕出したものです。

自然に起こることなので、アラハンでも制御することができません。

これは弱いサンカーラなのですが、次の段階のvaci sankhārakāya sankhāraで強いサンカーラになる可能性があるので、mano sankhāraが起きた直後にそれに気づいていることで、それ以上のサンカーラの作成を停止することができます。

またアラハンに至らない普通の人でも、mano sankhāraが顕出するTPOは想定できるので、そのようなTPOと距離を取ることで、mano sankhāraを回避することができます。

 

比丘の中には、目線を足元から上に挙げず、他者とも必要なことだけしか話をせず、歩きながらも「いま・ここ」に基準をおき、食事のときもエネルギーを生み出さないように貪瞋痴に反応しないように気づきながら暮らすことで、間接的にmano sankhāraをコントロールしている方々がいらっしゃいます。

 

 

Sankhārāには3つのタイプ(manōvacikāyasakhāra)があり、この世であるsansāraを延長させているsanエネルギーにつながります。

したがって、釈尊はsakhāraでできたこの世のものはvaya dhammā(消え去るもの)であることを再確認して、sakhāraに注意を向けていること、すなわち、それらのエネルギーを肯定しないで、気づいていることを比丘たちに辞世の句として伝えました。

 

 

アラハンのgativēdanāsankhāra

アラハンは「悪いgati(性向)」を持っていないので、彼らはいかなるabhisankhāraも作成できないので、悪いvēdanā(感情)はなく、sankhāraから生じるあらゆる種類の感情が生まれてきません。

 

sankhāraを経由した意識kamma viññānaからdhammāが、そこからgatiが、そして、そこからvēdanāが発生します。

つまり、vēdanāは自分のgati(性向、方向性、癖、習慣)によって発生します。

 

dhammāはだんだんと密度が増すことによって、このエネルギーは、カルパという素粒子よりもまだずっと小さい物質エネルギー界の最小単位になる。

これらがgathi「性向、キャラクター、性質、特質、偏向」になる。

kalpagatiの関係性は?

 

 

転生の領域 行sankhāra 変更の可能性

体で何かをするとき(つまり体を動かす動機)、それはマインドの中で発生するkāya sakhāraによってコントロールされます。

微生物などの生命体は入力に対して、決まった反応をするので、ロボットのようなものもありますが、

私たち人類ははロボットではありません。

時には自動的に物事を行うことがありますが、私たちは自分の想い、考え、行動をコントロールしています。

必要に応じて、考えや行動を変更できるからです。

 

Manosakhāraは(kammavipākaと各自のgatiによって)自動的に発生する「想い」ですが、

vaci sakhāraである「考え」は自分自身で変更が可能であり、そのサンカーラの強弱によって転生先も変化します。

 

たとえば、家を建てることは、道徳的/不道徳な意図は関与しておらず、カルマ・エネルギーとしては中立的な行動です。

将来的にkamma vipākaをもたらす可能性のあるkamma bijadhammā)を生成する可能性のある強いsahāāraabhisakhāra)を生成していません。

 

しかし、たとえば、人間を殺す計画には、manōsakhāravacisakhāra(計画段階)が含まれ、その後kāyasakhāraでそれを実行します。

この場合のsakhāraabhisakhāraであり、下位4領域のapāyāでの転生という形で、将来の悪いkammavipākaをもたらす可能性があります。

 

Abhisakhāraは強いSakhāraです

Abhisakhāra(力を持つ、すなわち強いsakhāra)は、カルマの種kamma bijaを引き起こします。

これらは、javana cittaによって作成されるエネルギーが構成要素になります。

kamma bijakammavipākaをもたらすことになります。

 

死の瞬間、そのような強いkamma bijaであるDhamma

manañca paicca dhammē ca uppajjāti manōviññāa.”を介して頭に浮かんでくる可能性があります。

 

その意識viññānaが転生する一番目のpatisandh viññānaとなります。

したがって、前世のabhisakhāraの結果として、新しい人生が形成されることになります。

 

そのabhisakhāraによって生じた新しい生命体はsankataです。

行為の最中にabhisakhāraが生じ、それによってsankataが誕生します。

それはkammavipākaを介して、後にその結果が生まれたということです。

 

転生プロセスを信じる人にとっては、

道徳的なabhisakhāraすなわちpuññaabhisakhāraは、良好なkamma bija /dhammāにつながり、人間、dēva、およびBrahmaの領域での良好な転生につながります。

不道徳なabhisakhāraすなわちapuññaabhisakhāraは不良なkamma bija /dhammāにつながり、(apāyāsでの)不幸な転生につながります。

それが心と物質のつながりです。

マインドに浮かんだabhisakhāraが、rūpa(不活性物質である元素)であるsankata(体)につながるという具体例です。

 

 

 

意識からrūpa物質の生成プロセス

インドの宇宙創生神話では、霊我puruaが根本自性prakritiを観ることでエネルギー界が展開し、次に物質界が生成されていったように、

意識体では、真我ātmanが「眼を開ける」ことで、エネルギー界を知るcittaが展開し、次に物質界を知ることが起きていきます。

 

そして、意識体でもātmanという「いのち」がchittaに寄り添うことでエネルギーが発生し、ahankārabuddhimanasの段階を経て、そのエネルギーの密度が増し、凝縮してだんだんと大きい元素の物質となっていきます。

 

宇宙創生のプルシャの「意」やヒトの意識により、光子分子(photon)よりもはるかに微細なエネルギーが創出されます。

 

パーリ仏典である三蔵では、修行の障碍になる「我」を除去して説明しているために、cittacetasikaが加わっていく9段階や心路citta vithi17プロセスを示して、意識が物質に変化する過程を説明しています。

それが、心路citta vithiプロセスの9番目から14番目の間のjavanaステージで「因果の種」として生成されるdhammāです。

リンク先 論蔵のおける認識システムと離脱

     意識からうまれる物質

 

三蔵では、

この世であるsannkatadhammāというエネルギーによって構成されており、dhammāはだんだんと密度が増すことによって、このエネルギー体は、カルパという素粒子よりもまだずっと小さいこの物質世界の最小単位になる。

これらはgathi「性向、キャラクター、性質、特質、偏向」になる。

空壜の口に風が当たると音を出すように、カタチが形成されると、そこにある傾向が出てくる。

また結晶化したものには傾向のある特色が生じる。

 

rūpa(物質エネルギー)のgati段階、すなわちrūpaの起源は、「manō rūpa」とも呼ばれる。

これらは、私たちがマインドで視覚化することによって起きる。

過去のシーンや思考中に浮かんでくる映像や夢を視覚化しているのがmanō rūpaである。

 

次にkalpa8つ集まってできるsuddhātthakaがマインドによって作成されます。

それは多くの人にとって驚くべきことかもしれませんが、このエッセイでの説明が進むにつれて、このプロセスの実例や科学の凡例のデータなどを提供します。

 

それが、釈尊が“manō pubbangamā dhammā…”つまり「すべてにおいて、(まずは)マインドが先行する…」と言った理由です。 ( Dhammaパーダの1節と2節)

 

しかし、私たちを取り巻くほとんどすべての物質は、かなり前にこの「メンタル的プロセス」によって創造されました。それがAggaññasutta Dīgha Nikāya 27 『起源経』経蔵長部 第27経の物語です。

 

 

cittanāmarūpaと三界の関係

 

cittaは、それ自体が「いのち」や「魂」として独存するものではありません。

cittaは対象を認識する心であり、cetasikaとともに生起します。したがって、cittaを「ただ観照する永続的な主体」と考えるのは、仏教の**anattā(無我)**の教えとは一致しません。

 

manoは「意」であり、第六の感覚門(manodvāra)として、dhammaを対象として認識する働きに関係します。

manoを、nāmagottaが保存されている「領域」や、記憶を読み出す独立した装置と考えることも適切ではありません。

 

nāmagottaは、初期経典で「記憶データが保存される非物質的な領域」を意味する技術用語ではありません。したがって、nāmagottaを無色界(arūpadhātu)に置くという説明はしません。

 

三界(三界・三dhātu)の分類は、次のように整理できます。

生存領域

Pāli

大まかな特徴

欲界

kāmadhātu / kāmaloka

感覚的対象に関係する生存領域。rūpanāmaも存在する

色界

rūpadhātu / rūpaloka

欲界の欲から離れた、rūpaを伴う高次の生存領域

無色界

arūpadhātu / arūpaloka

rūpaを伴わない生存領域。cittacetasikaによる心的現象が存在する

 

したがって、欲界=物質界、色界=メンタル界、無色界=魂界という三分類にはしません。

 

 

内外の信号をsankhāra経由で「認識」すればkamma viññānaとなりエネルギーとなります。

このような意図的思考を私たちは常にどこでも行っています。

言い方を変えると、私たちはmanovacikāya sakhāraに従事しているということです。

過去に作った自動反応回路に操れれている?もしくはこき使われているということです。

 

正確には、認識システムの中で、行sankhāraからの信号を識viññānaによって分別したことで、アウトプットとしてエネルギーが生まれ、それが密集・凝縮するにつれて段階的に物質になっていく。

 

このdhammāエネルギーがbhūtaの段階まで凝縮して密度が高まったモノから固形物質までの範疇をrūpaと名付けた。

つまりメンタル界のものが物質エネルギー界に変化していくのだが、

この世はエネルギーであるdhammāで構成されているので、すべてが物質エネルギーであると言えないことはないが、仏法ではdhammāエネルギーとrūpaと2つに分けて説明することが一般的である。

 

 

メンタル界のエネルギーの塊であるkamma bija

エネルギーであるdhammāに変換され、

gati

kalpa

bhūta

mahā bhūta

微細なエネルギーとしてのdhātu  

密な物質としてのdhātu

と凝縮(密集)するごとにエネルギーが固体物質へと変化していく。

 

 

 

絶対Nibbānaと本来のわたし(citta)と心の様子(cētasika)と物質エネルギー(rūpa)との関係

 

Nibbāna

                  →

                 citta   ātmanchitta  mano界のnāmagotta

 cētasika(心所 メンタル要因) → gati (ahankārabuddhimanas)       

abi Sankhārā  ∈  Sankhārā  (相違点 強弱)

意図的考え・行為     因果の結果に現れる想い

vacisakhāra       manō Sankhārā   

kāyasakhāra

 

          →              →

Dhammā kamma bija  Dhammā

カルマ(善/悪)      カルマの中立 

エネルギーが強い      エネルギーが弱い         

  →sankata        概念   Buddha Dhammaも含む ≠ Nibbāna

gati

kalpa

bhūta

mahā bhūta

微細なdhātu

密なdhātu

 

結果はエネルギーのない

nāmagottamanō lōkaへ     nāmagotta manō lōka

エネルギーのkamma bija

viññānakkhandha潜在する

 

 

 

意識から物質へのプロセス

 

 

意→モノ

 

領域、機能

 

 

 

パーリ語

梵字

 

 

 

 

citta

真我意識

ソウル界

 

 

manō

nāmagotta prakriti

真空意識 

 

 

エネルギーがない記憶の記録

すべてのnāmagotta は、アクセスの有無にかかわらず、「始まりのない時間」に戻っていく。

 

サンスクリット語のprakriti根本自性

 

Najirati Sutta (SN 1.76)

Rūpajīrati maccānanāmagotta na jīrati

「物質エネルギーは崩壊し、消滅しますが、nāma gottaは崩壊することはありません。

 

chitta    全体性意識

カタチはないがエネルギーの塊 基準点ができる

精神性に抽象度を上げる 

 

 

 

mānasan    

 

buddhi

分別意識

知を使って1を2にする  

アラハンはここまで、これ先の過程には進まない

 

 

hadayan,

 

ahankāra

枠組意識

自我認識

私の・・・

具象化することで抽象度を下げる

私という枠組みの内と外

saññāの生成と執着が始まる

 

 

pandaran

 

jñānendriya

微細知覚器官

 

           

直観意識

「パワーを追加する」  

bhūtaレベルの微細要素を認識

執着に多くのエネルギーを割当てる

 

 

manō manāyatanam

 

manas  

近遠意識

vēdanā

タグづけ

アイデンティ(分類)をまとめて統合する

エピソード想起を繰り返しさらに愛着を深める

manas意思

 

 

mana indriyam     

 

karmendriya

微細運動器官

運動意識

計算処理

変換処理

対象に対する執着の力が強化する

意識エネルギー

 

 

viññāna     

 

jīva

統合意識

統合意識kamma viññāna

分割された智慧   部分的認識と統合

日常の認識   世俗的な欲求・渇望

anusayaāsāvasgatiのために非常に汚染されたcitta

意識過程citta vithijavanaステージ

 

 

viññānakkhandha   

 

回路意識

 

思考、記憶、空想

物質  dhātu    tanmātrā微細元素

11種類のviññānaを含むviññānakkhandhaの一部になる

愛着を強め、現状を評価し、将来への新しい希望と計画のパターン認識

 

 

 

 

 

 

 

 

gati

 

arūpa lōka

2831

「性向、キャラクター、性質、特質、偏向」になる

rūpagati段階、

すなわちrūpaの起源は、「manō rūpa」とも呼ばれます。

これらはマインドで視覚化するもの。

 

過去のシーンを視覚化がmanō rūpa

 

gathiを作成するプロセスにおいて、関連する物質的なものについて私たちは常に考えます。それらがmanō rūpa

 

hadaya vatthuだけがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

bhūta

suddhāshtaka

 

dhammā

rūpalōkas

1219

gathiが育まれるとbhūtaになり、これがsuddhāshtaka

のステージ

 

カルパの複合体である八元素suddhātthakaになり、

すなわち物質を生成する

 

物質の最小単位bhūtaで作られたhadaya vatthu

mana indriyadhātuではなく、bhūta

hadaya vatthuは上位3種はdhammā

構成されているのではないか?

 

 

マインドで経験するrūpadhamma

manañca paicca dhammē ca uppajjati manōviññāa

Cha Chakka Sutta (MN 148)

 

dhammāmana indriyaの接触がmanō viññāna

 

anidassan appatighan dhammāyatana pariyā

pannarūpan

anidassanaは「見えない」ことを意味し、

appatighaは「最高の器官でさえ感知できない」

dhammāyatanamana indriyaのこと

Pariyā [pari+yā] winding round,転回

pannarūpanrupaとの唯一の接触を意味する。

 

 

mahā bhūta

4大元素

色、音

rūpalōkas

2027

bhūtaがさらに密を増したもの

rūpi brahmasが住む 16段階

 

brahmasの体はmahā bhūtaで構成されている

gandhabbasの微細体はmahā bhūtaで構成。

 

hadaya vatthucakkhusōta pasāda rūpaがある

 

BakaBrahmāが到達し、普遍世界と勘違いしていた領域

Brahmanimantanika Sutta (MN 49)では、釈尊と彼の弟子たちがこの領域を訪れ、Bakaを諭した。

 

 

微細なdhātu

 

kāma lōka

6〜11

mahā bhūtaがさらに凝縮する

devaは人には不可視の繊細なdhātuで構成

 

cakkhuñca paicca rūpē ca uppajjati cakkhuviññāa

sōtañca paicca saddēca uppajjati sōtaviññāa

Cha Chakka Sutta (MN 148)

 

(vanna) rūpa すなわち光とcakku indriya(眼)が接触

するとcakku viññānaが起こる。

視覚には光の粒子(光子)と肉眼との相互交流がある。

アインシュタインまでは光は粒子だとは考えられて

おらず、Comptonたちが証明したのは1920年代

 

sadda rūpa(音波)が sōta indriya(耳)と接触

するとsōta viññānaが起こる。

 

 

粗いdhātu

香、

味、

体(触感)

欲界

kāma lōka

1〜5

 

 

私たちの体は、密度の高いdhātuで構成されている。

 

ghānañca paicca gandhē ca uppajjati ghānaviññāa

jivhañca paicca rasē ca uppajjati jivhāviññāa

kāyañca paicca phōṭṭhabbē ca uppajjati kāyaviññāa

Cha Chakka Sutta (MN 148)

 

kāya viññānaは最も粗いpottabbaすなわちdhātu

との接触に起因する。

身体の接触(感触)、味、匂いは粗い接触です。

それらは直接の接触(pottabba)を伴い、

それらは固体粒子(味と匂い)を伴います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

rūpaの段階  エネルギーから物質へ

 

 

 


楕円: kalpa 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


nāmagottaとは何か?

 

用例

nāmagottaの意味

特徴

備考

SN 1.76

「名前・氏族」が老いない

 

 

DN 3

父母から伝わる家系・氏族

 

 

MN 35

名前・氏族を名乗る

 

 

MN 60

名前・氏族を名乗る

 

 

MN 82

名前・氏族を名乗る

 

 

DN 32

名前・氏族を名乗る

 

 

Vinaya

名前・氏族を名乗る

 

 

 

@ SN 1.76 Najīratisutta

Rūpa jīrati maccāna, nāmagotta na jīrati.

「死すべき者たちのrūpaは老いるが、nāmagottaは老いない。」

 

A DN 3 Ambaṭṭhasutta

ここでは釈尊がアンバッタにporāa mātāpettika nāmagotta anussaratoと述べています。

意味は「古くからの母方・父方の nāmagotta を思い出すと……」という文脈です。

nāmagotta が明らかに「家系・血統・氏族名」に関係して使われていることです。

 

B MN 35 asaccakasutta

ここでは人々が釈尊のところに来た際、nāmagotta sāvetvāという表現があります。

つまり、「自分の名前・氏族名を告げて」という意味です。

 

C MN 60 Apaṇṇakasutta

nāmagotta sāvetvāが出ています。つまり、ここでも、「名前と氏族名を名乗って」という通常の意味です。

 

D MN 82 Raṭṭhapālasutta

ここにも、nāmagotta sāvetvāがあります。

やはり人々が釈尊の前で名前・氏族を名乗る場面です。

 

E DN 32 Āānāiyasutta

ここでは、nāmagotta sāvetvāが出てきます。

これも、yakkhaたちが釈尊の前で名前・氏族名を告げる場面です。

 

F Vinaya Mahākhandhaka

ここにも、nāmagotta sāvetvāが見られます。

これも同じく、名前・氏族を告げるという文脈です。

 

見えてくることは、Sutta / Vinayaにおける通常の nāmagotta は、「名前+氏族・家系」という意味です。

 

 

 gotta の語根

 

Pāli gotta Sanskrit gotra に対応します。

 

Pāliでは、gotra 家畜を囲う場所 gotta音韻変化「同じ家系・血統に属する人々」

 

 

gotta = family, clan, ancestry, lineage, descent、家系・血統・氏族

go牛、家畜 + tta trai 守る

という伝統的分析がある一方、より古いインド・ヨーロッパ語族の語源に遡る可能性も論じられています。

 

 

nāma + gotta」は?

          意味

nāma     名前

gotta      氏族・家系・血統

nāmagotta          名前+氏族名/家系

 

 

実際、Pali-English Dictionaryでは、nāmagotta = name & lineageとして説明されています。さらに注釈では、

 

nāma = paññatti-vasena

gotta = pavei-vasena

 

つまり、

nāma=識別のための名前

gotta=伝統・家系による氏族名、という説明があります。

 

するとSN 1.76はどう読むべきか

ここまで分かると、問題のRūpa jīrati maccāna, nāmagotta na jīrati.は、

「死すべき人々の身体は老いる。しかし、その名前・氏族は老いない。」

という意味で読むのが、少なくとも他の経典でのnāmagottaの用例と非常によく整合します。

 

実際、SuttaCentral系の英訳も、“The physical form of mortals gets old, but their name and clan don't.”

と訳しています。したがって、これまで検討していた、「nāmagotta=過去の五蘊の永久記録」

という解釈は、少なくとも「nāmagottaという語の一般的なパーリ語用法」からは支持されません。

 

これは、これまでの文章をかなり修正する必要がある

 

以前の文章では、「すべての思考がnāmalokaに永久的な記録(nāmagotta)を残す」という説明がありました。

しかし今回、SuttaCentralの実際の用例を並べると、nāmagotta = 永久保存された記憶記録とするのは、かなり特殊な解釈だと分かります。

 

むしろ、nāmagottaという語は、パーリ経典では基本的に「名前・氏族・家系」を意味する。SN 1.76の「nāmagotta na jīrati」も、まずこの通常の語義から読むべきであり、「宇宙的な記憶データベース」を意味すると断定することはできない。

と整理するのが原典に忠実です。

 

そして、ここは前回の**rūpakkhandhaに記憶が保存されるのか?」**という問題にも直結します。

 

rūpakkhandhaを記憶庫とする根拠も、nāmagottaを記憶媒体とする根拠も、少なくとも今回確認したSuttaCentralの用例からは出てきません。

 

これはかなり大きな修正点です。

 

 

gatikalpaの関係性?

 

私見ではnamagottaはエネルギーのない根本自性prakritiにあるものなので、sankataの一部ではあるが、エネルギーのあるdhammāに含まれるものではなく、dhammāの外側にある。

cittaは時空もエネルギーもないものなので、namagottacittadhammāの間に保存される。

 

 

 

 

rūpaの大きさとその寿命と感覚器官

 

 

大きさ

寿命

感覚・メンタル器官

 

nāmagotta

ない

未来永劫

 

 

 

 

エネルギーを持たない

dhammā

photon

10億分の1

有限

 

 

nibbana以外のもの

 

 

 

 

 

 

gati

dhammāの集合体

 

arūpa

無色界

hadaya vatthu

 

エネルギー構成物

Dhammāを感知する

kalp

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

bhūta

原子の

10億分の1

 

rūpa  

色界

hadaya vatthu

mana indriya

 

 

 

suddhāshtaka物質最小単位

kalpaが8つの複合体

 

 

 

mahā bhūta

 

 

rūpa  

色界

 

光子

音波

微細なdhātu

 

 

kāma

欲界

deva

 

目では見ることができない

粗いdhātu

最も密度が高い

 

 

kāma

欲界

人、

動物以下

mana indriya

vanna rūpa varna

sadda rūpa

gandha

rasa

 

ōja

 

cakku indriya

sōta indriya

 

 

pottabba   kāya

 

 

 

発生しているいかなるrūpaも、予期せぬ変化(viparināma)と、最終的には老朽して崩壊します。

これがaniccaの性質がある基本の事実です。

しかしrūpaにも種類があり、崩壊するスピードも各段階により違います。

 

 

 

ヒトからみた2つの世界

 

5感覚器官と心器官が接触する信号の違い     物質界とメンタル界

Description: Description: Description: Description: https://nitrocdn.com/gtXANwkajYQqavXWlWwShfmpxwmIwhgW/assets/static/optimized/rev-08cf188/wp-content/uploads/Two-Types-of-Loka-300x225.jpg

 

「人間の世界」は2種類の世界で構成されています。

五感で体験する物質世界と心で体験するメンタル世界です。

 

物質界は、対象が生物や物体なので、すでに慣れ親しんでいる世界です。

この物質界との媒体は、光景、音、香り、味、そして身体の感触です。

 

たとえば「cakkhuñca paicca rūpe ca uppajjāti cakkhuviññ ānam」のプロセスを介して光景を体験します。

これを分析的に翻訳すると、眼の器官indriyaに当たる光粒子が視覚に信号を与えることで「見る」という感覚意識が生じる、という意味になります。

 

論蔵Abhidhammaにあるように、「見るイベント」とは目を介した感覚入力によって起こるものです。

つまり、対象物質を反映する光粒子が目に影響を与え、目の意識、すなわち視覚が生起します。

cakkhuviññaとは「見ている」こと、見ている意識のことです。

他の4つの感覚機能も同様の作用を介して、対象を認識します。

 

また、ヒトは過去の思い出や将来の希望や期待を「想う」こともできます。

それらは、私たちがマインドで経験する「物質ではない世界」の事象です。

これは「物質ではない世界」すなわちメンタル界(nāmalōka)と呼ばれ、マインドでのみが体験できるdhammā

が対象になります。

それは「manañca paicca dhamme ca uppajjāti manoviññāa」によって体験できる世界です。

これを分析的に翻訳すると、マインドの器官にdhammāが接触することで、意識が生じる、ということです。

この対象であるdhammāには、エネルギーを持つkamma bījaに加えて、概念、記憶、印象、夢などやエネルギーを持たない記録nāmagottaがあります。

 

これら2つの世界は共存していますが、物質的ではない(見えない)世界すなわちnāma lōka(メンタル界)を直接に体験できないだけです。

 

mano lōka nāma lōkaは同一異句と言い切っていいのか?

それともmano lōkaはエネルギーを持たないprakritiの世界を指し、

nāma lōkaは、物質界ではない世界という意味でのメンタル界なのか?

 

 

Dhātuの観点から見た世界

この世をどの視点で見るかによって、見えてくるものが違います。

同じ素材のものでも、切り口が変われば、見える世界は変わり、その世界観も変わるように。

たとえば、同じジャガイモでも包丁の使い方次第で、その後の調理法が、ベークドポテトか、煮っころがしか、ポテトチップスか、マッシュポテトに変わるように。

喩えでいうと、どのように切るか、というのが「知」で、その結果にできる料理が「知識」です。

 

まずはrūpaの中で一番密度が高いdhātuからの視点でこの世を見てみます。

Dhātuの観点から見た世界では、この世界のすべては、patavi, apo, tejo, vayo, Ākāsa, viññāna6つのdhātuで構成されています。

そのうちの5つは「物質的な世界」を構成し、viññāna dhātuは「非物質的な世界」を表します。

物質世界の基本的な構成要素は、suddhāṭṭhakaです。

suddhāṭṭhakaはどの素粒子よりもはるかに細かいものです。

 

非物質的な世界(すなわちメンタル界)には、suddhāṭṭhakaへのメンタル的前駆体があります。

それらがdhammāgatibhavaです。

gatiに基づいて、javana cittasuddhāṭṭhakaを作成します。

 

 

6感覚を通じて経験する、つまり感知している対象すべてはrūpaですが、最初の5感覚入力は、誰にでも明らかな5つの「感覚器官」(目、耳、鼻、舌、および身体)を介しています。

mana indriyaと呼ばれる6番目のものは、科学では知られていませんが、

Cha Chakka Sutta (MN 148)経蔵中部Majjhima Nikya148で明確に述べられています。 

 

すべての6つのタイプの感覚は、最終的にマインドによって経験されます。

6つの「感覚のドア」を介して感覚入力信号がマインドによって経験されます。

つまりcitta(想い)とcētasika(メンタル的要因)によってです。

 

5つの身体感覚(目、耳、鼻、舌、身体)で経験するものは「密なrūpa」です。

つまり4大要素すなわちsatara mahā bhūtaで作られたものなので、suddhāshtakaで構成されています。

これらの5種類のrūpaは、すべて「rūpa lōka」のものです。

これは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、身体的接触としてよく知っているものです。

体に触れたり、目で見たりするのは、誰もが知っているrūpaです。

他の4つのタイプと区別するために、「rūpa rūpa」すなわち「vanna rūpa」(サンスクリット語では「varna rūpa」)と呼ばれることもあります。

 

しかし、それらの「rūpa rūpa」を「見る」には光が必要です。

光は、光子と呼ばれる小さな粒子で構成されています。それらはそのエネルギーのために非常に小さな質量を持っています。

 

次に、耳、鼻、舌で感知する他の4種類のrūpaがあります。

私たちが味わうものは「rūpa rūpa」、つまり固形食品または液体です。

鼻で感知するのは匂いです。これは非常に小さな微粒子です。ですから、それらもrūpa rūpaです。

音を聞くと、耳はその音による空気の乱れを感知します。したがって、音は光のようにエネルギーを伴います。音エネルギーは、「phonons」と呼ばれるエネルギーパケットに起因する場合があります。

起因しないのはどのようなケースがあるのか?

 

音量子phononは、結晶中における振動の量子(準粒子)で、場の量子論を応用することにより考案された。

フォノンは、光子と同様に生成や消滅をすることができ、質量は存在しない。

エネルギーがあるのに質量が存在しないのは何故なのか?

 

したがって、「rūpa lōka」でのrūpaの感知には、物質エネルギーが関係しており、それらはすべてsuddhāshtakaレベルのbhūtaを超えて、mahābhūta、そしてdhātuと膨大な塊になったものです。

 

光子すなわち軽い粒子もsuddhāshtakaでできています。

suddhāshtakaレベルよりも粗大であるので、suddhāshtakaがどれくらい微細であるのかがわかります。

それは、現代科学の原子よりもはるかに小さいものです。

たとえば、可視範囲の光子(suddhāshtaka)は、最小の原子である水素原子の10億分の1の質量です。

それは砂の粒と平均的な飛行機の質量の差ぐらいがあります。

suddhāshtakaは、光子のさらに10億分の1ぐらいの質量になります。

計算式?

 

釈尊は、5つの物理的感覚によって感知された5つの「対象」をすべて、suddhāshtakaで構成される「rūpa」として分類しました。

量子力学の到来により、科学が光子を粒子として特定したのはわずか100年前です。

多くの物理学者でさえ、1986年のGraingerRoger、およびAspectの単一光子感知実験まで、光の粒子の性質を受け入れませんでした。

現在、光は光子と呼ばれる粒子で構成されていることが認められています。

 

 

異なるタイプの感覚入力によるviññānaの発生は、abhidhamma (およびCha Chakka Sutta (MN 148))で次のように説明されています。

cakkhuñca paṭicca rūpē ca uppajjat​​i cakkhuviññāṇaṃ」、

sōtañca paṭicca saddēca uppajjat​​i sōtaviññāṇaṃ」、

ghānañca paṭicca gandhē ca uppajjat​​i ghānaviññāṇaṃ」、

jivhañca paṭicca rasē ca uppajjat​​i jivhāviññāṇaṃ」、

kāyañca paṭicca phōṭṭhabbē ca uppajjat​​i kāyaviññāṇaṃ」、

manañca paṭicca dhammē ca uppajjat​​i manōviññāṇaṃ

 

上記の

眼のindriya器官と光粒子が接触すると、「見る」という感覚意識が生じる。

心のindriya器官とdhammāが接触すると、manōviññāna、すなわち意識が生じる、とあります。

 

言い換えると、

 (vanna) rūpa すなわち光粒子とcakku indriya(眼)が接触するとcakku viññānaが起こります。

またsadda rūpa(音波)が sōta indriya(耳)と接触するとsōta viññānaが起こります。

kāya viññānaは最も粗い接触(pottabbaすなわちdhātuとの接触)に起因し、

manō viññānaは非常に微細なdhammaとの接触に起因します。

ということです。

 

6つのタイプの外部世界との接触は、接触の「粗さ」に従って分類できます。

身体の接触(感触)、味、匂いが粒子の粗い順です。それらは直接の接触(pottabba)で、固体の粒子との接触です。

視覚には光の粒子(光子)と眼との相互交流です。

アインシュタインまでは光は粒子だとは考えられておらず、Comptonたちが証明したのは1920年代のことです。

 

音を感知は、内耳の蝸牛(かぎゅう)が振動を電気信号に変えて脳に伝えます。

触覚、嗅覚、味覚、視覚、聴覚は感覚器官(体、舌、鼻、目、耳)と外的物質との接触で生じ、その物質の大きさは、接触、味、匂い、光(光子)、音(フォノン)の順序でrūpaは粗大から繊細になります。

 

 

 

5つの物理感覚が密なRūpaを感知し、Mana IndriyaDhammāを感知する

私たちがある人を見たと感じるのは、その人から反射された光が私たちの目に届くからです。

音が聞こえるのは、その音による空気の乱れが耳に届くからです。

匂いがするのは、香りの小さな粒子が鼻に届くからです。食べ物の味がするのは、食べ物の粒子が舌と接触するからです。

したがって、私たちの身体には目、耳、舌、鼻、体という5つの物理的な「感覚器官」があり、これらが5つの感覚入力を感知します。

それらはcakkhusotaghānajivhākāyaindriyaと呼ばれます。

 

それらを介した電気信号は脳によって処理されて、EM波(kirana)に変換されます。この電磁波の信号はメンタル界のgandhabba すなわちmanōmaya kāya(メンタル体)にある5つのpasāda rūpaの振動となり、心路citta vithiを振動させることで意識が発生して、認識できるようになります。

ちなみに、gandhabba は大乗仏教Mahayānaの概念にはありません。

pasāda rupaとは澄明な物質という意味で、現代科学の電磁波エネルギーに相当します。

リンク先 認識システムと五蘊

 

 

例として、木を見た場合を考えてみます。

目から脳に到達する連続した一連の「データのパケット」(シナプスの化学信号および電気信号)は、脳によって処理され、EM波(kirana)に変換され、「データパケット」がcakkhupasādaに到着すると、マインドの「場」であるhadaya vatthuに接触し、木に関する視覚データを心路citta vithi5番目で眼の意識が発生して、認識されます。

これが「cakkhunca paticca rupeca uppajjat​​i cakkhuviññānam」が意味することです。

ここでのcakkhucakkhu pasāda rūpa(物質界の肉眼ではなくメンタル界の眼)のことであり、rūparupeca)はdhātuレベルではなく、bhūtaレベルの電磁波のことで、cakkhuviññānamとは脳からの木に関する視覚信号が電磁波に変換されたイメージを心路citta vithiで意識化したもののことです。

 

 

 

無形(非物質)の世界を感知するために、mana indriya(心の感覚器官)があります。

物質的な世界と5つの物理的な感覚の接触と、非物質的な世界とmana indriyaの接触に基づいて、私たちの考えはhadaya vatthuマインドで起こります。

マインドの「場」は脳ではなく、Gandhabbaの微細なメンタル体(manōmaya kāya)にあります。

 

したがって、人間が感知できるrūpaは、

五感覚器官を介する物質界のrūpa

目に見えず(anidassana)、触知できない(appaigharūpa(たとえば、思考、認識、計画、記憶など)のdhammāmano rūpagatibhavanāmagottaがあります。

微細なrūpāの感知を担当するのが、mana indriyaです。

hadaya vatthuは脳ではなくGandhabbaの体にあり、肉体の心臓の領域に重なっています。

どちらのタイプのrūpaも、最終的にはマインド(hadaya vatthu)によって意識化されて体験されます。

このように密なrūpaを体験するために肉体は存在し、それらをマインド(cittacētasikaで)は体験するために存在しています。

 

 

6感覚器官と6rūpaについて記述している経があります。

Cha Chakka Sutta (MN 148)

Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’tiiti kho paneta vutta. Kiñceta paicca vutta Cakkhāyatanaṃ,sotaāyatanaṃ,ghānāyatanaṃ,jivhāyatanaṃ,kāyāyatanamanāyatana.

Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’tiitiyata vuttaidameta paicca vutta Ida pahama chakka.1

Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī’tiiti kho paneta vutta. Kiñceta paicca vutta Rūpāyatanaṃ,saddāyatanaṃ,gandhāyatanaṃ,rasāyatanaṃ,phoṭṭhabbā-yatanaṃ,dhammāyatanaṃ.

Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī´tiiti ya ta vuttaidameta paicca vutta. Ida dutiya chakka.2

 

ajjhattikā:内の

āyatanaThe 12 'bases' or 'sources'  もと、出所、根源、基盤

veditabba[ptpof] should be known

paeti[pa-] 適用する,判決する

vattati[Skvartate vt] 転ずる,起こる,存在する

kiñcetiTo crushto trample

itiindeclthus かく,…と,とて

idaHerenoweven   this thing.

pahama[adv] at first for the first time

bāhirāFrom outside

 

 

上記のように、6つの(Cha)内部āyatanaajjhattikāni āyatanāni)と6つの外部āyatanabāhirāni āyatanāni)があります。

6番目の内部āyatanamanāyatanaであり、dhammaを感知します。

 

Cha ajjhattikāni āyatanāni(6つの内なる元)は六根、

Cha bāhirāni āyatanāni(6つの外なる元)は六境、āyatanāniは処

と漢字仏教用語では訳されます。

 

 

触ったり、匂いを嗅いだり、味見したりするのとは対照的に、

目、耳、マインドは外界(物質)に直接「接触する」ことはありません。

 

意識体の経験とは、結局は、この内と外にあるモノが接触することでしかありません。

このようなrūpaの寿命は有限です(非永続的です)。さらに、存在している間は、予測不可能に変化し、それはviparināma lakkhana(予測不可能に変化する性質)と呼ばれます。

 

しかし、どんなに一所懸命に努力しても、このようなrūpaを満足できるように維持することはできません。

したがって、このようなrūpaは、どんな喜びよりも苦しみにつながります。

 

5つの肉体的感覚で外側の世界を「そのまま」(すなわち客観的に)体験しますが、私たちがマインドと交流(対話)するのは、私たち自身の「認識、感情、計画、希望、概念、思想」です。

 

 

物質界と非物質界

私たちが「見る」ことができないものはたくさんありますが、私たちは存在することを知っています。

たとえば、ラジオやテレビの信号が周囲にあることはわかっていますが、それらを「見る」ことはできません。これらの信号を感知するには、ラジオやテレビなどの特別な機器が必要です。

非物質的な世界のdhammāはちょうどそのようなものです。

dhammāを感知する器官(mana indriya)が脳にあります。

たとえば、過去の記憶は物質的な脳に保存されていると現在の神経学者は考えています。

しかし、仏法においては記憶は、物質的な世界と共存する非物質的世界にあるとしています。  出典?

物質世界の脳には非物質のdhammā(物質になる前のエネルギー)を感知することはできず、また記憶が保存されているのも、非物質世界であると説いているのです。

 

ラジオが目に見えない電波を感知できるのと同じように、mana indriyaはそれらの「目に見えない」記憶(およびkamma vipākaをもたらすカルマの種kamma bija)を感知します。

どのようにmana indriyaによって、前世からのすべての記録と数え切れないほどのkamma bijaが分類されるのは不可能であると考えると思いますが、たとえば、世界のどの大都市にもラジオやテレビの信号が空間を占めており、ラジオやテレビを介すれば、それらの電波を信号として感知できるのと同じように、mana indriyaはさまざまな種類のdhammāを感知できるとするのが、仏法による解釈になります。

dhammāは物質世界のsuddhāshtakaステージよりはるかな微細なエネルギーで、これらの集合体が段階的(gatibhūtamahā bhūtadāhtuという順に)に粗大なrūpaになります。

 

 

メンタル界

日常生活で得る知識は、私たちは5つの肉体的感覚器官を介して外界を経験します。

具体的には私たちは目で見て、耳で聞き、鼻で匂い、舌で味わい、体で物に触れます。

それらがすべての経験なのでしょうか?

他の世界から完全に隔離された暗い部屋にいると想像してみてください。

わかりやすい例は、感覚を遮断するための装置であるアイソレーション・タンク(Isolation floting tank)や、昔の軍隊による処罰による独房監禁です。

何時間もの間、完全に隔離された暗い空間に孤立していると、外界からの刺激はないので、本人の過去の出来事を思い出したり、未来を思い描いたりして、あらゆる「想い」の世界で生きることになります。

隔離された部屋に閉じ込められた人は、過去の出来事や将来の希望のdhammāmana indriyaと接触すると、自分の過去や未来についての考えが生まれでてきます。

 

5つの物理的感覚以外の感覚との接触は、この6番目の感覚、つまりマインドによるものです。

そして、ヒトは完全に意識がなくなっときにのみ、外界からの信号と接触が完全になくなります。

 

このような状態でマインドで経験するrūpadhammāです。

manañca paicca dhammē ca  uppajjati manōviññāa」で述べたように、

dhammāmana indriyaの接触がmanō viññānaにつながります。

密閉された暗い空間にいると5感覚器官は働きませんが、想うことや思うことや考えることはできます。

自分がやりたいことや、過去の出来事についてや、未来予測について、考えることができます。

 

これらの考えが次々と現れるのは偶然やランダムなのではなく、kamma vipākaによるものです。

つまり過去に作成したエネルギー回路がカタチとなって現れた、という因果関係です。

もちろん、それらを喜んで思い出すことができます。とりわけ良き思い出と将来の希望は。

 

それら「記憶や想い」はsuddhāshtaka(最小物質)レベルより微細であるdhammāとして感知されています。

dhammāはまずメンタル界のmana indriyaによって感知され、その後にその信号はマインドに送信されて、そこで感知されます。

仏法ではマインドはこの肉体にあるのではなく、微細なrūpaから構成するメンタル体にある、としています。

出典?

 

記憶や想いを介してマインドによって生成されるkamma beejadhammāの一部です。

そして、kamma beejaは時々kamma vipāka、すなわち条件が揃ったので「想い」というカタチでマインドに現れます。 

「メンタル界」は「物質界」と同じように私たちの周りにありますが、私たちは「見る」ことはできません。

前述したように、ラジオ、テレビ、携帯電話で受信できることで、ラジオ、テレビ、携帯電話の信号があることを知るのと同じように、mana indriya Dhammāを受け取っていることを知ることができます。

洗濯したり、仕事をしている時に、突然遠く離れた友人や職場での出来事について思いが浮かぶことがあるかもしれません。これは、kamma vipakaによってdhammāmana indriyaに影響を与えたためです。

内外のrūpaがトリガーとなって条件が揃うことで、因果関係の結果であるdhammāが顕出し、それをmana indriyaが感知したということです。

さらに、私たちもそのような記憶を思いのままに思い出すことができます。

これらが、物や人のイメージが頭(マインド)に突然のように浮かんでくる「ランダムな思考」のメカニズムです。

 

これらのdhammāは、abhiññā(極度の集中力)の力でさえ見ることができないほど微細で、当然のごとく他の5つの粗い感覚器官の網は通り抜けるほど微細なので、感覚器官に接触することはないので、感知されません。

したがって、それらはanidassan appatighan dhammāyatana pariyāpanna rūpanと呼ばれています。

[pp] included in belonging to got into

 

ここでは、anidassanaは「見えない」、appatighaは「(最も微細な器官でさえ)触ったり感知したりできない」、pariyāpannaは「含まれる」ことを意味します。

また、dhammāyatanadhammāの器官すなわちmana indriyaのことになります。

 

最も繊細な感覚器官は、mana indriyaです。

「第三の目」の伝説に伝わるのは、この「mana indriya」です。それは額の裏側に位置することになっています。

mana indriyaと接触するrūpasuddhāshtakaよりも微細なもので、まだgatiの段階にあるものでsuddhāshtakaなる途中の状態です。

目が視覚情報を、耳が音を受け取るように、「mana indriya」は「dhammā」を受け取ります。

5つの物理感覚はすべて、suddhāshtakaから作られた粒子を介して受信された信号を処理しますが、

dhammāは単なるエネルギーなので、メンタル界に属していると言えます。

 

実際、ほとんどの物理学者でさえ、光を物質すなわち「粒子」とは見なしていません。

単一の軽い粒子(光子)でも非常に多くのsuddhāshtakでできています。

Dhammāはマインドで作られ、そこからgatiが生じ、それが凝縮したbhūtaもマインドによって作られている、と言うことができます。

Dhammāは、実際にはjavana cittaのマインドによって作られたkammicエネルギーのパケットなので、マインドと物質の間のリンクとなります。

 

すべての6つの感覚によって、私たちのマインドが物質世界と相互作用することを可能にします。

私たちは実際に、物質世界とマインドの世界という2つの世界と交流して生きています。

物理的世界(rūpa lōka)のさまざまなタイプのrūpavarnagandharasaōjapottabba)はsuddhāshtakaで構築されています。

Dhammāすなわちkamma beejaは、基本的にはまだsuddhāshtakaの状態に固まっていない「エネルギーパケット」です。

 

 

 

各生命体のそれぞれが自分だけのメンタル的印象を作るため、すべての生命体は自分自身のpancakkhandhaによって関連付けられています。

釈尊は、5つのkhandha以外で生き物を定義することはできないと言いました。  出典?

 

意識体のもつ五蘊pancakkhandhaは、物質界にあるものをメンタル界に変換(rūpakkhandha)して、そこでそのイメージを編集(vedanasannasankhara)することで体験(viññāna)し、その一部をエネルギーとして物質界に還元しています。

 

五感覚器官感で感知できる「密なrūpa」が「rūpa lōka物質界」にあるように、これらのdhammā(またkamma beeja)は「manō lōka」(メンタル界)にあります。

このmanō lōkaは、kamma bhavaとも呼ばれます。これは、kamma beejaがある場所だからです。

 

転生で新しいbhavaをつかむと、適切なbhavaに対応するエネルギーの強いkamma beejaが選択されます。

kamma beejaが原因となり、各自の人生においてkamma vipākaも発生します。

長い期間によってkamma beejaがエネルギーを失うと、それらは単なる「何が起こったのかという記録」になります。

こうなるとそれ以上のvipākaを持ち込むことはできず、単なる「思い出」という記録になります。

 

 

釈尊は「sabbē dhammā anattā」、すなわち「すべてのdhammāは最後には本質を持たない」と言っており、Nibbānaを達成するために放棄しなければなりません。

しかし、それは明瞭な意志の力であっても不可能です。

Dhammāを含むすべてのrūpaの本当の性質を見るために、本当の性質である三相を理解する必要があります。

 

 

想いがdhammāを創出している

私たちは自分でdhammāを創出してこの世界を作っています。

dhammāの基礎は、javana cittaにおける私たちの「考え・想い」です。

javana cittakamma beejaを生成し、将来のkamma vipākaを生成します。

このkamma beejadhammāです。

dhammā suddhāshtakaステージより微細な非常に小さなエネルギーの塊です。

マインドがこのエネルギーを創出しています。

一部のjavana(特にjhāna samāpatti入定)では、suddhāshtakaステージよりも密なエネルギー物質を作成できます。つまり、有形のrūpaを作成しています。

 

しかし、自分で作るrūpakamma beejaを含む)は、各自が満足するように維持させることはできません。

エネルギーを持つrūpaはそのエネルギーゆえに消耗し、最終的には消滅します。

さらに、存在している間にも予期せず変化する可能性があります。それがviparināma(予測不可能な変化)の特徴であり、苦しみの根本原因です。

 

 

iddhi(超能力)の力を持つ人だけが前世の人生を呼び出すことができます。しかし、一部の子供たちは前世を思い出すことができます。

 

しかし、dhammā(複数形)には、私たちの過去のkamma(現在の生活だけでなく、前世の生活からの)のために多数のkamma bijaも含まれています。

それらは単なる記憶ではなく、エネルギーを持っています。

物質とエネルギーはEinsteinの有名な方程式、E = mc2Eはエネルギー、cは光速、mは質量(物質の量))によって関連付けられることを私たちは現代科学から知っています。

植物の種子が発芽して木になるのと同じように、私たちのkamma bijakammaの種子、bijabeejaは「種子」を意味します)は私たちのマインドの中で発芽し、kamma vipākaをもたらします。

 

Buddha DhammaRūpaを「物質」または「固い物体」と翻訳することはできません。

私たちのマインドはdhammāと呼ばれる非常に微細なrūpaを作ることができ、非物質的な世界にあるdhammāを感知することもできます。

 

5つの物理的な感覚は、物質的な世界にある「密度のある」rūpāを感知します。仏法では「密度のある」rūpāは最小の「物質の単位」であるsuddhāṭṭhakaの上(大きい)にあります。 (suddhāṭṭhakaは、現在の科学の原子より10億倍小さい)。

28種類のrūpāは、これらの「密なタイプのrūpā」で構成されています。

微細なrūpaは通常rūpaとは呼ばれずに、区別するためにdhammāと呼ばれます。

 

 

jhānasにいるとき、cittasはまだ両者の間にあって、物理的な五感に戻ることができます。

jhānasに入っていても、例えば、外部の音を聞くことができます。

しかし、samāpatthiにいるとき、jhānic cittaは長い間絶え間なく流れることができます。

したがって、pancadvāra citta vithiはその間を流れることができません。

したがって、samāpattiにいるときは外部環境にまったく気づくことができません。

amāpattiの場合、jhānic cittaは絶え間なく流れ、それぞれの新しいjavana cittaを「Asēvana Paccaya」の前よりも強くします。

 

これは、abhiññāの力を持つ人(つまり、容易にsamāpattiに入り、それをうまく実践できる人)が物理的なモノを作成する方法です。

写真の花をマインドでイメージすることからはじめ、新しいjavana cittaごとにsuddhāshtakaを次々に創造し、非常に短時間で実際の花を生成します。

 

 

 

 

 

 

 

kamma Viññāa   メンタルと物質を結ぶもの

kamma Viññāaはマインドと物質のつながりの架け橋で、suddhāshtakaステージに至らない、マインドによって作られた物質エネルギー(rūpa)です。
重要な点は、kamma viññānaはメンタル界のモノながら、完全なメンタル界ではなく、物質エネルギーでもあるといということです。

 

PaticcaSamuppādaの「viññāna paccayā nāmarūpa」段階が、メンタルからrūpaへの接続点になります。

Viññāaが強くなるにつれてviññāna paccayā nāmarūpaによってnāmarūpaは強化されます。

このnāmarūpaとは、マインドによって作成されたrūpaの最初の段階で、viññānaはこの仲介として機能します。

 

マインドに「付着するもの」があると、エネルギー(つまり、kamma beejaすなわちdhammā)が生成され、それがkamma bhavaに積み重なり記録されます。

kamma bhavaはメンタル界に属し、枠組とエネルギーはあるがまだカタチには至っていません。

枠組にエネルギーが集積するとカタチになって生まれてくる、エネルギーの入れ物のようなものです。

dhammāにはkamma beejaだけでなく、特定の人物が行ったあらゆる記録も含まれます。

したがってカルマのエネルギーとは関係のないイベント、たとえば、誰かと話したことや何かを見たことや数学の問題を解いたことなどを思い出すこともできます。

nāma gotta(記号の起源)およびkamma Viññāakamma beejaとも呼ばれる)を含むすべてのdhammāは、メンタル界nāma lōkaにあり、そこから物質エネルギーが作成されます。

 

 

 

 

 

dhammā    Dhammāすべての物質エネルギーである」

sankataとの同義語がDhammā

涅槃nibbānaでないものすべてがdhammāです。

つまりこの世はすべてがdhammāです。

Dhammāとは仏法において、意識体が「想う」ことによって生じる素粒子より微細なもので、これらが凝集していくと物質エネルギーになるとされています。

 

語源は、「産む」という意味を持ち、好きなことや関わることを引き受けてdhammāが産まれてきます。

 

Dhammāは、suddhāshtaka(物質エネルギー)の初期段階と見なすことができます。

Dhammāは、実際にはjavana cittaのマインドによって作られたkammicエネルギーのパケットであり、私たち意識体のgatiのために生じています。

dhammāとはマインドと物質との間のリンク、架け橋のことです。

メンタル界としては「カルマの種子」やカルマの意識と呼ばれ、、物質界としてはエネルギーと呼ばれます。

 

 

nibbānaではないものすべてがdhammāなので、いろいろな文脈でいろいろな切口、つまり定義があります。

 

1 この世の31領域         実体がない(実がない)エネルギー

2 宇宙の「意」が生み出したもの

3 意識体(ヒト)のマインド(心)が生み出したもの   マインドと物質の架け橋

4 カルマのエネルギー  「カルマの種子kamma bija

5 エネルギーを持つ意識   kamma viññāna

6 rūpaを作成するエネルギーのこと  

7 Buddha Dhammā釈尊の教えである仏法に象徴される、概念

 

大乗仏教の「空」と同義語

Dhammā(末尾に長い「a」が付いている)は、主にマインドが生み出したエネルギー

 

量子力学では光子も分子の一つであると説明されるが、このdhammāは光子分子(photonよりも10億倍ほど微細である。

dhammaはまだsuddhāshtakaステージ(物質)に「凝縮」されていない。

suddhanshtakaとは、最小の物質単位(現代科学では原子より10億倍小さい)の段階のこと。

 

anidassanan appatighan

目に見えない(anidassana)、触知できない(appaigharūpa(たとえば、思考、認識、計画、記憶など)があります。

dhammāmano rūpa(メンタル的物質エネルギー)であり、gatibhavaの構成要素です。

dhammāの中にエネルギーのないnāmagottaも含めるのは、nāmagottaは涅槃nibbānaの領域のものではないので、後付けで、dhammāの中に含むようにしたと推定。

nāmagottaはエネルギーを持たない特殊なdhammā、もしくはdhammāに含まれず、外側にある記録です。

gatiとカルパの関係は?

 

 

 

マインドが物質を作るという

「法句経」(Dhammapada verses 1 and 2)

 

Manō pubbangamā dhammā            Manō pubbangamā dhammā  
manō setthā manōmayā                 manō setthā manōmayā
manasā padutthēna                   manasā pasannēna

bhāsati karoti                       bhāsati karoti
tatō nam dukkhamanvēti                tatō nam sukhamanvēti
cakkamva vahatō padam.   
           chāyāva anapāyani.

 

 

マインドがすべての現象の先がけとなります。

現象はすべて、マインドによって作られたものです。

邪悪なマインド(すなわち、dasa akusalaに関わる)で話すか行動すると、

荷車の車輪がそれを引く牛の足跡をたどるのと同じように苦しみ(dukha)が続きます。

 

すべての現象はマインドがその先がけとなります。

すべてはマインドによって作られたものです。

純粋なマインド(すなわち、dasa kusalapuña kammaに関わる)で話すか行動すると、

幸福(sukha)は自分の影のように従います。

 

Pubbangamapubba先、前 + anga)は、「最初に来るもの」を意味。

すべてが準備され(settā)、マインドの物質化現象(manōmayā)である、といいます。

マインドは思考(sakhāra)Dhammāを創造しています。

.汚い(padutta)または快い(pasanna)マインドで話したり(bhāsati)行動する(karōti)かによって、

マインドによって生成されるdhammāは苦しみ(dukkhamanvēti)または幸福(sukhamanvēti)に至る(tatō nam)。

汚れたマインドの場合(lōbhadosamōhaで行動する)、荷車の車輪が引っ張っている牛の足跡をたどるのと同じように苦しみが続きます(cakkamva vahatō padam)。

気持ちの良い、道徳的なマインドの場合(alōbha, adōsa, amōhaで行動する)、影が自分を追うように幸せが続きます(chāyāva anapāyani)。

 

 

 

 

物質レベルに話を限定すると、

身近な所では、心の変化が電磁波となり、脳波検査やMRI検査でグラフとして表現されるということです。

また、カメレオンは視覚からのインプットによって体の色を変化させるようなことです。

つぎには托卵といってカッコウは卵の殻の模様を預ける鳥と似せて産むようにします。

これは、量子力学の実験では、観察者がいるのといないのでは、光が粒子もしくは波動になるか、という話でもあります。

ヒトの想いが未来を作り上げているという各自の人生の話でもあります。

想うことを休憩する訓練も必要なことですが、

 

これが

「全てモノには「意」が先行している」

manō pubbangamā dhammā…” 法句経(Dhammapada verses 1 and 2

という釈尊の教えの深層の意味である。

 

 

ヒトは五感器官から信号を遮断される環境になると、このdhammāによってランダムな思考が起こり、過去の出来事や未来の計画を「上演」する。

 

このマインドが体験をすると顕れる物質エネルギーrūpadhammāである。

 

行った原因によってdhammāが顕れ出てくる。

このような原因をつくることによってdhammāは育ち、やがてdhammāgathiもしくはgatiと呼ばれるエネルギー体になり、それを称して、性向、キャラクター、性質、特質、偏向、習慣とよんでいる。

 

dhammāは顕れては消えていくものであるが、唯一その中で永遠なものは私たちのsankhāraの記録(nāma gotta)」(nāmaby name「意」 マインド   gotta[nt.] clanancestry.であり、このnāma gottaだけはエネルギーはなく不変で未来永劫に継続するものである。

 nāma gottaは涅槃nibbāna以外でこの世に存在する唯一の不変なものであるのでaniccaの特性を持たない。

しかし、nibānnaではなく、31領域に属しているので、anatta(助けにならない価値がないもの)の特性は持つ。

 

 

仏法のdhamma

dhammāは、使用されるTPOに応じて、異なる意味を持ちます。

dhammaは仏教のような教義を指し、dhammāはエネルギーであり、非常に微細なrūpaを指すと覚えるのが一般的です。

Buddha Dhammaとは、仏の教え、すなわち仏法を意味します。

通常はBuddha Dhammaと記述されますが、一部の人はBuddha Dhammāと記述する人もいます。

したがって、文脈に応じて与えられた単語の適切な意味を取る必要があります。

 

転生プロセスの中では、Dhammāは、私たちが未来のために自分自身を作成し、最終的には苦痛をもたらす原因です。

したがってdhammāには実質がありません。

Nāmagottapaññātiすなわち概念にも実質はありません。

それらはすべてanattaです。つまり無力なので、 それらに「掴まっても」意味がありません。

「この物質的な世界のすべてをあきらめる」ことによって達成されるNibbānaのみが、attaすなわち「実体のある」「価値のある」ものです。

 

Nibbānaを達成することを可能にするBuddha Dhammaでさえ、最終的に(アラハンになると)放棄されるべきです。

 

ブッダは、仏法を川を渡るのに使用する筏と比較しました。川を渡ると、いかだを背負っていても意味がありません。ですから、仏法でさえ、Nibbānaに到達するまでの価値しかありません。

 

パーリ仏典経蔵中部第22経『蛇喩経』: Alagaddūpama-sutta,      

筏は法dammaの喩えで、涅槃という目的の達成のために法に依拠すべきであるが、目的達成後は法を捨て去るべきであり、法に執着してはならないと説く

 

パーリ語経典長部の『大般涅槃経』Mahaaparinibbaana Sutta(nta)

川は渇愛(ta)、筏や橋は聖道(ariyamagga)の隠喩

Buddha Dhammaすなわち論蔵Abhidhammadhammaとは、ブッダの教えを指します。

この世のすべてを霊魂心物に分類するのであれば、このdhammaも霊ではない存在であるdhammāと同じカテゴリーに入ることになります。

 

 

 

gati      

dhammāが集まってgatiができ、それは、「dhammāの流れ」の障碍になったり補助になったりするので、流れに1つの方向性を与えることになります。

川底の石のように。

いくつものgatiが集まり、多くの性向となります。

それが集まるとその人の感性や思考や行動のパターンとなりキャラクターとなります。

川底の石が集まると川の場所によって流れの緩急がつくように。

キャラクターのする行動パターンは習慣となり、その習慣によってgatiはますます確固たるものになり、

また新たなgatiを生み出し始めます。

そしてこれは性格となり、将来のカタチのエネルギー体であるbhavaにつながっていきます。

川は岸をえぐり、新たな川を作るようになります。

利根川や木曽川の下流やアマゾンの上流の新しい川や湖のように。

 

dhammāは私たちがコミットするkammaのために生じることを実感するのが重要です。

kammaを増やすと、それにdhammāが対応して成長し、gathiになります。

 

rūpagati段階、すなわちrūpaの起源は、「manō rūpa」とも呼ばれます。

これらは、私たちがマインドで視覚化するものです。

過去のシーンを視覚化することができますが、それがmanō rūpaです。

gathiを作成するプロセスでは、関連する物質的なものについて私たちは常に考えます。

それらはmanō rūpaです。

 

そして、dhammaすなわちkamma beejaは、マインドがあるgatiに対して受容状態にある時には、そのkamma beeja自分のマインドに戻ることができます。したがって、自己供給のフィードバック・ループが繰り返されます。

 

 

 

自分の性格とメンタル的な不純物(kilesa)を形成するのが性向の繰り返しである習慣(gati)です。

もちろん、それらは一生の間でも変化し続けます。

gatiは絶え間なく変化しているという意味で、メンタル体の「動的人格」と呼ばれることもあります。

それが、釈尊が「自己」すなわち「魂」だけでなく「無自己」も拒否した別の理由です。

同じ状態を続ける「自己」はありませんが、来世にも残る各自のgati (そして asavakilesa)が形づくっているのでアイデンティティーがあるので、「無自己」とは言いません。

 

 

天界や色界や無色界ではマインドの能力が低く、望まないgatiやカルマの種を取り除き、望むカルマの種を育むのが難しい、という、それは何故なのか?

 

特定のメンタル体のカルマの種(および関連するgati)は、人間の生活の間に大きく変化する可能性があります。人間は自分の運命を変えることができますが、動物はできません。

この世の31の領域のほとんどの領域では、マインドの能力は人間界に比べてはるかに低いです。

したがって、人間以外の領域では、不良なカルマの種を取り除き、良いものを育むことは非常に困難です。

したがって、悪い種を取り除き、100年ほどの短い寿命の間に「良い種」を開発するために最大限の努力を払うべきです。

 

また、肉体的な死は必ずしも人間としての再生の終わりを意味するわけではありません。

人間のbhava(メンタル体)を得るのはまれなイベントだが、人間のbhavaの間は、また人として多くの転生があるかもしれません。

彼の人間としての転生につながったカルマの種がより多くのkammicの可能性(エネルギー)を残しているなら、人間は何度でも人間として生まれ変わることができる。

それが人によっては過去世の生活を思い出すことができる理由です

しかしkammicの可能性(エネルギー)がなくなると停止します。

 

 

 

 

悪いgatiから離脱する方法

悪いgati から脱却するには、そのような悪い活動をやめるだけでなく、反対の良いgati を築き上げ、正しい方向に向かい始めるという決意をする必要があります。

世俗の八聖道をたどり、次に八聖道をたどるという順序です。

世俗と正統の違いはリンク先で

 

持っている特定の悪い習慣を意志の力で素早く取り除くことは、多くの場合でうまくいきません。

Dhammaの重要な教えを学び、理解しながら、忍耐強く、道をたどる必要があります。

 

「悪いgati」は、2段階の方法で削減し、最終的に排除できます。

i)活動と意識している思考を強制的に停止します。

行動、つまり思考の最中に気づくことによってgatiに影響を与えます。

iiBuddha Dhammaを学び続け、そのプロセスが実際にどのように機能するかを理解し実践する。

言動や思考が導く悪い結果を熟考することが重要な視点の1つです。

 

Buddhaは次の例を挙げました。

農民は自分の畑を耕作するとき、十分な水を与え、雑草を取り除き、肥料を与える必要があります。

しかし「いつ収穫するのだろうか」という時期については考えません。

必要な作業が行われれば、作物は時間と共に成長し、豊作をもたらします。

同様に、道徳的な生活を送り、dhammaを学ぶことによって道を歩むと、正しい方向に導かれます。

そして、農民が作物が順調に成長しているのを見ることができるのと同じように、進歩を体験することはできますが、1つのステップである最終結果を体験することはできません。

 

 

 

 

gatibhavakamma bījaの関係性

自分のgatiには、無数のbhavaがあります。

bhavaの中には、たくさんのkamma bīja(種)があります。

「不健康なbhava」には、ガンや腰痛などのkamma bījaがあるかもしれません。

同じ人が異なる時間に異なるbhava(例えば、金持ち/貧乏人)を持っているかもしれません

 

31の中の人間の領域(すなわちbhava)は、「人間のgati 」が生み出す可能性のある膨大な種類のbhavaに対応して、無限の数の小さな枠にbhavaを細分化しています。

 

javana cittaのマインドによるsuddhāshtakaの創造は、まずgatiを高めることから始まります。

特定のgatiに関連する活動を行うほど、gatiは成長します。

gatiの成長とは、実際にはkamma beeja(種子)の蓄積であり、それはマインド界のkamma bhavaに堆積します。

 

 

 

 

 

 

bhava   枠組の中のエネルギー、領域、 dhammāの集合枠

bhavaを詳細に見ると、その構成rūpaの大きさに準じて、大きく分けて3つ(kāma bhavarūpa bhavaarūpa bhava

にわける「界」、細かく分ける31領域があります。

そして31領域のそれぞれの中には、また無数の小さなbhavaがあり、それは入れ物のようになっていて、その中にはこれまた無数のカルマの種子と呼ばれる小さなエネルギーが入っている。

 

この小さいbhavaにはいろいろな区分があって、健康と不健康、笑いと悲しみ、喜びと怒りなどと相反するものが並んだ入れ物になっている。

だれもが違うbhava、カルマの種子、そしてgatiを持っていることになる。

 

 

 

Description: Description: Description: Description: https://puredhamma.net/wp-content/uploads/Bhava-and-Gathi-Chart-300x225.jpg

 

bhavaと転生

人間の活動のほとんどは、kāma lōkaの官能的な快楽の楽しみに関連しています。

私たちの少人数がjhānicの快楽を楽しむのに対して、私たちのほとんどは通常、五感に関連する官能的な快楽を楽しんでいます。

 

私たちは、目を楽しませてくれる景色を見たり、耳に心地よい音を聞いたり、舌に心地よい味を味わったり、鼻に心地よい匂いを嗅いだり、体に心地よい物体に触れたりするのが好きです。

 

5つの感覚機能はすべてkāma lōkaにのみ存在します

Rūpa lōka Brahmā(生命体)には鼻も舌もありません。arūpalōkaにはマインドだけがあります。

 

ある感覚の欲求を満たすことができないとき、私たち人間はそのような感覚の欲求を満たすために不道徳なことをする傾向があります。これらは、強力なkammapathaに関連するapunnābhisakhāraであり、悪いkammabījaを生成して悪い結果すなわちvipākaを生成し、kāmalōkaの最下位4領域での転生につながる可能性があります。

 

 

最下層にあるniraya(地獄)の「悪いkamma bīja」は、強い憎しみすなわちvyāpādaによって生み出されます。、快楽(貪欲)への愛着は他の誰かが同じ快楽を得ることでが憎しみに変わる可能性があります。他の人間の殺害を含むほとんどの凶悪な犯罪は、そのような強い憎しみで行われます。

道を歩むと、徐々に動物、餓鬼、阿修羅、地獄が失われ、いつの日かSōtapannaの段階になります。

したがって、kāma lōkaの最下層での誕生は、kāma rāga だけでなく、貪欲(lōbha)と憎しみ(dōsa)の強い別形によるものです。

 

少し考えてみると、私たちが行っているabhisakhāraのほとんどは、1つ以上の感覚を喜ばせる活動を対象にしていることがわかります。

通常、不道徳ではありませんが、より少ないカルマ・エネルギーであってもapunnābhisakhāraです。

しかし、これらはapāyāsでの転生にはつながりません。

 

五感の喜びを切望しているので、それらに愛着を持っており、「pati + ichcha」(すなわち好みや欲望との結びつき)に従って、「sama +uppāda」(それに応じて誕生する)につながります。

したがって、私たちが熱意を持ってこれらの活動に従事すればするほどkāma bhavakamma bījaを作り、kāma gatiを強化し続けています。

アラハンも熱意を持って行なうことはありますが、していることに渇望はないのでkamma bījaも作らず、kāma gatiも作りません。

ここが違いです。

 

一方、感覚の快楽に不満を抱き、rūpa lōkaまたはarūpa lōkaのどちらかで「心の快楽」を楽しむために禅定を育む人もいます。

したがって、kāmarāgaを持っている人はkāma bhavaを生成します。

Rūparāgaarūparāgaはそれぞれrūpabhavaarūpabhavaにつながります。

このように、自分のgati に応じて好きなことを習慣的に行うことでbhavaがどのように準備され、強化されているかがわかります。

物事を行うには、kāya sakhāraが関与します。それらについて話したり考えたりすることはvaci sakhāraが関与します。これが、sakhāraが「汚れた考え方」すなわちviññānaにつながり、それがPaiccaSamuppādaのステップを介して対応するbhavaにつながる理由です。

 

このようにbhavaは私たちが行動を通して自分自身を築き上げているエネルギーです。

 

明らかにされるべきことの一つは、私たちが不道徳な行為をしなくても、私たちが感覚の喜びを切望している限り、私たちはkāma lōka4つのapāyāsと人間とdevaの感覚領域)で生まれ変わるに違いないということです。

しかし、そのような官能的な渇望は、それ自体では、apāyāsでの転生にはつながりません。

apāyāsでの転生は、apunnābhisakhāraまたは不道徳なsakhāraによるものです。

 

私たちが感覚の喜びが好きである限り(そしてそれらの危険性に気づかない限り)、私たちはkāma gatiを持ち、したがってkāma bhavaを持ちます。つまり、私たちはkāma bhavaに属する良いと悪いの両方のkammaの種子を生成し続けます。

 

 

それでは、kāma lōkaに残ることの危険性は何でしょうか?

たとえば良い家族、良い国、良い地域などで生まれるという環境によって、この生涯で不道徳な行為をしなくても、私たちは生き延びるために不道徳な行為をしなければならないかもしれない悪い環境で生まれ変わるかもしれません。

 

kāma lōkaから逃れるための方法は、anariya jhānāsrūpajhānāsまたはarūpajhānās)を育み、rūpaまたはarūpa lōkaでの転生を求めることです。

しかし、それでも、将来、kāma lōkaでの転生から「本当に自由」になることはありません。

これは、そのrūpa bhavaまたはarūpa bhavaのカルマ・エネルギーが使い果たされた後、そのanariya(非聖)の人が再びkāma lōkaに生まれ変わるためです。

 

これがBuddhaが少なくともNibbānaSōtapannaの段階を達成するために一生懸命努力するように比丘に忠告した理由です。

kāma lōkaでの転生の危険性を本当に知っていれば、自分を巻き込んでいる火を消そうとするほど、急ぐであろうと言いました。

 

実際、この世界の本質に気づき、その苦境から解放されるためにいくらかの進歩を遂げるとき、人は安心して幸せに感じ始めるでしょう。これはNibbānanirāmisasukhaです。

 

 

bhavaとは、「この世界」に「生きる」ことを意味します。

この世界とは31領域の世界のことです。

生きるとは31領域に関わるということです。

したがって、bhavaとは「この31の領域の世界」のどこにでも同時に「存在する」ことを意味するとも言えます。

 

rūpalōkajhānāsを育むと、rūpalōkaに存在することにつながることができるkammabījaのカルマ・エネルギーを生成します。

つまり、人間の領域にいる間でさえ、禅定に入ることで「効果的にrūpalōkaに住む」ことができます。

なぜなら、それがrūpalōkaの生命(Brahma)が経験していることだからです。

これがpavutti kamma bhavaと呼ばれます。

 

さらに、jhānaを実践すればするほど、そのkammabījaは強くなり、jhānaにいる間に死んだ場合、そのkammabījaupādāna、すなわち死の瞬間を把握するため、そのrūpalōkaにて転生します。

これがuppatti kamma bhavaです。

したがって、そのkamma bījarūpa lōka bhavaにあると言われています。

 

同様に、arūpa jhānāsを実践している人はarūpa lōka bhavakamma bījaを育みます。

さらに、人間の生活を送っている間でも、arūpa Brahmaの資質すなわちgatiを発揮する可能性があります。

 

したがって、特定のbhavaを持っている場合、現世の短期間でそのbhavaで生まれるか(pavutti kamma bhavaと呼ばれます)、または死のときにその領域で生まれる(uppatti kamma bhava)可能性があります。

 

 

 

 

 

 

 

 

bhūta

Suddhātthakaは、8つの基本実体で構成される単位を意味します。

 

suddha」は「純粋」または「基本」+attha」は「8」を表し、pure octad「純粋な8進数」とも翻訳されます)

 

これらのうち4つは「satara mahā bhūta 」です。

四大元素のpatavi土、āpo水、tejo火、vayo風。

これらは確かに物質の最も基本的な単位ですが、それ自体では感知できません。

それらはgatiによって生じます。

 

Suddhātthakaにはエネルギーのgatiが集まって4つの基本元素とそこから派生した4元素になった言う意味と

メンタル界のgatiという回路により、エネルギーが特定のカタチになることを意味します。

 

 

suddhāshtakaがどのように作成されるのか?

suddhāshtakaの生成には、連続して実行される数兆のcitta vithiが必要です。出典?

したがって、そのようなことは普通の人間ではあまり起こりません。  

例外はsamāpatthi、つまり第9禅定であるnirodhasamāpattiに入ることが必要です。

 

 

pataviāpotejovayo4つの基本単位はavijjā(無明)によって発生し、

varnagandharasaojaの他の4つの単位はtanhā(付着)によって発生します。

 

後者の4つは、pataviāpotejovayoに由来するのでupādaya rūpaとも呼ばれます。(upādaは執着する)、実際には、pataviāpotejovayoの異なる振動モードにすぎないものです。

 

satara mahā bhūtaは、マインドによって人間の4つの基本的な「gatiで最初に作り出されます。

pataviの特質は「粗さ」で、汚れたマインドとは「固さ」および「粗さ」です。

āpoの特質は「流動性」と「結合」で、世俗的なものに執着する、または惹きつけられる傾向に由来します。

tējoの特質は「燃えるような、すなわちエネルギッシュ」です。

vāyoの特質は「動き」です。

 

これらの物質的なものへの渇望は、tanhāによるもう4つのgatiにつながります。

私たちの物事を抽象化する傾向によって、四大元素は違った物質化現象をして、欲望と接触し、近くに置いておきたいと執着することで、再び生み出す渇望によって、

物質的なものへの渇望と嫌悪のため、四大元素とは違うもう4つのgatiである、varna (色)gandha(香)、rasa(味)、oja(汁)と呼ばれる4つのユニットが作り出されます。

それらは私たちの願望に対応して、相互関連し、密接(rassa)を保ち、再生成をします。

 

 

これらの8つは単独では発生しないため、「avinibbhoga(不可分の)rupa」と呼ばれます。

それらは常に一緒に発生します。どのsuddhātthakaにもこれらの8つがあります。

 

各構成要素の相対的な「量」は変化する可能性があるため、1つが特化した要素になったとしても、8つすべてがある程度は存在します。

これは、avijjāがあるところはどこでも必ずtanhāがあり、逆も同じであるということと同様です。

 

 

 

それらはすべてマインドに現れるjavana cittaで作成されます、

abhiññāの力を持つ人々は、花のような物質を大量に生成する可能性があります。

 

 

私たちはこれらのユニットから作られたものを所有するのが好きです。なぜなら、私たちはそのような非永続的なものの「実りのない性質」を理解していないからです。

これについては、Mahā­hatthi­pa­dopa­ma Sutta (MN 28)で簡単に説明されています。

英語の翻訳はThe Greater Discourse on the Simile of the Elephant’s Footprint (MN 28)

 

bhūtaは、そのとらえどころのない性質から別名はゴースト(幽霊)です。

それらは決して感知されることができず、釈尊によってのみ「見られる」ことができます。

釈尊はこれを世界についてすべてを知っていると思っていたMahā Brahmaに説明しました。

Brahma­niman­tanika Sutta (Majjhima Nikaya 49)  

 

 

私たちが物質と呼ぶ、これらの8つの不可分なユニットに固形化する前は、gatiという前段階があります。

このgathiが育まれるとbhūtaすなわち、suddhāshtakaのステージになります。

さらにbhūtaが凝縮すると、mahā bhūtaになります。

 

 

Dhammāすなわちkamma beejaは、まだsuddhāshtakaの状態に固まっていない「エネルギーのパケット」です。パケットとは、小包のようなデータの伝送単位を意味します。

 

 

suddhātthakaと呼ばれる物質の最小単位の起源

この物質の単位は、現代科学の「原子」よりも10億倍小さなスケールです。

suddhātthakaとは「エネルギーのパケット」であり、物質の基本単位です。

私たちが見ている光の光子に比べてよりはるかに小さいエネルギーです。

巨大な数のsuddhātthakaで、たった一つの光子のエネルギーになります。

つまり、単一の軽い粒子(光子)でも、非常に多くのsuddhāshtakでできています。

 

かつて、科学は原子が物質の最小単位であると信じていました。しかし、現代科学では原子は多くの「素粒子」の複合体です。それらの「素粒子」の多くでさえ、より多くの構造を持つことが示されています。

「物質の基本単位」がどれほど小さくなるのかまだわからず、現時点が最小単位の探求は終わりではありません。

 

現在、科学は「物質」と「エネルギー」を区別できていません。

たとえば、「ヒッグス粒子」は単なるエネルギーの塊です。

 

物質とエネルギーは本質的に同じであり、有名な方程式E= mc2E(エネルギー)= m(質量))よって表されます。ここで、cは光の速度です。したがって、物質の小さな単位は「エネルギーのパケット」と見分けがつきません。

 

たとえば、私たちが目にする光は、光子photonと呼ばれる「パケット」になります。

したがって、光子はこの意味で物質であり、したがって、この世界の主要なすべてのものは、「物質」または「エネルギー」と言うことができます。

しかし、この基本レベルでも、「物質」と「エネルギー」の区別があいまいになっています。

 

したがって、一部の人々が誤って信じているように、物質は「17の思考瞬間」の寿命しかを持たないのではなく、suddhātthakaの寿命はとんでもなく非常に長いのです。

 

現代の物理学では、一部の素粒子(電子など)の寿命が非常に長いことが確認されています。

したがって、この「すべてのものは急速に現れては消えていく」という考え方は誤解です。

 

suddhātthakaのステージは、非常に基本的な段階でメンタルのエネルギーが物質に変換される場所です。

これらの膨大な数のsuddhātthakaが融合すると、より凝縮された「mahā bhūta」の状態になります。

brahmas gandhabbasの微細な体はこのmahā bhūtaで作られています。

 

私たちの意識的思考はすべて、六感のうちの一つから始まります。

これらの6つの感覚機能により、私たちはこの世で6種類の「外」rūpaを感知します。

 

多くの人は、rūpaとは世界で見られる「物質的なもの」を意味すると考えています。

しかし、私たちが六感で感じることはすべてrūpaです。これを体系的に説明します。

5つの肉体的感覚で感知したものは、「密なrūpa」と呼ぶことができます。それらは、suddhāshtakaで作られています。つまり、satara mahā bhūtapataviāpōtejovayō)で作られています。

mana indriyaで感知されるこのようなrūpaDhammāと呼ばれます。

これらは単なるエネルギーであり、suddhāshtakaレベルにまで凝縮していません。

 

 

 

bhūtaの性質

yathābhūtañānaの理解       yathā本当の+bhūta物質+ñāna智慧   

 

科学者たちは、物質のもつ幻想的な性質を非常に小さなスケールで検証しました。

 

1897年にThomson.Jが電子を発見するまでは原子が最小の単位と思われていました。

その後、原子はより小さな単位(陽子、中性子、電子)で構成され、それらも素粒子などの下位の構造を持っていることがわかりましたが、サブユニット(クォークquarkなど)はまだ検知できていません。

 

量子力学の出現により、物質とエネルギーの区別があいまいになりました。

粒子の質量はその速度に依存し、静止時の質量は最小です。

光子すなわち「光の粒子」は静止時の質量がゼロ、つまり静止質量がゼロです。

つまりエネルギーがゼロになるということでしょうか?

 

現在では、素粒子の質量をエネルギー単位で表すことが一般的です。

すべての物質が構成されている「最小単位」を把握しようとすると、物質は幻想的な性質を持つことが明らかになりました。

 

さらに、特定の時間に素粒子の正確な位置を決定することはできません。

たとえば、電子は空間の特定の領域内にあると言うことができるだけです。

したがって、電子はゴースト(幽霊bhūta)のようなものです。特定の場所に固定することはできません。

 

光の粒子である光子の場合、状況はさらに悪化します。

光子が放出されると、感知器を停止させた後にしか、光子を見つけることができません。

光源から感知器までの光子の正確な経路を確定することは不可能です。

中間にはどこかあったのかもわかりません。

電子はゼロではない静止質量を持っているにもかかわらず、同じことが当てはまります。

これは「量子の奇妙さquantum weirdness」と呼ばれています。

これらの小さな粒子は、幽霊と同じくらいつかみにくいものです。

 

それはまさに釈尊が言ったことです。

suddhāshtakaは光子よりもはるかに小さく、釈尊はsatara mahā bhūtaが真の「物質の最小単位」であると言いました。

これが釈尊がbhūtaと呼んだ理由です。それらを見ることも、個別に感知することもできません。

上で述べたように、rūpaの最小単位、すなわちsuddhāshtaka8つのサブ単位で構成されます。

 

 

メンタル体

説明してきたこの世界に存在する物質の真の性質について理解すると、その人はyathābhūta ñānaを持っていると言われます。

ただし、読むだけではまだ開始したばかりです。

ñānaは、繊細な部分を理解するにつれて成長します。

 

Yathāとは「本当の性質」を意味します。

Yathābhūtaとは、マインドを介して生じる物質の本質、すなわちbhūtaの本質を意味します。

 

釈尊の有名なDhammapada gāthā(法句経)での

manō pubbangamā dhammāmanō seta manōmayā

は、「この世のすべてがマインドに起源を持ち、すべてがマインドによって設定され、マインドによって準備されている」ことを暗示しています。

 

Suddhāshtaka自体は不活性、すなわち「いのち」はありません。

それらはマインドによって、エネルギーが与えられて「kammaja rūpa 」になると「生命」を獲得します。

[kamma+jana+kvi kamma+ja出生  kammaja rūpaは、kammicエネルギーによって作成されます。

 

Source: Journey to Nibbana: Patthana Dhama

There are kamma that can cause kammaja rupas. These kamma are 12 akusala kamma, 8 kamavacara kusala kamma, and 5 rupavacara kusala kamma altogether 25 kamma can cause kammaja rupas or rupas generated by kamma.

Source: Pali Kanon: Manual of Buddhist Terms and Doctrines

'karma-produced corporeality'; s. samutthāna.

 

 

このエネルギーは、回転(paribramana)およびスピン(bramana)として埋め込まれます。

その埋め込まれたエネルギーがなくなると、回転とスピンが停止し、再び不活性になります。

たとえば、新しい生命のためにhadaya vatthu(マインドの「場」)は、cuti-patisandhi(死と再生)の瞬間にkammaja rūpaとして生まれます。

そして、その一生涯、hadaya vatthuはその回転と回転を維持します。

埋め込まれていたkammicエネルギーが使い果たされると、その動きは停止し、bhava(メンタル体のエネルギー)は終了します。

その時、新しいbhava(生命)のための新しいhadaya vatthu(マインドの「場」) は、kammicエネルギーによって形成されます。 

 

hadaya vatthu は「vatthu dasaka」とも呼ばれ、dasaka10を意味します。

これは、hadaya vatthu すなわちvatthu dasakaは、不活性なsuddhāshtaka8つの部分に加えて、2つのエネルギーモード(スピンと回転)があるためです。

それがdasaka10個のユニットで構成)と呼ばれる理由です。

この追加されたローテーションとスピンは、不活性なsuddhāshtakaに生命を与えます。

そのエネルギーの力はjavana citta(マインド)によって与えられます。

cittahadaya vatthuの関係性は?    bhavahadaya vatthuの関連性は?

 

 

kamma beejaに与えられるエネルギーが多いほど、kamma beejaから発生するbhavahadaya vatthu)が長く持続します。  

同じことが、cuti-patisandhiの瞬間に形成される5つのpasāda rūpacakkhusotaghanajivhakāya)にも当てはまります。

dasakaにはbhava rūpajivitindriya rūpa navaka(スピンbramana))があります。

bhava rūpaの機能は回転なのか?

 

私たちの重い肉体自体が完全に不活性(つまり生きていない)であることをはっきりと見ることができます。

実際の生命はgandhabbaにあり、具体的にはhadaya vatthu5つのpasāda rūpaです。

私たちの体の動きはgandhabbakāya dasakaによって制御され、全身に非常に細かいメッシュのように広がっています。

肉体が死ぬと、この生命を次の肉体に運ぶgandhabbaは体を離れ、体は不活性になり、衰退し腐敗し始めます。

体外体験(OBE)の場合、gandhabbaが肉体を離れても、それはまだ肉体(astral projection用語で「silver cordによって)に接続されています、それが体が腐敗し始めない理由です。

 

 

したがって、31の領域のすべての生命は、最大5つのpasāda rūpaを伴うhadaya vatthuの超微細な生命が基盤になっています。

具体的には、arupavaccara brahma領域では、hadaya vatthuのみがあります。

rupavacara brahmaの領域では、hadaya vatthucakkhusōta pasāda rūpaがあります。

他のすべての領域では、5つのpasāda rūpahadaya vatthuとともに存在します。

 

唯一の例外は最上位のasaññaの領域です。ここでは、kāya dasakaのみがjivitindriyaによって維持されます(思考が生成されないため、hadaya vatthuはありません)。

 

yathābhūta ñānaのもう1つの重要な教えは、

あらゆる領域のあらゆる生命は、samsāricのスケールでは短命です。

Samsāricのスケールでは、兆年は大海の一滴のようです。

本質的に、生命は、見ることも一時的に存在することも不可能な超微細な体によって維持されていて、すべての「生命」はbhūta(幽霊)のようなものです。

生命はエネルギーがあるからです。

「いのち」にはエネルギーがありません。つまり涅槃nibbānaです。

 

このyathābhūta ñānaは、肉体についての「ghana(高密度) saññā」を取り除き、体の本当の性質について知るのにも役立ちます。

肉体には「自己」があると信じているため、自分の密度の高い体をとても大切にしています。

 

Uccēda(高位?) ditthi(見解)を持つ人々(現在のほとんどの科学者や哲学者のように)は、私たちの肉体(およびその脳)がすべてであると信じています。

sāssata ditthiの人は、永遠に生きるメンタル体があると信じています。

 

釈尊は両方とも間違った見方であることを発見しました。

メンタル体はありますが、bhavaからbhavaへと劇的に変化します。

しばらくの間、devaまたは人間である可能性がありますが、次のbhavaapāyasにある可能性があります。

私たちの肉体には、「私のもの」とみなすに値するものは何もありません。

この事実を理解すると、sakāya(子宮?) ditthiSōtapannaステージを達成するための4つの条件の1つ)が削除されます。ただし、これはsakkāya ditthiを削除する1つの方法にすぎません。

この解釈についてはMūla­pariyā­ya­ Sutta (MN 1)“, “Kaccānagotta Sutta (SN 12.15) Mahā­ Hatthi­pa­dopa­ma Sutta (MN 28)で説明されています。

 

 

 

この世界のすべての物質の前駆体であるsatara mahā bhūtaは、マインドによって作られ、一時的な存在です。

それらは「bhūta」すなわち「ゴースト」です。

そして、他のすべてがそれらから作られているので、私たちはこの世界の「堅実で感触できるもの」は本当はどれもが「幽霊」のようなものです。

この「幽霊」のような性質の知識がyathābhūta ñānaと呼ばれます。

その知識があると、その正しい見解に従って世界を見ることができます。

これは「anu(順じて、倶に) bhūtam」と呼ばれます。

 

 

Brahma­niman­tanika Sutta (Majjhima Nikaya 49)

Viññāṇaṃ anidassanaṃ anantaṃ sabbato pabhaṃ, taṃ pathaviyā pathavattena ananubhūtaṃ, āpassa āpattena ananubhūtaṃ, tejassa tejattena ananubhūtaṃ, vāyassavāyattena ananubhūtaṃ, bhūtānaṃ bhūtattena ananubhūtaṃ, devānaṃ devattena ananubhūtaṃ, pajāpatissa pajāpatittena ananubhūtaṃ, brahmānaṃ brahmattena ananubhūtaṃ, ābhassarānaṃ ābhassarattena ananubhūtaṃ, subhakiṇhānaṃ subhakiṇhānaṃ subha­kiṇ­hattena ananubhūtaṃ, vehapphalānaṃ vehap­phalat­tena ananubhūtaṃ, abhibhussa abhibhuttena ananubhūtaṃsabbassa sabbattena ananubhūtaṃ..”

 

ananta[adj.] endless limitless infinite.

pabhā[f] light radiance

 

翻訳:「Viññāaは目に見えず、無限であり、すべての人の転生プロセスにつながります。

Viññāaでは、patavi, āpo, tējo, vāyo, bhūta, deva, pajapti brahma, abhassara brahma, subhakinha brahma, vehapphala brahmaなど、この世界のすべて(sabba)の本質を理解することはできません。 

 

 

アラハンに到達するまで、人は汚れた意識すなわちViññāaを持ちます。

それまでは、この世界のすべてが「幽霊のような」本当の性質を完全に理解することはできません。

つまり、yathābhūta ñānaは完全なものではありません。

 

 

Saḷāya­tana­ Vibhaṅ­ga Sutta (MN 137)

Rūpāna tveva aniccata viditvā vipari āma virago nirodham, pubbe ceva rūpā etarahi ca sabbe te rūpā aniccā dukkhā vipari āma dhammāti evameta yathābhūta sammappaññāya passato uppajjati somanassa

 

大意

現在まで存在している、つまり「いま・ここ」のrūpaには、「ゴーストのような一時的な性質」があります。

それが、想定外に変化し(viparinama)、aniccaの性質を持つ理由です。

この本質を理解すると、マインドの喜び(somanassa)になります。

 

 

 

 

mahā bhūta

bhūtaがさらに密を増したものが、mahā bhūtaです。

 

bhūtaよりも粗大ですが、dhātuよりも微細です。

したがって、dhātuである感触、香り、味の物質はまだないので、触覚、嗅覚、味覚はまだありません。

ですからdhātuで構成される肉体も当然ありません。

あるのはメンタル体とmahā bhūtaで構成された物質rūpaだけです。

具体的には、hadaya vatthucakkhu pasāda rūpasōta pasāda rūpaです。

肉体は存在できないので、肉体の視覚と聴覚はありませんが、メンタル体の視覚と聴覚はあります。

 

 

rūpi brahmasが住む 16段階にわかれる領域です。

無色界と色界がこのmahā bhūtaによって区分されます。

 

mahā bhūtaで構成された色界にBaka Brahmāが到達し、そこを普遍的世界、つまり涅槃nibbānaと勘違いしている説話がBrahmanimantanika Sutta (MN 49) にあります。

 

Baka Brahmāは、

「この存在は私の好みに合わせて維持することができます。それは安定していて、永遠です。それはすべてを含んでおり、過ぎ去るものではなく、生まれたものではなく、老化したり、死んだり、亡くなったり、出現したりすることもありません。もう苦しみはありません。この存在からのさらなる解放はありません。

私はpatavi, apo, tejo, vayoである dhātuへの渇望を克服しました。」と釈尊に言いました。

 

それに対して釈尊は

「あなたは無知です。あなたのいう「存在」はあなたの好みに適うと言いますが、それはそうではありません。あなたが言うようにそれは永続的ではありません…」

と応えました。

 

 

 

微細なdhātu

数十億個のsuddhāshtakaが組み合わされて、rūpamahā bhūta段階に至ります。

多数のmahā bhūtaが組み合わされると、それがrūpadhātuステージに至ります。

 

devaの体はより細かいdhātuで構成されており、私たちの体は、私たちが見るすべての物質的なものと同様に、より密度の高いdhātuで構成されています。

 

この世界のすべては、patavi, apo, tejo, vayo, Ākāsa, viññāna6つのdhātuで構成されています。

そのうちの5つは「物質的な世界」を構成し、viññāna dhātuは「非物質的な世界」を表します。

ちなみに、akāsaは単なる「空の空間」ではありません。他のdhātuが入る枠組になる機能があります。

 

物質世界の基本的な構成要素は、suddhāṭṭhakaです。

科学者たちは、原子が構成要素であると考えていましたが、今では、素粒子でさえ構造を持っていると言っています。

suddhāṭṭhakaはどの素粒子よりもはるかに細かいものです。非物質的な世界(すなわちメンタル界)には、suddhāṭṭhakaへのメンタル的前駆体があります。

それらがdhammāgatibhavaです。gatiに基づいて、javana cittasuddhāṭṭhakaを作成します。

 

膨大な量のmahā bhūtaが融合してさらに凝縮されたときのみ、私たちはそれらを見ることができます。

この高密度に凝縮された状態の物質は「dhātu」と呼ばれます。

deva(天人)の体は、繊細なdhātuで作られています。だから私たちはdevaを見ることができませんが、brahmasdevaを見ることができます。

肉眼ではなく、mahā bhūtaで構成されたcakkhu pasāda rūpaのメンタル体の眼で見ているからです。

 

私たちの体は、私たちが見ることができるほど微細ではない高密度のdhātuでできています。

そのため、固体物は「patavi dhātu」と呼ばれます。

そのような固体物のsuddhātthakaは主にpataviで構成されています。

液体は、ほとんどがāpo dhātuで構成されるため、一緒に束ねられて流れます。

火だけでなく「エネルギッシュな外観」をしている物は、多くのtejoによって構成されています。

そして、風だけでなく動きやすい傾向がある物はより多くのvāyoで構成されます。

 

しかし、(普通の人間の)私たちのgatiは、実際に多くの量のsuddhāshtakaも形成しません。

『起源経』経蔵長部 第27Aggaññasutta Dīgha Nikāya 27では、この世界の固体対象がどのように形成されたかについて説明されています。

すべてのモノの起源はgatiです。

dhammāはエネルギーなので、そこに点が必要となります。たとえば、空気中の大気にが「ちり」があると雲が形成されるように。

 

 

 

 

高密度のdhātu

私たちが見るすべての物質は、高密度なdhātuでできています。

岩は大部分がpataviであるdhātuです。水は主にāpoです。火は主にtējo で、風はほとんどvāyoです。地球、水、火、風がpatavi, āpo, tējo, vāyoと大まかに呼ばれているのはそのためです。

 

31の領域のどこかで生まれたとき、マインドを物質的な肉体に縛り付けているのはviññāna(純粋でない意識)です。

マインドの純度が上がると、密度の高いボディを持つ低い領域から、密度の低いボディを持つ領域に移動します。

 

下の領域(5番目の領域である人間の領域以下)では、マインドは通常、人間の目で見ることができる高密度の体に付着しています。これは密なdhātuのカタチです。    地獄と餓鬼の世界が見えないのはなぜ?

 

dēvalokā(領域6-11)では、肉体はより細かく精微です。

彼らのマインドには憎しみがなく、したがってより純粋です。

6-11の領域では、ボディはまだ「dhātu」形式のrūpaでできていますが、密度は低くなっています。

rūpalokaarūpalokaでは、マインドは憎悪と貪欲の両方を欠いているため、より純粋です。

rūpaloka(領域1227)では、存在の体はdēvasよりも密度が低く、mahā bhūtaで構成されています。

arūpaloka(領域28-31)では、bhūtaは、依然としてそれらの「gati」に関連付けられています

Dīgha Nikāya 11 Kevaṭṭasutta  英訳を参照すると、これらの領域では、rūpaはエネルギーと区別できないものと考えることができます。

 

 

 

nāmagotta    メモリ・レコード   記憶の記録

 

nāmagottaは、エネルギーが埋め込まれていない単なるレコード(記録)です。

意識体が想い、考え、話し、そして身体的に行動するとき、それらの痕跡が(テープのように)メンタル次元に記録されます。

 

 

たとえば、寅さんの渥美清やニューヨークのツインタワーのワールドセンターの物質(肉体やビル)は、もはやこの世界にはありません。つまりrūpaすなわち肉体やビルはsankataとして、消滅しました。しかし、それらのnāmagottaはある程度まではまだここにあります。

それらの記憶すなわちnāmagottaがどれだけ残っているかは、各自がそれらとどの程度密接に関連しているかによって異なります。名前を言った瞬間に、それらのイメージが思い浮かびます。それだけでなく、密接な関係を持った人は、映画を見ているように、その出来事を鮮やかに、そして思い出すことができます。

同様に、私たちは生活の多くの「出来事」すなわちnāmagottaの一部を思い出すことができます。

 

 

nāmagottaはエネルギーのない唯一のdhammāとも言われています。

論蔵ではdhammāの1つだと定義されていますが、エネルギーがないので、私見ではdhammāに含めないのが理解しやすいと思います。

 

 

一方、これらの活動の痕跡にはエネルギーが埋め込まれている(エネルギーでできている)モノもあります。

私たちがabhisakhāra(強いタイプのsakhāra)をするとき、それは良いまたは悪いkamma bija、すなわちDhammaの形成につながります。その強いkammabijaは、sankata(生き物や不活性なもの)の発生につながる可能性があります

それらは、物質界とメンタル界でカタチになるように、識蘊で待機する潜在力になります。

それらの「カルマの種」からエネルギーを取り外したコピーもnāmagottaの一部になります。

nāmagottaは、何が起こったのかについての単なる記録です。

 

また受vedanā、想saññā、行sankhāra、識viññānaにもエネルギーでできていますが、これらからエネルギーを取り外したコピーもnāmagottaの一部になります。

 

たとえば、sankhārāによる現在の想い、考え、行動にはエネルギーがありますが、それらは次の瞬間には過去のものになるので、それらはnāma gotta すなわち記録になります。

何かを実行する(sankhāra)たびに、その「記録」(nāmagotta)が作成されます。したがって、感覚が与えられた「生命」は、始まりのない時間からのすべての活動の記録が残存しており、それがnāmagottaです。

すべての前世と以前の人生のすべての活動は、たとえば映画のリールのように、その「記録の流れ」になっています。

 

このようにnāmagottaとは、メンタル体の経験した「すべてのイベント」の記録です。

 

 

永遠の記録

はじめからエネルギーがないので、生まれることも破壊されることないのはこの世ではnāmagottaだけです。

sankhārakamma bijasankataとは異なり、nāmagottaPERMANENTです(これらは単なるレコードです)。

Sayutta Nikāya 1 8. Chetvāvagga 76. Najīratisutta (SN 1.76) の性質が明確に述べられています。英訳

Rūpa jīrati maccānanāmagotta na jīrati」、

「物質的なものは朽ちて消えていきますが、nāmagottaは朽ちません。」

jīrati     老朽、崩壊

maccāna   死、破壊

 

 

そのため、abhiññāの力を持つ者は、過去のいかなる時にあった出来事でも思い出すことができます。

abhiññā神通を通じてanariya jhanasを開発した人は、それぞれの以前の人生のnāmagottāをたどることができます。しかも、よく発達したabhiññā力を使用すると、はるかに深い歴史を精査することができます。

釈尊は驚くほどの速さで好きなところまでさかのぼることができました。

(しかし、彼はどの衆生のnāmagottāの「始まり」を見ることができませんでした。そのため、転生プロセスの追跡可能な始まりがありません。)

 

私たちはこれまでの生活の多くの「出来事」すなわちnāmagottāの一部を思い出すことができます。

一部の幼い子供たちは、前世のnāmagottāのいくつかの出来事を思い出すことができます。

これらはabhiññāの力でできることに非常に似ています。 abhiññāの機能は記憶すなわち各自のnāmagottāにある過去のイベントを振り返る能力を大幅に拡張します。

 

私たちは、sakhāra(すなわち計画)を作成しますが、長期にわたってはうまく機能しないので、苦しみを受けています。したがって、それらのsakhāraは最後にdukkhaにつながり、結果的に長期的には助けになりません。

しかし、このnāmagottaはエネルギーがないので、他のタイプのdhammāとは違い、で苦しみにつながりません。

したがってaniccadukkhaの特性はありません。

しかし涅槃nibbānaのモノではないので、本質的に必要なものは何もありませんのでanattaすなわち、実体がない特性はあります。

 

 

nāma gotta」と「kamma bījaカルマの種子」の違い

すべてのイベントの記録は、そのイベントが完了するとすぐに「nāmagotta」に入ります。

しかし、いくつかのイベントはabhisakhāraを介して生成された「良い」または「悪い」強いkammaを含みます。

abhisakhāraには、apuññaabhisakhārapuññaabhisakhāraāneñjaabhisakhāra3種類があります。

これらは、PaiccaSamuppādaの「avijjā paccayā sakhārā」ステップのabhisakhāraのタイプです。

 

別の言い方をすれば、そのような行動がkammaの種子の形成につながります。

それらは因果の結果kamma vipākaをもたらす可能性があります。特に強いkamma vipākaは転生につながる可能性があります。

しかし、そのようなkammaの種子がvipākaをもたらす機会を得ないならば、それらのエネルギーは長い間にわたれば使い果たされます。その時点で、それらはに関連するエネルギーはなくなり、ただの「nāma gotta」になります。

 

kammaの種子は、それ自体で、たとえ私たちがそれを思い出そうとしていないとしても、私たちにārammaa(対象)を思い起こさせることができます。

つまり、出来事の記憶を取り戻すことができます。

さらに、強いkamma種子に関連するこれらの出来事を思い出すのは簡単です。そのような出来事は私たちにとって重要であり、したがって、それらを思い出すのは簡単です。一方、nāma gottaは思い出すのがより困難です。

kamma bijaはそのエネルギーのために、それ自体でārammaaを頭に浮かび上がらせることができますが、nāma gottaにはエネルギーがないので、思い出される必要があります。

換言すればマインドのエネルギーを照射することによってカタチになります。

 

 

Upādāna   なぜ他のものよりも何かを思い出しやすいのですか?

過去のすべての行動(およびスピーチと思考)の記録が「nāmaloka」に「永続的に保存」されています。

 

ただし、過去のイベントのいくつかは、他のほとんどのイベントよりも簡単に思い出すことができます。昨日起こったことすら思い出せないことが多いのに関わらずです。

 

思い出しやすいものには、私たちがマインドの中で「近づき続ける」傾向があるイベントであるからです。

それは、貪欲、怒り、または無知から起きている可能性があります。

美味しいものを食べたらまた味わいたくなります。

誰かが「悪い」ことをした場合、私たちは怒りからそれを忘れようとしません。

また、無知から意味のない「面白いこと」(たとえば、繰り返してしまう貧乏ゆすりなどの癖)を覚える傾向があります。

単なる「記録」すなわち「nāma gotta」に加えて、そのような「記憶に残る」イベントはメンタル界nāma lōkaにエネルギーを残しています。

それらがカルマのエネルギーであり、kamma bhavaの中にあるものです。

kamma bhavaとは、まだカタチになっていない枠組の中のあるエネルギーの塊です。

それらは、javana cittakamma viññāaに由来します。

そのようなイベントがabhisakhāraによって生成されたものです。

 

nāmagottaの保管場所

記憶とは誕生から死までをノンストップで記録し続けるビデオカメラのようなものです。死んでもカメラは廻り続け、次は新しい生を記録し始めます。

全ての前世が記録として永久に残存されるのがnamagottaと呼ばれるもので、これらが積み重なっているものがこの5つの塊すなわち五蘊(色・受・想・行・識蘊)だという解釈があります。

五蘊pancakkhandha過去、現在、未来にわたっているのに対して、Namagottaは過ぎ去ったことだけなので五蘊pancakkhandhaのほんの一部でしかない、という解釈もあります。

 

私たちは未来における計画を立てます。未来についてのイメージも五蘊pancakkhandhaの中での出来事です。

Namagottaとは既に起こったことだけを記録したものなので、未来のイメージははNamagottaとは呼びません。

しかし、今の瞬間が過ぎるか否や五蘊にNamagottaが付け加えられます、という解釈もあります。

 

私見では、Namagottaの保管場所は、メンタル界と物質界との架け橋になっている五蘊ではなく、9段階に変容するcittaの2番めに当たるmano界だと考えています。

ヨーガ派用語のprakritiであり、ātmanが根本自性prakritiを観照する以前のまだ3つのグナのバランがあり、時空と方向性がなく、エネルギーが発生していない状態です。

ここがこの世で唯一のエネルギーのない「場」とも時空とも呼べない存在だからです。

 

 

 

rūpaの特徴と種類    物質界とメンタル界

 

rupaの性質と輪廻転生

 

この世界である31領域の存在(生命)は、私たちのこの世の「モノrūpa」への愛着によって維持されています。

 

マインドがこれらの外部のrūpaに接触すると、assādaと呼ばれる短い感覚の楽しさを生み出します。

私たちはこれらの感覚の接触を長続きする楽しいものだと認識しているので、私たちは意図的にそのような感覚の喜びを望みます。

しかし、それらを得るために、どのような苦しみを経験しなければならないこと見ようとも知ろうともしません。

 

この世に発生しているいかなるrūpaも、予期せぬ変化(viparināma)と、最終的には老朽して崩壊します。

これがaniccaの性質であり、この世の基本の事実です。

しかしrūpaにも種類があり、崩壊するスピードも各段階により異なります。

 

Rūpaを、内部と外部で大別することもできます。

外部のRūpaは外界を構成し、。内部のRūpaは、実際の「感覚」を経験するメンタル界の非常に微細なpasada rūpacakkhusotaghānajivhākāya)だけでなく、物質界の肉体も含まれます。

pasada rūpaとは、肉眼、耳、鼻、舌、肉体からの物理的信号をメンタル界の電磁波に変換したものです。

非常に繊細なpasada rūpaは「メンタル的身体」すなわちgandhabbaの中ににあります。

 

 

メンタル界と物質界のrūpaの種類

仏法では、31の領域の「この世界」にあるすべてのものを、manaすなわちmanō(マインド)とrūpa(物質)の2つのカテゴリに分類できます。

 

マインドはcitta(想い)であり、想いのメンタル的特性はcētasikaです。

それ以外はすべてrūpa(物資的形状)です。

 

文脈によってはrūpaは拡大解釈されて、涅槃nibbāna以外のものであるdhammāエネルギーもrūpaに含む、すなわち、この世はすべてrūpaであるという定義もありますが、

このブロックではdhammāで構成されているメンタル界とdhātuで構成されている物質界に区別することにします。

 

多くの人は、rūpaは単なる身体または「物質的なもの」であると考えています。

rūpaのより良い翻訳は「物質とエネルギー」です。

31の領域ではcittacetasika以外のすべてはrūpaです。

 

私たちが五感で経験するrūpaには5つのタイプがあります。

目(cakkhu)で、私たちはvaṇṇa rūpa(目に見えるものは何でも)を経験します。

(sōta)で音(sadda)、鼻(ghāna)で香り(gandha)、舌(jivhā)で味(rasa)、身体(kāya)で感触(phoṭṭhabba)を経験します。

 

匂いは、鼻に入る小さな粒子、味は、舌の味蕾に触れる食べ物や飲み物の物質、触覚は「物質的なもの(圧力のあるもの)」どうしの接触です。

しかし、対象を見るには光、すなわち粒子(物質)でもあり波動(エネルギー)でもある光が必要です。

音も同様にphontosと音波という物質とエネルギーです。

これらのvaṇṇa rūpa(またはvarna rūpa)は「物質とエネルギー」であり、最終的には単なるエネルギーです。

20世紀に入って以来、科学は物質が単なるエネルギーであることを確認しました。それらはアインシュタインの有名な式E = mc2によって関連付けられました。

 

cakkhuñca paicca rūpē ca uppajjāti cakkhu viññāa.“の意味するところは、

眼という感覚器官に光粒子が当たることで、視覚という意識が生まれることを意味します。

したがって、vaṇṇarūparūpaとも呼ばれます)、saddagandharasa、およびphoṭṭhabba(五感)では、rūpaは実際にはエネルギーおよび粒子の一種です。

現代科学は今、物質とエネルギーの間に区別がないことに同意しています。

 

 

そして、物質/エネルギーはマインドによって作成されます。

bhūtaレベルより大きい物質は、最終的には超新星型爆発などの「lōka vināsa」で破壊されます。

そのときには物質はすべてgatiレベルに引き上げられ、爆発後の新星と惑星と衛星が誕生のプロセス時にgatiからbhūtadhātuに凝縮し、それを構成要素として生命体が誕生していきます。

 

したがって、rūepaは「密度」が低いエネルギーから、目で確認できる「高密度」な固体対象まで変化する可能性があります。

 

rūpa3つの段階を経て高密度になります。

 

gati」段階では、エネルギーと同義です。

bhūta」の段階では、それらはより凝縮されますが、人間の目はまだ見えません。

(これが、人間が見ることができない存在がパーリ語で「bhūta」と呼ばれる理由です)。

人間の目で確認できるのは「dhātu」の段階だけです。

Parinibbāna(アラハンの死)では、マインドは3つの形式(dhātu, bhūta,gati)のいずれのrūpaにも執着していません。

 

 

31の領域のどこかで生まれたとき、マインドを物質的な肉体に縛り付けているのはviññāna(純粋でない意識)です。

マインドの純度レベルが高くなると、感覚の対象が、密度の高い領域から、密度の低い領域に移動します。

 

 

より深いレベルでは、aniccaの性質、つまり私たちが何ものも満足に維持できないことは、あらゆるrūpaが老朽する(無常)だけでなく、予期しない変化(viparināmaの性質)にもさらされるという事実に基づいています。

したがって、Nibbānaを達成することは、完全に浄化されたマインドを達成することであり、それは、老朽と再生を繰り返しにつながる身体への負担を拒否します。

 

31の領域では、

密度の高い肉体(kāma loka)、

微細元素の体(rūpaloka)、

gati」のカタチにある「エネルギー」の痕跡(arūpaloka

と区分されており、ヒトは肉体とメンタル体とgati体(魂)があり、マインドがそれらの体から解放されるとき、それがNibbānaです。

 

 

仏法における28種類のrūpa(物質的形態)

 

Concretely Produced (Nipphanna

具象的

Abstract (AnipphannaRupa

抽象的

I. Great Elements (Mahā Bhuta)

4大元素

VII. Limiting Phenomenon

限定された現象

1. Pathavi (Extension/Hardness)伸展/硬度

19. Ākāsa dhātu (space element) 空間要素

2. Apo (Cohesion/Fluidity) 凝集性/流動性度

IX. Communicating (Viññatti) Rupa

3. Tejo (Heat/Hotness) 熱温

20. Kāya Viññatti

4. Vāyo (Motion/Pushing & Supporting)

21. Vaci Viññatti

II. Internal (PasādaRupa  内部  

X. Mutable (VikāraRupa可変

5. Cakkhu (eye element)  

22. Lahutā (lightness) 明るさ

6. Sota (ear element)

23. Mudutā (Elasticity) 弾力性

7. Ghāna (nose element)

24. Kammaññatā (weildiness) 使いやすさ 適応性

8. Jivhā (tongue element)

XI. Material Qualities (Lakkhana Rupa)

9. Kāya (body element)

25. Upacaya (production) 生産

III. Gocara (Objective) Rupa対象物

26. Santati (continuity) 連続

10. Vaṇṇa (visible) 

27. Jaratā (Decay) 減衰

11. Sadda (Sound)

28. Aniccatā (Dissolving) 溶解

12. Gandha (Smell)

13. Rasa (Taste)

 

Phoṭṭhabba (Tangibility, warmth, and movement) 触覚、暖かさ、動きcomes from 3 mahā bhuta of pathavi, tejo, vāyo

IV. Bhava Rupa 

 

14. Itthi (Feminine)

 

15. Purisa (Masculine)

 

V. Hadaya (Mind Base) 心の基盤

 

16. Hadaya Vatthu (seat of the mind)

 

VI. Life

 

17. jīvitindriya (Life faculty) 生命機能

 

VII. Nutritional栄養

 

18. Oja (Nutriment)

 

 

 

rūpaの種類

4大要素(#1から#4)と4つのgocara rupa(#10から#13)は常に一緒に表われます。

それらはそれ自体では決して感知されることはありません。

それらはsuddhāṭṭhaka8種類のrūpaによる最小の集合体を意味します)として一緒になります。

 

paisandhi(死)の瞬間にカルマ・エネルギーによってのみ作成された9つのrūpaがあります。

それらは5つのpasāda rupa(#5から#9)と、メンタル体のマインド(hadaya vatthu)にある4つの他のrupa(#14から#17)です。

 

青でハイライトされている16rūpaは微細(sukumarūpaです。他の12は粗雑(oārikarūpaです。

Nipphanna rupaは、kammacittaututejo)、およびāhāraoja)によって引き起こされます。

他の10anipphanna rupa)は、kammacittaututejo)、およびāhāraoja)によって引き起こされたり調整されたりすることはありません。

表の右側にある10種類のanipphanna rūpaは抽象領域のrūpaです。

 

 

3領域とrūpaの種類

28rupāはすべてkāmaの領域(欲界)で発生しています。

sadda5つのvikāra-rupājarātarupa、およびaniccatā-rupaを構成する8つのrupāは、誕生の瞬間(patisandhi)には発生しませんが、生涯の間、形成されないrūpaはありません。

 

Asañña領域を除く15 rupaの領域では、23rūpaが発生します(ghana-pasāda, jivha-pasāda, kaya-pasāda, itthi-bhava purisa-bhavaは除外されます)。

 

Asañña領域では17 rūpaしか発生しません。それらは8つのavinibbhoga4つのmahābhutavaṇṇagandharasaoja)そしてjivita rupaākāsadhatu3つのlahutadi、および4つのlakkhana-rupāです。

 

arupaの領域では、(hadayavatthを除く)suddhāṭṭhakaレベルを超えるrūpaは発生しません。

したがって、物質の痕跡は31領域のどこにでも存在します。

 

8つすべてのanariya jhānāを達成した古代のヨギは、arupa lokarūpaを見ることができず、それがNibbānaであると推測しました。

しかし、arupa lokaに達した者も、将来には他の領域で生まれ変わるため(少なくともSotāpannaの段階に達しない限り)、arupa loka でもrūpaは「足場」を持っています。

したがって、arupa lokaでは物質エネルギー(転生プロセス)とのつながりが切断されていません。

 

 

 

三蔵によるrupaの定義

以下は三蔵のDhammasagaī(法の編纂)セクションの2.2.3. Rūpavibhattiからの引用です。

saṅgaṇhāti[saṃ + gah + ṇhā] treats kindly compiles collects

 

 

  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ itthindriyaṃ? Yaṃ itthiyā itthiliṅgaṃ itthinimittaṃ itthikuttaṃ itthākappo itthattaṃ itthibhāvoidaṃ taṃ rūpaṃ itthindriyaṃ.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ purisindriyaṃ? Yaṃ purisassa purisaliṅgaṃ purisanimittaṃ purisakuttaṃ purisākappo purisattaṃ purisabhāvoidaṃ taṃ rūpaṃ purisindriyaṃ.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ jīvitindriyaṃ? Yo tesaṃ rūpīnaṃ dhammānaṃ āyu ṭhiti yapanā yāpanā iriyanā vattanā pālanā jīvitaṃ jīvitindriyaṃidaṃ taṃ rūpaṃ jīvitindriyaṃ.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ kāyaviññatti? kusalacittassa akusalacittassa abyākatacittassa abhikkamantassa paṭikkamantassa ālokentassa vilokentassa samiñjentassa pasārentassa kāyassa thambhanā santhambhanā santhambhitattaṃ viññatti viññāpanā viññāpitattaṃidaṃ taṃ rūpaṃ kāyaviññatti.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ vacīviññatti? kusalacittassa akusalacittassa abyākatacittassa vācā girā byappatho udīraṇaṃ ghoso ghosakammaṃ vācā vacībhedoayaṃ vuccati vācā. tāya vācāya viññatti viññāpanā viññāpitattaṃidaṃ taṃ rūpaṃ vacīviññatti.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ ākāsadhātu? Yo ākāso ākāsagataṃ aghaṃ aghagataṃ vivaro vivaragataṃ asamphuṭṭhaṃ catūhi mahābhūtehiidaṃ taṃ rūpaṃ ākāsadhātu.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa lahutā? rūpassa lahutā lahupariṇāmatā adandhanatā avitthanatāidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa lahutā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa mudutā? rūpassa mudutā maddavatā akakkhaḷatā akathinatāidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa mudutā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa kammaññatā? rūpassa kammaññatā kammaññattaṃ kammaññabhāvoidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa kammaññatā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa upacayo? Yo āyatanānaṃ ācayo, so rūpassa upacayoidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa upacayo.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa santati? Yo rūpassa upacayo, rūpassa santatiidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa santati.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa jaratā? rūpassa jarā jīraṇatā khaṇḍiccaṃ pāliccaṃ valittacatā āyuno saṃhāni indriyānaṃ paripākoidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa jaratā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa aniccatā? Yo rūpassa khayo vayo bhedo paribhedo aniccatā antaradhānaṃidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa aniccatā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ kabaḷīkāro āhāro? Odano kummāso sattu maccho maṃsaṃ khīraṃ dadhi sappi navanītaṃ telaṃ madhu phāṇitaṃ, yaṃ panaññampi atthi rūpaṃ yamhi yamhi janapade tesaṃ tesaṃ sattānaṃ mukhāsiyaṃ dantavikhādanaṃ galajjhoharaṇīyaṃ kucchivitthambhanaṃ, yāya ojāya sattā yāpentiidaṃ taṃ rūpaṃ kabaḷīkāro āhāro.

 

 

rūpaのテクスチャすなわち堅固性は密度の粗密

 

密度と苦しみ     欲界Kāma lōka、色界rūpa lōka、無色界arūpa lōkaの特徴

 

生命体が感覚の接触を経験し、楽しむ(または苦しむ)方法は、「生命」の3つの領域によって異なります。

欲界Kāma lōka、色界rūpa lōka、無色界arūpa lōkaです。

 

生命体は、この世界から喜びを得ることを期待しているため、この世界に愛着を持っています。

そのような喜びは、Rūpaと接触することによって得られます。それらにはさまざまな密度のrūpāがあります。

 

一番高い密度のrūupaであるdhātuで構成された世界が欲界Kāma lōkaです。

ほとんどの「粗いōlārika」感覚接触はkāma lōkaでのみ可能です。

人間の領域(およびその下の領域)で経験するrūpaは、dhātuと呼ばれる最も密度の高い種類のものです。

devaの領域は、私たちには見ることのできない、より繊細なdhātuで構成されています。

6つのdeva領域は、人間の領域よりも大幅に柔らかくなります。

devaの体ははるかに繊細で(メンタル体のように)通常の人間はそれらを見ることができません。

 

ヒトが感知する世界は5感覚器官と心の器官の2種類があります。

密度が高くて一番強いのは感触です。次に、味、匂い、視覚、音、その順で密度が低くなります。

最も柔らかい接触は、dhammaを通してです。これは非物質界です。考えたり、将来についての計画をしたり、過去のことを思い出したりします。

 

なぜ粗いniraya地獄の世界は見ることができないのか?

それとも地獄とは1次元や2次元のことを指していて、すでに見ているのか?

 

 

Rūpa lōkaには、最も粗い感覚の接触(触覚、味覚、嗅覚)はありません。

Rūpa lōkabhūtaで構成されているので、3感覚器官の信号であるdhātuは存在しないからです。

16Rūpa lōkaの領域では、Brahmā(生命)はマインドに加えて、視覚的および聴覚的接触のみが利用可能です。

 

ヒトがRūpa lōkaを訪ねられるとしても木のような「固体の対象物」はないので、見るものはないでしょう。

rūpa lōkaには、微細で微妙なrupaだけが存在します。

rūpa lōkas(色界)のrūpi brahmas(生命)はmahā bhūtaと呼ばれるさらに繊細なrūpaを経験します。

ただし肉体は持たず、粗いrūpaであるdhātuを判別できなので、触感、味、香りを感知することはできません。

微細なrūpaである光や音の周波は判別できるので、見たり聴いたりすることはできます。

 

4つのarūpa lōkaの領域にいるarupi Brahmā は、マインドだけを持ち、suddhāṭṭhakaステージよりも微細な最高に微細なrūpa (dhamma)だけを体験します。

 

Arūpalōkakāmalōkarūpalōkaにあるような「凝縮されたrūpa」がないことを意味しますが、もちろんdhammāは存在します(これらのarūpaの存在は私たちと同じように過去の出来事を考え、思い出すことができます)。

Arūpa lōka(無色界)4つの領域では、suddhāṭṭhakaによって構成された「密度のある物質」はありません

arūpa Brahmāhadaya vatthuを除く)。

物質の最小単位で作られたbhūtaの痕跡であり、そしてはるかに繊細なgati(またはgathi)があるだけなので、光も音波も感知することはできません。

Arūpa lōkaの存在(生命)はdhammāのみを経験します。彼らは五感のいずれも持っておらず、マインドだけを持っています。

したがって「rūpalōka物質界」は、kāma lōka rūpa lōkaの生命だけがアクセスできます。

 

「夢の世界」と無色界の共通点

私たちが夢見るとき、私たちは人や物質的な物体を「見る」のです。

しかし、それらは物理的な場所ではなく、非物質界にあります。そして、私たちはそれらの夢を私たちの目で「見る」のではなく、mana indriyaで「見て」います。

 

私たちが眠るとき、私たちの五感は機能しません。しかし、脳のmana indriyaは機能します。

科学者たちは、睡眠中に脳の一部が活動していることを確認しています。

夢の世界とArūpalōkaでの経験は、共通点もあります。

どちらも5感が機能していないので媒体はdhammāであること、そして他者からの話を聴いたり、本を読んだりすることができないという点です。

Arūpalōkaでの「生命」は、熟慮することができます。ただし、読むことも聞くこともできません。したがって、聖人から三相(aniccadukkhaanatta)や四諦(pancakkhandha)について学ぶことはできないので、arūpa lōkaではNibbānaSotāpanna段階に至ることはできません。

 

このため、悟りを開いた釈尊は、禅定の師であった2人にそれをすぐに伝授しようとしたのです。

転生してしまうともう伝えることができなくなるからです。

釈尊が禅定してArūpa lōkaで思念として伝えられるのではないか?

gatiを消すには、そのgatiに関連する感覚を心が穏やかな状態で再体験する必要があるが、arūpa界ではご感覚器官で作ったgatiがそのまま残存してしまうからではないか。

 

しかし、Arūpa lōkaに転生する前にSotāpannaの段階に達していれば、そこで瞑想して熟慮できるので、Sotāpannaより高い段階の「道」を歩むことができます。

 

rūpa lōkaarūpa lōkaの両方のBrahmāは、kāma lōkaで利用できる「kāma assāda」(ā-sādiyati楽味)の危険を目にしました。

彼らはヒトも感じるjhānicの快楽を享受し、「粗い」感覚の快楽よりもjhānicの喜びを大切にしてきました。彼らは、触覚、味覚、および嗅覚を介することで可能な「粗い」感覚の快楽への渇望は放棄しました。

 

密度と感覚の具体例です。

祖母が孫の笑いや周りで踊るのを見て楽しい時間を過ごしているとしましょう。

最初は遠くから見ていて、小さな赤ちゃんが楽しんでいる姿を楽しんでいるのかもしれません。

それから彼女は近づき孫を抱擁します。遠くから見るだけでは十分ではありません。

彼女は孫に触れたちと感じます。

孫が小刻みに動き続け、楽しい時間を過ごすと、祖母が孫にキスを始めます。場合によっては、祖母が気づかずに抱きしめすぎて孫が苦痛で泣き叫ぶかもしれません。

これが、極端な感覚の喜びへの渇望が苦しみにつながる例です。

もちろん、最も苦しみにつながるのはōlōrika感覚の喜びへの渇望です

しかしrupi arupiの領域にも苦しみはあります。arupi Brahmāのレベルでさえ、愛着が最も柔らかなrūpa dhamma)の喜びのみである場合でも、その存在を放棄して人間の領域に戻らなければならないとき、最後には必然的に苦しみがあります。

 

 

「密度の低い」領域では苦しみが軽減

したがって、必然的な苦痛の程度は、感覚的接触の「密度」と関連しています。

痛み、うずき、病気があるのは、下位5領域(人間の領域を含む)だけで、その密度の高い肉体です。

より高い領域では、それらは存在しません。これは、ボディマッサージ、セックス、食事、香りなどの「粗い接触の快楽」を体験できるために人間が支払わなければならないことです。

kāma lōkaにいる私たち人間は、親密で「粗い」感覚の喜びを楽しみます。さらに、ほとんどの場合、感覚の喜びを楽しむだけでは十分ではありません。

私たちは感覚的な喜びをもたらすものを「所有」するのが好きです。たとえば、人々は別荘や時計や服やバッグを「所有する」ことを好みます。借りるだけでは十分ではありません。

楽しいものを「所有する」傾向は、密度の低い領域では減少します。

brahma lōkas、特にarupi brahmaの領域では「所有」する重要なものはほとんどありません。

 

聖道の歩み

Nibbānaのより高い段階に到達するにつれて、「粗い」感覚の快楽への渇望、および「所有する」ものへの欲求が低下します。

Sotāpannakāma assādaの危険を「見た」だけです。

/彼女はまだそれらを楽しんでいます。したがって、彼/彼女はまだkāma lōka領域で生まれますが、apāyāでは生まれません。

Sakadāgāmiは、まだ「kāma assāda」を楽しむことができますが、喜びを与えるものを「所有」する意欲はありません。いい家を借りるだけで十分で、いい家を所有したいという欲求はありません。実際、Sakadāgāmiは「物を所有すること」の負担をはっきりと見れます。Sakadāgāmiは人間界より上の領域でのみ生まれます。

Anāgāmikāma assādaを楽しむことに特別な関心はありません。彼/彼女は空腹を癒すために食事をします(しかし、提供されるとおいしい食べ物を食べます。)

Anāgāmiは、いかなる感覚的な喜びよりも「Dhammaの喜び」を優先させます。(もちろん、ここでの Dhammaは仏法です)。彼/彼女は、死の際にAnāgāmisのために予約されたrūpa領域で生まれるので、kāma lōkaで生まれ変わることはできません。

アラハンは、jhānicな快楽さえも望んでおらず、死後は31の領域のどこにも生まれません。

それぞれの居住可能な惑星系(cakkavāla)には、31の存在領域がありますが、私たちの惑星、すなわち地球では、人間と動物の2つの領域しか見ることはできません。

 

 

Rūpakkhandhaの特徴

RūpaRūpakkhandhaの違い

 

rūpakkhandhaを単純に「カタチの集合体」と翻訳すると、「モノの集合体」という誤った印象を与える可能性があります。そのため、ここではあえてパーリ語のrūparūpakkhandhaを使用します。これらに完全に対応する日本語がなく、日本語に置き換えることで本来の意味が誤って捉えられることを避けるためです。

 

rūpa」と「rūpakkhandha」の違いを理解するためには、まず、釈尊が「rūpa」という言葉で何を意味しているのかを理解することが重要です。

 

1.釈尊における「rūpa」とは何か

パーリ語の **rūpa** は、慣習的には「形」「物質」などと訳されています。しかし、仏法におけるrūpaは、私たちが日常的に考える「目に見える固体のモノ」だけを意味するものではありません。

 

rūpaについての定義は、パーリ語経典の相応部(Sayutta NikāyaSN 22.56SN 22.57など、Tpiakaの多くの場所にあります。 英語訳はSN 22.56SN 22.57です。

 

概要すると、rūpaは四大要素(mahābhūta)と、それらを基礎として成立する派生した色法によって構成されています。

ここで重要なのは、四大要素からなるrūpaが、必ずしも私たちがイメージする「固体の物体」を意味するわけではないということです。

 

2rūpaは「固体」や「素粒子」だけではない

私たちは通常、人体、木、家、岩など、目に見えて触れるものを「物質」と考えます。しかし、仏法におけるrūpaは、それよりも広い範囲を含みます。

たとえば、五つの身体感覚器官、すなわち、眼、耳、鼻、舌、身体を通じて経験される対象も、rūpaに含まれます。

それから、パーリ仏教では私たちのメンタルもrūpaの容器によって成立していると考えるので、メンタル自体はrūpaではありませんが、メンタルのあるところにはrūpaがあります。

 

3.現代的な「物質」と「エネルギー」との違い

現代の言葉では、人体、木、家などの目に見えるものを「物質」と呼び、光、音、熱など、目に見えないものを「エネルギー」と呼ぶことがあります。

100年ほど前に、アインシュタインのE = mc2の公式により、現代科学は物質とエネルギーは本質的に同じであることを認めました。重力から存在することは分かっていますがまだ計測されていない現代科学のダークマターやダークエネルギーもrūpaのカテゴリに含まれると推察できます。メンタルではないものはrūpaと涅槃nibbānaしかないからです。

伝統的なアビダンマの説明では、四元素から構成されるsuddhāṭṭhaka(浄き8)が物質エネルギーの最小単位で、現代科学では想像を絶するほど小さく、原子や電子よりも数十億倍も小さいものだとされています。

仏法では、これらのrūpaを、さらに細かく分析して捉え、上座部アビダンマでは、rūpa28種類の色法として分類します。

 

428種類のrūpa

上座部アビダンマでは、上記の図表のようにrūpaは全部で28種類に分類されます。

この28種類の中には、私たちが通常「物質」と考えているものだけではありません。

感覚器官や感覚対象、生命などに関係する28種類のrūpaのうち、日常的な意味での「物質」や「固体」とは異なるものも含まれています。

したがって、rūpa=物体と理解すると、28種類のrūpa全体を理解することができません。

 

5rūparūpakkhandhaは分類基準の違い

ここまでが、rūpaを理解するための基礎です。

では、rūparūpakkhandhaは何が違うのでしょうか。

rūpaは、物質的現象・色法を指す言葉です。

一方、rūpakkhandha(色蘊)は、五蘊(pañcakkhandha)の一つとして分類されたrūpaです。

つまり、両者はまったく別の種類のものを指しているのではありません。

 

rūpaという法を、「五蘊」という分類体系から捉えたものがrūpakkhandhaです。

この違いを理解するためには、まず「rūpa」という言葉が、私たちの日常的な「モノ」や「形」という意味よりも、はるかに広い範囲の現象を指していることを理解しておく必要があります。

そのうえで、rūpaを「五蘊」という観点から分類したときに現れるのが、rūpakkhandha(色蘊)です。

 

 

rūpa(色法)とrūpārammaa(色所縁)とrūpakkhandha(色蘊)

用語

何を指すか

特徴

富士山との関係

rūpa(色法)

物質的現象

物質とメンタルをブッダが分けた物質

富士山そのもの

rūpārammaa(色所縁)

眼識が取る視覚対象

感知が発動する原因となる信号

「見られている富士山」

rūpakkhandha(色蘊)

五蘊のうち色法をまとめた分類

各自の体験を基準点にした時の物質的なものをまとめた総称

五蘊として分析するときの「色」の集まり

 

rūpa(色法)            rūpakkhandha(色蘊)
 ├─ rūpārammaa(色所縁)
 └─ その他の色法
   
rūpa
という観点       → 物質的現象

rūpārammaaという観点   → 眼識の対象になっている色・形

rūpakkhandhaという観点   → 五蘊の「色蘊」に分類されるもの

となります。これは、同じ一枚の紙を、「紙」という物質として見る、「視覚対象」として見る、「五蘊の色蘊」として分類するというように、分類の切り口が違います。

したがって最終的には       rūpārammaa rūpa

そして、五蘊の分類を採用すれば、 rūpārammaa rūpakkhandhaです。

 

色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊の具体例

現象・対象

五蘊との関係

具体的な意味

実際の富士山の色・形

色法

岩・雪・土・樹木などの物質的現象。外界の色法として存在する

認識した瞬間に色蘊になる

写真に写った富士山

色法rūpa

写真そのものは物質なので色法。

「富士山そのもの」ではなく、富士山を表す物質的媒体

視覚器官 眼

色法rūpa

色蘊(rūpakkhandha

眼識が生じるための物質的条件

nāma-rūpaではrūpaであり、五蘊では色蘊

眼浄色cakkhu-pasāda-rūpa

色法rūpa

色蘊(rūpakkhandha

眼識が生じるための物質的条件 (微細感覚器官)

nāma-rūpaではrūpaであり、五蘊では色蘊

「見られている富士山」

色蘊のrūpārammaa

眼識が取る視覚対象   認識される対象

眼識

識蘊(viññāakkhandha

視覚対象を知る 

富士山を見ている心

識蘊(viññāakkhandha

「富士山という対象を知っている」という識の働き

目に映った富士山の形・色

色蘊+識蘊の認識過程

外界の色法が眼に現れ、それを眼識が認識する

「これは富士山」と認識する働き

想蘊(saññā

特徴を捉え、「富士山」と識別する働き

頭の中の富士山のイメージ

想蘊を中心とする名法

過去に見た色や形をもとに、心に再現される心的表象。物質的な色蘊ではない

「富士山」という名称・概念

paññatti(概念)

「富士山」という名称・概念そのものは五蘊には含まれない。

それを認識する心には五蘊が関係する

富士山を見て「美しい」「気持ちいい」と感じる

受蘊(vedanākkhandha

快・不快・どちらでもないという感受

富士山について考える・判断する・行動したいと思う

行蘊(sakhārakkhandha

意図、判断、注意、欲求など、多数の心所による形成作用

富士山を見た経験を記憶として再び思い出す

想蘊を中心とする名法

過去の経験を想が捉え直し、識がそれを認識する。

必要に応じて受・行も伴う

 

「名法(nāma-dhamma)」とは、物質的な現象(rūpa)ではなく、心・心の働きとして生じる現象を指す用語。

ただし、注意したいのは、nāma nāma-dhamma は文脈によって意味が変わることです。五蘊との対応は、

五蘊

パーリ語

名法/色法

色蘊

rūpakkhandha

色法(rūpa

受蘊

vedanākkhandha

名法(nāma

想蘊

saññākkhandha

名法(nāma

行蘊

sakhārakkhandha

名法(nāma

識蘊

viññāakkhandha

名法(nāma

したがって、非常に大まかに言えば、五蘊 色法 名法です。

 名法は「心」だけではなく、例えば、vedanā(受)、saññā(想)cetanā(思・意思)、phassa(触)、manasikāra(作意)、lobha(貪)dosa(瞋)alobha(無貪)amoha(無痴)など、心とともに生じるさまざまな心的現象も名法です。つまり、名法=「心という一個のもの」ではなく、心と心に伴って生じる非物質的な諸法と考える方が正確です。

 

整理するとrūpa rūpārammaa rūpakkhandha saññā paññatti

「心的表象(mental representation)」=「イメージ・シンボル・名称・概念」の全部、と単純にイコールではありません。

文字や名称は概念を表す手段の一つで、その概念に対応する意味内容やイメージが心に伴うこともあります。ただし、ここで「イメージ」と「概念」を同じものとしてしまうと混線します。

 

1.まず「心的表象」を3層に分ける

「心的表象」という言葉は便利ですが、便利すぎて何でも入ってしまうという、用語として欠点があります。

たとえば「富士山」を思い出した場合、

@ 感覚的イメージ 頭の中に浮かぶ富士山の姿はvisual mental image、つまり視覚的な心像です。

A 名称・記号   「富士山」「Mt. Fuji」「富士山」という文字は言語的・記号的表象です。

ただし、「富士山」という文字列そのものと、「富士山」という意味・概念は区別した方がいいです。

B 概念・意味  「富士山」と聞いて、特定の対象どを「これだ」と把握することがあります。

これは単なる画像ではなく、意味としての概念的把握です。

 

したがって、心的表象とは

├─ 感覚的イメージ

   ├─ 視覚イメージ

   ├─ 聴覚イメージ

   ├─ 嗅覚イメージ

   ├─ 味覚イメージ

   └─ 触覚イメージ

├─ 言語・記号的表象

   ├─ 「富士山」という音

   └─ 「富士山」という文字

└─ 概念的表象

    └─ 「富士山」という意味・カテゴリー

 

に分けると理解しやすいが、これは現代の認知科学的な整理であって、アビダンマの分類表に変換できない。

 

2.では「概念=文字」なのか?

違います。例えば、「犬」という文字を見た場合、「犬」という文字列と、犬という概念は別です。

さらに、犬の姿が頭に浮かぶという視覚イメージも別です。

したがって、「犬」という文字→「犬」という名称→「犬」という概念→犬のイメージという関係が成立することがありまが、必ずしも一直線ではありません。

 

例えば犬を実際に見て、「犬だ」と認識した場合、文字を一度も思い浮かべなくても「犬」という概念は成立します。

逆に、「犬」という文字を見ても、意味を知らなければ犬の概念は成立しません。

つまり、概念は文字ではありません。文字は概念を表現するための記号です。

 

3.では「記憶の富士山」は何なのか?

例えば、目を閉じて「富士山」を思い出と、現在目の前に富士山という外界の色法があるわけではありません。

現在の意門に、「富士山の姿が浮かぶ」という心的現象が生じています。これは、外界の富士山そのものではありません。したがって、外界の富士山→ rūpaに対して、

思い出された富士山のイメージ→ 過去の経験を条件として現在の心に生じている心的対象です。

ただし、ここを「現在の想蘊そのものが画像を作っている」と単純化すると、アビダンマ的には少し危険です。

saññāは「表象そのもの」ではなく、対象を識別・標識化する心所だからです。

 

4saññā(想蘊)は「イメージ」そのものではない

saññā 心的イメージです。

saññāは、「これは以前経験したものと同じ種類だ」と特徴を捉えて識別する働きです。

例えば、赤い丸い果物を見る→特徴を捉える→「リンゴ」と識別するとき、リンゴの画像と、「リンゴ」と識別するsaññāは同じものではありません。

したがって、「想蘊にある香り・音・感触・味」という表現も、厳密には注意が必要です。

 

5.では「想蘊にある香り」とは何なのか?

例えば、昔行った旅館の畳の匂いを突然思い出したとします。

実際に現在、鼻に畳の匂いの粒子が接触していないが、「あの畳の匂い」が心の中で再現されることがあります。これを現代的には、嗅覚的な心的イメージと呼べます。

そしてsaññāの働きとしては、「これは以前経験した、あの匂いだ」と識別する働きがあります。

つまり、香りの心的イメージとその香りを「何の匂いか」と認識するsaññāを分けます。

 

6.音の場合

例えば、昔聞いた母親の声を思い出す。頭の中に、「あの声」が再現されることがあります。

これは聴覚的な心的イメージです。

そして、「これは母親の声だ」と識別する働きがsaññāです。

同様に、昔聞いた好きな曲のメロディー、電車の音、波の音、鳥の声なども、記憶から再現される聴覚的表象になり得ます。

 

7.触覚の場合

例えば、子供のころ触った砂浜の砂の感触を思い出す。あるいは、温泉に入ったときの「熱い・柔らかい」感じ

を思い出し、識別する働きがsaññāです。

これらも、現在身体に実際の刺激が来ていなくても、心の中で触覚的表象として再現されることがあります。

 

8.味の場合

例えば、コーヒーの苦味、チョコレートの甘さ、レモンの酸味などの感じが心の中で再現されることがあります。

これも、味覚的心像と、「これはレモンの味だ」と識別するsaññāを分けて考える必要があります。

 

ここで「想蘊にある五感の記憶」を整理すると

過去に経験したもの

現在、意門で再現されるもの

saññāの働き

富士山の姿

富士山の視覚イメージ

「富士山」と識別

母親の声

声の聴覚イメージ

「母の声」と識別

畳の匂い

匂いの嗅覚イメージ

「畳の匂い」と識別

梅干し

酸っぱい味のイメージ

「梅干しの味」と識別

猫の毛

毛の触覚イメージ

「猫の毛の感触」と識別

こ表の「saññāの働き」とは「想蘊そのものがそのイメージを所有している」という意味ではありません。

 

paññatti」との関係

例えば、富士山の視覚イメージと、「富士山」という概念は同じではありません。

過去の実際の富士山→rūpa→過去の視覚経験→現在、意門に再現→富士山の視覚的心像

→「富士山」という識別・名称 paññatti

ただし、実際の心の働きはこんな綺麗な一本道ではありません。

「富士山」という言葉だけで、視覚イメージが浮かばない人もいます。

逆に、富士山の写真を見るだけで、「富士山」という名称を意識しなくても識別できる場合があります。

だから、概念=イメージでもなく、概念=文字でもありません。

 

要訳

【過去】

実際の対象→rūpa→五感による経験→その経験が記憶として残る

【現在・意門】

記憶が想起される→心的表象

 ├─ 視覚イメージ

 ├─ 聴覚イメージ

 ├─ 嗅覚イメージ

 ├─ 味覚イメージ

 └─ 触覚イメージ

 

同時に/関連して、saññā→特徴を捉え「これは何か」を識別→名称・概念→paññatti

したがって、元の文章の「記憶の富士山」=想蘊が再構成した心的表象という表現は、説明用としては使えますが、アビダンマ的には少し粗いです。

より正確には、「記憶の富士山」は、過去に経験した色法を条件として、現在の意門に生じている心的対象であり、その中には視覚的な心像や、それを『富士山』として識別するsaññā、さらに『富士山』という名称・概念(paññatti)が関係し得るが、これらは同一のものではない。

つまり、まとめるとsaññāは、イメージではない、概念でもない、

paññattiは、文字でもない

心的表象は、それら全部と完全に同義でもない

この区別ができると、「想蘊は何をしているのか」「paññattiはどこから出てくるのか」「意門に現れる記憶は色蘊なのか」が、かなり明瞭に分離できます。

 

改めて確認すると、

paññatti(概念・名称)とは?  「想蘊=概念」ではない 

paññatti(概念・名称)とは、想蘊(saññā)という「心の働き」そのものではなく、想などによって認識・構成された「概念的な対象」です。

1. 想蘊は「概念」ではなく「概念を捉える働き」

想蘊(saññākkhandha)の想(saññā)は、「対象の特徴を捉えて、再認識できるようにする働き」です。

例えば富士山を見たとします。雪をかぶった山→形・色・特徴を捉える→saññā(想)→「これは富士山だ」

このとき、「富士山だと識別する働き」=想です。

一方、「富士山」という概念・名称=paññattiです。

つまり、「想=認識する側の働き」と「paññatti=その働きによって成立する概念的対象」という関係です。

 

2. 「富士山」を例にすると

1段階:物質的対象   富士山→色・形など→rūpa

2段階:認識      眼識→「見える」

3段階:識別      saññā(想)→特徴を捉える→「これは富士山だ」

4段階:概念     「富士山」→paññatti

ここで重要なのは、「富士山」という概念が、想蘊そのものに変わったわけではない、ということです。

 

3. なぜpaññattiを五蘊に入れないのか

五蘊は、「経験を成立させている五種類の現象」を分類したものです。

色蘊 rūpa、受蘊 vedanā、想蘊 saññā、行蘊 sakhārā、識蘊 viññāa

一方、paññattiは、「心が対象を区別・命名・概念化することで成立する「概念・名称」」です。

したがって、「五蘊とは別の概念的な施設」となります。

 

4. ただし「概念を認識している心」には想蘊がある

例えば、「富士山」という文字を読んでいるとします。

「富士山」という概念そのものはpaññattiですが、それを認識している心には、

識蘊 「知る」

想蘊 「富士山」という特徴・意味を捉える

受蘊 快・不快など

行蘊 注意、意図、思考など

が関係します。

したがって、paññattiは想蘊ではないが、paññattiを認識する際には想蘊が働く

という関係です。

 

5.「想=ラベル」ではない

これまでの話で「想」を、「富士山」というタグを付ける機能、と表現すると分かりやすいのですが、厳密には少し狭すぎます。saññāは、単に言葉を付けるだけではありません。

例えば、「色を識別する」「形を識別する」「音を識別する」「過去に経験したものと再認識する」「特徴を捉える」なども想の働きです。

だから、富士山→特徴を捉える→saññā→「富士山」と再認識できる→paññatti、という関係になります。

 

. ヴィパッサナーとの関係

普段は、色・形→想→「富士山」→「美しい」→「また見たい」

というように、概念が高速に成立するため、私たちは「富士山という一つの固定した物体を見ている」と感じます。

ところがヴィパッサナーでは、色・形→生起・変化・消滅→受→想→行→識という構成過程を観察します。

すると、「富士山」という固定した実体ではなく、色法・識・想・受・行が条件によって成立しているという見方が可能になります。

したがって、paññattiは「想蘊」ではなく、想などの心の働きによって成立・認識される概念的対象です。想蘊は、その概念を生み出したり、特徴を捉えて再認識したりする側の働きです。

この区別をしておくと、「想が概念を作る」と「概念そのものが想蘊である」は別だということが明確になります。

 

富士山そのものは五蘊ではない

例えば、目の前にある富士山は岩、雪、木で構成されています。これらは物質です。

したがって、これは「富士山自身の五蘊」ではありません。

なぜなら富士山は有情ではないからです。

 

色蘊とは何か

アビダンマでは色蘊とは「有情の経験を構成する色法」です。

例えばあなたが富士山を見た瞬間、眼球、視神経、眼感覚器(cakkhu-pasāda-rūpa)などあなた側の色法があります。これらはあなたの色蘊です。

一方、富士山は外界の色法です。

 

nāma-rūpaではどうなる?

nāma-rūpaではnāma心、rūpa物質という大分類です。

ここでは富士山はもちろんrūpa、つまり物質界です。他には眼球や眼浄色(cakkhu-pasāda-rūpa)もrūpaです。

分類の基準軸はブッダから観たメンタル界と物質界です。ここでブッダからの視点になる理由は、一般人が考えていない、kalāpaで構成されている色界や無色界の物質界も考慮されるからです。具体的には眼浄色(cakkhu-pasāda-rūpa)や心基hadaya-vatthuな通常の視覚では感知できない微細領域も物質界に含まれます。

 

五蘊ではどうなる?

五蘊という分類法はnāma-rūpaの分類軸とは異なります。

修行していない人も含めて、各自の心(経験)を基準点として、物質とメンタルを分類しています。

ここではブッダが観る普遍的なrūpaかどうかではなく、「経験主体を五蘊として分析するときのrūpaをまとめたもの」で、これを色蘊rūpakkhandhaと呼びます。

したがって、富士山は rūpa(物質)ですが、それを認識する過程であれば「経験主体を構成する rūpa」として、五蘊の色蘊とも区分されます。

具体的な「経験主体を構成する rūpa」とは、各自の感覚器官とそれらに接触する外界の信号、浄色、心基hadaya-vatthuなども含まれます。しかし主体が浄色、心基を前提にしていないのであれば、それらを考慮する必要がありません。

各自のメンタルを5つの分野に分ける理由は、各分野の構成要素は「私」に関係なく生滅する実体なきものであることを観察するためであり、それらは執着しようにもできるものではないことを実感するためです。

 

では富士山を見た瞬間は?

富士山はnāma-rūpa の分類での rūpa、そしてこの富士山を視覚的に経験する対象(rūpārammaa)として、五蘊の分類では眼を介する信号としての色蘊rūpakkhandha、と2種類の分類があります。

色蘊とは、有情の経験を構成する色法(物質に区分されるもの)」を指します。

体験する時には眼という感覚器官も色蘊rūpakkhandhaに分類されます。

つまり、nāma-rūpaは「瞬間的存在を名法と色法に分ける分類」なのに対して、五蘊は「有情の経験を五つの蘊に分析する分類」です。

この二つは分類の目的が異なるため、「rūpa」という同じ語が使われていても、指している範囲と基準点が異なります。

 

「実際の富士山は外界の色法だが、各自にとって認識される対象となるときには色蘊になる」という理解ではなく、

「実際の富士山は外界の rūpa(色法)。それを認識する側では、眼浄色という主体側の rūpa が色蘊に属し、眼識は識蘊、識別作用は想蘊として成立する」と理解するのが、今回の文脈ではより正確です。

「富士山そのもの」と「富士山を経験している五蘊」を分ければ、これまで話してきた「富士山のイメージ」「dhammā」「paññatti」も一本につながります。

 

「富士山を見る経験」

              

       ┌── ──┼────┐

     色蘊       識蘊       想蘊

   眼浄色       眼識       

  (色法)     (識)     (識別)

 

眼浄色は「色蘊という別物を作る」のではなく、それ自体が色蘊に属する。

眼識はその色法を条件として生じる識蘊。

想蘊は、その認識された対象の特徴を捉えて「これは何か」と識別する働きです。

そして「色蘊→識蘊→想蘊」は一本の物質→心→概念の階段ではなく、一つの認識経験を五つの側面から分析したものと考えるのが最も分かりやすいです。

 

ヴィパッサナー観察からの解釈

ヴィパッサナーでは「富士山」という一個の完成した経験を観察するのではなく、

対象→眼識→受→想→行→次の認識、という条件によって生じては消えていく現象を観察します。

そして、「富士山」という一つの固定した「物を見ている私」と思っていたものを分析すると、

色法、識、受、想、行が条件によって生起しているだけ、という構造が見えてくる。

これが五蘊をヴィパッサナーの対象として見るときの重要なポイントです。

 

 

存在論と修行論

『法集論(Dhammasagaī)』では「色蘊」は外界の色法も含むように定義されますが、『清浄道論(Visuddhimagga)』では「修行者が分析すべき五蘊」という観点が強調されるため、有情の経験を構成する色法を中心に説明されます。

つまり、定義そのものが矛盾しているのではなく、「何を分析対象にしているか」が異なるのです。

 

@ 『法集論』の立場

『法集論』はアビダンマ第一論であり、「存在する法(dhamma)を分類する」ことが目的です。

そのため、「rūpa とは何か」を列挙するときには、

地、水、火、風、色、音、香、味、その他の色法など、すべての色法(rūpa-dhamma)を対象にしています。

つまり、外界の岩→rūpaも、人体→rūpaも同じ rūpa-dhammaです。

『法集論』では色蘊は一切の色法(sabba-rūpa)として扱われます。

つまり富士山も石も身体も全て色蘊に入ります。

ここでは存在論(Ontology)として整理しています。

 

A 『清浄道論』は修行マニュアル。目的は修行者が何を観察するか

そのため五蘊を説明するときには、主にこの身体→受→想→行→識を分析します。

つまり、外の富士山より自分の経験がテーマになります。

だから説明が経験論になります。

 

この2つは分類軸が違います。

法集論は存在する法として全てを分類し、清浄道論は苦を観察するために、自分の五蘊を分析する

 

注釈ではどう説明するか

注釈書では、色蘊をupādinnaka-rūpa(執取された色法)とanupādinnaka-rūpa(執取されていない色法)に分けます。

upādinnaka-rūpaは業(kamma)によって得られた身体です。

例えば、眼、耳、身体など。つまり有情に属する色法です。

anupādinnaka-rūpaは外界です。

例えば、山、石、海、雲など。これらも色法ですが「身体として執取された色法ではない」という区別になります。

 

改めて、富士山は色蘊か?

存在論では富士山→rūpaですが、修行論ではヴィパッサナーが観察するのは、富士山そのものではなく「富士山を見る経験」です。つまり富士山→眼識→受→想→行→識を観察します。

 

 『清浄道論』の意図

『清浄道論』は世界を分析する本ではなく、苦を終わらせるために、自分の経験を分析する本です。

だから富士山そのものではなく、富士山を見ているこちら側(五蘊)を分析します。

 

この違いを図にすると

観点

『法集論』

『清浄道論』

目的

法(dhamma)の分類

修行・観察の実践

色蘊

一切の色法

修行者が経験する色法を中心に説明

富士山

色法(色蘊に含まれる)

外界の対象であり、観察対象は「富士山を見る経験」

身体

色法

色蘊として詳細に観察される

分析の中心

存在論

経験論・実践論

 

 

釈尊は、2種類の区分の仕方を説きました。

1つは物質とそうでないもの。もう1つは、人が経験することを5つの要素で分析する五蘊です。

五蘊では経験している状態を基準にしてメンタルを5つに区分して、物質に関わるものはあらゆるものを1つの巨大な「コレクション」すなわち「集合体」として扱いました。それが「rūpaの集合体」すなわち「rūpa khandha」(rūpakkhandha)です。

つまり、rūpakkhandhaの中にあるものは、実際の(物理的な)rūpaではありません。

観察されたものは何でも、観察された直後に、メンタルの痕跡になり、それを釈尊はvedanāsaññāsakhāraviññāa という4つのカテゴリーに分けました。

これらの「コレクション」すなわち「集合体」がvedanākkhandhasaññākkhandhasakhārakkhandhaviññāakkhandhaです。

釈尊はこれら5つの集合体、すなわち五蘊の観点から、生き物の存在、そして、これらの5つの実体が発生し消滅することを「原因とその結果」の法則で説明しました。 

 

rūparūpakkhandhaの主な違いを再確認します。

物質的なrūpadhātuレベル)は以下の2種類のいずれかです。

人が目で見たり、触れたりする(人、人の体、体の一部、木、惑星、星など)、通常「固体の物質」と呼ばれているものです。

物質的な rūpa は、眼で捉えられる色・形、耳で捉えられる音、鼻で捉えられる香り、舌で捉えられる味、そして身で接触される三大元素などとして経験されます。

 

phoṭṭhabbārammaa(触所縁)は特殊で、経験されるものは、独立した「第29番目の色法」のようなものではなく、地界(pahavī)、火界(tejo)、風界(vāyo)という三大元素として説明されます。

つまり、触覚そのものが rūpa ではない、という点にも注意が必要です。

触覚で経験される「硬い・柔らかい・熱い・冷たい・動き・圧力」などの物質的性質の基盤が、三大元素としての rūpa です。

 

さらに、rūparūpārammaarūpakkhandha までつなげると、

rūpa(色法)→五蘊としてまとめる→rūpakkhandha(色蘊)

その rūpa のうち、眼の対象としての rūparūpārammaa(色所縁)となります。

 

では「rūpārammaa phoṭṭhabbārammaa は、どちらも rūpakkhandha なのに、なぜ rūpārammaa だけを特別に『色所縁』と呼ぶのか」   

結論から言うと、rūpārammaa だけが特別扱いされているわけではありません。

むしろ、「ārammaa(所縁)」という観点と「rūpakkhandha(色蘊)」という観点が違うために、そう見えるのです。

 

1. まず結論

観点

rūpārammaa

phoṭṭhabbārammaa

日本語

色所縁

触所縁

何の対象か

眼識の対象

身識の対象

感覚門

rūpa

はい

はい

rūpakkhandha に属するか

はい

はい

「色所縁」と呼ばれる理由

眼識の対象だから

身識の対象なので「触所縁」

 

したがって、rūpārammaa phoṭṭhabbārammaa は、どちらも rūpakkhandha に属する rūpa ですが、認識される感覚門が違うので別の ārammaa 名を持つ、ということです。

 

2. rūpa」という言葉が二つの意味で登場するので混乱する

rūpaには、A. 「色法」という広い意味の物質的現象全般

この意味では、色・形、音、香り、味、触れられる物質的性質なども rūpa に含まれます。

 

B. 「色・形」という狭い意味  眼で見る対象としての rūpa

こちらが、rūpārammaaです。したがって、rūpārammaa rūpa は「色法全体」という意味ではなく、「眼に映る色・形」という意味です。

 

3. では phoṭṭhabbārammaa は何なのか

phoṭṭhabba は「触れられるもの」です。アビダンマでは、触所縁として経験されるものは、

pahavī-dhātu 地界、tejo-dhātu 火界、vāyo-dhātu 風界の三大要素として説明されます。

一方、ākāsa-dhātu(空界)は触所縁ではありません。

したがって、phoṭṭhabbārammaa = 地・火・風という三大要素が、身識の対象として現れること、と理解するとよいです。

 

4. ここで「rūpakkhandha」とつながる五蘊の分類では、rūpakkhandha = すべての rūpa の集合です。

したがって、

rūpakkhandha

├── rūpārammaa

   └── 色・形(眼の対象)

├── saddārammaa

   └── 音(耳の対象)

├── gandhārammaa

   └── 香り(鼻の対象)

├── rasārammaa

   └── 味(舌の対象)

└── phoṭṭhabbārammaa

    ├── 地界

    ├── 火界

    └── 風界

という関係になります。

 

ただし、ここで重要なのは、これは「rūpakkhandha 5分類」そのものではないということです。

これは、rūpakkhandha に含まれる rūpa を、五感の対象という別の観点から見ているのです。

 

 rūpārammaa rūpa なのか、rūpakkhandha なのか?」

rūpārammaa は「rūpa」と「rūpakkhandha」のどちらか一方ではありません。

分類軸が違います。

「それは何という法か?」→ rūpa「法としての分類」

「五蘊のどこに入るか?」→ rūpakkhandha「五蘊としての分類」

「眼識にとってどんな役割をしているか?」→ rūpārammaa「認識対象としての分類」

つまり、一つの同じ物質的現象について、

 

 たとえば、富士山を見ているとします。

外界の色・形を、rūpaとして分析でき、それが五蘊の分類では、rūpakkhandhaです。

そして、「眼識が取っている対象」という認識論的な観点からは、rūpārammaaです。

さらに、その「見えたもの」に対して、「富士山だ」という概念が成立すれば、それはpaññattiです。

したがって、認識過程をかなり単純化すると、

rūpa(色・形)→rūpārammaa(眼識の所縁)→cakkhuviññāa(眼識)→saññā(想による識別)→「富士山」

という paññattiという整理ができます。

ここで、rūpārammaa は「別の物質が新しく発生した」という意味ではありません。

同じ rūpa が、「眼識の対象になっている」という関係によって rūpārammaa と呼ばれているだけです。

 

Rūpakkhandhaは、経験したすべての外部rūpaメンタルの「印象」です。それらは触れることはできません。

各自のrūpakkhandhaは無限です。それは「始まりのない時間」にさかのぼって、過去のすべての人生で見たすべての記録です。

 

 

khandha「集めたもの」すなわち「集合体」を意味します

khandha」とは、パーリ語では、「堆積した塊」すなわち「集積物」を意味します。

 

rūpaの「堆積した塊」すなわち集合体がrūpakhandhaです。 「rūpakkhandha」として韻を踏みます。

パーリ語ではsandhiといって、2つの文字を重ねて韻をふむ文法があります。

たとえば、Dhamma Cakka Pavattana sutta Dhammacakkappavattana suttaDhamma savanadhammassavanaと記するように。

 

釈尊は「五蘊の範囲を超えて、独立した『私』『人』『生き物』という実体を見いだすことはできない」

と言いました。 出典 MN 109 Mahāpuṇṇamasutta

一般的に説明されているように、人の五蘊pancakkhandhaとはその人の体ではありません。

それは物理的なものでさえありません。それはすべてメンタルです

 

生物のpancakkhandhaには、両方(フィジカルとメンタル)の世界の「構成要素」があります。

rūpa kkhandhaは、物質世界のメンタルの印象です。

他の4つのkhandha(受vedanā、想saññā、行sankhāra、識viññāna)は、メンタル界のメンタルの印象です。共通点はメンタルの印象であること、相違点は対象が物質界とメンタル界であることです。

 

各意識体は自分だけのメンタル的印象を作るため、すべての意識体とは自分自身特有の五蘊pancakkhandhaであるとも言えます。

私たちは人生で(そして過去の人生)で非常に異なるものを見てきましたので、私たちのrūpakkhandhaは大きく異なります。それぞれに別のrūpakkhandha があります。

Chachakka Sutta (MN 148)では6感覚の機能がvedana, saññā, sakhāra, viññānaを生成することを説明しています。

また、それぞれがvēdanākkhandhasaññākkhandhasakhārakkhandha、およびviññānakkhandhaを持っていることもわかります。これらはすべて同じように個人特有のものです。

 

 

Rūpakkhandhaはメンタルの中での物質的要素

rūpakkhandhaはすべてメンタルであることを再確認します。

「カタチの集合体」と訳してしまうと、「物質のコレクション」という意味になってしまい誤謬をうみます。

Mahāhatthipadopama Sutta (MN 28)で、Sariputta長老がrūpakkhandhaを説明しています。

 

具体例では、

たとえば、真っ暗な部屋に座っている場合、部屋に多くの物体があったとしても、何も見えませんが、懐中電灯を照らすと、そのスポットライトもの(たとえば、壁、天井、コップ)を見ることができます。

するとはじめて認識されて、主体のrūpakkhandha の一部になります。 

 

別の例では、2人が部屋で本を読んでいるときに庭でメジロが鳴きましたが、1人は本に夢中でそれに気が付きませんでしたが、もう1人は本にあまり興味がなく、その鳴き声を聴いていました。

本に集中していた方には、「メジロの鳴き声」は聞こえなかったので、rūpakkhandhaの一部にはなりません。

 

実際のrūparūpakkhandhaの違いを視覚化する別の例では、福島原発事故や津波のどちらも体験していなくても、多くの人は心のなかで映像を思い出すことができます。

実際の爆発事故や津波の物理的な形はもはや存在しませんが、それらはrūpakkhandhaの中にあります!

 

このようにいくらそこに物質や音というrūpaがあっても、それにスポットライトを当てて、対象を認識して、記憶ないと、それはrūpakkhandhaに加わることがありません。

ですから各自がそれぞれ特有のrūpakkhandhaを持っています。

 

 

Rūpakkhandhaは想像を絶するほど巨大!

rūpakkhandharūpaの「メンタルの印象」であり、そこにあるrūpaではないことは確認できました。

重要な点は、私たちがrūpaを経験すると、経験はその瞬間にすぐに消えてしまうということです。

rūpakkhandhaのほとんど(中には空想、妄想などもある)は、すでに経験したもので、なんと私たちが過去の転生で経験したことはすべてrūpakkhandhaにあると、三蔵では理解しています。 

前世を含み、これまでに見たことのある過去のrūpāは、atita rūpāati〜を越えて+ √i行く+ ta過去分詞を作る接尾辞「過ぎ去った」)と呼ばれるものです。

これらは物質的なrupāではなく、それらは過去に存在したrūpaの単なる記憶です。

 

たとえば、子供だったときにあった空き地の遊び場は、今では宅地造成されて家が建っているので存在しませんが、記憶の中でその遊び場を「見る」ことができます。もう他界した祖母や友人たちも同じです。

未来のrūpaすなわちanāgata rūpa[an + āgata] not come yeti. e. future)(たとえば、どのように建てるか構想中の家のスケッチ)は時間とともに変化する可能性があるもので、実際の物質的なrūpaは関与していません。

 

現在目にしているすべてのrūpapaccuppannarūpa)は、すぐにatita (過去)rūpaのカテゴリーに移動します。その対象が二度と見られなくても、その記憶は残存します。

 

 

Rūpakkhandha の他のタイプのrūpa

全部で11種類のrūpakkhandhaがあります。

Khandha sutta (SN 22.48)は、rūpakkhandhaの内容を要約しています。

 

Ya kiñci, bhikkhave, rūpa atītānāgatapaccuppanna (atita,anāgata,paccuppanna) ajjhatta bahiddhā oārika sukhuma hīna paīta ya dūre santike , aya vuccati rūpakkhandho.

 

過去、未来、現在、内、外、粗い、微細、悪い、良い、遠い、近いの11種です。

これらがrūpakkhandhaと呼ばれます。

 

paccuppanna[adj] existing present        現在の

aya[nomsingof ima),m; f] this person  これ

vuccati[vac + ya] to be said or called        呼ばれる

 

内部(ajjhattarūpaとは、自分自身の一部であるものです。つまり、体の内部を含むすべての体の部分です。外的(bahiddharūpaは体の外にあるものです。

粗い(olārikarūpaとは私たちが「固形物」と呼んでいるものであり、

微細な(sukumarūpaとは「エネルギー」(熱、音など)です。

「悪い」(hīnarūpaと「良い」(panitarūpaがあります。

一部のrūpaは遠く(dūre)にあり、一部は近く(santike)にあります。

したがって、これらのカテゴリの間でいくつかの重複の可能性があることがわかります。

 

これらの多くは、私たちが見たこともないrūpakkhandhaです。

実際には一度も見たことがなくても、心の中に「メンタルの印象」を持つことがあります。

たとえば、インカ帝国のマチュ・ピチュの遺跡の風景を実際に見たことがなくても、そのイメージである「メンタルの印象」を持っている人は少なくありません。

 

 

記憶の保存場所

rūpa(形)はkāma lokarūpa loka(物質界、色界)にあり、rūpakkhandhaはあらゆるrūpaを五蘊の観点からまとめたものです。SN 22.56

富士山の心的イメージは、外界に存在する富士山のrūpaではありません。

したがって、「記憶された富士山のイメージ=rūpakkhandha」とするのも不正確です。

 

では「rūpakkhandha」はどこにあるのか?

nāma lokaにある」という表現は正確ではありません。

rūpakkhandhaは「世界(loka)の場所」を表す言葉ではなく、法を五蘊として分類したものだからです。

例えば人間界では、人間の身体は rūpa であり、五蘊という観点から分類すれば、rūpakkhandhaです。

人間の身体は当然、kāmalokaに存在するrūpaですので、rūpakkhandha nāma lokaにあるとは言えません。

 

実際、SN 22.53では、識が色・受・想・行などを条件として成立する関係が説かれています。

mano(意)という第六の感覚器官・感覚門があり、mano + dhamma manoviññāaという認識があります。

より正確には、意門によって、過去の経験、思考、記憶、概念などの法(dhamma)を対象として認識します。

 

私たちが過去に経験したrūpa、たとえば富士山の姿や音、匂い、味、身体的な感触などを後から思い出す場合、現在の意門に、その過去の経験に基づく心的表象が生じることがあります。しかし、この心的表象は過去に存在したrūpaそのものではなく、またrūpakkhandhaそのものでもありません。

 

私たちは第六の感覚門である意門(manodvāra)を通して、記憶、思考、概念などの心的対象を経験します。ただし、これは「nāmalokaという別の世界を体験する」という意味ではありません。

 

SN 1.76 Najīratisutta rūpa jīrati maccāna, nāmagotta na jīrati という句も、「物質が消滅しても、心的情報がnāmalokaに永久保存される」という意味に拡張して解釈するべきではありません。ここでのnāmagottaは、名前・名声・家系など、社会的・言語的に人を指し示すものとして理解する方が適切です。

 

過去のrūpaを経験→現在、意門で想起→心的表象・記憶 saññāviññāa等の名法が関与

→「富士山」などの名称・概念→paññatti

ここで重要なのは、過去のrūpa 記憶された心的表象 rūpakkhandha nāmagottaということです。

 

kāmaloka」と「nāma loka」を混同しない

kāmalokaは仏教の三界の一つです。一方、nāmaは「名法」というdhammaの分類です。

したがって、nāma loka(メンタル界)という表現を、kāmalokarūpalokaarūpalokaと同じレベルの正式な世界分類として扱うのは避けた方がよいです。

つまり、分類の軸が違います。

【世界の分類】kāmalokarūpalokaarūpaloka

【法の分類】 rūpanāma

【五蘊の分類】rūpakkhandhavedanākkhandhasaññākkhandhasakhārakkhandhaviññāakkhandha

 

 

「見ること」とは想いである(CakkhuViññāa

Cakkhuñca paicca rūpe ca uppajjāti cakkhu viññāa

rupa(光粒子)がcakkhucakkhupasādarupaの略、メンタル界の眼である純粋粒子)と接触したときにcakkhu viññāa(眼の意識)が発生する、ことを意味します。

ここでのpaticcaとは、cakkhurupaが「一緒に集まる」すなわち「接触する」ことを意味します。

 

たとえば、暗闇で照明をつけたら、コップが見えた場合、照明ライトの光粒子がコップに反射し、それが目の感覚入力となり、脳はそのコップの画像を電磁波に転換し、その電磁波エネルギーがメンタル界のgandhabbacakkhu pasāda rupaと接触して共鳴し、マインドの「場」であるhadaya vatthuを振動させて、心路citta vithiプロセスが始まり、cakkhu viññāaが生起すると、そのコップを認識します。

したがって、「見る」とは、cakkhuviññāa(対象の視覚イメージの想い、意識)のことです。

こうして一般的には、照明をつけて、そこにコップがあると、「コップだ」とう想いがマインドに生起します。

 

見たコップは、コップ自体と同じではなく、それは各自の物質界の眼で捉えられ、無意識のうちにメンタル界で各自特有の想saññāと行sankhāraによって勝手に編集され作成された各自特有のコップのイメージです。

こうして、ただ「見る」ということは、このようなマインドのプロセスを経た後のイメージです。

 

何かを「見る」ことは多くのメンタル活動につながる

「見る」こと自体がメンタルな活動です。しかし、見られた物体が魅力的または反発的である場合、それはより多くのメンタル活動につながる可能性があります。

 

たとえば、ある車を購入したくてショールームに行ったとします。あなたのマインドはその車を買うまでその車に夢中になります。もしかすれば、他のショールームに行って、より安い価格や支払い方法など、さまざまな点に時間を費やします。

それらはすべてあなたのマインドの中で起こっている「メンタルな活動」です。

何十億もの考えがあなたのマインドを駆け巡り、そのような問題を熟考します。それらはマインドに生起した「vaci sakhāravitakka /vicāra)」です。

車について考えるのに何時間も費やしている間ずっと、あなたはnāma lokaにいます。

その間は周りのrupa loka(物質世界)で何が起こっているのかさえ知らないかもしれません。あなたが自分の考えに深く夢中になっている場合、誰かがあなたに話しかけたり、近くの時計がチャイムを鳴らすのを聞くことさえできないかもしれません。

たとえば、初めて会う人を見た場合、最初からその人の名前や過去の経験を知っているわけではありません。目の前にいる人物の身体や色・形などのrūpaを経験し、それに対してviññāa(識)が生じ、saññā(想)による識別で「この人は誰なのか」といった認識が成立します。

その人と以前に会った経験があれば、現在の経験を条件として、過去の経験に関係する心的対象が現在の意門(mano)に生じ、「この人には以前会ったことがある」「この人は○○さんだ」と認識することができます。

この過程は非常に速いため、本人は通常、過去の経験との照合がどのように行われたのかを意識しません。

ここでいう「照合」は、nāmagottaという記録媒体に保存されたデータを読み出している、という意味ではなく、過去の経験が現在の心的過程の条件となり、現在の意門に過去に関係する心的対象が生じる、ということです。

 

記憶や人物認識が損なわれる場合

一方、脳の損傷や神経疾患によって、過去の経験を思い出したり、人物を認識したりする能力が損なわれることがあります。

たとえば、数分前に会話した人物を認識できなかったり、よく知っている人物の顔を見ても誰なのか分からなかったりする場合があります。

このような現象は、知覚・記憶・人物認識などを担う脳内の神経機構に障害が生じた結果として説明することができます。

 

「理解する」とは何か

たとえば、目の前に一人の人物がいるとします。

目の前の人物→rūpaを経験する viññāa(識)が生じる saññā(想)などによる識別 →過去の経験との関連づけ

 →「以前会った人だ」→さらに名前・関係・出来事などを想起 →「この人は○○さんだ」

 

ここで重要なのは、現在のrūpaそのものが「○○さん」という意味を持っているわけではない、ということです。

「この人は○○さんだ」という認識には、現在の感覚経験だけでなく、過去の経験、saññā(想)、概念、記憶などの名法的な過程が関与します。

したがって、rūpaを経験することと、そのrūpaが「何であるか」「誰であるか」を認識することは同じではありません。

したがって、私たちは「rūpa loka」と「nāma lōka」という二つの世界を同時に生きているというより、現在のrūpaの経験と、それに伴って生じるnāmaの経験を、常に相互に関係する一つの認識過程として経験している、と表現する方が適切です。

 

積み重なった条件(痕跡)から記憶が生じる

対象を経験するたびに、その対象の「イメージ」がrūpakkhandhaに保存されるわけではありません。rūpakkhandha(色蘊)は、経験されたrūpaを蓄積する記憶装置ではなく、rūpaを五蘊の一つとして分類したものです。

 

過去に経験したrūpaについて後から記憶が生じる場合、その過去のrūpaそのものが現在に戻ってくるのではありません。過去の経験を条件として、現在の意門(manodvāra)に心的対象が生じ、それをviññāa(識)、saññā(想)、vedanā(受)、sakhāra(行)などのメンタル界(名法)が経験します。

その結果として、過去に見た富士山の姿、聞いた音、嗅いだ匂い、味わった味、触れた感触などが、現在の心的イメージとして再び現れることがあります。

 

したがって、記憶を「イメージがrūpakkhandhaに保存され、想起というエネルギーによって再生される」と考えるよりも、「過去の経験を条件として、現在の意門に関連する心的対象が再び生起する」と考える方が、仏教の因果的な心の理解に適しています。

 

対象を経験したとき、その経験そのものが画像として保存されるわけではありません。過去の経験は、その後の心的過程に影響する何らかの「痕跡」あるいは条件として残り得ます。後に適切な条件がそろると、その過去の経験を対象とする心的過程が生じ、意門に視覚・聴覚・嗅覚などの心的イメージが再構成されます。

この「痕跡」はあくまで比喩であり、rūpakkhandhanāmagottaという場所に物理的な点が保存されているという意味ではありません。

これならば「保存 → 呼び出し → 再生」というコンピューター的モデルを完全に捨てずに、仏教の因果モデルへ寄せることができます。

 

 

rupakkhandhanamā gottamanoと保存場所の関係性は?

どれもが記憶の保存場所ではありません。

ここでは、以下の4点を押さえるのが重要です。

rūpakkhandha=記憶庫ではない

nāmagotta=記憶データベースではない

mano=記憶保存装置ではない

nāmaloka=記憶の保存場所ではない

そして、「どこに保存されているのか?」という問い自体を、仏教のモデルでは「どこかに保存される」から「何が条件となって後の心的現象を生じさせるのか」へ置き換えると、かなり綺麗に整理できます。

 

人は何でもコンピューターに喩えたがりますが、この3つを「ハードディスク・データ・読み出し装置」のように対応させると、非常に分かりやすい反面、経典の教説からは離れますが、敢えて試みると、

 

用語

内容

コンピューター・メタファー

rūpa

物質的・身体的現象。身体、色・形、音、匂い、味、触覚の対象など

外部から入力されるデータ/信号

rūpakkhandha

rūpaを五蘊の一つとして分類したもの。記憶の保存場所ではない

rūpa」というデータ群に付けた分類カテゴリー

nāma

心的・精神的現象。五蘊では、vedanā(受)、saññā(想)、sakhāra(行)、viññāa(識)など、文脈に応じて心的現象を指す

情報を処理・認識する側のソフトウェア的過程

mano

第六の感覚門。心的対象(dhamma)を対象とする認識の入口

入力インターフェース/入力ポート

nāmagotta

基本的には「名前・氏族・家系・血統」。パーリ経典では「記憶データ」や「記憶媒体」を意味する用語ではない

人名・家系名などの識別情報(metadata)に近い比喩

nāmaloka

「記憶が保存される非物質世界」という意味でパーリ経典の標準的な用語ではない。したがって記憶の保存場所とはしない

コンピューター上の特定の保存領域には対応させない

心的イメージ

現在の心に生じる、過去の経験に関係した視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚などの表象。過去のrūpaそのものではない

現在の処理系によって生成・再構成されたイメージ

記憶・想起

過去の経験を条件として、現在の心に過去に関係する対象や心的表象が生じること

保存された画像ファイルをそのまま再生するというより、過去の情報を条件として現在の処理系が再構成すること

saññā(想)

対象の特徴を捉え、「これは何か」と識別・標識化する心的作用。記憶そのものや記憶媒体ではない

パターン認識/特徴抽出

viññāa(識)

対象を認識する働き。視覚・聴覚・意識など、対象と感覚門に応じた識が生じる

認識プロセス/実行中の処理

vedanā(受)

経験された対象に伴って生じる快・不快・中性という感受

処理結果に付加される評価・状態情報

sakhāra(行)

意図・反応・形成作用など、心的形成に関わる諸現象

処理・選択・反応を生成するプロセス

 

rūpakkhandhaは「イメージの貯蔵庫」ではない

たとえば富士山を見ると、外界の富士山→色・形などのrūpa→眼による経験→現在の心に生じる五蘊

このとき、「富士山のイメージがrūpakkhandhaに追加される」とは考えません。

rūpakkhandhaは「rūpaの集合体・分類」であって、経験したrūpaを蓄積する記憶倉庫ではないからです。

しかも、rūpakkhandhaには「過去・現在・未来」のrūpaが含まれ得ます。

したがって、rūpakkhandha=これまで経験したrūpaの集合でもありません。

 

では、記憶はどのように「再現」されるのか?

ここは、現代科学の記憶理論と仏教の心の分析を分けて説明する必要があります。

仏教的には、過去の経験が、そのままどこかに保存された画像として取り出されるというモデルを採用する必要はありません。

むしろ、過去の経験→その経験によって形成された条件・傾向→現在の条件→意門で対象が生じる

   →識・想・受・行などが働く→「富士山を思い出した」という経験

という条件による生起として理解した方がよいです。

つまり「再生」というより、過去の経験を条件として、現在の心に記憶内容が再び生じると表現する方が正確です。

 

manoは何をしているのか

manoを「記憶装置」とするのも避けた方がいいです。

六根を考えると、眼 → rūpa、耳 → 音、鼻 → 匂い、舌 → 味、身 → 触れる対象、意(mano) → dhamma

という関係があります。

過去の富士山を現在目の前に見ているわけではなく、「富士山を思い出した」のであれば、その心的対象は意門を通じて経験される対象です。

したがって、manoは過去のデータを保存している場所ではなく、意門として心的対象を経験するための門、と考えます。

 

では「記憶の富士山」は何なのか

例えば、「富士山を思い出してください」と言われたとします。

すると、白い雪、円錐形の山、青い空などが頭の中に浮かぶことがあります。

しかし、現在目の前に富士山が存在しているわけではありません。

そこで、過去のrūpaそのものが現在に戻ってきた、とは考えません。

むしろ、過去の経験を条件として、現在の意門に心的対象が生じ、それを識・想などが経験する、と考えます。

そして、その中に視覚的な心像が含まれることがあります。

 

では「点」の比喩は完全にダメなのか?

科学的・比喩的な説明としてなら使えます。

ただし、「仏教では点のようなものが保存される」とは書かない方がいいです。

例えば、記憶は画像そのものを保存しているのではなく、過去の経験に関連する何らかの情報・痕跡が残り、それを現在の条件のもとで再構成する、という現代的な比喩なら、かなり分かりやすいです。

ただし「点」という言葉には、本当に脳や心のどこかに点状の記録が存在する、という物理的意味が入り込むので、

「痕跡」くらいにしておく方が安全です。

 

過去と現在の関係

【過去】富士山を実際に見る→rūpaを経験する → その経験が後の心的過程の条件となる →

【現在】適切な条件がそろう → mano / 意門 → 過去に関係する心的対象が生じる

      viññāasaññāvedanāsakhāra →「富士山を思い出した」→視覚的な心的イメージなどが現れる

 

 

一人一人がNāmagottaを保存しているのか?

私たちが経験する各イベントには、rūpavedana, saññā, sakhāra, viññāaが関連付けられています。

たとえば、コップを見ると、関連付けられているrūpaはコップのメンタル・イメージです

そのイベントには、それに関連付けられたvedanaもあります。つまり、そのコップを見たことがわかります。関連するsaññāは、対象がコップとして認識されることです。

次に、それについてsakhāraを生成する場合があります。たとえば、それで何かを飲むことを決定する(vacisakhāraとして)場合です。

次に、viññāaには、それらすべてと関連する(飲む)計画をします。

rūpavedana, saññā, sakhāra, viññāaの5つに対応する集合体(コレクション)、すなわち、rupakkhandhavedanakkhandhasaññākkhandhasakhārakkhandha、およびviññāakkhandhaが自動的に作動します。

そして、4つのメンタル構成部門が本人のnāmagottaに追加されます。

したがって、各人の5つの集合体(pañcakkhandha)はその人の全世界であり、経験したすべてです。

 

 

記憶の想起  各自は自分だけのNāmagottaを持っている

長年会っていない友達の名前を1人あげてみると、その人の顔を思い出すのは瞬時です。

それは、HSAMHighly Superior Autobiographical Memory自伝的超記憶能力)を持つ人々が過去を思い出すのと同じ方法です。

自分の経験とは、過去のその時にマインドに現れた考えと同じである、ことを強調しなければなりません。

しかし、それはその過去の記憶を思い出す能力に依存します。

平均的な人間は、過去の多くの出来事を覚えていません。

HSAMを持っている人が過去の出来事を思い出すとき、過去の経験を再生します。しかし、HSAMを持っていない人にとってはそれほど鮮明ではありません。

しかし、50人以上の人々が過去の経験のそのような鮮やかで詳細な「再生」を持っているということは、それらの詳細な記録がどこかに保存されていることを意味します。

 

想起された記憶は、ビデオとして保存されたデジタル記録と非常によく似ています。

1974年後ならばいつで何が起こったのかをマインドの中で「見る」ことができるJill Priceや、過去の出来事をビデオ録画を再生するのと同じくらいに正確に思い出すBob Petrellaなどがそれを証明しています。

 

習慣的な体のパターン記憶(キーボードの打ち込みや、自転車に乗るなど)は小脳に「保存」されます。

しかし、詳細な自伝的記憶(数年前の恣意的に選ばれた日に起こったこと)が脳に「保存」できると考えるのは難しいのではないでしょうか。

 

 

私たちはrūpanāmaの両方を経験している

私たちは、物質的・身体的な現象であるrūpaと、それを経験する際に生じるnāma(名法)の両方に関わりながら生活しています。

これは「rūpa lokanāma lōkaという二つの世界を行き来している、もしくは二つの世界に住んでいる」という意味ではありません。

rūpanāmaは、生命体が存在する世界の分類ではなく、経験される現象を分類するための概念です。したがって、「rūpaloka」と「nāmaloka」を対等な二つの世界として対応させるのではなく、「rūpa」と「nāma」を現象の二つの側面として区別する方が適切です。

 

パーリ経典で標準的に出てくるのは「三つのdhātu」     dhātuとは分類した時の要素の単位

MN 115 Bahudhātukasutta で釈尊は、三つのdhātuとして、kāmadhātu, rūpadhātu, arūpadhātuを挙げています。

 

 

問題は「対等な二つの世界」という表現だけではなく、「rūpa/nāma」と「kāma/rūpa/arūpa」という二つの分類体系を混ぜてしまったことです。つまり、rūpa loka = 物質世界とnāma loka = メンタル世界という二分法ではなく、代わりに、

 

              存在領域 (生命体の分類)MN 1         現象・法 (経験・現象を構成するものの分類)

                 │                        │

       ┌────┼─────┐               ┌─―─┴──┐

                                                                

   kāmadhātu  rūpadhātu  arūpadhātu                   rūpa           nāma citta + cetasika

   kāmāloka rūpaloka  arūpaloka                  色法           名法(心の中で生じる現象)

欲界       色界       無色界

とすると、明快です。

Mnd 5 Paramaṭṭhakasuttaniddesa では、

idhāti kāmadhātu, hurāti rūpadhātu arūpadhātuという形で、

こちら=kāmadhātu、とあちら=rūpadhātuarūpadhātuと整理されています。

 

rūpa rūpadhātu

rūparūpadhātuだけに存在するわけではなく、人間はkāmadhātuに属しますが、人間の身体は当然rūpaです。

さらに感覚対象として、rūpasaddagandharasaphoṭṭhabbaなどもrūpaです。

rūpaは、五蘊の色蘊にもなる、欲界や色界の物質的・身体的な現象。

rūpadhātuは三界・三つのdhātuの分類における、色界という存在領域。

 

では「nāma」はどこに位置するのか?

これは世界分類ではなく、法の分類として考えるべきです。

 

 

 

 

 

 

参考文献

 

Rupa 物質

The Origin of Matter – Suddhātthaka

What are Rūpa? – Dhammā are Rūpa too!

What Are Rūpa? (Relation to Nibbāna)

Difference Between Rūpa and Rūpakkhandha

Our Two Worlds: Material and Immaterial

 

Bhūta and Yathābhūta – What Do They Really Mean

 

Does any Object (Rupa) Last only 17 Thought Moments?

Rupa (Material Form) – Table

 

エネルギーとしてのDhammā

What are Dhammā? – A Deeper Analysis

Difference Between Dhammā and Saṅkhāra

Manōpubbangamā Dhammā..

 

 

The Origin of Matter – Suddhātthaka

November 27,2015; Revised December 17, 2017; May 17, 2019; August 21, 2019

Introduction

1. Suddhātthaka is not even mentioned in even many Thēravada Texts. I have deliberated for some time whether this post is premature. This post requires an understanding of basic concepts that I have discussed so far (as of November 2015).

  • Please don’t read it, unless you have thought about the basic concepts of “san,” gati (or gathi), āsavapaticca samuppāda, etc. It may not make much sense, and thus it could discourage people from proceeding any further thinking, “this stuff does not make sense.”
  • On the other hand, for those who have some understanding of those concepts, this could help gain more insight.
  • As I publish more posts on this issue, the picture will become increasingly apparent. Please be patient. The value of the Buddha Dhamma will also become apparent, and that is the best way to cultivate saddhā (faith based on understanding).

This topic discussed in detail in the “Nāma & Rūpa to Nāmarūpa” subsection of the “Living Dhamma” section.

 

1.Suddhātthakaは多くのThēravada Textsでさえ言及されていません。このトピックが時期尚早かどうかは、しばらくの間検討してきました。このトピックでは、これまでに説明した基本的な概念(201511月現在)を理解している必要があります。

•「san」、gati(またはgathi)、āsāvaspaticcasamuppādaなどの基本概念を考えたことがある場合を除き、読んではいけません。これからの内容は基本概念がなければあまり意味をなさない可能性があり、したがって、このまま読んでも、「このサイトは変だ。」と思うかもしれないからです。

•一方、これらの概念をある程度理解している人にとっては、これはより多くの洞察を得るのに役立ちます。

•この問題に関する記事をさらに公開すると、その状況はますます明らかになります。しばらくお待ちください。仏法の価値も明らかになり、それがsaddhā(理解に基づく信仰)を理解する最良の方法です。

•このトピックは、Living DhammaのサブセクションNāma & Rūpa to Nāmarūpaで詳細に説明されています。

 

2. Anything has to be either sankata or asankata.

  • sankata has a beginning, transforms in unpredictable ways during existence (viparinama), and eventually ceases to exist; see, for example, “Root Cause of Anicca – Five Stages of a Sankata” and “Does any Object (Rupa) Last only 17 Thought Moments?“.
  • An asankata has no beginning, does not change during existence, and has no endpoint. An asankata lasts forever. Nibbana is the only asankata dhamma, and it does not belong to “this world of 31 realms”.
  • There is nothing in between. Please think carefully about the truth of that.
  • Everything in this world is a sankatai.e., has a beginning and an end. And this has been confirmed by science during the past 100 years or so. Einstein thought our universe was in a steady-state, and if proven that way, could have contradicted Buddha Dhamma. But now it has become clear that nothing in this universe will last forever. And everything is changing, in flux.

All the matter in the universe is thought to have created some 14 billion years ago, in a “Big Bang.” Buddha Dhamma has a different explanation. However, there is no doubt that any matter has a finite(限りのある)lifetime. Thus Buddha Dhamma is correct in this fundamental aspect.

 

2.すべては、sankata もしくは asankataのどちらかです。

sankataには始まりがあり、存在中に予測不可能な形で変化し(viparinama)、最終的には存在しなくなります。たとえば、Root Cause of Anicca – Five Stages of a Sankata” and “Does any Object (Rupa) Last only 17 Thought Moments?を参照してください。

asankataには始まりがなく、存在中に変化せず、最終地点もありません。asankataは永遠に続きます。 Nibbanaは、唯一のasankataであり、「この世の31領域」に属していません。

間には何もありません。その真実について慎重に考えてみてください。

この世界のすべては、sankataです。つまり、始まりと終わりがあります。そして、これは過去100年ほどの間に科学によって確認されました。アインシュタインは私たちの宇宙は定常状態にあると考えました。もしそのように証明された場合は、これは仏法と矛盾する可能性があります。しかし今では、この宇宙には永遠に続くものはないことが明らかになっています。そして、すべてが流動的に変化しています。

宇宙のすべての問題は、約140億年前の「ビッグバン」で発生したと考えられています。

仏法には別の説明があります。ただし、どのモノも寿命に限りがあることは間違いありません。したがって、この基本的な面において仏法は同じ見解です。

 

Origin of Matter – Background

3. If we accept that all matter has been created in some way, what is the origin of matter?

  • Scientists have no clear explanation of this at this point in time (November 2015). They can calculate the evolution of the universe from a fraction of a second after the Big Bang, but physics is unable to explain what happened before the Big Bang.

And, of course, the “Big Bang Theory” has not yet fully confirmed, even though most scientists believe it. Still, some scientists do not believe everything “popped up” all of a sudden in a Big Bang. They think that universes are cyclic, i.e., they transform and evolve; see, for example, “Endless Universe – Beyond the Big Bang,” by P. J. Steinhardt and N. Turok (2007).

 

3.すべての物質が何らかの方法で創造されたことを受け入れる場合、物質の起源とは何でしょうか?

科学者はこの時点(201511月)で明確な説明をしていません。彼らはビッグバン後のほんの一瞬から宇宙の進化を計算できますが、物理学はビッグバンの前に何が起こったかを説明することはできません。

そしてもちろん、ほとんどの科学者は「ビッグバン理論」を信じていますが、まだ完全には確認されてはいません。一部の科学者は、ビッグバンですべてが突然「出現した」したとは考えていません。彼らは、宇宙は周期的であると考えています。つまり、それらは変化し進化しているということです。たとえば、P.J. Steinhardt and N. Turok2007)の「Endless Universe-Beyond the Big Bang」を参照してください。

 

4. Buddha Dhamma, of course, says all living beings living at present have existed forever.

  • In other words, “all existing lifestreams” have existed forever. In each life, a given “lifestream” gets a physical body (coarse or subtle depending on the realm of existence), and that physical body is, of course, a sankata. When that physical body dies, the lifestream takes hold of a new body; see, “What Reincarnates? – Concept of a Lifestream“.
  • What “propagates(伝播?増加?遺伝?)” from life-to-life (while continually changing), are the āsava(深層にある渇望), anusaya(煩悩), and gathi (mental properties) that make up a dynamic (ever-changing)  lifestream

Thus, the universe does not start with a “Big Bang,” as many scientists believe right now. Remember that only 100 or so years ago, scientists thought the universe was in a steady state. Scientific theories change to “fit the existing data.” But pure Buddha Dhamma has not changed at all since Buddha Gotama taught it 2500 years ago; see, “Historical Background.”

 

4.もちろん、仏法は、現在生きているすべての生命体は永遠に存在していると言います。

言い換えると、「既存のすべてのlife stream」(いのちの流動体)は永遠に存在しているということです。それぞれの人生において、与えられた「life stream」は肉体(存在する領域に応じて粗いまたは微細な)を取得しますが、その肉体がsankataです。その肉体が死ぬと、life streamは新しい体をつかみます。

What Reincarnates? – Concept of a Lifestream

絶えず変化しながら、生から生へと「伝播」しているのは、āsāvas深層にある渇望つまり本能)、anusaya(煩悩)、gati(メンタル的特性)で、これが常に変化する動的ライフストリームです。

したがって、現在多くの科学者が信じているように、宇宙は「ビッグバン」から始まっていません。わずか100年ほど前、科学者は宇宙が定常状態にあると考えていたことを思い出してください。科学理論とは「既存のデータに適合する」ように変化します。しかし、純粋なブッダ Dhammaは、2500年前にブッダゴータマが教えて以来、まったく変わっていません。 「歴史的背景Historical Background」を参照してください。

 

5. The Buddha discouraged people from investigating the properties(固有性、特性、属性) of the universe in detail. However, he has taught that uncountable “planetary systems” like our Solar system exist in the universe. That also has been confirmed by science.出典?

  • In any case, whatever the model that science eventually clarifies WILL BE consistent with Buddha Dhamma. That model will have living beings in existence somewhere in the 31 realms. This has been discussed in detail in a few suttas, especially the Aggañña sutta『起源経』経蔵長部Digha Nikaya collectionの第27.
  •  But don’t bother to look it up on the internet, because all current translations are embarrassingly bad. I have written an introductory post: “Buddhism and Evolution – Aggañña Sutta (DN 27)“.
  • In that sutta, the Buddha explains how conglomerates(集塊合体) of “planetary systems” blow up and are re-formed in time scales of “mahā kappas.” He has given a simile(直喩) to get an idea of the length of a mahā kappa, and it is approximately several billion years; see, “The Grand Unified Theory of Dhamma.” And this destruction of a “star system” seems to be what scientists have observed as a supernova. Supernovae are of frequent occurrence; about three of them can be expected to happen every century in our Milky Way galaxy.

We will slowly go through the Aggañña sutta because that needs enough background material. I expect this topic will take us several years, and many essays, to complete. However, the mind is the precursor前駆体: “Manōpubbangamā Dhammā..“.

 

5.釈尊は、人々が宇宙の特性(固有性、特性、属性)を詳細に調査することを思いとどまらせました。しかし、彼は私たちの太陽系のような数え切れない「惑星系」が宇宙に存在することを教えました。それらは現代では科学によっても確認されています。

いずれにせよ、科学が最終的に明らかにするモデルはすべて、仏法Buddha Dhammaと一致すると推定しています。この科学モデルには、31の領域の生命体がいるものになるでしょう。これについては、いくつかのsutta、特にAggaññasutta 『起源経』経蔵長部Digha Nikayaコレクションの第27経で詳細に議論されています。

しかし、インターネット上にあるこの経の翻訳はすべて恥ずかしいほど悪いレベルであることを念頭に置いておいてください。Buddhism and Evolution – Aggañña Sutta (DN 27)に詳細を書きました。

そのsuttaでは、釈尊は「惑星系」の集合体(集塊合体)がどのように爆発し、「mahā kappas」の時間スケールで再形成されるかを説明しています。彼はmahā kappasの長さの考えを得るために喩えを与えました、そしてそれはおよそ数十億年です。The Grand Unified Theory of Dhamma参照。そして、この「星系」の爆発は、科学者が超新星として観測しているもののようです。超新星は頻繁に発生します。天の川のある銀河では、それらのうちの約3つが毎世紀発生すると予想されています。

十分な背景資料が必要なため、Aggañasuttaをゆっくりと説明します。このトピックが完了するまでに数年、多くのエッセイが必要になると思います。しかし、マインドは前駆体です:

 

Origin of Matter – The Mind

6. Yet, now we have enough background material on the website to get an idea about how all the sankata in this world originate and die off, AT THE VERY FUNDAMENTAL LEVEL.

  • Here we will discuss only the origin of the smallest unit of matter, called a “suddhātthaka.” (sometimes written as suddhāshtaka).
  • This unit of matter is billion times smaller than “an atom” in modern science. One time, not long ago, science believed that an atom was the smallest unit of matter. But they are composites of many “elementary particles.” Even many of those “elementary particles” are shown to have more structure! At present, there is no end in sight how smaller a “basic unit of matter” can get. Now science is unable to distinguish between “matter” and “energy.”
  • For example, a “Higgs boson” is just a packet of energy.
  • Matter and energy are essentially the same, related by the famous equation, E (energy) = m (mass) x c2, where c is the speed of light. Thus any small unit of matter is indistinguishable from a “packet of energy.” For example, the light we see comes in “packets” called photons. Thus photon is matter in this sense, and therefore everything in this world at the primary level can have the label  “matter” or “energy.”

The distinction between “matter” and “energy” is blurred(霞む) at this fundamental level.

 

6.しかし、今では、この世界のすべてのsankataがどのように生まれ、死んでいくのか、非常に基本的なレベルでの考えを得るのに十分な背景資料がウェブサイトにあります。

ここでは、「suddhātthaka」と呼ばれる物質の最小単位の起源についてのみ説明します。 (時々suddhāshtakaと書かれています)。

この物質の単位は、現代科学の「原子」よりも10億倍小さなスケールです。かつて、科学は原子が物質の最小単位であると信じていました。しかし、現代科学では原子は多くの「素粒子」の複合体です。それらの「素粒子」の多くでさえ、より多くの構造を持つことが示されています。「物質の基本単位」がどれほど小さくなるのかまだわからず、現時点が終わりではありません。現在、科学は「物質」と「エネルギー」を区別できていません。

たとえば、「ヒッグス粒子」は単なるエネルギーの塊です。

物質とエネルギーは本質的に同じであり、有名な方程式、E(エネルギー)= m(質量)x c2によって表されます。ここで、cは光の速度です。したがって、物質の小さな単位は「エネルギーのパケット」と見分けがつきません。たとえば、私たちが目にする光は、光子photonと呼ばれる「パケット」になります。したがって、光子はこの意味で物質であり、したがって、この世界の主要なすべてのものは、「物質」または「エネルギー」と言うことができます。

しかし、この基本レベルでも、「物質」と「エネルギー」の区別があいまいになっています。

 

7. suddhātthaka is a “packet of energy” and is THE basic unit of matter. It is much smaller than in energy compared to a light photon that we see. A humongous異常に大きい number of suddhātthaka would have the energy of a single light photon.

  • A  suddhātthakabeing a sankata, is created by the mind. That may be surprising to many of you, but as we progress, I will provide evidence that it is true. That is why the Buddha said, “manō pubbangamā dhammā…”, i.e., “everything has mind as the precursor…”. Dhammapada verses 1 and 2
  • However, almost all of the matter around us was created by this “mental process” a very long time ago. That is the story in the Aggañña Sutta. At present also, suddhātthaka are being created by us all the time (via javana citta), but in very minute quantities.

Anyone with higher abhiññā powers is supposed to be able to create a significant amount of matter, like a flower or even larger entities. Matter (at the level of suddhātthakais created by javana citta. And someone with abhiññā powers can maintain a citta vithi with javana citta flowing continuously to generate “significant amounts of matter.” I briefly discussed that at the end of the post, “Citta Vithi – Processing of Sense Inputs.”

 

7. suddhātthakaとは「エネルギーのパケット」であり、物質の基本単位です。私たちが見ている光の光子に比べてよりはるかに小さいエネルギーです。巨大な数のsuddhātthakaで、たった一つの光子のエネルギーを持ちます

sankataであるsuddhātthakaはマインドによって作成されます。それは多くの人にとって驚くべきことかもしれませんが、このエッセイでの説明が進むにつれて、それが真実であるというデータを提供します。

それが、釈尊が“manō pubbangamā dhammā…”つまり「すべてにおいて、(まずは)マインドが先行する…」と言った理由です。 ( Dhammaパーダの1節と2節)

しかし、私たちを取り巻くほとんどすべての物質は、かなり前にこの「メンタル的プロセス」によって創造されました。それがAggañña Sutta(『起源経』経蔵長部Digha Nikaya 27経)の物語です。

現在、suddhātthakaは常に(javana cittaを介して)作成されていますが、ごくわずかな量です。

より高いabhiññāの力を持つ人は誰でも、花やさらに大きな実体であるかなりの量の物質を作り出すことができるはずです。

物質(suddhātthakaのレベル)はjavana cittaによって作成されます。そして、abhiññāの力を持つ人は、「かなりの量の物質」を生成するためにjavana cittaが継続的に流れているcitta vithiを維持できます。これについてはCitta Vithi – Processing of Sense Inputsの最後の部分で簡単に説明しています。

 

8. But most of the time, what we are doing now is to “remake” different types of sankata using the “raw material” (suddhātthaka) created billions of years ago. These original suddhātthaka have lifetimes of close to 20 antakkappa (or antarākalpa), where 80 such antakkappa are in a mahā kappa.

  • Thus instead of having a lifetime of 17 thought moments, as some people erroneously間違った believe, a suddhātthaka has a very long lifetime. Again, modern physics has confirmed that some of the elementary particles (e.g., electron) have very long lifetimes. Therefore, this idea of “everything arising and ceasing rapidly” is a misconception誤認; see, “Does any Object (Rupa) Last only 17 Thought Moments?“. We will discuss this in more detail in the future.

Please don’t hesitate to ask questions at this early stage. There is a lot of information in this post to digest, and some of them will become clearer as we proceed.

 

8.しかし、ほとんどの場合、私たちが今していることは、数十億年前に作成された「原材料」(suddhātthaka)を使用して、さまざまな種類のsankataを「リメイク」することです。オリジナルのsuddhātthaka20 antakkappa(すなわちまたはantarākalpa)ほどの寿命を持ちます。(80antakkappa1 mahā kappaになります、すなわち数億年ほど)

したがって、一部の人々が誤って信じているように、物質は「17の思考瞬間」の寿命しかを持たないのではなく、suddhātthakaの寿命はとんでもなく非常に長いのです。

現代の物理学では、一部の素粒子(電子など)の寿命が非常に長いことが確認されています。したがって、この「すべてのものは急速に現れては消えていく」という考え方は誤解です。Does any Object (Rupa) Last only 17 Thought Moments?を参照してください。これについては、今後さらに詳しく説明します。

早い段階でも遠慮なく質問してください。このトピックには消化する多くの情報があり、それらのいくつかは私たちが進むにつれてより明確になります。

 

What is Suddhātthaka?

9. Suddhātthaka (“suddha” for “pure” or fundamental” + “attha” or “eight”) means  a unit of matter consisting of eight fundamental entities (usually translated as the “pure octad.”)

  • Four of these are the “satara mahā bhūta four great elements “: patavi, āpo, tejo, vāyo. These are indeed the most fundamental units of matter, but they cannot be detected by themselves. It may be hard to believe for many at this stage, but those arise due to our “gati” (or “gathi“) that I have discussed in several posts; see, the introductory post: “The Law of Attraction, Habits, Character (Gati), and Cravings (Asavas)“. By the way, removal of “āsava” and “gathi” lead to Nibbana: “The Way to Nibbāna – Removal of Āsavas.” One needs to have an understanding of these concepts to grasp the material in this post.
  • These satara mahā bhūta are first created by the mind with four basic “gathi” of humans: “thada gathiya” (in Sinhala) means the “coarseness粗品,” corresponding to patavi; a defiled mind is “hard” and “coarse” and correspond to “patavi” nature.

The word āpo comes from the tendency to “attach or get attracted to worldly things” (“bandena gathiya” means the “bind together,” which leads to liquidity in science). Tejo comes from “fiery or energetic” (“théjas gathi” in Sinhala), and vāyo refers to “motion” (“salena gathiya” in Sinhala). They are all created in javana citta that arise in mind, of course, in minute quantities that cannot be detected. However, those with abhiññā powers can generate large amounts of matter like a flower.

 

9.Suddhātthaka(「suddha」は「純粋」または「基本」+attha」は「8」を表す)は、8つの基本実体(通常はpure octad「純粋な8進数」と英語では翻訳されます)で構成される単位を意味します。

これらのうち4つは、「satara mahā bhūta 」です:四大元素のpatavi土、アーポ水、tejo火、vayo風。これらは確かに物質の最も基本的な単位ですが、それ自体では感知できません。この段階では多くの人にとって信じがたいかもしれませんが、それらはいくつかのトピックで議論した「gati」のために生じます。

紹介記事The Law of Attraction, Habits, Character (Gati), and Cravings (Asavas)を参照してください。ちなみに、「āsāvas」と「gati」の除去は、Nibbanaにつながります:The Way to Nibbāna – Removal of Āsavasこの記事の内容を把握するには、これらの概念を理解する必要があります。

satara mahā bhūtaは、マインドによって人間の4つの基本的な「gati」で最初に作り出されます。汚れたマインドは「固さ」および「粗さ」であり、「patavi」の性質に対応しています。  

āpoという言葉は、「世俗的なものに執着する、または惹きつけられる」傾向に由来します(「bandena gathiya」は「結合」を意味し、科学の流動性につながります)。 Tejoは「燃えるようすなわちエネルギッシュ」(シンハラ語で「théjasgathi」)に由来し、vāyo は「動き」(シンハラ語で「salena gathiya」)を指します。それらはすべてマインドに現れるjavana cittaで作成されます、もちろん、感知できない量ですが。しかし、abhiññāの力を持つ人々は、花のような物質を大量に生成する可能性があります。

 

10. Those most fundamental four units (satara mahā bhūtaare supposed to be created by the mind due to avijjā or ignorance. We like to have possession of things made out of these units because we do not comprehend the “unfruitful nature” of such impermanent things.

Now, the craving for these material things leads to four more gathi due to tanhā. Due to our tendency to think highly (“varnanä karanava in Sinhala), another gati of “varna” is created as different manifestations of the satara mahā bhūta. Similarly, three more units called gandha, rasa, and oja created due to tanhā. Those correspond to our desire to be in touch with them, keep them close (rassa), and to re-generate them. It will take too much space to explain these in detail, but I hope you get the basic idea.

 

10.これらの最も基本的な4つのユニット(satara mahā bhūta)は、avijjāすなわち「無明」のためにマインドによって作成されます。私たちはこれらのユニットから作られたものを所有するのが好きです。なぜなら、私たちはそのような非永続的なものの「実りのない性質」を理解していないからです。

これについては、Mahā­hatthi­pa­dopa­ma Sutta (MN 28)で簡単に説明されています。英語の翻訳。translation; “The Greater Discourse on the Simile of the Elephant’s Footprint (MN 28)

これを指摘してくれたセイン・ミント博士に感謝します。

物質的なものへの渇望と嫌悪のため、それらがもう4つのgatiにつながります。高度な思考への傾向(シンハラ語の「varnanäkaranava」)により、「varna」とは別のgatiが四大元素とは違うものを作り出します。

渇望と嫌悪のため同様に、gandha(香)、rasa(味)、oja(汁)と呼ばれる3つのユニットが作り出されます。それらは私たちの願望に対応して、連絡を取り、密接rassaを保ち、再生成します。これらを詳細に説明するスペースはありませんが、基本的な考えが得られることを願っています。

 

11. Therefore, four basic units of patavi, āpo, tejo, vāyo arise due to avijjā, and the other four of varna, gandha, rasa, and oja arise due to tanhā. The latter four also occur due to patavi, āpo, tejo, vāyo (actually they are just different modes of vibration of patavi, āpo, tejo, vāyo). We will get into more detail in the future so that even physicists would be able to appreciate the value of Abhidhamma.

  • These eight never arise in isolation and thus are called “avinibbhoga(不可分) rupa.” They always rise together; all eight are there in any suddhātthakaThe relative “amounts” of each component can vary, and thus some suddhātthaka can be dominated by one element, for example. Even then, all eight are present to some extent. That is equivalent to saying that wherever there is avijjā, there is tanhā, and vice versa(逆の立場も同じ).
  • This very fundamental level is called the “bhūta” stage. Bhūta is another name for “ghost” because of their elusive(見つけにくい) nature. They can never be detected and can only be “seen” by a Buddha. The Buddha explained this to Mahā Brahma, who thought he knew everything about the world: “Brahma­niman­tanika Sutta (Majjhima Nikaya 49)“. I will explain this sutta in detail later.

And a  suddhātthaka can never be divided; thus they are called “avinibbhöga rupa kalapa.”

 

11.したがって、pataviāpotejovayo4つの基本単位はavijjā(無明)によって発生し、varnagandharasaojaの他の4つの単位はtanhā(渇望と嫌悪)によって発生します。後者の4つは、pataviāpotejovayo(実際には、pataviāpotejovayoの異なる振動モードにすぎないのですが)によっても発生します。物理学者でさえAbhidhammaの価値を理解できるように、さらに詳しく説明を試みます。

これらの8つは単独では発生しないため、「avinibbhoga(不可分の)rupa」と呼ばれます。それらは常に一緒に発生します。どのsuddhātthakaにもこれらの8つがあります。各構成要素の相対的な「量」は変化する可能性があるため、たとえば、一部のsuddhātthaka1つの要素によって構成されます。それでも、8つすべてがある程度は存在します。

これは、avijjāがあるところはどこでもtanhāがあり、逆も同じであるということと同様です。

 

この非常に基本的なレベルは「bhūta」ステージと呼ばれます。bhūtaは、そのとらえどころのない性質から別名はゴースト(幽霊)です。それらは決して感知されることができず、釈尊によってのみ「見られる」ことができます。釈尊はこれを世界についてすべてを知っていると思っていたMahā Brahmaに説明しました。:

Brahma­niman­tanika Sutta (Majjhima Nikaya 49)このsuttaについては後で詳しく説明します。

suddhātthakaは決してこれ以上は分割できません。したがって、それらは「avinibbhögarupa kalapa」(不可分な単位)と呼ばれます。

 

Critical Role of Gati

12. Thus gathi” leads to “bhūta, the first phase of rupa that can be seen (only by Buddha). That is the suddhātthaka stage. That is where mental energy is converted to matter at the very fundamental stage. Just keep that in mind as we proceed.

  • When enormous numbers of these suddhātthaka fuse融合, they get to a more condensed state of “mahā bhūta.” The subtle bodies of brahmas and some gandhabbas are made of mahā bhūtaThis level of “solidification” can be compared (in energy) to electromagnetic radiation at the long-wavelength range; thus, we cannot “see” those entities with our eyes.
  • Only when vast amounts of these mahā bhūta fuse together to become even more condensed, that we can see them. At this highly condensed state, the matter is called “dhātu.” Bodies of devas are made of finer dhātu. That is why we cannot see devas, but brahmas can see them.
  • Thus our bodies are made of more dense dhātu that we can see. That is why solid objects are called “patavi dhātu“;  suddhātthaka in such solid objects have predominantly patavi. In liquids, things are bound together and flow together because they mostly have āpo dhātu.  Not only fire but also those objects that have “energetic appearance,” have more tejo. And not only the wind but also things that are prone傾向がある to move, have more vāyo.

Details of gati at, “Gati, Bhava, and Jāti“.

 

12.したがって、ここで「gathi」は「bhūta」につながります。これは、釈尊によってのみですが、見ることができるrupaの最初の段階です。それがsuddhātthakaのステージです。それは、非常に基本的な段階でメンタルエネルギーが物質に変換される場所です。それを念頭に置いて進めていきます。

これらの膨大な数のsuddhātthakaが融合すると、「mahā bhūta」がより凝縮された状態になります。brahmas gandhabbasの微細な体はこのmahā bhūtaで作られています。このレベルの「凝固」は、長周波の電磁放射と(エネルギーで)比較できます。したがって、これらの実体を目で「見る」ことはできません。

膨大な量のmahā bhūtaが融合してさらに凝縮されたときのみ、私たちはそれらを見ることができます。この高度に凝縮された状態では、物質は「dhātu」と呼ばれます。devaのボディは、繊細なdhātuで作られています。だから私たちはdevaを見ることができませんが、brahmasdevaを見ることができます。

したがって、私たちの体は、私たちが見ることができるほど密なdhātuでできています。そのため、固体物は「patavi dhātu」と呼ばれます。そのような固体物のsuddhātthakaは主にpataviで構成されています。液体は、ほとんどがāpo dhātuで構成されるため、一緒に束ねられて流れます。火だけでなく「エネルギッシュな外観」をしている物は、多くのtejoによって構成されています。そして、風だけでなく動きやすい傾向がある物はより多くのvāyoで構成されます。

Gati, Bhava, and Jātiにはgatiの詳細があります。

 

Other Implications

13. Therefore, we can see that patavi, āpo, tejo, vāyo have much deeper meanings than just earth, water, fire, and wind. Why did the ancient Greeks also use the same terms? That is due to the same reason that Hinduism also uses terms like karma (which is the Sanskrit word for kamma), Nirvana (which is the Sanskrit word for Nibbana), anapana, etc.

  • There have been three Buddhas in this mahā kappa (i.e., during the existence of our Solar system) before the Buddha Gotama; that is how those terms came to usage before Buddha Gotama. Those concepts by the previous Buddhas were transmitted down through successive generations, but the true meanings got lost.

Human history is much longer than tens of thousands of years, as believed by many today. Whole continents can submerge, wiping out entire populations; this is not being considered seriously yet, but there is evidence: see, https://en.wikipedia.org/wiki/Submerged_continent. Anyway, that is a topic to be discussed later when more evidence becomes available. It will be proven that one region that has not changed since the formation of the Earth is Asia encompassing Sri Lanka, India, and China. Archeologists should focus more in that region rather than in Africa. See, “Ancient teeth found in China challenge modern human migration theory.”

 

13.したがって、patavi, āpo, tejo, vāyoは、大地、水、火、風よりもはるかに深い意味を持つことがわかります。古代ギリシャ人も同じ用語を使用したのはなぜでしょうか?

これは、ヒンドゥー教でもカルマ(kammaのサンスクリット語)、ニルヴァーナ(nibbanaのサンスクリット語)、anapanaなどの用語が使用されているのと同じ理由によるものです。

釈尊(ゴータマ・ブッダ)の前に、このmahā kappa(つまり、太陽系の存在中)では3人のブッダがありました。それが、これらの用語が釈尊(ゴータマ・ブッダ)以前に使用されるようになった理由です。前のブッダたちによるこれらの概念は、世代を超えて伝えられていましたが、本当の意味は失われていました。

人類の歴史は数万年よりはるかに長い、と今日では多くの人々が信じています。大陸全体が水没して、全人口が一掃された可能性があり、これはまだ真剣に考えられていませんが、証拠があります:

https://en.wikipedia.org/wiki/Submerged_continentを参照してください。

ともかく、それはより多くの証拠が利用可能になった後に議論されるトピックです。その時には地球の形成以来変化していない地域の1つは、スリランカ、インド、中国を含むアジアであることが証明されるでしょう。考古学者はアフリカではなくその地域にもっと焦点を合わせるべきです。Ancient teeth found in China challenge modern human migration theory

 

14. As I mentioned above, there were three Buddhas before Buddha Gotama. That is how some of the key terms like patavi, āpo, tejo, vāyo and kammaand Nibbana (nirvana) have been in use even before the Buddha Gotama. They had been transmitted down through generations, but of course, their true meanings had been lost.

  • Losing the true meanings in the Tipitaka happened at least a few times, even during this Buddha sāsana 教えthe Dispensation of the Buddhawithin the past 2500 years. The best example is the misinterpretation of sansansaraaniccaand anatta during just the past hundreds of years; see, “What is “San”? Meaning of Sansara (or Samsara)” and “Anicca, Dukkha, Anatta – Wrong Interpretations.”
  • But the Buddha Gotama has said that his Buddha sāsana will last for 5000 years. 出典?We are only halfway through. That is why it is making a comeback now. And this time it will have staying power due to the presence of the internet. That is one reason why we should all be forever grateful to modern science, much more than for all other technological wonders it has brought about.

August 2019: I recently started a new series of posts on “Origin of Life“.

 

 

14.上で述べたように、釈尊(ブッダGotama)の前に3人のブッダがありました。これが、patavi, āpo, tejo, vāyo  kamma,Nibbanaなどの重要な用語の一部が、ブッダゴータマの前から使用されている理由です。それらは何世代にもわたって伝わっていましたが、もちろん、それらの本当の意味は失われてしまいました。

三蔵での真の意味の喪失が、この釈尊のsāsana(教え)の時代における過去2500年だけでも少なくても数回はありました。例としては、過去数百年間のsan, sansara, anicca, anattaの誤訳と誤った解釈です。

What is “San”? Meaning of Sansara (or Samsara)” and “Anicca, Dukkha, Anatta – Wrong Interpretations

しかし、ブッダ・ゴータマは、彼のブッダ・サーサーナは5000年間続くと言いました。出典?

私たちはまだ途中です。それが今、釈尊の元の教えに向かっている理由です。そして今回は、インターネットの存在により、持続力があります。それが、私たち全員が現代科学に感謝すべき理由の1つです。

20198月「Origin of Life」に関する一連の新しいトピックを開始しました。

 

 

 

 

What are Rūpa? – Dhammā are Rūpa too!

May 13, 2017; revised November 4, 2017

All our conscious thoughts start with one of the six senses getting input from the external world. With those six sense faculties, we detect six types of rūpa “out there” in the world.

1. Many people think rūpa means just “material things” that we can see out in the world. But EVERYTHING that we sense through our six senses are rūpaI will explain this in a systematic way.

  • Those things that we detect with our five physical senses are what we can call “dense rūpa“; they are made of suddhāshtaka, i.e, they are made of satara mahā bhūta (patavi, āpō, tejō, vāyō).; see, “The Origin of Matter – suddhāshtaka“.
  • Such rūpa that we detect with the mana indriya are called dhammā. These are just energies and have not condensed to the suddhāshtaka level, i.e., they are below the suddhāshtaka stage.
  • It is good to remember that dhamma refers to a doctrine (like in Buddha Dhamma) and dhammā refers to such very fine rupā.

Let us discuss those two types of rūpa in detail first.

 

私たちの意識的思考はすべて、外界からインプットを得る六感のうちの一つから始まります。これらの6つの感覚機能により、私たちはこの世で6種類の「外」rūpaを感知します。

1.多くの人は、rūpaとは世界で見られる「物質的なもの」を意味すると考えています。しかし、私たちが六感で感じることはすべてrūpaです。これを体系的に説明します。

5つの肉体的感覚で感知したものは、「密なrūpa」と呼ぶことができます。それらは、suddhāshtakaで作られています。つまり、sataramahābhūtapataviāpōtejovayō)で作られています。The Origin of Matter – suddhāshtakaを参照してください。

mana indriyaで感知されるこのようなrūpaDhammāと呼ばれます。これらは単なるエネルギーであり、suddhāshtakaレベルに凝縮していません。つまり、suddhāshtakaの段階より下に(小さい)あります。

dhammaは仏教のような教義を指し、dhammāは非常に微細なrūpaを指すことを覚えておくと良いでしょう。

•最初に、これら2種類のrūpaについて詳しく説明します。

 

2. All things that we experience through our SIX senses are rūpa, but the first FIVE types of sense inputs come through five “sensors” obvious to everyone (eyes, ears, nose, tongue, and body). The SIXTH one called mana indriya (located in the brain) is not known to science. This is clearly stated in the Cha Chakka Sutta,経蔵中部Majjhima Nikya18 as discussed below.

  • All six types are eventually EXPERIENCED by the mind, i.e., with citta (thoughts) with cētasika (mental factors) in them.

For details of how the sensory inputs that come through the six “sense doors” are experienced by the mind, see, “Brain – Interface between Mind and Body“.

 

2. 6感覚を通じて経験するすべてのことはrūpaですが、最初の5感覚入力は、誰にでも明らかな5つの「感覚器官」(目、耳、鼻、舌、および身体)を通過します。mana indriyaと呼ばれる(脳にある)6番目のものは、科学では知られていません。これは、以下に説明するように、Cha Chakka Sutta 経蔵中部Majjhima Nikya18で明確に述べられています。 

•すべての6つのタイプは、最終的にマインドによって経験されます。つまりcitta(想い)とcētasika(メンタル的要因)によってです。

6つの「感覚のドア」を通過する感覚入力がどのようにマインドによって経験されるかの詳細についてはBrain – Interface between Mind and Bodyを参照してください。

 

3. Those that we experience through our FIVE physical senses (eyes, ears, nose, tongue, and the body) are “dense rūpa“, meaning they are made of suddhāshtaka, which are made of the four great elements or the “satara mahā bhūta“.

  • Those five kinds of rūpa are all in our “rūpa lōka“, which is what we are quite used to seeing, hearing, smelling, tasting, and making bodily contacts with.
  • What we touch with our body or see with our eyes are the rūpa that are familiar to everyone; they are sometimes called “rūpa rūpa” or “vanna rūpa visual things” (varna rūpa in Sinhala or Sanskrit) to distinguish from other four types.

However, we need light to “see” those “rūpa rūpa“. Light consists of tiny particles called photons; they have very small masses due to their energies.

 

3. 5つの身体感覚(目、耳、鼻、舌、身体)で経験するものは「密なrūpa」です。つまり4大要素すなわちsatara mahā bhūtaで作られたものなので、suddhāshtakaで構成されています。

•これらの5種類のrūpaは、すべて「rūpa lōka」のものです。これは、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、身体的接触としてよく知っているものです。

•体に触れたり、目で見たりするのは、誰もが知っているrūpaです。他の4つのタイプと区別するために、「rūpa rūpa」すなわち「vanna rūpa」(シンハラ語またはサンスクリット語では「varna rūpa」)と呼ばれることもあります。

•しかし、それらの「rūpa rūpa」を「見る」には光が必要です。光は、光子と呼ばれる小さな粒子で構成されています。それらはそのエネルギーのために非常に小さな質量を持っています。

 

4. Now, let us look at the other four types of rūpa that we detect with our ears, noses, tongues.

  • It is easy to see that what we taste are also “rūpa rūpa“, i.e., solid food or liquids.
  • What we detect with the nose are scents, which are really very small particulates. So, they are also “rūpa rūpa“.

When we hear sounds, our ears detect disturbances in the air due to that sound. Sound, therefore, involves energy, just like light. Sometimes sound energy is attributed to energy packets called “phonons”.

 

4.次に、耳、鼻、舌で感知する他の4種類のrūpaを見てみましょう。

•私たちが味わうものは「rūpa rūpa」、つまり固形食品または液体であることも容易にわかります。

•鼻で感知するのは匂いです。これは非常に小さな微粒子です。ですから、それらもrūpa rūpaです。

•音を聞くと、耳はその音による空気の乱れを感知します。したがって、音は光のようにエネルギーを伴います。音エネルギーは、「phonons」と呼ばれるエネルギーパケットに起因する場合があります。

  •  

5. Therefore, detection of rūpa in the “rūpa lōka” involve matter or energy, and all those are above the suddhāshtaka stage.

  • Yes. The light particles or photons are also made of suddhāshtaka.
  • They are above the suddhāshtaka stage, so one can see how minute a suddhāshtaka is; it is much, much smaller than an atom in modern science.
  • For example, a photon in the visible range (which is a suddhāshtaka) is a billion times less massive than a hydrogen atom, the smallest atom. That is like the mass difference between a grain of sand an average airplane.

suddhāshtaka could be a billion times smaller than that photon.

5.したがって、「rūpa lōka」でのrūpaの感知には、物質またはエネルギーが関係しており、それらはすべて、suddhāshtakaレベルを超えて(大きい)います。

•軽い粒子すなわち光子もsuddhāshtakaでできています。

suddhāshtakaレベルの上にあるので、suddhāshtakaがどれくらいの微細であるのかがわかります。それは、現代科学の原子よりもはるかに小さいものです。

•たとえば、可視範囲の光子(suddhāshtaka)は、最小の原子である水素原子の10億分の1の質量です。それは砂の粒と平均的な飛行機の質量差ぐらいです。

suddhāshtakaは、その光子の10億分の1ぐらいになります。

  •  

6. This is actually another example of how Buddha was ahead of modern science 2500 years ago. He had categorized all five “objects” sensed by the five physical senses as “rūpa” made up of suddhāshtaka. It was only about 100 years ago that science identified photons as particles, with the advent到来 of quantum mechanics.

Now it is accepted that light is made up of particles called photons.

 

6.これは、2500年前にブッダがどのように現代科学を先んじたかの実際の別の例です。彼は、5つの物理的感覚によって感知された5つの「対象」をすべて、suddhāshtakaで構成される「rūpa」として分類しました。量子力学の到来により、科学が光子を粒子として特定したのはわずか100年前です。

•多くの物理学者でさえ、1986年のGraingerRoger、およびAspectの単一光子感知実験まで、光の粒子の性質を受け入れませんでした。

•現在、光は光子と呼ばれる粒子で構成されていることが認められています。

 

7. Now let us think about what else we experience, other than those detected with the five physical senses. Imagine someone trapped in a cell with soundproof walls with no light inside and nothing in that room except its walls.

  • That person can only touch the walls. He cannot see, hear, smell, or taste anything.
  • But touch is not the only sense experience he has. He can think about anything he wants to. He can think about past events and he can think about what can take place in the future.

Those thoughts do not come at random, but due to kamma vipāka. Of course one can willingly recall them too. They are his memories and future hopes, among others. This is the part that most people don’t even consider.

 

7.ここで、5つの身体感覚で感知されたもの以外に、私たちが経験する他のことについて考えてみましょう。

誰かが防音壁のある部屋に閉じ込められており、内部に光がなく、その部屋の壁以外は何もないと想像してください。

•その人は壁にしか触れることができません。彼は何も見る、聞く、嗅ぐ、味わうことができません。

•しかし、感触だけが彼の経験ではありません。彼は自分がやりたいことについて考えることができます。彼は過去の出来事について考えることができ、将来何が起こるかについて考えることができます。

•これらの考えはランダムではなく、kamma vipākaによるものです。もちろん、それらを喜んで思い出すことができます。とりわけ思い出と将来の希望です。これはほとんどの人が考慮していません。

 

8. As we discussed above, those are the finer rūpa detected by the mind lie below the suddhāshtaka stage. They are detected by the mana indriya in the brain (another fact unknown to science), and subsequently sensed by the mind.

  • Kamma beeja that are generated by our minds (via our thoughts) — are also part of dhammā. They bring kamma vipāka back to from time to time. These are what we think of as “random thoughts” that come to us about things and people.
  • Those dhammā are not coarse粗い enough to be “seeing” even with abhiññā powers and do not make contact with other five coarse senses. Thus they are called, “anidassan appatighan dhammāyatana pariyāpanna rūpan“.

Here, “anidassana” means “cannot be seen” and “appatigha” means “cannot be touched or sensed with even the finest instrument”. And, “dhammāyatana pariyāpanna rūpan” means “can make contact only with the dhammāyatana or mana indriya”; see, “What are Dhamma? – A Deeper Analysis“.

 

8.上記で説明したように、それら(想い)はsuddhāshtakaレベルの下にあるマインドによって感知される、より微細なrūpaです。それらは脳内のmana indriyaによって感知され(科学にとって未知の事実)、その後、マインドによって感知されます。

•私たちのマインドによって(私たちの想いを介して)生成されるkamma beejadhammāの一部です。それらは時々kamma vipākaをマインドに持ち帰ります。これらが頭(マインド)に浮かんでくる物や人についての「ランダムな思考」と考えているものです。

•これらのdhammāは、abhiññāの力でさえ「見える」ほど粗いものではなく、他の5つの粗い感覚とは接触しません。したがって、それらはanidassan appatighan dhammāyatana pariyāpanna rūpanと呼ばれています。

•ここで、「anidassana」は「見えない」ことを意味し、「appatigha」は「最も微細な器官でさえ触ったり感知したりできない」ことを意味します。また、「dhammāyatanapariyāpannarūpan」は「dhammāyatanaすなわちmana indriyaとのみ接触できる」という意味です。

What are Dhamma? – A Deeper Analysis

 

9. We see a person when light reflected off of that person comes to our eyes. A sound is heard when the air disturbances due to that sound reach our ears. We smell a scent when tiny particulates of scent reach our noses. When food particles make contact with our tongues we taste the food.

  • So, we have five physical “sensors” on our bodies to detect those five five sense inputs. They are eyes, ears, nose, tongue, and our bodies. They are called cakkhu, sōta, ghāna, jivhā, and kāya indriya.

The sixth sense that we have is called the mana indriya. It is located in the brain, but I have not yet been able to identify it with the known components in the brain. Of course, scientists do not think about it that way. This is how the Buddha described it.

 

 9. 私たちは人を見たというのは、その人から反射された光が私たちの目に届くからです。音が聞こえるのは、その音による空気の乱れが耳に届くからです。匂いがするのは、香りの小さな粒子が鼻に届くからです。食べ物の味がするのは、食べ物の粒子が舌と接触するからです。

•したがって、私たちの身体には5つの物理的な「感覚器官」があり、これらが5つの感覚入力を感知します。それらは目、耳、鼻、舌、そして私たちの体です。それらは、cakkhusotaghānajivhākāyaindriyaと呼ばれます。

•私たちが持っている6番目の感覚は、mana indriyaと呼ばれます。これは脳内にありますが、脳内の既知の成分でまだ特定できていません。もちろん、科学者はそのように考えていません。これが釈尊の説明です。

 

10. We detect “dhammā” with the mana indriyajust like we detect pictures with cakkhu indriya or sounds with sōta indriya (ears). But all these sense inputs are “felt” by the mind  (hadaya vatthu) located close to the physical heart; see, “Brain – Interface between Mind and Body“.

  • These dhammā are also rūpa in Buddha Dhamma, but they are even finer than those light particles or photons.
  • Dhammā” are just energies that lie BELOW the suddhāshtaka stage. They cannot be detected with even the finest scientific instrument.

That person locked up in an isolated room generates thoughts about his past or future when dhammā that represent such past events or future hopes make contact with the mana indriya.

10. cakhu indriyaで写真を、sota indriya(耳)で音を感知するように、mana indriyaで「dhammā」を感知します。しかし、これらすべての感覚入力は、肉体の心臓の近くにあるマインド(hadaya vatthu)によって「感じられ」ます。Brain – Interface between Mind and Bodyを参照してください。

•これらのdhammāBuddha Dhammaでもrūpaですが、光の粒子や光子よりもさらに細かいものです。

•「Dhammā」は、suddhāshtakaレベルの下にあるエネルギーです。最高級の科学機器でさえ感知できません。

•隔離された部屋に閉じ込められた人は、そのような過去の出来事や将来の希望を表すdhammāmana indriyaと接触すると、自分の過去や未来についての考えを生み出します。

 

11. Just like the dense rūpa that we detect with our five physical senses are in our “rūpa lōka“, these dhammā (which are the same as kamma beeja) are in our “manō lōkamental world; see, “Our Two Worlds : Material and Mental“.

  • This manō lōka is also called “bhava because that is where one’s kamma beeja are, as we mentioned above in #8. We all have numerous kamma beeja that can give rise to a variety of bhava at the cuti-patisandhi moment, when a new bhava is grasped (the strongest kamma beeja corresponding to an appropriate bhava is selected).
  • Of course, kamma vipāka during a given life also arise due to smaller kamma beejaas mentioned above.

When kamma beeja lose their energy over long times, they become just “records.” of what happened. Now they cannot bring any more vipāka, but become just “memories”.

 

11.五感で感知する密なrūpaが「rūpa lōka物質界」にあるように、これらのdhammākamma beejaと同じ)は「manō lōka」(メンタル界)にあります。Our Two Worlds : Material and Mentalを参照してください。

このmanō lōkaは、「bhava」とも呼ばれます。これは、#8で前述したように、kamma beejaがある場所だからです。新しいbhavaをつかむと、適切なbhavaに対応する最強のkamma beejaが選択されます。

•もちろん上記のようにより小さなkamma beejaが原因で、与えられた人生のkamma vipākaも発生します。

長い期間によってkamma beejaがエネルギーを失うと、それらは単なる「何が起こったのかという記録」になります。こうなるとそれ以上のvipākaを持ち込むことはできず、単なる「思い出」になります。

 

12. So, these dhammā (or kamma beeja) are rūpa that are below the suddhāshtaka stage, and are in our “manō lōka” or “mental world”, as opposed to dense rūpa that are in our “material world” or “rūpa lōka“.

  • The “mental world” is all around us, just like the “material world”, but of course we cannot “see it”, just like we cannot “see” all those radio, television, and cell phone signals that are all around us.
  • But we do know that those radio, television, and cell phone signals are there because we can receive them with our radios, TVs, and cell phones. Just the same way, we receive those “dhammā” with our mana indriya.
  • One may be engaged in some task, say washing dishes in the kitchen, but all of a sudden a thought may come to mind about a friend far away or some incident at work. That is due to “dhammā” impinging影響を与える on mana indriya due to kamma vipāka.

In addition, we can recall such memories at our will too.

 

12.したがって、これらのdhammā(すなわちkamma beeja)は、suddhāshtakaステージの下にあるrūpaであり、私たちの「物質界」すなわちrūpa lōkaにある「密なrūpa」とは対照的に、「manōlōka」すなわち「mental界」にあります。

•「メンタル界」は「物質界」と同じように私たちの周りにありますが、もちろん、私たちは「見る」ことはできません。

•しかし、ラジオ、テレビ、携帯電話で受信できるために、ラジオ、テレビ、携帯電話の信号があることを知っているのとまったく同じように、mana indriyaで「 Dhamma」を受け取ることを知ることができます。

•台所で皿を洗うなどして、何らかの仕事をしている時に、突然遠く離れた友人や職場での出来事について思いが浮かぶことがあるかもしれません。これは、kamma vipakaによって「dhammā」がmana indriyaに影響を与えるためです。

•さらに、私たちもそのような記憶を思いのままに思い出すことができます。

 

13. Those who are familiar with Abhidhamma know that a “seeing event” is a sense input through the eyes: “cakkhuñca paṭicca rūpē ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ“, i.e., “eye-consciousness arises when a rūpa rūpa (with the aid of light) impinges on the eyes”.

  • Similarly, hearing is due to: “sōtañca paṭicca saddē ca uppajjati sōtaviññāṇaṃ“, etc. for other physical senses of ghāna (smell), jivhā (taste), and kāya (body).

Finally, detection of dhammā with the mana indriya is stated as, “manañca paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ“.

 

13. Abhidhammaに精通している人は、「見るイベント」とは目を通した感覚の入力であることを知っています。つまり、光の補助により物質粒子が目に影響を与え、目の意識が生起します。

•同様に、聴覚の原因は、「sōtañca paicca saddēca uppajjat​​I sōtaviññāa」であり、他の物理的なghāna(におい)、jivhā(味)、およびkāyabody)も感覚の入力です。

•最後に、mana indriyaを使用したdhammāの感知は、「manañca paicca dhammē ca uppajjat​​i manōviññāa」と記述されています。

 

14. We also need to realize that “dhammā” can have somewhat different meaning too, depending on the where used.

  • Buddha Dhamma means the teachings of the Buddha. Here it is normally written as “Dhamma”, but some do write it as Buddha Dhammā.

So, we need to take the appropriate meaning of a given word depending on the context.

 

14.また、「dhammā」は、使用される場所に応じて、多少異なる意味を持つ可能性があることを認識する必要があります。

•仏法とは、仏の教えを意味します。ここでは通常「Dhamma」と書かれていますが、一部の人はBuddha Dhammāと書いています。

•だから、文脈に応じて与えられた単語の適切な意味を取る必要があります。

 

15. For those who are familiar with Abhidhamma, we can state the above with Abhdhamma language as follows. According to Buddha Dhamma EVERYTHING in existence can be put into four ultimate realities (paramatthatha):

  • Thoughts (citta)
  • Thought qualities or mental factors (cētasika)
  • Matter (rūpa) which includes energy and dhammā.
  • Nibbāna

 

15. Abhidhammaに精通している人のために、次のようにAbhdhamma用語で上記を述べることができます。 Buddha Dhammaによると、存在するすべては4つの究極のリアリティ(勝義諦paramatthatha)に分別することができます:

•想い(citta

•想いの質すなわちメンタル的要因(cētasika

•エネルギーとdhammāを含む物質(rūpa)。

Nibbāna

 

16. As we will see later, it is these dhammā that eventually lead to the formation of dense rūpa that we enjoy with our five physical senses.

Such dense rūpa have finite lifetimes (they are impermanent). In addition, they change unpredictably during their existence and that is called viparināma lakkhana.

  • But no matter how hard one tries, one is unable to maintain such dense rūpa to one’s satisfaction. Thus, such dense rūpa leads to more suffering than any pleasure.
  • Five types of dense rūpa are in our “rūpa lōka,” the less dense dhammā are in our “manō lōka“; see, “Our Two Worlds: Material and Mental.”

A living being exists to experience such dense rūpa and hopes to enjoy them with the mind (with citta and cētasika). That is the basis of existence in a sentence.

 

16.後で見るように、これらのdhammāが私たちの五感で楽しむことができる密なrūpaの形成に最終的につながることです。

このような密なrūpaの寿命は有限です(非永続的です)。さらに、存在している間は、予測不可能に変化し、それはviparināma lakkhana(予測不可能に変化する性質)と呼ばれます。

•しかし、どんなに一所懸命に努力しても、密度の高いrūpaを満足できるように維持することはできません。したがって、そのような密なrūpaは、どんな喜びよりも苦しみにつながります。

•「rūpa lōka」には5種類の密なrūpaがあり、「manō lōka」にはそれほど密ではない Dhammāがあります。Our Two Worlds: Material and Mentalを参照してください。

•そのような密なrūpaを体験するために生命体は存在し、それらをマインド(cittacētasikaで)で楽しむことを望んでいます。文中では、それが「存在」の基礎です。

 

17. The Buddha said, “sabbē dhammā anattā,” i.e., “all dhammā are without essence at the end” and must be given up to attain Nibbāna. But that cannot be done by sheer明らかな will power: One has to comprehend the true nature — Tilakkhanna — to see the real nature of all rūpa, including dhammā.

  • We make our world by creating dhammā on our own. That is a critical point that I will try to explain in future posts in this “Living Dhamma” section.
  • The basis for making dhammā are our thoughts with javana citta. A javana citta generates “kamma beeja” and they give rise to future kamma vipāka. So, kamma beeja are dhammā. They are very tiny packets of energy below the suddhāshtaka stage.

But some javana (especially in jhāna samāpatti(到達) 入定)) can create energies above the suddhāshtaka stage, i.e., they can produce tangible rūpa. That is how one with abhiññā powers can “create” physical objects.

 

17.釈尊は「sabbē dhammā anattā」、すなわち「すべてのdhammāは最後には本質を持たない」と言っており、Nibbānaを達成するために放棄しなければなりません。しかし、それは明瞭な意志の力ではできません。 Dhammāを含むすべてのrūpaの本当の性質を見るために、本当の性質である三相を理解する必要があります。

私たちは自分でdhammāを作成して世界を作ります。これは、Living Dhammaセクションで説明しようとする重要なポイントです。

dhammāを作成する基礎は、javana cittaにおける私たちの「考え・想い」です。 javana cittaは「kamma beeja」を生成し、将来のkamma vipākaを生成します。それでkamma beejadhammāなのです。それらはsuddhāshtakaステージの下の非常に小さなエネルギーの塊です。

•しかし、一部のjavana(特にjhāna samāpatti入定)では、suddhāshtakaステージの上にエネルギーを作成できます。つまり、有形のrūpaを作成できます。それが、abhiññāの力を持つ人が物理対象を「作成」する方法です。

 

18. Any rūpa (including kamma beeja) that one makes for oneself, cannot be maintained to one’s satisfaction.

  • Any rūpa with energy will eventually be destroyed, or that energy will wear out. Furthermore, such rūpa can and will change unexpectedly while in existence too; that is the viparināmaunpredictable changes characteristic and is a root cause of suffering.

The only dhammās that are “permanent” are nāma gotta, records of our sankhāra, which do not have energy in them; “Nāmagotta, Bhava, Kamma Beeja, and Mano Loka (Mind Plane).”

 

18.自分で作るrūpakamma beejaを含む)は、各自が満足するように維持させることはできません。

•エネルギーを持つrūpaは最終的に破壊されるか、そのエネルギーが消耗します。さらに、そのようなrūpaも存在している間に予期せず変化する可能性があります。それがviparināma(予測不可能な変化)の特徴であり、苦しみの根本原因です。

「永続的」なdhammāは、sankhāraの記録であるnāmagottaのみで、それらにはエネルギーがありませんNāmagotta, Bhava, Kamma Beeja, and Mano Loka (Mind Plane)

 

19. When one sees the perils of this rebirth process (after one grasps the Tilakkhana), one stops making those causes via abhisankhāra, and also gives up the craving (tanhā) for them, which leads to Nibbāna.

Nibbāna results when all those causes are removed, no rūpa can arise. Hence Nibbāna is permanent. No more suffering!

 

19. (三相を把握した後に)この転生プロセスの危険を見ると、abhisankhāraを介して原因を作ることをやめ、そして、欲求(tanhā)を放棄します、これがNibbānaに導きます。

Nibbānaは、これらのすべての原因が取り除かれた場合に発生し、rūpaは発生しません。したがってNibbānaは永続的です。もう苦しむ必要はありません!

 

20. Finally, our six sense inputs (āyatana) and the six types of rūpa that we experience with them are discussed in several suttas. For example, in the “Cha Chakka Sutta (MN 148)“:

Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’tiiti kho panetaṃ vuttaṃ. Kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃCakkhāyatanaṃ, sotāyatanaṃ, ghānāyatanaṃ, jivhāyatanaṃ, kāyāyatanaṃ, manāyatanaṃ. ‘Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’tiiti yaṃ taṃ vuttaṃ, idametaṃ paṭicca vuttaṃ. Idaṃ paṭhamaṃ chakkaṃ. (1)”

Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī’tiiti kho panetaṃ vuttaṃ. Kiñcetaṃ paṭicca vuttaṃRūpāyatanaṃ, saddāyatanaṃ, gandhāyatanaṃ, rasāyatanaṃ, ­phoṭṭhab­bā­yatanaṃ, dhammāyatanaṃ. ‘Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī’tiiti yaṃ taṃ vuttaṃ, idametaṃ paṭicca vuttaṃ. Idaṃ dutiyaṃ chakkaṃ. (2)”

  • Thus, there are six (Cha) internal āyatana (ajjhattikāni āyatanāni) and six external (bāhirāni āyatanāni).
  • The sixth internal āyatana is manāyatanaand it detects dhamma (called manāyatana, just like sadda or sound is called saddāyatana).

A more in-depth analysis of dhammā is at, “What are Dhamma? – A Deeper Analysis.”

 

20.最後に、6つの感覚入力(āyatana)と、それらで経験する6種類のrūpaについて、いくつかのsuttaで説明します。たとえば、Cha Chakka Sutta (MN 148)

Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’tiiti kho paneta vutta. Kiñceta paicca vutta Cakkhāyatanaṃ,sotaāyatanaṃ,ghānāyatanaṃ,jivhāyatanaṃ,kāyāyatanamanāyatana.

Cha ajjhattikāni āyatanāni veditabbānī’tiitiyata vuttaidameta paicca vutta Ida pahama chakka.1

Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī’tiiti kho paneta vutta. Kiñceta paicca vutta Rūpāyatanaṃ,saddāyatanaṃ,gandhāyatanaṃ,rasāyatanaṃ,phoṭṭhabbā-yatanaṃ,dhammāyatanaṃ.

Cha bāhirāni āyatanāni veditabbānī´tiiti ya ta vuttaidameta paicca vutta. Ida dutiya chakka.2

 

•したがって、6つの(Cha)内部āyatanaajjhattikāni āyatanāni)と6つの外部āyatanabāhirāni āyatanāni)があります。

6番目の内部āyatanamanāyatanaであり、dhammaを感知します(saddaすなわち音がsaddāyatanaと呼ばれるようにmanāyatanaと呼ばれます)。

dhammāのより詳細な分析は、What are Dhamma? – A Deeper Analysis

 

 

 

 

 

What Are Rūpa? (Relation to Nibbāna)

Revised May 25, 2018; February 19, 2020

1. In Buddha Dhamma, everything in “this world” of 31 realms can be put into two categories: mana or manō (mind) and rūpa (material form).

  • The mind is citta (thoughts) and the mental properties in the thoughts, cētasika.
  • Everything else is rūpa (material forms).

 

1.仏法では、31の領域の「この世界」にあるすべてのものを、manaすなわちmanō(マインド)とrūpa(物質)の2つのカテゴリに分類できます。

 

マインドはcitta(想い)であり、想いのメンタル的特性はcētasikaです。

それ以外はすべてrūpa(物資的形状)です。

 

2. Now let us look at rūpa: Many people think rūpa is just the body or “material things”. A better translation for rūpa is “matter and energy”. As stated in #1 above, everything else in the 31 realms that is not citta or cētasika is rūpa.

  • There are five types of rūpa that we experience with our five senses: With the eyes (cakkhu), we experience vaṇṇa rūpa (whatever that is visible.) We experience sounds  and smells (gandha) with the nose (ghāna.) Taste (rasa) is experienced with the tongue (jivhā) and the touch (phoṭṭhabba) with the body (kāya.)

 

2.次に、rūpaを見てみましょう。多くの人は、rūpaは単なる身体または「物質的なもの」であると考えています。 rūpaのより良い翻訳は「物質とエネルギー」です。上記の#1で述べたように、31の領域でcittaまたはcētasika以外のすべてはrūpaです。

 

私たちが五感で経験するrūpaには5つのタイプがあります。目(cakkhu)で、私たちはvaṇṇa rūpa(目に見えるものは何でも)を経験します。耳 (sōta)で音(sadda)、鼻(ghāna)で香り(gandha)、舌(jivhā)で味(rasa)、身体(kāya)で感触(phoṭṭhabba)が経験されます。

 

3. We can see that smells are due to tiny material particles that enter the nose. The taste is also due to food and drinks that touch the tongue; touch is also contact between “material things”.

  • But what about visible objects? We need light to see any objects; without light, we cannot see. Thus “seeing” involves matter and energy. Same for sound. Thus vaṇṇa rūpa (or varna rūpa) are really “matter and energy”, which in the end is just energy. Since the turn of the 20th century, science has confirmed that matter is just energy: they are related by Einstein’s famous formula of E = mc2.
  • It is important to realize that what is meant by “cakkhuñca paṭicca rūpē ca uppajjāti cakkhu viññāṇaṃ.“That means the light impinging on the eye indriya to give us the sensation of vision. Thus, in vaṇṇa (also called varna or rūpa rūpa), sadda, gandha, rasa, and phoṭṭhabba (the five senses), rūpa are really types of energy or particles.
  • Modern science now agrees that there is no distinction between matter and energy. However, matter/energy is created by the mind (as “dhammā.“) See, “Manōpubbangamā Dhammā..
  • Matter above the bhūta stage will eventually be destroyed in the “lōka vināsa” in a supernova type explosion. See, “Saṃsāric Time Scale, Buddhist Cosmology, and the Big Bang Theory“.

 

3.においは、鼻に入る小さな物質の粒子が原因であることがわかります。味はまた、舌に触れる食べ物や飲み物によるものです。触覚は「物質的なもの」どうしの接触です。

 

しかし、目に見える対象はどうでしょうか?対象を見るには光が必要です。光がなければ見えません。したがって、「見る」には物質とエネルギーが関係します。音も同じです。したがって、vaṇṇa rūpa(またはvarna rūpa)は本当に「物質とエネルギー」であり、最終的には単なるエネルギーです。 20世紀に入って以来、科学は物質が単なるエネルギーであることを確認しました。それらはアインシュタインの有名な式E = mc2によって関連付けられました。

cakkhuñca paicca rūpē ca uppajjāti cakkhu viññāa.“の意味するところを理解することは重要です。

それは、眼のindriyaに光が当たることが視覚に感覚を与えることを意味します。したがって、vaṇṇavarnaまたはrūparūpaとも呼ばれます)、saddagandharasa、およびphoṭṭhabba(五感)では、rūpaは実際にはエネルギーまたは粒子の一種です。

現代科学は今、物質とエネルギーの間に区別がないことに同意しています。ただし、物質/エネルギーはマインドによって作成されます(dhammāとして)。Manōpubbangamā Dhammā..を参照してください。

bhūtaレベルの上(大きい)にある物質は、最終的には超新星型爆発の「lōka vināsa」で破壊されます。

Saṃsāric Time Scale, Buddhist Cosmology, and the Big Bang Theoryを参照してください。

 

4. Thus the rūpa can vary in “density” from almost pure energy to the solid objects that we can see with our eyes.

  • They go through three stages: At the “gati” stage, they overlap with energy; in the “bhūta” stage, they are more solidified but the human eye still cannot see (this is why some beings that the humans cannot see are called “bhūta” in Pāli or Sinhala); it is only in the “dhātu” stage that the human eye can see; see, “The Origin of Matter – Suddhashtaka“.
  • At Parinibbāna (death of an Arahant), the mind is not attached to a rūpa in any of the three forms: dhātubhūta, or gati.

 

4.したがって、rūepaは「密度」がほぼ純粋なエネルギーから、目で確認できる固体対象まで変化する可能性があります。

rūpa3つの段階を経ます。「gati」段階では、エネルギーと重なります。 「bhūta」の段階では、それらはより凝縮されますが、人間の目はまだ見えません(これが、人間が見ることができない存在がパーリ語またはシンハラ語で「bhūta」と呼ばれる理由です)。人間の目で確認できるのは「dhātu」の段階だけです。

The Origin of Matter – Suddhashtakaを参照してください。

Parinibbāna(アラハンの死)では、マインドは3つの形式(dhātu, bhūta,gati)のいずれのrūpaにも執着していません。

 

5. When one is born anywhere in the 31 realms, it is the viññāna (impure consciousness) that keeps the mind bound to a material body. As the purity level of the mind goes higher one moves up from the lower realms with dense bodies to higher realms with less dense bodies.

  • In the lower realms (at or below the human realm, which is the fifth realm), the mind is normally attached to a dense body that the human eye can see. This is a dense dhātu form.
  • In the dēva lokā (realms 6-11), the bodies are finer (subtle.) Their minds are devoid of hate and thus are purer. In the realms 6-11, the bodies are made of rūpa still in the dhātu” form, but less dense.
  • The minds are devoid of both hate and greed, and are thus are purer, in the rūpa loka and arūpa loka. In the rūpa loka (realms 12-27), the bodies of the beings are much less dense than the dēvas and are in the bhūta” form.
  • In arūpa loka (realms 28-31) there are no rūpa even in the sense of bhūta. But the four mahā bhūta are still associated with those being’s “gati ( see, Kevaddha Sutta in Digha Nikaya.) In those realms, rūpa can be thought of as indistinguishable from energy.
  • When the mind becomes purified, viññāna becomes “anidassana viññāna“, which is the viññāna of an Arahant (also called paññā). Here there is no association of the mind with even fine rūpa associated with “gati.” The mind completely detaches from rūpa. The mind becomes pure and free. When one attains Aranthood, one still lives with the “solid body” of a human being until death. At Parinibbāna, the mind becomes completely free of rūpa. See, “Pabhassara Citta, Radiant Mind, and Bhavaga.”

 

5. 31の領域のどこかで生まれたとき、マインドを物質的な肉体に縛り付けているのはviññāna(純粋でない意識)です。マインドの純度レベルが高くなると、密度の高いボディを持つ低い領域から、密度の低いボディを持つ高い領域に移動します。

 

下の領域(5番目の領域である人間の領域以下)では、マインドは通常、人間の目で見ることができる密な体に取り付けられています。これは密なdhātuのカタチです。    地獄と餓鬼の世界が見えないのはなぜ?

dēvalokā(領域6-11)では、肉体はより細かく(微妙です)彼らのマインドには憎しみがなく、したがってより純粋です。 6-11の領域では、ボディはまだ「dhātu」形式のrūpaでできていますが、密度は低くなっています。

rūpalokaarūpalokaでは、マインドは憎悪と貪欲の両方を欠いているため、より純粋です。 rūpaloka(領域1227)では、存在の体はdēvasよりも密度が低く、「bhūta」の形をしています。

arūpaloka(領域28-31)では、bhūtaのレベルでもrūpaはありません。しかし、4つのmahā bhūtaは、依然としてそれらの「gati」に関連付けられていますDigha NikayaKevaddha Suttaを参照)。これらの領域では、rūpaはエネルギーと区別できないものと考えることができます。

マインドが清められると、viññānaは「anidassana viññāna」になり、これはアラハンのviññāna(別名panññā)です。ここでは、マインドと「gati」に関連付けられた微細なrūpaさえありません。メンタルは完全にrūpaから切り離されます。マインドは純粋で自由になります。 アラハンに達しても、人は死ぬまで人間の「固体(肉体)」と一緒に生きています。parinibbānaで、マインドは完全にrūpaから解放されます。

Pabhassara Citta, Radiant Mind, and Bhavaṅgaを参照してください。

 

6. At a deeper level, the anicca nature, i.e., our inability to maintain anything to our satisfaction, is based on the fact that any rūpa is subjected to not only decay (impermanence) but also to unexpected change (viparināma nature).

7. Thus to attain Nibbāna is to attain the perfectly purified mind, which refuses to be burden with a physical body that leads to decay and rebirth repeatedly (and thus to dukkha). 

 

6.より深いレベルでは、aniccaの性質、つまり私たちが何ものも満足に維持できないことは、あらゆるrūpaが老朽する(無常)だけでなく、予期しない変化(viparināmaの性質)にもさらされるという事実に基づいています。

この事実は、熱力学の第二法則に具体化されています。

Second Law of Thermodynamics is Part of Anicca!を参照してください。

 

7.したがって、Nibbānaを達成することは、完全に浄化されたマインドを達成することであり、それは、老朽と再生を繰り返し(したがって、duckkha)につながる身体への負担を拒否します。

 

8. In the 31 realms, one is born with a dense body (kāma loka), fine-material body (rūpa loka), or only a trace of “matter” in the form of “gati” (arūpa loka).   When the mind becomes free of a “body” anywhere in the 31 realms, that is NibbānaThis is another way to understand Nibbāna.

 

8. 31の領域で、ヒトは密度の高い肉体(kāmaloka)、微細元素の体(rūpaloka)、そして「gati」のカタチにある「エネルギー」の痕跡(arūpaloka)を持って生まれます。 31の領域のどこかでマインドがそれらの体から解放されるとき、それはNibbānaです。これは、Nibbānaを理解するもう1つの方法です。

 

9. In Buddha Dhamma, any given thing or concept can be looked at from many different angles. They are all consistent. It is a complete “world view”. Some people think, why do we have to worry about 31 realms, etc., but the world is very complex. Scientists are just beginning to appreciate this complexity.

  • The amazing fact is that the Buddha discerned all this with his mind. Furthermore, he was able to present it all in a coherent manner.

 

9. Buddha Dhammaでは、与えられたものや概念をさまざまな角度から見ることができます。それらはすべて一貫しています。それは完全な「世界観」です。なぜ31の領域などを心配する必要があるのか​​と思う人もいますが、世界は非常に複雑です。科学者たちはこの複雑さを理解し始めたばかりです。

 

驚くべき事実は釈尊が彼のマインドでこれらすべてを識別したことです。さらに、彼はそれを首尾一貫して提示することができました。

 

10. Please re-read and contemplate on the above. In the long run, it will be very helpful. If you do not really understand it now, do not worry. You will be able to understand more when you become familiar with other concepts discussed in other posts. Everything at this site is inter-connected. It may take some time to “fill-in-the-blanks”.

More details at, “Nāma & Rūpa to Nāmarūpa“.

 

10.上記をもう一度読んで熟考してください。長期的には、非常に役立ちます。今はよくわからなくても心配はいりません。他のトピックで説明されている他の概念に慣れると、より深く理解できるようになります。このサイトのすべてが相互に接続されています。 「空白を埋める」には時間がかかる場合があります。

 

 

 

Difference Between Rūpa and Rūpakkhandha

Revised October 20, 2018; September 18, 2019; re-written April 24, 2020

Introduction

1. Difference Between rūpa and rūpakkhandha is necessary to understand. Translation of rūpakkhandha as “form aggregate,” gives the wrong impression that it is a collection of “solid objects.”

Instead of memorizing Pāli words, we need to understand what is meant by such Pāli words and use the Pāli words when there is ambiguity. Many key Pāli words do not have equivalent English words.

 

1. rūparūpakkhandhaの違いを理解することが必要です。 rūpakkhandhaを「カタチの集合体」として翻訳すると、対象が「固形のモノの集合体」であるという誤った印象を与えます。

 

パーリ語を暗記する代わりに、パーリ語の意味を理解し、あいまいな場合はパーリ語を使用する必要があります。多くの主要なパーリ語には、同等の英語の単語がないからです。

 

What Is a Rupa?

2. Before we understand the difference between a “rūpa” and “rūpakkhandha,” we need to understand what the Buddha meant by a “rūpa.” The Pali word “rūpa” customarily translated as “form.”

  • The definition of a rūpa is in many places in the Tpiṭaka, for example, SN 22.56 and SN 22.57. In simple terms, ” A rūpa consists of the four great elements, or is derived from the four great elements.”

rūpa made of the four great elements is not necessarily a solid object like a tree (those are vaṇṇa rūpa.) Types of energy are included in the rūpa category. All sensory inputs to the five physical senses are rūpa.

 

2.rūpa」と「rūpakkhandha」の違いを理解する前に、釈尊が「rūpa」が何を意味しているかを理解する必要があります。パーリ語の「rūpa」は慣習的に「形」と訳されています。

 

rūpaの定義は、SN 22.56SN 22.57など、Tpiakaの多くの場所にあります。簡単に言うと、「rūpa4大要素と4大要素から派生されたもので構成されています。

4大要素からなるrūpaは、必ずしも木のような固体対象ではありません(それらはvaṇṇa rūpaです)。エネルギーもrūpaのカテゴリに含まれます。 5つの身体感覚へのすべての感覚入力はrūpaです。

 

3. Therefore, we can see that light, sound, odors, taste, and touch are all associated with rūpa. It is only within the past 100 years or so that scientists admitted that matter and energy are the same.

  • In modern-day terms, rūpa are either “solid matter” (human bodies, trees, houses, etc.) OR “energy” (light, sound, heat, etc.). With Einstein’s formula of E = mc^2, modern science acknowledged that matter and energy are intrinsically the same.
  • In terms of Buddha Dhamma, all those rūpa are collections of suddhāṭṭhaka, the “smallest unit of rūpa.” We usually call visible objects “matter.” And invisible energy forms (like heat, sound) “energy.” Both types consist of suddhāṭṭhaka. A suddhāṭṭhaka is the smallest unit of energy/matter in Buddha Dhamma. It is unimaginably tiny, billions of times smaller than an atom, or even an electron, in modern science.

The 28 types of rūpa are listed in “Rupa (Material Form) – Table.” As we can see, especially the ten types of rūpa on the right-hand side of the Table are not what we usually think of as “matter.”

 

3.したがって、光、音、匂い、味、触覚がすべてrūpaに関連していることがわかります。物質とエネルギーが同じであることを科学者が認めたのは、過去100年ほどのことです。

 

現代の用語では、rūpaは「固形物」(人体、木、家など)または「エネルギー」(光、音、熱など)のいずれかです。アインシュタインのE = mc  2の公式により、現代科学は物質とエネルギーは本質的に同じであることを認めました。

仏法Buddha Dhamma用語では、これらのrūpaはすべて、「rūpaの最小単位」であるsuddhāṭṭhakaの集合体です。通常、可視対象を「物質」そして、目に見えないエネルギー(熱、音など)は「エネルギー」と呼びます。

どちらもsuddhāṭṭhakaで構成されています。仏法ではsuddhāṭṭhakaが物質エネルギーの最小単位です。現代科学では想像を絶するほど小さく、原子や電子よりも数十億倍も小さいものだとされています。

28種類のrūpaRupa (Material Form) – Tableにリストされています。ご覧のように、特に表の右側にある10種類のrūpaは、私たちが通常「物質」と考えるものではありません。

 

Khandha Means a “Collection” or an “Aggregate”

4. Before we discuss rūpakkhandha, it also helps to understand what is meant by a “khandha.” In Pāli (and Sinhala), it means a “heap” or a “pile.” In Sinhala, a hill or a “pile of things” is called a “kanda” (කන්ද). So, aggregate is not a bad translation for khandha (ඛන්ධ in Sinhala for the Pāli word).

  • A heap or an aggregate of rūpa is a rūpa khandha. It rhymes as “rūpakkhandha.” We have seen this in kind of combination of words (sandhi) in Pāli terms like Dhammacakkappavattana Sutta, which is Dhamma Cakka Pavattana Sutta.

Another example is dhammassavana. “Dhamma savana” rhymes as dhammassavanaDhamma savana” is listening to dhamma (discourse).”

 

khandha「集めたもの」すなわち「集合体」を意味します

4.rūpakkhandhaについて説明する前に、「khandha」の意味を理解することも役立ちます。パーリ語(およびシンハラ語)では、「堆積した塊」すなわち「集積物」を意味します。シンハラ語では、丘すなわち「ものの集積」」(කන්ද)と呼びます。したがって、(シンハラ語の)集合体はkhandhaの悪い訳ではありません。

 

rūpaの「堆積した塊」すなわち集合体はrūpakhandhaです。 「rūpakkhandha」として韻を踏みます。これは、Dhamma Cakka Pavattana sutta Dhammacakkappavattana suttaと記するようにパーリ語の単語(sandhi)のの組み合わせを見てきました。

別の例は、dhammassavanaです。 「Dhamma savana」は、dhammassavanaとして韻を踏みます。 意味は、dhamma(談話)を聞いています、です。

 

Rūpakkhandha is All Mental

5. It is essential to realize that rūpakkhandha is all mental. It is NOT a “collection of material things” as the term “form aggregate” may imply. Towards the end of the “Mahāhatthipadopama Sutta (MN 28),” Ven. Sariputta explains rūpakkhandha.

  • Just the presence of an object, a sound, odor, taste, or touch is not enough to be included in rūpakkhandhaFor example, if X is sitting in a pitch dark room, X will not see anything there, even though there may be many objects in the room. If X shines a flashlight on a chair, then X will be able to see the chair. If the image of the chair registers in the mind of X, then it becomes a part of the rūpakkhandha for X. 
  • Let us take another example. Two people, X and Y, are in a room reading books, and X is fully absorbed in reading, but Y has not much interest in his book. Y hears a dog barking and that sound registers in his mind, i.e., the “dog bark” becomes a part of his rūpakkhandhaHowever, even though that sound would have reached X’s ears too, his attention was entirely focused on the book, and he did not hear the “dog bark.” Thus, the “dog bark” is NOT a part of X’s rūpakkhandha

Now it should be quite clear that each person has his/her rūpakkhandha

 

Rūpakkhandhaはすべてメンタルのです

5.rūpakkhandhaはすべてメンタルであることを認識することが不可欠です。 「フォームの集合体」という用語が示唆するような「物質のコレクション」ではありません。Mahāhatthipadopama Sutta (MN 28)の終わりの部分で、Sariputta長老がrūpakkhandhaを説明しています。

物体、音、匂い、味、触覚そのものだけがrūpakkhandhaであるというのは十分ではありません。

たとえば、真っ暗な部屋にXが座っている場合、Xは部屋に多くの物体があったとしても、何も見えません。 Xが懐中電灯を椅子に照らすと、Xは椅子を見ることができます。椅子のイメージがXの心に登録されたら、それはXrūpakkhandha の一部になります。 

別の例を見てみましょう。 XY2人が部屋で本を読んでいるとき、Xは読書に夢中になっていますが、Yは本にあまり興味がありません。 Yは犬の吠え声を聞き、その音が彼の心に響き渡ります。しかし、その音がXの耳にも届いたとしても、彼の注意は完全に本に集中し、「犬の鳴き声」は聞こえませんでした。したがって、「犬の吠え声」はXrūpakkhandhaの一部にはなりません。

これで、各自がそれぞれのrūpakkhandhaを持っていることが非常に明確になります。

 

Rūpakkhandha is Unimaginably Huge!

6. Let us look in a bit more detail to see that these rūpakkhandha are “mental impressions” of rūpa and NOT the rūpa that are out there.

  • A critical point is that when we experience a rūpa, that present moment is quickly gone. Most of rūpakkhandha is what one has already experienced. In fact, everything that we have experienced in all our past rebirths are in the rūpakkhandha!
  • Those rūpā that one has seen in the past are one’s atita rūpāincluding anything that one ever saw (including in previous births). Obviously, these cannot be physical rupāThey are just memories of a rūpa that existed in the past. For example, one may remember a tree in the backyard when one was a child. That tree is no longer there, but one can still “see” that tree in one’s mind. Same for one’s dead parents or grandparents who may be no longer alive.
  • Any rūpa about the future or an anāgata rūpa (for example, a sketch of the type of house one is thinking about building) can change with time. That does not even involve a real rūpa.

Any rūpa that one sees at present (paccuppanna rūpa) goes to the category of atita rūpa in a split second. Even if we never see that object again, that memory will be there.

 

Rūpakkhandhaは想像を絶するほど巨大!

6.もう少し詳しく見てみましょう。これらのrūpakkhandharūpaの「メンタルの印象」であり、そこにあるrūpaではないことを確認します。

重要な点は、私たちがrūpaを経験すると、その瞬間はすぐに消えてしまうということです。 rūpakkhandhaのほとんどは、すでに経験したものです。実際、私たちが過去の転生で経験したことはすべてrūpakkhandhaにあります。

(前世を含む)これまでに見たことのある過去のrūpāは、自分のatita rūpāです。明らかに、これらは肉体的なrupāではありません。それらは過去に存在したrūpaの単なる記憶です。たとえば、子供だったときの裏庭の木を覚えているかもしれません。その木はもはや存在しませんが、心の中でその木を「見る」ことができます。もう生きていない亡くなった両親や祖父母も同じです。

未来のrūpaすなわちanāgata rūpa(たとえば、どのように建てるか構想中の家のスケッチ)は時間とともに変化する可能性があります。それには実際のrūpaは関与していません。

anāgata  [an + āgata] not come yeti. e. future

現在目にしているすべてのrūpapaccuppannarūpa)は、すぐにatita rūpaのカテゴリーに移動します。その対象が二度と見られなくても、その記憶はそこにあります。

 

More Types of Rūpa in Rūpakkhandha

7. Internal (ajjhatta) rūpa are those that are part of oneself: all body parts, including the ones inside the body. External () rūpa are, of course, anything outside of one’s body. Coarse (olārikarūpa are what we call “solid matter,” and fine (sukumarūpa are “energy” (heat, sound, etc.).

  • There are rūpa that are “bad” (hīna), and there are others that are “good” (panita).
  • Some rūpa are located far (dūre), and some are located near (santike).
  • Therefore, we see that there could be some overlaps between these categories.
  • Many of these in the rūpakkhandha we have not even seen. For example, we have a mental impression of our hearts, but we have not seen our hearts. We may not have seen some landmarks like the Chinese Great Wall, but only pictures of them. Yet, we do have mental impressions of those.

Altogether there are 11 types included in rūpakkhandha. The Khandha sutta (SN 22.48) (among many other suttā) summarizes what is included in rūpakkhandha. “Yaṃ kiñci, bhikkhave, rūpaṃ atītā­nāgata­pac­cup­pan­naṃ (atita, anāgata, paccuppanna) ajjhattaṃ bahiddhā oḷārikaṃ sukhumaṃ hīnaṃ paṇītaṃ yaṃ dūre santike ayaṃ vuccati rūpakkhandho. “

 

Rūpakkhandha のその他のタイプのrūpa

7.内部(ajjhattarūpaは、自分自身の一部であるものです。つまり、体の内部を含むすべての体の部分です。外的(bahiddharūpaはもちろん、体の外にあるものです。粗い(olārikarūpaとは私たちが「固形物」と呼んでいるものであり、微細な(sukumarūpaとは「エネルギー」(熱、音など)です。

 

「悪い」(hīnarūpaと「良い」(panitarūpaがあります。

一部のrūpaは遠く(dūre)にあり、一部は近く(santike)にあります。

したがって、これらのカテゴリの間でいくつかの重複がある可能性があることがわかります。

これらの多くは、私たちが見たこともないrūpakkhandhaです。たとえば、私たちは心の中にメンタルの印象を持っていますが、しかし心を見たことはありません。万里の長城のような風景は見たことはないかもしれませんが、写真だけはあります。私たちはそれらのメンタルの印象を持っているのです。

全部で11種類のrūpakkhandhaがあります。

Khandha sutta (SN 22.48)は、(他の多くのsuttāの中でもよく)rūpakkhandhaの内容を要約しています。

Ya kiñci, bhikkhave, rūpa atītānāgatapaccuppanna (atita,anāgata,paccuppanna) ajjhatta bahiddhā oārika sukhuma hīna paīta ya dūre santike , aya vuccati rūpakkhandho.

 

paccuppanna[adj] existing present        現在の

aya[nomsingof ima),m; f] this person  これ

vuccati[vac + ya] to be said or called        呼ばれる

 

 

Difference Between Rūpa and Rūpakkhandha

8. Now we can see the main difference between rūpa and rūpakkhandha.

  • A rūpa is either of the following two kinds. A solid object that one sees with one ‘s eyes or touches with one’s body (a person, a person’s body or a body part, a tree, a planet, star, etc.) Those are what we usually call “solid objects.” Then there are other sensory inputs coming through the other three sense doors (smells, tastes, or sounds).
  • Rūpakkhandha are MENTAL IMPRESSIONS of all external rūpā that one has EXPERIENCED. They are NOT tangible or have any energy in them. One’s rūpakkhandha is INFINITE. It has records of ALL one has seen in ALL past lives going back and back in time without “an actual beginning.”

That is why those with iddhi (supernormal) powers can recall events that took place billions of years ago. The Buddha, of course, recalled how he received first “niyata vivarana” or confirmation that he will become a Buddha trillions of years ago, from Buddha Deepankara. We will discuss that in upcoming posts.

 

RūpaRūpakkhandhaの違い

8.rūparūpakkhandhaの主な違いを確認できます。

rūpaは以下の2種類のいずれかです。人が目で見たり、触れたりする(人、人の体、体の一部、木、惑星、星など)、通常「固体の物質」と呼ばれているものです。他は、3つの感覚のドア(嗅覚、味覚、音)からの感覚入力されるものがあります。

Rūpakkhandhaは、経験したすべての外部rūpaのメンタルの印象です。それらは触れたり、エネルギーを持っていません。 各自のrūpakkhandhaは無限です。それは、「始まりのない時間」にさかのぼって過去のすべての人生で見たすべての記録を持っています。

そのため、iddhi(超常)パワーを持つ者は、数十億年前に起こった出来事を思い出すことができます。もちろんブッダは、彼が最初の「niyata vivarana」すなわち何兆年も前に仏Deepankaraからブッダになるという確約(授記)を受け取った経緯を思い出しました。これについては、今後のトピックで説明します。

 

9. Let us take another example to visualize this difference between actual rūpa and rūpakkhandha.

  • The twin towers in New York destroyed in the 2001 terrorist attack.
  • If one had seen those twin towers in New York, one could still recall them in one’s mind. Those physical structures are not there anymore, but they are in one’s rūpakkhandha!

But the actual rūpa that were there in New York are no longer there.

 

9.実際のrūparūpakkhandhaの違いを視覚化する別の例を見てみましょう。

2001年のテロ攻撃で破壊されたニューヨークのツインタワー。

ニューヨークでそれらのツインタワーを見た場合でも、心の中でそれらを思い出すことができます。それらの物理的な構造はもはや存在しませんが、それらはrūpakkhandhaの中にあります!

しかし、ニューヨークにあった実際のrūpaはもはや存在しません。

 

Rūpakkhandha Is Personal

10. Since we have seen very different things in our lives (and in past lives), our rūpakkhandha are very different. Each has his/her rūpakkhandha.

When experiencing a rupa through any of the six sense faculties leads to the generation of vedana, saññā, saṅkhāra, and viññāna. That is discussed in many suttās, and we have discussed in detail the Chachakka Sutta (MN 148). See, “Chachakka Sutta – No “Self” in Initial Sensory Experience.”

  • We can also see that each has his/her vēdanākkhandha, saññākkhandha, saṅkhārakkhandha, and viññānakkhandha.
  • All of them can be analyzed in the same way.

.

 

Rūpakkhandhaは個人的なもの

10.私たちは人生で(そして過去の人生)で非常に異なるものを見てきましたので、私たちのrūpakkhandhaは大きく異なります。それぞれに別のrūpakkhandha があります。

Chachakka Sutta (MN 148)では6感覚の機能がvedana, saññā, sakhāra, and viññānaを生成することを説明しています。Chachakka Sutta – No “Self” in Initial Sensory Experienceを参照してください。

また、それぞれがvēdanākkhandhasaññākkhandhasakhārakkhandha、およびviññānakkhandhaを持っていることもわかります。

これらはすべて同じように分析できます。

他の4つの「khandhā」または「集合体」については、次のトピックで説明します。

 

 

 

 

Our Two Worlds: Material and Immaterial

May 14, 2016; Revised September 30, 2019; October 26, 2019; January 11, 2020

Material World and Immaterial (Invisible) World

1. Our “human world” is made of two types of worlds:

  • The material world that we experience with the five physical senses. This is our familiar world with living beings and inert objects. This world has sights, sounds, smells, tastes, and body touches. For example, we experience sights via, “cakkhuñca paṭicca rūpe ca uppajjāti cakkhuviññāṇaṃ,” where cakkhuviññāṇa is “seeing.” Other four sensory faculties have similar expressions; see, “Contact Between Āyatana Leads to Vipāka Viññāna.”
  • We can also recall our memories from the past and any future hopes/expectations that we have. Those are in the “immaterial world” that we experience with our minds. It is also called the “nāma lōka.”

Here we use the phrase “immaterial world” (nāma lōka) to describe those dhammā that can only be experienced with the mind VIA, “manañca paṭicca dhamme ca uppajjāti manoviññāṇaṃ.” Those dhammā includes concepts, memories, etc in addition to kamma bīja with energy; see below.

 

物質界と非物質界(見えない世界)

1.「人間の世界」は2種類の世界で構成されています。

五感で体験する物質世界。これは、生き物と不活性な物体ですでに慣れ親しんでいる世界です。この世界には、光景、音、におい、味、そして身体の感触があります。たとえば「cakkhuñca paicca rūpe ca uppajjāti cakkhuviññ ānam」(を介して光景を体験します。cakkhuviññaとは「見ている」ことです。他の4つの感覚機能も同様の表現をします。(眼のindriyaに光が当たることが視覚に感覚を与える)

Contact Between Āyatana Leads to Vipāka Viññānaを参照してください。

また、過去の思い出や将来の希望や期待を「想う」こともできます。それらは、私たちがマインドで経験する「物質ではない世界」にあります。 「nāmalōka」(マインド界)とも呼ばれます。

ここでは、「物質ではない世界」(「nāmalōka」)というフレーズを使用して、マインドでのみ体験できるdhammā

を説明します。それは「manañca paicca dhamme ca uppajjāti manoviññāa」によって体験できる世界です。

このdhammāには、エネルギーを持つkamma bījaに加えて、概念、記憶なども含まれています。下記参照。

 

2. Those two worlds co-exist. It is just that we cannot “directly experience” the immaterial (invisible) world or the nāma lōka.

  • There are many things that we cannot “see” but we know to exist. For example, we know that radio and television signals are all around us, but we cannot “see” them. We need special equipment like radios or TVs to detect those signals.
  • Those dhammā in the immaterial world are just like that. There is an organ (mana indriya) in the brain that detects those dhammāScientists are not aware of that yet. They think past memories, for example, are stored in the brain. They are not. Those memories are in that immaterial world that co-exists with the material world. Just like a radio can detect those invisible radio waves, mana indriya detects those “unseen” memories (and also kamma bija that bring kamma vipāka.)

You may ask how can all those different memories and uncountable kamma bija from our past lives be sorted out by the mana indriya. Did you realize that there are numerous radio and TV signals in a major city? Just like a radio or a TV can sort our and detect those signals, mana indriya can detect various types of dhammā.

 

2.これら2つの世界は共存します。物質的ではない(見えない)世界すなわちnāma lōkaを直接に体験できないだけです。

私たちが「見る」ことができないものはたくさんありますが、私たちは存在することを知っています。たとえば、ラジオやテレビの信号が周囲にあることはわかっていますが、それらを「見る」ことはできません。これらの信号を感知するには、ラジオやテレビなどの特別な機器が必要です。

非物質的な世界のそれらのdhammāはちょうどそのようなものです。それらのdhammāを感知する器官(mana indriya)が脳にあります。科学者たちはまだそのことに気づいていません。たとえば、過去の記憶は脳に保存されていると考えています。しかしそうではありません。それらの記憶は、物質的な世界と共存する非物質的世界にあります。ラジオが目に見えない電波を感知できるのと同じように、mana indriyaはそれらの「目に見えない」記憶(およびkamma vipākaをもたらすkamma bija)を感知します。

あなたは、前世からのすべての思い出と数え切れないほどのkamma bijaがどのようにmana indriyaによって分類されるかを尋ねるかもしれません。大都市にはラジオやテレビの信号がたくさんあることをご存知ですか?ラジオやテレビが私たちを分類してそれらの信号を感知できるのと同じように、mana indriyaはさまざまな種類のdhammāを感知できます。

 

What Are Dhammā?

3. Dhammā are what we perceive with the mind with the help of the mana indriya in the brain. They include our memories including those from past lives. Only those with iddhi (super-normal) powers can recall memories from past lives. However, some children can remember past lives; see, “Evidence for Rebirth.”

  • But dhammā (plural) also includes numerous kamma bija due to our past kamma (not only from the present life but from past lives.) They are not mere memories but have energies.
  • Those dhammā with energy (i.e., kamma bija) are CREATED by our minds. Specifically, they are created in javana cittaFor deep analysis, see, “The Origin of Matter – suddhāṭṭhaka.”
  • We know from modern science that matter and energy are related by the famous equation of Einstein: E = m X c^2, where E is energy, c is the speed of light, and m is mass (amount of matter.)

Just like plant seeds can germinate and become trees, our kamma bija (kamma seeds; bija means “seeds”) can germinate in our minds and bring kamma vipāka.

 

3.Dhammāは、脳内のmana indriyaの助けを借りてマインドで知覚されます。前世を含む私たちの思い出がDhammāに内蔵しています。 iddhi(超能力)の力を持つ人だけが前世の人生を呼び出すことができます。しかし、一部の子供たちは前世を思い出すことができます。Evidence for Rebirthを参照してください。

 

しかし、dhammā(複数形)には、私たちの過去のkamma(現在の生活だけでなく、前世の生活からの)のために多数のkamma bijaも含まれています。それらは単なる記憶ではなく、エネルギーを持っています。

エネルギーを備えたdhammā(つまり、kamma bija)は私たちのマインドによって作成されます。具体的には、javana cittaで作成されます。詳細な分析については、The Origin of Matter – suddhāṭṭhakaを参照。

物質とエネルギーはEinsteinの有名な方程式、E = mc2Eはエネルギー、cは光速、mは質量(物質の量))によって関連付けられることを私たちは現代科学から知っています。

植物の種子が発芽して木になるのと同じように、私たちのkamma bijakammaの種子、bijabeejaは「種子」を意味します)は私たちのマインドの中で発芽し、kamma vipākaをもたらすことができます。

 

Rūpa Can be Dense or Fine (Subtle)

4. Rūpa in Buddha Dhamma cannot be translated into English as “matter” or “solid objects.” As we discussed above, our minds can make very fine rūpa called dhammāand can also detect those dhammā that are in the immaterial world.

  • Of course, the word “dhamma” refers to a theory or teaching, like in Buddha Dhamma. Only when used in the plural, dhammā refer to those fine rūpā detected with the mind (with the help of mana indriya.)

Therefore, those very fine rūpā are called “dhammā” They are “anidassanan, appaṭighan,” meaning they cannot be seen or detected by our five physical senses; see, “What are Dhamma? – A Deeper Analysis.” They include “kammic energies” that can bring vipāka at any time.

 

4. Buddha DhammaRūpaを「物質」または「固い物体」と翻訳することはできません。先に述べたように、私たちのマインドはdhammāと呼ばれる非常に微細なrūpaを作ることができ、非物質的な世界にあるdhammāを感知することもできます。

 

もちろん、「dhamma」は、仏法のような理論や教えを指します。複数形で使用する場合にのみ、dhammāはマインドで感知された微細なrūpāを指しますmana indriyaの助けを借りて)。

したがって、これらの非常に微細なrūpāは「dhammā」と呼ばれます。これらは「anidassananappaighan」つまり、私たちの5つの物理的な感覚では見たり感知したりすることができません。

What are Dhamma? – A Deeper Analysis 

dhammāvipākaをいつでももたらすことができる「カルマ・エネルギー」を含みます。

 

5. The five physical senses detect “dense” rūpā that are in the material world. Such dense rūpā are ABOVE the smallest “unit of matter” in Buddha Dhamma, called suddhāṭṭhaka. (A suddhāṭṭhaka is a billion times smaller than an atom in present-day science). The 28 types of rūpa consist of these “dense types of rūpa“; see, “Rūpa (Material Form).

The fine rūpas are normally not called rūpa but are called dhammā to make the distinction. Dhammā are very fine rūpa which are at or below the suddhāṭṭhaka stage. They are the rūpa are grasped only by the mana indriya or dhammayatana:  “anidassanan, appaṭighan, dhammayatana pariyapanna rūpan.” For a more in-depth analysis, see, “What are Rūpa? – Dhammā are Rūpa too!.”

 

5. 5つの物理的な感覚は、物質的な世界にある「密度のある」rūpāを感知します。仏法では「密度のある」rūpāは最小の「物質の単位」であるsuddhāṭṭhakaの上(大きい)にあります。 (suddhāṭṭhakaは、現在の科学の原子より10億倍小さい)。 28種類のrūpāは、これらの「密なタイプのrūpāで構成されています。Rūpa (Material Form).を参照してください。

 

微細なrūpaは通常rūpaとは呼ばれずに、区別するためにdhammāと呼ばれます。 Dhammāは、suddhāṭṭhakaステージ以下の非常に微細なrūpaです。それらは、mana indriya すなわち dhammayatanaのみが把握しているrūpaです。「anidassanan, appaighan, dhammayatana pariyapanna rūpan.

より詳細な分析については、What are Rūpa? – Dhammā are Rūpa too!です。

 

 

All Thirty-One Realms Share the Immaterial World

6. The immaterial world is like a fine fabric that connects all living beings. It is just that we cannot “see” the immaterial world, while we can see most of the material world. All 31 realms share the immaterial world. 

  • In the four realms of the Arūpa lōka, “dense matter” formed by suddhāṭṭhaka are absent (except for the hadaya vatthu of the arūpa Brahmā). Beings in the arūpa lōka experience only dhammā. They do not have any of the five physical senses and have only the mind (hadaya vatthu).

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Click to open in pdf format: Two Types of Loka

  • Thus the “material world” is accessible only to living beings in the kāma lōka and rūpa lōka.
  • Arūpa lōka means there are no “condensed rūpa” (like those in kāma lōka and rūpa lōka), but of course, dhammā are there (those arūpa beings can think and recall past events just like us).

Furthermore, even in the rūpa lōka only fine and subtle matter exists. There are no “solid objects” like trees. If we visit a rūpa lōkawe may not see anything.

 

31の領域すべてが非物質的な世界を共有している

6.非物質的な世界は、すべての生命体をつなぐ微細な布のようなものです。物質のほとんどを見ることができる一方で、非物質的な世界は「見る」ことができないだけです。

 

Arūpa lōka4つの領域では、suddhāṭṭhakaによって構成された「密度のある物質」はありません(arūpa Brahmāhadaya vatthuを除く)。 Arūpa lōkaの存在(生命)はdhammāのみを経験します。彼らは五感のいずれも持っておらず、マインドだけを持っています。

したがって、「物質界」はkāma lōka rūpa lōkaの生き物だけがアクセスできます

Arūpalōkakāmalōkarūpalōkaにあるような「凝縮されたrūpa」がないことを意味しますが、もちろんdhammāは存在します(これらのarūpaの存在は私たちと同じように過去の出来事を考え、思い出すことができます)。

さらに、rūpa lōkaでさえ、微細で微妙な物質だけが存在します。木のような「固体の対象」はありません。 Rūpa lōkaを訪れると、何も見えないかもしれません。

 

The World in Terms of Dhātu

7. Let us briefly discuss the main points depicted in the above chart. Everything in this world is made of 6 dhātupatavi, apo, tejo, vayo, akāsa, and viññāna. Five of them constitute the “material world” and the viññāna dhātu represents the “immaterial world”.

  • By the way, akāsa is not merely “empty space”. We will discuss this later.
  • The basic building block for the material world is suddhāṭṭhaka. Not long ago, scientists thought that atoms were the building blocks, but now they say that even those elementary particles have structure. A suddhāṭṭhaka is much finer than any elementary particle.

In the immaterial world (or the mental plane), there are the mental precursors to suddhāṭṭhakaThey are dhammā, gati, and bhava. Based on our gati, we make suddhāṭṭhaka in our javana cittasee, “The Origin of Matter – suddhāṭṭhaka“.

Dhātuの観点から見た世界

7.上図に示した主なポイントについて簡単に説明します。この世界のすべては、patavi, apo, tejo, vayo, Ākāsa, viññāna6つのdhātuで構成されています。そのうちの5つは「物質的な世界」を構成し、viññāna dhātuは「非物質的な世界」を表します。

ちなみに、akāsaは単なる「空の空間」ではありません。これについては後で説明します。

物質世界の基本的な構成要素は、suddhāṭṭhakaです。科学者たちは、原子が構成要素であると考えていましたが、今では、素粒子でさえ構造を持っていると言っています。 suddhāṭṭhakaはどの素粒子よりもはるかに細かいものです。非物質的な世界(すなわちメンタル界)には、suddhāṭṭhakaへのメンタル的前駆体があります。それらがdhammāgatibhavaですgatiに基づいて、javana cittasuddhāṭṭhakaを作成します。

The Origin of Matter – suddhāṭṭhakaを参照してください。

  •  
Five Physical Senses Detect Dense Rūpa and Mana Indriya Detects Dhammā

8. We have five sense faculties to experience the material world: eyes, ears, tongue, nose, and the body. They pass down the sensory inputs to the five pasada rūpa located in the gandhabba or the manōmaya kāya, that overlaps our physical body); see, “Gandhabba (Manomaya Kaya)“. By the way, gandhabba is not a Mahayāna concept:  “Gandhabba State – Evidence from Tipiaka“.

That is a very brief description of the chart above. One could gain more information by clicking on the links provided and by using the “Search” button. Don’t worry too much if all this does not make complete sense yet.

 

5つの物理感覚が密なRūpaを感知し、Mana IndriyaDhammāを感知する

8.私たちは、目、耳、舌、鼻、体という物質的な世界を体験する5つの感覚を備えています。それらは、感覚入力を、gandhabba すなわちmanōmaya kāyaにある5つのpasada rūpaに伝えます。Gandhabba (Manomaya Kaya)を参照してください。ちなみに、gandhabba は大乗仏教Mahayānaの概念ではありません。Gandhabba State – Evidence from Tipiṭaka

 

メンタル側では、無形(非物質)の世界を感知するために、脳にmana indriyaがあります。Brain – Interface between Mind and Bodyを参照してください。

物質的な世界と5つの物理的な感覚の接触と、非物質的な世界とmana indriyaの接触に基づいて、私たちの考えはhadaya vatthugandhabba すなわちmanōmaya kāyaにもあります)で起こります。Does any Object (rūpa) Last only 17 Thought Moments?を参照してください。

これが上のチャートの非常に簡単な説明です。リンクをクリックして「検索」ボタンを使用することにより、さらに多くの情報を得ることができます。これらすべてがまだ完全に理解できなくても、あまり心配しないでください。

 

9. Thus it is important to understand that there are two types of rūpa in our human world:

  • Tangible matter in the material world that we experience with the help of the five physical senses.
  • Then there are unseen (anidassana), intangible (appaṭigharūpa such as thoughts, perceptions, plans, memories. They are dhammā, mano rūpa, gati, bhava, nāma gotta. It is the mana indriya in the brain that helps detect subtle rūpā.
  •  Both types of rūpa are eventually detected and experienced by the mind (hadaya vatthu). The hadaya vatthu is not located in the brain but in the body of gandhabba and overlaps the physical heart region of the physical body; see, “Gandhabba (Manomaya Kaya)“.

Comprehending this “wider picture” may need a little bit of effort. The world is complex and most of the complexity is associated with the mind. The seat of the mind is not in the brain but in the fine body (manōmaya kāya) of the gandhabba.

 

9.したがって、人間の世界には2種類のrūpaがあることを理解することが重要です。

五感の助けを借りて体験する物質界の感じられる物

次に、目に見えない(anidassana)、触知できない(appaigharūpa(たとえば、思考、認識、計画、記憶など)があります。それらはdhammāmano rūpagatibhavanāmagottaです。微細なrūpāの感知に役立つのは、脳内のmana indriyaです。

 どちらのタイプのrūpaも、最終的にはマインド(hadaya vatthu)によって感知され、体験されます。

hadaya vatthu脳ではなくGandhabbaの体にあり、肉体の心臓の領域に重なっています。Gandhabba (Manomaya Kaya) を参照してください。

この「全体像」を理解するには、少し努力が必要かもしれません。世界は複雑であり、複雑さのほとんどはマインドに関連しています。マインドの「場」は脳ではなく、Gandhabbaの微細な体(manōmaya kāya)にあります。

 

The Dream World

10. Another part of our immaterial world is the dream world.

  • When we dream, we “see” people and material objects. But we cannot say where those are located. They do not have a physical location; they are in the immaterial plane. And we do not “see” those dreams with our eyes, but with the mana indriya.
  • When we sleep, our five physical senses do not function. But the mana indriya in the brain does. Scientists do confirm that parts of our brains are active during sleep.

What is experienced in Arūpa lōka is somewhat similar to seeing dreams. Of course, one has the ability to contemplate in the arūpa lōka. However, one is unable to read or listen. Therefore, one cannot learn Tilakkhana (anicca, dukkha, anatta) from a Noble Person. Thus, one is unable to attain the Sotāpanna stage of Nibbāna in the arūpa lōka. But if one had attained the Sotāpanna stage prior to being born there, one is able to meditate and attain higher stages of Nibbāna.

 

10.非物質的な世界の別のパートは「夢の世界」です。

私たちが夢見るとき、私たちは人や物質的な物体を「見る」のです。しかし、それらがどこにあるかは言えません。それらは物理的な場所を持っていません。それらは非物質界にあります。そして、私たちはそれらの夢を私たちの目で「見る」のではなく、mana indriyaで「見る」のです。

私たちが眠るとき、私たちの五感は機能しません。しかし、脳のmana indriyaは機能します。科学者たちは、睡眠中に脳の一部が活動していることを確認しています。

Arūpalōkaで経験することは、夢を見ることと幾分似ています。もちろん、人はArūpalōkaで熟考することができます。ただし、読むことも聞くこともできません。したがって、聖人から三相(aniccadukkhaanatta)を学ぶことはできません。したがって、arūpa lōkaNibbānaSotāpanna段階に到達することはできません。しかし、そこで生まれる前にSotāpannaの段階に達していれば、瞑想してSotāpannaより高い段階に到達することができます。

 

Dense Rūpa for “Rough” Sensory Contacts

11. There is another way to look at our sense experiences. Living beings are attached to this world because they expect to gain pleasure from this world. Such pleasures are obtained by making contact with rūpa. Those rūpā come at various densities.

  • Bodily pleasures are achieved by the strongest contacts (touch). Then come taste, smell, vision, sounds, becoming less dense in that order.
  • The softest contact is via dhamma. This is our immaterial world; we think, plan for the future, remember things from the past, etc: We do this all the time, and we can do it anywhere. Another way to say this is to say that we engage in mano, vaciand kāya saṅkhāra.

Thus, contacts by the mana indriya with dhammā in the mano lōka constitute a significant portion of sense experience. That involves mano rūpa (dhamma, gati, bhava, nāma gotta) in the mind plane or the immaterial world.

 

「粗い」感覚的接触のための高密度Rūpa

11.私たちの感覚の経験を見る別の方法があります。生命体は、この世界から喜びを得ることを期待しているため、この世界に愛着を持っています。そのような喜びは、Rūpaと接触することによって得られます。それらのrūpāはさまざまな密度があります。

体の喜びは一番強い接触によって達成されます。次に、味、匂い、視覚、音、その順で密度が低くなります。

最も柔らかい接触は、dhammaを通してです。これは非物質界です。考えたり、将来についての計画をしたり、過去のことを思い出したりします。これは常に行っており、どこでも行うことができます。言い方を変えると、私たちはmanovacikāya sakhāraに従事しているということです。

このようにmano lōkaにおけるmana indriyadhammāとの接触は、感覚体験の重要な部分を構成します。これには、マインド界すなわち非物質的な世界でのmano rūpadhammagatibhavanāmagotta)が関係しています。

 

12. The way a living being experiences and enjoys (or suffers) sense contacts is different in the three main categories of existence: kāma lōka, rūpa lōka, and arūpa lōka.

  • Most “rough” or “ōlārika” sense contacts are available only in the kāma lōka. Even here, they are roughest in the niraya (the lowest realm) and in general reduces in “roughness” as moving up to the human realm, the fifth. The 6 deva realms are significantly “softer” than the human realm; deva bodies are much finer (like that of a gandhabba) and a normal human cannot see them.
  • The roughest sense contacts (touch, taste, and smell) are absent in the rūpa lōka. Only visual and sound contacts are available for the Brahmā in the 16 rūpa lōka realms, in addition to the mind.
  • Those arupi Brahmā in the 4 arūpa lōka realms have only the mind, with which they experience only the finest rūpa (dhamma) that are below the suddhāṭṭhaka stage.

Those Brahmā in both rupi and arupi lōka have seen the perils of “kāma assāda” that are available in the kāma lōka. They had enjoyed jhānic pleasures as humans and value those more than the “rough” sense pleasures. They have given up the craving for those “rough” sense pleasures that are available via touch, taste, and smell.

 

12.生命体が感覚の接触を経験し、楽しむ(または苦しむ)方法は、「存在」の3つの主要なカテゴリーによって異なります。Kāma lōkarūpa lōka、およびarūpa lōkaです。

 

ほとんどの「粗い」すなわち「ōlārika」感覚接触はkāma lōkaでのみ可能です。ここでも、niraya(最も低い領域である地獄)で最も粗く、一般に人間の領域である5番目の領域に移動すると、「粗さ」が減少します。 6つのdeva領域は、人間の領域よりも大幅に柔らかくなります。devaの体ははるかに繊細で(gandhabbaの体のように)通常の人間はそれらを見ることができません。なぜ粗いnirayaの世界が見ることができないのか?

Rūpa lōkaには、最も粗い感覚の接触(触覚、味覚、嗅覚)はありません。マインドに加えて、16Rūpa lōkaの領域では、Brahmāのために視覚的および聴覚的接触のみが利用可能です。

4つのarūpa lōkaの領域にいるarupi Brahmā は、マインドだけを持ち、suddhāṭṭhakaステージの下にある最高に微細なrūpa (dhamma)だけを体験します。

rūpa lōkaarūpa lōkaの両方のBrahmāは、kāma lōkaで利用できる「kāma assāda」(ā-sādiyati楽味)の危険を目にしました。彼らはヒトも感じるjhānicの快楽を享受し、「粗い」感覚の快楽よりもjhānicの喜びを大切にしてきました。彼らは、触覚、味覚、および嗅覚を介することで可能な「粗い」感覚の快楽への渇望は放棄しました。

 

Stronger Cravings Match “Denser Sensory Contacts”

13. We can get an idea of such “soft” and “rough” sense contacts with the following example. Suppose someone (a grandmother is a good example) watching her grandchild laughing and dancing around having a good time.

  • At first, she may be watching from a distance and enjoying the sight of the little baby having fun.
  • Then she goes and hugs the child. It is not enough to just watch from a distance; she needs to touch the child.
  • If the child keeps on wiggling and having a good time, the grandmother may start kissing the child. In some cases, the grandmother may start tightening the hold on the child, even without realizing it and may make the child cry out in pain.
  • This last scenario is an example of how the craving for extreme sense pleasures can instead lead to suffering. Of course, it is the craving for ōlārika sense pleasures that leads to most suffering.

But suffering is there even in the rupi and arupi realms. Even at the level of arupi Brahmā — where the attachment is only to pleasures of the softest of the rūpa (dhamma) –, there is inevitable suffering at the end when they have to give up that existence and come back down to the human realm.

 

13.次の例をみて、「ソフト」および「ラフ」な感覚の接触のアイデアを得ることができます。

誰か(祖母は良い例です)が孫の笑いや周りで踊るのを見て楽しい時間を過ごしているとしましょう。

最初は遠くから見ていて、小さな赤ちゃんが楽しんでいる姿を楽しんでいるのかもしれません。

それから彼女は近づき孫を抱擁します。遠くから見るだけでは十分ではありません。彼女は孫に触れる必要があります。

孫が小刻みに動き続け、楽しい時間を過ごすと、祖母が孫にキスを始めます。場合によっては、祖母が気づかずに抱きしめすぎて孫が苦痛で泣き叫ぶかもしれません。

この最後のシナリオは、極端な感覚の喜びへの渇望が苦しみにつながる例です。

もちろん、最も苦しみにつながるのはōlōrika感覚の喜びへの渇望です

しかしrupi arupiの領域にも苦しみはあります。arupi Brahmāのレベルでさえ、愛着が最も柔らかなrūpa dhamma)の喜びのみである場合でも、その存在を放棄して人間の領域に戻らなければならないとき、最後には必然的に苦しみがあります。

 

Less Suffering in “Less-Dense” Realms

14. Therefore, the level of inevitable suffering goes hand in hand with the “denseness” of the sensory contact.

  • Pains, aches, and illnesses are there only in the lowest 5 realms (including the human realm) where there are dense physical bodies. In the higher realms, those are absent. This is the price even the humans pay for being able to experience “rough contact pleasures” such as a body massage, sex, eating, and smelling.
  • We humans in the kāma lōka like to enjoy close and “rough” sense pleasures. In addition, most times, just enjoying sense pleasures is not enough; we like to “own” those things that provide sense pleasures. For example, people like to “own” vacation homes; it is not enough to rent a house in that location just for the visit.

This tendency to “own” pleasurable things also go down in higher realms. There are fewer material things to “own” in brahma lōkas, especially in the arupi brahma realms.

 

「密度の低い」領域での苦しみの軽減

14.したがって、必然的な苦痛の程度は、感覚的接触の「密度」と関連しています。

痛み、うずき、病気があるのは、下位5領域(人間の領域を含む)だけで、その密度の高い肉体です。より高い領域では、それらは存在しません。これは、ボディマッサージ、セックス、食事、香りなどの「粗い接触の快楽」を体験できるために人間が支払わなければならないことです。

kāma lōkaにいる私たち人間は、親密で「粗い」感覚の喜びを楽しみます。さらに、ほとんどの場合、感覚の喜びを楽しむだけでは十分ではありません。私たちは感覚的な喜びをもたらすものを「所有」するのが好きです。たとえば、人々は別荘を「所有する」ことを好みます。訪問のためだけにその場所に家を借りるだけでは十分ではありません。

楽しいものを「所有する」傾向は、より高い領域では減少します。brahma lōkas、特にarupi brahmaの領域では「所有」する重要なものはほとんどありません。

 

Connection to Magga Phala

15. As one attains higher stages of Nibbāna, craving for “rough” sense pleasures, as well as the desire to “own” things go down.

  • Sotāpanna has only “seen” the perils of kāma assādahe/she still enjoys them. Thus, he/she will still be born in the kāma lōka realms, but not in the apāyā.
  • Sakadāgāmi may still enjoy “kāma assāda“, but has no desire to “own” those things that provide pleasures. It is enough to live in a nice rented house, and there is no desire to own a nice house. In fact, a Sakadāgāmi can clearly see the burden of “owning things”. A Sakadāgāmi will be born only in realms above the human realm.
  • An Anāgāmi has no special interest in enjoying kāma assāda. He/she eats to quench the hunger (but will eat delicious foods when offered.) An Anāgāmi will never give priority to any sense pleasure over the “pleasure of Dhamma” (of course, Dhamma here means Buddha Dhamma). He/she will be born in the rūpa realms reserved for the Anāgāmis upon death, and will not be reborn in kāma lōka.

An Arahant has no desire for even jhānic pleasures, and will not be born anywhere in the 31 realms upon death.

 

15.Nibbānaのより高い段階に到達するにつれて、「粗い」感覚の快楽への渇望、および「所有する」ものへの欲求が低下します。

Sotāpannakāma assādaの危険を「見た」だけです。彼/彼女はまだそれらを楽しんでいます。したがって、彼/彼女はまだkāma lōka領域で生まれますが、apāyāでは生まれません。

Sakadāgāmiは、まだ「kāma assāda」を楽しむことができますが、喜びを与えるものを「所有」する意欲はありません。いい家を借りるだけで十分で、いい家を所有したいという欲求はありません。実際、Sakadāgāmiは「物を所有すること」の負担をはっきりと見れます。Sakadāgāmiは人間界より上の領域でのみ生まれます。

Anāgāmikāma assādaを楽しむことに特別な関心はありません。彼/彼女は空腹を癒すために食事をします(しかし、提供されるとおいしい食べ物を食べます。)

Anāgāmiは、いかなる感覚的な喜びよりも「 Dhammaの喜び」を優先させます。(もちろん、ここでの Dhammaは仏法です)。彼/彼女は、死の際にAnāgāmisのために予約されたrūpa領域で生まれるので、kāma lōkaで生まれ変わることはできません。

アラハンは、jhānicな快楽さえも望んでおらず、死後は31の領域のどこにも生まれません。

 

16. Each habitable planetary system (cakkavāla) has all 31 realms of existence, even though we can only see two realms (human and animal) in ours.

 

16.それぞれの居住可能な惑星系(cakkavāla)には、31の存在領域がありますが、私たちの惑星、すなわち地球では、人間と動物の2つの領域しか見ることはできません。

 

 

 

 

 

 

 

Bhūta and Yathābhūta – What Do They Really Mean

December 28, 2017

1. Yathābhūta is normally translated as “true nature” (which is a bit close to the true meaning). From that, it seems, bhūta is translated as “nature”; sometimes bhūta is translated as “becoming”. Both are wrong.

These words are also associated with yathābhūta ñāna. By the end of this discussion one will know what that ñāna or wisdom is about.

 

1. yathābhūtaは通常、「真の性質」(「真の意味」に少し近い)として翻訳されます。それから、bhūtanatureと訳されているようです。 bhūtaは時々becomingと翻訳されます。両方とも間違っています。

これらはyathābhūtañānaにも関連付いています。この議論の終わりまでに、そのñānaすなわち智慧が何であるかを知るでしょう。

 

2. Bhuta is a Sinhala word as well as a Pāli word. It literally means a “ghost”. The deeper meaning is associated with the “satara mahā bhūta”: patavi, āpo, tējo, vāyo.

  • One cannot ever see those satara mahā bhūta individually. The smallest unit containing any of them is a suddhāshtaka, which consists of those four AND varna, gandha, rasa, ōja. Thus a suddhāshtaka (“suddha” + “ashta” where “suddha” is pure or fundamental and “ashta” is eight) means “pure octad” or “pure unit of eight”. How a suddhāshtaka is formed is discussed in “The Origin of Matter – Suddhāshtaka”.

It should also be noted that satara mahā bhūta are the primary rūpa. All others, including varna, gandha, rasa, ōja, are derived from them and are called upādaya rūpa.

 

2. Bhutaは、シンハラ語とパーリ語です。文字通りにはghostを意味します。より深い意味は、「satara mahā bhūta」に関連付けられています:pataviāpotējovayo

•これらのsatara mahā bhūtaを個別に見ることはできません。それらのいずれかを含む最小単位は、それらの4つとvarnagandharasaōja で構成されるsuddhāshtaka(「suddha」純粋または基本的+ashta8)です。したがって、suddhāshtakaは、「純粋な8進数」または「8の純粋単位」を意味します。suddhāshtakaがどのように形成されるかは、The Origin of Matter – Suddhāshtakaで説明されています。

また、satara mahā bhūtaが主要なrūpaであることに注意する必要があります。 varnagandharasaōjaを含む他のすべては、それらに由来し、upādaya rūpaと呼ばれます。  (upādaは執着する)

 

3. As mentioned in that post, bhūta have their origins in “gathi”. When one cultivates a certain gathi and when they become strong, they can lead to the creation of bhūta (suddhāshtaka) produced via their javana citta.

So, in order to get a good understanding of these key words, one needs to know about gathi (I have sometimes spelled as gati), which is discussed in many posts at the site. For example, see, “Gati, Bhava, and Jāti“.

 

3. bhūtaは「gati」に起源を持っています。特定のgatiを育み、それらが強くなると、javana cittaを介して生産される、bhūtasuddhāshtaka)の作成につながる可能性があります。

したがって、これらのキーワードを十分に理解するには、サイトの多くのトピックで説明されているgatiについて知っておく必要があります。たとえば、Gati, Bhava, and Jātiを参照してください。

 

4. Scientists have now verified the illusive nature of matter at very small scale. Atoms were thought to be the smallest possible division of matter until 1897 when J.J. Thomson discovered the electron. Then it was realized that an atom is made of smaller units (protons, neutrons, and electrons), and then those were found to have structure too, but they sub-units (quarks, etc) cannot be detected individually).

  • With the advent of quantum mechanics, the distinction between matter and energy has become blurred. The mass of a particle depends on its speed, and its mass when it is at rest is the smallest. Photons or “particles of light” have zero mass at rest, i.e., zero rest mass. It is now typical to state the mass of an elementary particle in terms of energy units.

It has become clear that matter has an illusive nature when tried to figure out the “smallest units” from which all matter is composed of.

 

4.科学者たちは、物質のもつ幻想的な性質を非常に小さなスケールで検証しました。1897年にThomson J.J. Thomsonは電子を発見するまでは原子が最小の単位と思われていました。その後、原子はより小さな単位(陽子、中性子、電子)で構成され、それらも構造を持っていることがわかりましたが、サブユニット(クォークなど)は個別に感知できません)。

量子力学の出現により、物質とエネルギーの区別があいまいになりました。粒子の質量はその速度に依存し、静止時の質量は最小です。光子すなわち「光の粒子」は静止時の質量がゼロ、つまり静止質量がゼロです。現在では、素粒子の質量をエネルギー単位で表すことが一般的です。

すべての物質が構成されている「最小単位」を把握しようとすると、物質は幻想的な性質を持つことが明らかになりました。

 

5. Furthermore, it is not possible to determine the exact position of an elementary particle at a given time. For example, it is only possible to say that an electron can be within a certain region of space. Thus, an electron is like a ghost. It cannot be pinned down to be at a certain location.

  • The situation is even worse for a photon, a particle of light. When a photon is released, one can only find it at a later time by stopping it at a detector. It is IMPOSSIBLE to state the exact path of the photon from the source to the detector. It could have been anywhere in between. The same applies to an electron too, even though it has a non-zero rest mass.

This has been referred to as “quantum weirdness”. Those small particles are as elusive as ghosts.

 

5.さらに、特定の時間に素粒子の正確な位置を決定することはできません。たとえば、電子は空間の特定の領域内にあると言うことができるだけです。したがって、電子はゴーストのようなものです。特定の場所に固定することはできません。

 

•光の粒子である光子の場合、状況はさらに悪化します。光子が放出されると、感知器を停止させた後にしか、光子を見つけることができません。

光源から感知器までの光子の正確な経路を確定することは不可能です。

中間にはどこかあったのかもわかりません。

電子はゼロではない静止質量を持っているにもかかわらず、同じことが当てはまります。

これは「量子の奇妙さquantum weirdness」と呼ばれています。

これらの小さな粒子は、幽霊と同じくらいつかみにくいものです。

 

6. That is exactly what the Buddha said. A suddhāshtaka is much smaller than even a photon, and the Buddha said that satara mahā bhūta are the true “smallest units of matter”. This is why he called them bhūta. One can NEVER see them or detect them individually. As we mentioned above, the smallest unit of rūpa, or a suddhāshtaka consists of eight sub units.

Furthermore, these bhūta arise from gathi of living beings (mostly human and above); see, “The Origin of Matter – Suddhāshtaka”. A person with rough character qualities is likely to create suddhashataka with higher proportion of patavi, etc.

 

6.それはまさに釈尊が言ったことです。suddhāshtakaは光子よりもはるかに小さく、釈尊はsatara mahā bhūtaが真の「物質の最小単位」であると言いました。これが釈尊がbhūtaと呼んだ理由です。それらを見ることも、個別に感知することもできません。上で述べたように、rūpaの最小単位、すなわちsuddhāshtaka8つのサブ単位で構成されます

•さらに、これらのbhūtaは生物のgatiから発生します(ほとんどが人間以上)。The Origin of Matter – Suddhāshtakaを参照してください。性格が粗い人は、pataviなどの割合が高いsuddhāshtakaを作成する可能性があります。

 

7. No one will be able to “see” or figure out how gathi are transformed to bhūta or suddhāshtaka stage. Only a Buddha can discern that.

  • Billions of billions of suddhāshtaka are combined to lead to the mahā bhūta stage of rūpaBrahmas  have bodies made of mahā bhūta. Only brahmas can see such fine rūpa.

When large number of mahā bhūta combine, that leads to the dhātu stage of rūpa. Bodies of devas are at fine dhātu stage. Our human bodies are made of much denser dhātu stage of rūpa.

 

7. gatiがどのようにbhūtaすなわちsuddhāshtakaのステージに変換されるかを「見」たり、理解できる人はだれもいないでしょう。釈尊だけがそれを識別できます。

数十億個のsuddhāshtakaが組み合わされて、rūpamahā bhūta段階に至ります。Brahmasmahā bhūtaで作られた体がありますBrahmasだけがこのような繊細なrūpaを見ることができます。

多数のmahā bhūtaが組み合わされると、それがrāpadhātuステージに至りますdevasの体はdhātuの段階にあります。私たちの人体は、はるかに密度の高いrūpadhātuの段階でできています。

 

8. All mater that we see are made of such dense dhātu. Rocks have dhātu that have mostly patavi. Water mostly has āpo. Fire mostly has tējo, Wind mostly had vāyo. That is why earth, water, fire, wind are loosely referred to as patavi, āpo, tējo, vāyo.

 

8.私たちが見るすべての物質は、そのような密なdhātuでできています。岩は大部分がpataviであるdhātuです。水は主にāpoです。火は主にtējo で、風はほとんどvāyoです。地球、水、火、風がpatavi, āpo, tējo, vāyoと大まかに呼ばれているのはそのためです。

 

9. When someone comprehends what we discussed above about the true nature of matter that exists in this world, one is said to have the yathābhūta ñāna. However, just reading about them is just the start. That ñāna grows as one comprehends the finer details.

  • Yathā means the true nature. Yathābhūta means the true nature of matter or true nature of bhūta, which arise via the MIND. Of course, more finer details need a good understanding of Abhidhamma.

However, for most purposes, it is sufficient to have the above discussed rough idea. As one learns more, the details will be automatically filled in.

 

9. 説明してきたこの世界に存在する物質の真の性質について理解すると、その人はyathābhūta ñānaを持っていると言われます。ただし、読むだけではまだ開始したばかりです。ñānaは、繊細な部分を理解するにつれて成長します。

Yathāとは「本当の性質」を意味します。Yathābhūtaとは、マインドを介して生じる物質の本質、すなわちbhūtaの本質を意味します。もちろん、より繊細な詳細は十分なAbhidhammaの理解が必要です。

ただし、上記の大まかな考えがあればほとんどの目的には十分です。もっと詳細がわかると、詳細は自動的に入力されます。

 

10. This is also why the Buddha said, “manō pubbangamā dhammā, manō settā manōmayā” in the famous Dhammapada gāthā.

It means “everything in this world has its origins in the mind, all are set by the mind and prepared by the mind”.

 

10.これはまた、釈尊が有名なDhammapada gāthā(法句経)で「manō pubbangamā dhammāmanō seta manōmayā」と言った理由でもあります。

これは、「この世のすべてがマインドに起源を持ち、すべてがマインドによって設定され、マインドによって準備されている」ことを意味します。

 

11. Suddhāshtaka by themselves are inert. They acquire “life” when energized by the mind in the formation of “kammaja rūpa”. This energy in embedded as rotation (paribramana) and spin (bramana). When that embedded energy runs out, rotation and spin stop and they again become inert.

For example, a hadaya vatthu for a new existence comes into being as a kammaja rūpa at the cuti-patisandhi moment. During its lifetime, the hadaya vatthu maintains its spin and rotation. When the kammic energy embedded is exhausted, its motion stops and the bhava ends. At that time, a new hadaya vatthu for a new bhava is formed by kammic energy.

 

11. Suddhāshtaka自体は不活性です。それらは「kammaja rūpa 」の形成においてマインドにエネルギーが与えられると「生命」を獲得します。このエネルギーは、回転(paribramana)およびスピン(bramana)として埋め込まれます。その埋め込まれたエネルギーがなくなると、回転とスピンが停止し、再び不活性になります。

たとえば、新しい存在のためにhadaya vatthuは、cuti-patisandhiの瞬間にkammaja rūpaとして生まれます。その生涯、hadaya vatthuはその回転と回転を維持します。埋め込まれていたkammicエネルギーが使い果たされると、その動きは停止し、bhavaは終了します。その時、新しいbhavaのための新しいhadaya vatthu は、kammicエネルギーによって形成されます。 

 

12. The hadaya vatthu is also called “vatthu dasaka” where dasaka means ten. This is because the hadaya vatthu or vatthu dasaka has two modes of energy (spin and rotation) in addition to the 8 parts in the inert suddhāshtaka. That why it is called a dasaka (made of ten units).

  • This added spin and rotation is what gives life to an inert suddhāshtakaThat power of energy is given by javana citta (mind). The more energy given to a kamma beeja, it will sustain a bhava (hadaya vatthu) that arises from it for a longer time.
  • Same is true for the five pasāda rūpa (cakkhu,sōta, ghana, jivha, kāya) formed at the moment of cuti-patisandhi. There are two bhava rūpa which are also dasaka, and jivitindriya rūpa which is a navaka (just spin or bramana). How different modes of rotation and spin give rise to these nine “life forming” basic units is discussed in the post: “Gandhabba Sensing the World – With and Without a Physical Body“.

By the way, the word kammaja comes from “kamma” + “ja” where “ja” means birth. Therefore, those nine kammaja rūpa are created by kammic energy.

 

12. hadaya vatthu は「vatthu dasaka」とも呼ばれ、dasaka10を意味します。これは、hadaya vatthu すなわちvatthu dasakaは、不活性なsuddhāshtaka8つの部分に加えて、2つのエネルギーモード(スピンと回転)があるためです。それがダサカ(10個のユニットで構成)と呼ばれる理由です。

この追加されたローテーションとスピンは、不活性なsuddhāshtakaに生命を与えます。そのエネルギーの力はjavana citta(マインド)によって与えられます。 kamma beejaに与えられるエネルギーが多いほど、kamma beejaから発生するbhavahadaya vatthu)が長く持続します。  

•同じことが、cuti-patisandhiの瞬間に形成される5つのpasāda rūpacakkhusotaghanajivhakāya)にも当てはまります。dasakaでもある2つのbhava rūpaと、navaka(スピンすなわちbramana)であるjivitindriya rūpaがあります。回転とスピンの異なるモードがこれらの9の「生命を形成する」基本単位をどのように発生させるかについては、Gandhabba Sensing the World – With and Without a Physical Bodyで説明しています。

ところで、kammajaという単語は「kamma+ja」に由来します。「ja」は出生を意味します。したがって、これらの9つのkammaja rūpaは、kammicエネルギーによって作成されます。

 

13. Now we can clearly see that our heavy physical body, by itself, is totally inert. The real life is in the gandhabba with the hadaya vatthu and the five pasāda rūpa. Our body movements are controlled by the kāya dasaka of the gandhabba and it is spread like a very fine mesh over the whole body.

  • At the death of the physical body, this life-carrying gandhabba leaves the body and the body becomes inert and starts decaying.

In the case of an out-of-body experience (OBE), even though the gandhabba leaves the physical body, it is still connected to the physical body (by a “silver cord” in the terminology of astral projection) and that is why the body does not start to decay: “Manomaya Kaya and Out-of-Body Experience (OBE)“.

 

13.今、私たちの重い肉体自体が完全に不活性であることをはっきりと見ることができます。実際の生活はgandhabbaにあり、hadaya vatthu5つのpasāda rūpaがあります。私たちの体の動きは、gandhabbakāya dasakaによって制御され、全身に非常に細かいメッシュのように広がっています。

•肉体が死ぬと、この生命を運ぶgandhabbaは体を離れ、体は不活性になり、衰退し始めます。

•体外体験(OBE)の場合、gandhabbaが肉体を離れても、それはまだ肉体(astral projectionの用語で「silver cordによって)に接続されています、それが体が腐敗し始めない理由です。

Manomaya Kaya and Out-of-Body Experience (OBE)

 

14. Therefore, in all life forms in the 31 realms, the real life is in the ultra-fine life form of a hadaya vatthu accompanied by up to five pasāda rūpa. In arupavaccara brahma realms, there is only the hadaya vatthu. In rupavacara brahma realms, hadaya vatthu is accompanied by cakkhu and sōta pasāda rūpa. In all other realms, five pasāda rūpa exist with the hadaya vatthu.

  • The only exception is asañña realm, where only the kāya dasaka is maintained by the jivitindriya (no hadaya vatthu, since thoughts are not generated).

This is another critical factor in the yathābhūta ñānaAll life forms are like bhūta (ghosts); in essence, life is maintained by a ultra-fine body that is impossible to see and have temporary existence. Any life in any realm is short-lived in the samsāric scale. In the samsāric scale trillion years is like a drop of water in the ocean.

 

14.したがって、31の領域のすべての生命体では、実際の生命体は、最大5つのpasāda rūpaを伴うhadaya vatthuの超微細な生命体です。 arupavaccara brahma領域では、hadaya vatthuのみがあります。rupavacara brahmaの領域では、hadaya vatthucakkhusōta pasāda rūpaが付いています。他のすべての領域では、5つのpasāda rūpahadaya vatthuとともに存在します。

•唯一の例外はasaññaの領域です。ここでは、kāya dasakaのみがjivitindriyaによって維持されます(思考が生成されないため、hadaya vatthuはありません)。

•これはyathābhūta ñānaのもう1つの重要な要素です。すべての生命体はbhūta(幽霊)に似ています。本質的に、生命は、見ることも一時的に存在することも不可能な超微細な体によって維持されています。あらゆる領域のあらゆる生命は、samsāricなスケールでは短命です。 Samsāricなスケールでは、兆年は大海の一滴のようです。

 

15. This yathābhūta ñāna about the real nature of our body also helps to get rid of the “ghana saññā” about our bodies. One values one’s dense body so much because one believes that there is a “self” in the physical body.

  • Those with uccēda ditthi uccēda ditthi (like most current scientists and philosophers) believe that our physical body (and its brain) is all that is there.

Those with sāssata ditthi believe that there is a mental body that lives forever.

 

15.このyathābhūta ñānaは、肉体についての「ghana saññā」を取り除き、体の本当の性質について知るのにも役立ちます。肉体には「自己」があると信じているため、自分の密度の高い体をとても大切にしています。

Uccēda ditthiを持つ人々(現在のほとんどの科学者や哲学者のように)は、私たちの肉体(およびその脳)がすべてであると信じています。

sāssata ditthiの人は、永遠に生きるメンタル体があると信じています。

 

16. Buddha discovered that both those are wrong views. There is a mental body, but it drastically changes from bhava to bhava. One could be a deva or a human for a time being, but the next bhava could be in the apāyas.

  • There is nothing in our physical body worth to be taken as “mine”.
  • When one comprehends this fact, sakkāya ditthi (which is one of four conditions to attain the Sōtapanna stage) is removed. However, it is just one way to remove sakkāya ditthi.

This aspect is discussed in “Mūla­pariyā­ya­ Sutta (MN 1)“, “Kaccānagotta Sutta (SN 12.15)“, AND “Mahā­ Hatthi­pa­dopa­ma Sutta (MN 28)“, among others.

 

16.釈尊は両方とも間違った見方であることを発見しました。メンタルボディがありますが、bhavaからbhavaへと劇的に変化します。 1つはしばらくの間、devaまたは人間である可能性がありますが、次のbhavaapāyasにある可能性があります。

私たちの肉体には、「私のもの」みなすに値するものは何もありません。

この事実を理解すると、sakāya ditthiSōtapannaステージを達成するための4つの条件の1つ)が削除されます。ただし、これはsakkāya ditthiを削除する1つの方法にすぎません。

•この側面については、特にMūla­pariyā­ya­ Sutta (MN 1)“, “Kaccānagotta Sutta (SN 12.15) Mahā­ Hatthi­pa­dopa­ma Sutta (MN 28)で説明されています。

 

17. Now we see that the precursors for all matter in this world, satara mahā bhūta, are mind-made and have a transient existence. They are “bhūta” or “ghosts”. And since everything else is made of them, what we consider to be “solid, tangible things” in this world are really “ghost-like”.

  • The knowledge of this real “ghost-like” nature is called “yathābhūta ñāna“. When one has that knowledge, one looks at the world according that correct view, which is called “anu bhūtam“.
  • When one is not aware of this true nature, it is called “na anu bhūtam” which rhymes as “ananubhūtam”. It is to noted that many key Pāli words are composed that way: anatta is “na” + “atta“; see, “Anatta – the Opposite of Which Atta?“.
  • Anantariya is “na” + “an” + “antara“. Words like this cannot be analyzed grammatically. This is why current Pāli experts are wrong in interpreting such words (and are unable to interpret many key words).

This word “ananubhūtam” comes in several key suttas, including the ones mentioned above in #16.

 

17.この世界のすべての物質の前駆体であるsatara mahā bhūtaは、マインドによって作られ、一時的な存在であることがわかります。それらは「bhūta」すなわち「ゴースト」です。そして、他のすべてがそれらで作られているので、私たちはこの世界の「堅実で感触できるもの」は本当は「幽霊のようなもの」です。

この「幽霊のような」本当の性質の知識は「yathābhūta ñāna」と呼ばれます。その知識があると、その正しい見解に従って世界を見ることができます。これは「anu bhūtam」と呼ばれます。

この真の性質を知らないとき、それは「na anu bhūtam」と呼ばれ、「ananubhūtam」と韻を踏む。多くの主要なパーリ語はそのように構成されていることに注意してください。

anattaは「na+atta」です。Anatta – the Opposite of Which Atta?を参照してください。

Anantariyaは「na+an+antara」です。このような単語は文法的に分析できません。これが、現在のパーリ語の専門家がそのような単語の解釈に誤りがある(そして多くのキーワードを解釈することができない)理由です。

この「ananubhūtam」という語句には、上記の#16で言及したものを含む、いくつかの重要な意味があります。

 

18. One good example is the famous Brahma­niman­tanika Sutta (Majjhima Nikaya 49): “Viññāṇaṃ anidassanaṃ anantaṃ sabbato pabhaṃ, taṃ pathaviyā pathavattena ananubhūtaṃ, āpassa āpattena ananubhūtaṃ, tejassa tejattena ananubhūtaṃ, vāyassavāyattena ananubhūtaṃ, bhūtānaṃ bhūtattena ananubhūtaṃ, devānaṃ devattena ananubhūtaṃ, pajāpatissa pajāpatittena ananubhūtaṃ, brahmānaṃ brahmattena ananubhūtaṃ, ābhassarānaṃ ābhassarattena ananubhūtaṃ, subhakiṇhānaṃ subhakiṇhānaṃ subha­kiṇ­hattena ananubhūtaṃ, vehapphalānaṃ vehap­phalat­tena ananubhūtaṃ, abhibhussa abhibhuttena ananubhūtaṃsabbassa sabbattena ananubhūtaṃ..”

Translated: “Viññāna is unseen, infinite, and leads to the rebirth process for all. With viññāna one cannot comprehend the real nature of pataviāpo, tējo, vāyo, bhūta, deva, pajapti brahma, abhassara brahma, subhakinha brahma, vehapphala brahma, etc. and everything in this world (sabba)”.

  • One has a defiled consciousness or viññāna until one attains the Arahantship. Until then one cannot fully comprehend the real “ghost-like” nature of everything in this world, i.e., one’s yathābhūta ñāna is not complete.

We will discuss the first part of the verse “Viññāṇaṃ anidassanaṃ anantaṃ sabbatō pabhaṃ..” in the next post. This short phrase is commonly mistranslated.  

 

18.一つの良い例では有名なBrahma­niman­tanika Sutta (Majjhima Nikaya 49)です。

Viññāa anidassana ananta sabbato pabha, ta pathaviyā pathavattena ananubhūta, āpassa āpattena ananubhūta, tejassa tejattena ananubhūta, vāyassavāyattena ananubhūta, bhūtāna bhūtattena ananubhūta, devāna devattena ananubhūta, pajāpatissa pajāpatittena ananubhūta, brahmāna brahmattena ananubhūta, ābhassarāna ābhassarattena ananubhūta, subhakihāna subhakihāna subha¬ki-hattena ananubhūta, vehapphalāna vehap¬phalat¬tena ananubhūta, abhibhussa abhibhuttena ananubhūta, sabbassa sabbattena ananubhūta..

 

翻訳:「Viññāaは目に見えず、無限であり、すべての人の再生プロセスにつながります。Viññāaでは、patavi, āpo, tējo, vāyo, bhūta, deva, pajapti brahma, abhassara brahma, subhakinha brahma, vehapphala brahmaなど、この世界のすべて(sabba)の本質を理解することはできません。 

Arahantshipに到達するまで、人は汚れた意識またはViññāaを持ちます。それまでは、この世界のすべての「幽霊のような」本当の性質を完全に理解することはできません。つまり、yathābhūta ñānaは完全ではありません。

次のトピックでは、“Viññāa anidassana ananta sabbatō pabha..”の最初の部分について説明します。この短いフレーズは一般的に誤訳されています。

 

  •  

19. Another major sutta where it appears is “Saḷāya­tana­ Vibha­ga Sutta (MN 137)“: “Rūpānaṃ tveva aniccataṃ viditvā vipari­ṇāma­virāga­nirodham, ‘pubbe ceva rūpā etarahi ca sabbe te rūpā aniccā dukkhā vipari­ṇāma­dhammā’ti evametaṃ yathābhūtaṃ sammappaññāya passato uppajjati somanassaṃ“.

Loosely Translated: Any rūpa that has existed or in existence now, has the “ghost-like transient nature”. That is the reason why they change unexpectedly (viparinama) and have the anicca nature. When one comprehends this true nature, it leads to joy in one’s mind (somanassa)“.

 

19.登場するもう1つの主要なsuttaは、Saḷāya­tana­ Vibhaṅ­ga Sutta (MN 137)です。

Rūpāna tveva aniccata viditvā vipari¬āma¬virāga¬nirodham, pubbe ceva rūpā etarahi ca sabbe te rūpā aniccā dukkhā vipari¬āma¬dhammāti evameta yathābhūta sammappaññāya passato uppajjati somanassa

 

大まかな翻訳:現在まで存在している、すなわち今現在に存在しているrūpaには、「ゴーストのような一時的な性質」があります。それが、想定外に変化し(viparinama)、aniccaの性質を持つ理由です。この本質を理解すると、マインドの喜び(somanassa)につながります」。

 

 

 

 

Does any Object (Rupa) Last only 17 Thought Moments?

Revised October 29, 2015; updated April 5, 2016; revised August 18, 2019

1. In August/September 2015, I watched a popular Abhidhamma program (in Sinhala) from Sri Lanka on Youtube. It was right in many aspects, but it had two fundamental problems:

  • First, the incorrect interpretation of anicca and anatta as “impermanence” and “no-self.” I have many posts on this site explaining why those two interpretations are critically flawed.
  • The second main problem that I noticed was the repeated statement that “Anything in this world lasts only a brief moment. Any object is formed and destroyed within a short time of the order of a thought-moment. Then it is re-formed, and the process continues ceaselessly. What you see now is not the same thing that was there a thought moment before”.
  • Then that “creation/destruction” process was tied to the concept of “impermanence” mentioned above.

Here is a direct quote from another source, which is a popular book on Abhidhamma: “..a rupa is very short-lived – it endures only for 17 conscious moments. Whatever object formed is almost instantly gone”. Thus it is a widespread misconception.

 

1. 20158月と 9月に、YouTubeでスリランカの人気のあるAbhidhammaプログラム(シンハラ語)を見ました。それは多くの面で正しかったのですが、2つの根本的な問題がありました。

最初に、aniccaanattaを「無常」と「無自我」として誤って解釈します。このサイトには、これらの2つの解釈が重大な欠陥がある理由を説明する多くのトピックがあります。

私が気付いた2番目の主な問題は、「この世界のすべては短時間しか続かない。対象は、思考の瞬間の順序の短い時間内に形成され、破壊されます。その後、再形成され、プロセスは絶え間なく継続します。あなたが今見ているものは、前に考えられていたものと同じものではありません」。

次に、その「作成/破壊」プロセスは、上記の「非永続性」の概念に結び付けられました。

別の情報源であるAbhidhammaに関する人気のあるからの直接の引用は次のとおりです。

rupaはとても短命です。17の思考の瞬間だけしかもちません。形成された対象はほとんど瞬時に消えてしまうのです。」

こうして誤解は拡がっていきました。

 

2. I have explained in other posts what the correct interpretations of anicca and anatta. Let us focus on the second point, the claim that “any object lives only for 17 thought moments” in this post.

  • sankata arises due to causes and lasts until those causes are there. It is a bit more complicated, and is discussed in the section, “Udayavaya Nana.”
  • The arising of a sankata is due to paticca samuppada; that is the “udaya” or “arise” part. Once formed, different sankata will have different lifetimes, and eventually decay; that is  “vaya.”

Udayavaya describes the formation and destruction of a sankata (“Udaya” means to arise, and “vaya” means destruction). But a sankata could last for a long time.

 

2.他のトピックで、aniccaanattaの正しい解釈を説明しました。ここでは2番目のポイントである「あらゆる物体は17の思考の瞬間だけ生きている」という主張に焦点を当てましょう。

sankataは原因により発生し、それらの原因があるかぎり続きます。実はこれはもう少し複雑なのでUdayavaya Nanaで説明しています。

sankataの発生は、paticca samuppadaによるものです。それが「udaya」すなわち「生成される」の部分です。一度形成されると、異なるsankataは異なる寿命を持ち、最終的には腐敗します。それは「vaya 」です。

Udayavayaは、sankataの形成と破壊について説明しています(「udaya」は発生することを意味し、「vaya」は破壊を意味します)。しかし、sankataは長い間続く可能性があります。

 

3. It seems to me that this misinterpretation comes from taking the lifetime of a “rupa” to be 17 thought moments. But as we discussed in “Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introduction,” that is the lifetime of a hadaya rupa.

 

3.この誤解は、「rupa」の寿命を17の思考の瞬間とすることに起因するように思えます。しかし、Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introductionで説明したように、それはhadaya rupaの生涯です。

 

4. Different sankata have different lifetimes. A fly may live for a few days, a human about 100 years, a building may last hundreds of years, the Earth will last about 4-5 billion more years, etc.

  • An inert object, like a building, will start slowly decaying. If a building lasts 1000 years, then each day, it will “decay” by a little bit, though the decay can be expected to accelerate towards the end.

From the present time to the final destruction (or until death in the case of a living being), any given sankata will change. If we consider a baby born today, it will first grow to become a young person. Then it will gradually start weakening while becoming an older adult and eventually die one day. Therefore, the critical aspect is not destruction but change. While the baby is growing, the cells in the body will multiply; but in an older person’s body, more cells will be dying.

 

4.異なるsankataには異なる寿命があります。ハエは数日間、人間は約100年、建物は数百年、地球は約4050億年、それぞれの寿命が続きます。

建物のような不活性の物質は、ゆっくりと減衰し始めます。毎日、少しずつ「崩壊」しますが、建物が1000年続くと、崩壊は終わりに向かって加速すると予想されます。 

現在から最終的な破壊まで(または生物の場合は死ぬまで)、sankataは変化します。今日生まれた赤ちゃんを考えると、まず成長して若者になります。その後は徐々に衰弱し始め、、高齢者になり、最終的にはいつか死にます。したがって、重要な側面は破壊ではなく変化です。赤ちゃんが成長している間、体内の細胞は増殖します。しかし、年配の人の体内では、より多くの細胞が死ぬでしょう。

 

5. This constant change is not discernible to us on a real-time basis. A person does not age while we are watching him/her. But we can see the change over several years, especially if they are very young or over the middle age.

  • Mayflies have a lifetime of the order of a day (after the larval stage), and some live only several hours; here is a short video by the National Geographic channel:

http://www.natgeotv.com/ca/great-migrations/videos/24-hour-lifecycle

  • Thus there is a HUGE difference in saying that a given material object CHANGES moment-to-moment versus saying that the object is “RECREATED” every 17 thought moments. During the presentation that I mentioned at the beginning, the presenter was showing a pen and said that the pen is “destroyed and recreated” EVERY 17 thought moments! By extending that logic, one could say that any entity (say, the Earth) is vanished and “recreated” within 17 thought moments! A complete misunderstanding of the udayavaya process of a sankata.

 

5.この絶え間ない変化は、リアルタイムでは認識できません。私たちが彼/彼女を見ている間、人は老化しません。しかし、特に非常に若い時や中年を過ぎている場合には、数年にわたってみると変化を見ることができます。

カゲロウの寿命は1日程度(幼虫期の後)で、数時間しか生存しないものもいます。こちらがナショナルジオグラフィックチャンネルの短い動画です。http://www.natgeotv.com/ca/great-migrations/videos/24-hour-lifecycle

このように、物質対象が瞬間ごとに変化していると言うことと、対象が17思考時間ごとに「再生」されると言うことには大きな違いがあります。

冒頭で述べたプレゼンテーションの間に、司会者はペンを見せて、17の思考の瞬間ごとにペンが「破壊され、再現された」と言っていました。その論理を拡張することで、17の思考時間内にあらゆる実体(地球など)が消滅し、「再現」されると言うことができます!

sankataudayavaya プロセスの完全な誤解です。

 

6. So, where does this incorrect statement come from? “.. rupa is very short-lived – it endures only for 17 conscious moments. Whatever object formed is almost instantly gone.”

  • The confusion arises when one does not understand the concept of a hadaya rupa. A hadaya rupa is generated in the hadaya vatthu by a sense event through one of the five physical senses. The lifetime of a hadaya rupa is the time taken to experience that external sense event. That takes 17 thought moments (during which an impression of the external rupa is made in mind by a citta vithi). It is wrong to take this time to be the lifetime of the object in question; see, “Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introduction.”
  • The question is how we EXPERIENCE a given rupa or an object. We experience outside material things in our world through our five physical senses. We see with eyes, hear with ears, smell with the nose, taste with the tongue, and touch with our body.

However, our minds only catch a very brief (a thought moments worth) of the seeing, hearing, etc. experience at a time. It is not that the object lives a short time; it is just that we sense it only for a brief moment at a time! Let us discuss this in detail.

 

6.では、この誤った記述はどこから来たのでしょうか? .. rupaは非常に短命です-それは17の意識的な瞬間にしか耐えません。どんな対象が形成されても、ほとんど瞬時に消えてしまいます。」

hadaya rupaの概念を理解していないと混乱が生じます。hadaya rupaは、5つの身体感覚の1つを介した感覚のイベントによってhadaya vatthuで生成されます。hadaya rupaの生涯時間は、その外部感覚イベントを体験するのにかかった時間です。それには17の思考時間が必要です(その間、外部rūpaの印象はcitta vithiによって作成されます)。この時間を問題の対象の存続期間とするのは間違っています。Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introductionを参照してください。

問題は、特定のrupaすなわち物質をどのように体験するかです。5つの身体感覚を通して、私たちの世界の外部の物質的なものを経験します。私たちは目で見、耳で聞き、鼻で匂い、舌で味わい、体で触れます。

しかし、私たちのマインドは、見る、聞くなどの一時の経験は非常に短く(考えている瞬間)しか捉えません。対象の寿命が短いということではありません。私たちは一度に感じれるのはほん一瞬しかないのです!これについて詳しく説明しましょう。

 

7. Each of these five senses events is accomplished via a thought, even though we may not perceive it that way. Details at “Citta and Cetasika – How Vinnana (Consciousness) Arises.” I highly recommend reading that post before proceeding further.

Here is a simple description:

  • When we see an object, our eyes send the image of the object to the brain via the neurons. The brain processes that image. Each image is of the order of 10 milliseconds (Buddha Dhamma does not provide these times; I am using the time that scientists have discovered).
  • But the brain does not feel anything; it is the mind that feels sensations.
  • The brain processes that information and transmits it to the location of the mind (called hadaya vatthu) which overlaps the heart, but not in it.

Now, it takes the mind 17 thought moments (or 17 citta) to process that information and identify the object and make decisions about it; this series of citta is called a “citta vithi.” There will be many such citta vithi before we “see it.”

 

7.これらの五感のそれぞれの出来事は、そのように知覚も認識もしないかもしれないが、思考を通して達成されています。さらなる詳細に進む前にCitta and Cetasika – How Vinnana (Consciousness) Arisesを読むことを強くお勧めします。

簡単な説明を次に示します。

対象を見ると、目はニューロンを介して対象の画像を脳に送ります。脳はその画像を処理します。各画像は10ミリ秒のオーダーです(Buddha Dhammaではこれらの時間を提供していません。科学者が発見した時間を使用しています)。

しかし、脳は何も感じません。感覚を感じるのはマインドです。

•脳はその情報を処理し、マインド臓と重なるがマインド臓の中ではないマインドの居場所(hadaya vatthuと呼ばれる)に送信します。

その情報を処理し、対象を識別し、それについて決定を下すには、17の思考の瞬間(または17citta)が必要です。この一連のcittaは「citta vithi」と呼ばれます。 「それを見る」前に、このようなcitta vithiがたくさんあります。

 

8. Many things happen during that citta vithi: the mind recognizes the object, forms a like/dislike about it, decides on what to do, and lastly may do something about it. That is why there are 17 cittas in the series. Towards the end of the citta vithi, seven javana cittas carry out the actions or speech about the object based on the decisions made earlier part of the citta vithi. That is a very brief statement of what happens in that citta vithi.

  • Three more manodvara citta vithi run following each pancadvara citta vithi. Of course, it happens so fast that we are not aware of these details. Only a Buddha can see such fast processes.
  • When we are having a conversation with someone, we can see her and hear what she says “at the same time.” But it only appears that we are seeing and listening at the same time. The sights and sounds are received and processed by the brain in packets as we discussed above. But the mind processes each packet in less than a millionth of a second in a citta vithi!

If we are eating popcorn while watching TV, that taste also comes in packets. The tongue sends about 10 ms worth of “taste information” to the brain and brain processes that information and transmits to the mind. The same thing happens with sounds and body touches. As those “information packets” continuously come in, we PERCEIVE that we are experiencing such sensations continually. Only one “data packet” is processed at a time, so there is at least a 10 ms delay between adjacent packets.

 

8.そのcitta vithiの間に多くのことが起こります:マインドは対象を認識し、それについて好き嫌いを形成し、何をすべきかを決定し、最後にそれについて何かをするかもしれません。それがシリーズとして17cittaのがある理由です。 citta vithiの終わりに向かって、7つのjavana cittacitta vithiのはじめのパートの決定に基づいて対象に関するアクションまたはスピーチを実行します。それはそのcitta vithiで何が起こるかについての非常に短い声明です。

•各pancadvara citta vithiに続いて、さらに3つのmanodvara citta vithiが実行されます。もちろん、非常に高速で発生するため、これらの詳細を認識していません。そのような速いプロセスを見ることができるのは釈尊だけです。

•誰かと会話しているとき、彼女を見ることと、彼女が言うことを聞くことを「同時に」できます。しかし、同時に見て聞いているように感じるだけのようです。上記で説明したように、視覚と音声はパケットで受信され、処理されます。しかし、マインドはcitta vithi100万分の1秒未満で各パケットを処理しています!

テレビを見ながらポップコーンを食べている場合、その味もパケットの中に含まれています。舌は約10ミリ秒の「味覚情報」を脳に送り、脳はその情報を処理してマインドに伝達します。同じことは、音と体の感触でも起こります。これらの「情報パケット」が絶えず入ってくると、私たちはそのような感覚を絶えず経験していると感じています。一度に処理される「データパケット」は1つだけなので、隣接すrūpaケット間には少なくとも10 msの遅延があります

 

9. Therefore, we can be using all five senses at the same time, and all that information processed in “10 ms packets”. Since there are 1000 milliseconds in a second, we can say that a maximum of about 100 such “information packets” are received by the mind each second.

  • However, that is fast enough for us to PERCEIVE that we are experiencing all these sense inputs continuously. Now, the only part I borrowed from science is the estimated 10 ms duration for each information packet. Those studies were published only recently.
  • Science, of course, is not aware of the role of the mind. As far as science is concerned, the brain does everything, and the brain is the mind. However, I believe that scientists will have to change that theory in the future.

 

9.したがって、5つの感覚すべてを同時に使用し、そのすべての情報を「10 msパケット」で処理できます。 1秒間は1000ミリ秒にあたるため、このような「情報パケット」は毎秒最大で約100個受信されると言えます。

しかし、それはこれらすべての感覚入力を継続的に経験していると知覚するのに十分な速さです。今、私が科学から借りた唯一の部分は、各情報パケットの推定10ミリ秒の持続時間です。それらの研究はごく最近公開されました。

もちろん、科学はマインドの役割を認識していません。科学に関する限り、脳がすべてを行い、脳がマインドです。しかし、科学者は将来その理論を変えなければならないと信じています。

 

10. In any case, what happens in mind is analogous to what happens when we watch a movie. We perceive that we are watching a continuous movie. But in reality, what happens is that the movie projector projects static pictures to the screen at a rate of about 30-60 frames a second. Here again, each static image is of 20-30 ms duration. But it is fast enough for us to perceive that we are watching a continuous movie.

In the same way, our minds perceive that we are watching, hearing, smelling, tasting, and touching all at the same time. But each sensory event is brief lived. Even though each “information packet” sent by the brain is from a 10 ms “time slice,” the mind processes that information in a citta vithi lasting 17 cittas. And each citta lasts much less than a billionth of a second. Thus each “snapshot” processed by the mind takes an unimaginably short time.

 

10.いずれにせよ、マインドで起きていることは、映画を見たときに起こることと類似しています。私たちは連続している映画を見ていると感じています。しかし、実際には、ムービープロジェクターが静的な画像を毎秒約3060フレーム(実際には24フレーム)の速度でスクリーンに投影します。ここでも、各静止画像の継続時間は2030ミリ秒です。しかし、連続する映画を見ていると認識するのに十分な速さです。

同様に、私たちのマインドは、すべて同時に見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れていると知覚します。しかし、各感覚イベントは短命です。脳から送信される各「情報パケット」は10ミリ秒の一塊で、マインドはその情報を17cittaであるcitta vithiで処理します。ですから各cittaの持続時間は10億分の1秒未満です。このよにマインドによって処理される各「スナップショット」には、想像を絶するほど短い時間しかかかっていません。

 

11. Now if one thinks carefully, it is apparent that the mind is idle most the time waiting for input signals from the brain. In a given second, there are only about 100 such “data packets” coming to the mind as we discussed above. The mind spends only 100 citta vithi for processing that information, which takes less than a millionth of a second for the mind!

  • The rest of the time, the mind is at what is called the “bhavanga state.” Thus the mind is mostly in the “bhavanga state.”

We can see that the mind is engaged in “experiencing the world” for short times. Each perception event lasts only 17 thought moments, an unimaginably short time; see, “Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introduction.”

 

11.慎重に考えれば、脳からの入力信号を待っている間、ほとんどの時間をマインドは怠けていることが明らかです。所定の秒で​​、上記で説明したように、頭に浮かぶ「データパケット」は約100個だけです。マインドはその情報を処理するために100 citta vithiを費やしますが、それは100万分の1秒未満しかかりません!

残りの時間、マインドは「bhavanga」と呼ばれる状態にあります。したがって、マインドは主に「bhavanga状態」にあります。

マインドが短期間だけ「世界の体験」に従事していることがわかります。各知覚イベントは、考えられないほど短い時間である17の思考瞬間のみ続きます。Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introductionを参照してください。

 

12. So, how does the mind perceive continuously, and take into account what happened in the past? It is done by several mental factors (cetasika) in each citta. In particular, the manasikara cetasika brings old memories, sanna cetasika recognizes, etc.

Therefore, we can see that our experience of external objects is very, very brief. A snapshot of a picture, sound, etc. comes to the mind and is gone. The perception of a solid image, sound, taste, etc. is put together by the mind with the help of a set of cetasika, especially seven cetasika that are in any citta.

 

12.では、マインドはどのように継続的に知覚し、過去に何が起こったことを考慮しますか?それは各cittaのいくつかのメンタル的要因(cetasika)によって行われます。たとえばmanasikara cetasikaは古い記憶(想い出)をもたらし、sanna cetasikaは認識します。

このように外部対象の経験は非常に短いことがわかりました。写真や音などのスナップショットが思い浮かび、消えていきます。固いイメージ、音、味などの知覚は、一連のcetasika、特にどのcittaにもある7つのcetasikaの助けを借りて、マインドによってまとめられます。

 

13. Now it should be apparent where the misconception in the following statement comes from: “.. rupa is very short-lived – it endures only for 17 conscious moments. Whatever object formed is almost instantly gone”.

  • It is not that any rupa (or the object) is short-lived. It is just that the duration of experiencing that object is extremely short. We think we are seeing, hearing, tasting, etc. all the time; but we are not. Just like we are only watching a series of static pictures while watching a movie, our mind is only experiencing a series of “snapshots.”
  • The “ghana sanna” or the “perception of solid and continuous experience” is an illusion created by the mind. That is an important point. If it is not clear, re-read the above.

You are always welcome to point out inaccuracies or unclear instances. My goal is not to post essays but to make sure the content is understood. To comprehend Buddha Dhamma requires a lot of thought.

 

13.ここで、次の文の誤解がどこから来たのかが明らかになるはずです。「..rūpaは非常に短命です。それは17の意識的な瞬間の間のみ耐えます。形成された対象はほとんど瞬時に消えてしまいます」。

rupa(または対象)が短命であるのではありません。その対象を体験する時間が非常に短いというだけです。私たちは常に見たり、聞いたり、味わったりしていると思います。しかし、そうではありません。映画を見ながら静止画のシリーズだけを見ているように、私たちのマインドは「スナップショット」の一連だけを経験しています。

ghana sanna」すなわち「堅実で継続的な経験の知覚」は、マインドによって生み出された幻想です。それは重要なポイントです。明確でない場合は、上記を読み直してください。

不正確または不明瞭な事例を指摘することはいつでも歓迎です。私の目標は、エッセイを書くことではなく、内容が理解されるようにすることです。仏法を理解するには、多くの考えが必要です。

 

14. Therefore, objects around us do not necessarily change fast and not that fast. It is just that our experience of “seeing” lasts less than a millionth of a second at a time. If we look at an object for 60 seconds, the mind sees it in about 600 static frames (per #9 above). Out of those 60 seconds, the mind “sees” the object for less than a millionth of a second in total, but spread over the 60 seconds in “snapshots,” an unbelievably short time.

  • For example, a gold bar is virtually unchanged during 17 thought moments. A gold bar lasts millions of years, so the change in the gold bar in a thought-moment is insignificantly small. Even in a mayfly that lasts only a day, the change that happens within 17 cittas is unmeasurably little. Thus the statement, “.. rupa is very short-lived – it endures only for 17 conscious moments. Whatever object formed is almost instantly gone” is WRONG.
  • It is the “sensing event” or the hadaya rupa that lasts 17 thought moments; see, “Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introduction.”

 

14.したがって、私たちの周りの対象は必ずしも速く変化するわけではなく、それほど速くはありません。私たちの「見る」経験は、一度に100万分の1秒未満しか続かないということです。対象を60秒間見ると、マインドは約600静的フレーム(上記の#9ごと)でそれを見ます。それらの60秒のうち、マインドは合計で100万分の1秒未満の間対象を「見ます」が、信じられないほど短い時間である「スナップショット」が60秒に広がります。

たとえば、金の延べ棒は17の思考の瞬間にほとんど変化しません。金の延べ棒は何百万年も続くので、思考の瞬間の金の延べ棒の変化は取るに足りないほど小さいです。 1日の命のカゲロウであっても、17citta内で起こる変化は測定できないほどわずかです。したがって、

..rūpaは非常に短命です。それは17の意識的な瞬間にしか耐えられません。形成された対象がほとんど瞬時に消えてしまう」というのは間違っています。

瞬時に消えてしまうのは、17の思考の瞬間である「感覚のイベント」すなわちhadaya rupaのことです。Gandhabba (Manomaya Kaya)- Introduction.を参照してください。

 

15. Buddha Dhamma (i.e., the world) is complicated enough; we need to be careful not to make it any more complicated than necessary. Trying to imagine a person disappearing in a thought-moment and reforming back into full form is unrealistic. Trying to conceive the same for the Earth is mind-boggling, not to mention all those stars, galaxies, out there. Luckily that is not what happens.

That is not what was described by the Buddha when he said, “ditté ditta mantan bhavissati.” It means, “what is seen is seen only for a brief moment.” Mantan is “mätra” in Sinhala or Sanskrit or a “trace of something.”

 

15.Buddha Dhamma(すなわち、世界)は十分に複雑です。必要以上に複雑にしないように注意する必要があります。人が思考の瞬間に姿を消し、完全な形に戻ることを想像しようとするのは非現実的です。地球に対しても同じように考えるのはびっくりさせられます。星、銀河にいたるのは言うまでもありません。幸いなことに、それは起こりません。

釈尊がditté ditta mantan bhavissati.”と言ったとき、それは釈尊によって記述されたものではありません。意味は 「見られるものはほんの一瞬だけ痕跡が見られる」ということですMantan とはシンハラ語またはサンスクリット語のmätraで「痕跡」です。

 

16. Even though we think we see a person all the time while we are looking at him, we see only several “snapshots” of him.

What about hearing? We usually speak 100 to 160 words per minute, which means we listen to the same rates. Thus we hear about two words per second. A word typically has less than ten letters, and thus each letter is comprehended in about 50 ms. Therefore, our rough estimate seems to hold. We indeed hear only one letter at a time, but we think we hear whole words or phrases.

 

16.私たちがある人を見ている間、常に人を見ていると思いますが、実際には彼のいくつかの「スナップショット」だけを見ています。

聴覚はどうでしょうか?通常、1分あたり100160語を話します。これは、同じレートを聞くことを意味します。したがって、1秒間に約2単語を聞きます。通常、単語は10文字未満であるため、各文字は約50ミリ秒で理解されます。したがって、私たちの大まかな想定が成り立つようです。実際に一度に聞くことができるのは1文字だけですが、フレーズ全体を聞いていると思っているのです。

 

17. Other sense inputs work the same way: The Buddha also said, “suté suta mattan bhavissati”, “muté muta mattan bhavissati”, and “viññāté viññāta mattan bhavissati”, where “suta” means hearing, “muta” is a collective word for taste, smell, and touch, and “viññāta” is for viññāna. All our sensory inputs and our awareness are minuscule traces of sensations that flow, which the mind concocts as continuous and stable experiences. Think about the movie analogy again; a movie is a series of static “snapshots.” In the same way, our experiences are a series of “snapshots.”

  • In Brahma worlds, there is only a “manomaya kaya” and no solid body like ours. There, the sense experience more or less continuous. There are some “hungry ghosts” (petas) who also have only the fine “manomaya kaya” that imparts endless suffering.
  • Our physical body is there to give pain via various body ailments as well as “physical pleasures”; we will also discuss this critical point in the future. Nature has many varieties of “body structures” for imparting different types of suffering/enjoyment, according to kamma vipaka.

That will become even more clear when we further discuss how the “manomaya kaya controls the physical body,” see, “Ghost in the Machine – Synonym for the Manomaya Kaya?“.

 

17.他の感覚入力も同じように機能します。釈尊はまたsuté suta mattan bhavissati”, “muté muta mattan bhavissati”, “viññāté viññāta mattan bhavissatiと言いました。

Sutaはリスニング、mutaは味覚、匂い、感触を表す言葉、「viññāta」はviññānaを意味します。私たちのすべての感覚入力と意識は、流れる感覚のごくわずかな痕跡であり、マインドはそれを継続的で安定した体験として作り上げます。映画の類推をもう一度考えてみてください。映画は一連の静的な「スナップショット」です。同様に、私たちの経験は一連の「スナップショット」です。

Brahmaの世界では、「manomaya kaya」だけがあり、私たちのような固体はありません。そこでは、感覚は多かれ少なかれ連続しています。繊細な「manomaya kaya」しか持たない絶え間ない苦しみがある「空腹のゴースト」((petas)もいます。

私たちの肉体は、「身体的な喜び」だけでなく、さまざまな体の病気を介して痛みを与えるためにあります。また、今後この重要なポイントについても説明します。 kamma vipakaによれば、自然にはさまざまな種類の苦しみ/楽しみを与えるためのさまざまな「身体構造」があります。

manomaya kayaが肉体をどのように制御するか、についてさらに議論すると、さらに明確になります。Ghost in the Machine – Synonym for the Manomaya Kaya?を参照してください。

 

18. There is a lot of information to be absorbed in this post. Our lives are just a series of very brief sense experiences. When the Buddha uttered those four phrases to the ascetic Bahiya Daruciriya, he contemplated on them right there and attained the Arahantship. He is considered to be the person who spent the least time reaching Arahantship.

More on the formation and destruction of a sankata in, “Nirödha and Vaya – Two Different Concepts.”

Next, “Ghost in the Machine – Synonym for the Manomaya Kaya?“, …….

 

18.このトピックには多くの情報が含まれています。私たちの人生とは、一連の非常に短い感覚の経験のことです釈尊がこれらの4つのフレーズを修行者のBahiya Daruciriyaに話した時、彼はそれらについて熟考し、アラハンシップを達成しました。彼は、アラハンシップに到達するのに最も時間をかけなかった人と考えられています。

sankataの形成と破壊についての詳細はNirödha and Vaya – Two Different Concepts

 

1:五門による心路(眼門を例に)

極大所縁

§
7 眼門の極大所縁路
色が眼に触れてからの心の生滅の順番
有分心から速行心まで
一番目の有分心は、完全に寝ている状態。
二番目は、動揺してなんとなく弱くなり始めた状態。(「有分動揺」という)
三番目は、有分心がもう結構弱くなった状態。有分心が捨てられ、捨断される。(「有分捨断」という)
四番目の刹那で、「目が覚めた」という状態に。(「五門引転心」という)

五番目に、眼識が、
六番目に、領受心が、
七番目に、推度心が、
八番目に、確定心が、
生まれて、滅する。

速行心
九番目に、速行心が生まれる。
同じ振動が七回起きる。(九番目から15番目まで、七つの速行心)

「考える世界、妄想の世界」は速行心のはたらきなのです。」

「きれいな花だったら、それに引っ張られるし、
汚く醜い花だったら、それから離れたくなる。
そういう人間の好き嫌いの心・感情が、この速行心なのです。」

「ああ、きれいだ」と思う感情が生まれたら、
その速行心は貪根心八種類の一つなのです。
「嫌な花だ。見たくもない」と思う感情が生まれたら、
その速行心は瞋根心二種類のどちらかなのです。
花を見たのにただぼーっとしているだけなら、痴根心二つのどちらかです。
不善心はこの十二種類

欲もなく怒りもなくただ「花だ」としっかり確認するなら、
欲界善心八つのどれかが生まれる。
「これは無常だ」などと智慧で見るなら智相応の四つから、
そうでなければ智不相応の四つから、どれかが現れます。

同じことを、阿羅漢の方々がすると、欲界有因唯作心八つのどれかです。
それと阿羅漢の方々が笑う笑起心が一つ。

この二十九種類の欲界心のどれかが速行心として生まれます。

彼所縁心は「味わい」
彼所縁心は二回生起し、滅する。
「彼所縁心は、有分心ではなく、異熟心」
「きれいな花だなあ」と感じたなら、感じたのは速行心で、
その後に残る「味わい」みたいなもの、「結果」なのです。

心の生滅の17回
「目にものが触れても、始めはただ寝ているだけの有分状態
それが動揺して捨断して、
第四刹那のところで目が醒める(五門引転心)
目に心が移動して、その反応のコピーを受ける(領受心)
「これはどんな振動かなあと推度する。
推度したものを確定する。
「見たもの」を確定するのではありません。
「推度した、この直前の心(推度心)」を確定する。
その自分勝手に推度したものについて、すぐ感情が走ってしまうのです。(速行心)
ここで善行為か悪行為かに分かれてしまいます。
「ああよかった」とか、「ああ嫌だった」とか、
ちょっとホッとしたりフッと気が抜けたりする瞬間が生まれる(彼所縁心)

いつ「見えた」のか
「認識の一セットが終わったら、かならず有分心になります。」
「こういう十七刹那のセットを書くときは、彼所縁心の次にかならず有分心を書かなくてはいけません。」

「第一心刹那で、その何か「もの」が生まれて、
第十七刹那でその「もの」は死んでしまいます。
本当は人間の知識レベルでは、この十七刹那ぐらいでは「見えた」ことになりません。
こういう十七心刹那のセットが何億回も生まれて、
やっと「あ、花が見えました」という認識が出てくるのです。」

まあ、一心刹那=一兆分の一弾指だから、それはそうだろう。
じゃあ、カニカ定で見える超高速の世界もまだまだ、この17刹那のセットを確認するほどにはいかないのだろう。

「ない」ものを見る?
「この生の瞬間は見えません。住のときは見えます。滅のときはまた見えないのです。」
「生か滅のときは、心は有分心なので何も気づかないのです。」
ヴィパッサナー瞑想をすると、
「見ている『もの』はずっとそこにあるのではない」という事実に気づく。
現象は生まれては消えるものだと気づく。」

極大の眼門路
生位の心、
二個の有分心(二個目は捨断心)
14の路心(有分でない心)で成り立つ。
滅位の有分心は17心刹那に含めない。

有 過 動 捨 五 眼 領 推 確 速 速 速 速 速 速 速 彼 彼 有

と書く。
最初と最後の「有」は含めない。

 

 

 

 


Rupa (Material Form) – Table

Revised April 22, 2020; August 16, 2020

We discuss the 28 types of rupa (material form) in Buddha Dhamma. For discussions on rupa, see, “What are Rupa? (Relation to Nibbāna)” and “Rupa (Material Form).

 

仏法における28種類のrūpa(物質的形態)について説明します。

 

 

Concretely Produced (Nipphanna

具象的

Abstract (AnipphannaRupa

抽象的

I. Great Elements (Mahā Bhuta)

4大元素

VII. Limiting Phenomenon

限定された現象

1. Pathavi (Extension/Hardness)伸展/硬度

19. Ākāsa dhātu (space element) 空間要素

2. Apo (Cohesion/Fluidity) 凝集性/流動性度

IX. Communicating (Viññatti) Rupa

3. Tejo (Heat/Hotness) 熱温

20. Kāya Viññatti

4. Vāyo (Motion/Pushing & Supporting)

21. Vaci Viññatti

II. Internal (PasādaRupa  内部

X. Mutable (VikāraRupa可変

5. Cakkhu (eye element)  

22. Lahutā (lightness) 明るさ

6. Sota (ear element)

23. Mudutā (Elasticity) 弾力性

7. Ghāna (nose element)

24. Kammaññatā (weildiness)

8. Jivhā (tongue element)

XI. Material Qualities (Lakkhana Rupa)

9. Kāya (body element)

25. Upacaya (production) 生産

III. Gocara (Objective) Rupa対象物

26. Santati (continuity) 連続

10. Vaṇṇa (visible) 

27. Jaratā (Decay) 減衰

11. Sadda (Sound)

28. Aniccatā (Dissolving) 溶解

12. Gandha (Smell)

13. Rasa (Taste)

 

Phoṭṭhabba (Tangibility, warmth, and movement) 触覚、暖かさ、動きcomes from 3 mahā bhuta of pathavi, tejo, vāyo

IV. Bhava Rupa 

 

14. Itthi (Feminine)

 

15. Purisa (Masculine)

 

V. Hadaya (Mind Base) 心の基盤

 

16. Hadaya Vatthu (seat of the mind)

 

VI. Life

 

17. jīvitindriya (Life faculty) 生命機能

 

VII. Nutritional栄養

 

18. Oja (Nutriment)

 

 

 

 

Types of Rupā 

  • The four great elements (#1 through #4) and the four gocara rupa (#10 through #13) ALWAYS appear together. They can NEVER be detected by themselves. They come in together as suddhāṭṭhaka (meaning the smallest collection of those eight types of rupa.) See, “The Origin of Matter – Suddhāṭṭhaka.”
  • There are nine rupa created ONLY by kammic energy at the paṭisandhi moment. Those are the five pasāda rupa (#5 through #9), and four other rupa (#14 through #17) including the seat of the mind (hadaya vatthu).
  • The 16 rupa that are highlighted in blue are fine (sukumarupa. The other 12 are coarse (oḷārika) rupa.
  • Nipphanna rupa are caused by kamma, citta, utu (tejo), and āhāra (oja). The other 10 (anipphanna rupa) are not caused or conditioned by kamma, citta, utu (tejo), and āhāra (oja).
  • The 10 types of anipphanna rupa (on the right side of the Table) are abstract rupa.

 

4大要素(#1から#4)と4つのgocara rupa(#10から#13)は常に一緒に表示されます。それらはそれ自体では決して感知されることはありません。それらはsuddhāṭṭhaka8種類のrūpaによる最小の集合体を意味します)として一緒になります。The Origin of Matter – Suddhāṭṭhakaを参照してください。

paisandhiの瞬間にカルマ・エネルギーによってのみ作成された9つのrūpaがあります。それらは5つのpasāda rupa(#5から#9)と、メンタル体の心(hadaya vatthu)にある4つの他のrupa(#14から#17)です。

青でハイライトされている16rūpaは微細(sukumarūpaです。他の12は粗雑(oārikarūpaです。

Nipphanna rupaは、kammacittaututejo)、およびāhāraoja)によって引き起こされます。

他の10anipphanna rupa)は、kammacittaututejo)、およびāhāraoja)によって引き起こされたり調整されたりすることはありません。

表の右側にある10種類のanipphanna rūpaは抽象化されたrūpaです。

 

Types of Rupā Present in Different Realms

  • All the 28 rupā arise in the kāma-realms. Eight rupā comprising sadda, five vikāra-rupā, jarātarupa, and aniccatā-rupa, do not arise at the moment of birth (patisandhi) whereas, during lifetime there is no rupa which is not formed.
  • In the 15 rupa realms, with the exception of Asañña-realm, 23 rupā arise (ghana-pasāda, jivha-pasāda, kaya-pasāda, itthi-bhava and purisa-bhava being excluded).
  • Only 17 rupā arise in the Asañña realm. They are the eight avinibbhoga (four mahā bhuta and vaṇṇa, gandha, rasa, oja), jivita rupa, ākāsa dhatu, three lahutadi, and four lakkhana-rupā
  • No rupa above the suddhāṭṭhaka level arise (except for hadaya vatthu) in the arupa-realms. Thus, a trace of matter is present anywhere in the 31 realms. Ancient yogis, who attained all eight anariya jhānā, could not see any rupa in the arupa loka and deduced that was Nibbāna. But rupa still has a “foothold” in the arupa loka since any being in the arupa loka will be reborn in other realms in the future (unless at least the Sotāpanna stage is attained.) Thus, linkage to mater has not been severed in arupa loka.

 

さまざまな領域に存在するrūpaの種類

28rupāはすべてkāmaの領域で発生します。

sadda5つのvikāra-rupājarātarupa、およびaniccatā-rupaを構成する8つのrupāは、誕生の瞬間(patisandhi)には発生しませんが、生涯の間、形成されないrūpaはありません。

Asañña領域を除く15 rupaの領域では、23rūpaが発生します(ghana-pasāda, jivha-pasāda, kaya-pasāda, itthi-bhava purisa-bhavaは除外されます)。

Asañña領域では17 rūpaしか発生しません。それらは8つのavinibbhoga4つのmahābhutavaṇṇagandharasaoja)そしてjivita rupaākāsadhatu3つのlahutadi、および4つのlakkhana-rupāです。

arupaの領域では、(hadayavatthを除く)suddhāṭṭhakaレベルを超えるrūpaは発生しません。

したがって、物質の痕跡は31領域のどこにでも存在します。 8つすべてのanariya jhānāを達成した古代のヨギは、arupa lokarūpaを見ることができず、それがNibbānaであると推測しました。しかし、arupa lokaにいる者は将来他の領域で生まれ変わるため(少なくともSotāpannaの段階に達しない限り)、rūpaはまだarupa lokaに「足場」を持っています。したがって、arupa lokaでは母体とのつながりが切断されていません。

 

 

 

Definitions from Dhammasaṅgaṇī

The following are quoted from the “2.2.3. Rūpavibhatti” section of Dhammasaṅgaṇī of the Tipiṭaka

 

以下は三蔵のDhammasagaīセクションの2.2.3. Rūpavibhattiからの引用です。

 

  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ itthindriyaṃ? Yaṃ itthiyā itthiliṅgaṃ itthinimittaṃ itthikuttaṃ itthākappo itthattaṃ itthibhāvoidaṃ taṃ rūpaṃ itthindriyaṃ.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ purisindriyaṃ? Yaṃ purisassa purisaliṅgaṃ purisanimittaṃ purisakuttaṃ purisākappo purisattaṃ purisabhāvoidaṃ taṃ rūpaṃ purisindriyaṃ.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ jīvitindriyaṃ? Yo tesaṃ rūpīnaṃ dhammānaṃ āyu ṭhiti yapanā yāpanā iriyanā vattanā pālanā jīvitaṃ jīvitindriyaṃidaṃ taṃ rūpaṃ jīvitindriyaṃ.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ kāyaviññatti? kusalacittassa akusalacittassa abyākatacittassa abhikkamantassa paṭikkamantassa ālokentassa vilokentassa samiñjentassa pasārentassa kāyassa thambhanā santhambhanā santhambhitattaṃ viññatti viññāpanā viññāpitattaṃidaṃ taṃ rūpaṃ kāyaviññatti.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ vacīviññatti? kusalacittassa akusalacittassa abyākatacittassa vācā girā byappatho udīraṇaṃ ghoso ghosakammaṃ vācā vacībhedoayaṃ vuccati vācā. tāya vācāya viññatti viññāpanā viññāpitattaṃidaṃ taṃ rūpaṃ vacīviññatti.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ ākāsadhātu? Yo ākāso ākāsagataṃ aghaṃ aghagataṃ vivaro vivaragataṃ asamphuṭṭhaṃ catūhi mahābhūtehiidaṃ taṃ rūpaṃ ākāsadhātu.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa lahutā? rūpassa lahutā lahupariṇāmatā adandhanatā avitthanatāidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa lahutā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa mudutā? rūpassa mudutā maddavatā akakkhaḷatā akathinatāidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa mudutā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa kammaññatā? rūpassa kammaññatā kammaññattaṃ kammaññabhāvoidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa kammaññatā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa upacayo? Yo āyatanānaṃ ācayo, so rūpassa upacayoidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa upacayo.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa santati? Yo rūpassa upacayo, rūpassa santatiidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa santati.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa jaratā? rūpassa jarā jīraṇatā khaṇḍiccaṃ pāliccaṃ valittacatā āyuno saṃhāni indriyānaṃ paripākoidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa jaratā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa aniccatā? Yo rūpassa khayo vayo bhedo paribhedo aniccatā antaradhānaṃidaṃ taṃ rūpaṃ rūpassa aniccatā.
  • Katamaṃ taṃ rūpaṃ kabaḷīkāro āhāro? Odano kummāso sattu maccho maṃsaṃ khīraṃ dadhi sappi navanītaṃ telaṃ madhu phāṇitaṃ, yaṃ panaññampi atthi rūpaṃ yamhi yamhi janapade tesaṃ tesaṃ sattānaṃ mukhāsiyaṃ dantavikhādanaṃ galajjhoharaṇīyaṃ kucchivitthambhanaṃ, yāya ojāya sattā yāpentiidaṃ taṃ rūpaṃ kabaḷīkāro āhāro.

 

 

 

 

What are Dhammā? – A Deeper Analysis

April 15, 2016; revised November 5, 2017; February 9, 2018

1. This is an advanced topic (yet, hopefully made easy even for those who are not into Abhidhamma). Please don’t hesitate to comment if something is not clear. A simpler version is at: “What are rūpa? – Dhamma are rūpa too!“.

  • In contrast to touching, smelling, and tasting, we do not directly “touch” the external world (matter) with our eyes, ears or the mind.
  • While we experience the “outside world” as it is (or objectively) with our five physical senses, what we interact with our minds are our own “perceptions, feelings, plans, and hopes” for that external world.
  • We will get into more details on those two aspects in the future, but in this post we will look at what “dhammā” are in relation to the mind. That will help us address those other two issues in the future.
  • It is to be noted that dhammā are rūpa below the suddhāshtaka stage; dhamma as in Buddha Dhamma or Abhidhamma refer to Buddha’s teachings.

As I mentioned in the “Abhidhamma – Introduction“, I very much want to make Abhidhamma easy to grasp for anyone. I also want to highlight the fact the Buddha Dhamma is well ahead of science (quantum mechanics) in understanding even our material world; science has not even begun to explore the mind.

 

1.これは高度なトピックです(ただし、Abhidhammaに慣れていない人でも簡単にできることを願っています)。不明な点がある場合は、遠慮なくコメントしてください。より簡単なバージョンはWhat are rūpa? – Dhamma are rūpa too!

触ったり、匂いを嗅いだり、味見したりするのとは対照的に、目、耳、マインドは外界(物質)に直接「接触する」ことはありません。

5つの肉体的感覚で外側の世界を「そのまま」(すなわち客観的に)体験しますが、私たちがマインドと交流(対話)するのは、私たち自身の「認識、感情、計画、希望」です。

これらの2つの側面については、今後さらに詳しく説明しますが、ここでは、「dhammā」がマインドに関連して何であるかを見ていきます。これは、この先に2つの問題に対処するのに役立ちます。

dhammāsuddhāshtakaステージより微細なrūpaであることに注意してください。Buddha Dhammaすなわち論蔵Abhidhammadhammaは、ブッダの教えを指します。

Abhidhamma – Introductionで述べたように、Abhidhammaを誰でも簡単に理解できるようにしたいのです。私はまた、Buddha Dhammaが私たちの物質世界でさえ理解する上で科学(量子力学)よりもはるかに優れているという事実を強調したいのです。科学はまだマインドを探求し始めてさえいません。

 

2. Existence in this world of 31 realms is maintained via our attachments to “things” in this world. These “things” are rūpa.

  • When our minds contact these external rūpa, we generate brief sense enjoyments called assāda; see, “Assāda, Ādīnava, Nissarana“.  Since we perceive these sense contacts to be long-lasting and enjoyable (and ignore the sufferings that we go through to acquire them), we willingly desire such sense pleasures.

However, any rūpa that arises is subjected to unexpected change (viparināma) and eventual decay and destruction, which is the basis of anicca nature.

 

2.この世界の31領域の存在(生命)は、私たちのこの世の「モノ」への愛着によって維持されています。これらの「モノ」とはrūpaのことです。

マインドがこれらの外部のrūpaに接触すると、assādaと呼ばれる短い感覚の楽しさを生み出します。Assāda, Ādīnava, Nissaranaを参照してください。私たちはこれらの感覚の接触を長続きして楽しいもの(それらを得るために私たちが経験する苦しみを無視します)だと認識しているので、私たちは意図的にそのような感覚の喜びを望みます。

ただし、発生しているいかなるrūpaも、予期せぬ変化(viparināma)と、最終的には老朽して崩壊します。これがaniccaの性質の基本です。

 

3. Another factor that we have not discussed much in detail is that rūpa have different levels of texture or solidity.

  • The rūpa that we experience in the human realms (and those realms below us) are the densest form called dhātu. The deva realms above us have finer dhātu that we cannot see. In the rūpa lōkasrūpi brahmas have even finer rūpa called mahā bhūta. And in the arūpa lōka, there are just traces of bhūta (just the hadaya vatthu) made of the smallest unit of matter called suddhāshtakaand of course much finer gathi (or gathi).

You may want to review the concepts discussed in the following posts: “What Are rūpa? (Relation to Nibbana)“,  “The Origin of Matter – suddhāshtaka“.

 

3.あまり詳細に説明していないもう1つの要因は、rūpaのテクスチャすなわち堅固性のレベルがいろいろとあることです。

人間の領域(およびその下の領域)で経験するrūpaは、dhātuと呼ばれる最も密度の高い種類のものです。devaの領域は、私たちには見ることのできない、より繊細なdhātuで構成されています。rūpa lōkasでは、rūpi brahmasmahā bhūtaと呼ばれるさらに繊細なrūpaを経験します。そして、arūpa lōkaには、suddhāshtakaと呼ばれる物質の最小単位で作られたbhūta(例えばhadaya vatthu)の痕跡であり、そしてはるかに繊細なgathi(またはgathi)があります。

次のトピックで説明されている概念を確認できます。What Are rūpa? (Relation to Nibbana)“,  “The Origin of Matter – suddhāshtaka

 

4. It is conventional knowledge is that we experience the external world with our five physical senses: We see with our eyes, hear with the ears, smell with the nose, taste with the tongue, and touch things with our physical bodies.

  • Is that all one experiences? Imagine being in a dark chamber totally isolated from the rest of the world. A good example is the punishment by the military called solitary confinement監禁 especially in the old days: one is kept in a totally isolated dark cell for many hours at a time.
  • Does such a person experience the outside world? Of course. He/she can think about all sorts of things: recall past events, think about the future, recall any place that he has been to, etc.

In fact, we do this any given day, not only by recalling past experiences, but also by imagining desired future events.

 

4.従来の知識では、私たちは5つの肉体的感覚器官で外界を経験します。私たちは目で見て、耳で聞き、鼻で匂い、舌で味わい、体で物に触れます。

それらがすべての経験なのでしょうか?

他の世界から完全に隔離された暗い部屋にいると想像してみてください。わかりやすい例は、特に昔の独房監禁と呼ばれる軍隊による処罰です。何時間もの間、完全に隔離された暗い部屋に閉じ込められます。

そのような人は外の世界を経験しますか?もちろん。過去の出来事を思い出したり、未来を思い出したり、行ったことがある場所を思い出したりなど、あらゆることを考えることができます。

実際には、過去の経験を思い出すだけでなく、希望する将来のイベントを想像をしています。

 

5.  Sense contacts other than the five physical senses are due to the sixth sense: the mind. One is totally unaware of the external world only when one is totally unconscious.

So, what are the rūpa that we experience with our minds? These are dhamma! As stated in the phrase, “manañca paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ“, contacts of dhammā with the mana indriya leads to manō viññāna.

 

5. 5つの物理的感覚以外の感覚接触は、6番目の感覚、つまりマインドによるものです。人は完全に無意識であるときのみ、外界に全く気づきません。

では、マインドで経験するrūpaとは何でしょうか?これらがdhammaです! manañca paṭicca dhammē ca  uppajjat​​i manōviññāṇaṃ」というフレーズで述べたように、dhammāmana indriyaの接触がmanō viññānaにつながります。

 

6. The arising of viññāna due to different types of sense inputs is described in abhidhamma (and also in “Cha Chakka Sutta (MN 148)“) as:

cakkhuñca paṭicca rūpē ca uppajjati cakkhuviññāṇaṃ“,

sōtañca paṭicca saddē ca uppajjati sōtaviññāṇaṃ“,

ghānañca paṭicca gandhē ca uppajjati ghānaviññāṇaṃ “,

jivhañca paṭicca rasē ca uppajjati jivhāviññāṇaṃ”,

kāyañca paṭicca phōṭṭhabbē ca uppajjati kāyaviññāṇaṃ”, and

manañca paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ

  • Thus it is clear that manō viññāna arise when dhammā make contact with the mana indriya, just like cakku viññāna arise when (vanna) rūpa or light make contact with the cakku indriya (eyes) or sōta viññāna arise when sadda rūpa (sound waves) make contact with the sōta indriya (ears).

kāya viññāna result from contacts which are the most coarse (pottabba or touch due to dhātu), and manō viññāna result from the contacts that are extremely fine, dhamma.

 

6.異なるタイプの感覚入力によるviññānaの発生は、abhidhamma (およびCha Chakka Sutta (MN 148))で次のように説明されています。

cakkhuñca paṭicca rūpē ca uppajjat​​i cakkhuviññāṇaṃ」、

sōtañca paṭicca saddēca uppajjat​​i sōtaviññāṇaṃ」、

ghānañca paṭicca gandhē ca uppajjat​​i ghānaviññāṇaṃ」、

jivhañca paṭicca rasē ca uppajjat​​i jivhāviññāṇaṃ」、

kāyañca paṭicca phōṭṭhabbē ca uppajjat​​i kāyaviññāṇaṃ」、

manañca paṭicca dhammē ca uppajjat​​i manōviññāṇaṃ

したがって、dāmmāmana indriyaと接触すると、manōviññānaが生じると書かれています。 (vanna) rūpa すなわち光とcakku indriya(眼)が接触するとcakku viññānaが起こります。

またsadda rūpa(音波)が sōta indriya(耳)と接触するとsōta viññānaが起こります。

 

kāya viññānaは最も粗い接触(pottabbaすなわちdhātuとの接触)に起因し、manō viññānaは非常に微細なdhammaとの接触に起因します。

 

7. Thus, we can categorize our six types of contacts with the external world according to the “coarseness” of the contacts.

  • The body contacts (touch), taste, and smell are the coarse contacts; they involve direct touching (pottabba), and those involve solid particulates (taste and smell).
  • Vision involves light particles (photons) interacting with the physical eye. Light was not even considered a particle until Einstein, Compton and others proved that in the early 1920’s.
  • In the language of physics, sound involves phonons which have even less energy than light photons, i.e., they are “even softer”.

 

7.したがって、6つのタイプの外部世界との接触は、接触の「粗さ」に従って分類できます。

身体の接触(感触)、味、匂いは粗い接触です。それらは直接の接触(pottabba)を伴い、それらは固体粒子(味と匂い)を伴います。

視覚には光の粒子(光子)と肉眼との相互交流があります。アインシュタインまでは光は粒子だとは考えられておらず、Comptonたちが証明したのは1920年代のことです。

 

8. We can also see that the sense elements in the body also get less and less coarse in that order. It must be noted that the sensing elements in the ear are not the ear that we see, but very sensitive area deep inside the ear.

  • According to Buddha Dhamma (and confirmed by science), two things respond to each other and last longer when in heavy usage, if they have similar densities. For example, if a steel rod rubs against a wooden rod, the wooden rod will soon wear out. But two steel rods (or two wooden rods) can be rubbing against each for long times.

Thus going from touch, smell, taste, sight, and hearing, both the external influences — touch, tasty things, smells, light (photons), sound (phonons) — and the sense elements (body, tongue, nose, eyes, ears) become finer in that order.

 

8.また、体内の感覚要素もこの順序でますます粗くなくなることがわかります。耳の感知するところは、見えている耳ではなく、耳の奥にある非常に敏感な領域です。

Buddha Dhamma(および科学によって確認された)によると、2つのものが同じぐらいの密度を持っている場合には、相互に反応しあい、使用量が多い場合でも長持ちします。たとえば、スチールの棒が木製の棒とこすれた場合、木製の棒はすぐに摩耗します。しかし、2本のスチール製の棒(または2本の木製の棒)がお互いをこすっても長い間摩耗しません。

触覚、嗅覚、味覚、視覚、聴覚と外的影響である接触、味、匂い、光(光子)、音(フォノン)と感覚要素(体、舌、鼻、目、耳)の順序で粗大さから繊細になります。

 

9. The finest sensing element is the “mana indriya” which is inside the brain. It is likely to be one of the following: thalamus間脳の視床, amygdala小脳扁桃, or hippocampus海馬. I have not had enough time to investigate the functions of these sensitive elements of the brain, but  according to Buddha Dhamma, the “mana indriya” is inside the brain出典? and is analogous to the eyes or the ears; more details will become clear as we discuss below.

  • What come down in the legend as the “third eye” is this “mana indriya“. It is supposed to be located behind the forehead.
  • The rūpa that come into contact with the mana indriya are finer than a suddhāshtaka, and are still in the “gathi” stage, but they are on the way to become suddhāshtaka. They are not coarse enough to be “seeing” even with abhiññā powers, and do not make contact with other five coarse senses. Thus they are called, “anidassan appatighan dhammāyatana pariyāpanna rūpan“.

Here, “anidassana” means “cannot be seen” and “appatigha” means “cannot be touched or sensed with even the finest instrument”. And, “dhammayatana pariyāpanna rūpan” means “can make contact only with the dhammāyatana or mana indriya.

 

9.最も繊細な感覚要素は、脳内にある「mana indriya」です。物質としては次のいずれかである可能性があります:間脳​​の視床、小脳扁桃、もしくは海馬。これらの脳内の感覚機能を調査するのに十分な時間がありませんでしたが、Buddha Dhammaによると、「mana indriya」は脳の中にあり、目や耳に喩えられています。詳細については、以下で説明します。

「第三の目」の伝説に伝わるのは、この「mana indriya」です。それは額の裏側に位置することになっています。

mana indriyaと接触するrūpasuddhāshtakaよりも微細で、まだgatiの段階にありますが、suddhāshtakaになる途中です。それらはabhiññāの力でさえ「見える」ほどの粗さはなく、他の5つの粗い感覚とは接触しません。したがって、彼らは「anidassan appatighan dhammāyatana pariyāpanna rūpan」と呼ばれています。

ここで、「anidassana」は「見えない」ことを意味し、「appatigha」は「最高の器官でさえ感知できない」ことを意味します。また、「dhammayatana pariyā」、「dhammāyatana」はmana indriyaのこと、pannarūpanrupaとの唯一の接触」を意味します。

 

10. In the post, “The Origin of Matter – suddhāshtaka“, we discussed how the smallest material element, suddhāshtaka, is created by the mind with origins in four basic “gathi” of humans that arise due to avijja: “thada gathiya” (in Sinhala) means the “coarseness”, corresponding to patavi; “bandena gatiya” means the “bind together” which leads to liquidity corresponding to āpo; “thējas gatiya” means the “fiery or energetic”, corresponding to tējo; and,  “salena gatiya” means the “motion”, corresponding to vāyo.

craving for these material things lead to four more gathi due to tanhā: Due to our tendency to think highly (“varnanä karanava in Sinhala), another gathi of “varna” is created as different manifestations of the satara mahā bhūta. Similarly, three more units called gandha香り, rasa, and ōja are created due to tanhā corresponding to our desire to be in touch with them, keep them close (rassa), and to re-generate them.

 

10. The Origin of Matter – suddhāshtakaでは、avijja(無明)に起因する人間の4つの基本的な「gati」に由来するマインドによって、最小の物質の要素であるsuddhāshtakaがどのように作成されるかについて説明しました。 thada gathiya(シンハラ語)は、pataviに対応する「粗さ」を意味します。 bandena gatiya」とは、āpoに対応する流動性をもたらす「結合」を意味します。 thējas gatiya」は、tējoに対応する「燃えるような、すなわちエネルギッシュ」を意味します。そして、「salena gatiya」はvāyoに対応する「動き」を意味します。

これらの物質的なものへの渇望は、tanhāによるもう4つのgatiにつながります。

私たちの物事を抽象化する傾向によって、四大元素は違った物質化現象をして、他のvarnagathiが創造されます。

同様に、欲望と接触し、近くに置いておきたいと執着することで、再び生み出す渇望によって、

gandha香り, rasa,  ōja汁と呼ばれるさらに3つのユニットも創造されます。

 

11. Before these eight inseparable units solidify into what we call matter, there is the precursor前駆 stage of gathi: cultivation of gathi leads to bhūtawhich are in the suddhāshtaka stage. Further solidification of bhūta leads to mahā bhūta. The fine rūpa of brahmas are composed of mahā bhūta.

The gathi stage of rūpa — the origins of rūpa — are also called “manō rūpa: these are really what we visualize in our minds. We can visualize scenes from the past, and those are manō rūpa. In the process of making gathi, we constantly think about associated material things; those are manō rūpa.

 

11.これらの8つの不可分なユニットが私たちが物質と呼ぶものに固形化する前には、gatiの前駆的な段階があります。このgathiが育まれるとbhūtaになり、これがsuddhāshtakaのステージです。さらにbhūtaの固形化がmahā bhūtaにつながります。brahmasの繊細なrūpamahā bhūtaで構成されています。

rūpagati段階、すなわちrūpaの起源は、「manō rūpaとも呼ばれます。これらは、私たちがマインドで視覚化するものです。過去のシーンを視覚化することができますが、それがmanō rūpaです。 gathiを作成するプロセスでは、関連する物質的なものについて私たちは常に考えます。それらはmanō rūpaです。

 

12. mahā bhūta, upon further condensation, become dhātu. The bodies of devas are made of finer dhātu, and our bodies — as well as all material things we see — are composed of denser dhātu.

Therefore, the origins of all matter is gathi! But our gathi (of normal humans) actually do not lead to the formation of significant amounts of even suddhāshtaka. So, we still have a long way to go before we can explain how these solid objects in our world were formed as described in the Agganna Sutta.

 

12.mahābhūtaがさらに凝縮するとdhātuになります。devaの体はより細かいdhātuで構成されており、私たちの体は、私たちが見るすべての物質的なものと同様に、より密度の高いdhātuで構成されています。

したがって、すべてのモノの起源はgatiです!しかし、(普通の人間の)私たちのgatiは、実際にはかなりの量のsuddhāshtakaさえも形成しません。ですから、Agganna suttaで説明されているように、私たちの世界のこれらの固体対象がどのように形成されたかを説明する前に、まだ長い道のりがあります。

 

13. Just like the eye is receiving visual information or the ear the sounds, the “mana indriya” is receiving “dhammā. And dhammā are much finer than light or sound rūpa. In fact, all five physical senses deal with signals transmitted via solidified particles made out of suddhāshtakabut dhammā are just energy, below what we call “matter”. Actually, even most physicists do not consider light as matter or “particles”; I will write a post on why light photons are indeed particles according to quantum mechanics.

  • As we discussed in the post, “The Origin of Matter – suddhāshtaka“, even a single light particle (photon) is made of a very large number of suddhāshtaka.
  • As we discussed there, a  suddhāshtaka is made by the mind. Dhammā can be considered the early stages of a  suddhāshtakathey are in fact kammic energy packets made by the mind in javana citta,and arise due to our gathiThis is really the link between mind and matter!

 

13.目が視覚情報を、耳が音を受け取るように、「mana indriya」は「dhammā」を受け取ります。 dhammāは光や音のrūpaよりもずっと繊細です。実際、5つの物理感覚はすべて、suddhāshtakaから作られた固形化の一面も持つ粒子を介して送信される信号を処理しますが、dhammāは「モノ」と呼ばれていますが、単なるエネルギーです。実際、ほとんどの物理学者でさえ、光を物質すなわち「粒子」とは見なしていません。量子力学によると、光の光子が実際に粒子である理由についてのそのうちに説明します。

The Origin of Matter – suddhāshtakaで説明したように、単一の軽い粒子(光子)でも非常に多くのsuddhāshtakでできています。

そこで議論したように、suddhāshtakはマインドによって作られます。 Dhammāは、suddhāshtakaの初期段階と見なすことができます。それらは、実際にはjavana cittaのマインドによって作られたkammicエネルギーのパケットであり、私たちのgatiのために生じています。これは本当にマインドと物質の間のリンクです!

 

 

14. Therefore, all six senses allow our minds to interact with the material world. We actually interact with two worlds: the material world and the mind world or the manō thalaya.

  • Different types of rūpa (varna, gandha, rasa, ōja, pottabba) in our physical world (rūpa lōka) are built with suddhāshtakaDhammā or kamma beeja (in the manō lōka) are basically “energy packets” not yet solidified to the state of a suddhāshtaka.
  • The pancakkhandha of a living being has “components” from both worlds. The rūpakkhandha are our mental impressions of the material world (as mental records); see, “Pancakkhandha or Five Aggregates – A Misinterpreted Concept“. The other four khandha (vedana, sanna, sankhara, viññāna) are our mental impressions of the mind world.
  • Each and every living being is associated with its own pancakkhandhabecause one makes one’s own mental impressions. The Buddha said that one cannot define a living being with less that five khandhās.

To repeat: One’s pancakkhadha is not one’s body as is commonly described. It is not even physical. It is all mental: “Pancupādānakkhandha – It is All Mental“.

 

14.したがって、すべての6つの感覚によって、私たちのマインドが物質世界と相互作用することを可能にします。私たちは実際に、物質世界とマインドの世界、すなわちmanō thalaya(陸)という2つの世界と対話しています。

物理的世界(rūpa lōka)のさまざまなタイプのrūpavarnagandharasaōjapottabba)はsuddhāshtakaで構築されています。 Dhammāすなわちkamma beejamanō lōka内)は、基本的にはまだsuddhāshtakaの状態に固まっていない「エネルギーパケット」です。

生物のpancakkhandhaには、両方の世界の「構成要素」があります。 rūpa kkhandhaは、物質世界のメンタル的な印象です(メンタル記録として)。Pancakkhandha or Five Aggregates – A Misinterpreted Conceptを参照してください。他の4つのkhandhavedanasannasankharaviññāna)は、マインドの世界のメンタル的な印象です。

各生命体のそれぞれが自分だけのメンタル的印象を作るため、すべての生命体は自分自身のpancakkhandhaによって関連付けられています。

釈尊は、5つのkhandha以外で生き物を定義することはできないと言いました。

繰り返します:一般的に説明されているように、人のpancakkhandhaとはその人の体ではありません。それは物理的なものでさえありません。それはすべてメンタルです:Pancupādānakkhandha – It is All Mental

 

15. The creation of suddhāshtaka by the mind in javana citta, starts first by enhancing one’s gathi. As we will discuss in a future post on the “Asēvana Paccaya“, the more one does activities related to a given gathi, that gathi grows.

  • The growing of a gathi is really the accumulation of a kamma beeja (seed), and that is deposited in the kamma bhava in the mind plane. These are really dhamma that is in “manañca paṭicca dhammē ca uppajjati manōviññāṇaṃ“.
  • And they (dhamma or kamma beeja) can come back to one’s mind when the mind is in a receptive state for such a gathi. Thus it is a self-feeding feedback loop.
  • This is an important point to contemplate on. This is why a drunkard gets the urge to drink, or a gambler gets the urge to visit a casino. People who don’t have such gathi, do not get such urges because they do not have corresponding dhammā repeatedly coming back to impinge on the mana indriya.

By the way, as discussed in the “Living Dhamma” section, any such “bad gathi” can be reduced and eventually eliminated by a two-step method: (i) forcefully stop activities — and conscious thoughts about them — that contribute that gathi when one becomes aware DURING such an act OR a conscious thought, (ii) keep learning Buddha Dhamma to comprehend how that process can actually work (as discussed starting with basic fundamentals of Buddha Dhamma in the “Living Dhamma” section); one key aspect here to contemplate on the bad consequences of such actions/thoughts.

 

15. javana cittaのマインドによるsuddhāshtakaの創造は、まずgatiを高めることから始まります。今後「Asēvana Paccaya」のトピックで説明するように、特定のgatiに関連する活動を行うほど、gatiは成長します。

gatiの成長とは、実際にはkamma beeja(種子)の蓄積であり、それはマインド界のkamma bhavaに堆積します。これらは、manañca paicca dhammēca uppajjat​​i manōviññāa」にある本当にdhammaです

そして、dhammaすなわちkamma beejaは、マインドがそのようなgatiに対して受容状態にある時には、自分のマインドに戻ることができます。したがって、これは自己供給のフィードバック・ループです。

これは、熟慮すべき重要なポイントです。これが、酔っぱらいが飲みたい衝動を得たり、ギャンブラーがカジノを訪れる衝動を得たりする理由です。そのようなgatiを持っていない人は、対応するdhammāがないので、そのような衝動を感じません。そのようなdhammāがあると それが、mana indriyaに繰り返し戻る度に衝突し、それが衝動となります。 

ところで、Living Dhammaで説明したように、このような「悪いgati」は、2段階の方法で削減し、最終的に排除できます。

i)活動と意識している思考を強制的に停止します。

行動、つまり思考の最中に気づくことによってgatiに影響を与えます。

iiBuddha Dhammaを学び続け、そのプロセスが実際にどのように機能するかを理解する。(「Buddha Dhamma」の基本的な基礎から始める)。

このような行動/思考からくる悪い結果を熟考することが重要な視点の1つです。

 

16. To emphasize, dhammā arise due to kamma that we commit. The more kamma we do, the corresponding dhammā will grow, and become gathi.

  • Dhammā means “to bear”; one bears what one likes and what one engages in.

When one cultivates “dog gathi” that is what one bears. And that is what comes back to one’s mind at the cuti-patisandhi moment and can lead to the next bhava, and thus birth (jati) as a dog.

 

16. dhammāは私たちがコミットするkammaのために生じることを強調します。ます。kammaを増やすと、それにdhammāが対応して成長し、gathiになります。

dhammāは「産む」という意味です。好きなことや関わることを引き受けて、それが産まれてきます。

「犬のgati」を育む時、それは私たちが引き受けるものです。そして、それがcuti-patisandhiの瞬間に頭に浮かぶものであり、次のbhava、ひいては犬としての誕生(jati)につながります。

 

17. However, creation of a suddhāshtaka requires trillions of citta vithi running consecutively連続. Thus it does not happen significantly by a normal human being. It requires not only jhānas, but being able to get into samāpatthi. Those with abhiññā powers have the ability to get into samāpatti very quickly.

  • When in jhānascittas can still switch back to five physical senses in between. When one is in a jhāna, one can hear external sounds, for example.

However, when one is in a samāpatti, the jhānic cittas can flow unceasingly for long times. Thus, pancadvāra citta vithi cannot run in between, and thus one is totally unaware of the external environment when in samāpatti.

 

17.しかし、suddhāshtakaの生成には、連続して実行される数兆のcitta vithiが必要です。したがって、そのようなことは普通の人間ではあまり起こりません。jhānasだけでなく、samāpatthiに入ることが必要です。

samāpatthi  第9禅定であるnirodhasamāpattiのこと

abhiññāの力を持つ人々は、非常に迅速にsamāpatthiに入ることができます。

jhānasにいるとき、cittasはまだ両者の間にあって、物理的な五感に戻ることができます。jhānasに入っていても、例えば、外部の音を聞くことができます。

•しかし、samāpatthiにいるとき、jhānic cittaは長い間絶え間なく流れることができます。したがって、pancadvāra citta vithiはその間(時間?空間?)を流れることができません。したがって、samāpattiにいるときは外部環境にまったく気づくことができません。

pancadvāra  5感覚器官との扉    ここが閉じると、外部からの信号が途絶える

 

18. Furthermore, when in samāpatti jhānic citta flow unceasingly and make each new  javana citta stronger than the predecessor前任 with the  “Asēvana Paccaya“. We will discuss this in detail in the future.

This is how those with abhiññā powers (i.e., who can easily get into samāpatti and have practiced it well) can even make physical objects: One can start off with a picture of a flower in one’s mind and then by creating more and more suddhāshtaka with each new javana citta, create an actual flower in a very short time!

 

18.さらに、samāpattiの場合、jhānic cittaは絶え間なく流れ、それぞれの新しいjavana cittaを「Asēvana Paccaya」の前よりも強くします。これについてはそのうちに詳しく説明します

これは、abhiññāの力を持つ人(つまり、容易にsamāpattiに入り、それをうまく実践できる人)が物理的なモノを作成する方法です。写真の花をマインドでイメージすることからはじめ、新しいjavana cittaごとにsuddhāshtakaを次々に創造し、非常に短時間で実際の花を生成します。

 

19. Finally, dhamma in the nāma lōka are the same as those  viññana established in the kamma bhava. This is a subtle point; see, “Viññāna Aggregate“.

  • Dhamma or viññana are called anidassana, appatigha rūpa (rupa that cannot be seen or made contact with) and they are just energies lying below the  suddhashtaka stage; see, “Anidassana Viññāa – What It Really Means“.
  • kamma bhava is the same as the nāma lōkaDhamma in the  nāma lōka are the same as viññana that are established in the kamma bhava.; see, “Our Two Worlds : Material and Mental“.

 

19.最後に、nāma lōkadhammakamma bhavaで確立されたviññanaと同じです。これは微妙な点です。 Viññāna Aggregateを参照してください。

Dhammaすなわちanidassana と呼ばれるviññanaは、appatigha rūpa(見えない、または接触できないrūpa)と呼ばれ、suddhashtakaステージの下にあるエネルギーです。Anidassana Viññāṇa – What It Really Meansを参照してください。

kamma bhavanāma lōkaと同じです。 nāma lōkaDhammaは、kamma bhavaで確立されたviññanaと同じです。Our Two Worlds : Material and Mentalを参照してください。

 

 

 

 

 

 

Difference Between Dhammā and Saṅkhāra

Revised March 22, 2017; April 17, 2017; November 5, 2017; July 19, 2018; August 9, 2019; January 11, 2020

Introduction

We will discuss the difference between saṅkhārasankata, and dhammā. Some of the descriptions given here are not compatible with meanings given in many current  Theravada texts. However, they are fully compatible with the Tipiṭaka. Please send me a comment ([email protected]) if you find evidence to the contrary.

  • First, it is essential to remember that the word “dhamma” can mean somewhat different things in different contexts. In “Buddha Dhamma,” it means the “Buddha’s teachings.”
  • Dhammā (with a long “a” at the end) is mostly used to indicate energy created by the mind. It is also called a kamma bija.
  • But “sabbe dhammā” in sabbe dhammā anattā” includes everything, all phenomena belonging to this world of 31 realms. Nibbāna is not in this world, as discussed below.

I always give links to other posts. It is not necessary to read them, but if one needs more information or clarification, one should read them. That will make the concept “really sink in.”

 

sakhārasankatadhammāの違いについて説明します。ここに記載されている説明の一部は、現在の多くの上座部テキストに記載されている意味と互換性がありません。ただしTipiakaと完全に互換性があります。反対の証拠が見つかった場合は、コメント([電子メール保護])を送ってください。

•まず、「dhamma」という言葉は、状況によって多少異なることを意味する場合があることを覚えておくことが重要です。 「仏法Buddha Dhamma」では、「仏の教え」を意味します。

Dhammā(末尾に長い「a」が付いている)は、主に心が生み出したエネルギーを示すために使用されます。kamma bijaとも呼ばれます。

•しかし、「sabbe dhammā anattā」の「sabbe dhammā」には、31の領域のこの世界に属するすべての現象が含まれます。後述するようにNibbānaはこの世界ではありません。

•私は常に他のトピックへのリンクを提供します。それらを読む必要はありませんが、さらに情報や説明が必要な場合は、読む必要があります。それによってコンセプトが「腑に落ちます」。

 

Famous Dhammapada verses

1. There is confusion about the terms saṅkhāra and dhammā in the Dhammapada verses 277,278, and 279; the first lines in those three verses are:

  • Sabbē saṅkhāra aniccā or “all saṅkhāra are anicca (things cannot be maintained to one’s satisfaction in the long run). A better way to say it is that it is futile to make plans for such things in the long term. Of course, we must make plans for the necessary items to live this life.
  • Sabbē saṅkhāra dukkhā or “all saṅkhāra eventually lead to dukkha (suffering).”

Sabbē dhammā anattā or “all dhammā are without substance (not fruitful) at the end.”

 

有名な Dhammapadaの節

1. Dhammapada277278、および279節では、sakhāraおよびdhammāという用語について混乱があります。これらの3節の最初の行は次のとおりです。

•「Sabbē sakhāra aniccā」すなわち「すべてのsakhāraaniccaです(長期的には満足のいくものを維持できません)。より良い言い方をすれば、そのようなことを長期的に計画するのは無駄だということです。もちろん、私たちはこの生活を送るために必要なアイテムの計画を立てる必要があります。

•「Sabbē sakhāra dukkhā」すなわち「すべてのsakhāraは最終的にdukkha(苦しみ)につながります。」

•「Sabbē dhammā anattā」すなわち「すべてのdhammāは、最後に実体がありません(実りがありません)。」

 

Sankhārā Are Our Thoughts

2. Sankhārā are involved in thinking, speaking, and acting based on our intentions, hopes, and dreams. It is essential to realize that sankhārā are our current thoughts.

  • Sankhāra” include all three types (kāya saṅkhāra, vaci saṅkhāramanō saṅkhāra) that lead to any action, speech, or just thought (in that order). They all arise in citta (our thoughts).
  • We say “Hello” to someone with vaci saṅkhāra. If we walk from the living room to the kitchen to get a drink, that is done with kāya saṅkhāra. But those do not initiate kamma vipāka and are kammically neutral. But if we verbally abuse someone, that is done with strong vaci saṅkhāra (abhisaṅkhāra), and that will have kamma vipāka.

More on saṅkhāra at, “Saṅkhāra – What It Really Means.”

 

Sankhārāとは私たちの考えのこと

2.Sankhārāは、私たちの意図、希望、夢に基づいて考え、話し、行動することに関与しています。

sankhārāとは「私たちの現在の考えである」ことを認識することが不可欠です。

•「sankhārā」には、アクション、スピーチ、思考(この順序で)につながる3つのタイプ(kāyasakhāravacisakhāramanōsakhāra)がすべて含まれます。それらはすべてcitta(想い、考え)で発生します。

vacisakhāraで人に「こんにちは」と言います。リビングルームからキッチンまで歩いて水を飲む場合、それはkāyasakhāraで行われます。しかし、それらはkammavipākaを開始せず、kammのエネルギーはありません。しかし、誰かを言葉で虐待する場合、それは強力なvacisakhāraabhisakhāra)で行われ、それはkammavipākaになります。

sakhāraの詳細についてはSaṅkhāra – What It Really Means

 

Saṅkhāra Give Rise to Sankata

3. Those saṅkhāra (or abhisaṅkhāra) that we generate may lead to the arising of an inert object or a living form. It leads to the arising of a sankata.

If one comes up with the idea of building a house, then the following steps may happen. He will carefully think about it (manō saṅkhāra, vaci saṅkhāra) and may talk about it with others (vaci saṅkhāra). If he decides to do it, then he may take actions (kāya saṅkhāra) to make it happen. In this case, our saṅkhāra gave rise to a house, and that house is a sankata.

 

SakhSanraSankataを発生させる

3.私たちが生成するこれらのsakhāra(またはabhisakhāra)は、不活性な対象または生きている形態の発生につながる可能性があります。それがsankataの発生につながりることになります。

•家を建てるというアイデアを思いついた場合、次の手順が発生する可能性があります。彼はそれについて注意深く考え(manōsakhāravacisakhāra)、それについて他の人(vacisakhāra)と話すかもしれません。彼がそれをすることに決めた場合、彼はそれを実現するために行動を起こすかもしれない(kāyasakhāra)。この場合、私たちのsakhāraは家を生み出し、その家がsankataになります。

 

4. When we do something with the body (i.e., body movement), that is controlled by kāya saṅkhāra that arise in our minds.

  • We are not robots (most lower animals are like robots). We can control our thoughts, speech, and actions. Sometimes we may do things automatically. But if we want to, we can change our speech or actions. Just try it out.
  • When we speak or talk to ourselves, that involves vaci saṅkhāra; those also arise in our minds; see, “Correct Meaning of Vacī Saṅkhāra.”

Mano saṅkhāra are thoughts that arise automatically (due to kamma vipāka and also our “gati“).

 

4.体で何かをするとき(つまり、体の動き)、それはマインドの中で発生するkāya sakhāraによってコントロールされます。

•私たちはロボットではありません(ほとんどの下等な動物はロボットのようなものです)。私たちは自分の考え、スピーチ、行動をコントロールできます。時には自動的に物事を行うことがあります。ただし、必要に応じて、スピーチやアクションを変更できます。試してみればできることがわかります。

•私たちが自分自身と話したりするとき、それはvaci sakhāraが関与します。それらも私たちのマインドの中で起こります。Correct Meaning of Vacī Saṅkhāraを参照してください。

Manosakhāraは(kammavipākaと各自のgatiによって)自動的に発生する「想い」のことです。

 

5. Building a house in #3 above may not involve moral/immoral intentions. One may not generate strong saṅkhāra (called abhisaṅkhāra) that can create kamma bija (dhammā), that can bring kamma vipāka in the future. Building a house is just a kammically-neutral action.

  • However, planning to kill a human, for example, involves manō saṅkhāra and vaci saṅkhāra (in the planning stage) and then doing it with kāya saṅkhāra.

In this case, all those saṅkhāra are abhisaṅkhāra, that can bring future bad kamma vipāka, in the form of rebirth in the apāyā, which includes the animal realm.

 

5.上記#3で家を建てることは、道徳的/不道徳な意図は関与していないでしょう。将来的にkamma vipākaをもたらす可能性のあるkamma bijadhammā)を生成する可能性のある強いahāāraabhisakhāraと呼ばれる)を生成することはできません。家を建てることは、カルマ・エネルギーとしては単なる中立的な行動です。

•ただし、たとえば、人間を殺す計画には、manōsakhāravacisakhāra(計画段階)が含まれ、その後kāyasakhāraでそれを実行します。

•この場合、それらすべてのsakhāraabhisakhāraであり、動物界を含むapāyāでの転生という形で、将来の悪いkammavipākaをもたらす可能性があります。

 

Abhisaṅkhāra Are Strong Saṅkhāra

6. Abhisaṅkhāra (potent or strong saṅkhāra) give rise to kamma bija, which are also part of dhammā. These are energies that were created by javana cittasee, “Javana of a Citta – The Root of Mental Power.” They can bring kamma vipāka.

  • However, some dhammā do not have energies (for example, nāma gotta, which are just memory records are also dhammā).
  • At the moment of death, such a strong kamma bija or a dhammā comes to the mind via “manañca paṭicca dhammē ca uppajjāti manōviññāṇaṃ.” That new viññāna is the patisandhi viññāna for the new life; see, “What are rūpa? – Dhammā are rūpa too!“.

Therefore, now a new life is formed as a result of that abhisaṅkhāra. This new lifeform is also a sankata because it arose due to that abhisaṅkhāra.

 

Abhisakhāraは強いSakhāraです

6.Abhisakhāra(力を持つ、すなわち強いsakhāra)は、dhammāの一部でもあるkamma bijaを引き起こします。これらは、javana cittaによって作成されたエネルギーです。Javana of a Citta – The Root of Mental Powerを参照してください。kamma bijakammavipākaをもたらすことができます。

•ただし、一部のdhammāにはエネルギーがありません(たとえば、nāmagotta。これは単なる記憶の記録でもあるdhammāです)。

•死の瞬間、そのような強いkamma bija Dhammaは“manañca paicca dhammē ca uppajjāti manōviññāa.”を介して頭に浮かびます。その新しいviññānaが新しい人生のpatisandh viññānaです。

What are rūpa? – Dhammā are rūpa too!

•したがって、そのabhisakhāraの結果として、新しい人生が形成されます。そのabhisakhāraのために生じた新しい生命体はsankataでもあります

 

7. That sankata came to existence because of that abhisaṅkhāra during that immoral act. It came to life at a later time via kamma vipāka

  • Moral abhisaṅkhāra or puñña abhisaṅkhāra lead to good kamma bija/dhammā that will lead to good rebirths (in human, dēva, and Brahma realms).
  • Immoral abhisaṅkhāra or apuñña abhisaṅkhāra lead to bad kamma bija/dhammā that will lead to unfortunate rebirths (in the apāyās).
  • That is the link between mind and matter. Aabhisaṅkhāra that arose in mind led to the sankata, which is a rūpa (made of inert matter).

That house in #3 was built using existing rūpa. But it is also possible to “create” new matter if one has abhiññā powers. Both are called sankata.

 

7.その不道徳な行為の最中に、そのabhisakhāraのためにそのsankataが誕生しました。それはkammavipākaを介して後に生まれたのです。

•道徳的なabhisakhāraすなわちpuññaabhisakhāraは、良好なkamma bija /dhammāにつながり、人間、dēva、およびBrahmaの領域での良好な転生につながります。

•不道徳なabhisakhāraすなわちapuññaabhisakhāraは不良なkamma bija /dhammāにつながり、(apāyāsでの)不幸な転生につながります。

•それが心と物質のつながりです。心に浮かんだabhisakhārarūpa(不活性物質でできている)であるsankataにつながった。

•#3の家は既存のrūpaを使って建てられました。しかし、abhiññāのパワーがあれば、新しい物質を「創造」することもできます。どちらもsankataと呼ばれています。

 

All Rūpa Are Sankata

8. Any rūpa (including visible objects, sounds, smells, tastes, and body touches) that we experience in this world is a sankata, and they all undergo unpredictable change and eventually are destroyed; see, “Root Cause of Anicca – Five Stages of a Sankata.”

  • The point is that we make our future via our actions, speech, and thoughts; these are (abhi)saṅkhāra.
  • However, any of these new sankata will not last forever. Even if one is born in dēva or Brahma realms, that kammic energy will run out one day. Then one will be directed to the next birth depending on the most potent kamma bija/dhammā present at that time.

The only difference is that one will be subjected to much suffering in the apāyā, while one will get to enjoy a “good life” in a higher realm. We all have been going through this “unending journey through most of the 31 realms,” which does not have a traceable beginning.

 

すべてRūpaSankata

8.私たちがこの世界で経験するすべてのrūpa(目に見える物体、音、臭い、味、身体の接触を含む)はsankataであり、それらはすべて予測できない変化を受け、最終的には破壊されます。

Root Cause of Anicca – Five Stages of a Sankataを参照してください。

•重要なのは、行動、スピーチ、思考を通じて私たちは未来を作っているということです。これらは(abhisakhāraです。

•ただし、これらの新しいsankataのどれもが永続することはありません。dēvaBrahmaの領域で生まれたとしても、そのカンマのエネルギーはいつかなくなるでしょう。次に、その時点で存在する最も力を持つkamma bija /dhammāに応じて、次の誕生に誘導されます。

•唯一の違いは、人はより高い領域で「良い生活」を享受できるようになる一方で、他方はapāyā,で多くの苦しみを受けることになります。私たちは皆、「31の領域のほとんどを通る終わりのない旅」を経験してきました。

 

No Rūpa (Sankata)Can Be Maintained in the Way We Like

9. Another critical point is that the net result of all these “journeys through various realms” is suffering. That is because we tend to do more immoral things in “seeking pleasure” and are born mostly in the apāyā.

  • Any sankata that we make for ourselves (whether it is a house or a new life in the dēva realm) that cannot be maintained to our satisfaction in the long run. The home will need repairs, and may even get burned down or flooded. A new life in the dēva realm will end one day, and one will be back to square one.

That is why it is said that “Sabbē saṅkhāra aniccā.” It is there because any sankata (that arise due to abhisaṅkhāra) has a finite lifetime, and is subjected to unexpected changes (viparināma) during that existence.

 

RūpaSankata)で好きように維持できるものはない

9.もう1つの重要な点は、これらすべての「さまざまな領域の旅」の最終結果が苦しみであることです。それは、私たちが「喜びを求める」ことでより不道徳なことをする傾向があり、主にapāyāで転生するからです。

•私たちが自分のために作ったいかなるsankata(家であれ、dēva領域での新しい生活であれ)は、長期的には満足を維持できません。家は修理が必要で、焼失したり浸水したりすることもあります。 dēvaの領域での新しい生活はいつかは終わり、ふりだしに戻ります。

•それが「Sabbē sakhāra aniccā」と言われている理由です。そこにあるのは(abhisaarisekhāraによって発生する)いかなるsankataには有限の寿命があり、その存在中に予期しない変更(viparināma)を受けるためです。

 

That Anicca Nature Leads to Suffering

10. When we don’t get to maintain things to our satisfaction, we suffer. Even if one makes a billion dollars, and has a lovely family, one will have to leave all that behind when one dies. But even before that, there could be many other instances where one suffers (deaths of friends/family, diseases, loss of property, etc.). That is the viparināma nature that arises due to anicca nature.

  • And the root cause of that suffering is saṅkhāra (more correctly abhisaṅkhāra). That is why it is said, “Sabbē saṅkhāra dukkhā.”

Again, sankhārā are our CURRENT thoughts; as soon as those thoughts go to the past, they become nāma gotta or memories.

 

Aniccaの性質が苦しみを導く

10.物事を満足するように維持できなくなると、苦しみます。たとえ10億ドルを稼いでいて、素敵な家族がいるとしても、人が亡くなったとき、そのすべてを残さなければなりません。しかし、その以前でさえ、他の多くのケースで苦しむ可能性はあります(友人/家族の死、病気、財産の喪失など)。それはaniccaの性質のために発生するviparināmaの性質です。

•そして、その苦しみの根本的な原因はsakhāra(より正確にはabhisakhāra)です。 Sabb Sasakhāra dukkhā」と言われるのはそのためです。

•繰り返しますが、sankhārāは現在の考えです。それらの考えが過去に行くとすぐに、それらは、nāma gottaすなわち記憶になります。

 

11. The only thing not destroyed is nāma gotta, which are just records of “all events” (saṅkhāra and abhisaṅkhāra) of any given lifestream; see, “What Reincarnates? – Concept of a Lifestream“.

All these different terms could be confusing at first. They will all make sense eventually, because they are all pieces of a big puzzle.

 

11.破壊されないのはnāmagottaだけです。これは各々の生命流動体の「すべてのイベント」(sakhāraおよびabhisakhāra)の単なる記録です。What Reincarnates? – Concept of a Lifestream

•これらすべての異なる用語は、最初は混乱する可能性があります。それらはすべて大きなパズルのピースなので、最終的にはすべて意味をなすでしょう。

 

Nibbāna Not Included in dhammā

12. Ven. Walpola Rahula Thero, in his famous and otherwise excellent book, “What the Buddha Taught,” did not get it right when he interpreted those verses. He included Nibbāna in dhammā (p. 57 of 1974 edition). He took the difference between dhammā and saṅkhāra to be Nibbāna.

  • But as you can see, saṅkhāra and dhammā are two different entities. Saṅkhāra is what we generate in our minds.
  • Strong saṅkhāra or abhisaṅkhāra lead to the creation of kammic energy, and that is a dhammā or a kamma bija.

However, there are many dhammā other than kamma bija, and the only abhisaṅkhāra lead to kamma bijaBut both saṅkhāra or abhisaṅkhāra lead to memory records or nāma gotta. Alsodhammā includes concepts and even Buddha Dhamma.

 

Nibbānaにはdhammāがありません

12. Walpola Rahula Thero尊者は、彼の有名で優れた本「仏が教えたこと」で、ある節の解釈を正しく理解していませんでした。それはdhammāの中にNibbānaがあると解釈していました。(1974年版の57ページ)。彼は Dhammasakhāraの違いをNibbānaと考えました。

•ご覧のとおり、sakhāradhammā2つの異なる独立体です。 Sakhāraは心の中で生成されるものです。

•強いsakhāraまたはabhisakhāraはカルマ・エネルギーの創造につながり、それはdhammāすなわちkamma bijaです。

kamma bija以外にも多くの Dhammāがありますが、abhisakhāraだけがkamma bijaにつながっています。しかし、sakhāraabhisakhāraはどちらも記憶の記録すなわちnāmagottaにつながります。また、dhammāは概念、さらには仏法も含みます。

 

13. Furthermore, Nibbāna does not belong to this world. Therefore, to say Nibbāna is anatta is a terrible mistake. There are four ultimate realities (paramatthathō): Thoughts (citta), mental factors (cētasika), matter (rūpa), and Nibbāna

  • Everything “in this world” can be described in terms of the first three. Nibbāna does not belong to “this world”.

Furthermore, anatta is also mistranslated as just “no-self.” The problems with the traditional interpretation of anicca, dukkha, anatta discussed in “Anicca, Dukka, Anatta – Wrong Interpretations.”

 

さらに、Nibbānaはこの世界に属していません。したがってNibbānaanattaであると言うのは恐ろしい間違いです。 4つの究極の現実(paramatthathō)があります。思考(citta)、メンタルの要因(cētasika)、物質(rūpa)、およびNibbāna

•「この世界のすべて」は、最初の3つで説明できます。Nibbānaは「この世界」に属していません。

•さらに、anattaも単なる「無我」と誤解されています。 aniccadukkhaanattaの伝統的な解釈の問題は、Anicca, Dukka, Anatta – Wrong Interpretationsで説明されています。

 

Nāma Gotta are Permanent

14. When we do abhisaṅkhāra (strong types of saṅkhāra), that lead to the formation of good or bad kamma bija, or dhammā. That strong kamma bija can lead to the arising of a sankata (living beings and even inert things).

And nāma gotta (pronounced “nāma goththā”) are just records of what happened.

 

NāmaGottaは永続する

14.私たちがabhisakhāra(強いタイプのsakhāra)をするとき、それは良いまたは悪いkamma bija、すなわちDhammaの形成につながります。その強いkammabijaは、sankata(生き物や不活性なもの)の発生につながる可能性があります

nāmagotta(発音は「n gomagoththā」)は、何が起こったのかについての単なる記録です。

 

15. Unlike saṅkhāra, kamma bija, and sankatanāma gotta are PERMANENT (they are only records). As stated in the “Najīrati Sutta (SN 1.76)“: “Rūpaṃ jīrati maccānaṃnāmagottaṃ na jīrati,” or “material things decay and get destroyed, but nāmagotta do not decay.”

  • That is why someone with abhiññā powers can go back at any point in time to recall past events; also see, “Recent Evidence for Unbroken Memory Records (HSAM).”
  • Whenever we do something (a saṅkhāra), a “record” (“nāma gotta“) of it is made. Thus for a given sentient being, a record of all activities from the beginning-less time survives and is one’s nāma gotta. All previous lives and all activities of past lives are in that “record stream,” like a movie reel (not physical, of course).

Someone who has developed abhiññā through anariya jhānā can trace back that nāma gottā for several past lives. But with well-developed abhiññā powers, a much deeper history can be probed. A Buddha can trace back as far back as he pleases with astonishing speed. (Yet he could not see “a beginning” to any sentient being’s nāma gotta. That is why there is no traceable beginning to the rebirth process.)

 

15.sakhārakamma bijasankataとは異なり、nāmagottaは永続します(これらは単なる記録です)。

Najīrati Sutta (SN 1.76)で「Rūpajīrati maccānanāmagotta na jīrati」すなわち「物質エネルギーは崩壊して消滅しますが、nāmagottaは崩壊しません。」

•そのため、abhiññāのパワーを持つ者は、いつでも過去の出来事を呼び出すことができます。

Recent Evidence for Unbroken Memory Records (HSAM)も参照してください。

•何かを実行する(sakhāra )たびに、その「記録」nāmagottaが作成されます。したがって、各々の感覚体は、始まりのない時間からのすべての活動の記録があり、それがnāmagottaです。すべての過去世と過去のすべての活動は、映画のリール(もちろん、物理的ではない)のように、「記録の流れ」になっています。

anariya jhānāを通じてabhiññāを開発した人は、いくつかの過去世のnāmagottāをたどることができます。しかし、よく発達したabhiññā力を使用すると、はるかに深い歴史を探ることができます。釈尊は驚くほどの速さで好きなところまでさかのぼることができます。 (しかし、彼はどの感覚体のnāmagotta にも「始まり」を見ることができませんでした。そのため転生プロセスには追跡可能な始まりがありません。)

 

16. It is easier to explain this “nāma gotta” with an example. Let us take two popular US presidents, John Kennedy, and Ronald Reagan. Their “physical bodies” are no longer with us, i.e., their “rūpa” or physical bodies (which were sankata) decayed long ago. But their nāma gotta are with us to a certain extent. How much of their memories or “nāma gotta” remains with a given person depends on how closely that person associated with them. The moment we say, “John Kennedy” or “Ronald Reagan,” their picture comes to our mind. Not only that, those who met them may remember that vividly and probably can recall that event just like watching a movie.

  • Similarly, we can recall many of the “events” of our lives or parts of our “nāma gotta“; some young children can remember some events in their “nāma gotta” in their previous lives.

What can be done with abhiññā powers is very similar. The abhiññā capabilities enormously stretch the memory or the ability to “look back” at past events in one’s nāma gotta.

 

16.このnāmagottaを例に説明すると簡単です。2人の人気のあるアメリカ大統領ジョン・ケネディとロナルド・レーガンを取り上げましょう。彼らの「肉体」はもはや私たちの世界にはありません。つまりrūpaすなわち肉体はsankataとして、とっくの昔に消滅しました。しかし、彼らのnāmagottaはある程度までは私たちと一緒です。彼らの記憶すなわちnāmagottaがどれだけ残っているかは、各自が彼らとどの程度密接に関連しているかによって異なります。ジョン・ケネディやロナルド・レーガンと言った瞬間に、彼らのイメージが思い浮かびます。それだけでなく、彼らに会った人は、映画を見ているように、その出来事を鮮やかに、そしておそらく思い出すことができます。

•同様に、私たちは私たちの生活の多くの「出来事」すなわちnāmagottaの一部を思い出すことができます。一部の幼い子供は、前世のnāmagottaであるいくつかの出来事を覚えています。

abhiññāの力で実行できることはこれに非常に似ています。 abhiññāの機能は、記憶すなわち、nāmagottaにある過去のイベントを振り返る能力を非常に拡張します。

 

Anatta Nature

17. We are subjected to suffering because we make saṅkhāra (or plans), and since they do not work out in the LONG RUN. Therefore, those saṅkhāra lead to dukkha at the end, and thus to helplessness in the long run (anatta).

  • But nāma gotta or other types of dhammā does not lead to suffering. Therefore,  dhammā do not have the characteristics of anicca and dukkha.

But there is nothing substantial to be had with dhammā too; they are also anatta.

 

Anattaの性質

17.私たちは、sakhāra(すなわち計画)を作成しますが、長期にわたってはうまく機能しないので、苦しみを受けています。したがって、それらのsakhāraは最後にdukkhaにつながり、結果的に長期的には助けになりません。(anatta)。

•しかし、nāmagotta、すなわち他のタイプのdhammāは苦しみにはつながりません。したがってdhammāにはaniccadukkhaの特性はありません。

•しかし、dhammāに本質的に必要なものは何もありません。それらも彼らもanattaです。

 

18. The Buddha’s last words were, “Vaya dhammā saṅkhāra, appamādena sampādēta.” Everything in this world (including saṅkhāra) is dhammā. Only “saṅkhāra are vaya dhammā, i.e., those that lead to one’s demise (i.e., lead to adverse outcomes). Therefore, the Buddha instructed us to “sort out such ‘san without delay” (“san” “pādēta,” which rhymes as “sampādēta“).

  • Vaya” means destruction; here, it means leading to the destruction of one’s future: saṅkhāra are vaya dhammā.
  • Sankhārā are those these three types (manō, vaci, and kāya saṅkhāra) that lead to “san” for extending sansāra; see, “What is “San”? – Meaning of Sansara (or Samsara)“.

Thus the Buddha was admonishing the bhikkhus that all saṅkhāra are “vaya dhammā” (those leading to adverse outcomes), and therefore to comprehend what saṅkhāra are.

 

18.釈尊の最後の言葉は、「Vaya dhammā sakhāraappamādena sampādēta」でした。この世界のすべて(sakhāraを含む)はdhammāです。そしてsakhāravaya dhammā、すなわち、終焉につながる(つまり、悪い結果につながる)だけです。したがって、釈尊は私たちに「そのようなsanを遅滞なく整理するように」と指示しました(「san」+「pādēta」は「sampādēta」と韻を踏みます)。

•「vaya」は破壊を意味します。ここでは、自分の未来を破壊することを意味します。sakhāra とはvaya dhammāなのです。

Sankhārāには3つのタイプ(manōvacikāyasakhāra)があり、sansāraを拡張するための「san」につながります。What is “San”? – Meaning of Sansara (or Samsara)

•したがって、釈尊はすべてのsakhāravaya Dhamma(有害な結果をもたらすもの)であること、したがって、sakhāraが何であるかを理解することを比丘たちに警告していました。

 

19. In the “Najirati Sutta (SN 1.76)“, the nature of nāma gotta is clearly stated:

  • Rūpaṃ jīrati maccānaṃ, nāmagottaṃ na jīrati,” or, “material things are subject to decay or jirati (pronounced “jeerathi“) and death or destruction (maccanam; pronounced ‘machchānam”), but nāma gotta do not decay.

The “rūpa” of those two US presidents we mentioned earlier have decayed and gone. But their nāma gotta remain with us. We can access our nāma gotta with memory. Someone with abhiññā powers can look at a complete nāma gotta not only spanning a current life but also going back to many lives. All of our nāma gotta, back to beginning-less time, are there whether accessed or not.

 

19. Najirati Sutta (SN 1.76)では、nāmagottaの性質が明確に述べられています。

•「Rūpajīrati maccānanāmagotta na jīrati」すなわち「物質エネルギーは崩壊し、死すなわち破壊しますが、nāma gottaは崩壊することはありません。

•前に述べた2人の米国大統領のrūpaは老朽し、なくなっています。しかし、彼らのnāmaは私たちに残ります。私達は記憶で各自のnāmagottaにアクセスできます。 abhiññāの力を持つ人は、現世だけでなく、多くの過去世に戻ることができる完全なnāmagotta を見ることができます。私たちのすべてのnāmagotta は、アクセスの有無にかかわらず、始まりのない時間に戻っていきます。

 

20. Dhammā — in the general sense –are causes that we create ourselves for the future and will bring NET suffering. Thus, they are without any substance. Nāma gotta and paññāti or concepts are also without any substance. They are all anatta. There is no point in “hanging on to them.”

  • Even Buddha Dhamma, which enables us to attain Nibbāna, should ultimately be abandoned (at Arahanthood). The Buddha compared Buddha Dhamma to a raft that one uses to cross a river. Once one crosses the river, there is no point in carrying the raft on one’s back. So, even Buddha Dhamma is of value only until one reaches Nibbāna.
  • Only Nibbāna, which is attained by “giving up EVERYTHING in this material world” is atta or “of value”; see, “Anatta – the Opposite of Which Atta?” and “Dasa Akusala and Anatta – The Critical Link.”

More information on the connection between dhammā, kamma bīja, and patisandhi viññāna is at, “Dhammā, Kamma, Sakhāra, Mind – Critical Connections.”

 

20. 一般的な意味では、Dhammāは、私たちが未来のために自分自身を作成し​​、最終的には苦痛をもたらす原因です。したがって、それらには実質がありません。 Nāmagottapaññātiすなわち概念にも実質はありません。それらはすべてanattaです。 それらに「掴まっても」意味がありません。

Nibbānaを達成することを可能にするBuddha Dhammaでさえ、最終的に(Arahanthoodで)放棄されるべきです。ブッダは、仏法を川を渡るのに使用するいかだと比較しました。川を渡ると、いかだを背負っていても意味がありません。ですから、仏法でさえ、Nibbānaに到達するまでの価値しかありません。

 

パーリ仏典経蔵中部第22経『蛇喩経』: Alagaddūpama-sutta,      

筏は法dammaの喩えで、涅槃という目的の達成のために法に依拠すべきであるが、目的達成後は法を捨て去るべきであり、法に執着してはならないと説く

パーリ語経典長部の『大般涅槃経』Mahaaparinibbaana Sutta(nta)

川は渇愛(ta)、筏や橋は聖道(ariyamagga)の隠喩

 

•「この物質的な世界のすべてをあきらめる」ことによって達成されるNibbānaのみが、attaすなわち「価値のある」ものです。Anatta – the Opposite of Which Atta? Dasa Akusala and Anatta – The Critical Linkを参照してください。

dhammākammabīja、およびpatisandhi viññānaの間の関係性の詳細についてはDhammā, Kamma, Saṅkhāra, Mind – Critical Connectionsを参照してください。

 

 

Manōpubbangamā Dhammā..

May 5, 2018; revised August 22, 2019; November 17, 2019

Manō pubbangamā dhammā            Manō pubbangamā dhammā  
manō setthā manōmayā                 manō setthā manōmayā
manasā padutthēna                   manasā pasannēna

bhāsati karoti                       bhāsati karoti
tatō nam dukkhamanvēti                tatō nam sukhamanvēti
cakkamva vahatō padam.   
           chāyāva anapāyani.

(Dhammapada verses 1 and 2)

1. These two verses encompass the critical idea in Buddha Dhamma: That mind is at the forefront. This whole world is made of the mind and has the mind as the basis for everything.

  •  Manō is, of course, the mind.  Dhammā (plural, not Buddha Dhamma) are the energies that the mind generates (via javana power.) Dhammā means “to bear” meaning “everything arises due to Dhammā.
  • Those dhammā then give rise to everything (all phenomena) in this world – whether living or inert. This analysis can go to profound levels. For the basis of that analysis, see, “What are rūpa? – Dhammā are rūpa too!“.
  • Pubbangama (pubba + anga) means what comes first. The first line (in both verses) says the mind creates all dhammā that give rise to everything in this world. The second line says, everything is prepared (settā) and is a manifestation of the mind (manōmayā).

The mind creates those Dhammā with thoughts (saṅkhāra.) That requires a lengthy explanation: “Worldview of the Buddha.”

 

1.この2つの節は、仏法の重要な考え方を網羅しています。マインドが最前線だと説いています。

この全世界はマインドから成り立っており、すべての基礎がマインドであると。

Manō は、もちろんマインドのことです。Dhammā(複数形なので仏法ではない)は、マインドが(javana powerによって)生成するエネルギーです。

Dhammāとは、「Dhammāによってすべてが生じる」という「産む」という意味です。

これらのdhammāは、生きているか生きていないか(不活性)に関わらず、この世界のなにもかも(すべての現象)を発生させます。この分析は、深いレベルまで至ることになります。

その基礎については、What are rūpa? – Dhammā are rūpa too!を参照してください。

Pubbangamapubba先、前 + anga)は、「最初に来るもの」を意味します。

(両方の節の)最初の行では、マインドはこの世界のすべてを産み出しているすべてのdhammāを創造すると書いてあります。

2行目は、すべてが準備され(settā)、マインドの物質化現象(manōmayā)である、と言います。

マインドは思考(sakhāra)Dhammāを創造しています。

これには説明が必要です。Worldview of the Buddha

 

2. Depending on whether one speaks (bhāsati) and acts (karōti) with a defiled (padutta) or a pleasant (pasanna) mind, those dhammā that are generated by the mind lead to (tatō nam) suffering (dukkhamanvēti), or happiness (sukhamanvēti).

  • In the case of a defiled mind (acting with lōbha, dōsa, mōha), suffering will follow just as a wheel of a cart follows the footsteps of the ox pulling it (cakkamva vahatō padam).

In the case of a pleasant, moral mind (acting with alōbha, adōsa, amōha), happiness will follow one just as one’s shadow follows oneself (chāyāva anapāyani).

 

2.汚い(padutta)または快い(pasanna)マインドで話したり(bhāsati)行動する(karōti)かによって、マインドによって生成されるdhammāは苦しみ(dukkhamanvēti)または幸福(sukhamanvēti)に至る(tatō nam)。

汚れたマインドの場合(lōbhadosamōhaで行動する)、荷車の車輪が引っ張っている牛の足跡をたどるのと同じように苦しみが続きます(cakkamva vahatō padam)。

気持ちの良い、道徳的なマインドの場合(alōbha, adōsa, amōhaで行動する)、影が自分を追うように幸せが続きます(chāyāva anapāyani)。

 

3. These two verses can be interpreted in a mundane way, as outlined in #2 above. Any given task done with an un-defiled mind will always lead to a pleasant and joyous state of mind.

  • There is a more in-depth interpretation. Thoughts, speech, and actions done with a defiled mind (lōbha, dōsa, mōha) can lead to births in the apāyās and, thus, to a high degree of suffering. Those done with a pleasant mind (alōbha, adōsa, amōha) will lead to births in the “good realms,” and will eventually lead to Nibbāna, end of all suffering.

The first several subsections of the “Living Dhamma,” discuss the fundamental aspects. That provides the background needed to go to the deeper issues discussed in the latter subsections there.

 

3.上記の#2で概説したように、これらの2つの句は普通に解釈できます。汚れていないマインドで行われたタスクは、常に気持ちの良い楽しい状態につながります。

より深い解釈があります。汚いマインド(lōbhadōsamōha)で行われた思考、言論、行動は、apāyāsでの転生につながり、ひいては厳しい苦痛につながる可能性があります。気持ちの良いマインド(alōbha, adōsa, amōha)で行われたものは、「良い領域」での誕生につながり、最終的にはすべての苦しみの終わりであるNibbānaに至ります。

Living Dhammaでは、基本的な内容について説明しています。これは、後のトピックで説明されているより深い問題に進むために必要な背景を提供しています。

 

4. Now we can loosely translate the two verses as follows:

  • All phenomena have mind as their forerunner; they all are mind-made.  If one speaks or acts with an evil mind (i.e., engages in dasa akusala), then suffering (dukha) will follow just as the wheels of a cart follow the footsteps of the ox that is pulling the cart.
  • All phenomena have mind as their forerunner; they all are mind-made. If one speaks or acts with a purified mind (i.e., engages in dasa kusala and puñña kamma), happiness (sukha) follows one like one’s own shadow. That is the source of “nirāmisa sukha“, which eventually leads to Nibbāna.

 

4. 2つの節を次のように大まかに翻訳できます。

 

マインドがすべての現象の先がけとなります。

現象はすべて、マインドによって作られたものです。

邪悪なマインド(すなわち、dasa akusalaに関わる)で話すか行動すると、

荷車の車輪がそれを引く牛の足跡をたどるのと同じように苦しみ(dukha)が続きます。

 

すべての現象はマインドがその先がけとなります。

すべてはマインドによって作られたものです。

純粋なマインド(すなわち、dasa kusalapuña kammaに関わる)で話すか行動すると、

幸福(sukha)は自分の影のように従います。

 

これが「nirāmisa sukha」の根源で、最終的にNibbānaに至ります。

 

 

 

Kammaja Rupa in Theravada glossary

Source: Journey to Nibbana: Patthana Dhama

There are kamma that can cause kammaja rupas. These kamma are 12 akusala kamma, 8 kamavacara kusala kamma, and 5 rupavacara kusala kamma altogether 25 kamma can cause kammaja rupas or rupas generated by kamma.

Source: Pali Kanon: Manual of Buddhist Terms and Doctrines

'karma-produced corporeality'; s. samutthāna.