「波と海」の喩え 正法眼蔵
道元の書いた「正法眼蔵」の「海印三昧」の巻は、坐禅の境地が説かれています。
と同時にこれは私たちの日常生活の実態やあり方のことでもあります。
「海印三昧」とは、「華厳経」の中に出てくる語句で、サンスクリット語のsamudra-mudra-samadhiの漢訳で、samudraは海、mudraは姿・形、samadhiは集中(坐禅によって得られる微細な要素に気づき、主客は同じ要素で構成されていることを認識する境地)なので、直訳すると「海の姿に似た境地」の意味になります。
海は嵐の時には大きな波が立ち、凪の静かな時には表面が鏡のようになり、常に変化し続けています。
しかし、海とは表面の波だけではなく、海の中に潜っていくと暗い静かな境地もあります。
これらが坐禅の時に味わう初期段階の境地に似ています。
坐禅の中身は言葉では説明できないものだが、それを言葉で何とかして説明しようとしたので「海印三昧」は正法眼蔵の中でも1、2を争う難しい巻と思われています。
しかし「波と海」の喩えを使うことで、もしかすればなにか伝わるものがあるかもしれないのは、だれもがこの境地を体験したことがあるからでしょう。
大地と接する海は「海底」というカタチになり、
空気と接する海は「波」というカタチになる。
深層の海底から表層の波までの全体が「海」である。
カタチ(海)を、表層の波だけだと思って理解するのと、海の中まで潜水して深層の海底までの全体をカタチとして体感するのでは、当然として理解の仕方や解釈は違うものになります。
表層の波の変化にスポットライトを当てるのは、大脳や五感器官を使って対象物を認識する方法です。
すべてのモノ(記号)はシンボルや言葉という一般化することから始まるので、変化し続けるありのままの状態の波をそのまま認識することはできず、流動する波を瞬間的に静止させて氷のように固定化することで形状化させます。
そして、それらの形状化されたものを映画の1コマのようにつなぎ合わせることでマインドは連続性を感じれるようなります。
このような方法を使うことで「時間」と「空間」を演出することでしか「六感(脳と5感覚器官)を使っている時のわたし」は対象物を把握することができません。
これがヒトに限らず大脳と感覚器官による意識体の認識のメリットと限界です。
この「海と波」の喩え(アナロジー)をヒトの誕生や時間にも使ってみます。
「現実はなにも生まれず、なにも消滅するものはない。
ただこの世では、自分が生まれてきたとか死んでいくと表現をしているにすぎない」
という難解な文章は、何を伝えようとしているのでしょうか?
これはヒトの認識のクセと限界について言及しています。
朝の凪には海面は鏡のように平らだが、風が吹き始めると波が立ち始め夕方の凪になると海面はまた鏡のようになります。
この朝の凪が過ぎると風が吹き始め、波が立ち始めます。
これを波の「誕生」と呼び、それからずっと風が吹いているとすれば、夕方の凪を波の「死去」と呼ぶことにしてみます。
これが私たちの一般的なモノの見方である、と宗教の修行者は言います。
では坐禅を組むと、どのように海面は見えるのでしょうか?
海面を見続けていると、そこでは波が生まれてきたり消滅したりしていることが繰り返されているだけです。
カタチになった波は次の瞬間にはもう消えていきます。そして次の瞬間には違う波がカタチになり、また消えていきます。大まかに捉えればどれも同じ波ですが、より微細な変化に、詳細に、対象に寄り添うことができるようになってくれば、この世には同じ波などはただの一つもなく、どれもが特殊で、個性を持ち、別物だということを認識し始めます。
それなのに大脳を使って対象をシンボライズしたり、言語化したり、数値化する時には、それらを一纏めにして「波」として一般化して捉えることから始めてしまっています。
では、この認識と呼ばれるものとは何なのでしょうか?
何が起きているのでしょうか?
どのようなメカニズムなのでしょうか?
もう一度繰り返して書いてみます。
日常生活の認識では、変化し続ける「波」を固定化させることで静止された形状としてとらえ、それを連続させることで、波が動いているように認識しています。
実際には唯一無二の変化し続けるモノたちを一纏めにして「波」と呼び、その始まりを「誕生」と呼び、夕方の鏡のような凪がくると今度は「死去」と呼びます。
しかし、実際の海面の実態はどのようになっているのかというと、ある一点だけを見つめ続けていればわかるのだが、その一点はずっと変化し続けており、ある一瞬には隆起し、次の瞬間には海抜0mとなり、そして沈下し、また海抜0mになる動きををずっと終わることなく繰り返しています。
これらの周期を波が生成する瞬間と消滅する瞬間です。
このように、対象に寄り添うことで、概念の「波」ではなく、1つ1つの変化の生滅を見ることが、より微細な変化に気づき続けていることで、「いま・ここ」にいる、ということです。
それに対して、世間一般の日常生活では、脳内にある「波」のイメージを自動的に寄せ集めて編集し、長期的に固定化されることで、波々の連続を「誕生」として作り上げています。
各自の大脳が見たいように見るイメージによって、この「編集」はなされており、それは過去に学習した自動反応回路であるアプリによるものです。
そしてこれらの無数のアプリが潜在意識に設置されています。
ずっと続いてる瞬間的な海の表面の変化に気づき続けていると、朝の凪と夕の凪を「誕生と死去」と見ることはないが、それを概念としての「波」として捉えると、それは大脳が作り上げている「誕生と死去」であり、仮の姿でしかないが、現実のものだと思ってしまう。
また、「いま・ここ」にスポットライトを当てていると、波の表面の瞬間的な変化だけではなく、「すべてが一つにつながっている世界」すなわち「表面の波と海全体が一体」もしくは「海全体の一部が大気と接しているところが波になる」にいう現象を感じます。
すると、全体のほんのごく一部でしかない表面の「波々」が瞬間的に生滅を繰り返してカタチになっているだけで、海底から海全体においては何事も生滅はせず、ただそのままであります。
すなわち、何も生まれず、何も滅していません。
仮の姿を実体と勘違いすることで苦しみが始まります。
なぜそのように思ってしまうのかというと、全体で捉えるのではなく、部分で捉えてしまっているからです。
この部分を捉えるというのが五感器官と大脳の特徴であり、一つのつながりであったエネルギーとしてではなく、感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)の信号という粗い粒子のレベルで認識することによって起こります。
このように苦しみとは、日常的感覚である「わたし」と対象物に分離させて捕えることから起こる現象です。
「苦しむのは部分であり、全体ではない。
苦しむべき分離した自己など「はじめ」にはない。
「わたし」は常に全体であり、自由と解放と輝きしかしらない。
全体を悟るということは、部分にすぎない苦しみと痛みと死の運命を逃れることだ」
時間についても「波」と「海」の喩えを使ってみる。
過去の時間は「波」のカタチとして姿を現し、次の瞬間には消えて元の「海」の一部に戻っていく。
現在の時間と未来の時間も同じように「波」としてカタチになり、「海」に滅していく。
これらの3つの時間が「波」であるからといって、3つの「波」だけを一つにつなげてしまって、まるで時間が直線的に流れているように私たちが感じるのは、大脳はこのようにすることでしか対象(客体)を把握することができないからです。
これが大脳の利点であり限界でもあります。
実際の瞬間的な個々の波はどれ一つ同じものはなく、二度と再現することはありません。
「わたし」はこれがわかっているのに、この世で過去から未来に至るまでただ一つしかない唯一無二の瞬間的な波を、大脳を使って言葉で表現する時には、一般化して「波」と名付けて、それからは一般化されてしまった「波」に意識のスポットライトを当てるので、そこで構築される世界観も当然ながら一般化されたものになります。
「わたし」が表層意識(大脳皮質)に寄り添っている限りは、この世の現象は主体と客体といった関係で理解されます。
そこで技を使って、「わたし」を6感覚器官や循環器系器官や消化器系器官からの信号に寄り添ってみます。
技とは、関心のスポットライトを対象(現象、他者、客体)である外側ではなく、自分の内側に向けることです。
その準備段階になるきっかけが、自然の厳しい地域での生活であり、サバイバルであり、キャンプであり、登山であり、潜水であり、瞑想であり、坐禅であり、武道であり、体操であり、呼吸です。
大脳の把握の仕方は、瞬間的な波を一般化して「波に」することから始まります。
そこで、大脳皮質の意識だけに寄り添うことをやめた「わたし」は6感覚器官以外の循環器系器官や消化器系器官からの信号や呼吸が微かになると感じる、日常よりも微細な変化に寄り添ってみることを試みてみます。
すると、そこでは現実の実態を体感することになります。
そこは、瞬間的に二度と再現できない波がただ生まれては消えていく、という当たり前の連続があります。
この当たり前を繰り返すことで、これまでの習慣にしてしまっている思考パターン(自動反応プログラム)を使っていないことになるので、実は画期的なことをしているのです。
新たな生き方の第一歩となっているのに、本人はまだその重要性には気がついていません。
これらの波の生滅を海の上の船から見れば、カタチや時間があると言えるし、ダイビングで海中から見ればカタチも時間もない、とも言えます。
ただ、船の上にいるだけでは、本人は自覚できていませんが、カタチや時間の継続に固執してしまっています。
これは、この世のありのままの事実に反しているので、間違え(錯覚)である、ということに気付いていれば、自動反応プログラムを一つずつ取り外し、マインドに付着しているアプリを掃き払い、苦しみから離脱しているプロセスの一歩になります。
因果関係の捉え方 一般常識と仏教との違い
一般常識と仏教のどちらの因果関係も「原因によって結果が導かれる」というのは同じだが、一般常識では(庭で焚き火をすると)木は灰になるが、そんな因果関係は幻想に過ぎない、と道元は「正法眼蔵」で書いています。
波と海の喩えで見ると、木と灰のどちらもが一般化された概念で、各自の脳の中でしか存在しない「波」です。
船に乗って「波」を見ている人は木の「波」と灰の「波」には因果関係があるように経験によって思えるので、「木は灰になる」と因果関係を結んでしまいますが、これは道元から見ると過剰一般化の誤ちに見えます。
なぜならば、この2つの「波」を結びつける行為は、表層的な部分だけにスポットライトを当てているからです。
海全体からみれば、海のほんのわずかでしか表面の一部が木から灰に変わったのは事実ですが、ほとんどの部分を占める海そのものは何も変化していないので、海全体にもちゃんとスポットライトを当てない視点と価値観は事実には即していない、ヒトがよく陥る大脳皮質のクセだと捉えたわけです。
具体的には、ある条件の時には確かに木は灰になるが、炭を作る時のように、穴を掘ってその中で木を燃やしたら灰にはならないし、地上でも突然の強風で炎が消えることも数多いし、酸素の薄いエベレストの山頂で木を灰にするのは難しいし、大気圏の外に出たら酸素ボンベを使って燃やしても木は灰にはなりません。
このようにいつも私たちが何度も繰り返して経験していることでさえ、それは特殊の条件下で成り立つ出来事なので、一般性のある因果関係ではなく、木の形をした波の後には灰の形をした波が来ると法則化するのを仏教をはじめ「いま・ここ」にスポットライトを当てる視点は否定します。
「いま・ここ」で生きていると、木の形をした波に酸素と炎という条件が加わると、木の形をした波の一部は海になり、次の瞬間にその一部の海が新たな少し焦げた部分がある木の形の波になり、また次の瞬間に酸素と炎という条件があると、その一部が海に戻り、また・・・。
このようなことがずっと繰り返されると、木は灰になる可能性があるが、実際のリアリティーではこのようなことがずっと繰り返される例は少なく、木が灰になるプロセスは途中で止まってしまうケースが多くなります。
仏教にとっての因果関係を結んでいるリアリティとは、「木の形をした波」と酸素と炎によって「一部が海の状態に戻ったもの」であり、また「その海」と「少し焦げた木の形をした波」との間だけです。
海面にある「木の形をした波」と「灰の形をした波」を直接に結びつけることは事実に即する科学ではない、と捉えます。
過去と現在と未来を、波と海で喩えると、
過去の現実、現在の現実、未来の現実というように、現実の実態(宇宙の法則)にも過去があり、現在があり、未来があります。
しかし、それぞれの過去と現在と未来の現実はお互いに直接に因果関係や相互関係があるのではなく、瞬間瞬間に「海(波の生まれる前と波の生まれた後に、表層の波と中層の海水と深層の海底が含まれる「全体」)」に戻って、次の瞬間にはこれまでに一度もなかった唯一のカタチの新しい波になります。
個々の現実はそこにありますが、一度起きた現実はもう二度と再現できないので、波から波に直接に移行する因果関係などは仏教では存在しません。
因果関係があるのは「波と海全体」との間です。
これが現実のありのままの実態であり、仏教の基準点です。
知識と瞑想の間も、波と海で喩えると、
同じ海であったとしても波(表層)と全体(表層と中層と深層)では「現実の実態」の感じ方が違ってきます。
沢山の本を読んで、理論的にはもうこれ以上のことはないというような知識があったとしても、それはまるで海面の波々のようなもので、瞑想で体感するものは波だけではなく海全体です。
船の上から波を研究するだけではなく、体ごと海中にダイビングする感覚です。
言葉や数字では解けなかった問題を、全体を体感することで、はじめに関心のあった疑問に関心がなくなり、それがもう問題ではなくなるようになるのが、仏道の実践のようです。
こういう境地に入り真実を掴み、体験するということは、必ずしも見聞が広いとかいろいろな言葉を知っているとか思考反応が速いということとは関係がない。
またガンジス川の砂の数ほどもあるたくさんの知識を持ってあまねく学問に通達している人といえども、体をそのまま海中に委ねることがなければ釈尊と同じ体験の世界に入って行くことはできません。
「体」と「何か」を海と波で喩えると
「私たちの体とは、たくさんの実態が寄り集まってできているに過ぎない」と釈尊が説かれた。出典?
この体が現にあるということは「何か」から現実の実態が生まれたことであるし、この体が消滅するということは現実の実態が「何か」に消滅していくことである。
波(体)が起きたとは、海全体(何か)が表層において具現化したものであり、波(体)が消滅したのは、海全体(何か)の一部になったことである。
波には常に瞬間的な生滅の変動があるが、海全体には生滅はない。
それぞれの瞬間的な波となったものが寄り集まって、体になっている。
人体では一秒間に500万個の細胞が死滅し、同じ数だけの500万個の細胞が一秒間に生成している。
体は常に瞬間的に変化しており、確固としたカタチを持つものではない。
そのようなモノを一纏めにして捉えるアプローチだけにスポットライトを当てて世界を語るのには無理がある、というのが仏教の基準点から見た「この世」です。
釈尊の教えは、理論(一般化された波)にとらわれずに、その土台になっている現実そのもの(海全体)にもスポットライトを当てることです。
私たちの日常生活は大脳皮質と6感覚器官を基準にしている時空が多いが、釈尊が説かれたのは、そういう器官だけではなく、植物や微生物などのまだ神経管を持たない生命体は、波動の世界(循環器系器官)と溶解の世界(消化器系器官)とカタチを持たない世界(bhūtaで構成されたメンタル界)と根本エネルギーの世界(dhammāエネルギーとその偏りのgatiで構成された魂界)とエネルギーのない世界(真我と呼ばれる霊界)を含んだ現実の中に生きており、実は私たちヒト科にもそのような器官や機能はあるのだから、まずはそれらを自分で味わうことから始めることを提案しています。
言葉も数字もイメージも神経管を使うことによって抽象化され一般化されたものでしかありません。
同じ「波」は二度と再現されないという現実が海面で実際に起きているので、より微細なレベルまで観測できれば、これらは物証(物理学)によって証明されます。
過去の瞬間も、現在の瞬間も、未来の瞬間もそれぞれが独立している「波」なのであって、過去と現在、現在と未来が、前と後が原因と結果となるような相互関係になっているのではありません。
過ぎ去った瞬間は永遠に過ぎ去って、二度と再現できません。
過去における現実も、後に生まれて来た現実も、それぞれがその瞬間瞬間における現実であって、実態と実態とがお互いが直接に関係しあっているのではありません。
直接に因果関係があるのは、常に「波と海」であり、過去の「波」と時間のない「海」であり、その「海」が今度はカタチとなって現在という「波」になります。
仏教では常に因果関係があるので、涅槃に至るためには、良いカルマを育て、悪いカルマを根絶する必要があります。
カルマはひとまずエネルギーと解釈するのがいいと思います。そしてエネルギーは方向性(設計図)によって成長するので、その方向性を「種」と呼ぶ伝統が仏教にはあります。
良いとはそのエネルギーを消す方向性があるもの、悪いとはエネルギーを増やす方向性があるものなので、究極的なゴールである涅槃nibbānaとはエネルギーがない世界のことです。
常にある因果関係とは、この世とあの世、すなわち「波」と「海全体」であって、「波」と「波」の間には因果関係がないが、表層しか見えない人にとっては、因果関係が確立されているかのよう見えるだけです。
常にあの世とつながっていることに気づいて、この世を生きることが、「人は自分が見たいようにこの世を見る」のではなく、「ありのままの姿を体感する」ということです。
「海でつながっているからこそ、過去の「波」と現在の「波」と未来の「波」はお互いは影響されずに独立している」
はじめに書いた論理矛盾している一文が少しは「理」に適ってきたでしょうか?
このような境地で現実の瞬間瞬間を生きていくことが仏教の基準点になります。
そして、「波」が全体性である海に戻る、という段階だけではこの基準点に至ることはできません。
「波」(自我)も全体性の大切な特徴的な一部であり、「波」は海に対しての「空」と接することではじめて成り立つものです。
この空と海の「間」という新たな基準点は高度な二元論に見えるかもしれないが、この基準点も過程です。
空と海をよく見ればわかるように、2つは同等に対照的なのではなく、地球が宇宙に包まれているように、海は空に抱かれている、というまた新たな基準点があります。
宇宙の「意」に抱かれることによってはじめて「カタチ」があるように。
そして・・・。
その後には、もうアナロジー(喩え)が届かない世界が続いていきます。
各自が森のなかで、荒野のなかで坐って自分自身で感じることでしか伝えることができない世界が拡がっています。
日常生活では私たちの自己意識が「何が自分であるのか」を決めています。
そして、意識の表層である自己意識だけを「自分」だと普段では思っています。
しかし、自分というものは単に頭の中だけにあるものではありません。
両腕や両足、心肺に血管、胃腸に肛門も間違いなく自分です。
私たちには「プレイヤー」と名付けたくなる4つのタイプの自分がいて、その4つのプレイヤーの代表選手が大脳、感覚器官、心臓、腸です。
まずは、自己意識以外のプレイヤーたちの働きを実感し、それぞれの特徴を知り、それぞれのプレイヤーとコミュニケーションをはかり、キャッチボールをします。
するとこれまで気がつかなかった機能や役割を知ることもあるでしょう。
そしてしばらくは、多くの潜在意識や深層意識とも出会える貴重な時間を過ごすことになるでしょう。
しかし、充分な時間を過ごした後に、どの自分も「わたし(自我、個我、真我)」ではないことを実感する時が来ます。
私たちのTPOによって、「わたし」がいずれかのプレイヤーに無意識に寄り添っており、それによって自分の状態や他者との関係が変化していることが感じられるようになります。
感覚器官に寄り添っているときは自我意識、大脳に寄り添っているときは個我意識、心臓に寄り添っているときは共通意識、腸に寄り添っているときは枠組意識、そして肉体やエネルギーから離脱してゼロに寄り添っているときに真我意識になっています。
「わたし」は肉体でも表層意識でもありません。
この「わたし」を問い続け、カタチになってしまった意識を1枚1枚剥がし続ける旅が修行と呼ばれるものです。
自分をココロとカラダというように分けることもできますが、深層ではこの両方がエネルギーとしては同じ一つのものであり、これらのプレイヤーも同じ一つのものです。
どちらもエネルギーであり、その構成要素がココロのもの(bhūta)のほうがカラダのもの(dhātu)よりも微細である、ということです。
また、「カルマの種」とも呼ばれる各生命体の「方向性」はココロのものよりも微細なgatiとdhammāで構成されています。
そして、「わたし」が宇宙にあまねくdhammāからも離脱することができるときに初めて、いかなるエネルギーをも基盤としない「わたし」は真我意識になります。
この時の「わたし」は相互作用のあるdhammāから「真に独立」しており、お互いに影響を受けることはありません。
言葉にすると、矛盾していますが、これが現実の実態です。