根源も比較もないアプローチの実践方法
「根源や比較」は方便として利用するには有効ですが、対象は常に変化し続けるので、過去に学習した根源や比較が未来においても必ず通用するものではありません。
つまり「根源や比較」を基準にしないことが、精神的に病んでいる人であれば特に、他者と自分との接し方のコツになります。
特に文明社会は「根源と比較」を基準にするのが1つの暗黙のルールになっているので、それに囚われてしまって病に至る事になっているケースがあるからです。
対象が変化し続けているという体験を重ねると、
この世で体感できるのは、根源はないということ、
そして体感している「わたし」も対象とセットとなって変化し続けていること、
最後には根源を求めようとする意識から離脱しはじめて、
根源に関心や興味がなくなるようになっていきます。
また、同じ種であっても歴史と環境の違いによって具象化の仕方が違い、時空との相互作用で種そのものが変化し続けていくので、比べることによって、個々は特異なもので他と比較したり交換することができないものである、ということを智ることができます。
このように「根源と比較」から離れると、統合とは各自の潜在意識が作ってしまった思考パターン回路であることを自覚します。
つまり、ある1つのTPOでは通用したパターンはありますが、他のTPOにいけばそのパターンは通用しないものであることを理解して、どの思考法も「過剰一般化の罠」に捕まっている現実を自覚して、眼の前の「いま・ここ」に生きること、ただそれに寄り添うことからがはじめの一歩なることを深く感じるのが「いのち」のアプローチです。
まずはこの世はつねに変化し続けることを体験し、
常にこれに気づき続ける日常生活を過ごせることができるようになったならば、
その後には統計学を持ち出して法則化するのも、合理的で便利で効率のよい暮らし方になるのでしょう。
この対象が変化しづける体験とは、表層の変化ではなく、表層が中層、中層が深層に変化することを意味しています。
換言すれば、表層の物質的な動きの奥にある物質エネルギーの動き、その物質エネルギーの奥にあるメンタル的エネルギーの動き、そのメンタル的エネルギーの奥にある、宇宙にあまねくエネルギーへ次々と転換されていくプロセスに気づいているということです。
具体的には、
意識はエネルギーであること、
熱エネルギーは素粒子より微細な物質に転換すること、
宇宙空間では生まれては滅する原子があること、
を大脳で理解することです。
これらを理解することを大脳はできますが、体感することはできないので、そのためには体操や瞑想をして、体と心の状態をフラットにして、より微細なエネルギーを感知できるようにする必要があります。
このためには体の修行が必要になるので、より微細なエネルギーを体感しない人たちは、根源や比較や特異点を仮設して、学問でこの世を推定して生きるアプローチをとって暮らしています。
表層の因果関係をベースにすることを社会のルールとすることで成立する都市文明社会では、実際には因果関係の弱い法則、丁寧に正確に言うと、要因と条件を潜在意識によって都合よく編集した因果関係を「基礎」として生活するスタイルを選択しています。
学問によって金銭、地位、名誉、システム維持、幻想共有させることでメリットのある人たちにとっては暮らしやすいのでしょうが、
そうではない人たちにとっては、学問という意図的な因果関係を学ぶことのメリットとデメリットの両方を自覚するのが、安らかな暮らし方になります。